2050年1月1日土曜日

犬犬工作所について

読書感想文を書いたり、エッセイを書いたりしています(読書感想文 五段)。



読書感想文は随時追加中……

 読書感想文リスト



2026年3月13日金曜日

22世紀の道具と21世紀の道具

 ドラえもんの道具ってすごく危険だよね。

 これ使いようによっては大けがするぞとか、死んでもおかしくないぞとかいうものもあるし、もっといえばこれ下手したら人類滅亡させちゃうじゃん、地球消滅しちゃうじゃん、みたいな道具もある。

 こんな危険なものを勝手に使ってたら22世紀の世の中はめちゃくちゃになっちゃうぞ、と心配してしまう。


 まあ漫画だから。しょせんまだ見ぬ22世紀の話だから。


 じゃあ。

 21世紀の我々が使っている道具ははたしてそんなに安全なんだろうか。

 たとえば自動車。使いようによっては自分や他人の命をかんたんに奪ってしまう。

 たとえばインターネット、たとえばスマホ。使いようによっちゃあ国がひっくりかえるほどの影響を与えることもできる。

 数世紀前の人間が21世紀の道具を見たら「そんな危ないものをそのへんの人たちがあたりまえに使ってて大丈夫なのか!?」とびっくりするかもね。



2026年3月11日水曜日

小ネタ47(関 / Eテレ VS 五輪 / カンタ VS サツキ)


「大の里関」のように、関取は「関」をつけて呼ぶ。

 こんなふうに特定の職業にだけつく敬称って他にあるのだろうか(〇〇大臣、〇〇名人、〇〇師匠のように肩書そのままの敬称を除く)。


Eテレ VS 五輪

 朝はEテレの子ども番組を観ている。平和な気持ちで一日をスタートできるからだ。

 だがオリンピックのフィギュアスケートのせいで番組がつぶれた。『みんなのうた』も『プチプチ・アニメ』も『ピタゴラスイッチ』も『0655』も『The Wakey Show』も。

 競技のせいで番組がつぶれるのはまだ許そう。だが競技が終わって結果が出た後も、リプレイとか選手が喜んでいる様子とかを長々と放送して、そのせいでいくつかの番組がつぶれた。そういうのは生で放送する必要がないだろ! 夜のニュースとかに回せ! それかBSでやれ! それも無理なら総合でやれ! Eテレは聖域であれ!


カンタ VS サツキ

サツキに面倒な雑務を押しつけるカンタ

「……ん! ……んっ!」





2026年3月9日月曜日

【読書感想文】東田 大志『パズル学入門 パズルで愛を伝えよう』 / パズルで告白してはいけない

パズル学入門

パズルで愛を伝えよう

東田 大志

内容(e-honより)
「ビラがパズルの人」として注目を集める気鋭のパズル研究者による画期的な一冊。パズルとは何か?世界で最も古いパズルは?パズルにはどんな種類があるの?時代の最先端をいく最新パズルとは?などなど、さまざまな角度からパズルの魅力に迫ります。パズルの作り方も伝授、著者作成のオリジナルパズルも満載です。

 パズル愛好家・パズル作家によるパズルの入門書。

 前半は、パズルの定義、パズルの歴史、世界の各種パズルなど「パズルとは何か」に関する説明。正直、ここはなくてもよかったんじゃないかなあ。この本を手に取るのはほぼパズル好きだけだろうから、「パズルの魅力とは」みたいなことにページを割く必要ないとおもうんだよね。

 ぼくも30年以上総合パズル雑誌『ニコリ』の愛読者をやっているほどのパズル好きだけど、「パズルをやると脳が鍛えられる。これからの時代を生き抜くための問題解決能力がパズルによって……」とか言われると「うっせええええ! パズルはおもしろい、おもしろいからパズルをやる、それ以上の理由があるかあああ!」と言いたくなる。

 いやほんと「パズルをやる理由」なんて「おもしろいから」しかない。他は全部後付けの理由だ。「おもしろいとはおもわないけどこれからの時代を生き抜く力を養うためにパズルをやろう」と考える人間がパズルを続けられるはずがない。



 おもしろかったのは著者のパズル偏愛エピソード。

 恥ずかしい話ですが、わたしはパズルを作るようになって間もない高校生のとき、クロスワードパズルで好きな女の子に告白しようとしたことがあります。そのクロスワードパズルは、解き終わると対角線上に「ツキアツテクダサイ」という文字が並ぶはずでした。しかし、実際に出題してみたところ、難しすぎたのか「解けない」と返ってきました。改めて告白する勇気もなく、結局告白は失敗に終わってしまいました。今ならもっと「愛」のあるパズルを作れる自信があるので、相手が解けないなんてことはないだろうに、と思います。付き合ってもらえるかどうかは置いといて。

 ふはは。若い頃ってこういうことやっちゃうよなあ。

 そういやぼくも仲の良かった女の子にパズルの本をあげたなあ。あれも今おもうと「パズル好きであるぼくのことをもっとよく知ってもらいたい」という気持ちの表れだったんだろうなあ。

 パズルで告白って、相手もパズル好きでないかぎりは絶対に不正解だとおもうんだけど、若い頃ってこういう間違いをしちゃうんだよなあ。パズルは解けるのに。



 中盤からはやっと自作パズルの紹介やパズルの作り方の解説になるけど、とにかく文量がものたりない。パズルを解きたいならふつうにパズル本を買った方がいい。

 パズルを好きじゃない人が手に取るような本じゃないし、パズル好きにはものたりない。どっちつかずで誰にも刺さらない内容になっている。

 岩波ジュニア新書だからしょうがないか。


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2026年3月6日金曜日

アイドル進化論


会いたくても会えないアイドル

会いに行けるアイドル

日常的に会えるアイドル

会いに来てくれるアイドル

また会いに来るアイドル

押しかけて来るアイドル

なかなか帰らないアイドル

居座るアイドル

居つくアイドル

出ていってほしいアイドル

こうなったらもう消すしかないアイドル

消されたアイドル

失ってはじめて存在の大きさを感じるアイドル

どれだけ嘆いてももう還ってこないアイドル

会いたくても会えないアイドル


2026年3月5日木曜日

【読書感想文】香川 知晶『命は誰のものか』 / 臓器税を作ったらいいのに

命は誰のものか

増補改訂版

香川 知晶

内容(e-honより)
現在、人間の生命をめぐって、どのような問題が生まれ、どのような議論があり、なにが問われているのか。問題は、さまざまな価値の大本にあるわたしたちの命にかかわっている。そこには、現在の社会が直面している課題が典型的に示されている。

 医療リソースが逼迫しているときのトリアージ(救う順番を決めること)、出生前診断、体外受精、尊厳死、臓器移植などの医療倫理についての歴史や議論を紹介する本。

 教科書のように浅く広く中立的に紹介しているので、あれこれ書いて結局何が言いたいねん、みたいな着地をしていることが多い。

 またあれこれ議論をめぐらさた挙句、現実離れした結論に至っていることもある。たとえばトリアージの項で、締めくくりが「そもそも医療リソースが逼迫しないようにすることが重要だ」的なことが書いてある。それって「お金がないから食費を削るか外出を控えるか娯楽費を削るか」って話をしてるときに「年収を倍にすれば解決するよ」って言ってるようなものじゃないか!



 関心を持ったのは、第三章『あなたは、生まれてきた子に重い障がいがあったとしたら、治療に同意しますか? そのまま死なせますか?───障がい新生児の治療停止』。

 ぼくも子どもが生まれるときはこのへんのことを心配したから、親の苦悩もわかる。

 ダウン症という異常は時代や地域にかかわらず一定の割合で起こる。当然、ジョンズ・ホプキンス・ケースと同じ問題は、日本でも起こることになる。そうした日本での事例を、ジャーナリストの斎藤茂男さんが一九八五年に『生命かがやく日のために』(共同通信社)にまとめて、報告している。
 話は、ある総合病院の看護師が、匿名で通信社にあてて書いた投書から始められている。投書は、その人が勤務している新生児室で誕生した赤ちゃんが、親の手術拒否で点滴だけで命を保っていることを告げていた。早産で生まれた新生児は、ダウン症で腸閉塞の合併症をもっていた。何とかして手術を受けさせ、命を救う手だてはないのだろうかと投書は訴えていた。

(中略)

 まず届いた反響の多くは、新生児の救命を願う立場からのものだった。そうした投書には、ダウン症児をもつ親たちが障がいをもつ子も人間として生きていることを心から実感しながら子育てをしている喜びが素直につづられていた。いずれも赤ちゃんの命が一刻も早く助けられるようにと祈っていた。手術を求める署名簿が添えられた投書もあった。
 そうしたところに、通信社には、第三者がよけいな口をはさむな、他人に何がわかるのか、重度のダウン症の者を家族にもって何度死のうと思ったことかという手紙が舞い込む。この投書が届いたあたりから、反響の内容は大きく変化していく。
 決定的だったのは、「私はその赤ちゃんはひっそり抹殺したほうがいいとおもう」という「病気のためにチエ遅れ」になったという障がい者自身からの投書だった。こうして、投書には、最初のころとはまったく逆に、障がい者とその家族をとりまく残酷な現実を語り、親の手術拒否に賛成するものが増えることになる。いずれも、読むものの胸を突く、重い内容をもつものだ。

 ダウン症の赤ちゃんが生まれた。腸閉塞の症状を持っていた。治療すれば助かる可能性が高い。だが親は治療拒否(そのまま死なせる)道を選んだ。

 むずかしい問題だ。積極的に手を下す(殺す)のはもちろん犯罪だが、「手術をさせない」は犯罪ではない。法ではなく倫理の問題だ。

 正直、どっちの気持ちもわかる。自分が親の立場だったら悩むとおもう。そりゃあ道徳的には「赤ちゃんの命が一刻も早く助けられるように」がタダシイ意見だろう。でもそれは無関係な人の無責任な意見だ。「新生児の救命を願う」手紙を書いた人たちは、その子のために何もしてくれない。子育てを代わってくれるわけじゃない。「すべての命は等しく尊い」と言うのはタダだ。

「手術を拒否する」という決断をした親を、無責任な親だということはできない。深く悩んだ末に決断を下し、「子どもを見殺しにした」という十字架を背負って生きていく覚悟をしたのだ。そんな人を高い所から非難することはできない。

 障害を持った子を育てるのはそうでない子を育てるのより負担が大きいことはまぎれもない事実で、その現実に目をつぶって「すべての命は等しく尊い」ときれいごとを言うのはあまりにも無責任だ。


「障害を持って生まれたけど生まれてきて良かった」と思う人もいるし、「こんな苦しい人生なら生まれてこなきゃ良かった」と思う人もいるだろう。

「この子を育てる代わりにもう新たに子どもを産むのをあきらめる」も「この子は見殺しにするがまた子どもをつくる」も、一人の命を救って一人の命をなかったことにするという点では同じじゃないかとおもうんだけどね。


 ところで、うちの子が生まれる前に病院から「出生前診断をすることができます。それによりダウン症などの疾患を抱えているかどうかが(100%の精度ではないが)わかります。どうしますか?」と訊かれた。

 でもさ、それを訊かれたときってもう中絶できる期間を過ぎていたんだよね。つまり「ダウン症の可能性が高い」とわかったところでどうすることもできないわけ。

 夫婦で話し合って「どっちみち中絶できるわけじゃないし精度も100%じゃないし、診断を受けたって心配の種を増やすだけだよね」ということで診断は受けなかった。

 あの制度、何のためにあるんだろう。




 ちょいちょい著者の主張らしきものも顔を出すんだけど、どうもそれがぼくの思想と相いれないんだよね……。

 たとえば死後に臓器移植のために身体を提供することについて。

 医療技術の進歩は人体をきわめて有用な資源として開発してきた。臓器移植はその典型である。人間がそうした資源として生まれてくることを認めなければ、本性的な自己決定は成り立たない。
 人間は死んでも資源として役立つとすれば、望ましいという考え方は十分ありうるだろう。しかし、自分がひとつの資源であると正面切って認めよと迫られると、奇妙な感じがするはずだ。

 いや、まったく奇妙な感じがしないんだけど……。死んだ後の肉体なんて資源かごみのどっちかでしかないだろ。どう考えたってごみになるよりは資源のほうがよくない?

