2021年12月21日火曜日

M-1グランプリ2021の感想

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 M-1グランプリ2021の感想です。

 個人の感想です、って書く人がいるけど個人のじゃない感想とかある? 法人の感想? それとも国民の総意としての感想?


<1本目>


モグライダー (さそり座の女)

「美川憲一さんって気の毒ですよね」と、一瞬にしてあれこれ考えさせられる不穏な導入がすばらしい。単発のツカミかとおもったら本ネタへの導入とは。
「いいえ」のワンフレーズからそこまで想像を広げるのかと呆れさせ、「そうよ私はさそり座の女」と言わせるためだけに無駄な努力をふたりでくりひろげる。その緻密に計算された構成と、根底を貫く徹頭徹尾意味のないばかばかしさに大いに笑わされた。

 トム・ブラウンの「合体」ネタもそうだけど、バカなネタ、不条理なネタにこそ、背景にしっかりとした論理が求められる。言ってることは荒唐無稽だけど、「少なくともこの人の中では首尾一貫してる論理があるんだろうな」とおもわせなければならない。
 モグライダーのネタにはその〝狂人の論理〟があった。だから笑える。モグライダーを見習いなさい、敗者復活戦のさや香よ。ただむちゃくちゃやればいいってもんじゃないぞ。

 ツッコミもうまいし、ボケのあぶなっかしさも魅力的。後半出番だったら最終決戦に進んでいてもぜんぜんおかしくないネタだった。出番順に泣かされたなあ。

 反省点があるとすれば、歌に入るまでが早かったことだろう。1組目だったこともあるが、多くの観客にとっては「知らない人が出てきてまったく意味のわからない話をはじめた」わけで、早々に脱落してしまった人も多かったのではないだろうか。『さそり座の女』を知らない観客も少なくなかっただろうし。
 限られた時間とはいえ、前半の説明はもっと時間をかけて丁寧にやるべきだったのではないか。キャラクターが浸透してくれば、今回ぐらいの短さでもいいんだけど。

 ネタよりバラエティ番組で活躍しそうなふたりだなとおもった。


ランジャタイ (風の強い日に飛んできた猫が体内に入る)

 準決勝とは異なるネタをここで持ってくる度胸もすごい。2番手という出番順をものともせずに自分たちの空気で包みこんだ剛腕っぷりもさすが。

 ただ、設定もぶっとんでいて、中身のボケもぶっとんでいるのはいかがなものか。奇想天外な世界でベタなことをやりつづけるとか、オーソドックスな設定で奇抜なボケをするとかのほうが見やすかったんじゃないだろうか。

 しかし審査員がみんな甘い。このコンビは、どうせならぶっちぎりの最下位にしてあげたほうがよかったのに(本人たちも少なからずそれを期待していたフシがある)。70点とかつけてあげろよ!


ゆにばーす (ディベート)

 今大会の個人的最下位。好きじゃなかった。

 結局、内輪ネタなんだよね。去年のアキナといっしょで。このふたりの関係性やキャラクターありきで話が進んでいってしまう。

「うちらの関係性は何なの?」で笑いをとるためには、その前に「原さんのことを恋愛対象として見ることはできない」ことをちゃんと説明しないといけない。
 20年前だったら説明しなくてもよかったんだよ。説明しなくても「ああこの女は不美人だから恋愛対象として見られない扱いを受けても当然だ」とおもってもらえた。でも今の時代はそうじゃない。不美人だろうと、女芸人だろうと、「おまえは女じゃない」はセクハラで断罪される時代だ。ブスをブスといじっていい時代は南海キャンディーズが終わらせてしまった。
 まだ川瀬名人が超絶イケメンなら「おまえには恋愛感情持てへんわ」が説得力を持つかもしれないけど、川瀬名人のほうもアレなので「誰が言うてんねん」になっちゃう。そこをちゃんと言いかえせばいいんだけど、原さんが一方的に言われっぱなしなのでとても見ていられない。

 終始ふたりの関係性ありきのテーマだったので、ゆにばーすに思い入れのない者としては、まったく知らない人同士の合コントークを聞かされているような気分だった。

 ところで、そもそもの話になっちゃうけど「ツッコミだけが関西弁でキレ気味にツッコむ」って聞いていてつらいんだよね。攻撃的になりすぎてて。関西人のぼくですらちょっと怖い(ネプチューンとかにも同じものを感じる)。関西人同士なら気にならないんだけど、「関西弁じゃない人に関西弁でまくしたてる関西人」って、そっちのほうが異常者じゃん。
 おまけにゆにばーすは「背の高い男が背の低い女に高圧的にツッコんでる」から特にDV感が強い。よほどボケが強くないとしんどいなあ(このあたりのことはオズワルドの項で書く)。


