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読書感想文リスト
沖縄の近代史と現在抱えている問題(主に基地問題)についての本。
自分が沖縄の問題についていかに知らないかを思い知らされた。
琉球王国が「琉球処分」を経て日本になった、という経緯すらぼくは知らなかった。歴史の教科書にも載ってなかったよ。日本の歴史においてかなり重要なトピックスだとおもうのに。沖縄の学生は教えられるのかな。
吉田松陰が「琉球処分」の構想を示していたそうだ。
琉球王国は独立国家であり、文化圏としては日本より中国に近かったそうだ。だが江戸時代に島津氏に侵攻されて領土(奄美群島)を奪われ、さらに明治政府によって強引に日本に組み込まれた。その際琉球王国は中国(清)に助けを求めたが、日清戦争で清が破れたことにより日本のものになってしまったのだそうだ。
知らなかった……。沖縄の人からしたら「そんなことも知らないのか」とおもうレベルの話なのかもしれないが。
こういう経緯を知ると、単純に「沖縄も日本だ!」とはとても言えない。むりやり植民地にしたようなもんだもんな。
さらに日本政府が沖縄にしてきた仕打ちはそれだけではない。
太平洋戦争で日本軍が沖縄を“盾”にしたのは周知の事実だし、戦争の最中にも「沖縄を差し出すことで国体の護持(要するに天皇制の維持)を図っていた。戦後は沖縄はアメリカ統治下におかれた。さらに返還後も昭和天皇からアメリカに対して「米軍が沖縄に駐留を続けてくれることが望ましい」なんて秘密の要請があったそうだ(天皇が政治に口出ししている時点で完全に違憲行為だが)。
ずっと日本政府は沖縄を「いざとなったら切って捨てるトカゲのしっぽ」という扱いをし続けてきたのだ。植民地扱いと変わらない。
そしてそれは今も変わらない。
返還後、日本全体の米軍基地面積に占める沖縄県の割合は、減るどころか年々増えている。
かつては日本全体の米軍基地の11%ほどが沖縄にあったのだが(それでも面積を考えると十分多い)、今では75%を超えているそうだ。沖縄と本土の待遇の差は開くばかりだ(ちなみに「基地のおかげで沖縄経済は潤っている」というよくある言説はこの本の中で明確に否定されている。基地があることで経済効果はマイナスになるそうだ)。
これを見ると「多数決が民主主義とかけ離れたシステム」であることがよくわかる。よく多数決=民主主義だと勘違いしている人がいるけど。
多数派が「嫌なことは少数派に押しつけてしまえ」とすれば、今のシステムだとかんたんにそれができてしまうんだよね。実際「医療費も介護費も年金も負担は下の世代に押しつけよう」という制度になってるし。
「選挙で多くの議席をとった」ってのは民意でもなんでもないのに、それをもって「民意を得た」と勘違いする(または勘違いしたふりをする)バカが政治家にもたくさんいるんだから、嫌になっちゃうよ。
巻末に高橋哲哉氏と知念ウシ氏の対談が載っているのだが、知念氏の言葉が強く印象に残った。
軍事費を増やしたり米軍基地を増やしたりして沖縄を「戦争特区」にすればするほど、沖縄は危険になる。軍備を増強するほど危険になるのはあたりまえの話だ。戦争になったら軍事拠点がまっさきに狙われるのだから。
軍備に関する負担だけは沖縄に押しつけておいて、さらにはそれを忘れさせようと「南国リゾート」のイメージだけを喧伝する。
本土の人が思い描く「本土と沖縄」の関係と、沖縄の人のイメージはどんどん乖離してゆくばかりだ。
ぼくが沖縄に関する政治ニュースを見ていていちばん気持ち悪いと感じるのは、「外部の人が口を出しすぎる」ことだ。
もちろん沖縄の人といっても考え方は人によって違うから、政治について意見が割れるのは当然だ。でも、こと沖縄政治に関してはやたらと外部の人間が口を出す。
あいつは間違っている、あの考えはおかしい、こっちが正しい。そういうのを沖縄の人が言うならわかるが、他県の人間が言うのはおかしくないか?
だって鹿児島県政とか宮崎県政についてはああだこうだ言わないじゃない。なのに沖縄問題にはやたらと口を出す。まるで「沖縄の人間は沖縄のことをわかっていないからおれたちが正しい方向に導いてやる」と言わんばかりに。そんなわけないのに。
そうやって県民の意見を封じ込めるほうが政府にとっては都合がいいんだろうけど。
沖縄県人の本土への不満ってのは生半可なものじゃないだろうなとおもう(人によるだろうけど)。この本の中には独立の話も出てくるけど、今は「そんな話も出てきかねない」ぐらいでも、今の状況が続くようだとほんとに大規模な独立運動が起こってもおかしくないとおもえてくる。
新書としては異例の120万部を突破した本。かなり話題になっていたのであちこちで噂を聞いた。いい評判も悪い評判も。
タイトルが良すぎたんだろうね。すごくキャッチ―だもん。「ケーキの切れない〇〇」といったパロディを言いたくなるぐらい切れ味のいいタイトル。『ルポ 非行少年』だったら1割も売れなかっただろうな。まともに読んでいない人でもこのタイトルだけで何かを言いたくなる。
「境界知能」に関心を抱くきっかけにするにはすごくいい本だとおもう。入門書としては。
著者の体験談が中心で裏付けとなるデータは多くないので、この本だけを元に何か方針を立てたりするのは危険だとおもうが。
少年院などで多くの“非行少年(少女も含む)”と出会ってきた児童精神科医の著者は、彼らの多くが生きることに問題を抱えていることに気づく。
彼らの多くは単純な作業ができない。「かんたんな図形を描き写せない」「短い文章すら復唱できない」といったレベルだ。
「目で見たものを脳で処理する」「脳で記憶した図形を描く」といったプロセスに問題があるわけだ。これでは「さあ黒板に書かれた漢字をノートに書いてみましょう」と言われてもできるわけがない。
もちろん知的能力が著しく劣っている場合は知的障害者とされて特別な教育を受けるわけだが、問題は「知的能力」なるものが(たとえばIQのような)単一の尺度でかんたんに測れるようなものではないことだ。
