
読書感想文は随時追加中……
読書感想文リスト
講談社ブルーバックス。
宇宙人とのファーストコンタクト(どうやってコミュニケーションをとるか、未知の言語をどう解読するか)的な話かとおもったら、その先の話、つまり宇宙人とコミュニケーションがとれるようになったときにどんな話をすればいいか、という本だった。うーん、ぼくが生きている間は使うことはなさそうだな(ファーストコンタクトもないだろうけど)。
要するに「地球以外の星や宇宙のことを知ろう」が内容なのだが、それだとあまりにとっつきにくいから「宇宙人と仲良くなるためには地球と他の惑星・衛星の違いを知っておかなくちゃいけないよね」という切り口で小説仕立てにしている本だ。
「日本と諸外国の地理的比較」だと難解だから「海外旅行の前に読む本」というタイトルをつけた、みたいな感じだね。
太陽の個数について。
ぼくらは太陽は1つだけだとおもっているけど、ぼくらのいる太陽系がたまたまそうなっているだけで、宇宙規模で見ると太陽が1つしかないのはむしろ少数派なのだという。2個、3個の恒星を持っている惑星のほうが多いそうだ。
太陽と月がそれぞれ1つしかないことがキリスト教、ユダヤ教、イスラム教など唯一神を信仰する宗教が多い理由ではないか……と著者は書いている(ただぼくはそれはちょっと無理があると思う。地球上にも複数の神を信じる文化はたくさんあるので)。
我々の暦は1つしかない太陽や月の見え方をベースにしているが、太陽が複数ある星ではまた別のカレンダーを使っているはず……という話はなかなかおもしろい。
別の銀河のカレンダーがどうなっているかなんて考えたこともなかったから(たぶんこの先も考えないだろう)。
そして100億年後の地球のカレンダーについて。
はっはっは。100億年後の心配はしなくて大丈夫だろう。どっちにしろ今のようなカレンダーは使っていまい。
動物の身体はほぼ左右対称であることがあたりまえだとおもっているけど、別に左右対称でなくてもいいわけだ。植物なんかは自由気ままに枝を伸ばしてるしな。
そういえば、自動車とか電車とかもみんなボディは左右対称だ。あれこそ非対象でも良さそうなものだけど。タイヤさえ対称形であれば他は非対象でもまっすぐ進むもんな。地球人が「動くものは左右対称でなければいけない」という思い込みにとらわれているせいかもしれない。
時計の針が右回りなのは、地球限定どころか、北半球限定の常識なのだ。南半球の日時計は逆回りだし、もっといえばもしも赤道直下の日時計が元になっていれば時計は円ではなく直線的な形をしていたはずだ。
我々が常識だとおもっていることがいかに地球限定、太陽系限定の常識にすぎないかということを思い知らされる。地球外生命体とふれあわないかぎりはそれで何の問題もないんだけど。
オフィスビルがあって、その三階にはA社だけが入居している、という場合がある。
そこそこ大きなビルであれば、フロアごとに自動販売機が置いてあって、そうなると三階の自動販売機を利用するのはほとんどA社の社員だけ、ということになる(来訪客とかが利用することもあるだろうが無視できるほど少ないものとする)。
自動販売機を管理している会社は、そこでどんな商品がどれだけ売れたか、というデータを持っているだろう。おそらくだけど、売れた時間帯なんかのデータも。
すると、自動販売機のデータからその会社の働き方が見えてくるはずだ。
たとえばこの会社は遅い時間にコーヒーがよく売れてるからブラックっぽい(コーヒーだけに)とか、あの会社は深夜2時にエナジードリンクがよく売れてるから激ヤバだとか、そういった分析ができる。
逆にお茶とか水とかがよく売れてる会社はわりと平和そうであんまりストレスがないのかなとか、お茶よりもコーラがよく売れてるから若い従業員が多いのかなとか。
就活をしている学生からすると、ホームページに掲載された「社員の働き方」なんかよりも自販機データとかの生の情報のほうがよっぽど参考になるだろう。就活情報サイトには自販機データも載せてほしい。
しかしそうすると本当に邪悪な会社では、対策として「エナジードリンクは別フロアで買うこと」なんてお達しが下るかもしれない。
いい本だった。実におもしろいノンフィクション。
この本を読むまで、落合博満という人に対してあまりいい感情を持っていなかった。ぼくがプロ野球を観るようになった頃にはすでに「球界でいちばん高い年俸をもらっているプレイヤー」だった。それも(ぼくから見れば)成績の割に高すぎる年俸をもらっている選手だった。
ぼくがプロ野球を観始めたのは1993年。当時の落合選手は中日ドラゴンズで四番を打ってはいたがホームラン数は20本前後。正直、四番としてはものたりなさすぎる成績だ。なのに年俸三億円という破格の給料をもらっていた。
その後、FAで読売ジャイアンツに移籍したことでぼくの印象はさらに悪くなった(アンチ巨人なので)。39歳、前年のホームラン数は17本。完全にピークを過ぎた選手なのに、年俸は四億円。なんでこんなに高く評価されてるんだ、とおもっていた。
後年、中日の監督になってからもあまり印象は良くなかった。その頃にはぼくはあまりプロ野球を観なくなっていたのだが、「日本シリーズで8回まで完全試合をやっていた山井を交代させた監督」という印象だけが残っている。
そんなこんなで、落合博満という人物に対するぼくの印象は「金に汚い非情な人」という印象だ。たしか契約更改でも毎回交渉が長引いていた。
(ただし「高い年俸をもらう」ことに関しては決して悪いことばかりでもないよな、ともおもう。トッププレイヤーが高い給料をもらうことで他の選手も「落合さんがあの成績であれだけもらっているんだったらおれももっと上げてくれ」と交渉しやすくなるので、選手全体の待遇改善に貢献している部分もある)
監督としての落合氏の実績は圧倒的だ。
落合氏がドラゴンズの監督を務めたのは2004年から2011年までの8年間。その9年間で、リーグ優勝4回、2位3回、3位1回。すべてAクラス(3位以上)。日本シリーズには5回出場して2007年には日本一にも輝いている(球団53年ぶりの日本一だ)。
ちなみに落合氏退任後の2012年以降のドラゴンズの成績は2位→4位→4位→5位→6位と絵に描いたような転落をたどり、退任後の14年間で優勝は0回、Aクラスになったのも2回だけとすっかり弱小チームになってしまった(現時点で2026年もリーグ最下位だ)。いかに落合監督時代が強かったがわかる。
だが落合監督は、親会社やファンから愛されなかった。選手やコーチの中にも監督のやり方に不満を漏らすものが少なくなかった。2011年のシーズンを最後に契約を打ち切られることとなる。
なお、契約打ち切り直前の3シーズンのリーグ成績は2位→1位→1位である。こんなに好成績を残して切られた監督はそうはいない(リーグ5連覇を果たしてそのまま辞めた西武・森監督もいるが)。
うーん……。「勝てば客は来る。たとえグッズか何かをくれたって、毎日負けている球団を観に行くか? 俺なら負ける試合は観に行かない」これは正しくないとおもうなあ。落合さんはずっと選手・監督としてプロ野球の世界に生きてきた人だから勝利至上主義になるのは当然だが(そしてそれは決して悪いことではないのだが)、ファンからすると強いだけが愛される条件ではないんだよな。勝利だけを求めて球場に足を運ぶファンはむしろ少数派で、球場の雰囲気が楽しいとか、選手が身近に感じられるとか、スター選手を生で観られるとか、そういう要素のほうがずっと大事だ。
ただ落合さんにファンサービスをしろというのも無茶な話で、問題は監督に「勝利」と「ファンサービス」と「人件費削減」というときに相反する課題をいっぺんに押しつけようとした球団にある。
あくまで監督には勝利だけを追い求めさせ、ファンサービスの面は別の誰かをCMO(最高マーケティング責任者)とかに据えて任せるべきだとおもうのだが。
単なるプロ野球の話にとどまらず、組織論、リーダー論として読んでもすごくおもしろい。
多くのプロ野球の監督は、やっていることは少年野球の監督、野球部の顧問とそんなに変わらない。グラウンドの外でも選手たちの行動に口を出し、礼儀を教えたり、人生を語ったり、ときには暴力をもって指導したり(最近はそういう人は多くないが)。言ってみれば“指導者”だ。
