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読書感想文リスト
昭和史を改めて見つめなおした本。
読んでいて感じたのは、左派による左派批判という感じ。この人自身は太平洋戦争を間違いだったと認めているし、戦争をくりかえしてはいけないと感じている。たぶん。でもそんなことは書かない。むしろそういう人を批判している。
「戦争はいけない。再びあの愚かな過ちをくりかえしてはいけない」と言うことで平和に対して貢献した気になった人を批判している。
戦争に対する反省ってのはそういうことじゃないだろ。いつどこで誰が何をした、それに対して周囲の人間や国民はこんな反応をした、それに対して他国はこういう行動をとった、その結果こうなった。こうした歴史に対する正しい向き合い方から反省や改善は生まれるのだろう。これが著者の主張だ。
そうだよね。左派だからこそ左派のダメなところを直してほしいんだよね。
「平和は大事! 戦争はいけない!」って教わって、そういうものなんだ平和は大事なんだな、って信じてる人って「天皇は神! おまえらは神のために死ね!」って言われて信じていた人たちと大差ない。
でもこういうことを言うと「おまえはどっちの味方なんだ!」「極右め!」とか言われちゃうんだよね。特に政治的に熱くなっちゃってる人に「その目的を達成したいのならそっちよりこっちの道を選んだ方がいいですよ」って言うと、全部否定されたとおもって反発しがちだ。耳に痛いアドバイスをしてくれる人こそ大事にしたほうがいいのに。
筆者の歴史研究に対するスタンスは、なるべく生の声を集めるというもの。
裁判記録というのはオフィシャルなものなので(ほとんどの場合)間違いではないのだけれど、それだけが正解かというとかなり怪しい。
現在ですら、政府が発表していることはかなり不正確だ。さすがにあからさまな嘘は少ないが(ときどきあるけど)、あえて書かないことは山ほどある。黒塗りだらけの開示資料を見れば明らかだ。オフィシャルな記録なんてものは一面的なものの見方でしかない。
市民たちの生の声というのは誤りや記憶違いも多くて信頼性には欠けるけど、公的な史料からはこぼれ落ちる事実を拾ってくれることもまた事実。
戦場で生死を分けるのは、人徳でも努力でもない。運だけだ。運が悪かったやつは死に、運が良かったやつは助かる。彼我の間に運以外の差はなく、だからこそ生還した者は死者の言葉を代わりに語る。
これを読んでぼくは、中島 岳志 『100分 de 名著 オルテガ 大衆の反逆』を思いだした。中島岳志氏はこう書いている。
「死者の声」に耳を傾ける必要がある、現代人の考えだけで正しさを決定することなどできない、という考え方だ。保阪正康の主張ともよく似ている。
このように、ぜんぜん別のテーマを扱った別の著者の本を読んでいても、驚くほどよく似た主張をしていることにぶつかることだ。読書の悦びのひとつだ。
死者の声に耳を貸す。現代では忘れられがちだが、重要な考え方だとおもう。歴史を見ればわかるように、人間はずっと間違いつづけてきた。今の政治も正しくないし、これから先も間違える。我々は必ず間違える。独裁制だろうが共和制だろうが間違える。
と考えれば「選挙で勝利したから民意を得た。我々が正しいと考える政策を進めていい」なんて愚かな考えには至らないはずだ。我々は間違える、という謙虚な考えを持つことが特にトップにとっては大事な資質だ。残念ながら人々はその逆の「私失敗しませんから」と考えるバカをリーダーに選んでしまうものなんだけど。
歴史は権力者や歴史学者が作るものではない。死者の声の中にこそ歴史があるはずだ。
筆者は、そうした善悪思想から離れた分析をやるべきだという立場をとる。このリアルな姿勢、嫌いじゃないぜ。
「あの戦略はどこが間違いだったか」と考えることはべつに反戦思想と矛盾しない。なのに戦略の分析をしたら「そうやって戦争の研究をしてまた戦争を始める気なのか!」と言いがかりをつけてくる人がいることは容易に想像できる。
そうやって戦争について本当にじっくり考えることを避けてきたことこそが、著者の語る「日本人は間違えた」ポイントなのだ。
日中戦争において、中国は内陸へ退却した。日本軍はそれを追いかけてどんどん内陸に進軍していった。そこに戦略はなく、ただ逃げる敵を追いかけたに過ぎない。
そもそも日本よりはるかに広くて人口もずっと多い国を制圧できるはずないなんて、誰でもわかることなのに。イギリスがアヘン戦争の後に要所の上海に租界を置いて効率的に統治したのとは対照的だ。
つまり日本軍は何も考えてなかったわけだ。ただ追いかけた。その結果、食料や物資が枯渇し、民間人から掠奪することになった。非軍人からの抵抗を受け、虐殺をした。国際的な非難を受けた。日本軍にとって、すべてが悪い方に転がった。
著者は「中国の巧妙な罠に嵌まった」と書く。はたして中国がそこまで見通して退却をしたのかはわからないが、日本軍の戦い方がまずかったのは間違いない。
これを「日本軍は虐殺という悪いことをした」と教えるだけでは真の反省にならない。当時の軍人だって「民間人から虐殺、掠奪しよう!」と思って進軍していったわけではない。彼らには彼らの事情があった。その理由を検討しなければ、また同じ状況になれば同じことをくりかえすことになる。
「侵略戦争だった。侵略戦争はいけないこと!」というイデオロギーからはこういう考察は生まれない。
反省は必要だが、それと冷静な分析は切り分けて考えなければならない。戦争に反対する者こそ戦争について知る必要がある。目を背ける人が多いけど。
戦争の文脈でよく語られる「反省」について。
ぼくは、右も左も外国の反応を気にしすぎだと思っている。
少なくとも国民の単位では、他国民に対して謝罪する必要なんてない(出兵した人は別にして)。かといって必要以上にはねつける必要もない。
ずっと昔、ぼくが中国に行ったときに出会ったある中国人から「おまえら日本人は中国人からたくさんのものを奪った」と言われたことがある(言っておくがそんなことを言ってきたのは大勢出会った中国人のうちひとりだけだ)。で、ぼくは「たしかに悪いことをした日本人はいた。それに対してはぼくも胸を痛めている」的なことを言った。
同じ日本人だからというだけの理由で過去のあやまちの責任をこっちに持ってこられても、知らんがな、である。そんなこと言ったら中国人が過去にどれだけ
とはいえ相手を怒らせていいことなんてないので「ひどいことだよね。私も心を痛めている」ぐらいは言ってあげたらいい。つまり「ナチスにひどいことをされたユダヤ人の子孫」に対するのと同じ態度をとればいい。
戦争に対する知識も思考もない反省なら、しないほうがマシかもしれない。
もう終戦から81年。戦争を体験した人がいなくなる時代になった。そろそろ「脊髄反射的な反省」をやめて、リアルな分析をできる時代になっているかもしれない。
断食により餓死しようとした作家の手記。
ぜんぜん理解できなくておもしろかった。こういう、自分とはまったく考え方がちがう、理解できる気すらしないぐらいぶっとんでいる人の本はおもしろい。
もう年老いて、身体にもあちこちガタがきて、もうすぐ仕事もできなくなり、介護が必要になるかもしれない。同居する家族もいない。世の中に迷惑をかけるだけの存在になるぐらいならいっそ自分で命を絶ったほうが……。
ここまでは理解できる。ぼくもこの状況になったら同じように思うかもしれない。むしろ、「ただ介護されるだけでこれ以上良くなる見込みもない老人って何を楽しみに生きてるんだろう」とすら思っている。
だが、「だから断食で餓死しよう」という発想になるのは理解できない。なんで断食? ぜったい苦しいし大変じゃん。
筆者は自然に死にたいって言ってるけど、餓死って自然な死じゃないし。動物だって餓死するのはごく一部でしょ。そもそも自死が不自然な死なのに、「自然に死にたい」って何言ってんだ……。
特に理解できないのが、断食で死のうとしているのに、薬は飲み続けていること。
一度、断食をして薬を飲むのもやめたところ、心臓発作を起こして入院することになったから、というのがその理由らしい。
うーん、わからん。心臓発作で死ぬならそれでいいんじゃないの? 心臓発作も苦しいだろうが、餓死ほどは長く苦しまないわけだし。断食で死にたいけど心臓発作で死にたくないという感覚がまったく理解できない。心臓発作のほうがよっぽど自然な死だとおもうんだけどなあ。
で、断食しているのに「食後の薬」を服用するものだから、胃が痛めつけられ、胃が痛いと手記に書いている。そりゃそうだろう。何がしたいんだこの人は……。
この人は、断食で死ぬために周到な準備をしている。
死のうとしていることを知り合いに知られると、止められてしまうかもしれない。止めなかった場合、その人が保護責任者遺棄致死に問われる可能性が出てしまう。なので誰にも言わずに断食を実行しようとしている。
連絡がないのを不審におもって知り合いが様子を見にきたら困るので、わざわざ引越しまでしている。高齢者の一人暮らしなんて賃貸物件を見つけるのもたいへんなのに。
首尾よく(?)死ねたとして、発見が遅れると遺体処理がたいへんだし借りている家にもダメージを受ける。そのため死ぬ寸前に知り合いに連絡をして、死んだら速やかに発見してもらえるようにする。
……と、あれこれ気を配ってスムーズに死ねるよう算段している。
ここまで配慮できる人が、なんで「断食しているのに薬を飲んでいるせいで胃が痛い」なんてことで困惑しているのか、ほんとによくわからない。
