たいのおかしら
さくらももこ
ご存知、『ちびまる子ちゃん』作者によるエッセイ。
小学二年生の娘もそろそろこういうの楽しめるかなー、『ちびまる子ちゃん』好きだしなーとおもって買ったものの、「さすがにこれは二年生がひとりで読むにはまだ早すぎるわ」とおもった。漢字にルビがふってないし、前提となる知識が必要な話も多いしね。
ということでぼくが読んだ。
二十年ぐらい前に『さくらももこ編集長 富士山』という雑誌を買ったことがある。さくらももこさんのエッセイを読むのはそのとき以来だ(『ちびまる子ちゃん』の単行本にあるおまけページは除く)。
『さくらももこ編集長 富士山』にはエッセイが何篇か載っていたのだが、それがことごとくつまらなかった。
えっ、あのおもしろいエッセイ漫画を描く人がこんなにつまらない文章を書くの、と驚いたぐらい。
なので「さくらももこのエッセイ=つまらない」という認識を二十年近く持っていたのだが、今読んでみるとちゃんとおもしろい。
『富士山』のときだけがつまらなかったのだろうか。疲れていたのかな。
グッピーを死滅させた話とかおっかない小杉のババアの話とか、それほど大したことは起こらないのにおもわず笑ってしまう。
特に、グッピーを死滅させた話なんて、書きようによっちゃめちゃくちゃ後味の悪い話なのに、それを軽妙なエッセイに仕上げるのだから大した腕だ。
ぼくは小学生のとき、事故でかわいがっていた文章を死なせてしまった。でもその話は家族以外誰にも言ったことがないし、書いたこともない。これからも心に秘めたままだとおもう。なぜなら、つらすぎて誰にも言えないから。
上手に笑い話にでもしたほうが供養になるのかもしれないが、今もって吐きだせないままだ。三十年近くたった今でもずっと心の中でもやもやしている。
おもしろいエッセイを書く才能というのは、うまい文章を書く能力やいい小説を書く力とはまた違う。
どちらかといえば、文才よりも生き様によるものだとおもう。
十五年ぐらい前に、mixiやらFacebookといったSNSが流行った。それまでにもホームページを開設したり、ブログを作ったりする人はいたが、SNSはそれらとは一線を画していた。それは「特に書きたいことがあるわけでもない人がネット上に文章を上げるようになった」ことだ。
ホームページやブログをわざわざ開設する人は、なにかしら世に向けて発信したいものを持っている人だった。ところがmixiやFacebookは「誘われたから」ぐらいの消極的なユーザーを大量に招き入れた。「こういうのあんまり好きじゃないんだけど、誘われたのに無碍にするのも悪いから」ぐらいの人が大勢いた。
そして「誘われたから」SNSアカウントを作ったユーザーも、「せっかくだから」ぐらいの気持ちで日記を書いて投稿した。
その中に、驚くほどおもしろい文章を書く人がいた。
ぼくの知人に、おもしろい文章を書く人がふたりいた。
ひとりは、高校時代の友人Nくん。もうひとりは実の姉。
彼らに共通しているのは、ぜんぜん本を読まないこと。そしてオンラインでの活動にあまり興味がないこと。これまでホームページもブログも(少なくともぼくが知る限りでは)やってこなかった。
ぼくの姉なんて小説やノンフィクションはおろか漫画すらほとんど読まない人間で、機械にもとんと疎くて携帯ではメールしかしないおばあちゃんのような人間だったのに。
Nくんと姉の書く文章はおもしろかった。自分の失敗談を淡々とつづっているだけなのに、おもわず笑ってしまうものだった。語彙が豊富なわけでも、構成がうまいわけでも、エッジの利いた表現をするわけでもない。学校の作文みたいな文章だ。
テーマも新奇なものではない。身近な出来事をつづっているだけだ。
なのにおもしろい。
なぜ彼らの文章はおもしろいのか。
ぜんぜんおもしろくないその他大勢の文章との違いは何なのか。