だが落合監督は指導者にはなろうとしなかった。あくまで監督。成長するのは選手自身。選手の能力を冷静に見極めて、勝つために必要な選手を試合で起用する。求められればアドバイスはするが、基本的には教えない。必要なのは「言われたことに従う選手」ではなく「勝つために必要な選手」。そのために何をどうやって身につければいいかは選手が自分で考える。
理想を言えば、落合監督のやりかたのほうがいいとおもう。言われた通りに動く選手ばかりのチームよりも、全員が勝利のために何が必要かを考えて己を律するチームの方が強いだろう。状況の変化にも対応できるし、なんなら監督が代わっても強いはずだ。
でもそれはあくまで理想の話だ。みんながみんな落合監督のように考えて動けるはずがない。まして(ぼくの勝手なイメージもあるが)野球選手なんて「上の言うことは絶対」の世界である野球部で生きてきた人たち。急に「自分の数字を上げることだけを考えろ。チームのことなんて考えなくていい」と言われたってなかなか切り替えられないだろう(ちなみに落合博満氏は高校野球部は体質が合わずサボってばかり→大学野球部も古いやり方についていけず退部というプロ野球選手としては超異色の経歴を持っている。この経歴が独特の思想を作りあげたのだろう)。
落合監督のやり方は正しい。でもそれがうまくいくのはすべての選手が(技術だけでなく精神面でも)超一流だった場合だけだ。実現しなかったが落合氏がWBC日本代表監督になっていたらすごくいいチームを作っていたかもしれない。
プロの選手になっても「指示してくれないとわからないよ」「細かく指導してほしいよ」というアマチュア精神の持ち主も多いから、落合監督のやり方は全員に支持されたわけではない。ただ、少なからず理解している選手・コーチもいたことが『嫌われた監督』には書かれている。
落合監督退任後も彼らがそのマインドを継承させていけば中日ドラゴンズはずっと強いチームでいられたはず。……だがそうならなかったのは先ほど書いた通り。監督交代後は平均以下のチームになってしまった(監督だけの責任ではないにせよ)。
一流の組織をつくるのはむずかしいが、それを維持するのはもっとむずかしいのかもしれない。
落合博満という人はつくづく天才だったんだな、とおもう。もちろん選手としても超一流だったが、それは単に身体能力が高かったからではないとこの本を読むとわかる。
他の人には気づかない観察眼、既存の常識にとらわれない野球理論など、とにかく指揮官としても天才的だったのだとわかる。
ある選手の守備範囲がわずかに狭くなったことに気づき、別の選手のエラー数が多いのは守備範囲が広いから(他の選手なら追いつきもしない打球に追いつけるからこそのエラー)だと見抜く。しかも選手やコーチですら気付かないのに。
落合監督が嫌われたのは、その“発見”を逐一説明しなかったからだ。説明することで選手の考える機会を奪うからというのもあるだろうし、天才だからこそ己の考えが周囲から理解されないことを知っていたかもしれない。
他の選手・コーチ・監督と見ている景色がちがったんだろうな。
Amazon Primeにて鑑賞。
タイトルと画像でほのぼのアニマルコメディかとおもって観たのだが、これがなかなか、いやかなり見ごたえのある本格ミステリ映画だった。
たったひとりで多くの羊たちと暮らしている牧場主のジョージ。彼は偏屈で人付き合いはうまくないようだが、羊たちのことは深く愛し、毎晩羊たちにミステリ小説を読み聞かせてやるほどだった。
ある日、ジョージが牧場で変死。付近には殺人事件の痕跡。羊たち(人間の言葉を理解できる)は真相解明のため捜査に乗りだす。
一方、ジョージの弁護士によって彼には多額の財産があったことがわかる。遺言書には養子に出されアメリカで暮らす娘が相続すると書いてある。だが遺言書はつい最近書き換えられたばかり。おまけに娘は事件直前にたまたまアメリカからやってきたところ。はたしてかぎりなく黒に近い娘なのか、それとも別の人物なのか。遺言書の中で示唆されている「二人の殺し屋、善き羊飼い、悪い羊飼い、マヌケ、春生まれの羊、冬生まれの羊」とはそれぞれいったい誰のことなのか……。
(以下、ちょっとネタバレを含みます)
羊たちを主人公にしたコメディ映画でありながら、ミステリとしてはきわめて王道なのがすばらしい。事件の内容は観客に十分に語られ、容疑者、事件の動機もしっかりと、しかしさりげなく提示される。ヒントの分量も申し分なく、ちゃんと推理すれば真犯人にたどりつけるようになっている。そして真犯人は絶妙にちょうどいい人物。登場シーンは多く、それでいて意外な人物。
ミステリとしてきわめてフェアだ(真犯人にたどりつく“色”はちょっと無理があるが……)。
特に感心したのが序盤の「文化フェスティバル」のシーン。コメディパートなのだが、この映画においてすごく効果的な役割を果たしている。「文化フェスティバル」のせいでまんまと騙されるんだよね。
ミステリとして優れているが、ヒューマン(羊だけど)ドラマとしてもよくできている。最初は何も考えていないように見えた羊たちの心の動きにだんだん共感できるようになってくる。そして死んだ後で見えてくるジョージの人間性。
映像はおもしろく、ミステリとしてよくできていて、登場人物たちの心の動きや成長もしっかり描いている(それでいてくどくない)。
いい映画だった。とにかく羊に対する愛がびんびんと伝わってくるぜ。
ぼくにとっては「テレビでたまに見る、変なメガネのよくわかんないけど賢そうな人」というイメージしかなかった成田悠輔さんによる、未来の資本主義の展望。
まず率直な感想を書くと、すごくわかりづらい。
でもこれは「わかりやすく書くことに失敗している」のではなく「わざとわかりにくく書いてる」からだとおもう。わざと既存の常識から飛び出そうと書いている、そんな感じだ。誰にでもわかるように書こうとおもったら、常識的なことしか書けない。
「わかりやすい文章」で5年後のことは書けても、100年後のことは書けない。現代の経済がどうなっているかを100年前の人に説明してもちっとも伝わらないのと同じように。
ということでぼくは早々にこの本に書かれていることをきっちり理解することはあきらめ、一部だけでもわかればいいやという気持ちで読むことにした。
意外だった事実。
インターネットによって通信の速度は飛躍的に上がり、我々の連絡方法は大きく変わった。海外に文書を送ろうとおもったら1週間かかっていたのが、今だと1秒だ。
当然、生産性は飛躍的に向上した……と思いこんでいたのだが、どうやらそうではなかったらしい。まるで生産性は向上していない。
言われてみれば、ぼくらはインターネットによって大きな恩恵を受けているが、インターネットによって失ったものも大きい。SNSは人々の時間を奪うが、そのほとんどは無為に消えてゆく。かつては新聞や読書にあてていた時間がショート動画に溶ける。しかも、得るものがないだけならまだマシで、デマの拡散など生産性ゼロどころかマイナスの現象も多発している。
インターネット、スマホ、SNS、動画サイト……。いずれもひまつぶしの手段としては有用だが、人類の発展に貢献しているかというとちょっと微妙なところだ。
「お金の必要性が少なくなる」という大胆な提言も。
物心ついたときから貨幣経済の中で生きてきたから「お金はなぜあるのか」なんて意識したことがなかった。教科書的には「物々交換をするのは不便なので、持ち運びやすくて保存が利いて好感しやすい貨幣が使われるようになった」という説明が正しいのかもしれないけど、それだけではお金の意義を正しく表していない。
たとえばお金は使わなくても価値がある。往々にして「お金を持っている」ということ自体が価値を生む(反感を買うというマイナスの価値を生むこともある)。お金を持っている、お金を持っていそう、将来的にお金を稼ぎそう。それだけのことが重要な意味を持つ。「物々交換の代替手段」では説明がつかない現象だ。
「実態と記録のズレを埋める装置としてのお金」という表現は、たしかにお金の一面を正しく言い当てている。
あの人はお金を持っているから、人から必要とされる仕事をやってきたのだろう、きっと能力の高い人なんだろう、という判断材料になる。高級車とか高級ブランドの服とかは、お金を使ったという証明であり、お金を使ったということはお金を持っていることの証明であり、お金を持っていることは能力が高いことや仕事をしてきたことの証明である。多くの人がそういうルールに従って生きている。
