2050年1月1日土曜日

犬犬工作所について

読書感想文を書いたり、エッセイを書いたりしています(読書感想文 五段)。



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 読書感想文リスト



2026年7月30日木曜日

【読書感想文】高水 裕一『宇宙人と出会う前に読む本 全宇宙で共通の教養を身につけよう』 / 太陽が2つ以上ある惑星のカレンダー

宇宙人と出会う前に読む本

全宇宙で共通の教養を身につけよう

高水 裕一

内容(e-honより)
宇宙で本当に必要な教養とは?もしも宇宙で知的生命と会話をすることになったら、あなたは自分のことをきちんと説明できますか?出身地や身体の組成など、相手はいろいろ聞いてきます。宇宙の平均より文明が遅れている可能性がある地球人は、それらにどう答えればよいのでしょうか?さあ、ちゃんとした宇宙人への第一歩を踏み出すために、宇宙標準の科学を知って宇宙偏差値をアップさせよう!

 講談社ブルーバックス。

 宇宙人とのファーストコンタクト(どうやってコミュニケーションをとるか、未知の言語をどう解読するか)的な話かとおもったら、その先の話、つまり宇宙人とコミュニケーションがとれるようになったときにどんな話をすればいいか、という本だった。うーん、ぼくが生きている間は使うことはなさそうだな(ファーストコンタクトもないだろうけど)。

 要するに「地球以外の星や宇宙のことを知ろう」が内容なのだが、それだとあまりにとっつきにくいから「宇宙人と仲良くなるためには地球と他の惑星・衛星の違いを知っておかなくちゃいけないよね」という切り口で小説仕立てにしている本だ。

「日本と諸外国の地理的比較」だと難解だから「海外旅行の前に読む本」というタイトルをつけた、みたいな感じだね。



 太陽の個数について。

 ぼくらは太陽は1つだけだとおもっているけど、ぼくらのいる太陽系がたまたまそうなっているだけで、宇宙規模で見ると太陽が1つしかないのはむしろ少数派なのだという。2個、3個の恒星を持っている惑星のほうが多いそうだ。

「地球の特殊さは、太陽が1つしかないことだけじゃない。地球には月も1つしかない」
 ああ、たしかに。太陽系のほかの惑星がもっている衛星の数をみると、水星と金星はゼロですが、火星は2個、木星は2個、土星は3個、天王星は27個、海王星は14個(今後も観測によって増える可能性あり)と、衛星が1個しかないのは地球だけです。なんと地球は太陽系でも「変わり者」だったのです!

 太陽と月がそれぞれ1つしかないことがキリスト教、ユダヤ教、イスラム教など唯一神を信仰する宗教が多い理由ではないか……と著者は書いている(ただぼくはそれはちょっと無理があると思う。地球上にも複数の神を信じる文化はたくさんあるので)。


 我々の暦は1つしかない太陽や月の見え方をベースにしているが、太陽が複数ある星ではまた別のカレンダーを使っているはず……という話はなかなかおもしろい。

 別の銀河のカレンダーがどうなっているかなんて考えたこともなかったから(たぶんこの先も考えないだろう)。


 そして100億年後の地球のカレンダーについて。

「さて、現在の月は、毎年約4cm、地球から遠ざかっている。地球人の手の爪が伸びる速さともいわれている。微々たるものに思えるが、それにしたがって自転速度も少しずつ遅くなり、1日の長さが少しずつ長くなっていく。何億年もすれば25時間、26時間となる。一日でやれることが増えてラッキーなんて言ってられるのはそのあたりまでだ。100億年後に、同期化による速度移動が完了して地球と月の回転速度が同じになると、一日はなんと約1200時間になる。もう日雇いの仕事などやっていられない。このとき、月はまだ地球の周囲をゆっくりと回っていて、地球の自転速度とほぼ同じになる。つまり1ヵ月=1日となり、1年はわずか7日程度になってしまう。さらに時間がたつと、月は完全に地球の重力的影響下から離れて、新しい第4惑星となり、太陽を中心に円運動を始める。そしてカレンダーからは『月』の表記が消える」

