GO
金城 一紀
在日朝鮮人から在日韓国人になった少年の話。
日本で生まれ、日本で育った。両親が朝鮮人(ハワイに旅行に行くために韓国人になった)だったため、在日朝鮮人として育ち、朝鮮学校で学んだ。だが高校進学時に朝鮮学校には行かず日本の普通高校を選択したことで、在日朝鮮人からも日本人からも有形無形の攻撃を加えられる……。
ぼくの知り合いに、在日韓国人はふたりいる。
ひとりはぼくのおばさん。伯父(母の兄)が結婚した相手が韓国人だったのだ。韓国旅行中に知り合ったそうだ。結婚して、ずっと日本に住んでいる。
彼女が日本に来たのは大人になってからだし、結婚するために自分の意志で日本に来たわけだから、いわゆる〝在日韓国人〟とはちょっと違う。
もうひとりは、ぼくが中学に留学したときに寮で同室だったKさんだ。日本で生まれて日本で育った韓国人。八歳も上の人だったが、気があってよく連れ立って出かけた。
メールアドレスも聞いたのだが、日本に帰ってすぐに音信不通になった。メールが返ってこなくなったのだ(ぼくだけでなく、別の知人もKさんと連絡がとれなくなったそうだ)。
なんだよ、あんなに毎晩話したのに、帰国したらシカトかよ。冷たいぜKさん。と、当時はおもったが、今にしておもうと「あれでよかったのかもしれない」となんとなくおもう。
ぼくは北京の寮でKさんと同室だった。外国人寮だったので、いろんな国の人がいた。ぼくと、在日韓国人のKさんが同室になったのはほんとに偶然だった。なにしろ寮の申し込み書類には、生まれ育った国や話せる言語を書く欄などないのだ。日本人と韓国人を同室にしたら、たまたま韓国人のほうが日本語を話せたというだけだった。
ぼくからしたら、Kさんが同室だったのはラッキーだった。日本語の通じない外国人と同室になる可能性も高かったのだ。同室の人と十分な意思疎通ができないのは苦労しそうだ。
ぼくとKさんはお金を出しあって一台の自転車をレンタルし、二人乗りして北京の街をあちこち出かけ、得体の知れないものを食べ、いろんな冗談を言い合った。
あの北京の夏、ぼくとKさんはまちがいなく友人だった。
でも、もしぼくがKさんと出会ったのは北京の寮でなかったら。出会ったのがもし日本だったら。
ぼくは積極的にKさんと親しくなろうとしただろうか。Kさんはぼくに、自分が韓国人であると打ち明けただろうか。
中国では、日本人のぼくも、在日韓国人のKさんも、外国人だった。外国人同士の連帯感のようなものがたしかにあった。もしぼくらが出会ったのが日本だったら、親しくはならなかったんじゃないだろうか。
きっとKさんにはそれがわかっていたのだ。だから日本に帰国してからは連絡が途絶えた。Kさんにとってぼくは信用に足る人間ではなかったのだろう。
ぼくは「誰に対しても差別的な意識を持たずに平等に接したい」とおもっている。これは嘘じゃない。
でも、こういう気持ちを持っていることこそが、差別意識を持っていることのあらわれだ。ほんとに誰にでもフラットに接する人は、こんなことすら考えないにちがいない。
そう、ぼくは「在日韓国人だからって他の人とちがう接し方をしない」とおもっているだけで、その根底にはやっぱり線を引いてしまう気持ちを持ってるのだとおもう。まあぼくの場合は外国人だけでなく、日本人に対しても線を引くけど。
ぼくは差別意識を持っている。
ただそれを知識や理性で押さえ込んでいる。だからあからさまには表に出さない。でも、やっぱり根底にはある。
以前、行政から送られてきたアンケートに答えているときにその差別意識に気づかされた。
そのアンケートは、LGBTに関するものだった。
「同性間での婚姻を認めることについて」という質問には賛成に丸をした。
「同性カップルについて不快感を持ちますか」という質問には「いいえ」に丸をつけた。
「知人がトランスジェンダーだったらどうですか」という質問にも「不快じゃない」に丸をつけた。
だが、「自分の子どもが同性愛者だったら?」という設問でペンが止まってしまった。正直にいって、それはイヤだ。
ぼくはリベラル派を自称していて、LGBTも外国人も障害者もみんな平等に扱われるべきとおもっているが、それはあくまで「自分と関わらない範囲で」の話なのだ。
自分の関係ないところでは誰が何をしようが勝手でしょ、とおもっているが、積極的に関わろうとはおもっていないのだ。
そう、ぼくは自分では差別主義者とおもっていない差別主義者だったのだ。いちばん恥ずかしいやつだ。
『GO』を読むと、日本で生まれ育った日本人として、自分がいかに有利な立場に置かれていたのかに気づかされる。
日本で暮らす上では、〝外国人〟というだけで大きなハンデを背負っている。指紋の提出を義務付けられたり、外国人登録証明書なるものを携帯しなければならなかったり、就職や結婚や転居にも制約がかかる。
それでもまあ、自分の意志で日本に来た外国人なら「自分で選んだ道でしょ」という言い分も通るが、戦時中に強制連行されてきた外国人や、その二世・三世にいたってはまったくもって自分の意志で外国人になったわけではない。日本で生まれ、日本で育ち、日本語を話していても外国人登録証明書を携帯しないと罰を受ける。
そんな生活、想像したこともなかった。
チョ・ナムジュ『82年生まれ、キム・ジヨン』を読んだときも同じことをおもった。女性であるというだけで、いかに生きづらさを感じているか。そして男性のほうは、いかに特権を無意識に享受しているか。
在日韓国人がどうとか、差別感情がどうとかだけでなく、単純に小説としておもしろかった。スピード感があって。村上龍の青春小説のようだった。
しかし気に入らなかったのが、ヒロイン・桜井の造形。なーんか、あまりに理想的な女性じゃない? 物語を前に進めるための都合のいいキャラクターって感じだったな。
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