だがその人の遍歴がすべてデジタル世界に記録される社会になれば(事実なりつつある)、お金を介さなくてもその人がどんな人かわかる。財布には現金が入ってないしユニクロの服を着ているけれど、多くの人から必要とされている人だということがデジタル世界の記録を見ればすぐわかる。この人なら信用できるし、低利子で金を貸してもいい。
こういう世界になれば「金を持っていることをアピールするために使う金」が無意味になる。あいつブランド品で身を固めてるけどぜんぜん稼いでないじゃん、あいつ金は持ってるけど実家が金持ちなだけであいつ自身には何の能力もないじゃん、とばれてしまうから。
個人的には、そんな世の中のほうが健全だとおもう。必要とするモノを手に入れるための交換手段という貨幣本来の役割が再び強くなるのだ。
そしてその先にあるのは、経済を測れなくした社会。
わたしが欲している魚と、あなたが欲しているサンダルはどちらがより必要性があるのだろうか? もちろん比べようがない。だからとりあえず値段をつけて、同一の尺度で比較できるようにしている。
しかしわたしに関するデータとあなたに関するデータと魚のデータとサンダルのデータが十分にあれば、同一の尺度など必要ないのではないか、ということだろうか。
正直このへんの話になるとぼくにはもうついていけなかったが……。
仕事で日本に住むことになったアメリカ人が語る、日本文化論。
この手の「外国人が見た日本」本は大好きでたいていおもしろい。なので古本屋で見つけて買ってみたのだが、これはちょっとはずれだった。
理由のひとつは、あまりに古いこと。著者が日本にやってきたのが1970年。本の刊行が1975年。50年以上前。「日本人は往来で立小便をする」なんて書いてあるけど、さすがに今はそんな人はほぼ見ない。日米の文化比較というより、新旧の文化比較になってしまっている。これは50年もたってから手に取ったぼくのせいなんだけど……。
もうひとつは、著者が日本どころかアメリカ以外の国を知らないこと。日本に来て困ったことに「英語が通じないこと」とか書いている。そりゃそうだろ。日本人からすると外国に行ったら母国語が通じないのは当然なのに、アメリカ人にとってはそうでないらしい。これだから英語圏の人間は……。
文章がユーモアに満ちていて、そこはおもしろかったけどね。
「日本にかぎらずアメリカ以外はどこもそうだろって話」「著者の身の周りの人たちの話」が多く、日本論として読める箇所はそう多くない。
選挙カーや街宣車は言うまでもなく、駅や電車・バスのアナウンスなど、日本は音声案内が多いと言われる。たしかにそうだよね。外国の交通機関では停車直前に「Next stop is ○○」と流すぐらい。日本だと音声案内が多すぎて、逆にどれが大事な情報かわかりづらい。
著者は「英語でもアナウンスしているが日本版に比べてすごく短い。我々にだけ大事な情報が伝えられていないのではないかと不安になる」と書いている。その気持ちはわかる。でも大丈夫、カットされているのは「××の治療ならおまかせ、○○クリニックをご利用の方は次が便利です」といったどうでもいい情報だから。日本人だって聞いてないから。
日本の生活に慣れた(といっても5年ぐらい)著者がひさしぶりにアメリカに帰ったときの話。
へえ。アメリカ人ってそんなにあいづちを打たないんだ。言われてみればそうかも。今度洋画を観るときはあいづちに注目してみよう。
うん、まあおもしろかった。映像はすごいし(でもすごすぎて、まるで実写映画を観ているようで、かえって驚きを感じなくなってしまった)。
ストーリーも『4』に比べればぜんぜんいい。まあ『4』は大失敗作なので(ぼくは記憶から消してなかったことにしている)、それと比べればどんなものでもマシなんだけど。
でもなあ。やっぱり『3』で終わりで良かったな、とおもう。続編をつくるとしても、登場人物を全部入れ替えて別のおもちゃの物語にしていれば良かったのに。
ここから愚痴。
『4』で子どもを捨てて出ていったウッディを『5』で無理やり登場させたが、これはファンサービスでしかなく、出てくる必然性は何もない。ウッディが古くなったという設定もすでに『2』で通りすぎた話題だ(ハゲをギャグにするのはさすがに古すぎないか?)。
オールドファンに向けて昔のようなウッディとバズの関係性を描きたかったのだろうが、ウッディとバズに今さら喧嘩をさせるのもしらじらしい。もうそんな段階はとっくに過ぎただろう。まして勝手に出ていったウッディがえらそうに仕切りだす正当性がどこにあるんだ?
もうウッディのことは忘れて新しい一歩を踏み出してもいいんじゃない?(ていうかその覚悟がないくせに『4』みたいなのを作るなよ) 唐沢寿明のお声もだいぶ歳をとっていたし。
『3』までの3作は完璧だったし、その中であらゆる展開をやりつくしてしまった。主役の座を奪われる、置いていかれる、売られそうになる、盗まれる、捨てられる、寄付される。『おもちゃにとって何がいちばん幸福なことか』というテーマを3作かけてじっくり問いつづけ、これ以上ないという答えを提示してしまった。
その後でどれだけピンチが訪れても、おもちゃたちが悩んでも、全部『3』までの焼き直しでしかないし、それでもまだ現状に不満を示すなら「じゃあサニーサイド保育園に行けばいいじゃない」としか言いようがない。
『3』で「保育園でずっと子どもたちの遊び相手として生きる」「いつか遊んでもらえなくなるとしても、今、子どもにとっての親友として生きる」という究極の二択を提示してしまった以上、それ以外の道を選ぶ理由がない(だからそれ以外の道を選んだ『4』は失敗作だった)。
おもちゃの幸福と葛藤、というテーマについてやりつくしてしまったからだろう、『5』は人間の話が大きな部分を占める。
「子どもに、タブレットなどのデジタルデバイスをどのように扱わせるか」というのがメインの(そして陳腐な)テーマだが、それっておもちゃが心配することじゃないよね。保護者が考えることだ。おもちゃが教育方針にまで口を出すのは出しゃばりすぎ。
実際ボニーはタブレットのチャットが原因でトラブルを引き起こすのだが、これは保護者が注意深く管理していれば防げたことで、『トイ・ストーリー』という装置を使って描くべきテーマとはおもえない。本来なら人間が人間に向けて言うべきことをおもちゃの口を借りて言わせているだけなので、説教くさいことこの上ない。
やるとしても『インサイド・ヘッド』あたりで良かったのでは。
そしてやっぱりぼくはボニーを好きになれない。『4』でもおもちゃを大事にしていない様子がありありと描かれていたが、『5』でもあっさりとおもちゃたちを裏切る。
世間体を気にしておもちゃを手放そうとするボニー(しかもそれはアンディから託されたおもちゃ)。持ち主がこれでは、おもちゃとの間の信頼関係など築けるはずがない。もうこいつアンディとの約束なんて覚えてもいないんだろうな。嫌いだわー。
アンディはおもちゃを託す相手をまちがえたな。ボニーに比べれば『1』のシドのほうがまだおもちゃを愛してるぜ(愛の形は歪んでるけど)。
ただ、『2』からずっとしこりのように残っていたジェシーとエミリーの物語に結着がついたシーンは本当によかった。
8歳の娘といっしょに鑑賞したのだが、娘は中盤ちょっと飽きていた。でもその気持ちはわかる。視点があっちこっち行くのでむずかしいんだもん。
「ボニー」「ジェシー」「バズたち」「ウッディたち」「ハイテクバズ軍団」と、それぞれのシーンが目まぐるしく変わる。ぼくは大人だし前作までの内容も頭に入っているから(『4』の内容は記憶から消去したけど)ついていけたけど、子どもには追いきれないよね。
過去作ではシーンの切り替えは少なかった。『1』で言うと「2階と1階」「ウッディ&バズとその他のおもちゃ」ぐらい。『2』『3』も多くてせいぜい3シーンまで。
これは意識的にやっていたんだろう。なるべくストーリー展開をシンプルにして、メインターゲットの子どもにも十分ついていけるようにしていた(時系列をさかのぼるシーンも極力なくしていた)。なぜなら、おもちゃで空想の世界にふける子どもたちは「数多くのシーンの切り替え」「時系列をさかのぼるストーリー展開」なんて考えてないのだから。幼少期におもちゃで遊んでいた気持ちを思い出させてくれる感覚が『3』にはあったが、こういった配慮が『4』以降失われた。監督の交代によるものだろうか。
おもちゃに向けるあたたかい目を失ってしまったのは、はたしてエミリーやボニーだけなんだろうか。制作陣もまた子ども心を忘れてしまったんじゃないだろうか。
制作陣に問いたい。あんたたちこそデジタル端末の使いすぎでは?