ぼくは考え、そして気づいた。
彼らは、まったく自分をよく見せようとしていないのだ。
「こんなにめずらしい体験してるんやで」
「こんなにすごい人と知り合いなんやで」
「こんなに見事な文章書けるんやで」
「こんなに鋭い着眼点持ってるんやで」
そういう気持ちが微塵もないのだ。あるのかもしれないが、読んでいる側にはまったく伝わってこない。
ほら、Facebookの文章って自慢話が氾濫してるじゃない。失敗談かな? とおもってもじつは失敗談に見せかけた自慢話だったりするわけじゃない。それって読む側にはすぐわかるじゃない。ああ、こいつ自分をよく見せるために書いてるな、と(ことわっておくが非難しているわけではなくそれがふつうだ)。
Nの文章も、姉の文章も、自慢の要素がひとつもなかった。
意外や意外、こんなにおもしろい文章を書く人がいたのか。SNSは彼らの意外な文才を発掘してくれた。すばらしい。
とおもいながらNと姉の投稿をチェックしていたのだが、Nも姉もぜんぜん投稿をしてくれない。まさに三日坊主。ふたりとも、二、三回投稿しただけでまったく投稿しなくなった。たぶんログインすらしていないのだろう。
よく考えたら当然の話で「自分をよく見せたいとおもってない人」には書く動機がないのだ。金にもならないのに、自分をよく見せたいとおもっているわけでもないのに、わざわざ時間と頭を使って文章を書く動機がない。
だから「自分をよく見せたいとおもってない人」はSNSもすぐに飽きてしまう。SNSを続けるのは、何かを発信して自分をアピールしたい人ばかりなのだ。悲しいぜ。
二十年ブログをやっている自己顕示欲の塊であるぼくが言うなって話だけど。
ふだん目にするエッセイってさ、「文章書きたいです!」って人が書いたものばかりじゃない。あたりまえだけど。
でも「いやいや私は文章なんて書きたくないです。身の周りのことを書くなんて恥ずかしいし、書けません」って人をむりやり拉致監禁してエッセイを書かせたら、そのうちの何パーセントかはめちゃくちゃおもしろい文章を書くんじゃないかとおもうんだよね。それか「助けて助けて助けて……」っていう地獄のメッセージのどっちか。
前置きが長くなったが、さくらももこという人は、表現を生業にする人でありながら「自分をよく見せてやろう」が強くない人だとおもう。いや、もちろんそんなことはないんだろうけど、この人のエッセイからは「自分をよく見せてやろう」がほとんど感じられない。
まるで「頼まれたから書きました。ほんとは書きたくないんだけど」なんて気持ちで書いたんじゃないか。そんな気さえしてくる。
『ちびまる子ちゃん』の読者にはおなじみの、父ヒロシ(本物)の話。
ああ、父ヒロシだなあ。漫画のまんまのキャラクターだ。どっちも同じ人物をモデルにしてるんだからあたりまえなんだけど。
だめな父親だなあ、とおもうけど、自分が父親になった今、父ヒロシの気持ちもちょっとわかる。ぼくも娘にちょっかいをかけてしまう。
娘の鼻をつまんでみたり、まじめな質問をされているのにふざけて答えたりして、娘に叱られる。ささいないたずらでも娘はむきになって怒るので、それがおもしろくてついついふざけてしまう。
こんなことやってたら娘が成長したらまったく相手にされなくなるだろうとわかっているのに、それでもやってしまう。自分が子どものとき、嫌だった父親になってしまう。ああ、こうやってだめな父親は再生産されてゆくんだなあ。
巻末に脚本家の三谷幸喜さんとの対談が載っているのだけど、笑ってしまったやりとり。
これは天然なのか狙ったものなのか……。そりゃ訊くまでもなく小林聡美さん(当時の三谷さんの妻)は控え目にやるでしょ。
三谷幸喜脚本のコメディみたいなやりとりだな。
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