
読書感想文は随時追加中……
読書感想文リスト
下っ端やくざを主人公とした小説。
強引な取り立てをおこない、拳銃や覚醒剤を扱い、ときには対立する組とも抗争をくりひろげる……という典型的なヤクザ。2011年刊行なのでこの頃はまだこういうヤクザもいたのかもしれないが、今となっては絶滅寸前だろう。少なくとも今のヤクザはこんなわかりやすい立ち居振る舞いをしていないだろう。
下っ端やくざとして泥くさい仕事に従事していた主人公・純平は、親分から「対立組の幹部の命を奪ってこい」と命じられる。いわゆる鉄砲玉というやつだ。純平は名を上げるチャンスととらえ、ふたつ返事で引き受ける。
知り合いに頼まれたトラブル解決のために暴力事件を起こし、逃げるどころかさらに喧嘩を売り……ととにかく無鉄砲。うむ、まったく共感できなくておもしろい。
ほんと、何から何まで共感できないんだよな。幸いやくざとか不良とかとは無縁な人生を歩んできたので、「メンツのためならどれだけ不利益を被ってもかまわない」という生き方にはただただあきれるばかりだ。かっとなって損とわかっていることをやってしまうことは誰しもあるだろうけど、それにしたって限度がある。
まして鉄砲玉なんて愚の骨頂。何の恨みもない相手を殺すなんて。それで「男が上がる」と当人は考えているのだろうが、どう考えたって周囲はそう見てくれない。「おだてられてうまいこと利用されたばか」でしかない。
出会った人たちの助言などから純平自身も、徐々に己の本当の立場に気づきはじめる。ただ利用されているだけ、使い捨ての駒にすぎない、鉄砲玉なんかやっても損しかない、と。
だが引けない。自分でも無駄なことだとわかっているが、それでも止まれない。
この、わかっていて泥沼に足を踏み入れていく流れの書き方がうまい。人生にはこういうことってある。そっちはだめだとわかっているのに吸い寄せられるように足が向かってしまうことって。そもそも他人の忠告を聞き入れて己のあやまちを認め方向を正せるような人間なら最初からやくざになんてなってないもんな。
次々にいろんなことが起こり、息もつかせぬ展開で惹きつける。登場人物も多いが、順に出てくるのですっきりまとまっている。奥田英朗さんはほんとに小説巧者だ。
十分に余韻を持たせたラストも個人的に好き。
大人からしたらアホとしかおもえない純平だけど、でも若さってこういうことだよなあ。
作中で紹介されている、明治時代の評論家である斎藤緑雨の言葉。
誰かを殺す人間は、殺される人間より価値のない人間である。たしかにね。
名もない市民が大統領を暗殺しても、大統領が一市民を暗殺することはない。なぜならその価値がないから。
相手が、自分にとって脅威であったり、はるかに強い力を持っていたりして、暴力以外にそれをかわす方法がないときに殺すわけだ。殺すということは相手のほうが書く上であることを認めることだ。
ふうむ。もし誰かを殺したくなったらこれを思いだそう。
キングオブコント2026の感想。
破壊ありがとうの婚姻届のコントがいちばん好きだったな。絶妙に気持ち悪くて。
喫茶ムーンも不快感が漂うコントをしてたけど、事前VTRで「客の悲鳴が聞きたい」みたいなことを言っていたのがマイナス。そういうこと言わずにやるからおもしろいのに。
まあ破壊ありがとうも喫茶ムーンも芸人審査では評価されても国民審査や決勝の客には受け入れられなかった気がするので、こういうコントをテレビで観られただけで満足。
あとやっぱりしずるはいいねえ。愛されてるなあ。一気にバラエティの雰囲気になった。いちばんおもしろかったのはしずるのコントの後。長田さんの「たぶん勝てないし」は笑った。しずるは毎年敗者復活戦にいてほしい(本人たちは嫌だろうが)。
やっぱり芸人審査は楽しいね。昔のキングオブコントの芸人審査は、いつコメントを振られるかわからない&ダウンタウンの厳しい言葉のおかげで緊張感があったが、敗者復活戦のほうはたぶん事前に「次おまえらいくぞ」みたいなのがあったんだろうね。みんなしっかりコメントを考えていて、それはそれでおもしろいんだけどちょっと予定調和な感じがして物足りない面も。
個人的なコメント大賞はカゲヤマ益田さんの「10年後チャンピオンになります」。なんで来年じゃなくて10年後なんだよ。
芸人審査は楽しいけど、公正とはいいがたいから決勝には持ちこまなくていいかな。この後9組出てくるのに1組目から最高点の5点をつける人って何も考えてないのかな。ちゃんと審査しようとおもったら、どんなにおもしろかったとしても1組目には4点までしかつけられなくないか。
あとネルソンズに1点とか2点とか入れてた人は、個人的に恨みでもあったんだろうなあ。どう考えても1点入れられるようなコントじゃないでしょ。
結果的に「フランクフルトを落としたかどうか」といういたって平和なネタをやっていたスパイシーガーリックが勝ち上がり。
決勝ではちがうネタをやっていたけど、最終決戦まで勝ち残ってたらどうしてたんだろ。さすがに3本は用意してないか。
意外にふつうのネタだったなあ。あんな風貌なのに誰よりもオーソドックスなコントをしていた。音響を使ったテクニカルな面も見せていたが、元祖いちごちゃんに期待するのはそういうんじゃないんだよ。
感想としては去年とほぼ同じ。最初に強いボケがくるがその後はしりすぼみになってしまうとことか、たっぷり間をとってツッコむわりにわりとはずしているとことかが気になった。あれだけ期待を高めるんなら相当意外な角度からツッコまないと肩透かしをくらっちゃうよ。
今大会でいちばん名を上げたコンビかもしれないね。
意欲的なことをやりながら、それでいて肩肘を張っていない。あそこまでひとりだけがしゃべるコントをやったら、もうひとりはずっと黙って最後に一言だけ言う(あるいは最後まで口を開かない)、みたいな構成にしてしまうのがセオリーだけど、それすらも裏切る。斬新なコントをやってやるぜ、みたいな意気込みも感じさせなくていい意味で力が抜けている。
ラーメン屋のしゃべっていることは聞き取れない箇所も多いのだが、それでも耳心地がいい。上質なラップを聴いているよう。
敗者復活戦と同じように平和なネタ。
自宅に設置するならエスカレーターじゃなくて場所をとらないエレベーターだろ、エスカレーターだったら上りと下りの2機つけないといけないし……なんてことは考えずにただ動きのおもしろさを味わうのがこのコントの正しい楽しみ方なんだろう。
楽しいコントではある……がストーリーに起伏のないこのコントを5分観ると少々飽きてしまった。
ぬいぐるみが実は生きていてしゃべりだすという定番のファンタジーな導入から、ほとんどのぬいぐるみは死んでいるというダークな設定。なるほど、たしかに命あるものは必ず死ぬから、生きているなら死ぬこともある。納得がいく。理解できるがゆえにおもしろみがない。
ななまがりにしては論理的なネタで、であるがゆえに小ぢんまりした印象を受けてしまった。序盤のネタばらしがピークで、あとはその補足に終始してしまったな。
この短時間で8人を登場させ、複雑な人間関係を簡潔に伝え、鋭い観察眼と批評性も見せてくれ、ちゃんと笑いもとる。実にうまい。8人組限定のコントの大会なら10連覇できるだろう。不世出の才能だ。
これ以上ないほど優れたコントだが、でも優勝はできない。だって競技がちがうんだもん。総合格闘技の大会に柔道の世界王者が出るようなもので。ダウのコントとジェラードンのコントのどっちが上かなんて比べられないよ。それ言ったら身も蓋もないんだけどさ。
個人的には「夢に向かって努力しているまじめな若者が楽しいだけの軽薄な男に勝てない、楽しいだけの軽薄な男が成功している大人の男に勝てない」まではわかるんだけど「成功している大人の男が夢を追っているまじめな若者に勝てない」にはまったく共感できなかった。そうかあ? 若さで負けていたとしても、それはタイプとは別の問題だしなあ。
前半の酔っ払いの動きを見ながら、子どもの頃に見ていたカトちゃんケンちゃんのコントを思いだした。古今東西老若男女誰が見てもわかるおもしろさ。
中盤で「実はひとりは酔っていない」「実はふたりともしらふ」という設定が明らかにされるが、そこからもストーリーを転がすことはなく、徹頭徹尾バカをやりきるのがすごい。設定すらもバカを増幅させる装置でしかない。
ダウ90000の緻密で隙のない脚本のコントを観た後だからこそ、シンプルなおもしろさが際立つ。小難しいことをあれこれ考えていても、結局おれたちはおもしろい顔とおもしろい動きで笑っちゃうんだよ。頭ではなく魂を揺さぶってくれるコントだった。
いつもながらのむちゃくちゃなコントだが、そそっかしい後輩刑事というキャラクターにしてしまったせいで、ニッポンの社長の狂気性が薄れてしまったように感じる。
たとえば以前のキングオブコントで披露していた『バッティングセンター』のネタでは、「このおっさんに痛覚はないのか」「何が目的でそこまで執着するのか」がわからないことが異常性を際立たせていたが、今回はただ変なやつがドタバタしているだけに見えてしまった。
怖そうな客がレストランの店員にクレームを言ったが自分の勘違いだったことがわかってばつの悪い思いをする……という東京03っぽい導入。
東京03であればそこから角田さんのみみっちい立ち居振る舞いが展開されるのだろうが、こちらは客が自分の非を素直に認めた上で「ぜったいにウケろよ」という謎の懐の広さを見せる。そこから二転三転の先が読めない展開。シナリオだけで言えば、今大会もっとも見ごたえのあったコント。脚本を読んだだけでもおもしろいはず。
芝居もいいし、完成度は非常に高かった。しかし完成度が高いと埋もれてしまうのがキングオブコントという大会なんだよなあ。
見たことのあるコントだったが、一度目と同じように笑った。強度が高い。
特に「スマホはまだわかるわ、鼻シュッシュされて何か困ることあるんか!?」のセリフは秀逸。コントのためのセリフじゃなくて、本物のセリフだもんな。同じ状況になったら言っちゃうとおもう。現実味があって、それでいて「怒るのそこなんだ」というおかしさもある。すばらしい。
ただ電流だったりロシアンルーレットだったりの展開はコントのための動きだったな。
これ、シーシャを好きな人からしたらぜんぜんおもしろくないんじゃないのかな。あたりまえのことをあたりまえに説明しているだけなので。
ザ・マミィってこういう変な道具好きだね。トーキング・モジュレーターとかカリンバを使ったコントもやっていたし。
せっかく唯一無二のキャラクターを持っている酒井さんという人がいるんだから、そのキャラを活かしたネタを観たかったな。前のKOCでやってたミュージカルのネタみたいなの。
細かいことだけど、酒井さんがあの風貌の刑事なのにスーツも靴もぴかぴかなのが気になった。もっとくたびれてないと。
や団って伊藤さんがはっきりとヤバいやつ、中嶋さんが一見ふつうだけどよく考えたらもっとヤバいやつ、みたいなコントが多いけど、このネタについては伊藤さんがひとりでヤバいやつを演じていて、パワーダウン感が否めない。しかも理解できなくもない、ぐらいの軽めの異常性だったし。
や団にしてはベタに感じてしまったが、これは常連組の宿命か。
観ていて、キングオブコントが始まったときにネットで盛んだったラーメンズ論争を思いだした。ラーメンズは出るのか、いや出るはずがない。もしラーメンズが出たらその完成度の高さで圧倒するんじゃないか、いやラーメンズはおもしろくない、いやラーメンズはおもしろいけどこういう場では評価されない。そんな議論がよくなされていた。
ヤッホイのこのネタを観て、ラーメンズが出ていたらたぶんこんな感じだったんだろうなあ、という感じがした。そりゃ得点にはつながらないよね。
後半は玉置浩二のおもしろさだろ、とおもった。
蛙亭の魅力って中野さんの善性が持つ気持ち悪さが大きいとおもうんだけど、このネタはその無邪気さが封印されている。真逆の、「言っていることは正しいけど嫌なやつ」になってしまっている。もったいない。