結果的に、この人は断食では死ねなかった(Wikipediaによると断食失敗の翌年に病院で心不全で亡くなったらしい)。
しっかり覚悟を決めて、盤石の態勢で臨んでも、人が断食で死ぬのはむずかしいらしい。ま、そりゃそうだろう。
山口良忠氏という裁判官がいた。戦後の食糧難時代、人々は闇市で食べ物を買って生きていた。厳密には食糧管理法違反だが、政府からの配給だけでは生きていけないので闇市で買っていたのだ。
だが山口氏は「闇米を取り締まる裁判官である自分が、闇米を食べるわけにはいかない」と闇市での買い出しを拒否し、配給の食糧を子どもに与え、自分はわずかな食べ物しか口にしなかった。
そして彼は死んだので「信念のために命を捧げた立派な裁判官」として有名になっている(もちろんこれを聞いて「なんてばかな人なんだろう」と感じる人もいるだろう)。「悪法もまた法なり」と言って死刑になったソクラテスに重ねて「昭和のソクラテス」とも言われる。
だが山口氏の死因は肺結核である。食べていなかったので栄養失調になったことが間接的な原因だが、餓死したわけではない。もし山口氏が結核にならず、「今日食べなきゃ死ぬ」という状況に追い込まれていたら、それでも信念を貫いていただろうか。生物の生存本能というのはそう弱いものではないだろう。
興味深いのは、筆者が死ぬことを決めてからも政治のことについて怒っていること。この本の随所に、政治に対する怒りが書かれている。
どうせ死ぬんなら政治のことなんてどうでもいいじゃない、と読んでいる側からしたらおもうんだけど、死を目前にしても義憤って抑えられないんだなあ。
人間、死期が近づいたらありとあらゆるものに感謝をして、穏やかに眠るように息を引き取る……というわけにはいかないもんなんだなあ、やっぱり。
いい本だった。安易なビジネス書みたいなタイトルだけど、内容は科学的知見に基づくちゃんとしたもの。
小手先のテクニックではなく、心の底から相手と通じ合う方法を説いている。
個人的にちょうど今、仕事で「伝え方」について頭を悩ませているところだったのですごく参考になった。
ぼくはずけずけとものを言ってしまうタイプで、「正しいことを言って何が悪いの?」と思ってしまうことも多々ある。でもそれじゃ他人を動かすことはできないと40歳をすぎてやっと気づいた。遅ぇ。
たとえば自分が嫌いな上司から納得のいかない理由で説教を食らっているときのことを考えてみる。どういう行動をとるだろうか。口では「はい、わかりました、気を付けます」と言いながら、内心では「うっせえな。おまえがおかしいんだろ。この意味のない説教早く終わらねえかな」と考える。それがふつうの人間だ。
なのに、自分が他人に注意しているときは、相手は真剣に聞いてくれていると思ってしまう。相手の話は自分に響いてないのに、自分の話は相手に響いていると思いこんでしまう。
自分が話を聞き流しているのと同様、自分の話も基本的に相手に伝わっていないものと思った方がいい。「基本的には伝わらない」とおもえば、伝わるためにはどうすればいいかという発想になる。
話をするときは「何をどう話すか」「どう感じるのか」「私たちは何者なのか」を意識することが必要だと著者は書く。
詳しくは本書を読んでいただきたいが、ぼくが特に重要だと感じたのは「どう感じるのか」の部分である。
感じていることについて話し合っていると、他の人たちは話を聞かずにはいられなくなる。そして自己の感情を吐露しはじめ、今度は私たちが耳を傾けることになる。
情報だけで人は動かない。「100万人が死んだ」という情報よりも「たった1人の息子を亡くして私がどれだけ悲しい思いをしたか」という話のほうがずっと人の心を動かす。
そこで「感情を吐きだすこと」と「感情を吐きださせること」が必要になる。
なるほどなー!
この本でいちばん勉強になったのはここ。
初対面の人と話さなくてはならない状況になったとき、ぼくも相手に質問をしたりしてなんとか会話を続けようとしていた。でもあまり会話が続かない。まして打ち解けるところまでいったことはほとんどない。
思い返してみれば、そういうときにぼくがしていたのは“事実”に関する質問だ。
「どこ出身ですか?」「お仕事は何をされているんですか?」といった類の。
質問に対する答えは返ってくるが、それ以上の会話にはなかなか発展しない。
重要なのは「どこ出身ですか?」の後の「へえ、そこって住みやすいですか?」といった、感情を引きだす質問だったのだ。
「そこって住みやすいですか?」だと聞かれたほうも一生懸命に考えるし、「うーん、若いうちはいいけど仕事をするには不便ですよねー」とか「いやこっちのほうがぜんぜん住みやすいですよ。○○があるし、××にも行きやすいですし」といった回答から、その人の人となりや大事にしているものが見えてくる。
勉強になったぜ。
口論になったときの考え方について。
そうだよなー。そうなんだよなー。
これは深く受け止めないといけない。よく妻に叱られる夫として。
妻から「洗面所を使った後に水が飛び散ってたから気を付けて」と言われたとき、ほんとは「風呂場も汚いし、台所の使い方も荒っぽいし、でもいっつも掃除をするのは私ばっかりで、その間あなたはグーグー寝てるのはおかしいよね? どう考えたって家事の負担が半々じゃないよね」と言われているのだ。
「洗面所をきれいに使おう」とおもうだけではだめなのだ。
これはほんと大事。ぼくも十五年結婚生活を続けているのでよくわかる。
「不満があるなら溜めこまずに全部言ってくれたらいいじゃない」なんておもうのはど素人だ。注意する方だって不快だし、だいたい不満を逐一口にしていたらぼくなんか一日に七十五回ぐらい妻から注意されることになって、家庭内の雰囲気は最悪になる。
妻は言わないでいてくれているのだ。だがこちらはそれに甘えて「言われたことだけ気を付けよう」としてはいけないのだ。
重々肝に銘じておかねば。
大事なのは話し方だけではない、聞き方も重要だ。
これはすぐにでもできるテクニックだね。やりすぎるとだいぶうっとうしいけど。
相手の言ったことを「それって……ってことですか?」と質問する。相手の発言内容を確実に理解することができる。それだけではない。相手の言うことをまとめようとおもったら、相手の視点と自分の思考を重ね合わせなければならない。いわゆる「相手の立場に立って考える」というやつだ。
SNSの議論なんかを見ていると(不毛だからあんまり見ないようにしてるけど)、そもそも両者とも相手のことを理解しようとなんかしていないことがほとんどだ。はなから相手のことを「思慮の足りない人間」と決めつけ、その結論を導くための証拠を必死になって探している。
でも多くの問題には良い面と悪い面があり、対立する両者とも正しいことを言っていたりする。たとえば原発の存続に関する議論であれば「原発が生み出すエネルギーは重要な価値がある」と「原発が抱えるリスクはとても大きい」はどちらも間違っていない。どちらに重きを置くかという価値観の違いがあるだけだ。
相手の視点でものを見ることで、建設的な議論ができるようになるはずだ。もっともSNSで議論(という名の一方的な主張)をしている人たちが「建設的な議論」なんて望んでいるかどうかはわからないけど……。
相手の気を悪くさせる話し方について。
望まない一般化をすると相手は怒る。
これもわかるなあ。昔、友人から「おまえのその意見っていかにも賢い人の意見って感じやな」と言われてめちゃくちゃ腹が立ったことがある。けっこう強めに言い返して、喧嘩になった。
そこまでひどいことを言われたわけじゃない。でも「賢い人」が褒め言葉ではないこともぼくにはわかった。友人は「頭でっかちな人」みたいな意味で使ったのだとおもう。
それがぼくには気に食わなかった。自分でもなんでそんなに腹が立っているのかわからないぐらい不愉快だった。
ぼくが言われた「いかにも賢い人の意見」こそ、まさに「聞き手の意思に反して、その人をある集団の一員としてひとくくりにするような発言」であった。
「これだから女は」的な発言だ。そりゃ人をイラつかせる。だがこの手の発言は巷にあふれている。性犯罪者を非難すればいいのに「男は~」と語ればコメント欄が荒れるのは必至だ。
女性専用車両が嫌われているのも同じ理由だろう。あれは男全員を「おまえたち痴漢予備軍」とひとくくりにしているのと同じだからだ。あれはれっきとした差別だ(ただし現実的に有用な面もあるので、「不愉快でしょうが差別させてください」という形で鉄道会社がお願いするのであれば拒否するほどではない)。
まとめ。
コミュニケーションに対する考え方を根っこから揺さぶってくれるような本だった。
ただし安っぽいビジネス書に書いてある小手先のテクニックではないので、実践するのはかんたんではない。どれも一朝一夕に身に付く技術ではない。
でも、だからこそ、どんな状況でも、どんな相手でも普遍的に使える技術だ。
何度か読み返したい本。
婚活で出会った女性と交際し、婚約をしていた男性。喧嘩ひとつしないカップルだったが、その婚約者がある日突然姿を消した。彼女は少し前からストーカーに狙われていると不安を口にしていた。ストーカーは以前の婚活で出会った男性だという。
はたして彼女は無事なのか、彼女が行方をくらましたのはストーカーに連れ去られたからなのか、ストーカーは誰なのか、婚約者を探すため彼女の故郷を訪れる……という導入。