 はっはっは。100億年後の心配はしなくて大丈夫だろう。どっちにしろ今のようなカレンダーは使っていまい。




 そもそもは地球でも、生物が左右対称であることは普通ではなかったようです。ではどうだったかといえば、ある点を中心に180度回転しても同じ形になる回転対称のような形の生物や、中心の点から足が放射状にいくつも伸びているような放射相称の生物などがいました。現在も、ウニやヒトデなどの仲間にそういう生物が見られます。しかし地球では、ある事件を境にして、左右対称の生物が圧倒的に優勢になりました。それが約5億5000万年前に起こった「カンブリア紀の大爆発」です。このとき、それまでの生物の
 ほとんどは絶滅し、新しいタイプの生物が一気に地球を席巻しました。現在の地球生物のほとんどはこのときに出現したものです。そして、その多くは左右対称だったのです。

 動物の身体はほぼ左右対称であることがあたりまえだとおもっているけど、別に左右対称でなくてもいいわけだ。植物なんかは自由気ままに枝を伸ばしてるしな。

 そういえば、自動車とか電車とかもみんなボディは左右対称だ。あれこそ非対象でも良さそうなものだけど。タイヤさえ対称形であれば他は非対象でもまっすぐ進むもんな。地球人が「動くものは左右対称でなければいけない」という思い込みにとらわれているせいかもしれない。


「あれ、時計が逆回りになっていませんか?」
「え? 私たちの惑星ではこれが普通ですよ」
 時計の針が回転する方向は、少なくとも地球では、日時計の名残をとどめています。かつて使っていた日時計は、太陽の光を受けてできる影が回転することで時間を表していました。その回転方向と同じ方向に針が回転するように、地球の時計はつくられたのです。
 しかし、「時計の針が右回りなのは、日時計の影が右回りだった名残」と説明するのは大問題です。理由はわかりますよね。そう、これは北半球での話で、南半球では日時計の影は逆に左回りになるからです。こんな説明をすると南半球の人から猛クレームを受けそうです。地球の時計が「右回りしかない」のは、時計を最初につくったのが北半球の文明だったからです。「ということは、地球の時計の針が右回りなのは、地球では比較的、北半球の文明が先に発達-たことの間接的な証拠とも言えるのかもしれませんね。そんなこと、気づかなかったなあ」

 時計の針が右回りなのは、地球限定どころか、北半球限定の常識なのだ。南半球の日時計は逆回りだし、もっといえばもしも赤道直下の日時計が元になっていれば時計は円ではなく直線的な形をしていたはずだ。

 我々が常識だとおもっていることがいかに地球限定、太陽系限定の常識にすぎないかということを思い知らされる。地球外生命体とふれあわないかぎりはそれで何の問題もないんだけど。


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2026年7月28日火曜日

自販機データの就活への活用

 オフィスビルがあって、その三階にはA社だけが入居している、という場合がある。

 そこそこ大きなビルであれば、フロアごとに自動販売機が置いてあって、そうなると三階の自動販売機を利用するのはほとんどA社の社員だけ、ということになる(来訪客とかが利用することもあるだろうが無視できるほど少ないものとする)。


 自動販売機を管理している会社は、そこでどんな商品がどれだけ売れたか、というデータを持っているだろう。おそらくだけど、売れた時間帯なんかのデータも。

 すると、自動販売機のデータからその会社の働き方が見えてくるはずだ。

 たとえばこの会社は遅い時間にコーヒーがよく売れてるからブラックっぽい(コーヒーだけに)とか、あの会社は深夜2時にエナジードリンクがよく売れてるから激ヤバだとか、そういった分析ができる。

 逆にお茶とか水とかがよく売れてる会社はわりと平和そうであんまりストレスがないのかなとか、お茶よりもコーラがよく売れてるから若い従業員が多いのかなとか。

 就活をしている学生からすると、ホームページに掲載された「社員の働き方」なんかよりも自販機データとかの生の情報のほうがよっぽど参考になるだろう。就活情報サイトには自販機データも載せてほしい。