「フラれて泣いている女と初対面の男」という構図は以前のKOCで披露した『寿司ボーイ』のネタと似ているが、あっちは中野さんの魅力が爆発していた。1本目で1位になったロッチが最終決戦でボケとツッコミを入れ替えたネタを披露して逆転負けを喫した年を思いだした。幅を見せたいのはわかるが、最大の武器を活かさないのはもったいない。
わかりやすく変な恰好の人間が出てきて変なことをやる、というオーソドックスなコント。新しいことはやってないが、13本のコントを連続で観た後の観客と審査員にはこれぐらいのわかりやすいネタのほうがいいんだろう。もう斬新な発想とか緻密な構成とかを受け入れる余裕がないもんね。「今君は何を思う!?」という使い勝手のいい決め台詞まで持ってきて、優勝を決めるのにちょうどいいネタ。これがトップバッターで披露されたネタだったら7位ぐらいに終わってそうだけど。
ということで優勝はジェラードン。おめでとう。
メンバー構成が変わって再出場を果たしたのが初めてなら、もちろん優勝も史上初。改めて大宮セブンの賞レースでの強さを見せつけた。
審査結果についてあれこれ言うのは野暮だけど……。コンテストだから順位をつけるのはしかたないけど、せめて「審査員が3組選ぶ」ぐらいの審査方式にできないのかねえ。毎年おもうけど。
ヤッホイとダウ90000とジェラードンのどこが何点高いか決めるなんて、どう考えたって無理でしょう……ねえ。
19世紀後半、まだ人類が誰一人北極点に到達していなかった時代。気球に乗って北極点上空へ行こうと考えたスウェーデン人がいた。歩きやそりで行けないなら空から行こう、というなんとも大胆な発想だ。
サロモン・アウグスト・アンドレーら三人は気球に乗って北極に向かって出発。
30日ほどの飛行となる予定だったが、度重なるアクシデントにより出発のわずか三日後に北極海の氷上に着陸。そこから徒歩での帰還を目指した。二ヶ月半後に無人島に上陸。だがその島で三人とも命を落とした。
奇妙なのは、三人の死因がわからないという点だ。30年以上たってから三人の遺体が発見されたが、食料は十分に残されていた。衣類も、燃料も。また彼らは日誌をつけていたが、その日誌にも死の予兆となる記述はない。
はたして三人はなぜ死んだのか。酸欠、食中毒、壊血病、病原菌、低体温症、鉛中毒、他殺、薬物など様々な原因が推測された。だが三人の遺体は死後30年以上たってから発見された上、火葬されてしまったので真相はわからない。
医師である著者はこの謎にとりつかれ、長い時間をかけて膨大な資料や証言を集めて謎の解明に挑む。手紙、解剖結果、残留物、衣類、残された骨。はたして三人の死因は……!?
という、なんともわくわくするノンフィクション。ノンフィクションでありながらミステリ。
前半は三人の足跡を追いかけるパート。これがもう、読んでいるだけで寒気がする。
当初気球は誘導索(ガイドロープ)を地面に垂らしながら進む予定だった。イカリのようなものだ。これがあることで高度が安定し、ある程度操縦もできるようになるらしい。
だが出発早々、この誘導索がはずれてしまうのだ。
出発と同時にコントロールが利かなくなってしまうのだ。文字通り、風まかせ。
さらにアクシデントは続く。悪天候による霧や霜のせいで、気球から水素ガスがどんどん漏れ出してしまうのだ。そして氷河の上に不時着。絶望的だ。
だが三人は絶望したわけではなかった。元々、氷上を歩くことになるかもしれないと想定はしており、そりや数ヶ月分の食料なども準備していた。日誌にもさほど悲観的な記述はない。
どこまでも広がる氷の上を、三人は重いそりをひきずって歩く。
だがその工程は想像よりずっと過酷なものだった。
6週間で22.5km。ということは1日中歩いているのに500mぐらいしか進まない計算。ちなみにカタツムリの進むスピードが時速50mぐらいらしいので、だいたいカタツムリと同じ速度だ。
歩いても歩いてもちっとも進まない。絶望的な行軍だ。これは精神的にもきついよな。何もかも嫌になって生きるための努力をやめてしまいそうだ。
だが、三人の行動や手記を読むかぎり、彼らは決してあきらめていたわけではなさそうだ。
標本を集めたり、スケッチをしたり、写真を撮ったり。荷物をちょっとでも軽くするために不要なものは捨てたほうがいいはずなのに、生き残るためには不必要なものを彼らは持ち続けている。
それはとにもかくにも、生きて故郷に帰る気でいたからではないだろうか。生還する気でいたからこそ、北極に達した証を少しでも多く持ってかえろうとしていたのだろう。
生きて還る気でいた三人。
無事に無人島に上陸したことで、ちっとも進まない氷上の行軍をしていたときよりもずっと暮らしやすくなったはず。寒さをしのぐ住居ができ、一冬を越せるだけの食料や燃料もある。遭難当初よりも希望は増していたのではないだろうか。
だが上陸してからわずか三日ほどで手記はとだえ、(おそらく直後に)三人とも命を落とした。手記には、死の直接的な要因となるような記述は見当たらない。
この本の後半は死因を突き止めようとするパート。ここは正直やや退屈。著者は真相に迫ろうとあれこれ奮闘するも、ちっとも真実は見えてこない。まるで6週間で22.5kmしか進めなかった行軍のよう。
著者は霊能力者にまで相談するが、当然ながら解決の役には立たない(あたりまえだ。このくだりはいらなかっただろ)。
一応結論らしきものは書かれるが「××の可能性は低い。○○だったのではないかと考えられる」というなんともあいまいなもの。
でも現実のミステリってこんなもんよね。小説のように快刀乱麻を断つような唯一解はない。まだまだ解釈の余地はありそう。
亡くなった三人も、生還できなかったことは無念だろうが、これだけ長い間多くの人に語り継がれるようになったのは冒険家として本望なのでは。
工場閉鎖の危機に瀕した工場長が、恩師である物理学者のアドバイスに従って納期短縮、生産量アップ、経費削減に取り組むというストーリー。
物語仕立てなので読みやすい……とおもう人もいるだろうが、個人的には物語部分のせいで冗長になっているように感じる。ストーリーはいいから早く結論を書いてよ、とおもってしまう。息子をハイキングに連れていったことで工場の流れを悪くしている原因に気づく、とかはいいとしても、夫婦間のストーリーは結局「仕事で忙しくしていて妻をかまっていなかった」だけなのでとりたてて小説として読むほどでもなかった。
40年以上前の本なのでテンポが遅い。映画でも音楽でもそうだけど、昔のコンテンツってテンポが遅いよね。いろんなものがテンポアップしているんだな、と感じる。ストーリー仕立てにするにしてもこの三割ぐらいの分量で良かったのでは、というのが今の時代の感想。
1984年の刊行でありながら、著者がこの本で提唱した“制約理論”は今も製造業における重要な考え方として活かされているという。
特に重要なのがボトルネックに関する考え方。生産ラインの中で全体の流れを遅くしている原因はごく一部である。そこの処理速度が全体のスピードを決定するので、「いかにボトルネックの工程をスムーズに動かすか」が重要になる。そして、ボトルネックをスムーズにするためなら、他の工程では作業ペースが落ちてもかまわない。
だいたいの職場においてこういう考え方が浸透している。
Aさんが一生懸命働いている横でBさんが暇そうにしているのはいけないことだ。自分で仕事を見つけてでも懸命に働かなくてはいけない。生産性向上のためには、常に全員がフルパワーで稼働しているのがいい状態だ……。
だが、すべての工程がフル稼働している状態は非常に非効率な状態だと著者は喝破する。
くりかえしになるが「作業員が手を休めることなく常に作業している工場は、非常に非効率」というのがこの本に書かれていることだ。
おもしろい。なぜなら一般的な常識とは異なるから。
世の中の経営者や上司は、たいてい部下がヒマそうにしていることを嫌う。もちろんやらなきゃいけないことがあってサボっているのはダメだが、ヒマなときにヒマそうにしていることも嫌う。まるで自分が損をしているような気になるのだろう。
洗濯について考えてみよう。
「洗濯機が稼働する」→「洗濯物を干す」→「洗濯物が乾くのを待つ」→「洗濯物を取り込む」→「取り込んだ洗濯物を畳んでしまう」という工程がある。
それぞれに要する時間は
・洗濯機が稼働する(120分)」
・洗濯物を干す(15分)
・洗濯物が乾くのを待つ(300分)
・洗濯物が乾いたら取り込む(10分)
・取り込んだ洗濯物を畳んでしまう(15分)
このとき、ボトルネックになるのは「洗濯物が乾くのを待つ(300分)」だ。
大家族で大量の洗濯物がある場合、「洗濯物が乾くのを待つ」に極力無駄が生じないようにしないといけない。天気がいいのに物干し台がからっぽ、という状態を生んではいけない。
逆に、そのほかの工程についてはかならず待機時間が生じる。洗濯機があいているからといって洗濯機を常に回していたら、「洗濯したのに干せない衣類」がどんどん溜まっていく。これは非効率だ。カビも生えるし。
だから洗濯機はフル稼働でなくていい。サボっているように見えても、働かなくていい。というか働いてはいけない。
どんなに急いでも300分より短い時間で洗濯のサイクルを回すことはできないのだ。
「仕事のない人間がヒマそうにしているのは許せない!」という誤った考えはたぶん学校から来ているんだろうな。学校のようにひとりひとりの能力を伸ばすのが目的であればそれでいいのかもしれないけど、チームで何かをする職場(に限らず)では必ず手持ちぶさたな人が生じる。それが正しいありかただ。
「こっちが忙しくしているのにあいつはヒマそうにしていて腹立つ!」という感情は自然なものだが、決して効率化にはつながらないんだね。
最近、子どもといっしょに漫画『あたしンち』を読んでいる。今も描いているようだが、読んでいるのは今から30年ぐらい前に讀賣新聞の日曜版に連載されていた頃の作品。
古い漫画なので、読んでいると「あーこれ今だったらヤバそうだな」とおもう話がある。
たとえばお父さんがソファに寝転んだまま「おい、爪切り」と言ってお母さんに持ってこさせる。お母さんが遅いとキレる。
たとえば高校生たちが花火を見ながら「えー酒買ってきてないのかよ」と話している。
たとえば0歳児を温泉に連れていって、赤ちゃんが脱糞したのであわてて掃除をする。
「今だったら非難されそうだな」とおもうのだが、よく考えたらフィクションなんだから登場人物たちがどんな悪いことをしようが叩く必要はない(もっとよく考えたら現実の世界の人物だったとしても無関係な他人が叩く必要はない)。
フィクションの世界の住人にまで品行方正さを求めるぼくのほうがおかしくなったのかもしれない。
最近、子どもといっしょに漫画『ドラゴンボール』を読みかえしている。気づいたのだが、天津飯は三つ目なのだが、誰もそのことに触れない。
初登場時は謎めいたキャラクターなので「あいつなかなかやるな」みたいに噂されているのだが、誰も「あの三つ目のやつ」とは言わない。最大の特徴なのに。
ヤムチャと天津飯はけっこうばちばち舌戦をくりひろげるのだが「今のうちにせいぜいえらそうにしておくんんだな」みたいなことは言うのに「この三つ目野郎め」みたいなことは言わない。
特に初期のほうのドラゴンボールって時代が時代なので、チビだのハゲだのパンティー見せてくれだの、見た目いじりやセクハラがあたりまえにおこなわれている。なのに天津飯の三つ目だけはいじられない。
さらにクリリンが「なあ天津飯さん、あんた目がいいだろ」と言うシーンがある。「目がいい」なのだ。「あんた目が三つあるからよく見えるだろ」ではない。明らかに気を遣っている。
現代アメリカで肌の色に言及するのが絶対的なタブーであるように、あの世界では目の数だけは絶対にふれてはいけないタブーなのかもしれない。
アニメ『ドラゴンボール(無印)』の主題歌といえば『摩訶不思議アドベンチャー』だ。今聴いても、イントロが流れるだけでわくわくさせてくれる名曲だ。
ところで『摩訶不思議アドベンチャー』の歌い出しは
「つかもうぜ! DRAGONBALL」だ。その後に
「さがそうぜ! DRAGONBALL」と歌われ、2番では
「手にいれろ! DRAGONBALL」
「追いかけろ! DRAGONBALL」
だ。
……順番、変じゃないか?