導入はミステリ風だが、主題は謎解きではないので中盤で彼女が行方不明になった真相は明かされる。
本題は恋愛小説というか結婚小説というか、あるいはアイデンティティに関わる話かもしれない。
特におもしろかったのが婚活まわりの話。
婚活に苦悩する人たちの現状がうまく表現されている。
ぼくは婚活をしたことがない。学生時代に付き合った女性と社会人になってからも交際を続け、そのまま結婚したからだ。八年も付き合ったし、その間たいして喧嘩もしなかった。(少なくともぼくの側は)相手に対する不満はほとんどなかった。だから「このまま結婚するんだろう」とおもっていたし、もちろん他の相手など(少なくともぼくの側は)考えることもなかった。
でもそれは運が良かっただけで、もし学生時代に彼女ができていなかったら、ぼくは結婚するのに苦労した(あるいは結婚できなかった)だろうなとおもう。決して見た目がいいわけでもないし、社交的な方ではない。むしろ人見知りで、人と仲良くなるのに時間がかかる。今の妻とも、親しくなったのは知り合ってから一年以上経ってのことだ。つまり初対面で好印象を与えるタイプではない。そのくせプライドだけは高いので傷つくことにびびってしまって自分から積極的にアプローチすることもできない。
ほんとは彼女が欲しくて欲しくてたまらないのに斜に構えて「まあいい人がいればでいいかな」みたいなことを言っているタイプ、それがぼくだ(実際、彼女ができるまでの学生時代はそうだった。)。どう考えても婚活でうまくいくわけがない。
就活だってぜんぜんうまくいかなかった。もう気が変になるぐらい就活が嫌だった。
不合格になるたびに自分の人格とこれまで歩んできた人生をすべて否定されたような気になった。「おまえはいらない」とはっきり突きつけられるのはかなり精神にくる。「テストの点が悪かったから」とか「スーツがダサかったから」とか明確な理由があるならまだ諦めもつくが、不採用の理由は教えてもらえないのだ。あれが悪かったのか、それともこれがダメなのかと考えて、どんどん自分が嫌になる。
ぼくなんて書類選考や筆記試験はほぼ通って面接で落ちていたので、余計に「学歴のせいでも試験の点数のせいでもない。おまえという人間が求められていないのだ」と言われているような気になった。
就活が嫌で嫌でしかたなくて、最初に内定をくれた、当初の志望と業界も業種もぜんぜんちがう企業に就職したぐらいだ(そんな理由で入ったので案の定あわなくて数ヶ月で辞めた)。
婚活をやっても同じようになっていたとおもう。きっと断られつづけるうちに自己嫌悪になって、婚活から逃げだすか、逃避のためにまったくあわないタイプの相手と結婚を決めていたか。
婚活が就活とちがうのは、一対一の関係になるということだ。
就活の場合は企業が相手なので、どうしたって企業のほうが強くなる。元々対等な交渉なんてできない。こっちが持っているカードは「嫌なら入社しない」1枚だけだ。
だが婚活は人間同士一対一の関係なので「どっちが上か」になってしまう。
婚活で悩むポイントはいろいろあるだろうけど、突き詰めれば「自分に釣り合うか」という一点に集約されるのだ。
そしてみんな自分のことは高く評価するから「釣り合う相手」を探すのはむずかしい。
ぼくの身の周りを見てみても、容姿端麗でずっとモテてきた人がなかなか結婚できなかったというケースがよくある(そういう人のほうが印象に残りやすい、ということがあるにしても)。モテてきた人ほど自分がモテることを知っているから「釣り合う相手」を探すのはむずかしくなるだろう。非の打ち所がないステータスの人は婚活市場にはほとんど残ってないだろうし。
案外、自己評価の低い人のほうがうまくいくのかもね。「こんな私なんて」と思ってるぐらいの人のほうが。
小説のストーリー自体は、うん、まあ、悪くはないね、という感じ。ネタバレになるのであんまり書かないけど。
「女友だちがほんどひどいやつらで、自分の悪行をすべてつまびらかにする」のはそんなわけねえだろとおもうし、「震災の復興ボランティアに行って自分を見つめなおす」のは陳腐すぎるな、とおもったな。
でも前半~中盤で、「彼女の空虚さ」「彼女の親のヤバさ」が次第に判明していくあたりはすごくおもしろかった。
いろいろあって、一応これはハッピーエンドなんだけど、でもぼくとしては「いやこれハッピーなのかなあ……」と引っかかるものを感じた。個人的には引っかかる小説の方が好きなのでこれでいいけど。
子どもから「日曜大工ってどういう意味?」と訊かれた。そういや「日曜大工」って死語寸前だよな。完全に「DIY」に取って代わられた感がある。
しかし「休みの日だけやる趣味」って他にもいろいろあるのに、「日曜登山家」とか「日曜野球選手」とか「日曜デザイナー」は言わない(調べたら「日曜画家」という言葉もあるようだ。こっちは死語寸前どころか死語だといっていいだろう)。
ムンクの『叫び』という絵画は、まるでそれがタイトルであるかのように「ムンクの叫び」とセットで呼ばれる。「レオナルド・ダ・ヴィンチのモナ・リザ」とはふつう言わない。
『叫び』というタイトルが短くて一般名詞だからだろう。「ゴッホのひまわり」もセットで呼ばれがちだ。
そのせいだろう、「ムンクを思い浮かべてください」と言われてあなたが思い描いたのは、ムンクではなく『叫び』に描かれる人物だ。
あと「東洲斎写楽」と聞いてあなたが思い浮かべたのも、三代目大谷鬼次の奴江戸兵衛だ。
![]() |
| 三代目大谷鬼次の奴江戸兵衛 |
千年前の人々のほとんどは、自分の住んでいる集落から出ることなく暮らしていた。
集落があるのはたいてい平地なので、周囲には山がいくつも見える。「山に行ってくる」ではどの山のことかわからない。なので「○○山に行ってくる」と山に名前を付ける必要が生まれる。
だが多くの場合、川は歩いて行ける距離に一本しかなかったはずだ。複数の川が並走していたり川と川が合流している地形はそう多くない。川が一本であれば名前を付ける必要がない。「川に行ってくる」で伝わる。「川の上流のほうに行く」とか「橋の近くに行く」とかはあっても、川そのものを名前で呼ぶことはそう多くなかったのではなかろうか。
「サイロ」とは、元々は誘導ミサイルの地下保管庫のこと。そこから「他から隔絶して活動する部門」を指す言葉となったらしい。
人が集団を作ると、どうしてもサイロは生まれる。気の合う合わないはあるし、属性が近い人の方が話しててストレスが少ない。
サイロ自体が必ずしも悪いわけではないが、大きな失敗や事故の原因になることもある。様々な事例をもとに、サイロが生んだ失敗の例を分析し、サイロを壊すための成功例について紹介する本。
紹介されている事例はおもしろく(ただしぼくは金融の話にはついていけなかったので証券会社の話は読み飛ばした)、なるほどと膝を打つ箇所も多かった。
ただ、ちょっと話がうますぎるというか、「サイロは良くない」という結論が先にあって、そこに持っていくためにちょうどいい事例を集めてきただけって感じもする。
たとえば失敗例としてソニーの例を挙げて、成功例としてアップル社やフェイスブック社(現Meta社)の事例を紹介しているけど、今はアップルやMetaが調子良くてソニーがかつての栄光を失ったから説得力があるんじゃないの、という気もする。
どんな企業にも孤立主義的な面と風通しの良い面とがあるから、「うまくいっていない会社のサイロ」と「うまくいっている会社のサイロがなさそうな所」はいくらでも見つけられるのでは。
考え方はおもしろいけど、ちょっと議論が単純すぎるかもね。
特におもしろかったのは、ソニーが「ウォークマンの後継機」で失敗した事例。
1999年にソニーは、2つのまったく異なるウォークマンの後継機を発表した。家庭用電気機器部門とコンピュータ部門がそれぞれ別々に後継機を開発していたのだ。
どう考えたって1つにしたほうがいい。社内の知識や経験や労働力を結集して開発したほうがいいし、仮に「2つの分野に同じものを開発させて競争させる」という方針だったとしても、どこかの段階で良し悪しを判断して一方に注力するべきだろう。
なぜソニーともあろう会社がそんなわけのわからないことをしたのか。
ソニーは1994年に事業再編をおこない、いくつもの事業部に独立採算をとらせ、ゲーム、音楽、映画、保険などの事業は子会社化した。
この改革は当初はうまくいき、それぞれの部門は利益率は高まった。大きな会社全体の利益を見るよりも、部門別の利益を見るほうがずっとわかりやすい。コスト意識は高まり、無駄なコストは削減される。
だが各部門が独立することで「サイロ化」が起きた。
社内は完全に分裂し、異なる部門と協力するどころか、別部門がやっていることもわからなくなった。
たとえばソニーにはソニー・ミュージックエンタテインメントという音楽会社がある。多くの人気アーティストが所属し、強いブランド力を持っている。
ふつうに考えれば、ウォークマンの後継機を宣伝するのであれば、ソニー・ミュージックエンタテインメントの力を借りたほうがいい。新しい配信サービスで人気ミュージシャンの曲を配信すれば、それを目的に配信サービスに加入する人は増えるだろう。
だが開発部門は音楽部門とも協力しなかった。音楽部門は、CDの売上が落ちるのを恐れて他の事業部門と協力することを拒んでいたから。
部門ごとに採算をとるようにすると「うちの部門は儲からないけど隣の部門は儲かること」に力を入れなくなる。