 ぼくは死後に身体がどうなろうとぜんぜんかまわない。臓器移植に使ってもらえるならありがたいし実験のために切り刻まれたってかまわない(さすがに娯楽目的でもてあそばれるのはイヤだけど、声を大にして反対するほどでもない。だって死んでて関知できないんだもん)。

 死んだら強制的に死体は国家が没収して有効利用する、でぜんぜんかまわないけどな。 ぼくが信仰心ゼロだからかな。

 だってさ、既に「死んだら財産の一部または全部は国家のものになる」っていうルールがまかりとおってるわけじゃない。相続税という名のルールが。相続税は認めて臓器提供は許さないのは理解できない(ぼくからすると死体よりも死者が残した財産のほうがずっと価値がある)。

「死後にオレの身体を勝手に使うな! どうするかはすべて俺が決める!」って「オレの金はすべてオレのもの! 税金なんて一銭も払わんぞ!」ってのと一緒じゃない? 税を認めないラディカルなアナーキストなの? 徴税や徴兵は認めて、国家による死後の身体理由を認めないのがよくわからん。

 『臓器税』を作って現物徴収したらいいのに。死後にどうしても臓器を納めたくない人は代わりに金銭で納める、ぐらいの自由は認めてもいいとおもうけど。




 臓器移植に限らず、なんかウェットすぎるようにおもうんだよな。生まれる前の胎児とか死んだ後の身体に重きを置きすぎというか。

「障害を理由に中絶することに反対」ってのはいいとして、だったら現在母体保護法第十四条で「妊娠の継続又は分娩が身体的又は経済的理由により母体の健康を著しく害するおそれのあるもの」を理由に中絶が認められていることにも反対しないと筋が通らなくない?

 なんで障害を理由とする中絶はダメで経済的理由ならいいの? まったく理解できない(一部の宗教信者のように中絶はすべて認めない、のほうがまだ理解できる)。

 なんか合理的な理由なんかなくて、「今の慣行にあってないから賛成しない」みたいな論調が多いんだよな。それはそれで偽らざる心情だろうから個人的見解ならぜんぜんかまわないんだけど、倫理学としてそのスタンスはどうなのよ。


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2026年3月3日火曜日

【映画感想】『映画ドラえもん のび太の海底鬼岩城』

『映画ドラえもん のび太の海底鬼岩城』

内容(映画.comより)
国民的アニメ「ドラえもん」の長編映画45作目。1983年に公開されたシリーズ4作目「のび太の海底鬼岩城」をリメイク。
夏休みにキャンプの行き先で意見が分かれたのび太たちは、ドラえもんの提案で海の真ん中でキャンプをすることになる。ひみつ道具の「水中バギー」と「テキオー灯」を使って海底キャンプを楽しむのび太たち。沈没船を発見したことをきっかけに謎の青年エルと出会うが、なんと彼は海底に広がる「ムー連邦」に暮らす海底人だった。陸上人を嫌う海底人は、のび太たちを信用することができない。そんな中、海底人が恐れる「鬼岩城」が動き始めたという知らせが届く。


 1983年公開『ドラえもん のび太の海底鬼岩城』のリメイク版。前作映画は観たことがないが、漫画版は持っている。

 小学一年生の娘といっしょに観に行った。骨太の原作をうまく調理できるのか、という不安もあったが概ね満足。


 かなり原作に忠実なリメイクで、大幅に削られたシーンは特にない。ドラえもん映画史上屈指の恐怖シーンである「ジャイアンとスネ夫がこっそりバギーに乗って抜けだす」くだりもしっかり再現されている。映画では毎回危険な目には遭うが、あんなに明示的に死を意識させる状況は他にないよね。


 原作を読んだときは「なんだか終盤がやけにあわただしい作品だな」と思ったが、2026年映画版でもその印象は変わらず。敵らしい敵が出てくるのが8割ほど経過してからだからね。だから終盤は説明台詞が多い(漫画版だと後半は文字だらけになる)。

 ここは改善してほしかったところだな。

 特に1983年時は冷戦下なので「二国間の対立」「軍拡競争が招いた地球滅亡の危機」というテーマが受け入れられやすかったのかもしれないが、今の時代に「核実験の失敗で国が滅んだ後も自動報復システムが起動している」という設定を台詞だけで理解させるのは相当苦しい。大人でも原作を読んでないとしんどいぜ。


 ただ前半の「宿題を終わらせるまでキャンプに行ってはいけないとママから言われたのでみんなで協力してのび太の宿題を終わらせる」パートや、中盤の海底豆知識、藤子・F・不二雄氏の想像力が存分に発揮された海中生活の描写(特にトイレのリアリティにこだわるあたりがすばらしい)もそれはそれでおもしろい。物語として見ると冒頭の「のび太がドラえもんの力を借りずに宿題を終わらせる」シーンは蛇足かもしれないけど、日常から自然に冒険の世界へと連れてってくれる役割をはたしている。映画を見慣れている大人にとってはいらないかもしれないけど、子どもにとっては重要な描写だ。

 反面、幽霊船のくだりはばっさり削ってもよかったんじゃないかと思う。幽霊船が移動してる意味がまったくわかんないし(しかも海上を移動してたよね)。



『海底鬼岩城』といえば、ドラえもん以上の存在感を見せるバギー。本作の主役といってもいい。

 2026年版では、バギーの心境の変化(心があるのかわからないが)をより丁寧に描いている。原作で持っていた性格の悪さ、ポンコツ感も薄めで、ラストの悲劇性が際立つように作っている。

 しずかちゃんだけでなく、のび太とバギーの「友だち」に関する会話など、くどいぐらいにバギーの胸中が強調される。そのへんは個人的には説教くさくて好きではないのだが、子ども向け映画としてはこれぐらいわかりやすいほうがいいのかもな。「前の持ち主に粗末に扱われていた」という背景を付与したのも心境の変化に説得力を与えている。結果的に『空の理想郷』のソーニャみたいになってしまったけど……(バギーとソーニャがたどる結末も似ている)。


 逆にポンコツ感が増したのがボス・ポセイドン。AIがすっかり身近になった現代の感覚だと、ポセイドンのダメさが目に付いてしまう。感情的になりすぎ。自動報復システムAIがあんなに威張って何かいいことある? まったくしゃべらないほうがかえって不気味さが増したんじゃないかな。

 あとしずかちゃんが攻撃されなかった理由の「我には女のデータが少ない」ってなんだよ。エロか?

 原作でしずかちゃんが口にする「女の子だったら手荒なことはされないとおもうの」が今の時代にふさわしくないから回避したんだろうけど、結果的にもっとふさわしくない台詞になってないか? なんで今から地球を滅ぼそうとするやつが女のデータ集めるんだよ。

 単純に「逃げ遅れたしずかちゃんがさらわれる」ぐらいでよかったのに。

 ついでにいえば、アトランティスが滅んだシーンを爆発で表現してたけど、あれはおかしい。国が滅ぶほどの爆発なら、バギー1台突っ込んだだけで壊れるほど脆弱なポセイドンが無事なわけない。「放射性物質漏れでアトランティス人は死に絶えたが機械は動作を続けた」とかにしないと。


 おっと。ちょっと愚痴が多すぎた。

 良かったとおもえたのは、オープニング映像の美しさ。昨年の『絵世界物語』のオープニングもすばらしかったけど、あの「さあ今からドラえもんの映画が始まるぞ!」というわくわく感だけでも足を運んだ価値があると思える。

 改変箇所で感心したのは、ラストのしずかちゃんの涙。漫画版だと涙がぽたりとドラえもんの上に落ちるのだが、今作では涙がふわっと周囲に広がる。そういえば忘れてたけどここは海中だった! 涙が落ちるわけないよな!(トイレにはこだわったF先生も涙のことは忘れていたのだろうか)


 良くも悪くもオリジナルの印象が強くのこり、原作の強靭さを改めて実感するリメイクだった。


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2026年3月2日月曜日

【読書感想文】瀧本 哲史『武器としての交渉思考』 / デモに効果がない理由

武器としての交渉思考

瀧本 哲史

内容(e-honより)
交渉は、若者が世の中を動かすための必須スキル。交渉によって仲間と手を組み革命を起こせ。京大最強授業第二弾。

 経営コンサルタント、エンジェル投資家、大学准教授などの経歴を持つ著者による、“若者に向けて”の交渉の指南書。

 とっくに若者でなくなったぼくでも学ぶところは多かった。

 交渉術といっても「交渉相手の斜め向かいに座れ」みたいな小手先の(そしてどこまで本当かわからない)テクニックではなく、もっと根本的なスキルについて語っている。スキルというより思考法、思想。



 くりかえし語られるのは、交渉に必要なのは自分の要求を伝えることではなく、相手の話を聞くことだというメッセージ。

 たとえば、学生が企業に対して「採用活動のあり方を変えてくれ」とおこなったデモ活動について。

 つまり、デモでいくら自分たちの要望を主張したところで、企業側にそれを受け入れるだけの合理的な理由がない。
 だから、彼らの望みが叶えられる可能性はほとんどありません。
 就活デモをすることで、メディアに取り上げられることを狙っているのかもしれませんが、それであればもっと上手なやり方があるのではないかと思います。現状のままでは、デモすること自体が目的化してしまっているようにしか見えないのです。
 厳しいことを言うようですが、彼らの主張は、基本的に子どもの「駄々」と変わりません。「俺が困るから合意しろ!」「わたしが可哀想だから言うことを聞いて!」という主張は、子どもであれば許されますが、大人の振る舞いとは見なされないのです。

(中略)

 相手に交渉のテーブルについてもらうためには、「自分の立場を理解してもらう」ことより、「相手の立場を理解すること」のほうが大切です。
 つまり、「僕が可哀想だからどうにかして!」ではなく、「あなたがこうすると得しますよね」という提案をするべきなのです。
 相手側の立場、利害関係を考えて、相手にメリットのあることを提示すること。

 そうなんだよね。この件にかぎらず、ほとんどのデモってただの主張であって交渉になってないんだよね。だから効果がない。

 よく政治的な主張を大声で叫びながらデモをしている人たちがいるけど、あれなんて無意味どころか逆効果だとおもうんだよね。あれを聞いて「私の考えはまちがっていた! デモ隊の言うとおりだ!」と考えを改める人がどれぐらいいるとおもう? 「うっせえなあ。あいつら嫌いだわ」となる人のほうがずっと多いにちがいない。

 政権に異議を唱えるデモにしても、政権からしたら「デモに参加するような連中はどう転んだって与党に投票することはないだろうから、これ以上嫌われたってどうってことない」って感じだろう。支持者からそっぽを向かれるのは怖いだろうけど、敵対する政党の支持者から嫌われるのは何のデメリットにもならない。

 デモをすれば「おれたちはがんばった!」という自己満足は得られるのだろうが、デモが何かを動かすことはほとんど期待できない。「この法案を引っ込めてくれたら次の総選挙は与党に投票してやるぞー!」ならまだ検討する価値があるだろうけど(その約束を信じてもらえるかどうかは別にして)。


 労働法では「労働三権」として、労働者に団結権、団体交渉権、団体行動権が認められている。

 労働者が団結(労働組合の組織)する権利、労働組合が使用者と賃金や労働条件等について交渉する権利、そしてストライキをする権利だ。

 この権利が力を持つのは、労働者がストライキをちらつかせられるからだ。
「賃金アップを認めないなら従業員が団結してストライキをするぞ。そうなったら困るだろ」
という交渉(もっとあけすけに言えば脅し)をするからこそ、使用者は
「しょうがない。ストで大きな損失を出すよりはマシだから給与を上げるか」
と折れるのだ。