ふつうは、さがして追いかけてつかむことで手にいれるものだろう。
エンジェル投資家だった瀧本哲史さんが若者に向けて書いた本(のエッセンシャル版)。
かなり雑多な内容なので、個々のエピソードは読みやすくおもしろいのだが、一冊の本としてはまとまりに欠けるというか、「結局何について語った本だっけ?」という感じだ。
全体を通したメッセージとしては、今後の世の中で必要とされる人間になるためにコモディティ化するな、というもの。
コモディティとは、経済的な意味でいえば「代替可能な商品やサービス」だ。要は「替えのきかない人間になれ」で、至極あたりまえといえばあたりまえだ。
悪者にされがちな派遣業界について。
いまだに「派遣業界が悪の巣窟、派遣によって労働者の価値が低下した!」なんてことを言う人がいるけど、話が逆なんだよね。労働者の価値が低下したから派遣が多く使われるようになった。
リーマンショックのときに「派遣切り」が社会問題化したけど、派遣業がなければ正社員切りがおこなわれていただけだろう。
「うちの会社だけで使われているやりかた」だらけであれば、かんたんに派遣社員は使えない。逆に、どの会社にいってもPCはWindows、表計算はExcel、会計ソフトは弥生会計……というように同じような仕事ができるのであれば正社員を多く抱えておく必要がない。繁忙期だけ派遣社員を雇ってもいいし、正社員が辞めてもまた同じような能力を持つ人を雇える。
問題はいろんな仕事が代替可能になってきていること。
いくらでも替えがきくとおもわれている人間は安く買いたたかれる。だからコモディティ化されていない(替えのきかない)人間にならなくてはいけない……という著者の主張はもっともなんだけど、いやあ、現実にはむずかしいよねえ。
誰もがオンリーワンの能力を身につけられるわけじゃないし、そもそもどこか一点に特化した能力を持つ人はハマれば強いけど、それは適した場所が見つかった場合のみ。個性的な能力を持つ人ほど、汎用的な能力を持つ人に比べて適した場所を見つけるのがむずかしい。
そもそも雇う側としては代替可能な人間のほうが都合がいい。その人が辞めても会社がつぶれないし、経営者としては強気の給与交渉ができる。経営者の利益と労働者の利益がおもいきり衝突してしまう。
著者は、今後必要とされる能力はマーケター、イノベーター、リーダー、インベスター(投資家)としての能力だと主張する。
市場を読み、新たなものを生み出し、他人をマネジメントし、投資家的な視点を持つことが必要だと。
マーケターとしての資質の例。
なるほどね。
難関大を目指す子が家庭教師を選ぶなら、短大生よりも難関大に通っている大学生のほうが価値があるだろう。でも「学校の勉強についていけないのでせめて平均点ぐらいとれればいい」という子にとっては、短大生のほうが「親切に教えてくれそう」となるわけだ。
自分の属性や能力はそうかんたんに変えられなくても、自分を売り込む市場を変えることで大きな価値を持つことがある。
そういえば「勉強が得意な人が弁護士資格をとって弁護士になっても苦労する」と聞いたことがある。なぜなら弁護士業界では「勉強が得意」なのはあたりまえで、弁護士資格を持っていることは最低条件であって何の強みにもならないからだ。でも土俵を変えて「弁護士資格を持っている現場監督」とか「弁護士資格を持っている営業マン」とかは貴重な存在なので大きな強みになる(こともある)。
ぼくも、難関大と言われる大学を出たが、就活に失敗し、無職期間を経たりいろいろあって、今はそう大きくない会社で働いている。決してエリートコースとは呼べないが、おかげで「○○大出てるんですか! めちゃくちゃすごいですね!」と言ってもらえる。おかげで得することもある。これが有名大企業に就職していたら、ぼくの学歴ぐらいの人なんてごろごろいるわけだからアドバンテージにはならなかっただろう。
あえて得意分野とちがうところに行くことで活路を見いだせることもあるわけだ(ぼくの場合はあえてではなく紆余曲折あった末にそうなったわけだが)。
すぐに役立つお手軽なノウハウは書いていないが、ほんのちょっとだけ未来を照らしてくれるような本だった。
読んですぐではなく、10年後ぐらいに効いてくる本じゃないかな。
冒頭から「学校は必要ない!」なんてカマしてくるから「やっぱり読むんじゃなかったかな……」とおもいながら読んだのだが、わざと露悪的なことを言っているだけで言っていることはわりとふつうだった。平凡すぎて逆にがっかりしたぐらい。
「親や教師から言われたことを鵜呑みにするな」とか「これからの時代、国家の重要性はどんどん下がっていく」とか「学ぶことは重要だ。何かに打ちこんでスペシャリストを目指せ」とか、書いてあることはいたってまともだ。がんばって炎上芸をやっている、という感じだ。
これまで堀江貴文さんの書いたものをちゃんと読んだことがなく、ときどきネットニュースで「ホリエモンの暴論に賛否両論!」みたいな記事を見る程度だったので、どんな乱暴な意見が読めるかと身構えていたのに、肩透かしを食らった気分だ。
第1章の『学校は国策「洗脳機関」である』はかなり強めの語調で書かれていたのでおもしろかった(まったく賛同はできないけど)。
ま、言ってることはわかるんだけど。
でも世の中の人ってそんなにはっきりと「従順」と「独立志向」に分かれるものじゃないとおもうんだよね。まあ「一度も人の下で働いたことがなくて起業して成功した人」もいるけど、それよりは「従順さと独立志向の両方を持ち合わせて成功した人」のほうが多いはず。
アーティストなんかでも、成功するのは芸術的センスが優れている人ではなくプロモーションが上手な人って言うし。すべての面で卓越した技能と知識を持った人なんていないんだから、ある面ではエゴイストで、ある面では従順な人のほうがうまくやれるとおもうんだけどな。
たしかに学校には無駄も多いけど、それをもって学校は不要とまで言い切るのは極論だぜ。せっかく多くのノウハウが詰まった教育システムがあるんだから、全否定するんじゃなくて、必要に応じてうまく学校教育を利用したらいいとおもうよ。
教育よりも他の話のほうがおもしろかった。
「所有」の話とか。
立川こしらさんという噺家が、家を持っていないという話を読んだことがある。ずっとホテル住まいで、服なんかは使い捨てをしてるとか。たしかに移動の多い生活をする人にとっては家がないほうが合理的かもしれない。
ぼくはここまで合理的な考えはできないけど、インターネット以前に比べれば「モノを所有したい」という欲はずいぶん減った。昔は本やCDをたくさんコレクションしていたけど、CDはもう聴かなくなったし、どんなに好きな本だってほとんど読み返すことはない。特に情報を得るツールに関しては、所有の価値はすごく下がった。
あとこれは経済的余裕ができたからでもあるかな。貧しい人のほうがモノが多いという話を聞く。お金に余裕があれば「また必要になったら買えばいい」とおもえるもんな。
個人的にはあんまり共感できなかった(ぼくは古い人間なので)けど、いちばん納得できたのは以下のくだり。
そうだよね。「自分の強みを活かそう」と考えてしまうけど、自分でおもう自分の“強み”なんて大したことじゃないんだよね。逆に自分からしたら「えっ、そんなのあたりまえのことでしょ」とおもうようなことが強みだったりする。苦労して身につけたことよりも、自然と身についたことのほうが価値がある。
たとえばマンガの神様・手塚治虫さんは医師免許を持っているけど、最初から「せっかく取得したこの医師免許を活かして何かできないか?」と考えていたら、あの偉大な作品たちは生まれていなかっただろう。「医師免許なんかどうでもいい、マンガを描きたいから描く!」という意識だったからこそ大成したのだろう。
「せっかく長年この仕事をやってきたからそれを活かして次の仕事を探そう」とか「せっかく資格があるからこの資格を活かした仕事を」とかのセコい考えじゃだめだってことね。これは経験上、観測上でもうなずける話だ。
読んでいておもったんだけど、この本を読んで「なるほど、さすがホリエモン。いいこと言う。俺もこんなふうに生きよう!」とおもう人は、堀江さんが最もばかにするタイプの人だ。堀江さんが言うところの“従順な家畜”だ。
ここに矛盾がある。堀江さんはオンラインサロンとか有料メルマガとかやってるみたいだけど、その顧客こそが最も堀江さんが目指す人間から遠い人たちなんじゃないのか。
それを堀江さんもきっとわかっている。わかっていて、でもお金を払ってくれる大事な客だから、その人たちを気持ちよくさせるようなことを言う。
うーん。
常に未読の本が十冊以上ある状態なので、いざ読もうと手に取ったときに「かつての自分はなんでこの本買ったんだろう……?」とおもうことがときどきある。
これもそのうちの一冊で、ほんとになんで興味を持ったのかわからない。民俗学にまるで関心いないんだけど……。
読んでみてもやっぱりわからない。古来日本の山中で生活していた人たちの様子をただそのまま描写しただけで、全体を通して何かが見えてくるというわけでもない。うーん、ほんとになんで買ったんだろう。
そもそも山中で暮らしていた人たちに興味を持ったこともなかったので「イノシシとか山菜とかをとって生活していたのかな」ぐらいのぼんやりとしたイメージしか持っていなかった。ぼくの「昔の庶民の暮らし」って落語によって形成された部分が大きいんだけど、落語って町人の文化なので農村部や山間部はほとんど出てこないんだよね。『池田の猪買い』ぐらいか。
山で暮らしている人は文書で記録を残すことも少なかっただろうしな。だからこういう資料は貴重なんだろう。
『山に生きる人びと』を読むと、山中で暮らす人たちも平野の人たちとまったくつながりを断って生きていたわけではないことがわかる。
猟師にしても、農村の人たちのために農作物を野獣の被害から守ることを引き受けていたとか。炭焼きで木炭を作っていた人も、その木炭は鉄・銅・銀などの精錬に使われていたとか。小泉武夫『猟師の肉は腐らない』という本に、山奥にたった一人で暮らしている猟師が出てくるが、彼にしてもときどき町に下りて獲ったイノシシやドジョウを現金化し、調味料を買ったりしているらしい。完全な自給自足というのはできないものらしい。
興味深かったのが、1186年にはじまった東大寺(奈良県)再建の記録。
東大寺に使われた木材は、なんと周防の国(山口県)から持ってきたのだという。
道すらない山中に入って100尺(約30メートル)以上の丈夫な材木をさがし、それを斧で伐り倒す。そこからがまたたいへんだ。
道をつくり、橋をつくり、とんでもなく重い木を運ぶ。これを800年以上前、車も電気もない時代にやっていたのだ。
