
読書感想文は随時追加中……
読書感想文リスト
ドラえもんの道具ってすごく危険だよね。
これ使いようによっては大けがするぞとか、死んでもおかしくないぞとかいうものもあるし、もっといえばこれ下手したら人類滅亡させちゃうじゃん、地球消滅しちゃうじゃん、みたいな道具もある。
こんな危険なものを勝手に使ってたら22世紀の世の中はめちゃくちゃになっちゃうぞ、と心配してしまう。
まあ漫画だから。しょせんまだ見ぬ22世紀の話だから。
じゃあ。
21世紀の我々が使っている道具ははたしてそんなに安全なんだろうか。
たとえば自動車。使いようによっては自分や他人の命をかんたんに奪ってしまう。
たとえばインターネット、たとえばスマホ。使いようによっちゃあ国がひっくりかえるほどの影響を与えることもできる。
数世紀前の人間が21世紀の道具を見たら「そんな危ないものをそのへんの人たちがあたりまえに使ってて大丈夫なのか!?」とびっくりするかもね。
「大の里関」のように、関取は「関」をつけて呼ぶ。
こんなふうに特定の職業にだけつく敬称って他にあるのだろうか(〇〇大臣、〇〇名人、〇〇師匠のように肩書そのままの敬称を除く)。
朝はEテレの子ども番組を観ている。平和な気持ちで一日をスタートできるからだ。
だがオリンピックのフィギュアスケートのせいで番組がつぶれた。『みんなのうた』も『プチプチ・アニメ』も『ピタゴラスイッチ』も『0655』も『The Wakey Show』も。
競技のせいで番組がつぶれるのはまだ許そう。だが競技が終わって結果が出た後も、リプレイとか選手が喜んでいる様子とかを長々と放送して、そのせいでいくつかの番組がつぶれた。そういうのは生で放送する必要がないだろ! 夜のニュースとかに回せ! それかBSでやれ! それも無理なら総合でやれ! Eテレは聖域であれ!
サツキに面倒な雑務を押しつけるカンタ
「……ん! ……んっ!」
パズル愛好家・パズル作家によるパズルの入門書。
前半は、パズルの定義、パズルの歴史、世界の各種パズルなど「パズルとは何か」に関する説明。正直、ここはなくてもよかったんじゃないかなあ。この本を手に取るのはほぼパズル好きだけだろうから、「パズルの魅力とは」みたいなことにページを割く必要ないとおもうんだよね。
ぼくも30年以上総合パズル雑誌『ニコリ』の愛読者をやっているほどのパズル好きだけど、「パズルをやると脳が鍛えられる。これからの時代を生き抜くための問題解決能力がパズルによって……」とか言われると「うっせええええ! パズルはおもしろい、おもしろいからパズルをやる、それ以上の理由があるかあああ!」と言いたくなる。
いやほんと「パズルをやる理由」なんて「おもしろいから」しかない。他は全部後付けの理由だ。「おもしろいとはおもわないけどこれからの時代を生き抜く力を養うためにパズルをやろう」と考える人間がパズルを続けられるはずがない。
おもしろかったのは著者のパズル偏愛エピソード。
ふはは。若い頃ってこういうことやっちゃうよなあ。
そういやぼくも仲の良かった女の子にパズルの本をあげたなあ。あれも今おもうと「パズル好きであるぼくのことをもっとよく知ってもらいたい」という気持ちの表れだったんだろうなあ。
パズルで告白って、相手もパズル好きでないかぎりは絶対に不正解だとおもうんだけど、若い頃ってこういう間違いをしちゃうんだよなあ。パズルは解けるのに。
中盤からはやっと自作パズルの紹介やパズルの作り方の解説になるけど、とにかく文量がものたりない。パズルを解きたいならふつうにパズル本を買った方がいい。
パズルを好きじゃない人が手に取るような本じゃないし、パズル好きにはものたりない。どっちつかずで誰にも刺さらない内容になっている。
岩波ジュニア新書だからしょうがないか。
会いたくても会えないアイドル
↓
会いに行けるアイドル
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日常的に会えるアイドル
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会いに来てくれるアイドル
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また会いに来るアイドル
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押しかけて来るアイドル
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なかなか帰らないアイドル
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居座るアイドル
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居つくアイドル
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出ていってほしいアイドル
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こうなったらもう消すしかないアイドル
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消されたアイドル
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失ってはじめて存在の大きさを感じるアイドル
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どれだけ嘆いてももう還ってこないアイドル
↓
会いたくても会えないアイドル
医療リソースが逼迫しているときのトリアージ(救う順番を決めること)、出生前診断、体外受精、尊厳死、臓器移植などの医療倫理についての歴史や議論を紹介する本。
教科書のように浅く広く中立的に紹介しているので、あれこれ書いて結局何が言いたいねん、みたいな着地をしていることが多い。
またあれこれ議論をめぐらさた挙句、現実離れした結論に至っていることもある。たとえばトリアージの項で、締めくくりが「そもそも医療リソースが逼迫しないようにすることが重要だ」的なことが書いてある。それって「お金がないから食費を削るか外出を控えるか娯楽費を削るか」って話をしてるときに「年収を倍にすれば解決するよ」って言ってるようなものじゃないか!
関心を持ったのは、第三章『あなたは、生まれてきた子に重い障がいがあったとしたら、治療に同意しますか? そのまま死なせますか?───障がい新生児の治療停止』。
ぼくも子どもが生まれるときはこのへんのことを心配したから、親の苦悩もわかる。
ダウン症の赤ちゃんが生まれた。腸閉塞の症状を持っていた。治療すれば助かる可能性が高い。だが親は治療拒否(そのまま死なせる)道を選んだ。
むずかしい問題だ。積極的に手を下す(殺す)のはもちろん犯罪だが、「手術をさせない」は犯罪ではない。法ではなく倫理の問題だ。
正直、どっちの気持ちもわかる。自分が親の立場だったら悩むとおもう。そりゃあ道徳的には「赤ちゃんの命が一刻も早く助けられるように」がタダシイ意見だろう。でもそれは無関係な人の無責任な意見だ。「新生児の救命を願う」手紙を書いた人たちは、その子のために何もしてくれない。子育てを代わってくれるわけじゃない。「すべての命は等しく尊い」と言うのはタダだ。
「手術を拒否する」という決断をした親を、無責任な親だということはできない。深く悩んだ末に決断を下し、「子どもを見殺しにした」という十字架を背負って生きていく覚悟をしたのだ。そんな人を高い所から非難することはできない。
障害を持った子を育てるのはそうでない子を育てるのより負担が大きいことはまぎれもない事実で、その現実に目をつぶって「すべての命は等しく尊い」ときれいごとを言うのはあまりにも無責任だ。
「障害を持って生まれたけど生まれてきて良かった」と思う人もいるし、「こんな苦しい人生なら生まれてこなきゃ良かった」と思う人もいるだろう。
「この子を育てる代わりにもう新たに子どもを産むのをあきらめる」も「この子は見殺しにするがまた子どもをつくる」も、一人の命を救って一人の命をなかったことにするという点では同じじゃないかとおもうんだけどね。
ところで、うちの子が生まれる前に病院から「出生前診断をすることができます。それによりダウン症などの疾患を抱えているかどうかが(100%の精度ではないが)わかります。どうしますか?」と訊かれた。
でもさ、それを訊かれたときってもう中絶できる期間を過ぎていたんだよね。つまり「ダウン症の可能性が高い」とわかったところでどうすることもできないわけ。
夫婦で話し合って「どっちみち中絶できるわけじゃないし精度も100%じゃないし、診断を受けたって心配の種を増やすだけだよね」ということで診断は受けなかった。
あの制度、何のためにあるんだろう。
ちょいちょい著者の主張らしきものも顔を出すんだけど、どうもそれがぼくの思想と相いれないんだよね……。
たとえば死後に臓器移植のために身体を提供することについて。
いや、まったく奇妙な感じがしないんだけど……。死んだ後の肉体なんて資源かごみのどっちかでしかないだろ。どう考えたってごみになるよりは資源のほうがよくない?