たとえば、運転免許をとれるぐらいの記憶力はあるけど、お金の計算ができなくてあればあるだけ使ってしまう、といった人もいるわけだ。
そういえばぼくも中学生のときに学校で全員知力テストみたいなのを受けさせられて、「情報処理能力や論理的思考力は問題ないが他人の感情を推し量るのが苦手」みたいな結果をつきつけられたことがあった。
もしも学校が国語や算数ではなく他人とのコミュニケーションを教えることを最優先する場であったら、ぼくも知的障害者として扱われていたかもしれない。
学校教育というのは、みんながある程度の能力を持っているという前提で、一斉に物事を教えるようにできている。それだとどうしても指導からこぼれおちてしまう子が生まれる。
「現行基準では知的障害とは言えないけど授業についていけない子」は一定数存在する。著者の推定では15%ぐらいはそんな子なのでは、と。
15%というとぜんぜんめずらしくない。クラスに何人もいることになる。
でも、そうした子らを切り捨てているのが現状だ。人的・物的・金銭的リソースの都合でそうせざるをえないのもわかるが、年齢別のクラスではなくもうちょっと柔軟にクラス分けをできたらいいんだろうな。この子は二年生の勉強を教える前に「描き写す」「言われたことを覚えてくりかえす」トレーニングをしたほうがいい、とか。
(『ケーキの切れない非行少年たち』では、そうした子どもたちの能力を伸ばすトレーニング方法を紹介している)
とはいえ、教育現場での平等神話は根深いものがあるので、「子どもの発達状況別クラス」ってのはなかなか受け入れられないだろうな。特に親には。
たとえば「おたくのお子さんは三年生ですけど、発達状況に遅れが見られるので一年生クラスでじっくり教えていきましょう」と言われて、すんなり受け入れられるとはおもえない。
以前、あるドキュメンタリーで、障害を持つ子(言葉が話せない、ひとりで立つことができない子)のお母さんが「我が子を特別支援学校には行かせず、地元の公立小学校に進ませる決断をした。障害があるからって差別されないように、普通の子と同じように、普通の教育を受けさせたかったので」と語っていた。
これこそが差別発言(彼女は特別支援学校に行く子は普通じゃないと見なしている)なのだがそのことにはまったく無自覚で、番組もまるでそれが美談であるかのように扱っていた。
特別支援校でその道のプロがサポートするのと、三十数人のクラスに入って専門知識のない教師が教えるのとどっちがその子の健全な発達に有効かは明らかだとおもうのだが、その母親は「我が子にあった教育」よりも「“ふつう”の教育」を選択した。
でもこれはめずらしいことではない。他人事だから「絶対その子にあったサポートをできる学校のほうがいいですよ」とおもうけど、同じ立場にあったらすごく悩むだろう。
ぼくだってできることなら我が子は特別支援学校に通う子ではなく、みんなと一緒の学校に通う子であってほしいと思う。差別と言われようが。
でもその「ふつうでいてほしい」という親の思いが、子どもを苦しめるのもまた事実。
非行少年として少年院に入ることになった子らの中には、特別支援学校や支援学級に通っていたらもっと良い道を進めていた子もたくさんいるはず。
「ふつう」なんてないとわかっているのに、みんな我が子が「ふつう」に育つことを望んでしまうのよねえ。
物理学者である益川敏英氏が、人類の平和のために科学者はどうすべきかを語った本。
益川氏は1940年生まれなので、終戦時は5歳。アメリカ軍の投下した焼夷弾が家の屋根を突き破ってきたという経験を持つそうだ(不発だったので命拾いしたそう)。
実体験として戦争を語れる最後の世代だ。
温度差の違いはあれど、戦争を経験している世代はほぼ例外なく「あんな思いはもうごめんだ」と語るよね。自身が悲惨な目に遭っているし、近い人を亡くしたり、戦争によって傷ついた経験を持つ人の話をくりかえし聞かされたりしているから。
でも戦後に生まれた人の中には勇ましいことを言う人もいる。我が事として考えられないからこそなんだろうな。本当の貧乏を味わったことのない人が「貧しい暮らしもいいもんだ」と言うようなもので。
残念ながら、そんな想像力の欠如に起因する“勇ましさ”が「現実的な意見」として幅を利かせるようになってきている。
科学者と戦争は切っても切れない関係にある。
戦争の規模拡大、軍拡競争に貢献してきたのはまちがいなく科学者だ。
科学者自身は「人々の暮らしを良くするため」や「祖国を守るための最後の手段だから」という理由で軍事研究に協力するのかもしれないが、ひとたび成果が上がると科学者の手を離れて為政者の都合の良いように使われるようになってしまう。
「世界がナチスの手に落ちるのを防ぐため」に原爆開発をおこなったレオ・シラード。だが、ドイツは降伏した後もアメリカは原爆を手放そうとはしなかった。
戦況を考えると、原爆を落とさなくても日本の敗戦は時間の問題だった。当初の目的であった「ナチスを倒すため」「戦争に勝利するため」という大義名分はなくなったが、それでもアメリカは原爆投下を決めた。核兵器の威力を見せつけることで戦後の世界情勢で優位に立ちたい、そんな思惑によるものだろうか。
フリッツ・ハーバー(ハーバー・ボッシュ法でおなじみの)の話も教訓を与えてくれる。愛国者であったハーバーは第一次世界大戦中、祖国・ドイツのために毒ガス開発をおこなった。
戦後、ナチスが政権を握ると、ユダヤ人を迫害した。ハーバーはユダヤ人であった。皮肉なことに、ハーバーが開発した毒ガスは同胞を虐殺するために使われたのだ。
御用学者と呼ばれる人たちがいる。ときには事実や正義をゆがめてでも政府や大企業にとって都合のいい研究結果を出してくれる学者だ。公害が問題になったときに、大企業にとって都合のいいデータを出した研究者がたくさんいた。それなりの待遇を与えてもらえるから、学者にとっても政府や大企業の言いなりになることにはメリットがある。
だが彼らはいつまでも守ってもらえるのだろうか。都合が悪くなればいつでも切られる、トカゲのしっぽのような存在ではないだろうか。すべての責任を押しつけられてはいさようなら、となる可能性だってある。