桐野夏生氏のデビュー作。デビュー作だなあ、という感じ。力の入れ方は伝わってくるが、技術が十分備わっていなくて空回りしている感じが。
肩に力が入りすぎなんだよな。いっぱい調べていっぱい考えて書いたんだろうけど、それが伝わってしまう。もっとさらっと、なんでもないことのように提示してほしい。勝手な要望だけど。
たぶん、女性を主人公にしたハードボイルド小説を書きたかったんだろうな。だから必要以上につっぱってる女性が主人公。いやそこまで無理してかっこつけんでも、という気になる。なんか「めちゃくちゃがんばって都会で強く生きる女性」って感じで、かっこいいどころか痛々しい。
たとえば後の桐野夏生作品である『OUT』に出てくる女性は、もっとワイルドでありながら、もっと自然体だ。なんでもないことのように大胆な犯罪をやってのける。カッコイイとは、こういうことさ。
まあこの青さもデビュー作の魅力と言えるかもしれないが。
(以下ネタバレを含みます)
ストーリーも退屈だった。
序盤で「主人公の親友が1億円の金とともに失踪した」という謎が提示されるが、どうも弱い。
だって「大金に目がくらんで持ち逃げしちゃいました」ではミステリにならないことを読者は知ってるんだから。なんらかの事件に巻き込まれたことは容易に想像がつく。
だから早くその「なんらかの事件」を見せてほしいのだが、それがなかなか書かれない。半分ぐらいは、ただいなくなった女の足跡を追うシーン。登場人物も多いしたっぷりページ数を割いているが、何も起こらなくて退屈。ここはもっとテンポよく書いてほしかったなあ。
中盤でやっと“事件”が見えてくるが「ああこれが真相ではないんだろうな」というにおいがプンプン。明かされる真犯人もさして意外な人物ではない。というか大本命。いちばん身近な人物が犯人ってベタベタじゃん。
まあこれは2026年に読んだからであって、刊行された1993年当時は十分意外だったのかもしれないけど……。
ボディ・モディフィケーション(身体改造)、ネオナチ、ヤクザ、夫の自殺、不倫など刺激的な要素をこれでもかと詰め込んでいるけど、正直あんまり効果を発揮しているとはおもえない。なくてもミステリとして成立してるし。
いろんな意味でデビュー作だなあ、という作品でした。
食べものを入口に、現代社会、主に資本主義について語る本。
今まで経済の本はあれこれ読んだけど、どうも腑に落ちないところがあった。
需要曲線とかを見ながら「こうやって価格が決定するんです」と言われると、
「うーん、確かに理論的な説明だけど、まちがってないんだろうけど、でも核心はついていないような気がする」という気になった。
だってほとんどの場合、ものの価格って売り手の都合で決まってるじゃん。たとえばいっときコメの価格がすごく上がったけど、それってほんとに受給の綱引きによるもの? 日本人がコメを食べる量は数ヶ月でそんなに変わるわけない。ってことは供給が減ったということになるわけだけど、ほんとにそこまで減ったの? そんなに記録的不作なら、もっと早い段階で「コメが大不作!」とニュースになったはず。 でも収穫量減少は話題にならなくて、あるときから急に価格高騰が話題になった。
ほんとに需要と供給で価格が決まってるの?
『食べものから学ぶ現代社会』では、経済学の教科書とはちがう、より現実的な経済の動きが説明されている。
小麦の取引のうち9割が「小麦をほしい人」ではなく「小麦の価格差を利用して儲けたい人」によっておこなわれているというのだ。
はーん。まあ江戸時代からコメ相場とかアズキ相場とかはあったので、マネーゲームとして食糧を売買する人は昔からいた(取引量が増えると流動性が増して価格の安定につながるというメリットもあるそうだ)。
でも昔は、基本は農家と問屋の売買で、そこにちょっと仕手筋が乗っかるぐらいだったのだが、今では逆に「生産者と流通業者はごく一部で、そこに大量の仕手筋が乗っかる」という構造になってしまった。
そりゃコメ価格も暴騰するはずだ。生産量が5%減っただけでも「今年はコメが少ないから値上がりするはず!」と大勢の投機筋が群がってくるわけだから、あっという間に価格は倍になってしまう。先物取引であれば実際にコメを貯蔵する必要もないからどれだけでも買えるしね。
まだ株とか金とかであれば価格が何倍になろうと庶民の生活には直接かかわらないからいいんだけど、金持ちのマネーゲームのせいで食料品の価格が乱高下するのは困る。
食料とか土地とかの取引はちゃんと法律で規制してほしいな。投機目的の取引には高い税金をかけるとかさ。
食料が「金融商品」になってしまった結果、食料の流通や価格は大企業が決定するようになってしまった。いちばん報われるべき生産者にはほとんどお金が入ってこない。
200円のバナナが売れても、バナナ農園で働く労働者に入ってくるのはたったの3円(1.5%)!
そりゃあ輸送したり仕入れて卸したり店頭で売ったりするのも大事だけど、さすがに生産者に1.5%しか入らないのはおかしい。かといって消費者としては価格は安いにこしたことがないので「じゃああなたが300円で買ってください」って言われても困るんだけど……。
経済学の教科書だと「売り手と買い手の綱引きによって価格が決定する」とあるけど、実際のところ貿易の大部分を握っているのは売り手でも買い手でもなく中間業者なわけだ。しかもその中間業者も税金対策で入っていたり。
こんな状態で「自由な競争に基づく適正価格」なんてつくはずがない!
ただ問題なのは「大企業が悪いせいだ!」と単純化できる話でもないってことだ。
よく派遣の話になると思考停止して「派遣会社がピンハネするのが悪い!」と叫んで終わり、って人がいるけど、世の中はそんなに単純なものではない。たったひとつの原因と明確な悪人がいてそいつを退治すればすべてが丸く収まるのはおとぎ話だけだ。
バナナ農園で働く労働者も、農場主も、流通を握っている大企業も、小売のスーパーも、バナナを買う消費者も、みんな悪くない。誰もが社会のルールにのっとって行動して「損をしないように」ふるまっている。その結果「バナナを作っている人に売上の1.5%しか入らない」というずいぶんおかしなことになってしまう。
これがぼくらの生きる資本主義社会のシステムなのだ。システムがまちがっているのか? それとも「バナナを作っている人に売上の1.5%しか入らない」と考えるぼくらのほうがまちがっているのか?
結局この本を読んでも「私たちを動かす資本主義のカラクリ」はよくわからなかった。でもそれでいいとおもう。資本主義のカラクリだなんて複雑でむずかしいものを、本一冊読んだぐらいでわかったら嘘だろう。たぶん誰にもわからない。
わからないことをちゃんとわからないままに提示できるのは、誠実でいい書き手だ。バカは単純明快な答えを求めるけど、わからないものをわからないもの受け止められるのが知性だ。
とりあえずわかるのは「市場のメカニズム」なんてのは現実とはほど遠い論理だってこと。わかりやすい説明に飛びつかないようにしなくちゃね。
所得水準、子どもの貧困率、正規雇用率、ひとり親世帯率(そしてその貧困率)、進学率、自殺率など様々な指標で全国ワーストクラスの数字を出している沖縄県。
なぜ「気候も人もあたたかい」と言われる沖縄県で多くの人が貧困にあえぐのか。
野村証券などで働いた後に沖縄でリゾートホテル経営をおこない、経営から退いた後は沖縄の飲み屋で数千人の話を聞いたという著者が、中と外から見た「沖縄問題」。
第1章『「オリオン買収」は何を意味するのか』、第2章『人間関係の経済』、第3章『沖縄は貧困に支えられている』は様々なデータに基づく分析が光っておもしろかったが、第4章『自分を愛せないウチナーンチュ』あたりからデータはほとんどなくなり、「聞いた話」が続く。さらに第5章『キャンドルサービス』にいたってはほぼ沖縄と関係のない著者の人生観が語られる。
せっかく前半で事実に基づく考察が光っていたのに、中盤からは「自尊心が低いのが原因だ」「愛がすべてを解決する」みたいな話になってくるのでげんなりしてしまった。中盤まではいい本だったのになあ。
少し前に読んだ高橋哲哉『沖縄について私たちが知っておきたいこと』 (→ 感想)に、「沖縄が経済的に基地に依存している割合は低い」といったことが書かれていたが、樋口耕太郎氏はその論調に反論する。
たしかに基地から直接沖縄県に流れる金は多くないが、基地を受け入れる(受け入れさせられる)ことと引き換えに、沖縄県は日本から非常に多くの補助金や軽減税率を与えられている。
たとえば、沖縄県が本土復帰した1972年以来、沖縄で生産・消費されるビールや泡盛には軽減税率が適用されていた。これにより、沖縄企業生産のオリオンビールはキリンやアサヒといった大手企業よりもずっと有利な条件で販売することができ、そのため沖縄県内では高いシェアを誇っていた。
復帰後の一時的な対策だったはずの酒税軽減措置はその後も政治的な理由などで延長をくりかえされ、50年以上たった今年2026年にやっとビールの酒税軽減は終了するらしい(泡盛は2032年予定)。