さらにさらに。山口県から奈良県まで運ぶという大事業が残っている。
ひゃあ。材木を用意するだけでこの苦労。とんでもない公共事業だ。今のオリンピックや万博など比較にならないぐらいの大工事だったはずだ。ピラミッドや万里の長城の建設にも匹敵するぐらいの難事業だったはず。
人間って(牛も使ってるけど)電気がなくてもこんなにすごいことができるんだなあ。つくづく、集団になった人間の力はすごいと感じさせられる。
ふふふ。よく漫画とかで「ダムに沈んだ村」が感傷的に語られたりするけど、いざ移り住んでみると「こっちのほうがいいや」となるようだ。
そうだよねえ。一度便利な生活を知ってしまうとなかなか戻れないよね。
転居でも転職でも、躊躇する理由の多くは「今より悪くなったらどうしよう」という不安なんだよね。戦わせているのは「転居するメリット」と、「転居することのデメリット」+「最悪の事態になったときの不安」なんだよ。
人は変化を恐れる。変化にともなうマイナスを、プラスよりもずっと大きく見積もる。生まれてから一度も村を離れたことのない人ならなおさら。
ぼくもそうだったからわかる。高校生になるまで生まれ育った街を離れるのはすごく嫌だったし、できることなら戻ってきたいとおもっていた。でも故郷よりずっと人の多い街に住んでみると、ここを離れる選択はしたくない。故郷は故郷で今も好きだけど、今の生活を捨てて移り住みたいとはおもわない。
立ち退きに反対している人とかも、いざ引っ越してみたら、一年後に「元の家に戻りたいですか?」と訊かれても首を横に振る人が多いんじゃないだろうか。
地政学とは体系化された「学問」ではなく、国家戦略や国際関係を読み解くための「視点」である……という謙虚な説明から入るところが好感が持てる。
「これさえ知ればすべてがよくわかる!」みたいな大風呂敷を広げる本はろくなもんじゃないからね。知識のある人ほど謙虚になる。
国際問題を考えるうえで、「自国がどうしたいか」「どうすれば自国にとって得か」だけ考えていてもしかたがない。「相手はどうしたいのか」「どうすれば相手にとって得になるか」を考えないといけない。人間関係と同じだね。
そして、都会で生まれ育った人と田舎で生まれ育った人がちがう価値観を持つように、地理的な環境によって国家の重視するものも変わってくる……というのが地政学の考え方だ。
特に重要なのが、ランドパワー(陸上権力)とシーパワー(海上権力)のちがい。ロシアや中国に代表されるランドパワー国家は、多くの国と陸上で接しているため、いつ攻め込まれるかもしれないという恐怖を常に抱えている。
中国の万里の長城なんて、まさにランドパワー国家の不安を体現したものだ。このへんの感覚は、島国・日本人からするとちょっと想像しにくい。たしかに仲の悪い国と陸で接していたら「明日攻め込まれるかもしれない」という気持ちになるかもしれない。
だからランドパワーの国は、シーパワーの国よりも「周辺国を軍事力で押さえつけたい」という気持ちが強くなる。
だが……。
周辺国を軍事力で押さえつけたい。けれど押さえつけようとすればするほど当然周辺国は反発する。かえって仲が悪くなる。そこで余計に軍事力を強化し、そうするとさらに緊張が高まり……という悪循環だ。
ロシアのウクライナ侵攻を見ていると、まさに「ランドパワーのジレンマ」に陥っているように感じる。傍から見ていると、ウクライナを侵略することでロシアは損しかしていないように見える。攻め込まれたウクライナはNATOと接近し、ロシアとNATOの関係は悪化している。
損しかしないように見えても、ロシアからすれば「追い詰められたからこうするしかなかった」という被害者意識なのかもしれない。
戦争というとついつい「どっちが悪いか」というジャッジをしてしまいがちだが、著者はあくまでリアリスティックに「どうするのが得か」という視点で戦争を見ている。
そのうえで、戦争で重要なのは「勝つこと」ではなく「どのような戦後秩序を築くか」だと語る。
なるほどね。戦争が終わっても国際関係は続く。敵国の国民だって全滅させることはできないだろう。戦いに完勝したとしても、生き残った人たちからの復讐におびえ、他国からも非難されるようなことになれば、それは負けだろう。
こういう視点は今の日本にはあまりないものだよね。「戦争はいけないことだから反対!」と言う人たちも、「他国が侵略してきたら戦うしかない!」と言う人たちも、どっちも「どういう戦後秩序を築くか」という視点が欠けている。勝ちか負けかのどちらかしかないとおもっている。
ウクライナ戦争にしても、パレスチナ・イスラエル戦争にしても、当事者たちには「戦後に有利な状況にもっていく」という意識があるんだろうか。「勝つまで戦う」でやっているように見えてしまう。
その点、数々の戦争を経て多くの植民地を手にしたイギリスは非常にしたたかだ。
「戦いに勝つこと」ではなく「どうすれば自国に有利になるか」で動いている。
少し前に読んだ、保阪 正康『なぜ日本人は間違えたのか』にも似たようなことが書いてあった。日本は日中戦争で、自国よりもずっと広くてずっと人口の多い中国をまるまる占領しようとして失敗した。その点イギリスはアヘン戦争後も中国全土の統治などは考えず、上海に租界を置いて「点」で支配しようとした、と。
最近でも、イランがホルムズ海峡を封鎖したことでタンカーなどが通行できなくなり、世界中に大打撃を与えることになった。
べつに戦争で全面的に勝利しなくても、重要な「点」さえ押さえれば世界情勢を自国に有利に動かせるのだ。
戦争というと、善か悪か、あるいは勝つか負けるかで考えてしまうが、最も重要なのは「得か損か」だよね。
こういうこと言うとあちこちから非難されそうだけど。
新聞を13紙も購読して読み比べしているという芸人・プチ鹿島さんによる政治コラム集。
タイトルには「2025」とあるが、コラムは2023~2024年に掲載されたものが中心。自民党裏金問題、安倍元総理暗殺・国葬問題、岸田首相→石破首相へのバトンタッチ、都知事選の話題など。
ほんの数年前のことだが既に「あーこんなこともあったなー」という感じだ。政局というのは目まぐるしく動くし、人々が忘れるのも早い。ぼくは政治ニュースが好きなのでわりとチェックしてるほうだとおもうのだが、それでも忘れている。
いわんや政治に興味のない人々にとっては、政治家がどれだけ悪さをしても1年もたてば記憶の隅にも残っていないのだろう。そりゃあ政治家は罪を認めて責任をとるより、のらりくらりと逃げるほうを選ぶよね。
プチ鹿島さんのお家芸といえばなんといっても「新聞読み比べ」。
同じ話題でも新聞によって書き方はぜんぜんちがう。それを「偏向報道だ! これだからオールドメディアは」と言うのは子どもの反応(逆に変更していない報道がどこにあるのか教えてほしい)。
良識ある大人は偏向報道であることを承知した上で、その違いを楽しむのだ。何紙も読むことで「なぜこの新聞はここには触れないのか」「なぜこの新聞だけがこの情報を知ることができたのか」が見えてくる。プチ鹿島さんは“書かれていないこと”を読み解くのが本当にうまい。
裏金問題等の「責任をとる」という理由で逃げるように衆院選不出馬を決めた自民党の大物・二階俊博氏について。
裏金なんか誰が見たって悪だろう。仮に裏金によって利益を得ている身だったとしても、少なくとも建前上は「裏金は許されない」というのがまともな大人だろう。
ところが北國新聞は《昭和の空気をまとう政治家には住みにくい世間になった》と「二階さんもおつらいよね。昭和の時代だったら許されることだったのに」と、裏金議員に同情してみせるのだ。すごい。
さらに「触れない方がいいことには触らない。伏せておくことは、しゃべらない。それで世の中は成り立つ。」なんて、報道機関として自殺に等しい宣言だとおもうのだが、それを堂々と書いてみせるのだ。
いやあ、地方にはまだまだすごい新聞があるんだなあ。権力とべったりであることを隠そうともしない。相当甘い汁を吸ってるんだろうな。そりゃあどれだけ不祥事をしても一部地方で自民党が勝ち続けるわけだ。
北國新聞に負けず劣らず、四国新聞もすごい。
四国新聞といえば、自民党の平井卓也議員の弟が代表取締役を務めていることもあり、ほとんど自民党の機関紙と化していることでも有名な新聞だ。
政権べったりの新聞だからこそ、権力者の本音が漏れる。
朝日新聞や毎日新聞相手なら警戒して言えないようなことも、太鼓持ち新聞相手なら気を良くしてついつい漏らしてしまうのだろう。
先ほどの北國新聞のコラムもそうだが、政権側の立場を新聞だからこそ「こんなこと書いたら批判されるだろうな」と気づかずに書いてしまうんだろうな。なぜなら己が批判精神を持っていないから。
あえて自分とはまったく異なるスタンスの新聞を読んでみると、いろいろと発見がありそうだ(ぼくはそこまでしようとはおもわないので、お金と時間を使ってやっているプチ鹿島さんには頭が下がる)。
2024年に最も話題を集めた政治家が斎藤元彦・兵庫県知事。
パワハラ、内部告発つぶし、阪神・オリックス優勝パレードをめぐる背任など様々な問題で不信任決議を受けた斎藤知事が出直し選挙に出馬。圧倒的不利かと思われたが、立花孝志氏らが積極的にデマをまき散らして知事を擁護(というより告発者や対立候補らを攻撃)。
結果的に、多くのデマに助けられたことも後押しして斎藤氏は再選を果たした。
この結果を受けて「オールドメディアの敗北」が話題になった。
一方の陣営がSNSやYouTubeで積極的にデマをまきちらしているのに、新聞やテレビは「中立報道」を理由に、あくまで候補者の主張をそのまま流すことに徹していた。
はたして、デマや真偽不確かな情報を蔓延している状況で「中立だから」といってあたりさわりのないニュース(「○○候補が駅前で主張を訴えました」みたいな報道)をすることが本当に中立なのか。デマを流す側が利する結果になっていないだろうか。
国民のほとんどが新聞やテレビなどのマスメディアから情報を得ていた時代であれば、「選挙期間中は批判をしない」が公平だったかもしれない。でもお行儀の悪い人たちが誤情報をまき散らしている時代に、マスメディアだけが「私たちは何も言わずにおきましょう」とやっていていいのだろうか。
古いメディアには古いメディアの良さがある。だけど時代が変わっても旧来のやり方をずっと守ることが正解ではないだろう、とおもうんだけどね。
選挙期間中だからって急に黙りこむ、ってのはもうやめてもいいんじゃない? 選挙期間でも悪いことは悪いこととして報じる必要があるでしょ。それこそが本当の中立・公平じゃないの?