時の権力者を都合よく利用してやる、ぐらいのスタンスならいいが、良心を捨てて強きに与するのは研究者自身にとっても危険だとおもうな。
まさに今の状況だよね。どんどん不安を煽って軍事費を上げようとする。なぜならそれで儲かる人がいるから。
「そんなこと言って悪い国に攻め込まれたら生命も財産も奪われるんだぞ!」という極論をぶつけられたら真正面から反論するのはむずかしい。都合の悪いときは「仮定の質問にはお答えできません」で逃げる政治家や官僚が、“仮定の話”を根拠に軍事費を上げようとする。
不安を打ち消すための軍事費増強が悪いのは、天井がないこと。軍事費を増やして軍備を増強すれば周辺諸国との緊張は高まり(こっちが軍事費を増やしたら隣国のほうも「日本に攻め込まれたらどうする!」となるのは目に見えている)、ますます不安は強まる。
ちょっと考えればわかりそうなものだが、不安にさいなまれた人を冷静な意見でたしなめるのはむずかしい。怒りや不安は人間から冷静な思考を奪うからね。
「軍事費は国家予算の1%」とか決めておかないと、天井知らずで上がっていくよ(じっさいここ数年でぐんぐん上がっている)。得をするのは一部の人間だけ。
原発の話。
益川氏は、原発の必要性を認めたうえで、こう述べている。
ぼくもこの立場に近い。
原発はすべて悪! みたいに語る人もいるけど、それは言いすぎだ。メリットも多い。
が、同時にデメリットも大きい。問題は、デメリットを隠して原発稼働を推し進めてきたことだ。
「原発にはこういうリスクがあります。事故も一定確率で起こります。事故が起きたらこんなことになります。事故が起きたらこんな対処・保障をします」と説明した上で稼働してきたのならよかったのだが、現実には「原発は絶対安全! 絶対安全だから事故が起きたときのことなんて考えなくていい!」というちょっと知識のある人なら誰でも嘘だとわかる“神話”を元に設置・稼働を進めてきた。その結果が福島第一原発の事故であり、そして事故が起きた後も「安全です」という嘘のスタンスはくずさずに再稼働を進めようとしている。
そりゃあかんたんに再稼働に賛同はできない。リスクもデメリットも正直に開陳することが安全性を高めることになるのにな。最初から嘘でスタートしちゃったから今さら「あれは嘘でした。ほんとはリスクあります」と言えなくなっちゃったんだろうな。
過ちを認めるって政府がいちばん苦手なことだもんな。
2015年刊行の本だけど、大国が戦争を引き起こし、様々な科学技術が人の命を奪っている今だからこそ改めて言葉が響いてくる本。
反戦色が強くて青くさく感じられるところもあるけど、こういうことを言う人が減ってきたからねえ。前の戦争が遠ざかったからか、次の戦争が近づいているからか。
漫才コンビ・南海キャンディーズの山里亮太さんによる自叙伝的エッセイ。
文章はちょっと読みにくいが(半端に技巧を凝らしてるせいで文章が上滑りしている。こういう自叙伝みたいなのは飾らない文章でいいんだけどな)、内容はおもしろかった。
己の醜い部分、思い悩んだこと、芸人としてかっこよくない面もつまびらかにしている。後からふりかえって書いているので当時の本心とはちがう部分もあるかもしれないけど。
山里さんはかなり早い段階で「自分は天才じゃない」と悟ったらしい。
ここでの天才とは、「打算や戦略などとは無縁で、自分がやりたいことをやっているだけで周囲から高く評価されるような芸人」だ(はたしてそんな人がほんとにいるのかわからないが)。
この気持ち、痛いほどよくわかる。ぼくも学生の頃はなんとかして「特殊な自分」を演出しようとしていた。あえて人がやらないことをする。「やっぱおまえ変わってるな」と言われるたびに(それって褒められているわけじゃなくて呆れられたりばかにされたりしていたんだろうけど)気を良くし、ますます「変わり者」であろうとする。
そうやって「人とはちがう特別な自分」を築こうと必死になっていた。
ぼくはなんだかんだで三十歳ぐらいまで「自分が天才である可能性」を捨てきれなかったけど、山里さんはもっと早めに自分が天才でないことに気づき、天才でないからこその戦い方に舵を切った。そのおかげで芸人として成功することができた。
成功する芸人はほとんどみんなそれぞれ才能を持っている人だけど、見ていると
「芸人という職業があってよかったな。他の道に進んでいたらどうしようもない人生を送っていたかもしれないな」
とおもわせる人と、
「この人はどの道に進んでもある程度成功していただろうな」
とおもわせる人がいる。
山里さんは後者だ。もちろん芸人としても大成功している人だけど、ひょっとしたら別の道ならさらに大きな成功を手に入れていたかもしれない。なぜなら、表舞台に立つ芸人でありながら、しっかりと裏方の視点を持っているから。
ドキュメンタリー風のテレビ番組のオーディションを受けることになったときの話。
「どう振る舞ったら制作者は使いたくなるか」を分析して、適切な対策を立て、制作者が求めている通りに振る舞う。
なるほど、これは制作者としては使いたくなるだろう。やらせを命じなくても、忖度して勝手に要望に応えてくれるのだから。これならやらせじゃない。でもやらせと同じ結果が得られる。
よく政治家が汚職なんかをしたときに「秘書が勝手にやった」と弁明するけど、あれは言い訳じゃなくてほんとに秘書が勝手にやっていることもあるという。
ほんとに優秀な秘書というのは「お金を出してくれる人がいるんですけどもらっておきましょうか」なんて確認したりしない。確認した上でお金を受け取ったら政治家も共犯になってしまうから。だから有能な秘書は許可をとらずに勝手に動く。政治家のほうもほんとはわかっているけど、これなら「知らなかった。秘書が勝手にやった」という言い訳がぎりぎり成立する。かぎりなくクロに近くても検察は起訴できない。
山里さんは政治家秘書になっていたとしても優秀だっただろうね。
この本を読んでいておもうのは、山里さんはつくづく策略家だということだ。視野が広く、先を読む力があり、リサーチ力も高く、行動力もすごい。会社員や経営者としても成功していた可能性が高い。