だが多くの補助金や税制優遇がそうであるように、それにより助かるのは真に困っている人たちではなく、大手企業や政治家とつながりを持つ金持ちをさらに潤すことになっている。
このような「沖縄を助けるため」であったはずの補助金や税制優遇が利権構造をつくりだし、結果的に沖縄の産業の競争力が弱まっていると著者は指摘する。
泡盛に対する軽減税率にしても、ごくごく一部の大手酒造メーカーの役員だけが莫大な利益を得る構造になっているという。
沖縄はもっとも政治によって翻弄されてきた地域だ。
在留米兵による少女暴行事件により基地反対運動が高まった際には、日本政府は基地をひきつづき沖縄に引き受けさせるため、有形無形様々な形で経済援助をおこなった。
ダロン・アセモグル & ジェイムズ・A・ロビンソン『国家はなぜ衰退するのか』に、政治が腐敗していて特定の有力者だけが利益をむさぼる構造になっている社会ではイノベーションが起こりづらく、自由な競争が保障されている国との競争に負けて衰退していくのだと書いてあった。
沖縄はまさにその「イノベーションが起こりづらい」地域になってしまっている。補助金が多ければ、当然甘い汁を吸うのが大好きな連中がそこに群がってくる。リスクを負って新しいことに挑戦する者は既得権益者によってつぶされる。人々はますます新しいことに挑戦しなくなり、一部の権力者がますます肥大してゆく……。
このスパイラルから抜け出すのは相当むずかしいだろう。
また著者は、沖縄の人は、慣れ親しんだものを志向する傾向が本土の人よりもずっと強いと指摘する。
周囲から「冷たい人」とおもわれるのを避けるため、少々高かったり品質が劣ったりしても、なじみの店、なじみの相手から買うことを選ぶ傾向があるという。
助け合いの精神が根付いているという良さもある反面、新しい価値を生み出すビジネスが成功しにくい環境でもあるという。
これ自体はそんなに悪いことじゃないんだけどね。みんなが安定した生活が送れるわけだから。島の中でやってる分には。
ただ県外、海外企業との競争には勝てない。
でもこれって沖縄の企業がおかしいんだろうか。県外、国外の企業と競争して勝たなきゃならない! という本土の企業のほうがヘンなんじゃないかな、と個人的にはおもう。いいじゃない。島の人が島の人を相手に商売して、食っていけるぐらいの儲けが出てるんだったら、それで。
グローバル化が進んだからそうも言ってられなくなったという現実はわかるんだけど、でも多くの人にとってグローバル化っていいことばかりじゃない、むしろ悪いことのほうが多いわけで。
「グローバル化してるのにそれについていけない沖縄企業が悪い!」と書いてるけど、ほんとは「そもそもグローバル化したのが悪い」なのかもしれない。そう言っても一度開いてしまった扉はなかなか閉じられないものなんだけど。
この本における「悪意」とは「自分が損をする(得をしない)としても他者に損害を与えるような行為」を指す。
たとえばあおり運転とか。気に入らない運転の車があると、その後ろにぴったりついて嫌がらせをする。それをしたところで自分が得をするわけではない。むしろ損をする(事故に遭う確率が上がる)。それでもそうした運転をする人は後を絶たない。
そこまでいかなくても、気に入らない有名人をSNSで攻撃するとか。たいていの場合、炎上させたって自分が得をするわけではない。むしろ自身の評判を下げるだけだ。それでも多くの人にとって「気に入らないやつを攻撃する」行動は楽しい。
“悪意”は決してひとにぎりの人だけが見せるものではなく、多くの人の選択となって社会全体に影響を及ぼすこともある。
最低賃金の引き上げに最も反対するのは、金持ちや経営者よりも「最低賃金よりはちょっと上の給与で働いている人たち」だという。ふつうに考えれば彼らは最低賃金の引き上げによって恩恵を被る立場の人たちだ。
それでも「自分より下の立場の連中が自分と同じ位置にくるかもしれない」という思いが“悪意”に走らせる。貯蓄の少ない者が生活保護受給者を非難したり、貧しい者が金持ち優遇政策をとっている政党に投票したりといった例は枚挙にいとまがない。自らにとっての実益よりも「あいつらを困らせたい」という“悪意”のほうが優先されることは決してめずらしくない。
そして“悪意”は直接的な攻撃の形をとらないことも多い。
悪いうわさを流す、集団で村八分にする、といった方法だ。正面切って悪意をぶつけるよりも、こちらのほうが自らの立場は安全だ。
人間はいじめが大好きなのは、喧嘩よりもいじめのほうがリスクが低いからだ。
“悪意”と書くと無条件で悪いもののようにおもえるが、悪意はメリットもある。というよりメリットがあるからヒトは悪意をはたらくように進化したわけだ。
極端な例でいえばテロやクーデター、そこまでいかなくてもスキャンダルをした議員を引きずりおろしたり、不正をはたらいた企業に対して抗議運動をすることで、不正が正されることがある。また不正に対する抑制にもなる。
「自分勝手なことをすると俺はおまえを罰するぞ」という意思表示が悪意、早く言えば「なめられないようにする」ということだ。悪意を見せることで、将来的に自分が厚遇されるようになるわけだ。
誰も悪意を行使しなければ権力者のやりたい放題になってしまう。
だが、悪意は不正を正すために使われるとはかぎらない。
人より優位に立った人は悪意を向けられやすいが、幸運によって優位を得た人よりも、実力で優位に立った人のほうが悪意を抱かれやすいという。宝くじで大金を得た人よりも、事業で成功して大金を手にした人のほうがねたまれやすいのだ。
さらに、みんなのためにコストを払った人、つまり「気前のいいひと」にも悪意を向ける。
「気前のいい人」はリーダーに選ばれやすいし、恋愛市場でもパートナーから選ばれやすい。だから周囲から悪意を向けられやすい。
ふうむ。たしかに自分の周りのことを思い返しても、「いつもおごってくれる上司」って、慕われるどころか嫌われていることのほうが多い気がする。
「いつもおごってくれるなんて優しい人だ!」ではなく「こいつこんなに稼いでるのかよ。だったらこっちに分けろよ」という気持ちになる。
(おごってくれるから嫌いなのか、嫌われてるから好かれようとしておごれるのかわからないけど)
気前よくふるまうと感謝されるどころか悪意を向けられるなんて……。だったらあんまり気前よくしないほうがいいな。
この本で挙げられている“悪意”の事例ってよく見聞きしたり、自分自身も同じように感じたりすることだけど、意外とこういうことについて書かれた本って多くない。
みんな「自分は悪意を抱えていて、隙あらば成功者や自分より人気のあるやつを引きずりおろしたいという気持ちを持っている」ことを認めたくないからね。だから“悪意”ってなかなか研究対象にしにくかったのかもしれない。どうしたって己の中にある醜い感情と向き合うことになるからね。
ぼくもこの本を読んで、自分の中のイヤな感情と向き合ってしまった。いやあぼくってイヤなやつだよな。わざと歩きスマホをしてるやつの前を横切って歩きづらくさせたり、あとわざわざ●●をしたり■■なやつの邪魔をしたり……(自粛)。
一年以上前に死んだはずなのにきれいな状態で発見された死体、異常な殺し方の連続殺人事件、「見えない炎で焼き殺された」焼死体、なぜか追われる主人公。
前半は謎だらけだ。犯人もわからなければ被害者の正体もわからない。被害者に共通していたのは骨髄ドナー登録をしていたことだけ。犯人の人数も謎だし、殺しの動機もわからない。主人公・八神が追われる理由も、ワルの八神が「どうしても骨髄提供をしたい」と考えて必死に警察から逃げ回っている理由もわからない。
うーん、謎が多すぎて何が何やら。
中盤で、タイトルになっている“グレイヴディッガー”という言葉が出てくる。
魔女狩りをしていた異端審問官たちを私刑に処していたのが“グレイヴディッガー”らしい。言ってみれば「『魔女狩り』狩り」。
これによってすべての謎がつながって一気に真相に近づく……とはならない。どうやら犯人が“グレイヴディッガー”を模倣して犯行をしているらしいということだけはわかるが、一向に真相は見えてこない。
ひたすら八神が追手から逃げまわっている姿だけが描写される。ついに捕まった、とおもったらまた逃げて、やっと捕まった、とおもったらまた逃げて、今度こそ捕まった、とおもったらまた逃げて……。
しつこい。もういいって。逃避行自体が目的の作品ならそれでいいんだけど、謎解きがメインなので逃亡劇は冗長に感じる。逃亡劇がなくても成立する小説だったんじゃないかな。
きれいな状態で見つかった死体、公安組織、骨髄ドナー、グレイヴディッガーという一見ばらばらに見える伏線が一本につながる手腕は見事。ただ要素が多すぎて荒唐無稽な印象も受ける。
“グレイヴディッガー”側も、“グレイヴディッガー”に狙われる側も、「その目的のためにそこまでやらんだろ……」という感じなんだよな。やってることの壮大さのわりに、目的がしょぼすぎる。
逆トロッコ問題みたいな感じ。「1人を助けるために5人の命を奪う」みたいなことをやってる。そんなやついるか?