著者はジェーン・スーという名前だけど生粋の日本人だそうだ。
幾人もの男と付き合ったけどとうとう独身のまま40代を迎えてしまった女性による「プロポーズされない101の理由」。
ぼくは既婚男性なので「プロポーズされない女性」とは真逆の属性なのだが、だからこそ楽しく読めた。自分とはまったく関係ない人に向けて書かれた本は素直に読める。
もしもぼくが結婚したかったという後悔を抱えている結婚適齢期を過ぎた女性だったら、突き刺さりすぎてまともに読めなかったかもしれない。
婚活を描いた小説・辻村深月『傲慢と善良』に「お見合いがうまくいかない人はみんな、自分に釣り合う相手じゃなければ納得しないし、その基準が控えめだと言いつつ、実は相当高い」という台詞が出てきた。
それなりに異性と交際してきたにもかかわらず(そして結婚願望があったのに)結婚できなかった人は、みんな突き詰めれば「求めるものが高い」に集約されるのだろう。
前にも書いたけど、ぼくの友人に稼ぎが良くて見た目もわりと良くて性格も穏やかで家事もきちんとやる男(既婚者)がいる。いわゆる“理想的な夫”だ。
だが彼は最初から理想的な夫だったわけではない。二十代の頃は仕事を転々としていて稼ぎも良くなく、生活も荒れていた。その頃から付き合っていた女性と結婚して、徐々に“理想的な夫”になっていったのだ。
最初から“理想的な夫”を探そうとしてもそんな男はまずいない。いたとして、とっくに結婚している。
残酷な話として、恋愛市場、婚活市場において女性は若ければ若いほど価値が高い。一方男性のほうは必ずしもそうではなくて、年齢が上がるほど収入は増える傾向があるし、角がとれて人あたりがよくなる人が多い(というより男は二十歳を過ぎてもまだまだガキすぎるんだよね)。もちろん悪化する人もいるけど。
「いい男がいない」のは当然で、探さないといけないのは「いい男になりうる男」なのだ。
プロポーズされない理由のひとつとして挙げられている『雑誌に書いてある「彼をその気にさせるアプローチ」を鵜呑みにした』。
これは男女関係にかぎらず、あらゆる人間関係に対して同じことが言えるね。友人でも、親子でも、上司と部下でも。
「相手のためをおもって」アドバイスをするとき、人はどうしても相手に変わることを求めてしまう。そして変わってくれなければ相手に腹が立つ。
「子どもの将来のことをおもって勉強するように言う」と、勉強しない子に対して腹が立つ。そうではなく「子どもが勉強をして難関校に入ってくれたら自慢できてうれしい」と正しく自分の感情を見つめることができれば、助言が聞き入れられなくてもさほど腹も立たない。宝くじがはずれたのと似たようなものだ。
「相手のためをおもって」という思考を捨てて「自分にとって好都合だから」と正しく認識することが心の平穏を保つ秘訣だね。
相反するものをひとりの人間に求めてしまう、ということについて。
そうそう。「常に女性の意志を尊重してくれる優しい男」は、「俺についてこい!」的なプロポーズはしない。女のほうから結婚しようと言いだしたら「じゃあ結婚しようか」と言ってくれるだろうけど。
都合のいいときだけマッチョさを求めてもそれは虫が良すぎるというものだ。
ほんと、男から見たら女に対して「そりゃそうですよ」と言いたくなることは多い。
社交的でマメで行動的な男と付き合った女が浮気されたら「そりゃそういう男は浮気する確率が高いよ。浮気されたくないなら気が利かなくて行動的でなくてモテない男を選ばなきゃ」とおもう。
もっとも男は男で、「積極性と奥ゆかしさ」とか「清純さとエロさ」のように決して相いれないものを女に対して求めてしまうのだけれど。
プロポーズされない理由をあれこれ書いていてそのどれもがもっともなんだけど、じゃあ「交際相手はいるのにプロポーズされなくて困っている」女性がこの本を読んだからと結婚できるようになるかというと……むずかしいだろうね。
理由はいろいろあるけど、いちばん大きいのは「著者自身がどうしても結婚した方がいいとおもっているわけではない」ということ。この本の随所からそれが感じられる。
プロポーズされなかったけど、そんな自分を否定したいわけじゃないし、むしろ肯定してあげたいし、ということはこれからも改める気はないし、かんたんに改められる人間ならもっと若い頃に改めてるし、そもそも本当に結婚したいのか自分でもよくわからないし……という気持ちが節々から伝わってくる。プロポーズされない自分をむしろ誇りにおもっているんじゃないだろうか。
著者自身が「世界一役に立たない結婚指南書」と書いているとおり、この本を読んだら結婚できるどころかむしろ結婚から遠ざかるんじゃないだろうか。
そもそも「結婚」じゃなくて「プロポーズされる」をゴールに置いている時点で根底から間違ってるしね。「転職成功」じゃなくて「スカウトされる」を目標にしてるようなものだもん。
「私たちは間違っていたけど、それも含めてトータルでは間違っていなかった」というメッセージ。自虐に見せかけた慰めの本だね。
昭和史を改めて見つめなおした本。
読んでいて感じたのは、左派による左派批判という感じ。この人自身は太平洋戦争を間違いだったと認めているし、戦争をくりかえしてはいけないと感じている。たぶん。でもそんなことは書かない。むしろそういう人を批判している。
「戦争はいけない。再びあの愚かな過ちをくりかえしてはいけない」と言うことで平和に対して貢献した気になった人を批判している。
戦争に対する反省ってのはそういうことじゃないだろ。いつどこで誰が何をした、それに対して周囲の人間や国民はこんな反応をした、それに対して他国はこういう行動をとった、その結果こうなった。こうした歴史に対する正しい向き合い方から反省や改善は生まれるのだろう。これが著者の主張だ。
そうだよね。左派だからこそ左派のダメなところを直してほしいんだよね。
「平和は大事! 戦争はいけない!」って教わって、そういうものなんだ平和は大事なんだな、って信じてる人って「天皇は神! おまえらは神のために死ね!」って言われて信じていた人たちと大差ない。
でもこういうことを言うと「おまえはどっちの味方なんだ!」「極右め!」とか言われちゃうんだよね。特に政治的に熱くなっちゃってる人に「その目的を達成したいのならそっちよりこっちの道を選んだ方がいいですよ」って言うと、全部否定されたとおもって反発しがちだ。耳に痛いアドバイスをしてくれる人こそ大事にしたほうがいいのに。
筆者の歴史研究に対するスタンスは、なるべく生の声を集めるというもの。
裁判記録というのはオフィシャルなものなので(ほとんどの場合)間違いではないのだけれど、それだけが正解かというとかなり怪しい。
現在ですら、政府が発表していることはかなり不正確だ。さすがにあからさまな嘘は少ないが(ときどきあるけど)、あえて書かないことは山ほどある。黒塗りだらけの開示資料を見れば明らかだ。オフィシャルな記録なんてものは一面的なものの見方でしかない。
市民たちの生の声というのは誤りや記憶違いも多くて信頼性には欠けるけど、公的な史料からはこぼれ落ちる事実を拾ってくれることもまた事実。
戦場で生死を分けるのは、人徳でも努力でもない。運だけだ。運が悪かったやつは死に、運が良かったやつは助かる。彼我の間に運以外の差はなく、だからこそ生還した者は死者の言葉を代わりに語る。
これを読んでぼくは、中島 岳志 『100分 de 名著 オルテガ 大衆の反逆』を思いだした。中島岳志氏はこう書いている。
「死者の声」に耳を傾ける必要がある、現代人の考えだけで正しさを決定することなどできない、という考え方だ。保阪正康の主張ともよく似ている。
このように、ぜんぜん別のテーマを扱った別の著者の本を読んでいても、驚くほどよく似た主張をしていることにぶつかることだ。読書の悦びのひとつだ。
死者の声に耳を貸す。現代では忘れられがちだが、重要な考え方だとおもう。歴史を見ればわかるように、人間はずっと間違いつづけてきた。今の政治も正しくないし、これから先も間違える。我々は必ず間違える。独裁制だろうが共和制だろうが間違える。
と考えれば「選挙で勝利したから民意を得た。我々が正しいと考える政策を進めていい」なんて愚かな考えには至らないはずだ。我々は間違える、という謙虚な考えを持つことが特にトップにとっては大事な資質だ。残念ながら人々はその逆の「私失敗しませんから」と考えるバカをリーダーに選んでしまうものなんだけど。
歴史は権力者や歴史学者が作るものではない。死者の声の中にこそ歴史があるはずだ。
筆者は、そうした善悪思想から離れた分析をやるべきだという立場をとる。このリアルな姿勢、嫌いじゃないぜ。
「あの戦略はどこが間違いだったか」と考えることはべつに反戦思想と矛盾しない。なのに戦略の分析をしたら「そうやって戦争の研究をしてまた戦争を始める気なのか!」と言いがかりをつけてくる人がいることは容易に想像できる。
そうやって戦争について本当にじっくり考えることを避けてきたことこそが、著者の語る「日本人は間違えた」ポイントなのだ。
日中戦争において、中国は内陸へ退却した。日本軍はそれを追いかけてどんどん内陸に進軍していった。そこに戦略はなく、ただ逃げる敵を追いかけたに過ぎない。
そもそも日本よりはるかに広くて人口もずっと多い国を制圧できるはずないなんて、誰でもわかることなのに。イギリスがアヘン戦争の後に要所の上海に租界を置いて効率的に統治したのとは対照的だ。
つまり日本軍は何も考えてなかったわけだ。ただ追いかけた。その結果、食料や物資が枯渇し、民間人から掠奪することになった。非軍人からの抵抗を受け、虐殺をした。国際的な非難を受けた。日本軍にとって、すべてが悪い方に転がった。
著者は「中国の巧妙な罠に嵌まった」と書く。はたして中国がそこまで見通して退却をしたのかはわからないが、日本軍の戦い方がまずかったのは間違いない。
これを「日本軍は虐殺という悪いことをした」と教えるだけでは真の反省にならない。当時の軍人だって「民間人から虐殺、掠奪しよう!」と思って進軍していったわけではない。彼らには彼らの事情があった。その理由を検討しなければ、また同じ状況になれば同じことをくりかえすことになる。
「侵略戦争だった。侵略戦争はいけないこと!」というイデオロギーからはこういう考察は生まれない。
反省は必要だが、それと冷静な分析は切り分けて考えなければならない。戦争に反対する者こそ戦争について知る必要がある。目を背ける人が多いけど。
戦争の文脈でよく語られる「反省」について。
ぼくは、右も左も外国の反応を気にしすぎだと思っている。
少なくとも国民の単位では、他国民に対して謝罪する必要なんてない(出兵した人は別にして)。かといって必要以上にはねつける必要もない。
ずっと昔、ぼくが中国に行ったときに出会ったある中国人から「おまえら日本人は中国人からたくさんのものを奪った」と言われたことがある(言っておくがそんなことを言ってきたのは大勢出会った中国人のうちひとりだけだ)。で、ぼくは「たしかに悪いことをした日本人はいた。それに対してはぼくも胸を痛めている」的なことを言った。
同じ日本人だからというだけの理由で過去のあやまちの責任をこっちに持ってこられても、知らんがな、である。そんなこと言ったら中国人が過去にどれだけ