「お客さんの反応を見ながら1本の漫才を何百回もマイナーチェンジさせてブラッシュアップしていった」なんて話が出てくるが、まあこれをやっている漫才師は他にもいるだろう。
山里さんがすごいのは、それが舞台の上だけにとどまらないこと。
たとえば、しずちゃんを相方にしようと考えたときのこと。周囲から情報を集めてしずちゃんの好きなものを徹底的に調べあげ、それについて学習し、さも自分も前から好きだったかのように話すことで「ほら俺たちってこんなに価値観が合うんだよね」と思わせようとした、なんて話が出てくる。
すごい。一歩まちがえばストーカーだ。でもここまでやるからこそ成功するのだろう。漫才師としてネタがおもしろいのはあたりまえ、それにプラスして舞台を降りてからも売れるための最短距離を見据えている。
はじめてM-1グランプリに出たときの回想。
M-1グランプリといえば、若手漫才師にとっては最高峰の大会。ほとんどの芸人がそこで優勝することを目標に戦っている中、山里さんはその先を見ている。
たしかにあの大会(2004年)はアンタッチャブルが圧倒的な力で優勝をしたので、南海キャンディーズが他のネタをやっていたとしても優勝できなかっただろう。だったら1本目よりスケールダウンしたネタを披露するより、審査員からは評価されなくてもテレビマンが「バラエティで使いやすそうだ」と感じるネタを披露したほうがいい。理論的にはたしかにその通りなんだけど、現場にいるとなかなかそう思えないよなあ。
甲子園で、チームの勝利よりもスカウトの目に留まることを優先してプレーするようなもの。良くも悪くもプロフェッショナルな思考をしている。
読んでいておもうのは、山里さんは努力の天才だということ。
目標に向かって戦略を立て、試行錯誤しながら努力の方法を修正し、負の感情を自らを奮い立たせるエネルギーに変換し、褒め言葉はそのまま栄養に変え、自らをおだて、自分を戒め、あの手この手で努力を継続する。自分にも厳しいし、他人にも厳しい。
これを天才と呼ばずしてなんと呼ぼうか。
カラスの研究者である著者が、「もしカラスがいなかったらどんな世界になってるか?」について書いた本。カラスが果たしていた役割(ゴミ掃除、果実の種子散布など)はどの鳥が埋めるのか、カラスの代わりに我々の身近にいるであろう鳥は何か、などについて考察している。
正直言って、あまりおもしろくない。同著者の『カラスの教科書』『カラスはずる賢い、ハトは頭が悪い、サメは狂暴、イルカは温厚って本当か?』がおもしろかっただけに期待しすぎていたのかもしれないが。
カラス好き、鳥好きからしたら「カラスの代わりにハゲワシの仲間が活躍する」とか「カラスが担っていた役割をオウムやインコの種類が担うかもしれない」って大問題なのかもしれないが、そこまでカラスに思い入れのない者からすると「ふーん」としかおもわないんだよね。
そもそも生活していてカラスを意識することがほとんどないので(自治会のごみ当番になったら意識するかも)、もしある日突然カラスが消滅したとしてもしばらく気づかないんじゃないだろうか。
以前ミノムシが絶滅寸前だと聞いたときに「ふーん、そっか。そういや最近見てなかったな。でも大人になったらどっちみち虫をじっくり見る機会なんてほとんどないしな」としかおもわなかった。
カラスもぼくにとってはその程度の存在だ。そりゃあカラスがいないよりはいたほうがいいけど「カラスが絶滅しそうですがあなたが一万円出してくれたら絶滅を防げます」と言われてもちょっと迷ったあげく「じゃあ申し訳ないけど……絶滅で……」と言ってしまいそうだ。
そもそも「もしも世界からカラスが消えたら」というテーマ選びが失敗している気がする。
著者が『カラスの教科書』でこう書いていた。
カラスは「真っ黒」という強烈な特徴を持っているから印象に残るだけで、色以外は無個性、凡庸な鳥なのだ。なんでも器用にこなせる代わりに「これだけは他の誰にも負けない」という武器は持っていない。
だから「もしも世界からカラスが消えた」としても、他の鳥がその隙間を埋めるだけで、大きな影響はないんだよね。
この本ではネタに困ったのか、小説とか漫画とかに出てくるカラスがどうなるとか、名前に「鴉(からす)」が入っているキャラがどうなるとか、かなりどうでもいい記述にページを割いている。このあたりは文章がおもしろいわけでもなく、完全に蛇足だったなあ……。
カラスは世界中の広範囲にわたって生息しているが、南米にはカラス族がいないそうだ。
「南米にはカラスより前にコンドルがいたからカラスが定着できなかった」という仮説だ。
大企業が海外に進出したものの、その国にはすでに競合する企業があったため(そして元々の企業のほうが競争に優位なため)事業不振により撤退を強いられるようなものだね。カラスとコンドルって見た目はだいぶちがうけど(でもコンドルも黒っぽい)、実は近い業種なのかもね。
鳥とは関係ないけど、おもしろかった話。
twitterはイーロン・マスク氏に買収されてXになりtwitterの名前は消滅したが、意外にも学名に「twitter」「retweet」という名が残っていたとは。
飛行機に乗っている人のなかで、いちばんおしゃれに気を遣っている人は誰でしょう?
(答えはこの記事の最後)
笛の定義とはなんだろう。「息を吹くことで音が鳴るもの」といったところだろうか。単純なものでいえばホイッスルや指笛、指を使って音階を変えられるリコーダー、フルート、オカリナ、ハーモニカ(ハーモニカは指を使わなくても音階を変えられるけど)などももちろん笛だ。ここまで異論はあるまい。
サックスはどうだろう。でかいけど、あれも笛と呼んでいいんだろうか。笛と呼んでいる人を見たことはないが。
調べたところ、トランペットやトロンボーンは唇を震わすことで音を鳴らすので金管楽器、サックスは息を吹きつけることで音を鳴らすので笛の一種、フルートは金属でできていても金管楽器ではない、という解説が見つかった。
……ぜんぜんわかんない。金管楽器を演奏したことがないのでちっともわからない。トランペットも吹くんじゃないの? 唇を震わせてフルートを奏でたらその瞬間に笛から金管楽器に変わるのだろうか?