ハライチ(敗者復活) (頭ごなしに否定)

 予選でも敗者復活でも古いネタをやっていて、なんで新ネタもないのに久々に参戦したんだろう、もう十分売れてるんだからネタがないなら出なくてもいいのに……とおもっていたが、なるほど、本当にやりたかったのはこれか。敗者復活戦とはまったくべつのネタを隠し持っていた。これはネタ番組じゃやらせてもらえなさそうだしなあ。

 クレイジーなネタで、ここでこのネタを持ってくる心意気はすごいけど、いかんせんボケが1種類しかないからなあ。おまけにランジャタイがむちゃくちゃやった後だから、「この大舞台でこれをやるか」という驚きも少ない。

 やりたいネタをやって清々しい顔で去っていった姿が印象的だった。


 ちなみに敗者復活戦は久々に生で視聴したんだけど、ぼくはカベポスターと男性ブランコ、あと1組は迷ったので娘が爆笑していたからし蓮根に入れました。ハライチもおもしろかったけど、時間オーバーしても続けていたのが印象悪かったのと、もう今さら敗者復活で上げなくてもいいでしょとおもったので。


真空ジェシカ (一日市長)

 個々のボケの強さはピカイチだった。台本で読んだらいちばんおもしろいのはこのネタじゃないかな。まあでもそれだけでは勝てないのが漫才のおもしろいところで。

 一日市長という枠組みを与えているとはいえ、基本的には大喜利の羅列なんだよね。「Q.沖縄の言葉にありそうでないものは?」「A.罪人(つみんちゅ)」「Q.この和菓子屋、不穏な気配がする。なんで?」「A.店のおばあちゃんがハンドサインで『ヘルプ・ミー』とやってきた」みたいな。
 めまぐるしく笑いの角度が変わるので、ついていけない客や審査員もいたんじゃないかな。

 台本はまちがいなくおもしろいので、後は技術が身につけばすごいだろうね。今回は表現にアラが目立った。
「沖縄の苗字」が十分伝わっていないのに「罪人(つみんちゅ」を持ってきたり、「青山学院が見くびられている」の笑いを引きずっている状態で「名門のタスキは重い」を発したためにかき消されてしまったり。本番の空気に対応できる技術はこれからなんでしょう。

「ミッキーはひとりじゃないですか」は良かったなあ。昭和なら「ミッキーなんていっぱいいるじゃねえか!」と裏を暴くだけで笑いになったけど、平成では「タブーに物申す」がダサくなった。そこで裏の裏をかいて「ミッキーはひとりじゃないですか」「そ、そうだよね」とやるのは令和の笑いって感じがしたなあ。タブーに切り込むんじゃなくてタブーをひと撫でするような笑い。

 ところで、最初から最後までずっとおもしろかったけど、最後の酸性雨だけは完全に蛇足だったようにおもう。あれのせいで突然ぶった切られたようなオチになってしまった。そこまでして入れなきゃいけないボケだったのか。「名門のタスキは重い」で落としてもよかったんじゃなかろうか。


オズワルド (友だちがほしい)

 準決勝を見たときもおもったけど、完璧なネタだとおもう。欠点がまったくない。

 モグライダーの感想でも書いた〝狂人の論理〟。言ってることはおかしいけど、「他人の気持ちがまったくわからなくて友だちができたことのない人ならこれぐらいのことは言うかも」の絶妙なラインを巧みに表現していた。
「いちばんいらない友だちでいいからさ」や「履かなくなったズボンと交換」の、他人の気持ちがわからないっぷりったら!