 労働者がたった一人で「給与上げてくれー!」と言っても交渉にはならない。「要望を聞き入れることのメリット、聞き入れないことによるデメリット」を語るからこそ交渉になるのだ。




 交渉する上で重要なのは「バトナ」だと著者は語る。バトナとはBest Alternative To a Negotiated Agreementの頭文字をとった言葉で、直訳すると「交渉による合意のための最良の代替手段」みたいな感じかな。

 要するに「交渉決裂時の他の選択肢」だ。

 つまりバトナとは、目の前の交渉相手と合意する以外にいくつかの選択肢(Alternative)があったときに、「交渉相手に、私はあなたと合意しなくても別の良い選択肢があるので、それよりも良い条件でなければ合意しない」と宣言できる他の選択肢ということになります。
 バトナとして良いものがあれば、目の前の人と必ずしも合意する必要はないので、交渉上、強い立場になれるわけです。
 逆に、バトナが悪い、あるいは、バトナがない場合は、たとえ条件が悪くても、その相手と合意するほうが決裂するよりはまだマシ、ということになりますので、交渉上、立場は弱くならざるをえません。
 交渉においていちばん初めにやらなければならないのは、できるかぎりたくさんの選択肢を持つこと。具体的には、目の前の交渉相手と合意する以外の選択肢を多く持つこと。
 そして、そのなかのいちばん自分にとってメリットの大きな選択肢(=バトナ)を持ったうえで交渉にのぞむこと。
 まずこれが、合理的な交渉の基本になります。

 ぼくは転職時にこれを実感した。

 数年前に転職したが、そのとき在籍中の会社をどうしてもやめたかったわけではない。「今の会社でもまあいいけどもっといい条件の会社があれば」ぐらいの気持ちだった。この余裕はすごく大事だ。転職先の会社と強気の給与交渉ができる。「別にこっちはこの会社でなくてもいいんですよ」という気持ちで臨めるのだから。

 大学生で就活をしていたときはそのへんをわかっていなくて「たくさん内定をもらっても最終的には1社にしか行けないのだから、たくさん受けてもしょうがないだろ」という気持ちでいた。行きたい会社だけを受けるから、不採用だったときはすごく落ち込む。余裕を失ってどんどん追い詰められ、最終的には「内定が出たらもうどこでもいい」ぐらいの気持ちになっていた。

 今ならわかる。大して行きたくなくても、とりあえず何社か内定はもらっておいたほうがいい。それがバトナとなって自信に満ちた面接ができる。


 何事をするにも、時間的・経済的に余裕があったほうがいいということだ。不動産を探すにしても「どうしても今週中に引っ越し先を見つけないといけないんです」という人より「今よりいい条件の物件があれば引っ越してもいいかな」という人のほうが良い物件に出会えるはずだ(前者は不動産屋からしたらいいカモだろう)。




 最終章で著者から若者に向けてのメッセージ。

 たしかに人は、ひとりではほとんど何もできませんし、いまの日本で行われているデモや各種の政治運動の多くは、現実の社会を動かす力とはなっていません。
 しかしだからといって、諦める必要はありません。正しい社会の捉え方と、正しい変革の方法さえ学べば、世の中を動かすことはできるからです。
 なぜ日本のデモや市民の政治運動が社会を動かせていないのか?
 それは、彼らの行動の多くが、ある意味「雲のようなもの」に向かって行われているからです。
 官公庁や大企業をいくら取り囲んでシュプレヒコールをあげたところで、そこで働くひとりひとりの人は、「まあ自分個人に向かって言われているわけではないしな」と思うのが自然な感情でしょう。
 総体としての組織、いわば不特定多数の顔の見えない人の集団にいくら文句を言ったところで、誰も「自分の責任でなんとかしましょう」とは考えてくれません。
 だから、各種のデモにはほとんど意味がないのです。

(中略)

 大きな権力や広いネットワークを持つ、「これぞ!」というキーパーソンや組織・団体だけを狙って、同時にいくつもの交渉をこなして、相手にとっても自分にとってもメリットがある合意を勝ち取っていく。
 そうすることで初めて、世の中を少しずつ動かしていくことができるのです。

 いやほんと。

 救命救急と同じだよね。「誰か救急車を呼んでください!」だと誰も動かないことが往々にしてあるけど、誰かひとりを指さして「あなた、救急車を呼んでください!」と言えば動いてくれるというやつ。


 いきなり社会全体を動かすなんて無理に決まっている。まずは誰かひとり。できるだけ影響力のある誰か。

 本気で世の中を変えようと思うのなら、デモをしたりSNSで愚痴ったりするより、地元選出の市議会議員にでも陳情に行くほうがよっぽど効果があるだろう。

 ってこんな僻地のブログでぐちぐち書いてるぼくが言うなよって話なんだけど……。


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いっちょまえな署名



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2026年2月27日金曜日

【読書感想文】畑村 洋太郎『失敗学のすすめ』 / 「絶対に失敗しない人」にならないために

失敗学のすすめ

畑村 洋太郎

内容(e-honより)
恥や減点の対象ではなく、肯定的に利用することが、失敗を生かすコツ。個人の成長も組織の発展も、失敗とのつきあい方で大きく違う。さらに新たな創造のヒントになり、大きな事故を未然に防ぐ方法も示される―。「失敗は成功の母」を科学的に実証した本書は、日本人の失敗に対する考えを大きく変えた。

 工学博士である著者が、自身が見聞きした数々の“失敗”を学問に昇華させた本。

 失敗を単なるマイナスととらえるのではなく、多くの学びを与えてくれる成功の種と考える。現実的で、非常に有意義な考え方だ。


 常々書いているが、ぼくは「失敗しない人」を信じない。よくいるよね。己の失敗を認めない人。自分の功績だけを喧伝して失敗については口が裂けても語らない人。「あれはそのような意図ではなかった。誤解を与えたのであれば申し訳ない」と言い訳に終始する人。特に政治家に多い。最近も、自分の過去のブログと最近の発言の矛盾を指摘されて、あわててブログを削除したみっともない総理大臣がいた(おまけにブログを削除したことにも「HPをシンプルにした」という言い訳をして恥の上塗りをしていた)。

 とあるドラマで、主人公が「私、失敗しないので」を決め台詞にしていた。最も信用してはいけない人だ。「絶対に失敗しない人」=「絶対に失敗を認めない人」である。当然ながら学びも成長もない。一生他人のせいにして生きていくだけだ(なのに人々はこういうダメな人を“強いリーダー”と勘違いしちゃうんだよな。バカなだけなのに)。

 そんなどうしようもない「絶対に失敗しない人」にならないためには、失敗から学ぶ姿勢を身につけなくてはならない。



 『失敗学のすすめ』では、失敗が起こる原因をいくつかの分類に分けている。

 そのうちのひとつ。

⑧価値観不良……自分ないし自分の組織の価値観が、まわりと食いちがっているときに起きる失敗です。過去の成功体験だけを頼りにしたり、組織内のルールばかりに目を向けていると、経済、法律、文化などの面からいわゆる常識的な評価がきちんとできなくなり、この種の失敗に陥りやすいのです。
 価値観不良による失敗は、とくに最近の行政機関に見られがちで、薬害エイズ問題などはその典型例です。本来、国の機関は、国民の利益を優先させるのが鉄則のはずですが、患者側の立場に立たず、製薬会社など商売を行う側の営業や利益を考えて対処した結果、HIV(エイズウィルス)に汚染された血液製剤の流通を許して傷口を広げてしまいました。企業の指導という役割以前に、国民の利益を優先する前提があるという価値観が国の機関に欠落していたのです。

 よく「組織単位の不祥事」がニュースになっている。

 会社ぐるみで犯罪行為に手を染めるような行為だ。最近も「不動産を買うために上司の命令で放火した」という事件がニュースになっていた。

 ふつう、いくら上司に命令されたからってそんなことはしない。上司の命令よりも法律のほうが優先されるに決まっている。誰だってわかる。

 でも。法律や社会のルールよりも、狭いコミュニティのルールを優先してしまうことがよくある。特別な人間だけではない。実に多くの人が過ちを犯す。

 街中で子どもを殴る大人はほとんどいない。でも、学校の中、部活の中ではそんな大人は山ほどいる。街中で他人を大声で罵倒しない人が、会社の中では部下を大声で人格否定をして恫喝する。

 特に「いいことをしている」と信じている人は危険だ。ボランティアスタッフが、通行の妨げとなる場所で活動をする。ボランティアをするという大義名分が、社会のルールを守るというあたりまえのことを上回ってしまうのだ。

 組織のローカルルールが強くなりすぎると、とりかえしのつかない大失敗を招いてしまう。



 先ほどの話にも通じるが、強い上下関係があると失敗は起きやすい。

 教授と助教授、あるいは教授と学生というように、上下関係がはっきりしている大学内の人間関係には、ともすれば上の者がいったことはそのまま通ってしまい、真のブラッシュアップができなくなり、組織の硬直化が起こりやすいという欠点があります。これを避けるためにはグループ内での徹底的な批判が大切です。そのために私は、助教授に向かって、
「私も思ったとおりのことをいうからあなたも自分の思ったとおりにいいなさい。お互いの意見が違ったときには、最後にはあなたの意見を採用するので、どんなときにでも遠慮せずに自分の意見をいいなさい」
 と念を押しています。その甲斐あってか、私が出したアイデアもいまでは助教授からずけずけと批判されています。
 正直にいえば、自分が創造したものがまわりの批判にさらされるのは、あまり気持ちがいいものではありません。「何だと!」と思うこともしばしばですが、この試練を経験したものは、研ぎ澄まされた形で世に出せるという大きなメリットがあるので、外に出たときに真の強さを発揮するのです。それに比べれば、まわりの批判に感じる一時の不快感など本当にとるに足らないものだと感じています。
 まわりの人間を巻き込む形で行う仮想演習で改良が加えられ、想定される問題点をほぼ克服したものは、それが企画であれ設計であれ、世に出てから本当の意味での強さを発揮します。批判を嫌ったところで、結局は問題点があれば世に出てから徹底的にたたかれ、大いに恥をかくことになりかねないのですから、仮想演習は早い段階で徹底的にやるのが一番です。

 成功者の周囲がイエスマンばかりになって、どんどん間違った道へ突き進んでしまう……。よく見る光景だ。

 人間誰しも批判されることは嫌いだ。でも批判を遠ざけてしまうと、間違った道に進んでも引き戻してくれる人がいなくなる。えらい人がそのえらさゆえにえらくなくなってしまう。

 部下から誤りを指摘されることを恥だと考える人は、誤りを修正する機会を失ってしまう。聞くは一時の恥聞かぬは一生の恥とはよく言ったものだ。



 失敗を起こしやすい体質について。

 会社を見分けるときに、概していえるのは、会議の多い会社ほど、失敗を起こしやすい体質を備えているということです。日本組織は、「決断力に欠ける」などという批判を海外から受けます。会社の中で頻繁に開かれる会議は、まさにその象徴といえます。
 会議の目的は、本来は議論により結論を得ることと、決められたことを連絡する場合の二種類に大別できます。ところが、参加する側にはその意識が希薄で、自分とは関係ないと思って聞いていない、居眠りをしている、定時に来ない、呼び出しがあると逃げるなどということがよくあります。日常的に見られる参加者たちのこうした行動は、意味のない、ムダな会議が多いという現実を如実に表しています。
 実際、会議の場での議論で重要な決定がなされることは、現実にはほとんどありません。むしろ審議をして決めたという既成事実づくりが目的で、これを盾に反対者の口封じを行ったり、失敗時の責任回避のための予防線にされているのが実態です。責任回避のための会議を頻繁に開く組織では、ひとりひとりの責任意識までが希薄になり、小失敗を見つけても、これに素早く対処する発想も出てきません。これがまさにダメ組織にありがちな姿で、放置された失敗がやがて致命的な失敗に成長し、組織に多大な被害をあたえることは想像に難くありません。

 そうなのよね。会議って最初は「様々な意見を聞きたい」「みんなで議論して思考を深めたい」みたいな意図で始まって、はじめはそこそこ効果を上げる。でも回を重ねるごとに意義は失われてゆき、「やめて文句を言われたらいやだから」「失敗の責任を押しつけられないようにみんなで決めたということにしたい」みたいな理由でだらだらと継続してゆく。さらには「あいつは俺に反対意見ばかり言うからメンバーから外そう」なんて動きをする人間まで現れて、広く意見を聞くどころか、多様な意見を封じるために会議が使われたりする。



 失敗から学ぶ、失敗の芽を早めに摘むための方法がいろいろ書いてあって参考になるんだけど、これを実践するのはむずかしそうだ。特に組織が大きくなればなるほど。

「失敗を防ぐよりも自分の評価を下げないことのほうが優先」という人がぜったいにいるからなあ。


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2026年2月20日金曜日

小ネタ46(DBネーミング / 下半身 / ヘルプマーク)

DBネーミング

 ドラゴンボールのすごさのひとつに「悪役のネーミング」がある。

 ふつう悪役って悪そう、強そうな名前をつけたくなるじゃない。濁点多めの。

 なのにドラゴンボールの悪役はほとんどが悪役っぽくない名前を持っている。作中ではじめて殺人を犯した桃白白(タオパイパイ)なんて、漢字も音もすごくカワイイ。ピッコロもかわいい。音の響きだけでいえばピッコロの手下であるシンバルとかドラムのほうがよっぽど強そうだ。ベジータとかナッパなんて野菜だぜ。食べ物縛りで悪役の名前をつけるとなったら、ふつう肉の名前をつけない? ビフテキとかボルシチとかケバブとか。野菜をつけようとおもう? 

