13億人のトイレ
下から見た経済大国インド
佐藤 大介
おもしろかったなあ。トイレの話かとおもったらトイレの話じゃない。
インドのトイレ事情について語りはじめるんだけど、そこから話がどんどん広がっていって、政治、経済、貧困、犯罪、宗教対立、民族問題、環境問題、そして今なお根深く残るカーストなどについて斬りこんでいく。
この手法、すごくいい。あまり見たことのない手法だ。
いきなり「インドの政治は……」「インドの水道事情は……」と語りだしても「そんなの知らねえよ」となる。
でも「インドはいまやIT大国なのにトイレを使ってない人が6億人もいるんだって!」というとっつきやすい話題から入ると「えーじゃあみんな外で用を足してるの?」と一気に関心が湧く。
そう、じっさい外で用を足しているのだ。大人も。女性も。
単に「恥ずかしい」だけの問題ではない。外で用を足すせいで、野生生物に襲われたり、レイプ被害に遭ったりして、命の危険にさらされているのだ。
さらに排泄物が外に放置されることで疫病が蔓延する原因にもなる。また排せつ物がそのまま川に流されることで深刻な環境問題も起きている。
「トイレがない」ことがいろんな問題を引き起こしているのだ。
じゃあトイレを設置すればいいのかというと、そんなかんたんな問題ではない。
インド政府は「スワッチ・バーラト(きれいなインド)」を掲げてトイレ設置に補助金を出すことを決めたが、それにより、補助金受給詐欺が蔓延するなど新たな問題が起こっている。
お上の気持ちを忖度するのは日本だけじゃない。インド人も政府の顔色をうかがうのだ。
2020年、日本では「自粛警察」があちこちで幅を利かせていた。緊急事態宣言下で外を出歩いている人に私刑を施すやつらだ。警察どころか犯罪者集団だ。
同様にインドでも「トイレ警察」が跋扈していたらしい。どの国もやることはたいして変わらない。
設置費用さえ出してもらえればトイレを使えるというものではない。トイレには維持管理が必要になる。日本のように下水道が整備されていないから、トイレから出たものはタンクに溜めて定期的に回収する必要がある。当然金がかかる。森でしたり川に流したりするほうがずっと安上がりだ。
特に農村ではトイレを新たに設置するメリットが薄かった。
そもそも農民には「数か月後に補助金がもらえるかもしれない」からといってトイレを設置できるほど経済的に余裕がない。
徳政令って現代でも出されるんだ……。
たしかに借金が棒引きになれば一時的には助かるだろうけど、そもそも毎年の収支がマイナスになっているんだったらどうせまたすぐに借金漬けになることは目に見えている。
そんな状態で、金を生むわけでもないトイレの設置なんてやるわけないよな。
下水道の整備がされていないインドでは、マニュアル・スカベンジャー(手作業で糞尿の処理をする人)がたくさんいる。
とんでもなく過酷な仕事だ。世の中にこれ以上きつい仕事はほとんどないだろう。
汚いだけでなく、危険でもある。マンホールに落ちて命を落とす労働者も多く、ろくな道具も持たずに手で作業するため衛生面の危険も大きい。これで一日三二〇円しかもらえないのか……。
あたりまえだが、マニュアル・スカベンジャーは好きこのんでこの仕事をしているわけではない。インドに今なお根付いているカースト制度のせいで、他の仕事につくことができないのだ。
建前上はカーストによる差別は禁止されているが、じっさいには今も存在している。マニュアル・スカベンジャーは先祖代々その仕事をしている。他に選択肢がないのだ。
日本にもきつい仕事に従事している人はたくさんいるが、一応選択肢はある。もちろん家庭の経済状況などによって限定はされるが、そうはいってもいくつか選べる。最低賃金が定められているし、労働者の安全も守られている(ことになっている)。
インドのマニュアル・スカベンジャーは「3K(きつい・きたない・危険)」どころじゃない。「安全を確保できない」「どれだけ努力をしても抜けだすことができない」と、絶望的な条件が加わっている。
M.K.シャルマ『喪失の国、日本』という本に、日本に来たインド人であるシャルマ氏が「日本ではよその家に上がるときに靴をそろえるのがマナーです」と言われて困惑する姿が描かれている。彼はインドでは高いカーストなので、靴を手でさわるなんて召使いのやることだとおもっていたのだ。
シャルマ氏は柔軟な思考の持ち主だが、それでも染みついたカースト制度からはなかなか抜けだすことができず、靴をさわることにたいへんな抵抗をおぼえる。
この本の中には、自身はバラモン(カーストの最高位)でありながらマニュアル・スカベンジャーの労働環境を良くするために行動する人も登場するが、彼自身も「低いカーストの人が安全にトイレ掃除をできるようにしよう」とは主張するが「カーストを廃止しよう」とは主張しない。
きっとインド人にとってカーストとは生まれたときからあたりまえにあるもので、インドで生まれ育っていたらカーストをなくすことなんて想像すらできないんじゃないだろうか。たとえとしては悪いけど、ぼくらが「犬もヒトと同じように扱いましょう」と言われても「いやそれってヒトにとってはもちろん犬にとっても不幸なんじゃないの」とおもうのと同じで。
前にも書いたけど(「差別かそうじゃないかを線引きするたったひとつの基準」)
「差別」と感じるかどうかって、明確な基準があるわけじゃなくて、「今あるかどうか」だけなんだよね。
今ある区別だから男子校や女子校や日本人学校や朝鮮人学校はOK、でも白人専門学校や女子だけ入試で減点するのを差別だと感じるのは「今までやってないから」。
男子校がよくて白人専門学校がダメな理由を論理的に説明できる人なんていないでしょ。
結局、あらゆる区別は差別にもなりうるし、慣れてしまえば差別とは感じない。
たとえば今は大学入学者を学力試験で決めているけど、冷静に考えれば「今勉強ができる」からといって「学力で劣る者より優先的に学問をする権利がある」ことにはならない。
いつか「学力試験で合格者を決めるなんてバカ差別だ!」という世の中になってもぜんぜんおかしくないよ。
何が言いたいかというと、我々はインドのカーストを「なんて前近代的な差別的な制度だ!」と感じるけど、きっとどの文化にもカースト的なものはあるんだろうなってこと。
くりかえしになるけど、ほんとにすばらしい切り口の本だった。もちろん内容もいいんだけど、これが『インドの今』みたいなタイトルだったら手に取ろうとおもわなかっただろう。
ワンテーマを軸にして、いろんな問題に切りこんでいくこの手法、もしかしたら今後のノンフィクションの主流になっていくかもしれない。
それぐらい革命的な発明だとおもうよ、この手法。
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