仮にCDの販売による利益が100億円減っても、新しい音楽プレイヤーや配信サービスで200億円の利益が出るのであれば会社としてはプラスだ。だが独立採算、別会社だとそういう大局的な判断はできなくなる。
こうしてソニーは音楽のネット配信事業において遅れをとり、アップル社が社内の知識と技術を結集して作りあげたiPodの独走を許した。
……ま、ちょっと単純化しすぎた話ではあるが、一抹の真実も含まれているのだろう。
サイロが失敗や企業の停滞を招くことがわかり、特に成長中の企業では「サイロを生みださないこと」に力を入れるようになる。
フェイスブック社(現・Meta社)では、新たに入った社員たちに部門に関係なく同じ研修を受けさせるという。チームプレイの重要性を学び、他の部門のメンバーとのコミュニケーションを促進させるためだという。
別部署であっても「共に研修を受けた同期」がいれば話をしやすいだろう。
またフェイスブック社では、何ヶ月か他の事業部に異動させてそれまでとはまったく別の仕事をさせる制度もあるという。
読んでいておもったんだけど、これらの仕組みってわりと日本の会社が昭和の時代から(もしかしたらもっと前から?)やっていたことだよね。
新人一斉研修と定期的な人事異動。
昨今ではどっちかというとデメリットの方が多く語られがちだが、あれはあれで「部署間の相談をしやすくなる」「ある部門で得られた知見を他の部門に活かせる」という数字に表れにくいメリットがあるんだろうな。
「フェイスブック社ではこんな斬新なやりかたをとっている!」と紹介されているのが日本の古い企業のやりかたってのがおもしろい。
サイロを壊すために旧来の診療科の壁をぶっこわした病院の例も紹介されている。
これはおもしろい。たしかに心臓外科と心臓内科ってふつうはぜんぜん別の部門で、病棟の中でも(たぶん)遠く離れた場所にあるけど、言われてみればそれって病院側の都合だよな。患者からしたら心臓外科と心臓内科はすぐ近くにあってほしい。
健康診断で心臓の数値が悪くて病院に行ったとき「心臓内科ですか、心臓外科ですか」って聞かれたって困ってしまう。「いやこっちはそんなの知らんがな。とにかく心臓を診てもらって内科治療か外科治療かはそっちで決めてよ」とおもう。
病院側からしたって、心臓外科と心臓内科が近くにあったほうが診療科の垣根を越えて治療にあたりやすそうだ。
ぜんぜん別の話になるけど、本屋の文庫売場とかコミック売場って「出版社別に分かれてて、その後作者名順(あるいはタイトル順)」になっていることが多い。
あれって完全に書店側の都合なんだよね。客からしたら「今日は講談社の本を買おう」と探すことなんてなくて、作者名かタイトルで探すんだから。
そうおもってぼくが書店で働いていたとき、それまで出版社別だった棚を作者名順に並び替えた。ちゃんと売上は上がった。
はじめにも書いたように、ちょっと議論が単純すぎて鵜吞みにはできないところもあるけど、組織の在り方を考える上ではすごくおもしろい本だった。
組織を細分化してメンバーの専門性を高めれば(短期的には)効率的になるけど、無駄とおもわれたことが長期的には利益を生んだりもするんだよね。まあほんとに無駄なことも多々あるのでむずかしいんだけど……。
今ぼくが働いている会社は社員数が増えている。今は従業員数100人ぐらいで、オフィスも広くなって、そろそろ「あの人何の仕事をやってるかよくわかんない」って状況になりつつある。「A事業部が困ってること、B事業部でやってるやり方を使えばすぐ解決するのに」ってことも発生している。
事業部をまたいで仕事をしている人が何人かいるから断絶はそう深くならないけど、どうしてもその人たちの負担は重くなるし、知識が属人化してしまうのはいいことではない。
サイロが生まれないようにするにはどうしたらいいんだろうね。この本にはヒントは書かれているけど正解は書いてないから、それぞれの組織で考えるしかないんだろうな。考えるきっかけをくれるという点では非常に有用な本。
人々はどのようにリスクをとらえ、どのように恐れる(または恐れない)かを心理学者が解説した本。ちくまプリマ―新書なので平易な内容。
身の周りにはたくさんリスクがある。当然ながら我々はリスクを恐れて避けようとするわけだが、正しく避けているわけではない。
たとえば飛行機に乗るよりも自転車のほうがずっと死亡率が高いのに(飛行機事故による死傷者は年間ゼロに近いが自転車は死亡者だけでも500人以上)、多くの人は自転車に乗るよりも飛行機に乗るときに恐怖を感じる。
それは認知バイアス(思考の偏り)が生じるからだ。
たとえば飛行機事故のほうが大きなニュースになって記憶に残りやすいから(利用可能性ヒューリスティック)、自転車のほうが日常的に利用するから(正常性バイアス)、自分でコントロールするものはリスクを低く見積もってしまうから(制御の錯覚)、といったバイアスにより、自転車よりも飛行機を恐れてしまうのだ。
数年前に新型コロナウイルスが流行し始めた頃、「変な恐れかた」をしている人をたくさん見た(ぼくもその一人だ)。感染症対策として仕事で他人に会うのは避けるのに飲み会には行く人、感染者が全国で数人しかいなかった初期には大騒ぎしていたのに数万人になったときは大きな話題にしなくなった人(これはほとんどの人がそうだろう)、マスクを一応つけてはいるけど鼻や口を出していた人。みんながよくわかんない行動をとっていた。
アホな人たちだけではない。賢いはずの人たちですらリスクを正しく見積もることができずに右往左往していた。日本政府ですらそうだった。たとえば最初の緊急事態宣言が発令されたのは2020年4月7日。その頃の1日の新規感染者数は全国で300人程度。今にしておもうと「あわてすぎ。もうちょっと落ち着け」と言いたくなる。でも当時は大真面目だったのだ(政府の人間が賢いかどうかはさておき)。
リスクをありのままに評価することがいかにむずかしいかがわかる。
「特定可能な犠牲者効果」について。
「戦争で1万人が死にました」と書くよりも、たった1人の手記のほうがずっと人々の胸を打ち心を動かすことがある。顔も知らない1万人よりも、顔を知っているだけの1人のほうが大きな価値を持ってしまうのだ。
ぼくはUNHCR(国連難民高等弁務官事務所)に定期的に寄附をしているのでときどき会報が届くのだが、そこにはデータよりも「難民となった少年のエピソード」みたいなものに多くのページが割かれている。人を動かすのはデータよりもエピソードだと知っているからだろう。
それはそれでいい面もあるのだが(自分の家族よりも地球の裏側のことを心配していたら生活が成り立たない)、たとえば政治家のように大局的にものを見ないといけない人はエピソードに釣られないようにしてほしい。
以前、高校生がいじめを苦に自殺した直後に、とある大臣が「この反省を活かすために各学校はいじめ対策のやり方を見直してほしい」と語っていた。
冗談じゃない。たしかに不幸な事件だが、たった1件のケースを元に全国的な方針がころころと変わったら現場はやっていられない。仮に「全国的に見れば自殺者が減っている」という状況であれば、現在の方針を大きく変えないほうがいいだろう。政治家は一般人やワイドショーのコメンテーターみたいにそのときの感情で動いてはいけない。
またこれは、本来統計的に判断を下すべき人がストーリーを持ち出してきたときは要注意、ということでもある。
政治家が「このような事件がありました。対策をしなければなりません」なんて語りだしたときは、有権者を誤った方向に誘導しようとしている可能性が高いと見ていいだろう。数字で説得できないからストーリーの力に頼るのだ。
人は、人工的なものよりも天然のもののほうが身体に良いと思いこんでしまうバイアスも持っている。
(“天然の方が良い”ヒューリスティックとはなんとも野暮ったいネーミングだが、英語の"natural-is-better heuristic"をそのまんま訳したらしい)
これはおもしろいね。だって本来、人工的なもののほうがいいはずじゃない。天然のままだと利用しにくいから人の手を入れてるわけで。自然のものは雑菌だらけだし傷みやすい。
だから昔は人工的なもの=いいもの、だったはず。いつから“天然の方が良い”になったんだろう。公害とか環境破壊とかが言われだしたころだろうか。だとしたら“天然の方が良い”ヒューリスティックはせいぜいここ数十年のものだろう。
たしかに公害とか健康被害を引き起こすような科学技術もあるけど、少なくとも今使われている技術の大半は「天然よりいい(メリットが大きい)」はずなのに。
オーガニック野菜をありがたがる人って「化学肥料を使わずに育てた野菜」をそれ以外の野菜と比べているようで、ほんとは「化学肥料を使わずに育てた野菜の中の上位ひとにぎり」しか見ていないんだよね。
「塾に通って難関校に入った人」と「塾に通わずに難関校に入った人」を比べて、「塾なんか行かなくていい!」って言ってるようなもの。「塾に通わずに難関校に入れなかった人」の姿は見えてない。
人がついついやってしまいがちな「思考のクセ」について軽く学べる本でした。
データ分析の効用、手法、事例、課題点などについて概説した本。数式が出てこないので入門者向けでありながら、「こういったケースではうまくいかない」「このような実験は設計方法に誤りがある」といった実践的なあ説明も多く、かなり実用的な内容だ。
ぼくは十年以上マーケティングやデータ解析の仕事をしているのでわりと今さらな内容が多かったけど、それでも明確に言語化しているなと感心する。よくできた解説書だ。