とはいえ相手を怒らせていいことなんてないので「ひどいことだよね。私も心を痛めている」ぐらいは言ってあげたらいい。つまり「ナチスにひどいことをされたユダヤ人の子孫」に対するのと同じ態度をとればいい。
戦争に対する知識も思考もない反省なら、しないほうがマシかもしれない。
もう終戦から81年。戦争を体験した人がいなくなる時代になった。そろそろ「脊髄反射的な反省」をやめて、リアルな分析をできる時代になっているかもしれない。
断食により餓死しようとした作家の手記。
ぜんぜん理解できなくておもしろかった。こういう、自分とはまったく考え方がちがう、理解できる気すらしないぐらいぶっとんでいる人の本はおもしろい。
もう年老いて、身体にもあちこちガタがきて、もうすぐ仕事もできなくなり、介護が必要になるかもしれない。同居する家族もいない。世の中に迷惑をかけるだけの存在になるぐらいならいっそ自分で命を絶ったほうが……。
ここまでは理解できる。ぼくもこの状況になったら同じように思うかもしれない。むしろ、「ただ介護されるだけでこれ以上良くなる見込みもない老人って何を楽しみに生きてるんだろう」とすら思っている。
だが、「だから断食で餓死しよう」という発想になるのは理解できない。なんで断食? ぜったい苦しいし大変じゃん。
筆者は自然に死にたいって言ってるけど、餓死って自然な死じゃないし。動物だって餓死するのはごく一部でしょ。そもそも自死が不自然な死なのに、「自然に死にたい」って何言ってんだ……。
特に理解できないのが、断食で死のうとしているのに、薬は飲み続けていること。
一度、断食をして薬を飲むのもやめたところ、心臓発作を起こして入院することになったから、というのがその理由らしい。
うーん、わからん。心臓発作で死ぬならそれでいいんじゃないの? 心臓発作も苦しいだろうが、餓死ほどは長く苦しまないわけだし。断食で死にたいけど心臓発作で死にたくないという感覚がまったく理解できない。心臓発作のほうがよっぽど自然な死だとおもうんだけどなあ。
で、断食しているのに「食後の薬」を服用するものだから、胃が痛めつけられ、胃が痛いと手記に書いている。そりゃそうだろう。何がしたいんだこの人は……。
この人は、断食で死ぬために周到な準備をしている。
死のうとしていることを知り合いに知られると、止められてしまうかもしれない。止めなかった場合、その人が保護責任者遺棄致死に問われる可能性が出てしまう。なので誰にも言わずに断食を実行しようとしている。
連絡がないのを不審におもって知り合いが様子を見にきたら困るので、わざわざ引越しまでしている。高齢者の一人暮らしなんて賃貸物件を見つけるのもたいへんなのに。
首尾よく(?)死ねたとして、発見が遅れると遺体処理がたいへんだし借りている家にもダメージを受ける。そのため死ぬ寸前に知り合いに連絡をして、死んだら速やかに発見してもらえるようにする。
……と、あれこれ気を配ってスムーズに死ねるよう算段している。
ここまで配慮できる人が、なんで「断食しているのに薬を飲んでいるせいで胃が痛い」なんてことで困惑しているのか、ほんとによくわからない。
結果的に、この人は断食では死ねなかった(Wikipediaによると断食失敗の翌年に病院で心不全で亡くなったらしい)。
しっかり覚悟を決めて、盤石の態勢で臨んでも、人が断食で死ぬのはむずかしいらしい。ま、そりゃそうだろう。
山口良忠氏という裁判官がいた。戦後の食糧難時代、人々は闇市で食べ物を買って生きていた。厳密には食糧管理法違反だが、政府からの配給だけでは生きていけないので闇市で買っていたのだ。
だが山口氏は「闇米を取り締まる裁判官である自分が、闇米を食べるわけにはいかない」と闇市での買い出しを拒否し、配給の食糧を子どもに与え、自分はわずかな食べ物しか口にしなかった。
そして彼は死んだので「信念のために命を捧げた立派な裁判官」として有名になっている(もちろんこれを聞いて「なんてばかな人なんだろう」と感じる人もいるだろう)。「悪法もまた法なり」と言って死刑になったソクラテスに重ねて「昭和のソクラテス」とも言われる。
だが山口氏の死因は肺結核である。食べていなかったので栄養失調になったことが間接的な原因だが、餓死したわけではない。もし山口氏が結核にならず、「今日食べなきゃ死ぬ」という状況に追い込まれていたら、それでも信念を貫いていただろうか。生物の生存本能というのはそう弱いものではないだろう。
興味深いのは、筆者が死ぬことを決めてからも政治のことについて怒っていること。この本の随所に、政治に対する怒りが書かれている。
どうせ死ぬんなら政治のことなんてどうでもいいじゃない、と読んでいる側からしたらおもうんだけど、死を目前にしても義憤って抑えられないんだなあ。
人間、死期が近づいたらありとあらゆるものに感謝をして、穏やかに眠るように息を引き取る……というわけにはいかないもんなんだなあ、やっぱり。
いい本だった。安易なビジネス書みたいなタイトルだけど、内容は科学的知見に基づくちゃんとしたもの。
小手先のテクニックではなく、心の底から相手と通じ合う方法を説いている。
個人的にちょうど今、仕事で「伝え方」について頭を悩ませているところだったのですごく参考になった。
ぼくはずけずけとものを言ってしまうタイプで、「正しいことを言って何が悪いの?」と思ってしまうことも多々ある。でもそれじゃ他人を動かすことはできないと40歳をすぎてやっと気づいた。遅ぇ。
たとえば自分が嫌いな上司から納得のいかない理由で説教を食らっているときのことを考えてみる。どういう行動をとるだろうか。口では「はい、わかりました、気を付けます」と言いながら、内心では「うっせえな。おまえがおかしいんだろ。この意味のない説教早く終わらねえかな」と考える。それがふつうの人間だ。
なのに、自分が他人に注意しているときは、相手は真剣に聞いてくれていると思ってしまう。相手の話は自分に響いてないのに、自分の話は相手に響いていると思いこんでしまう。
自分が話を聞き流しているのと同様、自分の話も基本的に相手に伝わっていないものと思った方がいい。「基本的には伝わらない」とおもえば、伝わるためにはどうすればいいかという発想になる。
話をするときは「何をどう話すか」「どう感じるのか」「私たちは何者なのか」を意識することが必要だと著者は書く。
詳しくは本書を読んでいただきたいが、ぼくが特に重要だと感じたのは「どう感じるのか」の部分である。
感じていることについて話し合っていると、他の人たちは話を聞かずにはいられなくなる。そして自己の感情を吐露しはじめ、今度は私たちが耳を傾けることになる。
情報だけで人は動かない。「100万人が死んだ」という情報よりも「たった1人の息子を亡くして私がどれだけ悲しい思いをしたか」という話のほうがずっと人の心を動かす。
そこで「感情を吐きだすこと」と「感情を吐きださせること」が必要になる。
なるほどなー!
この本でいちばん勉強になったのはここ。
初対面の人と話さなくてはならない状況になったとき、ぼくも相手に質問をしたりしてなんとか会話を続けようとしていた。でもあまり会話が続かない。まして打ち解けるところまでいったことはほとんどない。
思い返してみれば、そういうときにぼくがしていたのは“事実”に関する質問だ。
「どこ出身ですか?」「お仕事は何をされているんですか?」といった類の。
質問に対する答えは返ってくるが、それ以上の会話にはなかなか発展しない。
重要なのは「どこ出身ですか?」の後の「へえ、そこって住みやすいですか?」といった、感情を引きだす質問だったのだ。
「そこって住みやすいですか?」だと聞かれたほうも一生懸命に考えるし、「うーん、若いうちはいいけど仕事をするには不便ですよねー」とか「いやこっちのほうがぜんぜん住みやすいですよ。○○があるし、××にも行きやすいですし」といった回答から、その人の人となりや大事にしているものが見えてくる。
勉強になったぜ。
口論になったときの考え方について。
そうだよなー。そうなんだよなー。
これは深く受け止めないといけない。よく妻に叱られる夫として。
妻から「洗面所を使った後に水が飛び散ってたから気を付けて」と言われたとき、ほんとは「風呂場も汚いし、台所の使い方も荒っぽいし、でもいっつも掃除をするのは私ばっかりで、その間あなたはグーグー寝てるのはおかしいよね? どう考えたって家事の負担が半々じゃないよね」と言われているのだ。
「洗面所をきれいに使おう」とおもうだけではだめなのだ。
これはほんと大事。ぼくも十五年結婚生活を続けているのでよくわかる。
「不満があるなら溜めこまずに全部言ってくれたらいいじゃない」なんておもうのはど素人だ。注意する方だって不快だし、だいたい不満を逐一口にしていたらぼくなんか一日に七十五回ぐらい妻から注意されることになって、家庭内の雰囲気は最悪になる。
妻は言わないでいてくれているのだ。だがこちらはそれに甘えて「言われたことだけ気を付けよう」としてはいけないのだ。
重々肝に銘じておかねば。
大事なのは話し方だけではない、聞き方も重要だ。
これはすぐにでもできるテクニックだね。やりすぎるとだいぶうっとうしいけど。
相手の言ったことを「それって……ってことですか?」と質問する。相手の発言内容を確実に理解することができる。それだけではない。相手の言うことをまとめようとおもったら、相手の視点と自分の思考を重ね合わせなければならない。いわゆる「相手の立場に立って考える」というやつだ。
SNSの議論なんかを見ていると(不毛だからあんまり見ないようにしてるけど)、そもそも両者とも相手のことを理解しようとなんかしていないことがほとんどだ。はなから相手のことを「思慮の足りない人間」と決めつけ、その結論を導くための証拠を必死になって探している。
でも多くの問題には良い面と悪い面があり、対立する両者とも正しいことを言っていたりする。たとえば原発の存続に関する議論であれば「原発が生み出すエネルギーは重要な価値がある」と「原発が抱えるリスクはとても大きい」はどちらも間違っていない。どちらに重きを置くかという価値観の違いがあるだけだ。
相手の視点でものを見ることで、建設的な議論ができるようになるはずだ。もっともSNSで議論(という名の一方的な主張)をしている人たちが「建設的な議論」なんて望んでいるかどうかはわからないけど……。
相手の気を悪くさせる話し方について。
望まない一般化をすると相手は怒る。
これもわかるなあ。昔、友人から「おまえのその意見っていかにも賢い人の意見って感じやな」と言われてめちゃくちゃ腹が立ったことがある。けっこう強めに言い返して、喧嘩になった。
そこまでひどいことを言われたわけじゃない。でも「賢い人」が褒め言葉ではないこともぼくにはわかった。友人は「頭でっかちな人」みたいな意味で使ったのだとおもう。
それがぼくには気に食わなかった。自分でもなんでそんなに腹が立っているのかわからないぐらい不愉快だった。
ぼくが言われた「いかにも賢い人の意見」こそ、まさに「聞き手の意思に反して、その人をある集団の一員としてひとくくりにするような発言」であった。
「これだから女は」的な発言だ。そりゃ人をイラつかせる。だがこの手の発言は巷にあふれている。性犯罪者を非難すればいいのに「男は~」と語ればコメント欄が荒れるのは必至だ。