犯行のスケールの大きさに動機が釣り合ってないように感じた。
あと最終的に「あいつもこいつもお咎めなし」で決着したのも、なんか腑に落ちない。あんな都内各地で大騒動をくりひろげておいて、みんな無かったことになっちゃうの!?
ということで、おもしろい小説ではあったんだけど、風呂敷を畳むのに失敗していろんなものがはみ出してしまった印象。遠い外国が舞台、とかのほうがまだすんなり読めたかも。
少し前に、アリク・カーシェンバウム『まじめに動物の言語を考えてみた』という本を読んだ(→ 感想)。
動物が音声を使って様々なコミュニケーションをとっていることを認めた上で、「とはいえ他の動物たちは人間の言葉に翻訳できるような言葉は持っていなさそうだ」といった論調だった(誤解を招きそうなので補足しておくと、人間が他の動物たちに比べて優れているとは書いていない。ただ異なると書いているだけだ)。
それを読んだ後だったので、この『僕には鳥の言葉がわかる』というタイトルを見たときは「正確性を欠くタイトルだな。研究者としての知的誠実さが足りないのでは」と思っていた。
そして読んでみた。
いや、「鳥の言葉がわかる」という言葉は決して大げさじゃないな! もちろん「鳥の言葉を一対一で人間の言葉に翻訳できる」という意味ではないが、鳥の言葉を“わかる”ことは可能かもしれない。この場合の“わかる”とは、“理解する”というよりは“感じる”に近いけど……。
シジュウカラのヒナが、親鳥の鳴き声によって異なる反応を見せることについて。
ヒナたちは親鳥が近づくと餌をねだる声を出すが、親鳥が警戒音を出すと、鳴くのを辞めて巣の中でうずくまるという。
「じっとしろ!」というメッセージを伝えることに成功しているので、これは言語といってもいいのではないだろうか。最も人間が使う「じっとしろ!」とはまったく同じではないけれど。
人間の「じっとしろ!」は敵に見つかりそうなときも、逆に獲物に気づかれないようにするときにも、朝礼で落ち着きのない生徒を叱るときにも使えるが、おそらくシジュウカラの「ピーツピ!」にそこまでの汎用性はない(どっちが優れているということはない)。
カラスが巣に接近したときには「ピーツピ!」と鳴くシジュウカラは、ヘビが接近したときには「ジャージャー」という声で鳴く。
そして「ピーツピ!」を聞いたヒナは、カラスから身を守るために巣の中でじっとするのに対し、「ジャージャー」を聞くと親鳥は地面を見下ろす。さらにヒナは巣箱から飛び立つ。
「ピーツピ!」のときは対カラスの行動(カラスが巣箱にクチバシを突っ込んでもつつかれないようにうずくまる)を取るのに対し、「ジャージャー」のときは対ヘビの行動(飛んで逃げる)をおこなう。異なる刺激に対して異なる音を出し、異なる音に対して異なる行動をアウトプットする。これは……言語だ。
さらに著者は、枝に紐をつけて動かす実験をすることで、「ジャージャー」を聞いた後ではシジュウカラが枝をヘビと見間違うのに対し、音がない場合は見間違えないことを確かめる。
このあたりの実験の設計がすごくうまくて、実験の詳細を見ているだけでわくわくする。
もしぼくが研究者だったら「カラスとヘビが近づいた時では異なる声を出して、異なる反応を見せる」と気づいた時点で「シジュウカラは敵によって言語を使い分けてる! まちがいない! やったぜ、オレすげー!」と発表しちゃうとおもうんだけど、鈴木俊貴さんはそこから数々の反論を想定して、その反論に負けないための実験をデザインしている。これがプロの研究者かー。
研究者というと好きなことに対してまっしぐらな人、というイメージだけど、一流の研究者は情熱だけでなく醒めた視点も併せ持っているんだな。
シジュウカラの“言語”はシジュウカラだけでなく、他の鳥も理解できるらしい。
シジュウカラの鳴き声を聞いて他種の鳥が逃げたり、逆に他種の鳥の鳴き声を聞いてシジュウカラが警戒を強めたり。多種多様な鳥が協力して警戒に当たったほうが天敵から逃れる確率は上がるからだ。
さらにそれを逆手にとって他の鳥を騙すことさえするというから驚きだ。
人間のように「嘘の情報を流して追い払ってやろう」と考えているわけではないだろうが、結果的には誤情報によって他個体の行動を操作しているわけでから、“嘘をつく”といっても大きな間違いではあるまい。
「鳥の言葉」と言ってしまうと誤解を招くかもしれないけれど、シジュウカラなどの鳥が部分的には人間と同等、あるいはそれ以上に高度なコミュニケーションをとっていることは間違いなさそうだ。
研究内容もおもしろいし、文章も親しみやすいし、選んでいるトピックスもほどよく初心者向け、ほどよく専門的で、すごくよくできた本でした。
「かけ算は(かけられる数)×(かける数)の順序でなければならない」という順番気にしいや派(シーヤ派、転じてシーア派)と「いや順番が逆でも数学的に問題はない」の順番気にすんな派(スンナ派、転じてスンニ派)の抗争は収まることがなく、すでに争いは泥沼化している。
問題文にいちいち「※ただし、かけられる数を先に書くこと」と注釈をつければ一応両方の顔は立つが、それでも「何をかけられる数とするか」という抗争が生まれるだけだろう(4人にりんごを3個ずつ配る場合、3個/人×4人としてもいいし、4個/周×3周と考えることもできる)。
戦争は始めるよりも終わらせるほうがはるかにむずかしい。
個人的に好きなコンビ名のひとつが“メイプル超合金”だ。
ただ単語を並べただけのように見えるが、コンビのそれぞれを見てみると、ちゃんとメイプル(シロップ)を好きそうな人と超合金を好きそうな人だ。どっちがメイプルでどっちが超合金だとおもう? と訊いたら、99%の人の答えは一致するだろう。
「ダイエットしようとウォーキングをすることにした。数ヶ月やったけどぜんぜん痩せない。ウォーキングは効率が悪い」と書いている人がいた。
それって効率が悪いんじゃなくて「エネルギー効率がいい」じゃないかと思った。時間あたりのエネルギー消費量が少ないのだから燃費がいい。
ダイエットとしては効率が悪いけど、エネルギーの観点では効率がいい。
お金がありあまっていてなんとかして使い果たしたい人からすると「読書は(浪費する上で)不経済だ。ギャンブルは短い時間でたくさん使うことができるから(浪費する上で)経済的だ」ということになる。
ぼくがいちばんおもしろいと思っているエッセイの書き手(本業は翻訳家)による待望の新作。
第四弾だが岸本さんのエッセイのおもしろさはちっとも鈍っていない。むしろ円熟味を増している。
これぞ岸本佐知子氏エッセイ(エッセイか?)の真骨頂。
身辺雑記からいつの間にか空想の世界に連れていかれ、空想が空想を呼び、空想世界に秩序が生まれる。あんなに狭い入口だったのにこんなに広い世界につながっているなんて。
岸本さんのエッセイを読むたびに、エッセイってこんなに自由なものだったのかと感心する。
めずらしく(?)翻訳家ならではの話も。
ただの罵り言葉ではなく、一度祝福の言葉をかけてから呪ったりするのがウィットに富んでいておもしろい。
「お前がうんと金持ちになって、お前の寡婦の新しい夫が一日も働かなくて済みますように!」なんて、一瞬悪口を言われたと気づかないもんな。そのときは「ああどうも」なんて言って、後から「よくよく考えたらめちゃくちゃひどい言葉ぶつけられてるじゃねえか」と気づくやつだ。
日本語の定番の言い回しだと「豆腐の角に頭をぶつけて死んじまえ」が近いかな。でも「死ね」って言っちゃってるしなー。
わりと共感できる話。
これはぼくもけっこう考える。街を歩きながら、自分がホームレスだったら、野宿をするなら、どこに寝るだろうかと考える。地下街とかにちょっとした隙間を見つけると「おお、ここなら安心して寝られそうだな。あとはどうやって警備員の巡回をやりすごすかだよな……」とか考えてしまう。
他にもこんなこと考えてる人いたのかー。もしかしてわりとポピュラーな妄想なのかな。
アピヨンポンポンについて。
アピヨンポンポンが何なのか、それはぜひこの本でお確かめください。
医師による医学入門書。
第1章は人体の雑学、第2章は病気になる理由、第3章は医学の歴史でこのへんはちょっと教科書っぽい。第4章は医療雑学で、第5章は現代医学の紹介。