 しかしそうすると本当に邪悪な会社では、対策として「エナジードリンクは別フロアで買うこと」なんてお達しが下るかもしれない。


2026年7月27日月曜日

【読書感想文】鈴木 忠平『嫌われた監督 落合博満は中日をどう変えたのか』 / 天才は理解されない

嫌われた監督

落合博満は中日をどう変えたのか

鈴木 忠平

内容(e-honより)
なぜ語らないのか。なぜいつも独りなのか。そしてなぜ嫌われるのか。謎めいた沈黙と非情な采配に翻弄された男たちの証言から、孤高にして異端の名将の実像に迫る。組織における人材登用術、リーダーの覚悟などビジネスパーソンにも影響を与えた傑作ノンフィクション。文庫版新章「それぞれのマウンド」収録。

 いい本だった。実におもしろいノンフィクション。


 この本を読むまで、落合博満という人に対してあまりいい感情を持っていなかった。ぼくがプロ野球を観るようになった頃にはすでに「球界でいちばん高い年俸をもらっているプレイヤー」だった。それも(ぼくから見れば)成績の割に高すぎる年俸をもらっている選手だった。

 ぼくがプロ野球を観始めたのは1993年。当時の落合選手は中日ドラゴンズで四番を打ってはいたがホームラン数は20本前後。正直、四番としてはものたりなさすぎる成績だ。なのに年俸三億円という破格の給料をもらっていた。

 その後、FAで読売ジャイアンツに移籍したことでぼくの印象はさらに悪くなった(アンチ巨人なので)。39歳、前年のホームラン数は17本。完全にピークを過ぎた選手なのに、年俸は四億円。なんでこんなに高く評価されてるんだ、とおもっていた。

 後年、中日の監督になってからもあまり印象は良くなかった。その頃にはぼくはあまりプロ野球を観なくなっていたのだが、「日本シリーズで8回まで完全試合をやっていた山井を交代させた監督」という印象だけが残っている。

 そんなこんなで、落合博満という人物に対するぼくの印象は「金に汚い非情な人」という印象だ。たしか契約更改でも毎回交渉が長引いていた。

(ただし「高い年俸をもらう」ことに関しては決して悪いことばかりでもないよな、ともおもう。トッププレイヤーが高い給料をもらうことで他の選手も「落合さんがあの成績であれだけもらっているんだったらおれももっと上げてくれ」と交渉しやすくなるので、選手全体の待遇改善に貢献している部分もある)



 監督としての落合氏の実績は圧倒的だ。

 落合氏がドラゴンズの監督を務めたのは2004年から2011年までの8年間。その9年間で、リーグ優勝4回、2位3回、3位1回。すべてAクラス(3位以上)。日本シリーズには5回出場して2007年には日本一にも輝いている(球団53年ぶりの日本一だ)。

 ちなみに落合氏退任後の2012年以降のドラゴンズの成績は2位→4位→4位→5位→6位と絵に描いたような転落をたどり、退任後の14年間で優勝は0回、Aクラスになったのも2回だけとすっかり弱小チームになってしまった(現時点で2026年もリーグ最下位だ)。いかに落合監督時代が強かったがわかる。


 だが落合監督は、親会社やファンから愛されなかった。選手やコーチの中にも監督のやり方に不満を漏らすものが少なくなかった。2011年のシーズンを最後に契約を打ち切られることとなる。

 なお、契約打ち切り直前の3シーズンのリーグ成績は2位→1位→1位である。こんなに好成績を残して切られた監督はそうはいない(リーグ5連覇を果たしてそのまま辞めた西武・森監督もいるが)。