鍵盤ハーモニカはどうだろう。あれも人が吹くことで音が鳴るが、笛と言っていいのだうか。アコーディオンはどうだろう。風の力で音を奏でているから笛だろうか。
三大・落語好き以外にも知られている有名な落語といったら『寿限無』『饅頭こわい』『時そば(上方落語では時うどん)』だろう。
筋がわかりやすいしインパクトがある。日常会話で「寿限無か!」「饅頭こわいみたいなことね」と言ってもほとんどの人に伝わるだろう。
他の古典芸能では「タイトルは広く知られている」はあっても「興味のない人にもストーリーまで知られている」まではあまりないんじゃないかな。ぼくは『義経千本桜』とか『白鳥の湖』とか『オペラ座の怪人』とか『キャッツ』とかはタイトルは知っていてもストーリーはぜんぜん知らない。
なぞなぞの答え:副操縦士(服装重視)
謎解き問題集。信頼と実績のニコリ社の刊行だけあって、質が高い。
メインの問題に加え、欄外にミニパズル。章末にはそれまでの謎解きの答えを使ったもう一段階上の謎解き。さらにラストは集大成のような問題が用意され、それを解いた後にもQRコードを読むとWeb上で謎解きが……とボリュームたっぷり。
難易度もちょうどよく、あっさり解ける問題は最初の数問だけで、ちょっと考えて解けるもの、ヒント1を見て解けるもの、ヒント2を解けるもの……など(ヒントは各問題3つまである)、「とうとう最後まで解けなかった」という問題がひとつもなかった。
謎解きが好きなのでいろんな問題を解いてきたけど、けっこうひどい問題も多い。「またこのパターンか。ある程度やってきた人なら一瞬で解けるやつじゃん」という問題だったり、逆に「こんなの謎を解くというより作者の頭の中を読めっていう無茶クイズじゃん」という問題だったり。
ニコリは数十年もパズルを作ってきた会社だけあって、難易度の塩梅が絶妙。特別な知識がなくても解けて、知識があってもひらめきがないと解けない。小学生でもけっこう解けるんじゃないかな。
謎解き入門者にもベテランにもおすすめの一冊。
公式サイトにおためし問題もあるよ(おためし問題はこの本の中では易しめ)。
我々はほとんど何も知らない。世の中は知らないものだらけだ。
べつに量子論とか超ひも理論とかの話をしているわけじゃない。たとえば我々が毎日のように使っている水洗トイレ、ファスナー、自転車。どういう仕組みで機能しているかと訊かれて正しく説明できる人はほとんどいない。スマートフォンのような複雑な機械にいたっては、そのすべてを完璧に理解している人などこの世にいないだろう。たった一人でスマホを一から組み立てられる人などいない。
問題は、知らないことではなく、我々が「知らないことを知らない」ことだ。
「あなたはファスナーについてどれぐらい理解してる? 正しく説明できる?」と訊く。「うーん、まあ60%ぐらいかな」と答える。なにしろこれまで何万回と使ったことがあるのだから。「じゃあファスナーがどうやって開閉するか説明して」と問われて、はじめて気づく。自分がファスナーについて10%も理解していなかったことに。
この本は、「なぜ我々は自分の知識について過大評価してしまうのか?」「なぜ我々は身の周りのものについて知らないのに社会はうまく機能しているか?」に答える本だ。
我々は「知識・記憶は脳の中にある」とおもいこんでいる。だが実際は必ずしもそうではない。
記憶、知識は身体と深く結びついている。「自転車でカーブを左に曲がるときにおこなう動作をすべて挙げよ」と言われて正確に答えられる人はまずいない。でも実際に自転車に乗ればなんなく左に曲がることができる。身体がおぼえているからだ。
PCのキーボードをたたくときいちいち「この文字を打つにはここを叩く」なんて考えていない。勝手に指が動いている。だから「Rのキーはどの指で打ちますか」と訊かれても即答できない。頭の中で(または実際に)指を動かして、はじめて「左手の人差し指」と答えられる。
人は、自分自身が知らなくても「知っていそうな人を知っている」だけで、「自分はわかっている」と感じやすくなるらしい。
周囲の人が持っている(であろう)知識も自分の知識と勘違いしてしまうのだ。
たしかに「〇〇さんの連絡先わかる?」と訊かれたとき、「自分が電話番号を記憶している」でなくても「スマホを見ればわかる」とか「隣にいる××さんに訊けばすぐ教えてもらえそうだ」という状況であれば「わかるよ」と答えることはある。
「研究者がある物質のはたらきを解明した」というニュースを見ただけで、そのニュースについてわかっている気になったらしい。
これはなかなかおそろしい。まったくわかっていないことをわかったつもりになってしまうのだ。
おまけに現代はインターネットのおかげで、情報にアクセスしやすくなった。多くのことが調べればわかる。可能性は広がった。科学でも歴史でも政治でも、調べればかなり詳しいことがわかる。でもわからない。実際には調べないからだ。
インターネットによって「アクセスできる可能性のある情報」は飛躍的に増えた。でも実際の知識はべつに増えていない(減っているかも)。真偽の定かではないごみみたいな情報はべつにして。
それでも人はは「アクセスできる可能性のある情報」がたくさんあるだけで自分の知識を高く評価してしまう。
結果インターネットは、「賢い人」ではなく「賢いつもり」の人間を増やしてしまったのだ。なんてこった! 自信だけあるバカだらけだなんて、控えめに言っても最悪じゃないか……。
この本を読むと、人間ってなんてバカなんだろうという気になる。特に政治にからむような話だとひどい。
2010年に成立した医療費負担適正化法(通称「オバマケア」)への賛否について。
なんと、最高裁の判決がどんなものだったかも知らないのに「判決に賛成!(あるいは反対!)」と主張してた人が少なからずいたのだ。わからないのに反対するって……。
これはアメリカに限った話ではないんだろうな。日本でも「〇〇法案に賛成ですか?」なんて世論調査をやってるけど、その質問に「賛成/反対」と答えた人のうち、どれだけの人がその法案のことを正しく説明できるかというとかなり怪しいものだ(ぼくもたぶん無理だ)。
そして、対象についてよく知らない人ほど極端な意見を持つ傾向があるらしい。たしかになあ。SNSとか見てると、バカほど極端な意見をふりかざすもんなあ……。
きちんと説明されて対象への理解を深めれば意見は穏健なものになっていくらしいが、政治のように思想信条に関わるものであれば、知識を深めてもあまり立場が変わらないらしい。
人間の信条はそうかんたんに変わらないのだ。知識よりも思想信条のほうが優先されてしまう。
そもそも……。
人間は自分の誤解を正したいとおもっていないのだ(でも他人の誤解は正したい)。勘違いしたのなら、勘違いしたままでいたい。他人から「あなたまちがってますよ」と指摘されて考えを改める、なんてまっぴらごめんなのだ。
だからわかってない人に「あなたわかってませんよ」と言ってもほとんど無駄なのだ。考えを改めるどころか「だったらもういい!」と情報をシャットダウンしてしまったり、余計に意固地になってしまったりする。なんてバカなんだ人間たちよ(ぼくも含む)……。
我々はぜんぜん物事を理解していないし、理解していないことを理解していないし、おまけに正しい人の意見に耳を貸さない。
なんてどうしようもない種族なんだ人間よ。ヤハリ地球人ハ滅ボスシカナイヨウダナ……。と惑星破壊ミサイルの発射ボタンに手をかけた宇宙人よ、待ってください!
たしかに人間ひとりひとりはどうしようもないバカです。でも、それこそが希望だとおもいませんか?