女性専用車両が嫌われているのも同じ理由だろう。あれは男全員を「おまえたち痴漢予備軍」とひとくくりにしているのと同じだからだ。あれはれっきとした差別だ(ただし現実的に有用な面もあるので、「不愉快でしょうが差別させてください」という形で鉄道会社がお願いするのであれば拒否するほどではない)。
まとめ。
コミュニケーションに対する考え方を根っこから揺さぶってくれるような本だった。
ただし安っぽいビジネス書に書いてある小手先のテクニックではないので、実践するのはかんたんではない。どれも一朝一夕に身に付く技術ではない。
でも、だからこそ、どんな状況でも、どんな相手でも普遍的に使える技術だ。
何度か読み返したい本。
婚活で出会った女性と交際し、婚約をしていた男性。喧嘩ひとつしないカップルだったが、その婚約者がある日突然姿を消した。彼女は少し前からストーカーに狙われていると不安を口にしていた。ストーカーは以前の婚活で出会った男性だという。
はたして彼女は無事なのか、彼女が行方をくらましたのはストーカーに連れ去られたからなのか、ストーカーは誰なのか、婚約者を探すため彼女の故郷を訪れる……という導入。
導入はミステリ風だが、主題は謎解きではないので中盤で彼女が行方不明になった真相は明かされる。
本題は恋愛小説というか結婚小説というか、あるいはアイデンティティに関わる話かもしれない。
特におもしろかったのが婚活まわりの話。
婚活に苦悩する人たちの現状がうまく表現されている。
ぼくは婚活をしたことがない。学生時代に付き合った女性と社会人になってからも交際を続け、そのまま結婚したからだ。八年も付き合ったし、その間たいして喧嘩もしなかった。(少なくともぼくの側は)相手に対する不満はほとんどなかった。だから「このまま結婚するんだろう」とおもっていたし、もちろん他の相手など(少なくともぼくの側は)考えることもなかった。
でもそれは運が良かっただけで、もし学生時代に彼女ができていなかったら、ぼくは結婚するのに苦労した(あるいは結婚できなかった)だろうなとおもう。決して見た目がいいわけでもないし、社交的な方ではない。むしろ人見知りで、人と仲良くなるのに時間がかかる。今の妻とも、親しくなったのは知り合ってから一年以上経ってのことだ。つまり初対面で好印象を与えるタイプではない。そのくせプライドだけは高いので傷つくことにびびってしまって自分から積極的にアプローチすることもできない。
ほんとは彼女が欲しくて欲しくてたまらないのに斜に構えて「まあいい人がいればでいいかな」みたいなことを言っているタイプ、それがぼくだ(実際、彼女ができるまでの学生時代はそうだった。)。どう考えても婚活でうまくいくわけがない。
就活だってぜんぜんうまくいかなかった。もう気が変になるぐらい就活が嫌だった。
不合格になるたびに自分の人格とこれまで歩んできた人生をすべて否定されたような気になった。「おまえはいらない」とはっきり突きつけられるのはかなり精神にくる。「テストの点が悪かったから」とか「スーツがダサかったから」とか明確な理由があるならまだ諦めもつくが、不採用の理由は教えてもらえないのだ。あれが悪かったのか、それともこれがダメなのかと考えて、どんどん自分が嫌になる。
ぼくなんて書類選考や筆記試験はほぼ通って面接で落ちていたので、余計に「学歴のせいでも試験の点数のせいでもない。おまえという人間が求められていないのだ」と言われているような気になった。
就活が嫌で嫌でしかたなくて、最初に内定をくれた、当初の志望と業界も業種もぜんぜんちがう企業に就職したぐらいだ(そんな理由で入ったので案の定あわなくて数ヶ月で辞めた)。
婚活をやっても同じようになっていたとおもう。きっと断られつづけるうちに自己嫌悪になって、婚活から逃げだすか、逃避のためにまったくあわないタイプの相手と結婚を決めていたか。
婚活が就活とちがうのは、一対一の関係になるということだ。
就活の場合は企業が相手なので、どうしたって企業のほうが強くなる。元々対等な交渉なんてできない。こっちが持っているカードは「嫌なら入社しない」1枚だけだ。
だが婚活は人間同士一対一の関係なので「どっちが上か」になってしまう。
婚活で悩むポイントはいろいろあるだろうけど、突き詰めれば「自分に釣り合うか」という一点に集約されるのだ。
そしてみんな自分のことは高く評価するから「釣り合う相手」を探すのはむずかしい。
ぼくの身の周りを見てみても、容姿端麗でずっとモテてきた人がなかなか結婚できなかったというケースがよくある(そういう人のほうが印象に残りやすい、ということがあるにしても)。モテてきた人ほど自分がモテることを知っているから「釣り合う相手」を探すのはむずかしくなるだろう。非の打ち所がないステータスの人は婚活市場にはほとんど残ってないだろうし。
案外、自己評価の低い人のほうがうまくいくのかもね。「こんな私なんて」と思ってるぐらいの人のほうが。
小説のストーリー自体は、うん、まあ、悪くはないね、という感じ。ネタバレになるのであんまり書かないけど。
「女友だちがほんどひどいやつらで、自分の悪行をすべてつまびらかにする」のはそんなわけねえだろとおもうし、「震災の復興ボランティアに行って自分を見つめなおす」のは陳腐すぎるな、とおもったな。
でも前半~中盤で、「彼女の空虚さ」「彼女の親のヤバさ」が次第に判明していくあたりはすごくおもしろかった。
いろいろあって、一応これはハッピーエンドなんだけど、でもぼくとしては「いやこれハッピーなのかなあ……」と引っかかるものを感じた。個人的には引っかかる小説の方が好きなのでこれでいいけど。
子どもから「日曜大工ってどういう意味?」と訊かれた。そういや「日曜大工」って死語寸前だよな。完全に「DIY」に取って代わられた感がある。
しかし「休みの日だけやる趣味」って他にもいろいろあるのに、「日曜登山家」とか「日曜野球選手」とか「日曜デザイナー」は言わない(調べたら「日曜画家」という言葉もあるようだ。こっちは死語寸前どころか死語だといっていいだろう)。
ムンクの『叫び』という絵画は、まるでそれがタイトルであるかのように「ムンクの叫び」とセットで呼ばれる。「レオナルド・ダ・ヴィンチのモナ・リザ」とはふつう言わない。
『叫び』というタイトルが短くて一般名詞だからだろう。「ゴッホのひまわり」もセットで呼ばれがちだ。
そのせいだろう、「ムンクを思い浮かべてください」と言われてあなたが思い描いたのは、ムンクではなく『叫び』に描かれる人物だ。
あと「東洲斎写楽」と聞いてあなたが思い浮かべたのも、三代目大谷鬼次の奴江戸兵衛だ。
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| 三代目大谷鬼次の奴江戸兵衛 |
千年前の人々のほとんどは、自分の住んでいる集落から出ることなく暮らしていた。
集落があるのはたいてい平地なので、周囲には山がいくつも見える。「山に行ってくる」ではどの山のことかわからない。なので「○○山に行ってくる」と山に名前を付ける必要が生まれる。
だが多くの場合、川は歩いて行ける距離に一本しかなかったはずだ。複数の川が並走していたり川と川が合流している地形はそう多くない。川が一本であれば名前を付ける必要がない。「川に行ってくる」で伝わる。「川の上流のほうに行く」とか「橋の近くに行く」とかはあっても、川そのものを名前で呼ぶことはそう多くなかったのではなかろうか。
「サイロ」とは、元々は誘導ミサイルの地下保管庫のこと。そこから「他から隔絶して活動する部門」を指す言葉となったらしい。
人が集団を作ると、どうしてもサイロは生まれる。気の合う合わないはあるし、属性が近い人の方が話しててストレスが少ない。
サイロ自体が必ずしも悪いわけではないが、大きな失敗や事故の原因になることもある。様々な事例をもとに、サイロが生んだ失敗の例を分析し、サイロを壊すための成功例について紹介する本。
紹介されている事例はおもしろく(ただしぼくは金融の話にはついていけなかったので証券会社の話は読み飛ばした)、なるほどと膝を打つ箇所も多かった。
ただ、ちょっと話がうますぎるというか、「サイロは良くない」という結論が先にあって、そこに持っていくためにちょうどいい事例を集めてきただけって感じもする。
たとえば失敗例としてソニーの例を挙げて、成功例としてアップル社やフェイスブック社(現Meta社)の事例を紹介しているけど、今はアップルやMetaが調子良くてソニーがかつての栄光を失ったから説得力があるんじゃないの、という気もする。
どんな企業にも孤立主義的な面と風通しの良い面とがあるから、「うまくいっていない会社のサイロ」と「うまくいっている会社のサイロがなさそうな所」はいくらでも見つけられるのでは。
考え方はおもしろいけど、ちょっと議論が単純すぎるかもね。
特におもしろかったのは、ソニーが「ウォークマンの後継機」で失敗した事例。
1999年にソニーは、2つのまったく異なるウォークマンの後継機を発表した。家庭用電気機器部門とコンピュータ部門がそれぞれ別々に後継機を開発していたのだ。
どう考えたって1つにしたほうがいい。社内の知識や経験や労働力を結集して開発したほうがいいし、仮に「2つの分野に同じものを開発させて競争させる」という方針だったとしても、どこかの段階で良し悪しを判断して一方に注力するべきだろう。
なぜソニーともあろう会社がそんなわけのわからないことをしたのか。
ソニーは1994年に事業再編をおこない、いくつもの事業部に独立採算をとらせ、ゲーム、音楽、映画、保険などの事業は子会社化した。
この改革は当初はうまくいき、それぞれの部門は利益率は高まった。大きな会社全体の利益を見るよりも、部門別の利益を見るほうがずっとわかりやすい。コスト意識は高まり、無駄なコストは削減される。
だが各部門が独立することで「サイロ化」が起きた。
社内は完全に分裂し、異なる部門と協力するどころか、別部門がやっていることもわからなくなった。
たとえばソニーにはソニー・ミュージックエンタテインメントという音楽会社がある。多くの人気アーティストが所属し、強いブランド力を持っている。
ふつうに考えれば、ウォークマンの後継機を宣伝するのであれば、ソニー・ミュージックエンタテインメントの力を借りたほうがいい。新しい配信サービスで人気ミュージシャンの曲を配信すれば、それを目的に配信サービスに加入する人は増えるだろう。
だが開発部門は音楽部門とも協力しなかった。音楽部門は、CDの売上が落ちるのを恐れて他の事業部門と協力することを拒んでいたから。
部門ごとに採算をとるようにすると「うちの部門は儲からないけど隣の部門は儲かること」に力を入れなくなる。
仮にCDの販売による利益が100億円減っても、新しい音楽プレイヤーや配信サービスで200億円の利益が出るのであれば会社としてはプラスだ。だが独立採算、別会社だとそういう大局的な判断はできなくなる。
こうしてソニーは音楽のネット配信事業において遅れをとり、アップル社が社内の知識と技術を結集して作りあげたiPodの独走を許した。
……ま、ちょっと単純化しすぎた話ではあるが、一抹の真実も含まれているのだろう。
サイロが失敗や企業の停滞を招くことがわかり、特に成長中の企業では「サイロを生みださないこと」に力を入れるようになる。