「友だちがいないやつのふるまい」というたったひとつのお題に対して、いちばんいらない友だち、一斉に解き放って5秒後においかける、脈拍、詐欺なんてしないなど、次々にくりだされるパンチのあるボケ。真空ジェシカとちがってお題はひとつなので、観ている側もついていきやすい。
 もちろんツッコミのワードもことごとく切れ味鋭く、非の打ち所がないネタだった。

 オズワルドといえば、昨年審査員から「序盤はロートーンで入ったほうがいい」「序盤から声を張ったほうがいい」と真逆のアドバイスをされていたが、このネタを見るとそんなことは実はどうでもいい問題だと気づかされる。

 あの問いに対する答えはかんたんで、「強くツッコむ理由があれば強くツッコめばいい」だとおもう。
 昨年のネタを例に出すと、「〝はたなか〟って発声すると口の中に何か詰め込まれるかもしれないから改名しようとおもってる」と聞かされた場合、理解不能な理屈ではあるがしょせんは他人事なので強くツッコむ理由にはならない。
 だが今年の「友だちいないから君の友だちひとりちょうだい。いらないやつでいいからさ」は、自分や友人の名誉にかかわる話なので、強く反発する理由になる。それだけの話だ。

 だからオズワルドは昨年の審査員からの問いに対して、「声を張るに値するボケを導入に持ってくる」という回答を用意した。完璧な回答だ。


ロングコートダディ (生まれ変わったらワニになりたい)

『座王』ファンとして、個人的にもっとも応援していたのがロングコートダディ。だけどあのローテンションなコンビでは爆発的にウケることはないだろうなとおもっていたので、今回の4位は上出来中の上出来だとおもう。
 しかし、観客が暖まっていてかつ疲れてもいない7番目(しかもオズワルドが盛り上げた後)という最高の出番順でこの結果だったということは、今後はこれを超えることはむずかしいんじゃないかという気もする。
 GYAO反省会で他の芸人が「あのネタの発想はすごい」と口々に褒めていたので、昔のキングオブコントのように現役の芸人が審査する形式だったら優勝できるかもしれないけど。

 このネタもたいへんおもしろかったのだけど、去年の準決勝で披露した『棚の組立』のネタがあまりにすばらしかったので、それと比較すると「おもしろいけどロングコートダディのおもしろさはこんなもんじゃないぞ」ともおもってしまう。『棚の組立』はコントに入らないし。あれこそ決勝の場で披露してほしかった。

「生まれ変わったらワニになりたい」→「肉うどん」までは正直いって凡庸な発想かもしれない。しかし二周目に入ってからの、「法則があるらしいですよ。あんまり大きな声では言えないんですけどね」といったさりげないやりとりがすばらしい。ああいう奇をてらっていない台詞こそが天空世界を強固なものにしている。あの台詞のおかげで、もうすっかり誰の目にも「天空の世界」が見えているはずだ。

「ラコステ」という軽めのボケや、「おまえは」をすぐにツッコまないところなど、本当におしゃれ。おもしろすぎないところがおもしろい。あそこで真空ジェシカのように強力なパンチが飛んできたら、たちまちこの繊細な世界が壊れてしまう(真空ジェシカは真空ジェシカでいいけど)。
 このネタを観て、つくづくおもう。やっぱりロングコートダディは漫才師ではなくコント師だと。

 ところで、反省会でこのネタの制作秘話を兎さんが語っていたんだけど、
「堂前がやってきて『生まれ変わるとしたら何になりたい?』と訊かれたので『ワニ』と答えた。そしたら次の日に堂前がこのネタを作ってきた」
だって。めちゃくちゃすごくない? そこから一日でここまで広げられる?

 他にも「堂前は一枚のアルバムを聴いて、そこから着想を得て単独ライブのネタをつくる」というとんでもない逸話も披露されていた。天才か。


錦鯉 (合コン)

 ばかばかしいだけでなく、「おじさんが合コンに行って若い子に相手にされない」という状況がずっとペーソスを漂わせていてよかった。やっぱりただおもしろおかしいだけじゃなくて、そこに悲哀や狂気や恐怖といった別の感情を揺さぶってくれるものが観たい

 審査員からも言われていたけど、緊張からかツッコミが強くなっていたのが気になった。そんなに頭を叩かなくても、という気になってしまう。だってべつに悪いことしてるわけじゃないもん。独身のおじさんが合コンに行ったっていいじゃない。ジェネレーションギャップがあるのもしょうがないじゃない。叩くことないじゃない。

 頭を叩く一辺倒じゃなく、ときに諭したしなめたり、ときに痛みに寄り添ったり、球種をおりまぜたツッコミを見せてほしいな。それができる技術のある人なんだから。
 はしゃいでるおじさんが叩かれてるのはかわいそうだ。悲哀を感じるのは好きだけど、それはあくまで漫才の設定の中だけでの話で。

 そこへいくと、オードリーの「おまえそれ本気で言ってるのか」「本気で言ってたらおまえと楽しく漫才やらねえだろ」「へへへへへ」はすばらしい発明だよな。あれがあるおかげで、どれだけ叩いていても嫌な感じにならないもの。


インディアンス (怪談動画)

 記憶を頼りに感想を書いてるんだけど(だからここに書いているセリフなどは実際とは微妙に異なるはず)、インディアンスのところではたとキーボードを打つ手が止まってしまった。はて。どんなネタしてたっけ?