冒頭におもしろ雑学を持ってきてツカみ、中盤はちょっと堅めの話で、飽きてきたころに血液型や食中毒など身近な話。 で、最後はまた雑学的な話。構成がうまい。
語り口も見事で、
「肛門はやってきた物体が固体か液体か気体かを判断して気体のときのみ通すというすごい判断をやっている」
なんてちょっとビロウな話で、とっつきにくさを感じさせない。さすがネットで人気になっている(ぼくは知らなかったけど)人だね。
食物アレルギーについて。
へえ。口からではなく皮膚から身体に入ってきたものに対してアレルギー反応を起こしやすいのか(それが原因のすべてではないらしいが)。
たしかに「皮膚から異物が入ってくるものは基本的に悪いものなので追い出す」「口から入ってきたものは基本的にはいいものなので許す」ってのは確率的にはいいやりかただよね(たまには有害なものも口から入ってくるけど)。
職業性アレルギーというのを聞いたことがある。たとえばパン職人が、長年パンを作っているうちに小麦アレルギーになってしまう、といったケースだ。これも経皮感作によるものなのかもしれない。
逆に、漆塗りの職人は漆をなめることによって漆にかぶれないよう耐性をつけていたのだとか(今はあんまりやらないらしい)。
日本人の大好きな血液型について。
へえ。自分の血液型を知っていても何の役にも立たないんだ。緊急の場合であっても自己申告に基づいて輸血をすることはないのか。
そういや最近は病院の問診票とかでも書かないかも。うちの子が生まれたときも病院から血液型を教えてもらえなかったな(だから今も知らない)。
あと何十年かしたら自分の血液型を知らない日本人が大半になって、血液型占いは完全になくなるかもね(今でもだいぶ廃れているけど)。
ええこっちゃ。
医師の技術について。
医療器具はどんどん進歩していて、個人の技術による差は昔ほど重要ではなくなっているそうだ。だいたいどの分野でもそうだね。職人を育成するよりも、道具やシステムによって「誰でも一定の水準の成果を出せる」方向に進んでいる。
そういや『天久鷹央の推理カルテ』という小説がいま人気なんだけど、この小説に出てくる天才医師・天久鷹央は、症状や患者の様子やデータから診断を下すプロで、自分自身では一切治療をおこなわない(不器用なので手術などはできないという設定)。
時代を映している「天才医師」と言えるかもしれない。
フィクションにおける天才医師といえばブラック・ジャックだが(無免許なので厳密には医師でないのかもしれないけど)、ブラック・ジャックはどちらかといえば執刀のプロだ。一匹狼なので診断も自分でおこなうが、診断はけっこうまちがえたり迷ったりしている。
器具や治療環境が充実していない時代ではブラック・ジャックのような手先の器用な人が天才医師とされたけど、現代の総合病院においてはブラック・ジャックよりも適切な診断を下せる天久鷹央のような人のほうが求められるのかもしれない。
現代建築では、凄腕大工よりも全体を見るのに長けている現場監督のほうが重宝されるように。
ただし「データから診断を下す」という行為はAIが最も得意とする分野なので、今後は天久鷹央のような「診断のプロ」もあまり必要とされなくなって、結局「親身になって話を聞いてくれる、人あたりの良さ」みたいなものが最も医師に求められる資質になってくるかもしれない(ちなみにブラック・ジャックも天久鷹央も真逆のタイプだ)。
大まかなルールは前作と同じ。
8人のプレイヤーが集められる。「○○してはいけない」「××と言ってはいけない」といったNGルールが課せられるが、プレイヤーはそれが何なのかは知らされない。
NGが多かったプレイヤーから徐々に脱落していく。NGが発生したときに鳴るブザーを頼りにNGを回避し、同時に他プレイヤーをNG行動へ誘導する。最後まで残ったプレイヤーが見事賞金を獲得する……というルール。
シーズン1よりルールは洗練されていたものの、パワーダウンした印象。特に終盤がひどかった。
やっぱりルールの細かいところが甘いのと、MC陣の出番が減ったことが最大の敗因だろうね。
まずシーズン1に続きメンバーのバランスが良かった。妙に察しのいい人、逆にひとりだけNGに気づかない人、天真爛漫な人、テンパってわけのわからないことを口走る人、攻めるのが下手すぎて他のメンバーにヒントを与えてしまう人……。タイプの異なる人たちがバランスよく配置されていて、様々なドラマを生んでいた。賢い人ばかりでは息苦しいし、バカばっかりでもつまらないしね。
あと「最初のステージでは誰も脱落しない(与えられたNGは第2ステージへとくりこし)」としたのもいい。前回はなにがなんだかわからない状態でほとんど見せ場のないまま脱落しちゃった人がいたからね。
シーズン1では、序盤は「とにかくしゃべらない」が最善の策だった。
なので、だんまり対策だろう、シーズン2では、クイズ番組、ゲームセンター、記者会見といった舞台を用意して、しゃべらざるをえない状況にしていた。
それは良かったのだが、今作はお題が良くなかった。舞台にあっていない。たとえばゲームセンターでは「店員に文句を言う」がNGだったが、だったらあの店員じゃだめでしょ。ウザキャラだったり横暴だったり抜けてたりして、文句を言いたくなる人じゃないと。そもそも「ツッコミを入れる」ってバラエティでは場を盛り上げる行為だからね。それをNGにしたら、盛り上げてくれる人から先にいなくなっちゃうじゃん。
案の定、番組を盛り上げることに貢献してくれた人から退場してしまい、後半は楽しい雰囲気が減ってしまった。
シーズン1ではMCが状況を見てNGを決めていたけど、ぜったいにそっちのほうがいい(NG判定するスタッフは大変だろうけど)。
「カタカナ語禁止」も無茶苦茶だった。擬態語もNGにされてたし。うちの子の小学校の国語の教科書には「音をあらわす言葉(擬音語)は通常カタカナ、様子や心理を表す言葉(擬態語)は通常ひらがなで表記します」って書いてあったよ。
「わくわく」がカタカナ語とされてNGになったのは納得いかない。「湧く」に由来する生粋の日本語でしょ。その一方で「タラバガニ」はセーフってどういうことよ。スタッフ全員「たらばがに」って聞いて「鱈場蟹」を思い浮かべるのかよ。
「外来語(通常漢字表記しないもの)禁止」ぐらいにしとけばよかったのに。
「MCに対する敬語禁止」もひどかったなあ。「よろしくお願いします」がNGにされてたけど、あれはその場にいるすべての人への挨拶だしなあ。
だいたいふだんから若林さんに敬語を使わない人(春日さん)に有利すぎるし。
記者会見は、先に質問に答える人が圧倒的に不利になってしまう(後の人はそれを観ながらNGを推測できるので)。
それ自体がダメなわけではなく、「現在のNG数が少ない人から順に指名する」とすればゲームバランスをとる有効な手段になったのに、「NG数が多い人が狙い撃ちにされる」というやりかたをしていた。逆だろー。
シーズン1の感想でぼくは「一切の会話を拒否して、ときどき意味不明な奇声を発する」が最強の戦略になってしまう、と書いた。
そうした行動への対策だろう、シーズン2ではイエローカードおよびレッドカードという新ルールが追加された(結局イエローカードは一度も発動しなかったが)。消極的な言動に対してはMC判断でペナルティが追加される、というルールだ。
おお、ちゃんと改善してるじゃないか! とおもったのだが……。
これがひどかった。
レッドカードが激甘。レッドカードというからには退場かそれに近い処分を期待したのに、レッドカード=NG1つ加算、ってなんじゃそりゃ。一人がダンマリを決めこんでいる間に他のプレイヤーのNGが5個も6個も加算されてるのに、黙っていることの罰則がNG1個ってそれペナルティになってないじゃん。だったらレッドカードもらったほうがいい。最低でも「その時点でのNG最多数に並ぶ」ぐらいの罰じゃなきゃ意味がない。
ファイナルステージだけルールが異なり、「3名のプレイヤーはそれぞれ1つずつ(場合によっては2つ)NGを知っている。他のプレイヤーにそのNGを踏ませることができれば+1ポイント。自分自身がNGを踏んだときや、(導かれたのではなく)偶然NGを踏んだときはノーカウント」だった。また、NGは数分ごとに入れ替わる。