 その二日後、落合は中日球団と新たに二年契約を結んだ。長嶋が恨みを吐き出した中日ビルの最上階にある貴賓室で、オーナーの白井文吾と握手を交わした。
 席上で、落合は二つの要請を受けた。
 ひとつは、この球団が五十年以上も手にしていない日本シリーズの勝利であった。この時点で中日は十二球団のうち、もっとも長く日本一から遠ざかっていた。
 薄紫のダブルに、濃紺のネクタイを締めた落合は、契約更新を勝ち取った席上で不敵に笑った。
「この三年間で強くなった。それでも日本シリーズには負けた。勝負事は勝たなくちゃだめだということなんだ。強いチームじゃなく、勝てるチームをつくるよ」
 私は部屋の片隅でペンを握っていた。落合の表情は何かを吹っ切ったように見えた。
 そして、もうひとつの要請は、ナゴヤドームのスタンドを満員にすることだった。
 このころから、喜怒哀楽を出さずに淡々と勝利を重ねる落合の野球は「つまらない」とささやかれるようになっていた。
 リーグ優勝しても、四万人収容のナゴヤドームにわずかな空席があるのはそのためだと、現場と興行とを結びつける者もいた。
 そんな声を知っていたのだろう。落合は自らに言い聞かせるようにこう語った。
「勝てば客は来る。たとえグッズか何かをくれたって、毎日負けている球団を観に行くか? 俺なら負ける試合は観に行かない」
 落合は勝つことで全てを解決しようとしていた。矛盾するような二つの命題を抱えて、新しい二〇〇七年シーズンを迎えようとしていた。

 うーん……。「勝てば客は来る。たとえグッズか何かをくれたって、毎日負けている球団を観に行くか? 俺なら負ける試合は観に行かない」これは正しくないとおもうなあ。落合さんはずっと選手・監督としてプロ野球の世界に生きてきた人だから勝利至上主義になるのは当然だが(そしてそれは決して悪いことではないのだが)、ファンからすると強いだけが愛される条件ではないんだよな。勝利だけを求めて球場に足を運ぶファンはむしろ少数派で、球場の雰囲気が楽しいとか、選手が身近に感じられるとか、スター選手を生で観られるとか、そういう要素のほうがずっと大事だ。

 ただ落合さんにファンサービスをしろというのも無茶な話で、問題は監督に「勝利」と「ファンサービス」と「人件費削減」というときに相反する課題をいっぺんに押しつけようとした球団にある。

 あくまで監督には勝利だけを追い求めさせ、ファンサービスの面は別の誰かをCMO(最高マーケティング責任者)とかに据えて任せるべきだとおもうのだが。



 単なるプロ野球の話にとどまらず、組織論、リーダー論として読んでもすごくおもしろい。

「選手が訊いてくるまでは教えるな」
「選手と食事には行くな」
「絶対に選手を殴るな」
 落合はかつての自分がそうだったように、自立したプロフェッショナルを求めていた。当然だろうと、宇野は思った。ただ一方で、そうした掟は徐々に緩和されていくべきものだとも考えていた。宇野は裏方スタッフを連れて飲みに出ることがほとんどだったが、ときには選手から声をかけられることもあった。そんなとき、落合の掟がちらつき、宇野が逡巡しているとある選手から言われた。
「宇野さん、大丈夫ですよ。途中で偶然会ったことにしましょう」
 その選手が言うことはしごく自然に思えた。戦いを共にする者たちは時間とともに境界線を失くし、互いの共有物を増やしていく。それがチームであり、信頼や絆というものではないか。ひいてはそれが強さになっていくのではないか。
 ところが落合は年々、選手やコーチとの境界線を鮮明にしていった。勝てば勝つほど繋がりを断ち、信用するものを減らしているように見えた。
 ある試合でノーアウト二塁の場面となった。クリーンアップを任された和田は、最低でも三塁へランナーを進めなければならないと考えた。だから定石通りに一、二塁間ヘゴロを打った。全体のために己を犠牲にするプレーであった。
 すると試合後、ベンチ裏の監督室に呼ばれた。紙コップに入ったコーヒーがテーブルに置かれているだけの整然とした部屋だった。
 落合は眉間に皺を刻んで、語調を尖らせた。
「いいか、自分から右打ちなんてするな。やれという時にはこっちが指示する。それがない限り、お前はホームランを打つこと、自分の数字を上げることだけを考えろ。チームのことなんて考えなくていい。勝たせるのはこっちの仕事だ」
 和田は再び呆気にとられることになった。
 それまで野球をやってきて、チームバッティングを讃えられたことはあっても、咎められたことなどなかったからだ。そうして、落合のイメージは百八十度変わっていった。