ぼくは死後に身体がどうなろうとぜんぜんかまわない。臓器移植に使ってもらえるならありがたいし実験のために切り刻まれたってかまわない(さすがに娯楽目的でもてあそばれるのはイヤだけど、声を大にして反対するほどでもない。だって死んでて関知できないんだもん)。
死んだら強制的に死体は国家が没収して有効利用する、でぜんぜんかまわないけどな。 ぼくが信仰心ゼロだからかな。
だってさ、既に「死んだら財産の一部または全部は国家のものになる」っていうルールがまかりとおってるわけじゃない。相続税という名のルールが。相続税は認めて臓器提供は許さないのは理解できない(ぼくからすると死体よりも死者が残した財産のほうがずっと価値がある)。
「死後にオレの身体を勝手に使うな! どうするかはすべて俺が決める!」って「オレの金はすべてオレのもの! 税金なんて一銭も払わんぞ!」ってのと一緒じゃない? 税を認めないラディカルなアナーキストなの? 徴税や徴兵は認めて、国家による死後の身体理由を認めないのがよくわからん。
『臓器税』を作って現物徴収したらいいのに。死後にどうしても臓器を納めたくない人は代わりに金銭で納める、ぐらいの自由は認めてもいいとおもうけど。
臓器移植に限らず、なんかウェットすぎるようにおもうんだよな。生まれる前の胎児とか死んだ後の身体に重きを置きすぎというか。
「障害を理由に中絶することに反対」ってのはいいとして、だったら現在母体保護法第十四条で「妊娠の継続又は分娩が身体的又は経済的理由により母体の健康を著しく害するおそれのあるもの」を理由に中絶が認められていることにも反対しないと筋が通らなくない?
なんで障害を理由とする中絶はダメで経済的理由ならいいの? まったく理解できない(一部の宗教信者のように中絶はすべて認めない、のほうがまだ理解できる)。
なんか合理的な理由なんかなくて、「今の慣行にあってないから賛成しない」みたいな論調が多いんだよな。それはそれで偽らざる心情だろうから個人的見解ならぜんぜんかまわないんだけど、倫理学としてそのスタンスはどうなのよ。
1983年公開『ドラえもん のび太の海底鬼岩城』のリメイク版。前作映画は観たことがないが、漫画版は持っている。
小学一年生の娘といっしょに観に行った。骨太の原作をうまく調理できるのか、という不安もあったが概ね満足。
かなり原作に忠実なリメイクで、大幅に削られたシーンは特にない。ドラえもん映画史上屈指の恐怖シーンである「ジャイアンとスネ夫がこっそりバギーに乗って抜けだす」くだりもしっかり再現されている。映画では毎回危険な目には遭うが、あんなに明示的に死を意識させる状況は他にないよね。
原作を読んだときは「なんだか終盤がやけにあわただしい作品だな」と思ったが、2026年映画版でもその印象は変わらず。敵らしい敵が出てくるのが8割ほど経過してからだからね。だから終盤は説明台詞が多い(漫画版だと後半は文字だらけになる)。
ここは改善してほしかったところだな。
特に1983年時は冷戦下なので「二国間の対立」「軍拡競争が招いた地球滅亡の危機」というテーマが受け入れられやすかったのかもしれないが、今の時代に「核実験の失敗で国が滅んだ後も自動報復システムが起動している」という設定を台詞だけで理解させるのは相当苦しい。大人でも原作を読んでないとしんどいぜ。
ただ前半の「宿題を終わらせるまでキャンプに行ってはいけないとママから言われたのでみんなで協力してのび太の宿題を終わらせる」パートや、中盤の海底豆知識、藤子・F・不二雄氏の想像力が存分に発揮された海中生活の描写(特にトイレのリアリティにこだわるあたりがすばらしい)もそれはそれでおもしろい。物語として見ると冒頭の「のび太がドラえもんの力を借りずに宿題を終わらせる」シーンは蛇足かもしれないけど、日常から自然に冒険の世界へと連れてってくれる役割をはたしている。映画を見慣れている大人にとってはいらないかもしれないけど、子どもにとっては重要な描写だ。
反面、幽霊船のくだりはばっさり削ってもよかったんじゃないかと思う。幽霊船が移動してる意味がまったくわかんないし(しかも海上を移動してたよね)。
『海底鬼岩城』といえば、ドラえもん以上の存在感を見せるバギー。本作の主役といってもいい。
2026年版では、バギーの心境の変化(心があるのかわからないが)をより丁寧に描いている。原作で持っていた性格の悪さ、ポンコツ感も薄めで、ラストの悲劇性が際立つように作っている。
しずかちゃんだけでなく、のび太とバギーの「友だち」に関する会話など、くどいぐらいにバギーの胸中が強調される。そのへんは個人的には説教くさくて好きではないのだが、子ども向け映画としてはこれぐらいわかりやすいほうがいいのかもな。「前の持ち主に粗末に扱われていた」という背景を付与したのも心境の変化に説得力を与えている。結果的に『空の理想郷』のソーニャみたいになってしまったけど……(バギーとソーニャがたどる結末も似ている)。
逆にポンコツ感が増したのがボス・ポセイドン。AIがすっかり身近になった現代の感覚だと、ポセイドンのダメさが目に付いてしまう。感情的になりすぎ。自動報復システムAIがあんなに威張って何かいいことある? まったくしゃべらないほうがかえって不気味さが増したんじゃないかな。
あとしずかちゃんが攻撃されなかった理由の「我には女のデータが少ない」ってなんだよ。エロか?