 でもセル編はふつうだ。ドクターゲロとかセルとか、いかにも悪役っぽいネーミングだ。まあセル編ってドラゴンボールの中ではちょっと異色だしな。主人公の交代を図っていた時期だし。ふつうすぎて逆に異色。


下半身

「議員が秘書を蹴った」とか「議員が大切なものを踏んづけた」といった醜聞の場合も『下半身スキャンダル』と言っていい。


ヘルプマーク

 通勤電車で、座席に座っていると目の前にヘルプマークつけている人が立った。席を譲ったら感謝された。

 ……と、ここまではお互い気分よくなれてよかった話なのだが、どうも譲った相手に顔を覚えられたらしく次の日もその次の日もぼくの前に立ってくるようになった。嫌になったので乗る車両を変えた。


2026年2月18日水曜日

【読書感想文】吉田 修一『国宝』 / ヤクザな世界だからいい

国宝

青春篇 / 花道篇

吉田 修一

内容(e-honより)
1964年元旦、侠客たちの抗争の渦中で、この国の宝となる役者は生まれた。男の名は、立花喜久雄。任侠の家に生まれながらも、その美貌を見初められ、上方歌舞伎の大名跡の一門へ。極道と梨園、生い立ちも才能も違う俊介と出会い、若き二人は芸の道に青春を捧げていく。

 歌舞伎の世界について、かねてよりきな臭さを感じていた。歌舞伎そのものというより、歌舞伎役者の持ち上げられ方について。

 歌舞伎自体は嫌いでもなんでもないんだよ。そもそも観たことがないので嫌いになりようもない。

 歌舞伎は一つの文化だ。落語とかバレエとかコントとかパントマイムとかアニメとかパチンコとかと同じで、一部の好きな人のために存在する文化。ぼくは興味ないけど、まあ害があるわけじゃないから好きにすれば? という文化。

 でも、歌舞伎はなんだか不当に持ち上げられている気がする。なんか勝手に「我こそが日本文化の代表」みたいな顔をしている、というか。

 オリンピック選手の扱われ方と同じような嘘くささを感じる。たとえばオリンピックのカーリング代表選手は、日本カーリング協会を代表してオリンピックに出ているわけであって、正確には日本の代表ではない。だってぼくのところに代表選考会への参加を呼びかけるお知らせは届いていないのだから。ぼくやあなたとはまったく無関係に決まった代表なのだから、日本代表ではない。なのに勝手に日本人すべてを代表しているような顔をしている。

 歌舞伎も同じだ。歌舞伎界ではすごい人なのかもしれないが、そんなものは歌舞伎界の外では関係ない。ある学校でカリスマ的人気を誇る教師がいたからといって、日本人みんながその教師をあがめたてまつる必要はまったくない。

 なのに、たとえばテレビに歌舞伎役者が出たときは「この人は歌舞伎界のすごい人なのである。だからみんなこの人を丁重に扱うように!」的な扱われ方をしている。パチンコ業界内で超有名な凄腕パチプロがテレビに出たときにも同じ扱い方をするか?

 歌舞伎界が悪いわけじゃなくて、そんなふうに扱うメディアが悪いんだけど。


 以前、永六輔『芸人その世界』という本を読んだ(⇒ 感想)。芸人(歌舞伎、新劇、落語、講談など)の発言を集めた本なのだが、それを読むと歌舞伎役者を含む芸人界がいかにヤクザな世界だったかがよくわかる。

 でもそれはぜんぜん悪いことじゃなくて、まっとうに働いて生きていくことのできない人に、それなりに社会的立場を与えてくれるのが芸人という仕事だったのだ。本当ならヤクザに入っていたような人を、ヤクザ一歩手前の世界に拾いあげてくれる場が芸能界だった。

 さっきわざと歌舞伎とパチンコを同列に扱ったけど、まさに歌舞伎はパチンコのような存在だったのだ。一応ギャンブルなので褒められた行為ではないけど、私営賭博や闇カジノに行くよりはまだマシだよね、という存在。


 そんなふうに、“カタギとヤクザの狭間の存在”だった歌舞伎が、いつのまにか“日本を世界に誇る伝統芸能”になってしまった。それって何よりも、当の歌舞伎界にいる人たちにとって不幸なことなんじゃないだろうか。

 世襲とか、五歳ぐらいの子どもを舞台に立たせて大人たちが大喜びしているところとか、今の価値観だとかなり気持ち悪いことやってるわけじゃない。「俺たちははぐれ者なんだから変なことやってるけど許してね」というスタンスなら許されていたことが、「国を代表する伝統芸能です」という看板をつけてしまうと許されなくなってしまう。


 お笑い芸人も同じ道をたどっている。以前なら女遊びや喧嘩や軽犯罪や反社会的勢力との付き合いがあっても「まあ芸人なんだからしょうがないよね」と大目に見られていた。だけどコンプラの締め付けが厳しくなり、昔だったら「芸人だから」でお目こぼしされていたようなことでも今だと一発退場、なんてことになっている。

 健全な社会になることでやりやすさを感じる人もいるだろうが、その反面、「まともな社会生活を送れないから芸人になった」タイプの人にとっては生きづらい世界になっているのではないだろうか。




 前置きがすごく長くなってしまった。

 かねてより「歌舞伎界ってそんなにきれいな世界じゃねえだろ。変に持ち上げてると当の歌舞伎界を締めつけることになっちまうぞ」という目で見ていたので、吉田修一『国宝』を読んで「よくぞ歌舞伎界の汚い面を書いてくれた!」と感じた。汚い面があるからこそ美しい面が光り輝くわけですよ。


 主人公・喜久雄は、ヤクザの親分の息子として生まれ、中学校にも通わず背中に大きな刺青を入れるなど父の後を継ぐべく極道の道をまっしぐらに進んでいた。だが十五歳のときに抗争により父親が殺害される。以降、組の勢力は弱まり、喜久雄は伝手を頼って歌舞伎役者の家に預けられることとなる。

 すっかり歌舞伎の魅力にとりつかれ、稽古に明け暮れる喜久雄。襲いかかる様々な試練を歌舞伎の実力と、ヤクザによるバックアップ、隠し子、政略結婚などの決してきれいとは言えない手段で切り抜けてゆく。だが喜久雄の歌舞伎役者としての成功と引き換えかのように、周囲の人間には次々と不幸が訪れ……。

「芸人たる者、芸さえ一流であれば他はダメでもかまわない(むしろ私生活が派手なほうがいい)」時代から、「芸人であっても社会人としての常識は身につけなくてはならない」時代へ。時代の変化とともに、一途に芸に邁進する喜久雄はどんどん周囲から孤立してゆく。


 喜久雄と同じ時代を生きるお笑い芸人・弁天はテレビタレントとして大成功を収めた後にこう語る。

「……今じゃ、俺が言うこと為すこと、ぜんぶ正解になってまうねん。まるで御山の大将や。俺、芸人やで。不正解な人間やからこそ価値あったはずやねん。せやろ? 春ちゃんもよう知ってるやろ?」
「せやな。やること為すこと、ぜんぶ不正解やったな」
 思わず春江も笑えば、
「でも、おもろかったやろ?」
「でも、おもろかったわ」
「それが今じゃ何やっても正解や。いろんなとこ担ぎ出されて、ご意見番や。俺に言わせりゃ、人間のクズみたいなもんやで」
 言いながらいよいよ堪らなくなってくるのか、弁天の目にはうっすらと涙まで浮かんでおります。

 権威に逆らって生きることで成功したら、自分自身が権威になってしまう。成功するほど、かつて目指した姿から遠ざかってしまう。なんとむなしい道だろう。



 歌舞伎に限った話ではなく、ある分野で傑出した成功を収めようとおもったら一種の異常者でないといけないのだろう。

 ただ、このとき春江は、結局俊介もまた、堅気の人間ではないのだと思い知らされます。と言いますのも、堅気とヤクザの違いと申しますのは、世間のイメージとは少し違うところがありまして、真面目なイメージの堅気のほうが、実は要所要所できちんと手を抜くことができるのでございます。一方、堅気ではない人間は、なぜか総じてそれができませんので、結果、何をやっても自滅するのでございます。
 こう言い切ってしまいますと、反論も多かろうとは思いますが、小狡いのが堅気、一方、小狡くなれず、結局、大狡くなるしかないのがヤクザな人間と言えるのではありませんでしょうか。

 この文章の中では“ヤクザな人間”と表現している。

 たしかに、犯罪者の手口を紹介するニュースなんかを見ると
「犯罪をするためにめちゃくちゃ考えて、めちゃくちゃ努力してるじゃん。その能力があったらまっとうに働いても成功してただろ」
と言いたくなるような犯罪者がいる。

 その逆で、ある程度成功している会社の経営者を見ていると倫理観や常識がぶっ壊れている人がめずらしくない。これは“ヤクザな人間”がたまたままっとうな道に進んだ例だろう(まっとうな経営をしていないケースも多いが)。

 芸術の道でもヤクザな道でも、成功するのはイカれた人間が多いのだろう(ただしイカれた人間が成功するとは限らない)。



2026年2月16日月曜日

【読書感想文】長岡 弘樹『教場』 / そうまでして警察官になりたいの

教場

長岡 弘樹

内容(e-honより)
希望に燃え、警察学校初任科第九十八期短期過程に入校した生徒たち。彼らを待ち受けていたのは、冷厳な白髪教官・風間公親だった。半年にわたり続く過酷な訓練と授業、厳格な規律、外出不可という環境のなかで、わずかなミスもすべて見抜いてしまう風間に睨まれれば最後、即日退校という結果が待っている。必要な人材を育てる前に、不要な人材をはじきだすための篩。それが、警察学校だ。週刊文春「二〇一三年ミステリーベスト10」国内部門第一位に輝き、本屋大賞にもノミネートされた“既視感ゼロ”の警察小説、待望の文庫化!