ただ、いざデータ分析をやろうとなったときに課題になるのって、たいていの場合「データ分析のやり方がわからない」とか「どういった実験を設計するのがいいか」ということよりも、「そもそもデータにアクセスできない」といったことのほうが多いんだよね。
データ分析よりも、データを収集する、または誰かが収集したデータにアクセスする、ということのほうがよっぽどむずかしい。
政府などの公的機関でも企業でも、基本的に「自分たちが集めたデータは秘密にして、ごくごく一部の情報だけ公開する」というやり方をとっている。
もちろんライバル会社に盗まれたら困るようなデータもあるけど、そうじゃないものまで必要以上に囲い込もうとするんだよね、みんな。「せっかくうちが集めたんだから(ライバルでなくても)他の会社に得をさせたくない」という意識。で、誰も使うことなくデータが腐敗してゆく。
まあ私企業の場合はしょうがないとしても、政府だとか行政機関は「基本的に公開、よほど問題のあるものだけ非公開」とすべきだとおもうんだけどね。いちばんデータを持っているくせにしっかり抱えこむ。
安全保障関連以外は全公開ぐらいでいいんじゃないのかね。官房機密費なんてもってのほか。
行政機関が正当な理由なくデータを公開しないのは罪、ぐらいにしてもらいたいものだ。不正防止にもなるし(不正が明るみに出ると困るから公開したくないのかもしれないが)。
データを公開した成功事例。
タクシー配送アプリのウーバーは積極的にデータを公開して、大学などの研究機関に分析をしてもらっているらしい。その結果、どういった料金プランにするのが利益を最大化するかという考察ができているらしい。
研究機関からしても、現実のデータが扱える、データ収集を代わりにやってもらえるなどのメリットがあるので、双方にとって得があるわけだ。
昔に比べればコンピュータの発達によってデータの蓄積や分析は格段に楽になり、オンラインでの行動分析とかだとデータ収集のコストもすごく低い。
ずっと大規模かつ効率的にデータ分析ができるようになったにもかかわらず、「なんか公開したくない」といった理由で解析は進まない。
どれだけ道具が発達しても結局ネックになるのは人間なんだよな。データ分析の結果、自分がやってきた仕事は無駄だったと突きつけられるのはイヤだもんね。
勤勉なイメージが強いドイツ人だが、たいへんバカンス好きな国民だという。旅行に使う時間もお金も日本よりずっと多いそうだ。
「旅行」をキーワードにドイツを紐といた本。とはいえ途中でネタが尽きたのか、後半はドイツの大学事情とか、東西での経済格差とか(2001年刊行なのでまだ東西ドイツ統合して10年ぐらいしかたっていない)、旅行と関係の話題が並ぶ。
ドイツで盛んなFKK(Freikörperkultur:裸体主義)について。
近代都市の発達、労働の長時間化、そして高緯度による日照時間の短さによって健康を損なう人が増え、その結果として生まれたのがFKK。ただ裸で闊歩するのが好きな人たちかとおもったらこんな切実な事情があったとは。
まあ全裸である必要はないとおもうが……。
ドイツでは(日本の労基署とちがって?)労働監督局が企業を厳しく監督している、という話。
20年以上たってやっと日本もこの頃のドイツに追いついてきた感じかな。
なるほど、これぐらいちゃんと労働監督局が仕事をすればこそ、国民の余暇時間も増え、レジャー産業が発達したわけだ。
ドイツ人は労働時間が短く、余暇にたっぷり時間をかけることができる……と聞くといいなあとおもうのだが、物事にはいい面もあれば悪い面もある。
ふうむ。人々の労働時間が減るということは、有償のサービスが低下するということでもある。
店舗の数は減り、サービス提供時間は短くなり、サービスの質は落ちることになる。
たとえば宅配便業者の働き方が改善されるのはいいことだけど、そうなると「値上げします」「荷物は雑に扱うけど許してね」「時間指定配達やめます」「再配達やめます」「個別配達やめます。各自が配送センターまで取りに来い」ってことになっていく。はたして我々はどこまで許容できるだろうか。
その世の中ではたしかに労働時間は短くなって自由時間は増えるけど、その自由時間は「宅配センターへ荷物を受け取りに行く時間」とか「遠くのスーパーまで買い物に行く時間」とか「自分で家の修理をしないといけない時間」とかに消えてゆくことになるわけで、それってはたして自由時間と言えるのだろうか。
なんなら会社に行っていつもやってる仕事をやってるほうがずっと楽なんじゃないだろうか。
労働時間の短い社会では"無償の仕事"が増えてしまう。
むむむ。人間は労働から逃れられないのか。結局のところ「自分だけ短時間労働でみんなは長時間労働」がいちばんいいんだよな。うーん、身勝手ー!!
オープンダイアローグとは、精神医療の手法で、当事者や家族や支援者が集まって「対話」を重ねることで問題解決や心の平安を目指すという手法だそうだ。
ぼくは幸いにして今のところ特に悩みも抱えていないし、悩みを抱えている人を支援するような立場にもないけど、良書だという噂を耳にして手に取ってみた。いつ困窮するかわからないしね。
精神科の診療といえば患者と医師の一対一、あるいは横に看護師がいるけど聞いているだけ、みたいなパターンが多いのではなかろうか(あんまり知らないけど)。
ただオープンダイアローグでは、患者の家族とか、医師以外の病院スタッフとか、場合によってはケアワーカーといった人たちも「対話」に参加するそうだ。
ふたりっきりで話すとどうしても「質問する人と答える人」みたいな形になってしまうけど、三人、四人になると「その場にはいるけどただ話を聞いているだけ」という人が出てくる。この人は対話に参加していないようで、その間に自分の考えをまとめたり、新しいアイディアを思いついたりする。これが重要なのだという。
たしかにね。親しい人でないかぎりは一対一で話すのはしんどいけど三人以上だとわりと楽、ってのは自分の体験をふりかえってみてもよくわかる(あんまり多いとそれはそれで疲れるけど)。
今のぼくにとって最大の関心事は、子どもとの接し方だ。
うちの長女は中学生。絶賛反抗期なので、こちらが言ったことに対して、喧嘩腰の返事がかえってきたりする。そうするとこちらもムッとしてしまい、言い争いのようになったりする。お互い怒鳴るような物言いになり、当然ながらそうなると建設的な話し合いなどできるはずがない。
「じっくり相手の話を聞く」ことが大事だとはわかっているのだけど、理解しているのと実践できるのはまたちがう。
この「たとえばペンとか縫いぐるみとか何かシンボルになるものを使って、それを持っている人だけが話すというルール」はなかなかいい案かもしれない。特に子どもが小さいときは。
案外、形で行動を縛るってのは有効だよね。
たとえばテレビの討論番組を見ていると、出演者がお互いの話をさえぎって持論を展開し、最終的には声のでかいやつ、厚かましいやつがその場を制す……なんてことが起こる。あれだって、マイクが一本だけあって司会者がマイクを回す形にしたらあんな不毛なことも起こらないとおもうのだが。
講談社ブルーバックス。
宇宙人とのファーストコンタクト(どうやってコミュニケーションをとるか、未知の言語をどう解読するか)的な話かとおもったら、その先の話、つまり宇宙人とコミュニケーションがとれるようになったときにどんな話をすればいいか、という本だった。うーん、ぼくが生きている間は使うことはなさそうだな(ファーストコンタクトもないだろうけど)。
要するに「地球以外の星や宇宙のことを知ろう」が内容なのだが、それだとあまりにとっつきにくいから「宇宙人と仲良くなるためには地球と他の惑星・衛星の違いを知っておかなくちゃいけないよね」という切り口で小説仕立てにしている本だ。
「日本と諸外国の地理的比較」だと難解だから「海外旅行の前に読む本」というタイトルをつけた、みたいな感じだね。
太陽の個数について。
ぼくらは太陽は1つだけだとおもっているけど、ぼくらのいる太陽系がたまたまそうなっているだけで、宇宙規模で見ると太陽が1つしかないのはむしろ少数派なのだという。2個、3個の恒星を持っている惑星のほうが多いそうだ。
太陽と月がそれぞれ1つしかないことがキリスト教、ユダヤ教、イスラム教など唯一神を信仰する宗教が多い理由ではないか……と著者は書いている(ただぼくはそれはちょっと無理があると思う。地球上にも複数の神を信じる文化はたくさんあるので)。
我々の暦は1つしかない太陽や月の見え方をベースにしているが、太陽が複数ある星ではまた別のカレンダーを使っているはず……という話はなかなかおもしろい。
別の銀河のカレンダーがどうなっているかなんて考えたこともなかったから(たぶんこの先も考えないだろう)。
そして100億年後の地球のカレンダーについて。
はっはっは。100億年後の心配はしなくて大丈夫だろう。どっちにしろ今のようなカレンダーは使っていまい。
動物の身体はほぼ左右対称であることがあたりまえだとおもっているけど、別に左右対称でなくてもいいわけだ。植物なんかは自由気ままに枝を伸ばしてるしな。
そういえば、自動車とか電車とかもみんなボディは左右対称だ。あれこそ非対象でも良さそうなものだけど。タイヤさえ対称形であれば他は非対象でもまっすぐ進むもんな。地球人が「動くものは左右対称でなければいけない」という思い込みにとらわれているせいかもしれない。