『知ってるつもり』では、集団としての知恵の重要さを説いている。
ひとりひとりは何の知識もない人間が集まれば、集団になればトイレを作れる。ファスナーも作れる。自転車もスマホもロケットも作れてしまう。人間は集団になることでとんでもなく賢くなれるのだ。
これこそがヒトという種族がここまで繁栄している理由だろう。オオカミは群れをつくって行動するが、全員ほぼ同じような行動しかできない。俺たちは狩りに行ってくるからその間におまえらは寝床をバージョンアップしといてくれ、おまえは肉を捌く係で、おまえは捌いた肉を敵から守る係、おまえは食糧をみんなに公平に分配してくれ……という分業ができない。
ヒトは分業制度を取り入れたことで個としては弱くなった。ひとりで野菜と果実と肉と魚を獲得して調理して家を建てて服を作って生きていける人はいない。だがそれと引き換えに種としての強さを手に入れた。ひとりで生きていく力を捨て、集団として大きなことを成し遂げる力を手に入れた。
「頭がいい」は個人の能力だと考えてしまう。もちろん個体差はある。でもそんなものはあまり関係ない。みんなで10,000の仕事を成し遂げようというときに、個人の能力が1だろうが1.1だろうが大した問題ではない。1.1の力を持っているが周囲と協力しない人よりも、0.9の力しか持っていないが周囲に呼びかけて10のコミュニティを作れる人のほうがはるかに優秀だ。
ということで、真に頭がいいとは物事をたくさん知っているとか計算能力が高いとかではなく、他者とうまく協力する能力を持つことだと著者は語る。共感、傾聴、ムード作り、そういった能力のほうが重要なのだと。
なるほど……。これは身につまされる話だ……。
ぼくは人より本を読むし勉強もできるほうだし自分を頭がいい人間だとおもっていたが、頭がいいとはそういうことじゃないんだな。積極的に他人とコミュニケーションをとり、苦手な人もおだてたりすかしたりしながら上手にコントロールし、チームをまとめて全員でひとつのゴールに向かわせる(必ずしもリーダーでなくてもいい)ような人こそが真に有能で頭のいい人なのだ。頭の良さは個の中にあるのではなく、個と個の間にあるものなのだ。
いやあ、いい本だった。人間の愚かさと賢さの両方に気づかされた。そして己のアホさと。
もっと早く知りたかったぜ! 自分はひとりで世界を変える天才だとおもっていた学生時代に!
とあるシステムが「和暦の数値部分のみ」を使うよう設計されていた(例:令和8年3月であれば「0803」と表す)。
なんて想像力のない設計だろう。和暦の場合、1年の翌年が1年になることも理論上はありうる。不謹慎と言われようがそこまで想像してシステム設計するべきじゃないか。
男子高校生の「なりたい職業」ランキング第9位に「投資家」が入ったそうだ。
投資家って職業か? 「筋トレしてる人」や「読書家」と同じで、仕事とは別でやるもんだろう。他の仕事をせずに投資のリターンだけで食ってる人は無職だ。
言うまでもなく、高校生がなりたい「投資家」は「儲かっている投資家」だろう。それって「宝くじ高額当選者になりたい」と同レベルの戯言だろう。
「大相撲公式ファンクラブに年間三万円払って会員になってるのに大相撲のチケットが当たらない! 外国人客やツアー客が増えてるせいだ!」
と書いている人がいた。
気持ちはわかるが、井の中の蛙すぎる。
「道楽の中でも相撲のタニマチほど金がかかるものはそうはない」なんて話を聞く。年に数百万、数千万をポンと出す人がめずらしくない世界らしい(もっと出す人もいるのかもしれない)。
年間三万円は一般的には安くない額だけど、好角家の世界では下っ端も下っ端、とても「三万円も出してるんだぞ!」とでかい顔できる額じゃない。昭和時代からそうだ。外国人客やツアー客は関係ない。
「銀座のクラブで三万円出したのに特別扱いしてもらえなかった!」って言うようなもので、特別待遇してもらいたいんなら戦う土俵を変えたほうがいいよ。相撲だけに。
海外の本を読むと、章のはじめにどうでもいいフレーズが引用されていることがある。こんなやつ。
本題とまったく関係ないわけじゃないけど、あんまり関係のない引用。あってもなくてもどうでもいい引用。
学術的な本なのに聖書から引用していたり、『マザーグース』や『不思議な国のアリス』のような子ども向けのお話から引用していたり。海外の本の文化なんだろう。シェイクスピアとかもよく引用されているイメージだ。
あれを書くために著者はけっこう労力を割いているんだろうな。いろんな小説とかを引っ張り出してきて、章の内容にちょっとでも関係のありそうな文章を探しているんだろうか。それだけで何時間もかかりそうな気がする。あってもなくてもどっちでもいい引用なのに。息抜き的にやっているんだろうか。
日本で「あってもなくてもいい章のはじめの引用文」をやっている人はあまりいない。宮部みゆきとか伊坂幸太郎がやってた気がするけど、ノンフィクションではまず見たことがない。
日本の研究者もやったらいいのにね。それも海外のかっこいい小説じゃなくて、もっとどうでもいい文章を引用して。
おお、くだらない文章でもなんかそれっぽくなるな。
「まちのしくみ」についての入門書。
都市工学に関する本を読んでみようとおもって手に取ったのだが、あまりにも入門書すぎた。小学生向けぐらいの内容。
高さ数百メートルを超える超高層ビルが日本にほとんどないわけ。日本は地震が多いからだとおもっていたけど、実は技術的には地震に耐えられるような超高層ビルも建てられるんだそうだ。
なるほどねえ。超高層ビルを建てるメリットがあんまりないのか。
超高層ビルを建てても土地面積によって総床面積(すべてのフロアの床面積の合計)は決まっている。土地を広げれば総床面積も広げられるが、都心に広い土地を確保するのはむずかしい。かといって田舎に超高層ビルを建ててもしょうがない。
エレベーターのスペースが多く必要になるから実際に使える床はさらに狭くなる。防災設備も多く必要になるし、高いビルは移動に時間がかかるなど利用者にとっても不便なことが多い。タワマンも決して住みやすいとは言えないらしいし。
高すぎる建物には「目立つ」「見晴らしがいい」ぐらいしかメリットがないわけだ。
だからこそ国力を見せつけるために建てたりするんだろうけど。クジャクが派手な羽を広げるのといっしょだね。あんまりメリットがないからこそ、そんな建物を建てるぐらい余裕があることを示すためことができる。