フェイスブック社(現・Meta社)では、新たに入った社員たちに部門に関係なく同じ研修を受けさせるという。チームプレイの重要性を学び、他の部門のメンバーとのコミュニケーションを促進させるためだという。
別部署であっても「共に研修を受けた同期」がいれば話をしやすいだろう。
またフェイスブック社では、何ヶ月か他の事業部に異動させてそれまでとはまったく別の仕事をさせる制度もあるという。
読んでいておもったんだけど、これらの仕組みってわりと日本の会社が昭和の時代から(もしかしたらもっと前から?)やっていたことだよね。
新人一斉研修と定期的な人事異動。
昨今ではどっちかというとデメリットの方が多く語られがちだが、あれはあれで「部署間の相談をしやすくなる」「ある部門で得られた知見を他の部門に活かせる」という数字に表れにくいメリットがあるんだろうな。
「フェイスブック社ではこんな斬新なやりかたをとっている!」と紹介されているのが日本の古い企業のやりかたってのがおもしろい。
サイロを壊すために旧来の診療科の壁をぶっこわした病院の例も紹介されている。
これはおもしろい。たしかに心臓外科と心臓内科ってふつうはぜんぜん別の部門で、病棟の中でも(たぶん)遠く離れた場所にあるけど、言われてみればそれって病院側の都合だよな。患者からしたら心臓外科と心臓内科はすぐ近くにあってほしい。
健康診断で心臓の数値が悪くて病院に行ったとき「心臓内科ですか、心臓外科ですか」って聞かれたって困ってしまう。「いやこっちはそんなの知らんがな。とにかく心臓を診てもらって内科治療か外科治療かはそっちで決めてよ」とおもう。
病院側からしたって、心臓外科と心臓内科が近くにあったほうが診療科の垣根を越えて治療にあたりやすそうだ。
ぜんぜん別の話になるけど、本屋の文庫売場とかコミック売場って「出版社別に分かれてて、その後作者名順(あるいはタイトル順)」になっていることが多い。
あれって完全に書店側の都合なんだよね。客からしたら「今日は講談社の本を買おう」と探すことなんてなくて、作者名かタイトルで探すんだから。
そうおもってぼくが書店で働いていたとき、それまで出版社別だった棚を作者名順に並び替えた。ちゃんと売上は上がった。
はじめにも書いたように、ちょっと議論が単純すぎて鵜吞みにはできないところもあるけど、組織の在り方を考える上ではすごくおもしろい本だった。
組織を細分化してメンバーの専門性を高めれば(短期的には)効率的になるけど、無駄とおもわれたことが長期的には利益を生んだりもするんだよね。まあほんとに無駄なことも多々あるのでむずかしいんだけど……。
今ぼくが働いている会社は社員数が増えている。今は従業員数100人ぐらいで、オフィスも広くなって、そろそろ「あの人何の仕事をやってるかよくわかんない」って状況になりつつある。「A事業部が困ってること、B事業部でやってるやり方を使えばすぐ解決するのに」ってことも発生している。
事業部をまたいで仕事をしている人が何人かいるから断絶はそう深くならないけど、どうしてもその人たちの負担は重くなるし、知識が属人化してしまうのはいいことではない。
サイロが生まれないようにするにはどうしたらいいんだろうね。この本にはヒントは書かれているけど正解は書いてないから、それぞれの組織で考えるしかないんだろうな。考えるきっかけをくれるという点では非常に有用な本。
人々はどのようにリスクをとらえ、どのように恐れる(または恐れない)かを心理学者が解説した本。ちくまプリマ―新書なので平易な内容。
身の周りにはたくさんリスクがある。当然ながら我々はリスクを恐れて避けようとするわけだが、正しく避けているわけではない。
たとえば飛行機に乗るよりも自転車のほうがずっと死亡率が高いのに(飛行機事故による死傷者は年間ゼロに近いが自転車は死亡者だけでも500人以上)、多くの人は自転車に乗るよりも飛行機に乗るときに恐怖を感じる。
それは認知バイアス(思考の偏り)が生じるからだ。
たとえば飛行機事故のほうが大きなニュースになって記憶に残りやすいから(利用可能性ヒューリスティック)、自転車のほうが日常的に利用するから(正常性バイアス)、自分でコントロールするものはリスクを低く見積もってしまうから(制御の錯覚)、といったバイアスにより、自転車よりも飛行機を恐れてしまうのだ。
数年前に新型コロナウイルスが流行し始めた頃、「変な恐れかた」をしている人をたくさん見た(ぼくもその一人だ)。感染症対策として仕事で他人に会うのは避けるのに飲み会には行く人、感染者が全国で数人しかいなかった初期には大騒ぎしていたのに数万人になったときは大きな話題にしなくなった人(これはほとんどの人がそうだろう)、マスクを一応つけてはいるけど鼻や口を出していた人。みんながよくわかんない行動をとっていた。
アホな人たちだけではない。賢いはずの人たちですらリスクを正しく見積もることができずに右往左往していた。日本政府ですらそうだった。たとえば最初の緊急事態宣言が発令されたのは2020年4月7日。その頃の1日の新規感染者数は全国で300人程度。今にしておもうと「あわてすぎ。もうちょっと落ち着け」と言いたくなる。でも当時は大真面目だったのだ(政府の人間が賢いかどうかはさておき)。
リスクをありのままに評価することがいかにむずかしいかがわかる。
「特定可能な犠牲者効果」について。
「戦争で1万人が死にました」と書くよりも、たった1人の手記のほうがずっと人々の胸を打ち心を動かすことがある。顔も知らない1万人よりも、顔を知っているだけの1人のほうが大きな価値を持ってしまうのだ。
ぼくはUNHCR(国連難民高等弁務官事務所)に定期的に寄附をしているのでときどき会報が届くのだが、そこにはデータよりも「難民となった少年のエピソード」みたいなものに多くのページが割かれている。人を動かすのはデータよりもエピソードだと知っているからだろう。
それはそれでいい面もあるのだが(自分の家族よりも地球の裏側のことを心配していたら生活が成り立たない)、たとえば政治家のように大局的にものを見ないといけない人はエピソードに釣られないようにしてほしい。
以前、高校生がいじめを苦に自殺した直後に、とある大臣が「この反省を活かすために各学校はいじめ対策のやり方を見直してほしい」と語っていた。
冗談じゃない。たしかに不幸な事件だが、たった1件のケースを元に全国的な方針がころころと変わったら現場はやっていられない。仮に「全国的に見れば自殺者が減っている」という状況であれば、現在の方針を大きく変えないほうがいいだろう。政治家は一般人やワイドショーのコメンテーターみたいにそのときの感情で動いてはいけない。
またこれは、本来統計的に判断を下すべき人がストーリーを持ち出してきたときは要注意、ということでもある。
政治家が「このような事件がありました。対策をしなければなりません」なんて語りだしたときは、有権者を誤った方向に誘導しようとしている可能性が高いと見ていいだろう。数字で説得できないからストーリーの力に頼るのだ。
人は、人工的なものよりも天然のもののほうが身体に良いと思いこんでしまうバイアスも持っている。
(“天然の方が良い”ヒューリスティックとはなんとも野暮ったいネーミングだが、英語の"natural-is-better heuristic"をそのまんま訳したらしい)
これはおもしろいね。だって本来、人工的なもののほうがいいはずじゃない。天然のままだと利用しにくいから人の手を入れてるわけで。自然のものは雑菌だらけだし傷みやすい。
だから昔は人工的なもの=いいもの、だったはず。いつから“天然の方が良い”になったんだろう。公害とか環境破壊とかが言われだしたころだろうか。だとしたら“天然の方が良い”ヒューリスティックはせいぜいここ数十年のものだろう。
たしかに公害とか健康被害を引き起こすような科学技術もあるけど、少なくとも今使われている技術の大半は「天然よりいい(メリットが大きい)」はずなのに。
オーガニック野菜をありがたがる人って「化学肥料を使わずに育てた野菜」をそれ以外の野菜と比べているようで、ほんとは「化学肥料を使わずに育てた野菜の中の上位ひとにぎり」しか見ていないんだよね。
「塾に通って難関校に入った人」と「塾に通わずに難関校に入った人」を比べて、「塾なんか行かなくていい!」って言ってるようなもの。「塾に通わずに難関校に入れなかった人」の姿は見えてない。
人がついついやってしまいがちな「思考のクセ」について軽く学べる本でした。
データ分析の効用、手法、事例、課題点などについて概説した本。数式が出てこないので入門者向けでありながら、「こういったケースではうまくいかない」「このような実験は設計方法に誤りがある」といった実践的なあ説明も多く、かなり実用的な内容だ。
ぼくは十年以上マーケティングやデータ解析の仕事をしているのでわりと今さらな内容が多かったけど、それでも明確に言語化しているなと感心する。よくできた解説書だ。
ただ、いざデータ分析をやろうとなったときに課題になるのって、たいていの場合「データ分析のやり方がわからない」とか「どういった実験を設計するのがいいか」ということよりも、「そもそもデータにアクセスできない」といったことのほうが多いんだよね。
データ分析よりも、データを収集する、または誰かが収集したデータにアクセスする、ということのほうがよっぽどむずかしい。
政府などの公的機関でも企業でも、基本的に「自分たちが集めたデータは秘密にして、ごくごく一部の情報だけ公開する」というやり方をとっている。
もちろんライバル会社に盗まれたら困るようなデータもあるけど、そうじゃないものまで必要以上に囲い込もうとするんだよね、みんな。「せっかくうちが集めたんだから(ライバルでなくても)他の会社に得をさせたくない」という意識。で、誰も使うことなくデータが腐敗してゆく。
まあ私企業の場合はしょうがないとしても、政府だとか行政機関は「基本的に公開、よほど問題のあるものだけ非公開」とすべきだとおもうんだけどね。いちばんデータを持っているくせにしっかり抱えこむ。
安全保障関連以外は全公開ぐらいでいいんじゃないのかね。官房機密費なんてもってのほか。
行政機関が正当な理由なくデータを公開しないのは罪、ぐらいにしてもらいたいものだ。不正防止にもなるし(不正が明るみに出ると困るから公開したくないのかもしれないが)。
データを公開した成功事例。
タクシー配送アプリのウーバーは積極的にデータを公開して、大学などの研究機関に分析をしてもらっているらしい。その結果、どういった料金プランにするのが利益を最大化するかという考察ができているらしい。
研究機関からしても、現実のデータが扱える、データ収集を代わりにやってもらえるなどのメリットがあるので、双方にとって得があるわけだ。
昔に比べればコンピュータの発達によってデータの蓄積や分析は格段に楽になり、オンラインでの行動分析とかだとデータ収集のコストもすごく低い。
ずっと大規模かつ効率的にデータ分析ができるようになったにもかかわらず、「なんか公開したくない」といった理由で解析は進まない。
どれだけ道具が発達しても結局ネックになるのは人間なんだよな。データ分析の結果、自分がやってきた仕事は無駄だったと突きつけられるのはイヤだもんね。