時計の針が右回りなのは、地球限定どころか、北半球限定の常識なのだ。南半球の日時計は逆回りだし、もっといえばもしも赤道直下の日時計が元になっていれば時計は円ではなく直線的な形をしていたはずだ。
我々が常識だとおもっていることがいかに地球限定、太陽系限定の常識にすぎないかということを思い知らされる。地球外生命体とふれあわないかぎりはそれで何の問題もないんだけど。
オフィスビルがあって、その三階にはA社だけが入居している、という場合がある。
そこそこ大きなビルであれば、フロアごとに自動販売機が置いてあって、そうなると三階の自動販売機を利用するのはほとんどA社の社員だけ、ということになる(来訪客とかが利用することもあるだろうが無視できるほど少ないものとする)。
自動販売機を管理している会社は、そこでどんな商品がどれだけ売れたか、というデータを持っているだろう。おそらくだけど、売れた時間帯なんかのデータも。
すると、自動販売機のデータからその会社の働き方が見えてくるはずだ。
たとえばこの会社は遅い時間にコーヒーがよく売れてるからブラックっぽい(コーヒーだけに)とか、あの会社は深夜2時にエナジードリンクがよく売れてるから激ヤバだとか、そういった分析ができる。
逆にお茶とか水とかがよく売れてる会社はわりと平和そうであんまりストレスがないのかなとか、お茶よりもコーラがよく売れてるから若い従業員が多いのかなとか。
就活をしている学生からすると、ホームページに掲載された「社員の働き方」なんかよりも自販機データとかの生の情報のほうがよっぽど参考になるだろう。就活情報サイトには自販機データも載せてほしい。
しかしそうすると本当に邪悪な会社では、対策として「エナジードリンクは別フロアで買うこと」なんてお達しが下るかもしれない。
いい本だった。実におもしろいノンフィクション。
この本を読むまで、落合博満という人に対してあまりいい感情を持っていなかった。ぼくがプロ野球を観るようになった頃にはすでに「球界でいちばん高い年俸をもらっているプレイヤー」だった。それも(ぼくから見れば)成績の割に高すぎる年俸をもらっている選手だった。
ぼくがプロ野球を観始めたのは1993年。当時の落合選手は中日ドラゴンズで四番を打ってはいたがホームラン数は20本前後。正直、四番としてはものたりなさすぎる成績だ。なのに年俸三億円という破格の給料をもらっていた。
その後、FAで読売ジャイアンツに移籍したことでぼくの印象はさらに悪くなった(アンチ巨人なので)。39歳、前年のホームラン数は17本。完全にピークを過ぎた選手なのに、年俸は四億円。なんでこんなに高く評価されてるんだ、とおもっていた。
後年、中日の監督になってからもあまり印象は良くなかった。その頃にはぼくはあまりプロ野球を観なくなっていたのだが、「日本シリーズで8回まで完全試合をやっていた山井を交代させた監督」という印象だけが残っている。
そんなこんなで、落合博満という人物に対するぼくの印象は「金に汚い非情な人」という印象だ。たしか契約更改でも毎回交渉が長引いていた。
(ただし「高い年俸をもらう」ことに関しては決して悪いことばかりでもないよな、ともおもう。トッププレイヤーが高い給料をもらうことで他の選手も「落合さんがあの成績であれだけもらっているんだったらおれももっと上げてくれ」と交渉しやすくなるので、選手全体の待遇改善に貢献している部分もある)
監督としての落合氏の実績は圧倒的だ。
落合氏がドラゴンズの監督を務めたのは2004年から2011年までの8年間。その9年間で、リーグ優勝4回、2位3回、3位1回。すべてAクラス(3位以上)。日本シリーズには5回出場して2007年には日本一にも輝いている(球団53年ぶりの日本一だ)。
ちなみに落合氏退任後の2012年以降のドラゴンズの成績は2位→4位→4位→5位→6位と絵に描いたような転落をたどり、退任後の14年間で優勝は0回、Aクラスになったのも2回だけとすっかり弱小チームになってしまった(現時点で2026年もリーグ最下位だ)。いかに落合監督時代が強かったがわかる。
だが落合監督は、親会社やファンから愛されなかった。選手やコーチの中にも監督のやり方に不満を漏らすものが少なくなかった。2011年のシーズンを最後に契約を打ち切られることとなる。
なお、契約打ち切り直前の3シーズンのリーグ成績は2位→1位→1位である。こんなに好成績を残して切られた監督はそうはいない(リーグ5連覇を果たしてそのまま辞めた西武・森監督もいるが)。
うーん……。「勝てば客は来る。たとえグッズか何かをくれたって、毎日負けている球団を観に行くか? 俺なら負ける試合は観に行かない」これは正しくないとおもうなあ。落合さんはずっと選手・監督としてプロ野球の世界に生きてきた人だから勝利至上主義になるのは当然だが(そしてそれは決して悪いことではないのだが)、ファンからすると強いだけが愛される条件ではないんだよな。勝利だけを求めて球場に足を運ぶファンはむしろ少数派で、球場の雰囲気が楽しいとか、選手が身近に感じられるとか、スター選手を生で観られるとか、そういう要素のほうがずっと大事だ。
ただ落合さんにファンサービスをしろというのも無茶な話で、問題は監督に「勝利」と「ファンサービス」と「人件費削減」というときに相反する課題をいっぺんに押しつけようとした球団にある。
あくまで監督には勝利だけを追い求めさせ、ファンサービスの面は別の誰かをCMO(最高マーケティング責任者)とかに据えて任せるべきだとおもうのだが。
単なるプロ野球の話にとどまらず、組織論、リーダー論として読んでもすごくおもしろい。
多くのプロ野球の監督は、やっていることは少年野球の監督、野球部の顧問とそんなに変わらない。グラウンドの外でも選手たちの行動に口を出し、礼儀を教えたり、人生を語ったり、ときには暴力をもって指導したり(最近はそういう人は多くないが)。言ってみれば“指導者”だ。
だが落合監督は指導者にはなろうとしなかった。あくまで監督。成長するのは選手自身。選手の能力を冷静に見極めて、勝つために必要な選手を試合で起用する。求められればアドバイスはするが、基本的には教えない。必要なのは「言われたことに従う選手」ではなく「勝つために必要な選手」。そのために何をどうやって身につければいいかは選手が自分で考える。
理想を言えば、落合監督のやりかたのほうがいいとおもう。言われた通りに動く選手ばかりのチームよりも、全員が勝利のために何が必要かを考えて己を律するチームの方が強いだろう。状況の変化にも対応できるし、なんなら監督が代わっても強いはずだ。
でもそれはあくまで理想の話だ。みんながみんな落合監督のように考えて動けるはずがない。まして(ぼくの勝手なイメージもあるが)野球選手なんて「上の言うことは絶対」の世界である野球部で生きてきた人たち。急に「自分の数字を上げることだけを考えろ。チームのことなんて考えなくていい」と言われたってなかなか切り替えられないだろう(ちなみに落合博満氏は高校野球部は体質が合わずサボってばかり→大学野球部も古いやり方についていけず退部というプロ野球選手としては超異色の経歴を持っている。この経歴が独特の思想を作りあげたのだろう)。
落合監督のやり方は正しい。でもそれがうまくいくのはすべての選手が(技術だけでなく精神面でも)超一流だった場合だけだ。実現しなかったが落合氏がWBC日本代表監督になっていたらすごくいいチームを作っていたかもしれない。
プロの選手になっても「指示してくれないとわからないよ」「細かく指導してほしいよ」というアマチュア精神の持ち主も多いから、落合監督のやり方は全員に支持されたわけではない。ただ、少なからず理解している選手・コーチもいたことが『嫌われた監督』には書かれている。
落合監督退任後も彼らがそのマインドを継承させていけば中日ドラゴンズはずっと強いチームでいられたはず。……だがそうならなかったのは先ほど書いた通り。監督交代後は平均以下のチームになってしまった(監督だけの責任ではないにせよ)。
一流の組織をつくるのはむずかしいが、それを維持するのはもっとむずかしいのかもしれない。
落合博満という人はつくづく天才だったんだな、とおもう。もちろん選手としても超一流だったが、それは単に身体能力が高かったからではないとこの本を読むとわかる。
他の人には気づかない観察眼、既存の常識にとらわれない野球理論など、とにかく指揮官としても天才的だったのだとわかる。
ある選手の守備範囲がわずかに狭くなったことに気づき、別の選手のエラー数が多いのは守備範囲が広いから(他の選手なら追いつきもしない打球に追いつけるからこそのエラー)だと見抜く。しかも選手やコーチですら気付かないのに。
落合監督が嫌われたのは、その“発見”を逐一説明しなかったからだ。説明することで選手の考える機会を奪うからというのもあるだろうし、天才だからこそ己の考えが周囲から理解されないことを知っていたかもしれない。
他の選手・コーチ・監督と見ている景色がちがったんだろうな。
Amazon Primeにて鑑賞。
タイトルと画像でほのぼのアニマルコメディかとおもって観たのだが、これがなかなか、いやかなり見ごたえのある本格ミステリ映画だった。
たったひとりで多くの羊たちと暮らしている牧場主のジョージ。彼は偏屈で人付き合いはうまくないようだが、羊たちのことは深く愛し、毎晩羊たちにミステリ小説を読み聞かせてやるほどだった。