 こないだ『教場』テレビドラマを放送していた。途中から観た。

「断片的にはけっこうおもしろいけど全体的によくわかんないドラマだな」とおもった。途中から観たせいだろうとおもって原作小説を読んでみた。

 ……うん、原作も同じだった。断片的なエピソードはおもしろいんだけど「全体的にどうだった?」と訊かれると答えに窮してしまう。神話とか聖書みたい。エピソードの詰め合わせで、全体を貫く芯のようなものがあまり見えてこない。

 いや、全体を貫く芯はあるにはある。教場(警察学校)の教官である風間だ。どんな些細な変化も嘘も見逃さない厳格な教官。この教官の観察眼がストーリーを動かしている。

 だが。この風間教官、ほとんど全智全能の神なんだよね。すべてを見透かしてしまう。あらゆる知識が頭に入っているし、どんな隠し事も風間教官の前では通用しない。弱点がまるでない。神といっしょだ。だから神話や聖書みたいな読後感になってしまう。『教場』を読んでいると、小説の登場人物を魅力的なものにするのは欠点なのだとつくづく感じる。

(ところでドラマ版ではこの風間教官をキムタクが演じていたのだが、実にぴったりの配役だとおもう。完璧すぎてつけいる隙のない人物として適役だった。人間的おもしろみのなさがぴったりハマっていた)

 どの短篇もミステリとしてよくできているのだけど、よくできすぎている気もする。


 風間教官がおもしろみのない人物であるのと対称的に、警察学校の生徒たちは実に人間くさい。悩み、迷い、疑い、失敗をし、嘘をつき、ごまかし、他人を陥れようとする。神の前で右往左往する哀れな人間、という感じだ。ぼくらが共感するのはこっち側だ。

 絶対的な神である風間教官は、決して生徒の嘘を見逃さない。だから『教場』には常に息苦しさが漂っている。生徒たちと同じように、「おまえらの行動はすべて見張られているんだぞ」と言われている気分だ。まるで囚人になったような気分だ。いや、囚人ですらもうちょっと自由があるのではないか。看守は神ではないのだから。

 このまとわりつくような息苦しさ、個人的には嫌いではない(フィクションとして楽しむ分には)。臭いとわかっていて汗の染みた靴下のにおいを嗅いでしまうように、ついつい引き寄せられてしまう不愉快さがある。



『教場』で書かれる警察学校の生活はとても厳しい。刑務所のほうがここよりずっと楽だろう、とおもえる。

 もちろん小説なので実際の警察学校とはちがうのだろうが、一部は現実に近い(あるいは現実のほうがもっと酷い)のだろうなと思わされる。

 徹頭徹尾管理され、理不尽な規則や暴力にも従わなければならない世界。生徒たちに人権はない。そんな場所にいる人間がまともな感覚を保てるはずがない。

 そう話すと尾崎は、分かってねえな、というように顔の前で手を振った。「集団の狂気ってのは怖いぜ。微妙なアリバイなんざ役に立たねえ」「どういうことですか」「学校側の締め付けが続くと、いずれはどんなことが起きると思う?
 学生のなかで犯人の燻り出しが始まるのよ。少しでも怪しいやつがいりゃあ、殴る蹴るのリンチまがいの手を使ってでもそいつに罪を認めさせ、出頭させる。いわゆるスケープゴートってやつだな。そうやって、できるだけ早いとこ一件落着を図るってわけだ。本当だぜ、おれが学生んときにも似たようなことがあったからな」
 すべては学校側の狙いどおりだよ。そうやって横並びの仲間より、縦の組織を大事にする人間を作るのさ──そう尾崎は付け足してから、ズボンのポケットに手を突っ込んだ。

 校則の厳しい学校や強豪部活で往々にしてフラストレーションが集団内いじめに向かうように、理不尽な目に遭った者たちはさらに弱い者を攻撃するようになるのが世の常だ。(警察学校に限らず)警察内でハラスメントや暴力が問題になっているのをよく耳にする。


 ぼくが疑問におもうのは、なんでそこまでして警察官になりたいんだろうということだ。この屈辱的な仕打ちを耐え忍んだ先に強大な権力が手に入るというのであればまだわかる。

 だが理不尽な指導や暴力に耐えて耐えて警察学校を卒業したところで、その先に待つのはやはり上からの理不尽な指導に耐える日々だろう。公務員なのでものすごく給与が高いわけでもない。めちゃくちゃ出世して警視総監になったところで、己のために権力を使えるわけではない(まあそれなりの役得もあるだろうけど)。しょうもない政治家にぺこぺこしなきゃいけない。

 一部の国では警察組織が腐敗していて、警官が賄賂を受け取ったり身内の犯罪をもみ消したりするという。そういう国だったら警察官を目指すのはまだ理解できるんだけどね。

 ぼくのような怠惰な人間は、もっと楽で待遇のいい仕事はいくらでもあるのに、とおもってしまう。警察官を目指す人の気持ちはどうもよくわからない。



『教場』で書かれている警察学校の描写ってどこまで事実に基づいているのだろう。

 ずいぶん取材をして書いたらしいのでどれも本当のような気もするし、さすがにそれは厳しすぎるだろうとおもう面もある。


 たとえば生徒が毎日書いて提出しなければならない日記について。

 字面もそうだが、もちろん内容だって疎かにはできない。日記には事実しか書いてはいけないことになっている。もしも誤認した記述があったら、腕立てどころではない。一晩中、寮の廊下で正座していなければならなくなる。
 事実関係を勘違いしていないだろうか。水難救助は月曜の二時限目でよし。犯罪捜査も今日の四時限目で間違いない……。
 もっと恐ろしいのは、文章の中に実際にはなかったこと、つまり創作した内容を混ぜた場合だ。それが発覚したら退校処分となってしまう。
 たしかに書類は正確無比が第一だ。事実どおりの文章を書けない人間は、警察には必要ない。その理屈は分かる。
 とはいえ、いくらなんでもクビというのは厳しすぎないか。

 正確な報告を挙げなければならないという理念はわかるのだが、一発退校処分はあまりに厳しすぎる。ついついストーリーを捜索してしまうことなんてよくあることだし(ぼくなんかほら吹きなので初日で退校になるとおもう)。

 じゃあ警察官が正確な報告を挙げているかというと……。いやあ、警察組織ぐるみでの改竄や虚偽報告なんてしょっちゅう起こっているし、それがばれたときの処分もめちゃくちゃ甘いけどなあ。

 誤りや虚偽を許さない組織だからこそ、逆にミスを認めることができずに大事にしちゃうのかなあ。


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2026年2月13日金曜日

【読書感想文】筑摩書房編集部『藤子・F・不二雄 「ドラえもん」はこうして生まれた』 / 評伝はきれいなだけじゃつまらない

藤子・F・不二雄

「ドラえもん」はこうして生まれた

筑摩書房編集部

内容(Amazonより)
富山の朴とつな少年が、一生の親友と出会い、プロの漫画家を目指す。SF(すこし・ふしぎ)漫画「ドラえもん」の誕生と日本漫画界の青春時代。

『ドラえもん』『パーマン』『キテレツ大百科』『エスパー魔美』『21エモン』などのヒット作で知られる漫画家・藤子・F・不二雄の評伝。青少年向け。


 独自に調べた内容はほとんどなく、藤子不二雄Ⓐの自伝や他の評伝の内容をまとめて再構成した本、という感じなので書いている内容に新鮮味はない。おまけに青少年向けなので内容もマイルドで、「こんなに漫画を愛した人だったんです」「こんな風に努力しました」といった記述ばかりで、はっきり言ってつまらない。

 伝記って、いい面と悪い面の両方があるからこそ書かれている人が人間として立ち上がってくるんだよね。かつて読んだ伝記でも「エジソンは学校では落第生だった、おまけに家の横に作った研究室を爆発でふっとばした」「野口英世は渡米費用を借りたが、その金を遊郭で使い果たしてしまった」とかのエピソードのほうが記憶に残っている。そういう人間くさいエピソードこそ伝記の醍醐味だとおもうぜ。

「エジソンは一生懸命研究して様々な発明品を残しました」だけだったらこんなに我々の印象に残ってなかったはず。



 まあつまらない評伝になってしまうのも無理はないというか、藤子・F・不二雄さんという人は偉大な漫画家ではあるが、人間としてはあまり面白味のある人物ではなかったようだ。

 アシスタントを抱えるまでになっていた藤本は、仕事においても一定のペースで仕事をしました。
 仕事場のある新宿に着くと喫茶店に立ち寄り、キャラクターやセリフを大まかに描くネームを作ります。さらに藤本は、一ページをいつも決まった時間で描いていたと言います。藤本が描くのは一ページ二時間。それ以上でもそれ以下でもなく、きっちり二時間でしたので、自ずと一日に描けるページ数は決まってきます。
 仕事を終えた後は、藤本はたいていまっすぐ家に帰り、仕事と家庭の時間をきっちり分けて淡々と規則正しい日常を送っていました。
 行動は時計のように正確で、品行方正そのもの。破天荒と称されるマンガ家が多いなか、周囲は藤本を「マンガ家にしては珍しい人格者」と呼びました。
 しかし藤本には、プロのマンガ家として一つの考えがありました。人気マンガを描くためには、「普通の人」でなければならないというものです。
 プロのマンガ家であるということは、マンガ作品を出版物にして、何万人もの読者に届けることです。それはつまり、大勢の人が共感を持つマンガを描くということで、そのためには普通の人であるべきだと藤本は考えていました。
 職業はマンガ家であっても、電車に乗って通勤し、仕事が終わって家に帰ると家族団らんの時間を過ごす。休日には部屋の掃除をして、映画を観に出かけたり、家族と食事をする。こうした日常の繰り返しが、プロのマンガ家には必要だと思っていたのです。

 特に仕事が安定してきてからの藤子・F・不二雄氏は、とにかくサラリーマンのような生活を送っていたようだ。

 だからこそ『ドラえもん』『パーマン』『エスパー魔美』『チンプイ』のような日常の中に非日常が混ざる作品を安定して供給できたのだろう。

 ぼくの家には藤子・F・不二雄作品がたくさんあるけど、読んでいておもうのは、とにかく絵が安定しているということ。ムラがないんだよね。「ああこの時期は忙しかったんだろうな」とか「このページを描いているときは筆が乗ってたんだろうな」とか感じることがまるでない。常に安定した品質の漫画を供給している(アシスタントたちの管理が上手だったおかげでもあるのだろう)。

 なるほど、あの安定した品質の作品はこうした安定した生活によって生み出されていたんだろうな。

 こうした姿勢にはプロとしての矜持を感じるが、評伝を書く立場からするとつらいだろうな。おもしろみがなさすぎて。赤塚不二夫氏みたいな人だったらエピソードにも事欠かないんだろうけど。




 ぼくがもっと知りたかったのは、数少ない合作漫画家としての「藤子不二雄」としての面だ。成功した合作漫画家は数いれど、そのほとんどが原案と作画に分かれている。

 藤子不二雄のように「二人とも案を出し、二人で描く」というスタイルで成功した漫画家はほとんどいないんじゃないだろうか(もっとも中期以降は同じペンネームを使ってはいたが別々に描いていたそうだが)。

「天使の玉ちゃん」でもらった稿料二千四百円のほかにも、二人は時おり、マンガの投稿で賞金をもらっていました。
 気づけばそのお金もだんだん増えてきたため、二人は郵便貯金に共通の口座を作り、稿料はすべてそこに貯金することに決めます。二人は貯まったお金を「公金」と称し、ともに相談しながら画材を買ったり、映画を見るための資金として使いました。
 とてもユニークなこのシステムは、後年、二人がマンガ家としてのコンビを解消するまで続けられることになり、共同名義で描いたマンガの稿料はすべて二分割していました。
 通帳は藤本が管理し、毎月月末には「公金」から二人の給料を支払います。どちらが何ページ描いたかなどは関係なく、お金があるときも無いときも、すべて二人で分かち合うのです。
 二人でアイデアを考え、二人でマンガを描き、お金も半分ずつ分ける。二人で一人のマンガ家「藤子不二雄」の誕生です。

 こんなシステムをとりながら、ふたりは喧嘩らしい喧嘩もしたことがなかったという。すげえなあ。絶対に揉めそうなものなのに。

 以前、コンビ作家だった井上 夢人『おかしな二人 ~岡嶋二人盛衰記~』という自伝エッセイを読んだことがある。そこには、はじめはうまくいっていたが、徐々に考え方や仕事の仕方に関して溝が深まり、やがてコンビ解消を決めるふたりの姿が書かれていた。それを読んで「まあそうだよなあ。友だち同士でクリエイティブな仕事をしていたらいつかはこうなるよなあ」とおもったものだ。