 多くのプロ野球の監督は、やっていることは少年野球の監督、野球部の顧問とそんなに変わらない。グラウンドの外でも選手たちの行動に口を出し、礼儀を教えたり、人生を語ったり、ときには暴力をもって指導したり(最近はそういう人は多くないが)。言ってみれば“指導者”だ。

 だが落合監督は指導者にはなろうとしなかった。あくまで監督。成長するのは選手自身。選手の能力を冷静に見極めて、勝つために必要な選手を試合で起用する。求められればアドバイスはするが、基本的には教えない。必要なのは「言われたことに従う選手」ではなく「勝つために必要な選手」。そのために何をどうやって身につければいいかは選手が自分で考える。


 理想を言えば、落合監督のやりかたのほうがいいとおもう。言われた通りに動く選手ばかりのチームよりも、全員が勝利のために何が必要かを考えて己を律するチームの方が強いだろう。状況の変化にも対応できるし、なんなら監督が代わっても強いはずだ。

 でもそれはあくまで理想の話だ。みんながみんな落合監督のように考えて動けるはずがない。まして(ぼくの勝手なイメージもあるが)野球選手なんて「上の言うことは絶対」の世界である野球部で生きてきた人たち。急に「自分の数字を上げることだけを考えろ。チームのことなんて考えなくていい」と言われたってなかなか切り替えられないだろう(ちなみに落合博満氏は高校野球部は体質が合わずサボってばかり→大学野球部も古いやり方についていけず退部というプロ野球選手としては超異色の経歴を持っている。この経歴が独特の思想を作りあげたのだろう)。


 落合監督のやり方は正しい。でもそれがうまくいくのはすべての選手が(技術だけでなく精神面でも)超一流だった場合だけだ。実現しなかったが落合氏がWBC日本代表監督になっていたらすごくいいチームを作っていたかもしれない。

 プロの選手になっても「指示してくれないとわからないよ」「細かく指導してほしいよ」というアマチュア精神の持ち主も多いから、落合監督のやり方は全員に支持されたわけではない。ただ、少なからず理解している選手・コーチもいたことが『嫌われた監督』には書かれている。

 落合監督退任後も彼らがそのマインドを継承させていけば中日ドラゴンズはずっと強いチームでいられたはず。……だがそうならなかったのは先ほど書いた通り。監督交代後は平均以下のチームになってしまった(監督だけの責任ではないにせよ)。

 一流の組織をつくるのはむずかしいが、それを維持するのはもっとむずかしいのかもしれない。



 落合博満という人はつくづく天才だったんだな、とおもう。もちろん選手としても超一流だったが、それは単に身体能力が高かったからではないとこの本を読むとわかる。

 他の人には気づかない観察眼、既存の常識にとらわれない野球理論など、とにかく指揮官としても天才的だったのだとわかる。

 ある選手の守備範囲がわずかに狭くなったことに気づき、別の選手のエラー数が多いのは守備範囲が広いから(他の選手なら追いつきもしない打球に追いつけるからこそのエラー)だと見抜く。しかも選手やコーチですら気付かないのに。

 落合監督が嫌われたのは、その“発見”を逐一説明しなかったからだ。説明することで選手の考える機会を奪うからというのもあるだろうし、天才だからこそ己の考えが周囲から理解されないことを知っていたかもしれない。

 他の選手・コーチ・監督と見ている景色がちがったんだろうな。


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2026年7月23日木曜日

【映画感想】『ひつじ探偵団』

ひつじ探偵団

内容(映画.comより)
ヒュー・ジャックマンが主演を務め、大好きな飼い主を殺された羊たちがその犯人を見つけ出すべく奮闘する姿を描いた異色のミステリー映画。
イギリスののどかな田舎町。羊飼いのジョージは、愛する羊たちに囲まれながらひとりで暮らしている。彼は毎晩羊たちに探偵小説を読み聞かせているが、実は羊たちは物語を理解しており、その時間を楽しみにしていた。そんなある日、ジョージが死体となって発見される。羊たちはこれが事故だと信じようとせず、最も賢いリーダーのリリーを先頭に調査に乗り出す。手がかりを追ううちに、ジョージには巨額の遺産があったことが判明。愛するジョージの無念を晴らすべく、犯人捜しに奔走する羊たちだったが……。