これが良くなかった。
推理の楽しみがまったくない。どうせ数分でNGが失効するんだから、自分だけが知っているNGがバレてもいいから強引に他のプレイヤーをNGに導けばいい。
実際、終盤はどのプレイヤーもかなり強引な手段でポイントを稼いでいた。「追いかける」というNGカードを引いた人が、「ちょっとこっちへ」と他プレイヤーを歩かせて1ポイント、とか。それは「追いかける」じゃなくて「ついていく」または「連れだって歩く」だろう。判定がむちゃくちゃ。
「NG行為をしたとしても誘導されて発動したものでなければノーカウント」というルールも悪い方に出ていた。だってそれだと「他人の言動にリアクションをとらずにひたすらしゃべりつづける」をやれば無敵じゃん。他人のNGワードを言ってしまったとしても、自分が勝手に言っただけだからノーカウントなんだし。消極的じゃないからレッドカードも食らわないし。コミュニケーションをとらない人が有利になるルール。
ラストは推理も心理戦もへったくれもなく「たまたまNGを踏んでしまったプレイヤーが負ける」という運ゲーになってしまった。
シリーズ通していちばんつまらなかったのが今作のファイナルステージ。MCが仕切っていればもうちょっとマシだったんだろうけど。
シーズン1に比べればルールの改善の跡は見られた。でも跡が見えただけで改善はしていなかった。
シーズン1は今作以上にルールに欠陥が多かったけどおもしろかった。それは幸運に助けられた部分もあるし、なにより出演者たちの「よくわからないゲームだからおもしろくなるかどうかは自分たちのがんばり次第。みんなで協力して盛り上げよう」という意思があったようにおもう。
シーズン2では、明らかに番組の盛り上がりよりも自分の勝利を優先している人がいて、しかもその人が勝ち進んでしまったから後半に行くほどつまらなくなってしまった(その人が悪いのではなくそれを許してしまうルールが悪いんだけど)。
つまんない人を残したらちゃんとつまんなくなる、ということがわかったことがシーズン2の最大の収穫かもね。次回作では改善してくれー。
2009年刊行。
2003年の鹿児島県議会選挙で、自民党所属の現職議員3名の間に割って入るような形で新人が立候補し、見事当選。ところがその陣営が住民に現金や物品などを配ったとして、15名が逮捕・起訴され、厳しい取り調べを受けた。
ところがこの容疑自体が県警の捏造であり、真っ赤な嘘だった。裁判においては全被告人の無罪が言い渡された。
とんでもない事件だ。
たとえば「他殺死体が見つかった。捜査を進めた結果、有力な容疑者が浮かびあがったので逮捕して起訴した。だが裁判の結果、無罪になった」というケース。冤罪事件だ。決して許されることではないが、これを100%防ぐことはできないだろう。人間誰しもミスは犯す(100%防ぐためには、ちょっとでも疑いが残る場合はすべて放免するしかない)。
だが志布志事件は、このような冤罪とはちがう。鹿児島県警による事件の捏造である。本来なら存在しない事件だったのだ。間違えたのではなく、でっちあげられた事件だったのだ。まさに“虚罪”だ。
警察が事件をでっちあげるのなら、もうなんでもありだ。どんなに品行方正な人だって、警察が気に食わなければ逮捕することができてしまうのだ。
「まちがって真犯人でない人を逮捕した」なら真犯人を見つければ無実が証明されるが、そもそも存在しなかった事件で逮捕された場合、身の潔白を証明するのは至難の業だろう。
なぜこのような事件が起きたのか。
警察が調べていないのではっきりした事情は判明していないが(そもそも調べないことがおかしな話なのだが鹿児島県警はそういう組織なのだ)、かぎりなく疑わしいのは、この事件によってくりあげ当選したP県議と県警の関係だ。
県警の警部と県議が親密な仲だった。県議が選挙で落選した。あいつが立候補しなければ当選してたのに。で、その県議と応援者たちを逮捕。誰が見たってそういう構図だろう。だが県警はそれを認めない。とんでもなく異常な組織だ。
事件自体も異常なのだが、もっと異常なのだが志布志事件が鹿児島県警の捏造だと判明した後の県警や地検の対応。
当時の署長は注意を受けただけ。退職金を満額受け取って退職している。さらに警部や捜査主任は訓戒。要するに口頭注意で、「気を付けてね」で済まされている。
担当警部補は3ヶ月の減給を受け、後に特別公務員暴行凌辱罪で執行猶予付きの有罪判決が下っているが、これは「取り調べの手段が適切でなかった」という理由の処分であり、「そもそも事件が捏造だった」ことの責任は誰もとっていないのだ(そしていちばん悪いのは取り調べにあたった警部補ではなくもっと上の人間だろう)。
なんちゅう組織だ。
事件の捏造が起きたのはもちろん悪いことだが、それが捏造だと判明した後も保身と組織の擁護に終始し、反省・改善を見せない鹿児島県警。
反省がないのだからまた同じようなことをくりかえす。
案の定、その後も鹿児島県警では不祥事が相次いでいる。個々の警察官による不祥事を隠蔽しようとしただけでなく、内部告発した勇気ある警察官を国家公務員法(守秘義務)違反で逮捕するなど、組織的なひどい動きは続いている。
こちらはまだ公判が始まってもいない。
はたして骨の髄まで腐敗しきった鹿児島県警や鹿児島地検がまともになる日は来るのか。残念ながらあまり期待できない。
ところで……。
志布志事件の無罪判決が出たのが2007年の2ケ月。そのわずか4ヶ月後の6月に、くりあげ当選した県議が真夜中の交通事故で急死したそうだ。
えっ、なにそれ。めちゃくちゃ怖いんだけど……。消された……?
全盲の女がひとりで暮らす家に、殺人犯として追われる男が忍びこむ。見えない女と、見つかりたくない男。女は男の存在に気づくが、気づかぬふりをしたまま静かな同棲生活を続ける……。
(以下、少しネタバレを含みます)
いくら全盲だからって、同じ家、それも同じ部屋に何日も別人がいて気づかないのは無理があるだろう。
完全に音を出さないのは不可能だし、温度とかにおいとか空気の流れとかも伝わる。視覚以外の情報に関しては全盲で他の感覚が鋭敏になっている人のほうが気づきやすいかもしれない。
書いてないけどトイレどうしてたのよ。仮に夜中に行くとしても、トイレを流す音は相当でかいよ。流さなければそれはそれでばれるし。
「使ってない部屋に住みつく」とか「屋根裏に居つく」ならまだしも(昔屋根裏に住んでいた人がいたというニュースを見たことがある)、「住人に気付かれずに同じ部屋に居続ける」は相当無理がある。
というわけで、前半は「さすがにこれはないわ」と冷めた目で読んでいた。
でも中盤、男がいることを女が確信するようになってからはわりと入りこめた。
男の存在に女が気づき、女が気づいたことに男が気づく。それでもふたりは言葉を交わさない。だが無言のまま一緒に食事をとるようになる。
聴覚にも視覚にも頼らないコミュニケーション。ただ「ここに存在する」ことによるコミュニケーション。最も根源的で、シンプルだからこそ強力なコミュニケーション。
いい友だちの条件って「話してて楽しい」とか「趣味が合う」とかいろいろあるけど、親友の条件は「何もしなくてもいい」だとおもうんだよね。
なんとなく部屋に遊びに来る。だからといって何もしない。それぞれ漫画を読んだりギターを弾いたり、好き勝手なことをしている。でも間が持つ。「なんかあるかな。UNOあるけどやる?」とか気を遣う必要がない。
何もしない、会話もない、それが苦にならない間柄こそが親友だとぼくはおもう。夫婦もやがてそうなる(そうでなかったらやってられない)。
『暗いところで待ち合わせ』で描かれる関係は、緊張感もあるのだけれど、同時に気の置けない親友同士のような居心地の良さも感じられる関係だった。
言葉にしにくいけど、なんとなく心地の良さを漂わせている小説だった。
終盤は種明かしのような展開があって物語としてのおもしろさもあるのだけれど、どっちかっていうとストーリーよりも雰囲気が印象に残る小説だった。