ある日、ジョージが牧場で変死。付近には殺人事件の痕跡。羊たち(人間の言葉を理解できる)は真相解明のため捜査に乗りだす。
一方、ジョージの弁護士によって彼には多額の財産があったことがわかる。遺言書には養子に出されアメリカで暮らす娘が相続すると書いてある。だが遺言書はつい最近書き換えられたばかり。おまけに娘は事件直前にたまたまアメリカからやってきたところ。はたしてかぎりなく黒に近い娘なのか、それとも別の人物なのか。遺言書の中で示唆されている「二人の殺し屋、善き羊飼い、悪い羊飼い、マヌケ、春生まれの羊、冬生まれの羊」とはそれぞれいったい誰のことなのか……。
(以下、ちょっとネタバレを含みます)
羊たちを主人公にしたコメディ映画でありながら、ミステリとしてはきわめて王道なのがすばらしい。事件の内容は観客に十分に語られ、容疑者、事件の動機もしっかりと、しかしさりげなく提示される。ヒントの分量も申し分なく、ちゃんと推理すれば真犯人にたどりつけるようになっている。そして真犯人は絶妙にちょうどいい人物。登場シーンは多く、それでいて意外な人物。
ミステリとしてきわめてフェアだ(真犯人にたどりつく“色”はちょっと無理があるが……)。
特に感心したのが序盤の「文化フェスティバル」のシーン。コメディパートなのだが、この映画においてすごく効果的な役割を果たしている。「文化フェスティバル」のせいでまんまと騙されるんだよね。
ミステリとして優れているが、ヒューマン(羊だけど)ドラマとしてもよくできている。最初は何も考えていないように見えた羊たちの心の動きにだんだん共感できるようになってくる。そして死んだ後で見えてくるジョージの人間性。
映像はおもしろく、ミステリとしてよくできていて、登場人物たちの心の動きや成長もしっかり描いている(それでいてくどくない)。
いい映画だった。とにかく羊に対する愛がびんびんと伝わってくるぜ。
ぼくにとっては「テレビでたまに見る、変なメガネのよくわかんないけど賢そうな人」というイメージしかなかった成田悠輔さんによる、未来の資本主義の展望。
まず率直な感想を書くと、すごくわかりづらい。
でもこれは「わかりやすく書くことに失敗している」のではなく「わざとわかりにくく書いてる」からだとおもう。わざと既存の常識から飛び出そうと書いている、そんな感じだ。誰にでもわかるように書こうとおもったら、常識的なことしか書けない。
「わかりやすい文章」で5年後のことは書けても、100年後のことは書けない。現代の経済がどうなっているかを100年前の人に説明してもちっとも伝わらないのと同じように。
ということでぼくは早々にこの本に書かれていることをきっちり理解することはあきらめ、一部だけでもわかればいいやという気持ちで読むことにした。
意外だった事実。
インターネットによって通信の速度は飛躍的に上がり、我々の連絡方法は大きく変わった。海外に文書を送ろうとおもったら1週間かかっていたのが、今だと1秒だ。
当然、生産性は飛躍的に向上した……と思いこんでいたのだが、どうやらそうではなかったらしい。まるで生産性は向上していない。
言われてみれば、ぼくらはインターネットによって大きな恩恵を受けているが、インターネットによって失ったものも大きい。SNSは人々の時間を奪うが、そのほとんどは無為に消えてゆく。かつては新聞や読書にあてていた時間がショート動画に溶ける。しかも、得るものがないだけならまだマシで、デマの拡散など生産性ゼロどころかマイナスの現象も多発している。
インターネット、スマホ、SNS、動画サイト……。いずれもひまつぶしの手段としては有用だが、人類の発展に貢献しているかというとちょっと微妙なところだ。
「お金の必要性が少なくなる」という大胆な提言も。
物心ついたときから貨幣経済の中で生きてきたから「お金はなぜあるのか」なんて意識したことがなかった。教科書的には「物々交換をするのは不便なので、持ち運びやすくて保存が利いて好感しやすい貨幣が使われるようになった」という説明が正しいのかもしれないけど、それだけではお金の意義を正しく表していない。
たとえばお金は使わなくても価値がある。往々にして「お金を持っている」ということ自体が価値を生む(反感を買うというマイナスの価値を生むこともある)。お金を持っている、お金を持っていそう、将来的にお金を稼ぎそう。それだけのことが重要な意味を持つ。「物々交換の代替手段」では説明がつかない現象だ。
「実態と記録のズレを埋める装置としてのお金」という表現は、たしかにお金の一面を正しく言い当てている。
あの人はお金を持っているから、人から必要とされる仕事をやってきたのだろう、きっと能力の高い人なんだろう、という判断材料になる。高級車とか高級ブランドの服とかは、お金を使ったという証明であり、お金を使ったということはお金を持っていることの証明であり、お金を持っていることは能力が高いことや仕事をしてきたことの証明である。多くの人がそういうルールに従って生きている。
だがその人の遍歴がすべてデジタル世界に記録される社会になれば(事実なりつつある)、お金を介さなくてもその人がどんな人かわかる。財布には現金が入ってないしユニクロの服を着ているけれど、多くの人から必要とされている人だということがデジタル世界の記録を見ればすぐわかる。この人なら信用できるし、低利子で金を貸してもいい。
こういう世界になれば「金を持っていることをアピールするために使う金」が無意味になる。あいつブランド品で身を固めてるけどぜんぜん稼いでないじゃん、あいつ金は持ってるけど実家が金持ちなだけであいつ自身には何の能力もないじゃん、とばれてしまうから。
個人的には、そんな世の中のほうが健全だとおもう。必要とするモノを手に入れるための交換手段という貨幣本来の役割が再び強くなるのだ。
そしてその先にあるのは、経済を測れなくした社会。
わたしが欲している魚と、あなたが欲しているサンダルはどちらがより必要性があるのだろうか? もちろん比べようがない。だからとりあえず値段をつけて、同一の尺度で比較できるようにしている。
しかしわたしに関するデータとあなたに関するデータと魚のデータとサンダルのデータが十分にあれば、同一の尺度など必要ないのではないか、ということだろうか。
正直このへんの話になるとぼくにはもうついていけなかったが……。
仕事で日本に住むことになったアメリカ人が語る、日本文化論。
この手の「外国人が見た日本」本は大好きでたいていおもしろい。なので古本屋で見つけて買ってみたのだが、これはちょっとはずれだった。
理由のひとつは、あまりに古いこと。著者が日本にやってきたのが1970年。本の刊行が1975年。50年以上前。「日本人は往来で立小便をする」なんて書いてあるけど、さすがに今はそんな人はほぼ見ない。日米の文化比較というより、新旧の文化比較になってしまっている。これは50年もたってから手に取ったぼくのせいなんだけど……。
もうひとつは、著者が日本どころかアメリカ以外の国を知らないこと。日本に来て困ったことに「英語が通じないこと」とか書いている。そりゃそうだろ。日本人からすると外国に行ったら母国語が通じないのは当然なのに、アメリカ人にとってはそうでないらしい。これだから英語圏の人間は……。
文章がユーモアに満ちていて、そこはおもしろかったけどね。
「日本にかぎらずアメリカ以外はどこもそうだろって話」「著者の身の周りの人たちの話」が多く、日本論として読める箇所はそう多くない。
選挙カーや街宣車は言うまでもなく、駅や電車・バスのアナウンスなど、日本は音声案内が多いと言われる。たしかにそうだよね。外国の交通機関では停車直前に「Next stop is ○○」と流すぐらい。日本だと音声案内が多すぎて、逆にどれが大事な情報かわかりづらい。
著者は「英語でもアナウンスしているが日本版に比べてすごく短い。我々にだけ大事な情報が伝えられていないのではないかと不安になる」と書いている。その気持ちはわかる。でも大丈夫、カットされているのは「××の治療ならおまかせ、○○クリニックをご利用の方は次が便利です」といったどうでもいい情報だから。日本人だって聞いてないから。
日本の生活に慣れた(といっても5年ぐらい)著者がひさしぶりにアメリカに帰ったときの話。
へえ。アメリカ人ってそんなにあいづちを打たないんだ。言われてみればそうかも。今度洋画を観るときはあいづちに注目してみよう。
うん、まあおもしろかった。映像はすごいし(でもすごすぎて、まるで実写映画を観ているようで、かえって驚きを感じなくなってしまった)。
ストーリーも『4』に比べればぜんぜんいい。まあ『4』は大失敗作なので(ぼくは記憶から消してなかったことにしている)、それと比べればどんなものでもマシなんだけど。
でもなあ。やっぱり『3』で終わりで良かったな、とおもう。続編をつくるとしても、登場人物を全部入れ替えて別のおもちゃの物語にしていれば良かったのに。
ここから愚痴。
『4』で子どもを捨てて出ていったウッディを『5』で無理やり登場させたが、これはファンサービスでしかなく、出てくる必然性は何もない。ウッディが古くなったという設定もすでに『2』で通りすぎた話題だ(ハゲをギャグにするのはさすがに古すぎないか?)。
オールドファンに向けて昔のようなウッディとバズの関係性を描きたかったのだろうが、ウッディとバズに今さら喧嘩をさせるのもしらじらしい。もうそんな段階はとっくに過ぎただろう。まして勝手に出ていったウッディがえらそうに仕切りだす正当性がどこにあるんだ?