この本に書かれているのは長く生きていたら自然と耳にするような知識がほとんどだったけど、知らなかったのはアルベルゴ・ディフーゾ(Albergo Diffuso)という観光地の形態。アルベルゴ・ディフーゾとはイタリア語で「ちらばっている宿」の意味だそうだ。
なるほど。これは楽しそうだ。温泉街とかって独特の雰囲気があってけっこう好きなんだよね。
ぼくは海外旅行に行ったときはなるべく現地の人と近い暮らしをしたいんだけど、ホテルに泊まってるとそれはむずかしい。地元スーパーとかに行っても調理手段がないからお菓子ぐらいしか買えなかったり。かといってホームステイとかはいろいろ気苦労も多そうだ。
こんなふうに「町全体が宿」だと、ホテル宿泊客と現地の人の中間ぐらいの生活ができそうだ。
調べたら、岡山県矢掛町や長崎県平戸市など、日本でもアルベルゴ・ディフーゾの取り組みは始まっているらしい。行ってみたいなあ。
ただ、日本に定着させようとおもったら「アルベルゴ・ディフーゾ」ってネーミングはよくないとおもうぞ。言いづらすぎる。
「散宿」みたいに短い言葉じゃないと定着しないぜ。
生物学者が「体温」をキーワードに、生物の行動、寿命、それぞれの時間について考えた本。
同じ著者の『ペンギンが教えてくれた物理のはなし』もおもしろかったが、これもすごくおもしろい。理論もおもしろいし、理論の話を読んでいてちょっと疲れてきたなとおもったらフィールドワークの話が挿入される。このバランスがちょうどいい。
いやあ、いい本だった。
第一章では北極海に生息するニシオンデンザメというサメの話が語られる。
なんとこのサメ、400年も生きるのだという。とんでもなく長生きだ。長生きの代表とされるカメでも寿命は数十年ぐらい(最長でも約200年)だというから、ニシオンデンザメがいかに長生きかがよくわかる。
なんでニシオンデンザメがこんなに長生きなのかというと、体温が低いからだという。変温動物なので、周囲の水温が0度だと体温も0度近くになる。体温0度! 体温が低いとすべての活動が鈍化する。ニシオンデンザメは7秒に1回ペースで尾びれを振り、時速1km以下でのろのろ動き、2日に1回ペースで獲物を獲るのだという。すべてがスローペースだ。
結果、成長も遅くなり、老化も遅くなり、ニシオンデンザメは長生きできるわけだ。
第二章では、逆に、極寒の地で高い体温を保っているアデリーペンギン。
ペンギンは恒温動物なので南極でも高い体温を維持している。おかげでアデリーペンギンはニシオンデンザメと違い、活発な動きが可能になる。これは餌をとる上で有利になる。
そして第三章はホホジロザメの話。ホホジロザメはニシオンデンザメとアデリーペンギンの中間のような体温を保っているという。魚類なのに水温よりも高い体温を維持しているのだ(ちなみに恐竜もホホジロザメのように、変温動物にしては高めの体温を維持していた可能性が高いという)。
哺乳類、鳥類、爬虫類、両生類、魚類、無脊椎動物、恒温動物、変温動物、陸棲成物、水棲生物。いろんな区分があるけど、その区分をとびこえて「体の大きさと体温で活動量が決まる」というものすごくシンプルな法則が成り立つのだそうだ。
体温なんて風邪をひいているかどうかを調べるためのものとしかおもっていなかったけど、こんなにも重要なファクターだったとは!
生物って種によって見た目も行動もぜんぜんちがうからまったく別の仕組みで動いているように見えるけど、すべての種を貫くこんなにシンプルな法則があったなんて、なんかすごくわくわくする話だ。ニュートン方程式や地動説や質量とエネルギーの等価性のような美しさがある。
体温(つまりは代謝量)によって活動量が変わり、活動量が変わるということは時間の感覚も変わる。
もちろん人間も例外ではない。
なるほどー。大人になると1日が経つのが早く感じるのは経験や慣れによるものだとおもっていたけど(その要素もあるんだろうけど)、物理学的な理由もあったんだな。
歳をとるにつれ、アデリーペンギンからニシオンデンザメに近づくわけだ。心臓の鼓動や呼吸のペースがゆっくりになり、代謝が減る。すべてがスローペースになるので、あっという間に時間が流れる。
ファンタジーでエルフという種族は長生きすると言われているが、ってことはエルフはめちゃくちゃのんびりしてるんだろうな。ニシオンデンザメのようにゆっくり動いて数日に一度しか食事をしない。(人間から見ると)ぼんやりしていてなんともつまらない種族だ。
さっきも書いたけど、具体例(実体験)と理論のバランスがすごくいい。
調査の体験記や失敗談が語られるので研究者のエッセイとしてもおもしろいし、ニシオンデンザメ、アデリーペンギン、ホホジロザメなど種ごとの観察結果を書き、具体の積み重ねの結果としての総括的な理論が書かれる。
わかりやすくていい構成だ。もちろん内容もおもしろいんだけど、なにより構成がすばらしい。
いろんな面で勉強になるなあ。
ルール
(橘 玲『DD(どっちもどっち)論 「解決できない問題」には理由がある』より)
(朱川 湊人『花まんま』より)
(逢坂 冬馬『歌われなかった海賊へ』より)
(浅倉 秋成『教室が、ひとりになるまで』より)
(高野 秀行『未来国家ブータン』より)
(川上 和人『鳥肉以上、鳥学未満 Human Chicken Interfaceより)
(吉田 修一『国宝』より)
(ボニー・ガルマス(著) 鈴木 美朋(訳)『化学の授業をはじめます。』より)
(渡辺 佑基『進化の法則は北極のサメが知っていた』より)
舞台は1960年代のアメリカ。エリザベスは女性であるがゆえに様々な不利益を被ってきた。教授のアカハラ&セクハラのせいで博士号は取得できず、勤務先の研究所では正当に能力が評価されない。さらに未婚の母となったことが原因でクビになってしまう。研究所に復帰しても手柄を横取りされる。
そんな折、エリザベスはひょんなことからテレビ番組の料理番組の司会者に抜擢される。その歯に衣着せぬ物言いや科学的な語りがウケて料理番組は全米で大人気になり……。
女性の生きづらさを描いたフェミニズム小説。主張はわかるんだが、ちょっとテーマを強調しすぎというか、はっきりいって説教くさい。主人公のエリザベスは無神論者なのだが、皮肉なことにこの小説が聖書のようになっている。
