「山奥ニート」やってます。
石井 あらた
和歌山県の山奥で、廃校になった小学校の分校に住んでいるニートたちがいるそうだ。その中のひとりである著者が書いた、「山奥ニート」の生活。
おもしろかった。
ぼくもかつてニートだった(この呼び方は好きじゃないので「無職」を自称していたが)ので、著者の気持ちもよくわかるし、あこがれも感じる。
無職時代、「山奥ニート」という道があることを知っていたら、ずいぶん救われただろう。いざとなれば山奥ニートとして生きていけばいい、とおもうことで。
だが、じっさいに自分が山奥ニートとして生きていく道を選んだかというと、答えはたぶんノーだ。
いろんなリスクを考えてしまうから。病気になったらどうしよう。歳をとってからも山奥ニートを続けていけるのだろうか。災害でここに住めなくなったときは。やっぱり子どもはほしいし、子どもができてもニートでいられるだろうか。
そんなことを考えると、「いろいろ不満もあるけど定職に就いているほうが楽」とおもえるんだよね。
まあ、これはぼく個人の話で。ぼくはサラリーマン家庭に育って、親戚も会社員と公務員だらけだったので、余計にリスクに臆病になってしまうんだとおもう。
まあじっさい、無職とサラリーマンの両方を経験した今となっては、サラリーマンのほうが圧倒的に楽なんだよね。就職活動と慣れるまでの間はしんどいけど、慣れてしまえばぜんぜん楽。
無収入になったらどうしようとか、ずっとこのままではいけないよなとか、周りの友人はちゃんと働いてるな、とか思い悩んでいるほうがずっとしんどい。
著者は、山奥ニートの暮らしを「ユートピア」と書いている。著者からしたら実感なんだろう。
でもぼくが同じ境遇になったら、「ユートピア」とは感じられないだろうな。吟遊詩人よりもそこそこの暮らしを保証されている奴隷の方がぼくにとっては楽なのだ。
この本には、「山奥ニートをやっていたけど今はサラリーマンになった人」が出てくる。
彼は「ダメだったらまた山奥ニートに戻ればいいや」という気持ちでサラリーマンになったら案外続けられたのだそうだ。彼の気持ちがよくわかる。
山奥ニートにならなくてもいい。ただ、山奥ニートという選択肢を持っているだけでずいぶん楽になる。
都会だと、生きていけるだけで金がかかる。最低限の家に住んで、最低限のものを食べても十万円近くかかる。月に十万円稼ぐのはけっこうたいへんだ。安定して稼げる仕事に就かなくてはならない。
でも山奥ならもっと安く生きていける。山奥ニートたちの家賃はタダだし、ものをくれる人もいるし、料理もまとめてやっているので生きるのに必要なお金は月1万8000円。
これぐらいなら定職についていけなくてもなんとかなる。月に二日働けば稼げる額だ。
こういう暮らし、すごくあこがれたなあ。少なく稼いで少なく使う暮らし。
ぼくもほんとはそうしたいんだけどな(理想を言うと少なく働いて多く稼ぎたい)。ただ親や妻からの期待や心配を考えると、「仕事するほうが楽」ってなっちゃうんだよね。常識に逆らえるほどの根性がぼくにはないからさ。
「山奥ニート」の暮らしに目くじらを立てる人も、世の中にはいるとおもう。
おれたちの税金で楽しやがって、若いんだから額に汗して働け、今はよくても歳とってから苦労するぞ、って人が。
でも、ぼくはこういう暮らし方があってもいいとおもう。
こんなふうに直接的に人の役に立つこともあるだろうし、そもそも山奥ニートには「いるだけで他の人を救う」という効果もあるとおもう。
過重労働で自殺したくなったときに「山奥ニートやればいいや」とおもえれば、死なずに済むかもしれない。
「いざとなったら山奥ニート」という気持ちで起業して、大成功するかもしれない。
「この国のどこかで働けるけど働かずに楽しく生きている人がいる」とおもうだけで、生きていくのがずいぶん楽になる。
「七十歳までフルタイムで仕事をしつづけて生きていく」という狭く険しい吊り橋を渡らなくてはいけない。足を踏み外しそうでこわい。でも、ふと下を見たらネットがあって、そのネットの上で山奥ニートたちが楽しくゲームをしている。それだけで救われる。
本当の〝一億総活躍社会〟ってこういうことだとおもうんだけどね。全員がフルタイムで働かなくちゃいけない世の中じゃなくて、正社員でも派遣社員でもパートでも専業主婦でもフリーターでもニートでもフーテンでも、自分にあった働き方をしながらそこそこ楽しく生きていける社会。
その他の読書感想文はこちら
0 件のコメント:
コメントを投稿