「ひとりでは漫才ができない漫才師」や「ひとりではバンド演奏ができないミュージシャン」ならまだしも、「ひとりで作話も作画もできる漫画家」となるとどうしてもコンビを続けなきゃいけない理由もないわけで。そんな状況で、40年近くも(少なくとも名義上は)コンビを続けた藤子不二雄はほんとに奇跡のコンビだとおもう。

 この本では、中期以降のコンビ間の関係がほとんど書かれていなかった。コンビ活動していなかったのだから当然かもしれないけど、もっとコンビの関係を掘り下げてほしかったな。


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【読書感想文】コンビ作家の破局 / 井上 夢人『おかしな二人 ~岡嶋二人盛衰記~』

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2026年2月6日金曜日

小ネタ45(お茶の間 / 近畿 / ふつうのおすもうさん)


お茶の間

 今や「お茶の間」という言葉は「テレビを見ている人のいる場所、またはテレビを見ている人」という意味でしか使われない。


近畿

 テレビCMで「近畿にいる私たちにお得な情報です!」というフレーズが流れていた。近畿にいない人が考えたのだろう。

 近畿の人はまず「近畿の人」と言わない。「関西の人」「関西人」と言う。「近畿」は地理の授業とか天気予報とかで使う“公的な言葉”だ。まず口語では使わない。

(兵庫・京都・大阪に住んだことのある私の実感。ひょっとしたら「近畿」を日常的に使う地域があるかもしれない)


ふつうのおすもうさん

 すれちがい際にちらっと耳に入ってきたのでどういう会話だったのかはわからないが
「ふつうのおすもうさんやで」
という声が聞こえてきた。

 後からじわじわおもしろくなってきた。ふつうのおすもうさん。ふつうのおすもうさん。

 おすもうさん自体が異形の者なのに。



2026年2月5日木曜日

【読書感想文】浅倉 秋成『失恋覚悟のラウンドアバウト』 / いい意味であほらしい

失恋覚悟のラウンドアバウト

浅倉 秋成

内容(e-honより)
「あなたとはお付き合いできません―わたし実は、魔法使いだから」告白を断るため、魔法使いだと嘘をついてしまった女子高生。しかし彼は、人間界と魔法界を超える愛を誓ってくれてしまい…?フリたい私とめげない彼。恋と嘘とが絡みあい、やがて大きな渦となる!ぐるぐる回る、伏線だらけの恋物語!

 SF恋愛コメディ連作短篇集。

 天才科学者、完全に透明な物質、精巧なウソ発見器、すぐにものを盗んでしまう少女、出会う異性すべてを惹きつける特異体質、鉄腕アトムのようなロボット……。ある街を舞台に、奇想天外な人間や発明にふりまわされる人々の姿を描く。まるで『ドラえもん』のような味わい。


「すべて、ラウンドアバウトだったんだよ」
「ラウンドアバウト? ラウンドアバウトって、あの、交差点のラウンドアバウト?」
「そう。あのラウンドアバウト」俺は言う。「あの交差点と同じだったのさ。曲がりたい方向は決まっているのに、敢えて反対の方向に走り出さなきゃならなかったり、あるいは飛び出すタイミングがわからずに、いつまでもぐるぐると周回してしまったり。そんなふうに複雑に、だけれども極めて秩序的にすべてが進行していく。信号もなく、ノンストップで、同時並行的に車が動かされていく。それが「ラウンドアバウト」。俺たちもそんなラウンドアバウトをぐるぐると回らされたメンバーの一員だったんだよ」
「……どういう意味なの?」
 俺は笑った。「この「日の下町」で、おそらくはいくつもの恋模様が展開されたんだ。いくつもの「恋」が、まるでラウンドアバウトみたいに、一緒くたになってぐるぐると展開されていった―――そして俺たちも巻き込まれた。結果、ある者は円滑に結ばれたかもしれない。ある者は、苦難の末に別れる道を選んだかもしれない。いずれにしても、そんな中で俺たちはこうやって回り回って再び結ばれることができた。いわば勝ち組だってことだよ」

 この文章の通り、ラストの短篇ではすべての話の登場人物が集結し、それぞれの話がからみあい、すべてしかるべき結末に着地する。ほどよく伏線も散りばめられ、よくできている……のだが、そもそも設定が荒唐無稽なのでどこまでいってもばかばかしい。

 いい意味であほらしい小説だった。


 浅倉秋成氏の本を読むのは『六人の嘘つきな大学生』『九度目の十八歳を迎えた君と』 『教室が、ひとりになるまで』に次いで4作目だが、これまで読んだ3作がわりとシリアスな話だったので、こんなのも書くのかとちょっと面食らってしまった。

 個人的には、巻末に載っているおまけ4コマ漫画(著者が原作)がいちばんおもしろかった。


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2026年1月28日水曜日

【読書感想文】田中 俊之『男子が10代のうちに考えておきたいこと』 / 「すごい」=「すごいバカだね」

男子が10代のうちに考えておきたいこと

田中 俊之

内容(e-honより)
性別によって求められる役割や進路選択、期待のされ方が違う日本。そのことに気が付かぬまま、また「男らしくあれ」という見えない圧力に窮屈な思いをしたまま大人になる若者も多い。男性学の視点から進路・生き方をとらえなおすとともに、若者へのエールをこめて新しい男子のありようを提言する。

 岩波ジュニア新書。

 この手の、「10代に向けて書かれた本」を読むのけっこう好きなんだよね。もういいおっさんなんだけど。でもおっさんだからこそ素直に読める。

 中高生のときはこういう「年寄りが若い人に向けて説教をする本」なんて読んでも素直に受け取らなかっただろうし、というよりそもそも手に取ろうともおもわなかった。

 でも自分事じゃないから「うん、まあわりとええこと言ってるやん。まあぼくが言われてるわけじゃないからよくわからんけど」ってぐらいのスタンスで読める。本なんて「9割は嘘でも1割ぐらいはいいこと書いてるかもしれん」ぐらいの気持ちで読むのがいいですよ。



 男の子向けの本は、女の子向けの本と比べてあまり多くない。

 それはですね、今の世の中では男のために社会がつくられているので、女性のほうが生きづらさを抱えているんですね、だから女性の問題を考える必要があるのです……なんてことを言う人もいるだろう。まあだいたいあっている。なんだかんだいっても女であることで不自由することのほうが、男だから不自由することよりも多そうだ。

 とはいえ、だからといって男が生きづらくないということにはならない。男は男で大変だ。なのに「男の生きづらさ」はあまり語られない。

 そう、それこそが男の生きづらさの最大の原因だとおもう。つまり「男の生きづらさ」を語ってはいけないとされていることこそが、男の生きづらさだ

「女は家庭を支えなくちゃいけないなんて考えはおかしい!」と言う女はたくさんいるが、「男が仕事に打ちこまなきゃいけないなんて価値観はおかしい!」と言う男は多くない。なぜならそんなことを言う男は“劣った男”という烙印を押されてしまうからだ。

 そりゃあ、男が弱音を吐いたっていい。「仕事は向いてないから兼業主夫がいい」とか「デートのときに男が多く支払うのは嫌だ!」とか言ったっていい。……けどそれはタテマエだ。「言ったっていいですよ、でもそういうことを言う男は雇いませんよ、そんな男は交際相手として魅力ありませんよ」というのが世の中のホンネだ。みんな知っている。だから「男だって生きづらいんだよ!」と主張しない。でも主張しないだけでけっこうつらいんだぜ。


 確かに職業生活は四〇年もの長期にわたりますが、生涯という視点から見た場合、あくまで定年退職は通過点です。それがどれだけ本人にとって価値のあるものだとしても、あくまでワークはライフの一部です。それにもかかわらず、中高年の男性たちはどうしてその後の生活を考えないのでしょうか。聞き取り調査で、定年したばかりの河野さんがこの点について次のような興味深い話をしてくれました。
「ある時点までは我慢でしたね。要するにそれで麻痺して慣れてくるんですね。そういう適応能力ってあるじゃないですか、人間って。だからそういうことで乗り切ってきたのかもしれませんね。」

 特にぼくがつらさを感じていたのは仕事面だ。若い頃、ほんとに仕事がつらかった。ぼくが勤務していたのがブラック企業だったこともあって、1日あたりの通勤時間と勤務時間はあわせて14~16時間。休みは週1日、それでいて給与は低い。いやおうなしに仕事が人生のすべてになってしまう。つらい日々を送っていた。

 そんなにつらかったのに仕事をやめなかったのは、「働かないといけない」というプレッシャーが常にのしかかっていたからだ。たぶん女だったら親や社会からの「働かないといけない」圧もそこまで強くなかったんだろうな、とおもったものだ。

 でも転職をしながらもまあなんとか仕事を続けて今ではもっと楽で給与もいい仕事に就けているので、多少無理をしてでも働き続けてよかったな、とおもわなくもない。ぼくが精神を病んで立ち直れなくなったりしなかったからこそ言えることなんだけど。



 男子のコミュニケーションについて。
 男子のみなさんは、女子から「すごい」と言われたときには、自動的に「バカだね」をつけるクセをつけてください。そのような訓練を積んでおけば、学校はもちろんのこと、将来的には職場でも私生活でも余計な負担を女性にかけず、コミュニケーションがとれるようになります。ついでに言えば、SNSで炎上することもないでしょう。
 せっかくなのでつけ加えておくと、さらにたちが悪いと個人的に思っているのが、達成も逸脱もできるというアピールです。頭がいいけど、悪いこともできる俺は「すごい」というわけです。こうしたケースでは、受験、就活、そして、出世レースで勝ち抜いてきたという「自信」があるので、もはや女性からの視線や評価を気にする必要がありません。そのため、宴会芸としての裸踊りのように逸脱の度合いが高くなり、はたから見れば少しも面白くない内輪ウケになりがちです。
 「一流企業」が「男社会」だった時代は終わりつつあります。職場に女性や外国人などが増え、多様な人が一緒に働くようになる流れのなかで、こうしたノリは確実に廃れていきます。

 これはほんと大事。男子はみんな肝に銘じておいたほうがいい。

 男同士のコミュニケーションって「いかにバカをやるか」「いかに無茶するか」を競うようなところがある。若いうちは特にそうだし、歳をとっても続けている男は少なくない。飲み会で大騒ぎして一気飲み、みたいなのをかっこいいとおもっている男は令和の時代にもまだ絶滅していない。

 そういうのを見たときに女子が「ばかね」と眉をひそめているのを見て、バカな男子は「おっ、おれに注目してるぞ。アピールするチャンス!」なんておもっているけど、その状況でアピールするチャンスなんてゼロだと早くに気づいたほうがいい。部屋にゴキブリが出たときに自分のほうに飛びかかってこないか警戒しながら観察しているのと一緒なので、その注目が好意に転じる可能性は万に一つもない。

 バカが一気飲みをしているときに、モテる男はちゃっかりおまえの意中の女性に優しい言葉をかけて一気飲み男と大きな差をつけているのだ。



 男は友だちをつくるのが下手だとよく言われている。ぼく自身も、学生時代から続いている友人はいるものの、大人になってから休みの日に遊びに行くような友だちができたことはない。