原作でしずかちゃんが口にする「女の子だったら手荒なことはされないとおもうの」が今の時代にふさわしくないから回避したんだろうけど、結果的にもっとふさわしくない台詞になってないか? なんで今から地球を滅ぼそうとするやつが女のデータ集めるんだよ。
単純に「逃げ遅れたしずかちゃんがさらわれる」ぐらいでよかったのに。
ついでにいえば、アトランティスが滅んだシーンを爆発で表現してたけど、あれはおかしい。国が滅ぶほどの爆発なら、バギー1台突っ込んだだけで壊れるほど脆弱なポセイドンが無事なわけない。「放射性物質漏れでアトランティス人は死に絶えたが機械は動作を続けた」とかにしないと。
おっと。ちょっと愚痴が多すぎた。
良かったとおもえたのは、オープニング映像の美しさ。昨年の『絵世界物語』のオープニングもすばらしかったけど、あの「さあ今からドラえもんの映画が始まるぞ!」というわくわく感だけでも足を運んだ価値があると思える。
改変箇所で感心したのは、ラストのしずかちゃんの涙。漫画版だと涙がぽたりとドラえもんの上に落ちるのだが、今作では涙がふわっと周囲に広がる。そういえば忘れてたけどここは海中だった! 涙が落ちるわけないよな!(トイレにはこだわったF先生も涙のことは忘れていたのだろうか)
良くも悪くもオリジナルの印象が強くのこり、原作の強靭さを改めて実感するリメイクだった。
経営コンサルタント、エンジェル投資家、大学准教授などの経歴を持つ著者による、“若者に向けて”の交渉の指南書。
とっくに若者でなくなったぼくでも学ぶところは多かった。
交渉術といっても「交渉相手の斜め向かいに座れ」みたいな小手先の(そしてどこまで本当かわからない)テクニックではなく、もっと根本的なスキルについて語っている。スキルというより思考法、思想。
くりかえし語られるのは、交渉に必要なのは自分の要求を伝えることではなく、相手の話を聞くことだというメッセージ。
たとえば、学生が企業に対して「採用活動のあり方を変えてくれ」とおこなったデモ活動について。
そうなんだよね。この件にかぎらず、ほとんどのデモってただの主張であって交渉になってないんだよね。だから効果がない。
よく政治的な主張を大声で叫びながらデモをしている人たちがいるけど、あれなんて無意味どころか逆効果だとおもうんだよね。あれを聞いて「私の考えはまちがっていた! デモ隊の言うとおりだ!」と考えを改める人がどれぐらいいるとおもう? 「うっせえなあ。あいつら嫌いだわ」となる人のほうがずっと多いにちがいない。
政権に異議を唱えるデモにしても、政権からしたら「デモに参加するような連中はどう転んだって与党に投票することはないだろうから、これ以上嫌われたってどうってことない」って感じだろう。支持者からそっぽを向かれるのは怖いだろうけど、敵対する政党の支持者から嫌われるのは何のデメリットにもならない。
デモをすれば「おれたちはがんばった!」という自己満足は得られるのだろうが、デモが何かを動かすことはほとんど期待できない。「この法案を引っ込めてくれたら次の総選挙は与党に投票してやるぞー!」ならまだ検討する価値があるだろうけど(その約束を信じてもらえるかどうかは別にして)。
労働法では「労働三権」として、労働者に団結権、団体交渉権、団体行動権が認められている。
労働者が団結(労働組合の組織)する権利、労働組合が使用者と賃金や労働条件等について交渉する権利、そしてストライキをする権利だ。
この権利が力を持つのは、労働者がストライキをちらつかせられるからだ。
「賃金アップを認めないなら従業員が団結してストライキをするぞ。そうなったら困るだろ」
という交渉(もっとあけすけに言えば脅し)をするからこそ、使用者は
「しょうがない。ストで大きな損失を出すよりはマシだから給与を上げるか」
と折れるのだ。
労働者がたった一人で「給与上げてくれー!」と言っても交渉にはならない。「要望を聞き入れることのメリット、聞き入れないことによるデメリット」を語るからこそ交渉になるのだ。
交渉する上で重要なのは「バトナ」だと著者は語る。バトナとはBest Alternative To a Negotiated Agreementの頭文字をとった言葉で、直訳すると「交渉による合意のための最良の代替手段」みたいな感じかな。
要するに「交渉決裂時の他の選択肢」だ。
ぼくは転職時にこれを実感した。
数年前に転職したが、そのとき在籍中の会社をどうしてもやめたかったわけではない。「今の会社でもまあいいけどもっといい条件の会社があれば」ぐらいの気持ちだった。この余裕はすごく大事だ。転職先の会社と強気の給与交渉ができる。「別にこっちはこの会社でなくてもいいんですよ」という気持ちで臨めるのだから。
大学生で就活をしていたときはそのへんをわかっていなくて「たくさん内定をもらっても最終的には1社にしか行けないのだから、たくさん受けてもしょうがないだろ」という気持ちでいた。行きたい会社だけを受けるから、不採用だったときはすごく落ち込む。余裕を失ってどんどん追い詰められ、最終的には「内定が出たらもうどこでもいい」ぐらいの気持ちになっていた。
今ならわかる。大して行きたくなくても、とりあえず何社か内定はもらっておいたほうがいい。それがバトナとなって自信に満ちた面接ができる。
何事をするにも、時間的・経済的に余裕があったほうがいいということだ。不動産を探すにしても「どうしても今週中に引っ越し先を見つけないといけないんです」という人より「今よりいい条件の物件があれば引っ越してもいいかな」という人のほうが良い物件に出会えるはずだ(前者は不動産屋からしたらいいカモだろう)。
最終章で著者から若者に向けてのメッセージ。
いやほんと。
救命救急と同じだよね。「誰か救急車を呼んでください!」だと誰も動かないことが往々にしてあるけど、誰かひとりを指さして「あなた、救急車を呼んでください!」と言えば動いてくれるというやつ。
いきなり社会全体を動かすなんて無理に決まっている。まずは誰かひとり。できるだけ影響力のある誰か。
本気で世の中を変えようと思うのなら、デモをしたりSNSで愚痴ったりするより、地元選出の市議会議員にでも陳情に行くほうがよっぽど効果があるだろう。
ってこんな僻地のブログでぐちぐち書いてるぼくが言うなよって話なんだけど……。
工学博士である著者が、自身が見聞きした数々の“失敗”を学問に昇華させた本。
失敗を単なるマイナスととらえるのではなく、多くの学びを与えてくれる成功の種と考える。現実的で、非常に有意義な考え方だ。
常々書いているが、ぼくは「失敗しない人」を信じない。よくいるよね。己の失敗を認めない人。自分の功績だけを喧伝して失敗については口が裂けても語らない人。「あれはそのような意図ではなかった。誤解を与えたのであれば申し訳ない」と言い訳に終始する人。特に政治家に多い。最近も、自分の過去のブログと最近の発言の矛盾を指摘されて、あわててブログを削除したみっともない総理大臣がいた(おまけにブログを削除したことにも「HPをシンプルにした」という言い訳をして恥の上塗りをしていた)。
とあるドラマで、主人公が「私、失敗しないので」を決め台詞にしていた。最も信用してはいけない人だ。「絶対に失敗しない人」=「絶対に失敗を認めない人」である。当然ながら学びも成長もない。一生他人のせいにして生きていくだけだ(なのに人々はこういうダメな人を“強いリーダー”と勘違いしちゃうんだよな。バカなだけなのに)。
そんなどうしようもない「絶対に失敗しない人」にならないためには、失敗から学ぶ姿勢を身につけなくてはならない。
『失敗学のすすめ』では、失敗が起こる原因をいくつかの分類に分けている。
そのうちのひとつ。
よく「組織単位の不祥事」がニュースになっている。
会社ぐるみで犯罪行為に手を染めるような行為だ。最近も「不動産を買うために上司の命令で放火した」という事件がニュースになっていた。
ふつう、いくら上司に命令されたからってそんなことはしない。上司の命令よりも法律のほうが優先されるに決まっている。誰だってわかる。
でも。法律や社会のルールよりも、狭いコミュニティのルールを優先してしまうことがよくある。特別な人間だけではない。実に多くの人が過ちを犯す。
街中で子どもを殴る大人はほとんどいない。でも、学校の中、部活の中ではそんな大人は山ほどいる。街中で他人を大声で罵倒しない人が、会社の中では部下を大声で人格否定をして恫喝する。
特に「いいことをしている」と信じている人は危険だ。ボランティアスタッフが、通行の妨げとなる場所で活動をする。ボランティアをするという大義名分が、社会のルールを守るというあたりまえのことを上回ってしまうのだ。
組織のローカルルールが強くなりすぎると、とりかえしのつかない大失敗を招いてしまう。
先ほどの話にも通じるが、強い上下関係があると失敗は起きやすい。
成功者の周囲がイエスマンばかりになって、どんどん間違った道へ突き進んでしまう……。よく見る光景だ。
人間誰しも批判されることは嫌いだ。でも批判を遠ざけてしまうと、間違った道に進んでも引き戻してくれる人がいなくなる。えらい人がそのえらさゆえにえらくなくなってしまう。
部下から誤りを指摘されることを恥だと考える人は、誤りを修正する機会を失ってしまう。聞くは一時の恥聞かぬは一生の恥とはよく言ったものだ。
失敗を起こしやすい体質について。
そうなのよね。会議って最初は「様々な意見を聞きたい」「みんなで議論して思考を深めたい」みたいな意図で始まって、はじめはそこそこ効果を上げる。でも回を重ねるごとに意義は失われてゆき、「やめて文句を言われたらいやだから」「失敗の責任を押しつけられないようにみんなで決めたということにしたい」みたいな理由でだらだらと継続してゆく。さらには「あいつは俺に反対意見ばかり言うからメンバーから外そう」なんて動きをする人間まで現れて、広く意見を聞くどころか、多様な意見を封じるために会議が使われたりする。
失敗から学ぶ、失敗の芽を早めに摘むための方法がいろいろ書いてあって参考になるんだけど、これを実践するのはむずかしそうだ。特に組織が大きくなればなるほど。
「失敗を防ぐよりも自分の評価を下げないことのほうが優先」という人がぜったいにいるからなあ。
ドラゴンボールのすごさのひとつに「悪役のネーミング」がある。
ふつう悪役って悪そう、強そうな名前をつけたくなるじゃない。濁点多めの。
なのにドラゴンボールの悪役はほとんどが悪役っぽくない名前を持っている。作中ではじめて殺人を犯した桃白白(タオパイパイ)なんて、漢字も音もすごくカワイイ。ピッコロもかわいい。音の響きだけでいえばピッコロの手下であるシンバルとかドラムのほうがよっぽど強そうだ。ベジータとかナッパなんて野菜だぜ。食べ物縛りで悪役の名前をつけるとなったら、ふつう肉の名前をつけない? ビフテキとかボルシチとかケバブとか。野菜をつけようとおもう?