 このネタにかぎらず、インディアンスの漫才は記憶に残らない。どんな設定だったか、どんなボケがあったか。観終わった後に何も残らない。そこがインディアンスのすごさでもあるんだけど、個人的にはM-1グランプリの舞台で観たいとはおもわない。近くのショッピングモールに営業で来たらいちばん笑うのはインディアンスかもしれないが。

 ロングコートダディとは対照的に、とにかくわかりやすく老若男女楽しめる漫才。たしかに楽しい。だが楽しい以外の感情は動かされない。

 理由のひとつが、インディアンスのボケは徹頭徹尾「ふざけ」であることだろう。狂気も悲しみも不条理もなーんにもない。作りだす世界はなにひとつおもしろくない。というよりそもそも世界なんて作っていない。現実と地続きの世界で、ただひょうきんな人がふざけている。だからインディアンスの漫才を見ても「田淵さんっておもしろい人ね」とおもうだけで「インディアンスの漫才の世界っておもしろいね」とはならない。

 強パンチとか中キックを隙間なくくりだす漫才。たしかに隙はないんだけど、こっちが見たいのは一か八かのスクリューパイルドライバーなんだよ!


もも (○○顔)

 ついにこういうコンビがM-1に出てきたか。
 2年ぐらい前に関西のネタ番組に「新星あらわる」みたいな紹介の仕方で出てきたときにも「M-1グランプリで勝つために特化したようなコンビだな」とおもったが、その印象は変わらない。
 もはや彼らは「漫才師」というより「M-1グランプリ師」といったほうがいいかもしれない。

 風貌からしゃべりかたからネタの構成まで、すべてがM-1グランプリのために作られている。もちろん他のタイプのネタもあるのだろうが、ぼくがテレビで5回ほど見たのはすべて「なんでやねん○○顔やろうが!」のネタだった。たったひとつのスタイルを極限までつきつめたコンビ。

「M-1に勝つためだけの漫才」をしていたコンビは以前にもいたが、ももはもっとすごくて「M-1に勝つためだけのコンビ」であろうとしているように見える。ええんかそれで

 2009年の夏。現在シアトル・マリナーズにいる菊池雄星投手は高校三年生だった。甲子園で背中の痛みを抱えながら登板を続け、負けたときに「一生野球ができなくなってもいいから、人生最後の試合だと思って投げ切ろうと思った」と語っていた。
 そのときにもおもった。ええんかそれで
 たしかに甲子園はほとんどの高校球児にとっては最終目標だけど、それはあくまでアマチュアで終わる凡百の球児にとっての話。プロ入りを目指す者からしたら通過点のひとつにすぎない。野球人生を棒に振るほどの価値はない。(菊池雄星選手の花巻東高校はあそこで負けててよかった。あのまま勝ち進んでいたら、メジャーリーガー・菊池雄星は存在していなかったかもしれない。)

 同じように、M-1グランプリに参加するアマチュアコンビなら「M-1に勝つためだけのコンビ」を目指すのはまちがってないが、プロの芸人として生きていくのであればその道は命を縮めているように見えてしまう。

 ミルクボーイも昔からずっとあのシステムを続けているけど、あれは題材を変えればいくらでも広がるからなあ。ももの「見た目と中身のギャップ」では先が見えてしまうので不安になる。心配です。

 あっ、今回のネタの感想書くの忘れてた。ええっと、練習の跡が見えすぎる一字一句がっちがちに固まった漫才は個人的に好きじゃないです。以上。


<最終決戦>


インディアンス (ロケ)

 いやあ、ほんとにどんなネタかぜんぜんおぼえてない……。どんなネタだったっけとおもって公式YouTube動画のコメント欄見にいったけど「おもしろかった!」「好き!」みたいなのばっかりで、「○○というボケが良かった」「○○というフレーズが好き」みたいな具体的な感想がぜんぜんない。やっぱり、おもしろかったと感じた人ですら内容は印象に残ってないんだな……。