 Amazon Primeにて鑑賞。

 タイトルと画像でほのぼのアニマルコメディかとおもって観たのだが、これがなかなか、いやかなり見ごたえのある本格ミステリ映画だった。


 たったひとりで多くの羊たちと暮らしている牧場主のジョージ。彼は偏屈で人付き合いはうまくないようだが、羊たちのことは深く愛し、毎晩羊たちにミステリ小説を読み聞かせてやるほどだった。

 ある日、ジョージが牧場で変死。付近には殺人事件の痕跡。羊たち(人間の言葉を理解できる)は真相解明のため捜査に乗りだす。

 一方、ジョージの弁護士によって彼には多額の財産があったことがわかる。遺言書には養子に出されアメリカで暮らす娘が相続すると書いてある。だが遺言書はつい最近書き換えられたばかり。おまけに娘は事件直前にたまたまアメリカからやってきたところ。はたしてかぎりなく黒に近い娘なのか、それとも別の人物なのか。遺言書の中で示唆されている「二人の殺し屋、善き羊飼い、悪い羊飼い、マヌケ、春生まれの羊、冬生まれの羊」とはそれぞれいったい誰のことなのか……。



(以下、ちょっとネタバレを含みます)


 羊たちを主人公にしたコメディ映画でありながら、ミステリとしてはきわめて王道なのがすばらしい。事件の内容は観客に十分に語られ、容疑者、事件の動機もしっかりと、しかしさりげなく提示される。ヒントの分量も申し分なく、ちゃんと推理すれば真犯人にたどりつけるようになっている。そして真犯人は絶妙にちょうどいい人物。登場シーンは多く、それでいて意外な人物。

 ミステリとしてきわめてフェアだ(真犯人にたどりつく“色”はちょっと無理があるが……)。

 特に感心したのが序盤の「文化フェスティバル」のシーン。コメディパートなのだが、この映画においてすごく効果的な役割を果たしている。「文化フェスティバル」のせいでまんまと騙されるんだよね。


 ミステリとして優れているが、ヒューマン(羊だけど)ドラマとしてもよくできている。最初は何も考えていないように見えた羊たちの心の動きにだんだん共感できるようになってくる。そして死んだ後で見えてくるジョージの人間性。


 映像はおもしろく、ミステリとしてよくできていて、登場人物たちの心の動きや成長もしっかり描いている(それでいてくどくない)。

 いい映画だった。とにかく羊に対する愛がびんびんと伝わってくるぜ。


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2026年7月22日水曜日

【読書感想文】成田 悠輔『22世紀の資本主義 ~やがてお金は絶滅する~』 / わかりにくいことに価値がある本

22世紀の資本主義

やがてお金は絶滅する

成田 悠輔

内容(e-honより)
株価も仮想通貨も過去最高値を更新、生成AIの猛威が眼前に立ち現れ、かつてなく資本主義が加速する時代。お金や市場経済はどこへ向かうのか?この先百年で起きる経済、社会、世界の変容を大胆に素描。人の体も心も商品化される資本主義の行き着く果てに到来する「お金の消えた経済」。驚きの未来像が出現する。

 ぼくにとっては「テレビでたまに見る、変なメガネのよくわかんないけど賢そうな人」というイメージしかなかった成田悠輔さんによる、未来の資本主義の展望。


 まず率直な感想を書くと、すごくわかりづらい。

 でもこれは「わかりやすく書くことに失敗している」のではなく「わざとわかりにくく書いてる」からだとおもう。わざと既存の常識から飛び出そうと書いている、そんな感じだ。誰にでもわかるように書こうとおもったら、常識的なことしか書けない。