でもセル編はふつうだ。ドクターゲロとかセルとか、いかにも悪役っぽいネーミングだ。まあセル編ってドラゴンボールの中ではちょっと異色だしな。主人公の交代を図っていた時期だし。ふつうすぎて逆に異色。
「議員が秘書を蹴った」とか「議員が大切なものを踏んづけた」といった醜聞の場合も『下半身スキャンダル』と言っていい。
通勤電車で、座席に座っていると目の前にヘルプマークつけている人が立った。席を譲ったら感謝された。
……と、ここまではお互い気分よくなれてよかった話なのだが、どうも譲った相手に顔を覚えられたらしく次の日もその次の日もぼくの前に立ってくるようになった。嫌になったので乗る車両を変えた。
歌舞伎の世界について、かねてよりきな臭さを感じていた。歌舞伎そのものというより、歌舞伎役者の持ち上げられ方について。
歌舞伎自体は嫌いでもなんでもないんだよ。そもそも観たことがないので嫌いになりようもない。
歌舞伎は一つの文化だ。落語とかバレエとかコントとかパントマイムとかアニメとかパチンコとかと同じで、一部の好きな人のために存在する文化。ぼくは興味ないけど、まあ害があるわけじゃないから好きにすれば? という文化。
でも、歌舞伎はなんだか不当に持ち上げられている気がする。なんか勝手に「我こそが日本文化の代表」みたいな顔をしている、というか。
オリンピック選手の扱われ方と同じような嘘くささを感じる。たとえばオリンピックのカーリング代表選手は、日本カーリング協会を代表してオリンピックに出ているわけであって、正確には日本の代表ではない。だってぼくのところに代表選考会への参加を呼びかけるお知らせは届いていないのだから。ぼくやあなたとはまったく無関係に決まった代表なのだから、日本代表ではない。なのに勝手に日本人すべてを代表しているような顔をしている。
歌舞伎も同じだ。歌舞伎界ではすごい人なのかもしれないが、そんなものは歌舞伎界の外では関係ない。ある学校でカリスマ的人気を誇る教師がいたからといって、日本人みんながその教師をあがめたてまつる必要はまったくない。
なのに、たとえばテレビに歌舞伎役者が出たときは「この人は歌舞伎界のすごい人なのである。だからみんなこの人を丁重に扱うように!」的な扱われ方をしている。パチンコ業界内で超有名な凄腕パチプロがテレビに出たときにも同じ扱い方をするか?
歌舞伎界が悪いわけじゃなくて、そんなふうに扱うメディアが悪いんだけど。
以前、永六輔『芸人その世界』という本を読んだ(⇒ 感想)。芸人(歌舞伎、新劇、落語、講談など)の発言を集めた本なのだが、それを読むと歌舞伎役者を含む芸人界がいかにヤクザな世界だったかがよくわかる。
でもそれはぜんぜん悪いことじゃなくて、まっとうに働いて生きていくことのできない人に、それなりに社会的立場を与えてくれるのが芸人という仕事だったのだ。本当ならヤクザに入っていたような人を、ヤクザ一歩手前の世界に拾いあげてくれる場が芸能界だった。
さっきわざと歌舞伎とパチンコを同列に扱ったけど、まさに歌舞伎はパチンコのような存在だったのだ。一応ギャンブルなので褒められた行為ではないけど、私営賭博や闇カジノに行くよりはまだマシだよね、という存在。
そんなふうに、“カタギとヤクザの狭間の存在”だった歌舞伎が、いつのまにか“日本を世界に誇る伝統芸能”になってしまった。それって何よりも、当の歌舞伎界にいる人たちにとって不幸なことなんじゃないだろうか。
世襲とか、五歳ぐらいの子どもを舞台に立たせて大人たちが大喜びしているところとか、今の価値観だとかなり気持ち悪いことやってるわけじゃない。「俺たちははぐれ者なんだから変なことやってるけど許してね」というスタンスなら許されていたことが、「国を代表する伝統芸能です」という看板をつけてしまうと許されなくなってしまう。
お笑い芸人も同じ道をたどっている。以前なら女遊びや喧嘩や軽犯罪や反社会的勢力との付き合いがあっても「まあ芸人なんだからしょうがないよね」と大目に見られていた。だけどコンプラの締め付けが厳しくなり、昔だったら「芸人だから」でお目こぼしされていたようなことでも今だと一発退場、なんてことになっている。
健全な社会になることでやりやすさを感じる人もいるだろうが、その反面、「まともな社会生活を送れないから芸人になった」タイプの人にとっては生きづらい世界になっているのではないだろうか。
かねてより「歌舞伎界ってそんなにきれいな世界じゃねえだろ。変に持ち上げてると当の歌舞伎界を締めつけることになっちまうぞ」という目で見ていたので、吉田修一『国宝』を読んで「よくぞ歌舞伎界の汚い面を書いてくれた!」と感じた。汚い面があるからこそ美しい面が光り輝くわけですよ。
主人公・喜久雄は、ヤクザの親分の息子として生まれ、中学校にも通わず背中に大きな刺青を入れるなど父の後を継ぐべく極道の道をまっしぐらに進んでいた。だが十五歳のときに抗争により父親が殺害される。以降、組の勢力は弱まり、喜久雄は伝手を頼って歌舞伎役者の家に預けられることとなる。
すっかり歌舞伎の魅力にとりつかれ、稽古に明け暮れる喜久雄。襲いかかる様々な試練を歌舞伎の実力と、ヤクザによるバックアップ、隠し子、政略結婚などの決してきれいとは言えない手段で切り抜けてゆく。だが喜久雄の歌舞伎役者としての成功と引き換えかのように、周囲の人間には次々と不幸が訪れ……。
「芸人たる者、芸さえ一流であれば他はダメでもかまわない(むしろ私生活が派手なほうがいい)」時代から、「芸人であっても社会人としての常識は身につけなくてはならない」時代へ。時代の変化とともに、一途に芸に邁進する喜久雄はどんどん周囲から孤立してゆく。
喜久雄と同じ時代を生きるお笑い芸人・弁天はテレビタレントとして大成功を収めた後にこう語る。
権威に逆らって生きることで成功したら、自分自身が権威になってしまう。成功するほど、かつて目指した姿から遠ざかってしまう。なんとむなしい道だろう。
歌舞伎に限った話ではなく、ある分野で傑出した成功を収めようとおもったら一種の異常者でないといけないのだろう。
この文章の中では“ヤクザな人間”と表現している。
たしかに、犯罪者の手口を紹介するニュースなんかを見ると
「犯罪をするためにめちゃくちゃ考えて、めちゃくちゃ努力してるじゃん。その能力があったらまっとうに働いても成功してただろ」
と言いたくなるような犯罪者がいる。
その逆で、ある程度成功している会社の経営者を見ていると倫理観や常識がぶっ壊れている人がめずらしくない。これは“ヤクザな人間”がたまたままっとうな道に進んだ例だろう(まっとうな経営をしていないケースも多いが)。
芸術の道でもヤクザな道でも、成功するのはイカれた人間が多いのだろう(ただしイカれた人間が成功するとは限らない)。
こないだ『教場』テレビドラマを放送していた。途中から観た。
「断片的にはけっこうおもしろいけど全体的によくわかんないドラマだな」とおもった。途中から観たせいだろうとおもって原作小説を読んでみた。
……うん、原作も同じだった。断片的なエピソードはおもしろいんだけど「全体的にどうだった?」と訊かれると答えに窮してしまう。神話とか聖書みたい。エピソードの詰め合わせで、全体を貫く芯のようなものがあまり見えてこない。
いや、全体を貫く芯はあるにはある。教場(警察学校)の教官である風間だ。どんな些細な変化も嘘も見逃さない厳格な教官。この教官の観察眼がストーリーを動かしている。