 各組の漫才を無音で再生してどれがいちばんおもしろい? と訊いたら、インディアンスが優勝するかもしれない。


錦鯉 (逃げた猿をつかまえる)

 まず題材選びがすばらしい。逃げた猿をつかまえる人をやりたい、って絶妙にばかだもんね。「あれならおれのほうが上手につかまえられるわ!」って、まさに小学生の発想。いい大人は逃げた猿にむやみに近づかない。

 肝心のボケの内容は、ちょっとばかが過ぎた。「罠をしかけたことを5秒後に忘れちゃう」はさすがにやりすぎ。小学生相手にはばかウケだろうけど。

 ただ、全体的にばか一色な中「猿が森に逃げた!」「それでいいじゃねえか」とか、最後の「ライフ・イズ・ビューティフル!」とか、妙に考えさせる笑いやシュールなオチを用意しているのは見事。ばかばっかりだからこそ、ああいう角度のちがうボケがよく映える。

 あと、おじいさんをそっと寝かせていたシーンは、ラストのまさのりさんを寝かせるくだりへの伏線になってるんだね。よく練られてる。


オズワルド (おじさんに順番を抜かされる)

 これはネタが悪いというより、この状況にふさわしくなかったね。12本のネタを見た後に楽しむには、話が小難しすぎた。M-1グランプリって年々放送時間が長くなっていってて、今年は3時間半。テレビで観るだけでもしんどいのに、当然スタジオの観客や審査員はもっと前から準備していたわけで。もう最終決戦ともなるとまともに頭が働いてないんだよね(ミルクボーイの2本目の「最中一族の家系図」をリアルタイムで正しく頭に描けていた人がいただろうか)。

 あの時間にやるネタは、緻密な論理ではなく強烈なパワーが必要なんだろうね。マヂカルラブリーの『吊り革』のように、何も考えずに見られる、すべてをふっとばしてくれるようなパワーが。
 この時間にモグライダーやランジャタイを見たら大爆笑だったんだろうな。

 オズワルドが、ABCお笑いグランプリでやったもう一本のネタ『ダイエット』をここで披露していたら結果はどうなっていただろうか……。そんなことを考えてしまう。




 というわけで優勝は錦鯉。おめでとう。納得の優勝でした。

 しかし、島田紳助がM-1グランプリを創設した動機のひとつが「才能のない芸人に引導を渡すため」だったはず。10年たっても芽が出ないやつはやめなさい、という理由で。

 残酷なようで、引導をつきつけてやることこそが本当の優しさなんだよね。将棋の奨励会もそうだけど。
 10年やって芸人やめてもまだ30歳ぐらい。いくらでも他の道がある。

 だが、皮肉なことにM-1グランプリという目標ができたせいで芸人を目指す者、やめられない者が増えた。もものようにM-1グランプリに特化した芸人まで生まれた。
 そして、錦鯉・長谷川さんの50歳での優勝。

 錦鯉の優勝は文句なくすばらしいんだけど、おかげでますますやめられない芸人が増えるだろうな。
 M-1グランプリの存在意義が変わってしまった。青少年の心身の育成のために開かれる高校野球甲子園大会のせいで多くの青少年が心身を壊すように。




 今大会もおもしろかったが、M-1グランプリという大会はまた硬直状態に入ってきたなという印象を持った。2008~2010年頃もそうだった。
 審査員が固定化され、準決勝審査員はおじいちゃんばかり。真におもしろいものを追及した結果の個性ではなく、M-1グランプリで勝つための芸を磨いたコンビが決勝に進む。

 今回は初出場組5組などと言われていたが、ふたを開けてみれば、昨年も決勝に進んだ3組が3組とも最終決戦に進んだ。驚くほど新陳代謝が進んでいない。

 このままだと大会全体が停滞してしまうんじゃないかと勝手に危惧している。準決勝と決勝の審査員はがらっと変えたほうがいいんじゃないだろうか。
 新しい風を入れるってのはモグライダーやランジャタイのような変化球ばかり放りこむことじゃないぞ。正統派が多数を占めるからこそああいうコンビが輝くんだぞ。

 あと決勝経験者は敗者復活戦に出られないようにもしてほしいな。せめてあそこは新しい才能を発掘する場であってほしい。


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