「わかりやすい文章」で5年後のことは書けても、100年後のことは書けない。現代の経済がどうなっているかを100年前の人に説明してもちっとも伝わらないのと同じように。



 ということでぼくは早々にこの本に書かれていることをきっちり理解することはあきらめ、一部だけでもわかればいいやという気持ちで読むことにした。


 意外だった事実。

 ただ、あまり知られていないが大切な事実がある。ネットは今のところ産業革命と呼べるような変容を作り出せてい「ない」という事実だ。第一次・第二次産業革命の前後で経済的な生産性が誰の目にも明らかなほど伸びたことと比べ、IT・ウェブ産業が世界を食べたこの数十年は産業革命と呼ぶには程遠い。
 地球全体の経済的生産性の伸びを見てみよう。全要素生産性と呼ばれる最も広く用いられる生産性の指標の世界全体での成長が、実はここ20年ほど停滞している。00年くらいまではいい兆しがあったが、05年以降は生産性のかつてない停滞期で、19世紀末以降最も成長が伸び悩んでいる。ウェブが家庭や職場に浸透しても、人類の経済的生産性には何の爆発も起きていない。ウェブの経済的価値はまだ花開いていないことになる。そしてこの傾向は日本や欧米のような先進民主主義国で特に著しい。
 そうなるのも不思議ではない。たしかにコンピューターやウェブは仕事を効率化した。手紙や書類を手やタイプライターで書いて郵便やFAXで送ることもなくなって、大量の人手を投入しなければ無理だった会計計算もExcelや会計アプリで一発だ。会議もやりとりもメールやSlackやTeamsやZoomで済むようになった。
 その一方で、ウェブは壮大な無駄も生んでいる。仕事するより気づけばTwitter/Xで罵り合い、インスタでマウントを取って、AVばかり見て、広告とPRまみれになり、オンライン会議中も関係ないページを眺めている。ウェブは古い無駄を省くことに成功したが、新しい無駄も生んだ。ウェブによる古い無駄の削減と新しい無駄の生成で差し引きゼロという可能性も十分にある。

 インターネットによって通信の速度は飛躍的に上がり、我々の連絡方法は大きく変わった。海外に文書を送ろうとおもったら1週間かかっていたのが、今だと1秒だ。

 当然、生産性は飛躍的に向上した……と思いこんでいたのだが、どうやらそうではなかったらしい。まるで生産性は向上していない。

 言われてみれば、ぼくらはインターネットによって大きな恩恵を受けているが、インターネットによって失ったものも大きい。SNSは人々の時間を奪うが、そのほとんどは無為に消えてゆく。かつては新聞や読書にあてていた時間がショート動画に溶ける。しかも、得るものがないだけならまだマシで、デマの拡散など生産性ゼロどころかマイナスの現象も多発している。

 インターネット、スマホ、SNS、動画サイト……。いずれもひまつぶしの手段としては有用だが、人類の発展に貢献しているかというとちょっと微妙なところだ。




「お金の必要性が少なくなる」という大胆な提言も。

 デジタルでグローバルな村落経済の発生は強烈な帰結をもたらす。お金の価値が下がっていくという帰結だ。なぜか。経済の実態の大半を記録できる太古の台帳経済や現在のデジタルグローバル村落経済では、実態と記録のズレが小さい。ということは、実態と記録のズレを埋める装置としてのお金の必要性が下がるからだ。お金に頼らず記録に直接尋ねて、信用するかしないか、取引するかしないか、罰するかしないかを決めればいい。記録を覗き見て判断するのは、古代では人間だった。現在、そして未来ではプログラムであり、ソフトウェアであり、AIである。

 物心ついたときから貨幣経済の中で生きてきたから「お金はなぜあるのか」なんて意識したことがなかった。教科書的には「物々交換をするのは不便なので、持ち運びやすくて保存が利いて好感しやすい貨幣が使われるようになった」という説明が正しいのかもしれないけど、それだけではお金の意義を正しく表していない。