だが。この風間教官、ほとんど全智全能の神なんだよね。すべてを見透かしてしまう。あらゆる知識が頭に入っているし、どんな隠し事も風間教官の前では通用しない。弱点がまるでない。神といっしょだ。だから神話や聖書みたいな読後感になってしまう。『教場』を読んでいると、小説の登場人物を魅力的なものにするのは欠点なのだとつくづく感じる。
(ところでドラマ版ではこの風間教官をキムタクが演じていたのだが、実にぴったりの配役だとおもう。完璧すぎてつけいる隙のない人物として適役だった。人間的おもしろみのなさがぴったりハマっていた)
どの短篇もミステリとしてよくできているのだけど、よくできすぎている気もする。
風間教官がおもしろみのない人物であるのと対称的に、警察学校の生徒たちは実に人間くさい。悩み、迷い、疑い、失敗をし、嘘をつき、ごまかし、他人を陥れようとする。神の前で右往左往する哀れな人間、という感じだ。ぼくらが共感するのはこっち側だ。
絶対的な神である風間教官は、決して生徒の嘘を見逃さない。だから『教場』には常に息苦しさが漂っている。生徒たちと同じように、「おまえらの行動はすべて見張られているんだぞ」と言われている気分だ。まるで囚人になったような気分だ。いや、囚人ですらもうちょっと自由があるのではないか。看守は神ではないのだから。
このまとわりつくような息苦しさ、個人的には嫌いではない(フィクションとして楽しむ分には)。臭いとわかっていて汗の染みた靴下のにおいを嗅いでしまうように、ついつい引き寄せられてしまう不愉快さがある。
『教場』で書かれる警察学校の生活はとても厳しい。刑務所のほうがここよりずっと楽だろう、とおもえる。
もちろん小説なので実際の警察学校とはちがうのだろうが、一部は現実に近い(あるいは現実のほうがもっと酷い)のだろうなと思わされる。
徹頭徹尾管理され、理不尽な規則や暴力にも従わなければならない世界。生徒たちに人権はない。そんな場所にいる人間がまともな感覚を保てるはずがない。
校則の厳しい学校や強豪部活で往々にしてフラストレーションが集団内いじめに向かうように、理不尽な目に遭った者たちはさらに弱い者を攻撃するようになるのが世の常だ。(警察学校に限らず)警察内でハラスメントや暴力が問題になっているのをよく耳にする。
ぼくが疑問におもうのは、なんでそこまでして警察官になりたいんだろうということだ。この屈辱的な仕打ちを耐え忍んだ先に強大な権力が手に入るというのであればまだわかる。
だが理不尽な指導や暴力に耐えて耐えて警察学校を卒業したところで、その先に待つのはやはり上からの理不尽な指導に耐える日々だろう。公務員なのでものすごく給与が高いわけでもない。めちゃくちゃ出世して警視総監になったところで、己のために権力を使えるわけではない(まあそれなりの役得もあるだろうけど)。しょうもない政治家にぺこぺこしなきゃいけない。
一部の国では警察組織が腐敗していて、警官が賄賂を受け取ったり身内の犯罪をもみ消したりするという。そういう国だったら警察官を目指すのはまだ理解できるんだけどね。
ぼくのような怠惰な人間は、もっと楽で待遇のいい仕事はいくらでもあるのに、とおもってしまう。警察官を目指す人の気持ちはどうもよくわからない。
『教場』で書かれている警察学校の描写ってどこまで事実に基づいているのだろう。
ずいぶん取材をして書いたらしいのでどれも本当のような気もするし、さすがにそれは厳しすぎるだろうとおもう面もある。
たとえば生徒が毎日書いて提出しなければならない日記について。
正確な報告を挙げなければならないという理念はわかるのだが、一発退校処分はあまりに厳しすぎる。ついついストーリーを捜索してしまうことなんてよくあることだし(ぼくなんかほら吹きなので初日で退校になるとおもう)。
じゃあ警察官が正確な報告を挙げているかというと……。いやあ、警察組織ぐるみでの改竄や虚偽報告なんてしょっちゅう起こっているし、それがばれたときの処分もめちゃくちゃ甘いけどなあ。
誤りや虚偽を許さない組織だからこそ、逆にミスを認めることができずに大事にしちゃうのかなあ。
『ドラえもん』『パーマン』『キテレツ大百科』『エスパー魔美』『21エモン』などのヒット作で知られる漫画家・藤子・F・不二雄の評伝。青少年向け。
独自に調べた内容はほとんどなく、藤子不二雄Ⓐの自伝や他の評伝の内容をまとめて再構成した本、という感じなので書いている内容に新鮮味はない。おまけに青少年向けなので内容もマイルドで、「こんなに漫画を愛した人だったんです」「こんな風に努力しました」といった記述ばかりで、はっきり言ってつまらない。
伝記って、いい面と悪い面の両方があるからこそ書かれている人が人間として立ち上がってくるんだよね。かつて読んだ伝記でも「エジソンは学校では落第生だった、おまけに家の横に作った研究室を爆発でふっとばした」「野口英世は渡米費用を借りたが、その金を遊郭で使い果たしてしまった」とかのエピソードのほうが記憶に残っている。そういう人間くさいエピソードこそ伝記の醍醐味だとおもうぜ。
「エジソンは一生懸命研究して様々な発明品を残しました」だけだったらこんなに我々の印象に残ってなかったはず。
まあつまらない評伝になってしまうのも無理はないというか、藤子・F・不二雄さんという人は偉大な漫画家ではあるが、人間としてはあまり面白味のある人物ではなかったようだ。
特に仕事が安定してきてからの藤子・F・不二雄氏は、とにかくサラリーマンのような生活を送っていたようだ。
だからこそ『ドラえもん』『パーマン』『エスパー魔美』『チンプイ』のような日常の中に非日常が混ざる作品を安定して供給できたのだろう。
ぼくの家には藤子・F・不二雄作品がたくさんあるけど、読んでいておもうのは、とにかく絵が安定しているということ。ムラがないんだよね。「ああこの時期は忙しかったんだろうな」とか「このページを描いているときは筆が乗ってたんだろうな」とか感じることがまるでない。常に安定した品質の漫画を供給している(アシスタントたちの管理が上手だったおかげでもあるのだろう)。
なるほど、あの安定した品質の作品はこうした安定した生活によって生み出されていたんだろうな。
こうした姿勢にはプロとしての矜持を感じるが、評伝を書く立場からするとつらいだろうな。おもしろみがなさすぎて。赤塚不二夫氏みたいな人だったらエピソードにも事欠かないんだろうけど。
ぼくがもっと知りたかったのは、数少ない合作漫画家としての「藤子不二雄」としての面だ。成功した合作漫画家は数いれど、そのほとんどが原案と作画に分かれている。
藤子不二雄のように「二人とも案を出し、二人で描く」というスタイルで成功した漫画家はほとんどいないんじゃないだろうか(もっとも中期以降は同じペンネームを使ってはいたが別々に描いていたそうだが)。
こんなシステムをとりながら、ふたりは喧嘩らしい喧嘩もしたことがなかったという。すげえなあ。絶対に揉めそうなものなのに。
以前、コンビ作家だった井上 夢人『おかしな二人 ~岡嶋二人盛衰記~』という自伝エッセイを読んだことがある。そこには、はじめはうまくいっていたが、徐々に考え方や仕事の仕方に関して溝が深まり、やがてコンビ解消を決めるふたりの姿が書かれていた。それを読んで「まあそうだよなあ。友だち同士でクリエイティブな仕事をしていたらいつかはこうなるよなあ」とおもったものだ。