 競争に勝って社会的な地位を達成する上では、形式に基づいてなされる表面的なコミュニケーション能力が高ければ十分です。それだけではなく、流れるように話すことを立て板に水と言いますが、この文脈では、一方的に相手を説き伏せるような能力さえコミュニケーション能力が高いと評価されることもあります。
 ただし、お笑い芸人さんやクラスの人気者に必ずしも友達が多いわけではないことからも分かるように、形式的なコミュニケーションだけでは、人間関係を深めることはできません。逆に人間関係を悪くすることさえもあります。例えば、自分がイジっているつもりなのに、相手はいじめられたと感じるのは、形式ばかりに気を取られて人の心を蔑ろにしたためです。友達になったり、恋人になったりするためには、形式よりもお互いの心に配慮してコミュニケーションをする必要があります。すると、事前に想定していないような方向に会話が展開するので、新しい自分に出会うことになります。相手にも同じことが起こります。こうした深いコミュニケーションを通じて、お互いに信頼感を持つことができるのです。「こんなことを言ったらどう思われるだろう」という不安が自分の気持ちよりも先立てば、いつまでもワンパターンなコミュニケーションから抜け出すことはできず、人間関係が発展することはありません。
 他人の心とつながりを持とうとすると、それに伴って自分の心を覗くことにもなります。みなさんが友達や恋人が欲しいと思っても一歩踏み出せないのは、幼い頃から目を背けてき自分の心に向き合うのが怖いからかもしれません。

 男同士のコミュニケーションって競争が根底にあるんだよね。「こいつより強いとおもわれたい」とか「こいつよりおもしろいとおもわれたい」とか。大人になってもあんまり変わらない。競争の種類は変わるけど(「仕事できるとおもわれたい」「金持ってるとおもわれたい」とか)。

 相手より上に立ちたいとおもっている人間同士がうまくやっていけるはずがない。

 ぼくもずっと「優れた人間になれば人が集まってくる」とおもってたけど、歳を重ねてようやくそれが間違いだったと気づいた。「周りの人間を優れていると認められる人間になれば人が集まってくる」なんだよね。


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2026年1月21日水曜日

【読書感想文】川上 和人『鳥肉以上、鳥学未満。 Human Chicken Interface』 / 飛ぶために多くのものを捨てたやつら

鳥肉以上、鳥学未満。

Human Chicken Interface

川上 和人

内容(e-honより)
ボリュームたっぷり胸肉、スジが噛み切れないササミ…。鳥肉を食べ尽くしながら鳥類を語り尽くす鳥肉界随一の快著、ついに文庫化。ボンジリってお尻じゃないの?鳥の首はろくろ首?昭和の野球部はスズメ跳び!?―トリビアもネタも満載。オーブンのチキンが焼けるまで、とっておきのサイエンスを召し上がれ。

 鳥類学者が、“鳥肉”の観点から鳥の身体について説明する本。ありそうでなかった、おもしろい切り口だ。

 我々にとって鳥肉は日常的に食する身近な食材で、生きて活動する鳥も毎日のように目にする(街中に住んでいたらハト、カラス、スズメぐらいだが)。でもその両者を結びつけて考えることはあまりない。鶏の唐揚げとかフライドチキンとか焼き鳥とかを食べながら「これはあのへんの部位だな」とかいちいち考えない。だって嫌だから。元々は命だったとおもわないほうが気軽に食えるから。

 だけど鳥肉はもともと生きている鳥の一部だったわけで、人間に食べられるために存在しているわけではない。あたりまえだが、あたりまえじゃない。我々が「鶏むね肉」「ササミ」「砂肝」「ぼんじり」「せせり」と呼んでいる部位は、なんのために存在しているのか、なぜ部位によって味が異なるのかを『鳥肉以上、鳥学未満。』では細かく説明してくれる。「鳥」と「鳥肉」をつないでくれる本だ。

 余計なことしないでくれよおれは命だと意識せずに鳥肉を食いたいんだ、という人は読まないほうがいいです。



 食材としてはトリガラ扱いされている鳥の首について。

 鳥にとって首は重要なパーツだ。手のない彼らにとっては、クチバシこそが物を扱う代替器官となっている。クチバシで巣を編み、クチバシで食べ物を採り、クチバシで羽繕いをする。訓練すれば超絶技巧のラ・カンパネラも夢じゃない。首は、このクチバシを世界各地に送り込むための、伸縮自在の可動アームである。能ある鳥は首を隠し、しばしば折りたたんで羽毛の中に収納している。このため目立たないことも多いが、羽毛を取り除くと意外な長さと存在感を誇っているのだ。そして首の長さに合わせ、数多くの頸椎が内包されている。
 哺乳類の頸椎はほとんどの種で7つである。鼻の長いゾウだろうが、耳の長いウサギだろうが、基本的に椎骨の数はそろっているのだ。ホフマンナマケモノでは6つ、ミユビナマケモノでは9つと、なぜだかナマケモノは怠けすぎて例外的な種もいるが、このような例を含めてもせいぜい6~9個と、比較的安定した数となっている。
 一方の鳥類では、ほとんどの種で11個以上の頸椎を持つことが知られている。その数は哺乳類ほど画一化しておらず、種によって大きな変異を持っている。頸椎の少ないものとしては、インコの仲間で9つしか持たない種がいるそうだ。外見的にもインコ類の首はそれほど長くなく、数の少なさも納得が行く。最も数が多いとされているのはオオハクチョウで、25個を誇っている。
 しかし、哺乳類でもキリンのように首の長い種がいる。首の長さをかせぐには、1つ1つの頸椎の長さを伸長させる方法と、頸椎の数を増やす方法の2つがある。哺乳類は前者を採用し、鳥類は後者を採用したというわけだ。なにしろ鳥は、クチバシを小器用に使いさまざまな動作を行う。サギのように首をムチのごとくしならせて、遠くの魚を一撃で捕捉するものもある。首をマニピュレータとして活用する鳥にとって柔軟性は不可欠、短い骨を多数重ねて関節を増やすことによって、滑らかな動きを実現しているのである。

 哺乳類の頸椎の数は基本的に7つ。ヒトでも、キリンやウマのように首の長い動物でも、数は変わらない。だが鳥類はほとんどが11個以上。25個の頸椎を持つ種もいる。

 頸椎が多いということは、首を柔軟に動かせるということだ。そういえば鳥の動きを見ていると、首を器用に動かしてエサをつっついている。あれは頸椎が多いからできる芸当だったのか。

 なぜ首を柔軟に動かすのかというと、鳥は手(前脚)が使えないからだ。脚を2本翼に転用したため、首が脚の代わりをするようになった。

 よく噛んで食べなさいという美人ママのお叱りを尻目に、鳥たちは食べ物を丸呑みにする。タカのようくちばしで肉を切り裂いたり、イカルのように種子を割ったりすることもあるが、基本は丸呑みだ。何しろ歯がなくて噛むことができないのだからしょうがない。しかし、それではいかにも消化に悪そうである。
 にもかかわらず、鳥たちがいちいち胃もたれになっているわけではない。それは、彼らが口の代わりに胃袋で咀嚼しているからだ。鳥は筋肉に覆われた堅牢な胃を持っている。一般に「砂肝」と呼ばれる部位で、そのコリコリとした歯触りで食通たちを喜ばせている。歯を持たない鳥たちは、歯の機能を内臓で補うことによって消化を助けているのである。
 このような器官は人間には存在せず、4つの胃を持つウシですらこれほどにマッチョな胃は持たない。砂肝は鳥に特有の消化器官なのだ。
 
 (中略)
 
 鳥は飛翔のために歯以外にも大切なものを失っている。それは手の器用さだ。人間はお米に字を書けるが、鳥にはできない。これは、手先が不器用だからだ。彼らは空気抵抗の少ない空力学的に優れた翼と引き替えに、手の指をなくしてしまった。指は食物を扱ったり巣を編んだりするために不可欠な器官だったはずだ。この便利な道具を失うのであれば、当然それに代わる道具が必要となったはずだ。それがくちばしだったのかもしれない。
 確かに歯のある口は鳥にとって有用な器官だったはずだが、そのままではトゲのあるペンチのようなもので、指の代替器官としての器用さは不十分だろう。しかし、しなやかなピンセットのごとき精緻な動きを実現するくちばしがあれば、指の消失とともに失われた機能を補うことができただろう。そう考えると、歯のある口に対して歯のないくちばしに、進化的な軍配が上がったとしてもおかしくない。結果的にくちぼしを持つ鳥が進化しているのだから、その機能性の高さは疑うべくもない。
 つまり、焼鳥屋で砂肝に舌鼓を打てるのは鳥に歯がないためで、歯がないのはくちばしがあるためで、くちばしがあるのは指がないためで、指がないのは空を飛ぶためと考えられるのである。ではなぜ空を飛ぶのかというと、それは鳥類が出現した1億5000万年前の世界は恐竜に支配されており、地上にいると肉食恐竜に襲われやすかったからだと推察される。肉食恐竜がイモータン・ジョー的に地上を牛耳っていたからこそ、鳥たちは捕食圧から逃れるために風に乗って空を飛びはじめ、それが結果的に焼鳥屋のメニューを増やすに至ったのだと予想されるのだ。

 空を飛ぶために指をなくした、指をなくしたから器用にものをつかめるくちばしが発達した、くちばしが発達したから歯がなくなった、歯がなくなったから口中で咀嚼できなくなった、口中で咀嚼できないから砂肝を発達させた……。風は吹けば桶屋が儲かる、みたいな話だ。




 鳥はいともかんたんに飛んでいるように見えるが、鳥の身体についていろいろ知ると、「飛ぶ」という能力と代償に実に多くのものを失っていることがわかる。

 前脚、指、歯もそうだし、筋肉や内臓も「とにかく軽く、とにかく翼を動かす力を強く」に振り切って作られている。鳥のヒナが未熟な状態で産まれてくるのも、母鳥の身体を軽くするためだ(なので飛ばなくてもいいニワトリやカモの雛はわりと大きい状態で生まれてくる)。

 空を飛ぶって、相当無茶なことをやっているんだなあ。

 

 動物の身体はよくできているけどちっとも完璧なものではなく、あるものでなんとかやりくりしているだけなのだということがよくわかる。


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2026年1月19日月曜日

【読書感想文】東野 圭吾『希望の糸』 / そもそも血のつながりに興味がない

希望の糸

東野 圭吾

内容(e-honより)
小さな喫茶店を営む女性が殺された。加賀と松宮が捜査しても被害者に関する手がかりは善人というだけ。彼女の不可解な行動を調べると、ある少女の存在が浮上する。一方、金沢で一人の男性が息を引き取ろうとしていた。彼の遺言書には意外な人物の名前があった。彼女や彼が追い求めた希望とは何だったのか。

 加賀刑事シリーズのミステリ。

 殺人事件が発生。捜査を進めていくと、被害者と親しかった男性と、被害者の元夫が何かを隠しているらしい。だが自分が殺したとして名乗り出たのは別の女性だった。はたして犯人の動機は何なのか、二人の男性の隠し事とは何なのか。さらには謎を追う刑事にも「死んだと思っていた父親がいるらしい」という個人的な衝撃事実が伝えられる……。

 と、なかなか込みいったストーリー。「誰が殺したのか」「なぜ殺されたのか」「二人の男はそれぞれ何を隠しているのか」「刑事の父親は誰なのか」といくつもの謎が同時進行で語られる。ごちゃごちゃしてしまいそうなものだが、すっきりわかりやすく読ませる技術はさすが東野圭吾氏。登場人物も画面転換も多いが、「こいつ誰だっけ?」とはならない。

 犯人は中盤で明らかになるのでそこからは犯行にいたった経緯の解明。八割ぐらい読んだところで動機もだいたいわかり、ラストは心情の描写。

 犯人当て、動機の推理、心情変化と物語の主題が移り変わってゆく。飽きさせない構成だが、少々散漫な印象も。すべてが中途半端になってしまった感じもある。



 細かいネタバレは避けるけど、「親子のつながり」がテーマとなっている。親子関係のもとになっているのは何なのか。血のつながりなのか、共に生活してきた記憶なのか、はたまたそのどちらでもないのか。古今東西よく扱われているテーマだ。

 が、個人的にはあまり興味の湧かないテーマだ。幸いにして「親子のつながりとは何か?」という問題に直面してこなかったからかもしれない。(おそらく)実の母親と実の父親に育てられ、(おそらく)実の子を育てている者としては、「そんなに血のつながりって大事なのかな?」とおもってしまう。