横暴で無理解な男たちの姿がこれでもかと強調され、悪人は一片の同情の余地もないどうしようもない悪人として描かれる。そして己の正しさを信じて突き進んだ主人公やその味方はやがては世間から認められ、悪人は報いを受ける。
水戸黄門や遠山の金さんといっしょだよね。いってみれば勧善懲悪ポルノ。リアリティなんからどうでもいいからとにかくスカッとする小説を読みたい人にはいいんだろうけど、個人的には丁寧に人間を描いた小説を読みたいな。ちょっと単純明快すぎる。
主人公のように「正しいことは正しいと言う、納得のいかないことには決して組しない」という生き方ができればいい。誰もが願うことだ。
でもそんな生き方が貫くことができるのは、ごくごく一握りの才能と幸運に恵まれた天才だけだ。そういう人の話を読みたければ『シンデレラ』や『はなさかじいさん』を読んでいればいい。
以前読んだチョ・ナムジュ『82年生まれ、キム・ジヨン』は、特別な才能や奇跡的な幸運に恵まれない女性の人生を書くことで、女性の生きづらさを描いていた。個人的にはこっちのほうが100倍有意義なことをやっていたとおもう。
『82年生まれ、キム・ジヨン』が丁寧にリアルな女性の人生を書いていた分、『科学の授業をはじめます。』の単純明快すぎるストーリーが気になってしまった。
おもしろかったのは、主人公・エリザベスの生き方よりも、その周囲にいるボート愛好家の人たち。ふだんは理知的なのに、ボートのこととなると憑りつかれたかのように他のことが何も考えられなくなる。
これは産婦人科医が、一歳の乳児を持つエリザベスをボートの練習に誘うシーン。
赤ちゃんを持つ母親を誘うなよ。しかも産婦人科医が。しかも朝四時半って。朝四時半がひまなわけないやろ。ツッコミ所しかない。
しかもボートの練習はめちゃくちゃハードで、漕ぎ終わると毎回「もう二度とやるもんか」と思う、なんて語っている……。
いるよなあ、こういう狂人! ぼくも一時長距離走をやっていたのでちょっと気持ちはわかるけど……。
エリザベスのやっている料理番組『午後六時に夕食を』はすごくおもしろそうだ。ぼくも観てみたい。
よく、テレビはバカに向けて作るって言うじゃない。実際、多くの作り手はそう考えているんだろう(よく伝わってくる)。
たしかに世の中にはバカも多いけど、学ぶことを好きな人も多いとおもうんだよね。だからもっと本当の教養番組をつくってほしい。Eテレとかはたまに本気の教養番組を作ってるけど。
フェミニズム小説としてはイマイチだったけど、「知に対して真摯に向き合う人が世間と格闘する小説」としてはけっこうおもしろく読めた。
ドラえもんの道具ってすごく危険だよね。
これ使いようによっては大けがするぞとか、死んでもおかしくないぞとかいうものもあるし、もっといえばこれ下手したら人類滅亡させちゃうじゃん、地球消滅しちゃうじゃん、みたいな道具もある。
こんな危険なものを勝手に使ってたら22世紀の世の中はめちゃくちゃになっちゃうぞ、と心配してしまう。
まあ漫画だから。しょせんまだ見ぬ22世紀の話だから。
じゃあ。
21世紀の我々が使っている道具ははたしてそんなに安全なんだろうか。
たとえば自動車。使いようによっては自分や他人の命をかんたんに奪ってしまう。
たとえばインターネット、たとえばスマホ。使いようによっちゃあ国がひっくりかえるほどの影響を与えることもできる。
数世紀前の人間が21世紀の道具を見たら「そんな危ないものをそのへんの人たちがあたりまえに使ってて大丈夫なのか!?」とびっくりするかもね。
「大の里関」のように、関取は「関」をつけて呼ぶ。
こんなふうに特定の職業にだけつく敬称って他にあるのだろうか(〇〇大臣、〇〇名人、〇〇師匠のように肩書そのままの敬称を除く)。
朝はEテレの子ども番組を観ている。平和な気持ちで一日をスタートできるからだ。
だがオリンピックのフィギュアスケートのせいで番組がつぶれた。『みんなのうた』も『プチプチ・アニメ』も『ピタゴラスイッチ』も『0655』も『The Wakey Show』も。
競技のせいで番組がつぶれるのはまだ許そう。だが競技が終わって結果が出た後も、リプレイとか選手が喜んでいる様子とかを長々と放送して、そのせいでいくつかの番組がつぶれた。そういうのは生で放送する必要がないだろ! 夜のニュースとかに回せ! それかBSでやれ! それも無理なら総合でやれ! Eテレは聖域であれ!
サツキに面倒な雑務を押しつけるカンタ
「……ん! ……んっ!」
パズル愛好家・パズル作家によるパズルの入門書。
前半は、パズルの定義、パズルの歴史、世界の各種パズルなど「パズルとは何か」に関する説明。正直、ここはなくてもよかったんじゃないかなあ。この本を手に取るのはほぼパズル好きだけだろうから、「パズルの魅力とは」みたいなことにページを割く必要ないとおもうんだよね。
ぼくも30年以上総合パズル雑誌『ニコリ』の愛読者をやっているほどのパズル好きだけど、「パズルをやると脳が鍛えられる。これからの時代を生き抜くための問題解決能力がパズルによって……」とか言われると「うっせええええ! パズルはおもしろい、おもしろいからパズルをやる、それ以上の理由があるかあああ!」と言いたくなる。
いやほんと「パズルをやる理由」なんて「おもしろいから」しかない。他は全部後付けの理由だ。「おもしろいとはおもわないけどこれからの時代を生き抜く力を養うためにパズルをやろう」と考える人間がパズルを続けられるはずがない。
おもしろかったのは著者のパズル偏愛エピソード。
ふはは。若い頃ってこういうことやっちゃうよなあ。
そういやぼくも仲の良かった女の子にパズルの本をあげたなあ。あれも今おもうと「パズル好きであるぼくのことをもっとよく知ってもらいたい」という気持ちの表れだったんだろうなあ。
パズルで告白って、相手もパズル好きでないかぎりは絶対に不正解だとおもうんだけど、若い頃ってこういう間違いをしちゃうんだよなあ。パズルは解けるのに。
中盤からはやっと自作パズルの紹介やパズルの作り方の解説になるけど、とにかく文量がものたりない。パズルを解きたいならふつうにパズル本を買った方がいい。
パズルを好きじゃない人が手に取るような本じゃないし、パズル好きにはものたりない。どっちつかずで誰にも刺さらない内容になっている。
岩波ジュニア新書だからしょうがないか。
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