「ひとりでは漫才ができない漫才師」や「ひとりではバンド演奏ができないミュージシャン」ならまだしも、「ひとりで作話も作画もできる漫画家」となるとどうしてもコンビを続けなきゃいけない理由もないわけで。そんな状況で、40年近くも(少なくとも名義上は)コンビを続けた藤子不二雄はほんとに奇跡のコンビだとおもう。
この本では、中期以降のコンビ間の関係がほとんど書かれていなかった。コンビ活動していなかったのだから当然かもしれないけど、もっとコンビの関係を掘り下げてほしかったな。
今や「お茶の間」という言葉は「テレビを見ている人のいる場所、またはテレビを見ている人」という意味でしか使われない。
テレビCMで「近畿にいる私たちにお得な情報です!」というフレーズが流れていた。近畿にいない人が考えたのだろう。
近畿の人はまず「近畿の人」と言わない。「関西の人」「関西人」と言う。「近畿」は地理の授業とか天気予報とかで使う“公的な言葉”だ。まず口語では使わない。
(兵庫・京都・大阪に住んだことのある私の実感。ひょっとしたら「近畿」を日常的に使う地域があるかもしれない)
すれちがい際にちらっと耳に入ってきたのでどういう会話だったのかはわからないが
「ふつうのおすもうさんやで」
という声が聞こえてきた。
後からじわじわおもしろくなってきた。ふつうのおすもうさん。ふつうのおすもうさん。
おすもうさん自体が異形の者なのに。
SF恋愛コメディ連作短篇集。
天才科学者、完全に透明な物質、精巧なウソ発見器、すぐにものを盗んでしまう少女、出会う異性すべてを惹きつける特異体質、鉄腕アトムのようなロボット……。ある街を舞台に、奇想天外な人間や発明にふりまわされる人々の姿を描く。まるで『ドラえもん』のような味わい。
この文章の通り、ラストの短篇ではすべての話の登場人物が集結し、それぞれの話がからみあい、すべてしかるべき結末に着地する。ほどよく伏線も散りばめられ、よくできている……のだが、そもそも設定が荒唐無稽なのでどこまでいってもばかばかしい。
いい意味であほらしい小説だった。
浅倉秋成氏の本を読むのは『六人の嘘つきな大学生』『九度目の十八歳を迎えた君と』 『教室が、ひとりになるまで』に次いで4作目だが、これまで読んだ3作がわりとシリアスな話だったので、こんなのも書くのかとちょっと面食らってしまった。
個人的には、巻末に載っているおまけ4コマ漫画(著者が原作)がいちばんおもしろかった。
岩波ジュニア新書。
この手の、「10代に向けて書かれた本」を読むのけっこう好きなんだよね。もういいおっさんなんだけど。でもおっさんだからこそ素直に読める。
中高生のときはこういう「年寄りが若い人に向けて説教をする本」なんて読んでも素直に受け取らなかっただろうし、というよりそもそも手に取ろうともおもわなかった。
でも自分事じゃないから「うん、まあわりとええこと言ってるやん。まあぼくが言われてるわけじゃないからよくわからんけど」ってぐらいのスタンスで読める。本なんて「9割は嘘でも1割ぐらいはいいこと書いてるかもしれん」ぐらいの気持ちで読むのがいいですよ。
男の子向けの本は、女の子向けの本と比べてあまり多くない。
それはですね、今の世の中では男のために社会がつくられているので、女性のほうが生きづらさを抱えているんですね、だから女性の問題を考える必要があるのです……なんてことを言う人もいるだろう。まあだいたいあっている。なんだかんだいっても女であることで不自由することのほうが、男だから不自由することよりも多そうだ。
とはいえ、だからといって男が生きづらくないということにはならない。男は男で大変だ。なのに「男の生きづらさ」はあまり語られない。
そう、それこそが男の生きづらさの最大の原因だとおもう。つまり「男の生きづらさ」を語ってはいけないとされていることこそが、男の生きづらさだ。
「女は家庭を支えなくちゃいけないなんて考えはおかしい!」と言う女はたくさんいるが、「男が仕事に打ちこまなきゃいけないなんて価値観はおかしい!」と言う男は多くない。なぜならそんなことを言う男は“劣った男”という烙印を押されてしまうからだ。
そりゃあ、男が弱音を吐いたっていい。「仕事は向いてないから兼業主夫がいい」とか「デートのときに男が多く支払うのは嫌だ!」とか言ったっていい。……けどそれはタテマエだ。「言ったっていいですよ、でもそういうことを言う男は雇いませんよ、そんな男は交際相手として魅力ありませんよ」というのが世の中のホンネだ。みんな知っている。だから「男だって生きづらいんだよ!」と主張しない。でも主張しないだけでけっこうつらいんだぜ。
特にぼくがつらさを感じていたのは仕事面だ。若い頃、ほんとに仕事がつらかった。ぼくが勤務していたのがブラック企業だったこともあって、1日あたりの通勤時間と勤務時間はあわせて14~16時間。休みは週1日、それでいて給与は低い。いやおうなしに仕事が人生のすべてになってしまう。つらい日々を送っていた。
そんなにつらかったのに仕事をやめなかったのは、「働かないといけない」というプレッシャーが常にのしかかっていたからだ。たぶん女だったら親や社会からの「働かないといけない」圧もそこまで強くなかったんだろうな、とおもったものだ。
でも転職をしながらもまあなんとか仕事を続けて今ではもっと楽で給与もいい仕事に就けているので、多少無理をしてでも働き続けてよかったな、とおもわなくもない。ぼくが精神を病んで立ち直れなくなったりしなかったからこそ言えることなんだけど。
これはほんと大事。男子はみんな肝に銘じておいたほうがいい。
男同士のコミュニケーションって「いかにバカをやるか」「いかに無茶するか」を競うようなところがある。若いうちは特にそうだし、歳をとっても続けている男は少なくない。飲み会で大騒ぎして一気飲み、みたいなのをかっこいいとおもっている男は令和の時代にもまだ絶滅していない。
そういうのを見たときに女子が「ばかね」と眉をひそめているのを見て、バカな男子は「おっ、おれに注目してるぞ。アピールするチャンス!」なんておもっているけど、その状況でアピールするチャンスなんてゼロだと早くに気づいたほうがいい。部屋にゴキブリが出たときに自分のほうに飛びかかってこないか警戒しながら観察しているのと一緒なので、その注目が好意に転じる可能性は万に一つもない。
バカが一気飲みをしているときに、モテる男はちゃっかりおまえの意中の女性に優しい言葉をかけて一気飲み男と大きな差をつけているのだ。
男は友だちをつくるのが下手だとよく言われている。ぼく自身も、学生時代から続いている友人はいるものの、大人になってから休みの日に遊びに行くような友だちができたことはない。
男同士のコミュニケーションって競争が根底にあるんだよね。「こいつより強いとおもわれたい」とか「こいつよりおもしろいとおもわれたい」とか。大人になってもあんまり変わらない。競争の種類は変わるけど(「仕事できるとおもわれたい」「金持ってるとおもわれたい」とか)。
相手より上に立ちたいとおもっている人間同士がうまくやっていけるはずがない。
ぼくもずっと「優れた人間になれば人が集まってくる」とおもってたけど、歳を重ねてようやくそれが間違いだったと気づいた。「周りの人間を優れていると認められる人間になれば人が集まってくる」なんだよね。
鳥類学者が、“鳥肉”の観点から鳥の身体について説明する本。ありそうでなかった、おもしろい切り口だ。