 仮に「あなたが父親だとおもっている人は、実は本当の父親ではありませんでした。本当の父親はこの人です」って言われたとしても「はあそうですか。そうはいっても生まれてから40年以上この人を父親とおもって育ってきたので今さら別の人を父親と思うことなんてできないですし、今後もこれまでと同じように『年に数回実家に帰って父母(と思っている人)と会う』という生活が大きく変わることはないでしょうね。まあ遺産相続のときはめんどくさそうなんで、できれば知りたくなかったことですけど」ぐらいにしか思わないんじゃないかな。

 仮に妻から「実は浮気をしていたから、娘はあなたと血のつながった子じゃないかも」と言われたとしたら「えーそんなことは墓まで持っていってほしかったな。どっちにしろぼくは今の生活を壊す気はないし」と思うだろう。もし子どもが生まれなかったら養子をとってもいいと本気で思っていたぐらいなので。

 つまりぼくにとって親や子と血のつながりがあるかどうかなんて、わりとどうでもいいことなのだ。それよりも「いっしょに生活していてそこまで苦じゃないか」とかのほうが大事だ。血のつながりがあろうと嫌いなやつは嫌いだし、血のつながりがなくたって好きな人は好き。それだけ。

 そんな考えだから、「一度も会ったことのない我が子」とか「顔も名前も知らない親」とか言われてもぜんぜん興味が湧かないんだよね。『希望の糸』の登場人物たちの行動を呼んでも、よくそんなどうでもいいことに右往左往できるなあ、という感想しか湧いてこなかったな。

 加賀刑事シリーズはほぼすべてがあたりだとおもっていたけど、今作は加賀刑事シリーズの中ではハズレだったな。加賀刑事あんまり活躍してないし。


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【読書感想文】小川 哲『君が手にするはずだった黄金について』 / ダメなやつに向ける温かい目

君が手にするはずだった黄金について

小川 哲

内容(e-honより)
片桐は高校の同級生。負けず嫌いで口だけ達者、東大に行って起業すると豪語していたが、どこか地方の私大で怪しい情報商材を売りつけていたらしい。それが今や80億円を運用して六本木のタワマンに暮らす有名投資家。ある日、片桐の有料ブログはとつぜん炎上しはじめ、そんな中で僕は寿司屋に誘われる…。著者自身を彷彿とさせる「僕」が、怪しげな人物たちと遭遇する6つの連作短篇集。

 “小川哲”を主人公とする、私小説風の短篇集。

『プロローグ』『三月十日』『小説家の鏡』『君が手にするはずだった黄金について』『偽物』『受賞エッセイ』の6篇を収録。



 読んでいると、つくづく“小川哲”はめんどくさい人だな、とおもう。むずかしく考えなくていいことをわざわざむずかしく考えている。

 就活で企業から「あなたという人間を円グラフで表現してください」という課題が出されたら、一人の人間を有限個の要素によって表現することは可能なのか、その言語的な記述と“私”は完全に同一なものと言えるのか、と哲学的な思考を深める。企業が求めているのはそういうことじゃない、と知っているのに、それでもなお理屈をこねくりまわしてむずかしく考えてしまう。

 でも嫌いじゃないぜ、こういう人。なぜならぼくもそっちのタイプの人間だからだ(ここまでじゃないけど)。当然ながら就活はうまくいかなかった。「本質」とか「完全に正確な回答か」とか考える人間を企業は求めていないのだから。


 野球のことが気になって日常生活を正常に送ることができなくなった時期がある。中学生のときの話だ。
 野球には不可解なネーミングが多すぎる。たとえば「ストライク」と「ボール」と「アウト」。「ストライク」は「打つ」という意味の動詞で、ボールは「球」という意味の名詞で、アウトは「外へ」とか「外に」という意味の副詞や前置詞だ。品詞がまったく揃っていなくて気持ちが悪い°
 内野手が「ファースト」、「セカンド」、「サード」、「ショート」となっているのも気持ち悪い。「ショート」ってなんだ。
 僕はそれらの疑問を野球部の友人たちにぶつけたが、彼らは「わからない」と答えた。彼らがこれらの意味もわからずに野球をやっていることが、僕にとっては理解不能だった。

 ぼくも学生時代こんなことばっかり書いていたなあ。こういう「ささやかな疑問」を書くためのノートも作っていた。ぼくが学生の頃はインターネットが身近になかったので、ちょっとした思い付きやくだらないへりくつを公表する手段がなくて、ノートに書いたり、せいぜい友人に話したりするぐらいだった。当時SNSがあったらハマっていただろう。

 でもいつしかそういう「世の中にある変なこと」に気づくことも減ってしまった。歳をとって感受性が鈍ってしまったんだろうな。残念ながら。

 だが物事をまわりくどくとらえる人がいるから世の中はおもしろい。指示に対して適切に動く人ばかりだったらつまんないぜ。



 おもしろかったのは、占い師にはまってしまった友人の妻を救うため(というより占い師が気に食わないから)占い師と直接対決してその嘘を暴こうとする『小説家の鏡』。

 ぼく自身、占いなんてものはまったく信じていない。とはいえ占いだとか宗教に救われる人がいるのは理解できるので、まったくの無価値とは言わない。鰯の頭も信心から、だ。「テレビの占いを見てちょっといい気分になる」とか「初詣でおみくじを引く」というレベルであれば好きにすればいいとおもう。

 ただ、親しい人が占いにどっぷりはまって毎月安くない金をつぎこむようになったり、占い師に吹き込まれたせいで妙な道に進もうとしていたら、なるべくなら止めたいとおもう。家族なら全力で止める。

 幸い今のところそんな機会はないが、ひょっとしたらこの先娘が良くない占い師にはまってしまうかもしれない。そんな日のために『小説家の鏡』は参考になった。いや、なるのかな。ならないかもしれない。

『小説家の鏡』に出てくる占い師は、かなり優秀な人だ。上手な言い方で誰にでもあてはまるようなことを言う、さりげなく相手の情報を聞き出してさも自分が占いで当てたかのように見せる、はずれたときのための言い訳を散りばめておく、はなから占いに対して疑いを抱いている人と見極めたら早々に返金の意志を示して撤退する(その場合でも占いがイカサマであるとは言わず上手に言い訳をする)……。占い師として優秀なのではなく、営業マンとして優秀だ。成功している占い師というのは多かれ少なかれ似たようなものなのだろう。高額な不動産を買わせたり、ブランド品を買わせたりするのとそう変わらない仕事なのだろう。




『君が手にするはずだった黄金について』『偽物』の2篇も良かった。おもしろい、とはちょっとちがう。感動でもないし怒りでもない。でもたしかに心のある部分を揺さぶられた。なんと表現すればいいんだろう。強いてあげるならやるせなさ、みたいなものかな。

『君が手にするはずだった黄金について』と『偽物』はどちらもダメな人間が出てくる小説だ。巨悪ではない。ちょっとした嘘をつく、少しだけ見栄を張る、約束をすっぽかしてしまう、楽な道を選んでしまう、やらなきゃいけないと知りつつ怠けてしまう。そういうタイプの“ダメ”だ。つまりぼくたちみんなが抱えている“ダメ”だ。たぶん大谷翔平のようなスーパースターですら、ある部分ではそんな“ダメ”な部分を持ち合わせていることだろう。

『君が手にするはずだった黄金について』に出てくる片桐と『偽物』に出てくるババは、そんなダメな人間だ。でも彼らは幸か不幸かいろんな偶然が重なって名声を上げてしまう。はじめはちょっとした嘘だったのに、その嘘が評価されてしまう。その評価に応えるため、さらに嘘を重ねる。それがまた賞賛され、嘘をとりつくろうためにさらなる嘘を重ねる……。

 もちろんそんな虚飾が永遠に続くはずがない(中には死ぬまで逃げ切ってしまう人もいるが)。彼らの嘘は暴かれ、嘘がすべて明るみになったときには謝罪だけでは取り返しのつかない事態になっている。

 これだけなら単なる詐欺師の破滅の物語なのだが、“小川哲”は彼らの炎上、破滅を対岸の火事とはとらえていない。自分と彼らの間に本質的な違いがあるわけではないといスタンスをとったまま一定の理解を示している。彼らが詐欺的行為をはたらいていたことを認めつつも、彼らの嘘がすべて私利私欲から出たわけではないことや、また一面では善性を持っていたことも評価している。トータルでダメなやつだったことは認めつつも。

 このスタンスは持ち続けていたいなとぼくもおもっている。SNSなんかは対立を煽るアルゴリズムが組まれていて、やたらと極端な意見が目立つ。でも、対立する陣営の人たちも、こっち側の人たちも、実際はそんなに変わらないんだろうとおもう。ぼくも嫌いな政治家や嫌いな政党はあるけど、その人たちだって100%私利私欲のために悪をはたらいているわけではなく、別の誰かにとっては優しくて良い政治家だったりするのだろう。

 人でも組織でも思想でも政策でも同じだけど、完全なる善もなければ完全なる悪もない。


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2026年1月14日水曜日

【カードゲームレビュー】ナナ

ナナ

nana


ルール

 1~12の数字が書かれたカードが3枚ずつある(人数によっては使わないカードもある)。これを何枚かずつプレイヤーに配り、残りは場に裏向きに出す。

 つまり「自分が持っているカード(数字がわかる)」「他のプレイヤーが持っているカード(自分には数字がわからない)」「場に裏向きに置かれている(誰にも数字がわからない)」という3種類があるわけだ。

 このうち3枚をめくり、数字がそろえば手に入れられる。3セット、または特定の2セット、1セットをそろえば勝利となる。

 神経衰弱に似ている。ただしポイントは「プレイヤーのカードを表にするときは、所有している中で最大の数、または最小の数しか出せない」というルールがあることだ。これが非常によく効いている。

 たとえば自分のカードが「1,2,2,2,6,8,10,11」だとする。2のカードが3枚あるが、これを出すことはできない。最小ではないからだ。


味わい

 ルールは神経衰弱に似ているが、味わいはまったく違う。神経衰弱が記憶力と運だけの勝負なのに対し、『ナナ』はそれらに加え、推理や心理の読み合いが重要となる。「自分だけが知っているカード」という要素が加わるからだ。

 たとえば、
「あいつの最小のカードは4だった。ということは大きなカードを多く持っている可能性が高い」
とか
「現在、2のカードのありかが2枚明らかになっている。にもかかわらずあいつが2をそろえなかったのは、あいつが2を持っていない、または2を持っているが1も持っているので出したくても出せないからではないか」
といった読みが必要になってくる。

 ときには嘘をつくことも必要だし、すると当然嘘を見抜く力もいる。演技力も必要となる。


感想

 我が家ではかなりのヒット作だった。12歳、7歳の子どもたちは毎日のように「ナナやろう!」と誘ってくる。ぼくとしてもやっていておもしろい。

 なぜなら、手加減しなくてもいい勝負になるから。ぼくは子ども相手だからといって手加減をしたくないので「本気でやってもいい勝負になる」のはすごくありがたい。かといって運まかせでもない。

 はっきりいって、記憶力では子どもたちに敵わない。子どもの方が集中力もある。でも洞察力や嘘をつくうまさではぼくのほうが上だとおもう。ということで、総合的にはいい勝負になる。

 そして最後まで全員に勝利の可能性があるのもいい。基本的には3セットをそろえないと勝利にならないが、7のカードをそろえた場合はその時点で勝利となる。中盤まで劣勢でも逆転勝利の可能性があるので終盤まで緊張感が持続する。

 1回の勝負が5分程度で終わるのもいい。お風呂を沸かしている間に2ゲーム、みたいな感じで気軽にできる。カードだけなので片付けも楽だし。

 不満があるとしたら、カードの裏面の絵柄が上下対称じゃないこと。これだとわりとかんたんにイカサマができちゃうんだよね。ある数字だけ上下逆にしとく、とか。それを防ぐために全部のカードの向きをそろえているんだけど、これがけっこうめんどくさいんだよなあ。

 でも不満点はそれぐらい。カードデザインもかわいいし、材質もいい。手軽にできてハマるゲームです。



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