もうウッディのことは忘れて新しい一歩を踏み出してもいいんじゃない?(ていうかその覚悟がないくせに『4』みたいなのを作るなよ) 唐沢寿明のお声もだいぶ歳をとっていたし。
『3』までの3作は完璧だったし、その中であらゆる展開をやりつくしてしまった。主役の座を奪われる、置いていかれる、売られそうになる、盗まれる、捨てられる、寄付される。『おもちゃにとって何がいちばん幸福なことか』というテーマを3作かけてじっくり問いつづけ、これ以上ないという答えを提示してしまった。
その後でどれだけピンチが訪れても、おもちゃたちが悩んでも、全部『3』までの焼き直しでしかないし、それでもまだ現状に不満を示すなら「じゃあサニーサイド保育園に行けばいいじゃない」としか言いようがない。
『3』で「保育園でずっと子どもたちの遊び相手として生きる」「いつか遊んでもらえなくなるとしても、今、子どもにとっての親友として生きる」という究極の二択を提示してしまった以上、それ以外の道を選ぶ理由がない(だからそれ以外の道を選んだ『4』は失敗作だった)。
おもちゃの幸福と葛藤、というテーマについてやりつくしてしまったからだろう、『5』は人間の話が大きな部分を占める。
「子どもに、タブレットなどのデジタルデバイスをどのように扱わせるか」というのがメインの(そして陳腐な)テーマだが、それっておもちゃが心配することじゃないよね。保護者が考えることだ。おもちゃが教育方針にまで口を出すのは出しゃばりすぎ。
実際ボニーはタブレットのチャットが原因でトラブルを引き起こすのだが、これは保護者が注意深く管理していれば防げたことで、『トイ・ストーリー』という装置を使って描くべきテーマとはおもえない。本来なら人間が人間に向けて言うべきことをおもちゃの口を借りて言わせているだけなので、説教くさいことこの上ない。
やるとしても『インサイド・ヘッド』あたりで良かったのでは。
そしてやっぱりぼくはボニーを好きになれない。『4』でもおもちゃを大事にしていない様子がありありと描かれていたが、『5』でもあっさりとおもちゃたちを裏切る。
世間体を気にしておもちゃを手放そうとするボニー(しかもそれはアンディから託されたおもちゃ)。持ち主がこれでは、おもちゃとの間の信頼関係など築けるはずがない。もうこいつアンディとの約束なんて覚えてもいないんだろうな。嫌いだわー。
アンディはおもちゃを託す相手をまちがえたな。ボニーに比べれば『1』のシドのほうがまだおもちゃを愛してるぜ(愛の形は歪んでるけど)。
ただ、『2』からずっとしこりのように残っていたジェシーとエミリーの物語に結着がついたシーンは本当によかった。
8歳の娘といっしょに鑑賞したのだが、娘は中盤ちょっと飽きていた。でもその気持ちはわかる。視点があっちこっち行くのでむずかしいんだもん。
「ボニー」「ジェシー」「バズたち」「ウッディたち」「ハイテクバズ軍団」と、それぞれのシーンが目まぐるしく変わる。ぼくは大人だし前作までの内容も頭に入っているから(『4』の内容は記憶から消去したけど)ついていけたけど、子どもには追いきれないよね。
過去作ではシーンの切り替えは少なかった。『1』で言うと「2階と1階」「ウッディ&バズとその他のおもちゃ」ぐらい。『2』『3』も多くてせいぜい3シーンまで。
これは意識的にやっていたんだろう。なるべくストーリー展開をシンプルにして、メインターゲットの子どもにも十分ついていけるようにしていた(時系列をさかのぼるシーンも極力なくしていた)。なぜなら、おもちゃで空想の世界にふける子どもたちは「数多くのシーンの切り替え」「時系列をさかのぼるストーリー展開」なんて考えてないのだから。幼少期におもちゃで遊んでいた気持ちを思い出させてくれる感覚が『3』にはあったが、こういった配慮が『4』以降失われた。監督の交代によるものだろうか。
おもちゃに向けるあたたかい目を失ってしまったのは、はたしてエミリーやボニーだけなんだろうか。制作陣もまた子ども心を忘れてしまったんじゃないだろうか。
制作陣に問いたい。あんたたちこそデジタル端末の使いすぎでは?
桐野夏生氏のデビュー作。デビュー作だなあ、という感じ。力の入れ方は伝わってくるが、技術が十分備わっていなくて空回りしている感じが。
肩に力が入りすぎなんだよな。いっぱい調べていっぱい考えて書いたんだろうけど、それが伝わってしまう。もっとさらっと、なんでもないことのように提示してほしい。勝手な要望だけど。
たぶん、女性を主人公にしたハードボイルド小説を書きたかったんだろうな。だから必要以上につっぱってる女性が主人公。いやそこまで無理してかっこつけんでも、という気になる。なんか「めちゃくちゃがんばって都会で強く生きる女性」って感じで、かっこいいどころか痛々しい。
たとえば後の桐野夏生作品である『OUT』に出てくる女性は、もっとワイルドでありながら、もっと自然体だ。なんでもないことのように大胆な犯罪をやってのける。カッコイイとは、こういうことさ。
まあこの青さもデビュー作の魅力と言えるかもしれないが。
(以下ネタバレを含みます)
ストーリーも退屈だった。
序盤で「主人公の親友が1億円の金とともに失踪した」という謎が提示されるが、どうも弱い。
だって「大金に目がくらんで持ち逃げしちゃいました」ではミステリにならないことを読者は知ってるんだから。なんらかの事件に巻き込まれたことは容易に想像がつく。
だから早くその「なんらかの事件」を見せてほしいのだが、それがなかなか書かれない。半分ぐらいは、ただいなくなった女の足跡を追うシーン。登場人物も多いしたっぷりページ数を割いているが、何も起こらなくて退屈。ここはもっとテンポよく書いてほしかったなあ。
中盤でやっと“事件”が見えてくるが「ああこれが真相ではないんだろうな」というにおいがプンプン。明かされる真犯人もさして意外な人物ではない。というか大本命。いちばん身近な人物が犯人ってベタベタじゃん。
まあこれは2026年に読んだからであって、刊行された1993年当時は十分意外だったのかもしれないけど……。
ボディ・モディフィケーション(身体改造)、ネオナチ、ヤクザ、夫の自殺、不倫など刺激的な要素をこれでもかと詰め込んでいるけど、正直あんまり効果を発揮しているとはおもえない。なくてもミステリとして成立してるし。
いろんな意味でデビュー作だなあ、という作品でした。
食べものを入口に、現代社会、主に資本主義について語る本。
今まで経済の本はあれこれ読んだけど、どうも腑に落ちないところがあった。
需要曲線とかを見ながら「こうやって価格が決定するんです」と言われると、
「うーん、確かに理論的な説明だけど、まちがってないんだろうけど、でも核心はついていないような気がする」という気になった。
だってほとんどの場合、ものの価格って売り手の都合で決まってるじゃん。たとえばいっときコメの価格がすごく上がったけど、それってほんとに受給の綱引きによるもの? 日本人がコメを食べる量は数ヶ月でそんなに変わるわけない。ってことは供給が減ったということになるわけだけど、ほんとにそこまで減ったの? そんなに記録的不作なら、もっと早い段階で「コメが大不作!」とニュースになったはず。 でも収穫量減少は話題にならなくて、あるときから急に価格高騰が話題になった。
ほんとに需要と供給で価格が決まってるの?
『食べものから学ぶ現代社会』では、経済学の教科書とはちがう、より現実的な経済の動きが説明されている。
小麦の取引のうち9割が「小麦をほしい人」ではなく「小麦の価格差を利用して儲けたい人」によっておこなわれているというのだ。
はーん。まあ江戸時代からコメ相場とかアズキ相場とかはあったので、マネーゲームとして食糧を売買する人は昔からいた(取引量が増えると流動性が増して価格の安定につながるというメリットもあるそうだ)。
でも昔は、基本は農家と問屋の売買で、そこにちょっと仕手筋が乗っかるぐらいだったのだが、今では逆に「生産者と流通業者はごく一部で、そこに大量の仕手筋が乗っかる」という構造になってしまった。
そりゃコメ価格も暴騰するはずだ。生産量が5%減っただけでも「今年はコメが少ないから値上がりするはず!」と大勢の投機筋が群がってくるわけだから、あっという間に価格は倍になってしまう。先物取引であれば実際にコメを貯蔵する必要もないからどれだけでも買えるしね。
まだ株とか金とかであれば価格が何倍になろうと庶民の生活には直接かかわらないからいいんだけど、金持ちのマネーゲームのせいで食料品の価格が乱高下するのは困る。
食料とか土地とかの取引はちゃんと法律で規制してほしいな。投機目的の取引には高い税金をかけるとかさ。
食料が「金融商品」になってしまった結果、食料の流通や価格は大企業が決定するようになってしまった。いちばん報われるべき生産者にはほとんどお金が入ってこない。
200円のバナナが売れても、バナナ農園で働く労働者に入ってくるのはたったの3円(1.5%)!
そりゃあ輸送したり仕入れて卸したり店頭で売ったりするのも大事だけど、さすがに生産者に1.5%しか入らないのはおかしい。かといって消費者としては価格は安いにこしたことがないので「じゃああなたが300円で買ってください」って言われても困るんだけど……。
経済学の教科書だと「売り手と買い手の綱引きによって価格が決定する」とあるけど、実際のところ貿易の大部分を握っているのは売り手でも買い手でもなく中間業者なわけだ。しかもその中間業者も税金対策で入っていたり。
こんな状態で「自由な競争に基づく適正価格」なんてつくはずがない!
ただ問題なのは「大企業が悪いせいだ!」と単純化できる話でもないってことだ。
よく派遣の話になると思考停止して「派遣会社がピンハネするのが悪い!」と叫んで終わり、って人がいるけど、世の中はそんなに単純なものではない。たったひとつの原因と明確な悪人がいてそいつを退治すればすべてが丸く収まるのはおとぎ話だけだ。
バナナ農園で働く労働者も、農場主も、流通を握っている大企業も、小売のスーパーも、バナナを買う消費者も、みんな悪くない。誰もが社会のルールにのっとって行動して「損をしないように」ふるまっている。その結果「バナナを作っている人に売上の1.5%しか入らない」というずいぶんおかしなことになってしまう。
これがぼくらの生きる資本主義社会のシステムなのだ。システムがまちがっているのか? それとも「バナナを作っている人に売上の1.5%しか入らない」と考えるぼくらのほうがまちがっているのか?
結局この本を読んでも「私たちを動かす資本主義のカラクリ」はよくわからなかった。でもそれでいいとおもう。資本主義のカラクリだなんて複雑でむずかしいものを、本一冊読んだぐらいでわかったら嘘だろう。たぶん誰にもわからない。
わからないことをちゃんとわからないままに提示できるのは、誠実でいい書き手だ。バカは単純明快な答えを求めるけど、わからないものをわからないもの受け止められるのが知性だ。
とりあえずわかるのは「市場のメカニズム」なんてのは現実とはほど遠い論理だってこと。わかりやすい説明に飛びつかないようにしなくちゃね。