我々にとって鳥肉は日常的に食する身近な食材で、生きて活動する鳥も毎日のように目にする(街中に住んでいたらハト、カラス、スズメぐらいだが)。でもその両者を結びつけて考えることはあまりない。鶏の唐揚げとかフライドチキンとか焼き鳥とかを食べながら「これはあのへんの部位だな」とかいちいち考えない。だって嫌だから。元々は命だったとおもわないほうが気軽に食えるから。
だけど鳥肉はもともと生きている鳥の一部だったわけで、人間に食べられるために存在しているわけではない。あたりまえだが、あたりまえじゃない。我々が「鶏むね肉」「ササミ」「砂肝」「ぼんじり」「せせり」と呼んでいる部位は、なんのために存在しているのか、なぜ部位によって味が異なるのかを『鳥肉以上、鳥学未満。』では細かく説明してくれる。「鳥」と「鳥肉」をつないでくれる本だ。
余計なことしないでくれよおれは命だと意識せずに鳥肉を食いたいんだ、という人は読まないほうがいいです。
食材としてはトリガラ扱いされている鳥の首について。
哺乳類の頸椎の数は基本的に7つ。ヒトでも、キリンやウマのように首の長い動物でも、数は変わらない。だが鳥類はほとんどが11個以上。25個の頸椎を持つ種もいる。
頸椎が多いということは、首を柔軟に動かせるということだ。そういえば鳥の動きを見ていると、首を器用に動かしてエサをつっついている。あれは頸椎が多いからできる芸当だったのか。
なぜ首を柔軟に動かすのかというと、鳥は手(前脚)が使えないからだ。脚を2本翼に転用したため、首が脚の代わりをするようになった。
空を飛ぶために指をなくした、指をなくしたから器用にものをつかめるくちばしが発達した、くちばしが発達したから歯がなくなった、歯がなくなったから口中で咀嚼できなくなった、口中で咀嚼できないから砂肝を発達させた……。風は吹けば桶屋が儲かる、みたいな話だ。
鳥はいともかんたんに飛んでいるように見えるが、鳥の身体についていろいろ知ると、「飛ぶ」という能力と代償に実に多くのものを失っていることがわかる。
前脚、指、歯もそうだし、筋肉や内臓も「とにかく軽く、とにかく翼を動かす力を強く」に振り切って作られている。鳥のヒナが未熟な状態で産まれてくるのも、母鳥の身体を軽くするためだ(なので飛ばなくてもいいニワトリやカモの雛はわりと大きい状態で生まれてくる)。
空を飛ぶって、相当無茶なことをやっているんだなあ。
動物の身体はよくできているけどちっとも完璧なものではなく、あるものでなんとかやりくりしているだけなのだということがよくわかる。
加賀刑事シリーズのミステリ。
殺人事件が発生。捜査を進めていくと、被害者と親しかった男性と、被害者の元夫が何かを隠しているらしい。だが自分が殺したとして名乗り出たのは別の女性だった。はたして犯人の動機は何なのか、二人の男性の隠し事とは何なのか。さらには謎を追う刑事にも「死んだと思っていた父親がいるらしい」という個人的な衝撃事実が伝えられる……。
と、なかなか込みいったストーリー。「誰が殺したのか」「なぜ殺されたのか」「二人の男はそれぞれ何を隠しているのか」「刑事の父親は誰なのか」といくつもの謎が同時進行で語られる。ごちゃごちゃしてしまいそうなものだが、すっきりわかりやすく読ませる技術はさすが東野圭吾氏。登場人物も画面転換も多いが、「こいつ誰だっけ?」とはならない。
犯人は中盤で明らかになるのでそこからは犯行にいたった経緯の解明。八割ぐらい読んだところで動機もだいたいわかり、ラストは心情の描写。
犯人当て、動機の推理、心情変化と物語の主題が移り変わってゆく。飽きさせない構成だが、少々散漫な印象も。すべてが中途半端になってしまった感じもある。
細かいネタバレは避けるけど、「親子のつながり」がテーマとなっている。親子関係のもとになっているのは何なのか。血のつながりなのか、共に生活してきた記憶なのか、はたまたそのどちらでもないのか。古今東西よく扱われているテーマだ。
が、個人的にはあまり興味の湧かないテーマだ。幸いにして「親子のつながりとは何か?」という問題に直面してこなかったからかもしれない。(おそらく)実の母親と実の父親に育てられ、(おそらく)実の子を育てている者としては、「そんなに血のつながりって大事なのかな?」とおもってしまう。
仮に「あなたが父親だとおもっている人は、実は本当の父親ではありませんでした。本当の父親はこの人です」って言われたとしても「はあそうですか。そうはいっても生まれてから40年以上この人を父親とおもって育ってきたので今さら別の人を父親と思うことなんてできないですし、今後もこれまでと同じように『年に数回実家に帰って父母(と思っている人)と会う』という生活が大きく変わることはないでしょうね。まあ遺産相続のときはめんどくさそうなんで、できれば知りたくなかったことですけど」ぐらいにしか思わないんじゃないかな。
仮に妻から「実は浮気をしていたから、娘はあなたと血のつながった子じゃないかも」と言われたとしたら「えーそんなことは墓まで持っていってほしかったな。どっちにしろぼくは今の生活を壊す気はないし」と思うだろう。もし子どもが生まれなかったら養子をとってもいいと本気で思っていたぐらいなので。
つまりぼくにとって親や子と血のつながりがあるかどうかなんて、わりとどうでもいいことなのだ。それよりも「いっしょに生活していてそこまで苦じゃないか」とかのほうが大事だ。血のつながりがあろうと嫌いなやつは嫌いだし、血のつながりがなくたって好きな人は好き。それだけ。
そんな考えだから、「一度も会ったことのない我が子」とか「顔も名前も知らない親」とか言われてもぜんぜん興味が湧かないんだよね。『希望の糸』の登場人物たちの行動を呼んでも、よくそんなどうでもいいことに右往左往できるなあ、という感想しか湧いてこなかったな。
加賀刑事シリーズはほぼすべてがあたりだとおもっていたけど、今作は加賀刑事シリーズの中ではハズレだったな。加賀刑事あんまり活躍してないし。
“小川哲”を主人公とする、私小説風の短篇集。
『プロローグ』『三月十日』『小説家の鏡』『君が手にするはずだった黄金について』『偽物』『受賞エッセイ』の6篇を収録。
読んでいると、つくづく“小川哲”はめんどくさい人だな、とおもう。むずかしく考えなくていいことをわざわざむずかしく考えている。
就活で企業から「あなたという人間を円グラフで表現してください」という課題が出されたら、一人の人間を有限個の要素によって表現することは可能なのか、その言語的な記述と“私”は完全に同一なものと言えるのか、と哲学的な思考を深める。企業が求めているのはそういうことじゃない、と知っているのに、それでもなお理屈をこねくりまわしてむずかしく考えてしまう。
でも嫌いじゃないぜ、こういう人。なぜならぼくもそっちのタイプの人間だからだ(ここまでじゃないけど)。当然ながら就活はうまくいかなかった。「本質」とか「完全に正確な回答か」とか考える人間を企業は求めていないのだから。
ぼくも学生時代こんなことばっかり書いていたなあ。こういう「ささやかな疑問」を書くためのノートも作っていた。ぼくが学生の頃はインターネットが身近になかったので、ちょっとした思い付きやくだらないへりくつを公表する手段がなくて、ノートに書いたり、せいぜい友人に話したりするぐらいだった。当時SNSがあったらハマっていただろう。
でもいつしかそういう「世の中にある変なこと」に気づくことも減ってしまった。歳をとって感受性が鈍ってしまったんだろうな。残念ながら。
だが物事をまわりくどくとらえる人がいるから世の中はおもしろい。指示に対して適切に動く人ばかりだったらつまんないぜ。
おもしろかったのは、占い師にはまってしまった友人の妻を救うため(というより占い師が気に食わないから)占い師と直接対決してその嘘を暴こうとする『小説家の鏡』。
ぼく自身、占いなんてものはまったく信じていない。とはいえ占いだとか宗教に救われる人がいるのは理解できるので、まったくの無価値とは言わない。鰯の頭も信心から、だ。「テレビの占いを見てちょっといい気分になる」とか「初詣でおみくじを引く」というレベルであれば好きにすればいいとおもう。
ただ、親しい人が占いにどっぷりはまって毎月安くない金をつぎこむようになったり、占い師に吹き込まれたせいで妙な道に進もうとしていたら、なるべくなら止めたいとおもう。家族なら全力で止める。
幸い今のところそんな機会はないが、ひょっとしたらこの先娘が良くない占い師にはまってしまうかもしれない。そんな日のために『小説家の鏡』は参考になった。いや、なるのかな。ならないかもしれない。
『小説家の鏡』に出てくる占い師は、かなり優秀な人だ。上手な言い方で誰にでもあてはまるようなことを言う、さりげなく相手の情報を聞き出してさも自分が占いで当てたかのように見せる、はずれたときのための言い訳を散りばめておく、はなから占いに対して疑いを抱いている人と見極めたら早々に返金の意志を示して撤退する(その場合でも占いがイカサマであるとは言わず上手に言い訳をする)……。占い師として優秀なのではなく、営業マンとして優秀だ。成功している占い師というのは多かれ少なかれ似たようなものなのだろう。高額な不動産を買わせたり、ブランド品を買わせたりするのとそう変わらない仕事なのだろう。
『君が手にするはずだった黄金について』『偽物』の2篇も良かった。おもしろい、とはちょっとちがう。感動でもないし怒りでもない。でもたしかに心のある部分を揺さぶられた。なんと表現すればいいんだろう。強いてあげるならやるせなさ、みたいなものかな。
『君が手にするはずだった黄金について』と『偽物』はどちらもダメな人間が出てくる小説だ。巨悪ではない。ちょっとした嘘をつく、少しだけ見栄を張る、約束をすっぽかしてしまう、楽な道を選んでしまう、やらなきゃいけないと知りつつ怠けてしまう。そういうタイプの“ダメ”だ。つまりぼくたちみんなが抱えている“ダメ”だ。たぶん大谷翔平のようなスーパースターですら、ある部分ではそんな“ダメ”な部分を持ち合わせていることだろう。
『君が手にするはずだった黄金について』に出てくる片桐と『偽物』に出てくるババは、そんなダメな人間だ。でも彼らは幸か不幸かいろんな偶然が重なって名声を上げてしまう。はじめはちょっとした嘘だったのに、その嘘が評価されてしまう。その評価に応えるため、さらに嘘を重ねる。それがまた賞賛され、嘘をとりつくろうためにさらなる嘘を重ねる……。
もちろんそんな虚飾が永遠に続くはずがない(中には死ぬまで逃げ切ってしまう人もいるが)。彼らの嘘は暴かれ、嘘がすべて明るみになったときには謝罪だけでは取り返しのつかない事態になっている。
これだけなら単なる詐欺師の破滅の物語なのだが、“小川哲”は彼らの炎上、破滅を対岸の火事とはとらえていない。自分と彼らの間に本質的な違いがあるわけではないといスタンスをとったまま一定の理解を示している。彼らが詐欺的行為をはたらいていたことを認めつつも、彼らの嘘がすべて私利私欲から出たわけではないことや、また一面では善性を持っていたことも評価している。トータルでダメなやつだったことは認めつつも。
このスタンスは持ち続けていたいなとぼくもおもっている。SNSなんかは対立を煽るアルゴリズムが組まれていて、やたらと極端な意見が目立つ。でも、対立する陣営の人たちも、こっち側の人たちも、実際はそんなに変わらないんだろうとおもう。ぼくも嫌いな政治家や嫌いな政党はあるけど、その人たちだって100%私利私欲のために悪をはたらいているわけではなく、別の誰かにとっては優しくて良い政治家だったりするのだろう。
人でも組織でも思想でも政策でも同じだけど、完全なる善もなければ完全なる悪もない。
1~12の数字が書かれたカードが3枚ずつある(人数によっては使わないカードもある)。これを何枚かずつプレイヤーに配り、残りは場に裏向きに出す。
つまり「自分が持っているカード(数字がわかる)」「他のプレイヤーが持っているカード(自分には数字がわからない)」「場に裏向きに置かれている(誰にも数字がわからない)」という3種類があるわけだ。
このうち3枚をめくり、数字がそろえば手に入れられる。3セット、または特定の2セット、1セットをそろえば勝利となる。
神経衰弱に似ている。ただしポイントは「プレイヤーのカードを表にするときは、所有している中で最大の数、または最小の数しか出せない」というルールがあることだ。これが非常によく効いている。
たとえば自分のカードが「1,2,2,2,6,8,10,11」だとする。2のカードが3枚あるが、これを出すことはできない。最小ではないからだ。
ルールは神経衰弱に似ているが、味わいはまったく違う。神経衰弱が記憶力と運だけの勝負なのに対し、『ナナ』はそれらに加え、推理や心理の読み合いが重要となる。「自分だけが知っているカード」という要素が加わるからだ。
たとえば、
「あいつの最小のカードは4だった。ということは大きなカードを多く持っている可能性が高い」
とか
「現在、2のカードのありかが2枚明らかになっている。にもかかわらずあいつが2をそろえなかったのは、あいつが2を持っていない、または2を持っているが1も持っているので出したくても出せないからではないか」
といった読みが必要になってくる。
ときには嘘をつくことも必要だし、すると当然嘘を見抜く力もいる。演技力も必要となる。
我が家ではかなりのヒット作だった。12歳、7歳の子どもたちは毎日のように「ナナやろう!」と誘ってくる。ぼくとしてもやっていておもしろい。
なぜなら、手加減しなくてもいい勝負になるから。ぼくは子ども相手だからといって手加減をしたくないので「本気でやってもいい勝負になる」のはすごくありがたい。かといって運まかせでもない。
はっきりいって、記憶力では子どもたちに敵わない。子どもの方が集中力もある。でも洞察力や嘘をつくうまさではぼくのほうが上だとおもう。ということで、総合的にはいい勝負になる。
そして最後まで全員に勝利の可能性があるのもいい。基本的には3セットをそろえないと勝利にならないが、7のカードをそろえた場合はその時点で勝利となる。中盤まで劣勢でも逆転勝利の可能性があるので終盤まで緊張感が持続する。
1回の勝負が5分程度で終わるのもいい。お風呂を沸かしている間に2ゲーム、みたいな感じで気軽にできる。カードだけなので片付けも楽だし。
不満があるとしたら、カードの裏面の絵柄が上下対称じゃないこと。これだとわりとかんたんにイカサマができちゃうんだよね。ある数字だけ上下逆にしとく、とか。それを防ぐために全部のカードの向きをそろえているんだけど、これがけっこうめんどくさいんだよなあ。
でも不満点はそれぐらい。カードデザインもかわいいし、材質もいい。手軽にできてハマるゲームです。