 たとえばお金は使わなくても価値がある。往々にして「お金を持っている」ということ自体が価値を生む(反感を買うというマイナスの価値を生むこともある)。お金を持っている、お金を持っていそう、将来的にお金を稼ぎそう。それだけのことが重要な意味を持つ。「物々交換の代替手段」では説明がつかない現象だ。


「実態と記録のズレを埋める装置としてのお金」という表現は、たしかにお金の一面を正しく言い当てている。

 あの人はお金を持っているから、人から必要とされる仕事をやってきたのだろう、きっと能力の高い人なんだろう、という判断材料になる。高級車とか高級ブランドの服とかは、お金を使ったという証明であり、お金を使ったということはお金を持っていることの証明であり、お金を持っていることは能力が高いことや仕事をしてきたことの証明である。多くの人がそういうルールに従って生きている。

 だがその人の遍歴がすべてデジタル世界に記録される社会になれば(事実なりつつある)、お金を介さなくてもその人がどんな人かわかる。財布には現金が入ってないしユニクロの服を着ているけれど、多くの人から必要とされている人だということがデジタル世界の記録を見ればすぐわかる。この人なら信用できるし、低利子で金を貸してもいい。

 こういう世界になれば「金を持っていることをアピールするために使う金」が無意味になる。あいつブランド品で身を固めてるけどぜんぜん稼いでないじゃん、あいつ金は持ってるけど実家が金持ちなだけであいつ自身には何の能力もないじゃん、とばれてしまうから。

 個人的には、そんな世の中のほうが健全だとおもう。必要とするモノを手に入れるための交換手段という貨幣本来の役割が再び強くなるのだ。



 そしてその先にあるのは、経済を測れなくした社会。 

 だが、お金がもはや必需品でなくなる日も近い。経済社会活動を記録する情報やデータの量が増え実態と記録のギャップがなくなるにつれ、お金の役割は少なくなるからだ。その日を先取りして想像したい。情報・データ技術を用いて単純な価値尺度自体を蒸発させるような実験はできないだろうか?
 お金を使わず値段をつけず、価値が高いとか低いとか比べない経済である。測って比べるから大小や高低が生まれ、大小や高低のような非対称性はすぐに優劣に脳内変換される。大きいものが小さいものを制し、成長するものが勝つ。正の利子がつけば、富めるものがますます富む。そして規模が価値になる。とすれば、壊れた経済を修理する一番の方策は、経済を測れなくすることではないだろうか。

 わたしが欲している魚と、あなたが欲しているサンダルはどちらがより必要性があるのだろうか? もちろん比べようがない。だからとりあえず値段をつけて、同一の尺度で比較できるようにしている。

 しかしわたしに関するデータとあなたに関するデータと魚のデータとサンダルのデータが十分にあれば、同一の尺度など必要ないのではないか、ということだろうか。

 正直このへんの話になるとぼくにはもうついていけなかったが……。


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2026年7月17日金曜日

【読書感想文】ドン・マローニ『外人はつらいよ』 / これだから英語圏の人間は

外人はつらいよ

ドン・マローニ(著) 脇山 怜(訳)

内容(カバーより)
在日六年、アメリカ人ビジネスマン一家がくりひろげる涙と笑いの〝一大絵巻〟型破りのユーモアでつづるやぶにらみ日本文化論。

 仕事で日本に住むことになったアメリカ人が語る、日本文化論。

 この手の「外国人が見た日本」本は大好きでたいていおもしろい。なので古本屋で見つけて買ってみたのだが、これはちょっとはずれだった。

 理由のひとつは、あまりに古いこと。著者が日本にやってきたのが1970年。本の刊行が1975年。50年以上前。「日本人は往来で立小便をする」なんて書いてあるけど、さすがに今はそんな人はほぼ見ない。日米の文化比較というより、新旧の文化比較になってしまっている。これは50年もたってから手に取ったぼくのせいなんだけど……。

 もうひとつは、著者が日本どころかアメリカ以外の国を知らないこと。日本に来て困ったことに「英語が通じないこと」とか書いている。そりゃそうだろ。日本人からすると外国に行ったら母国語が通じないのは当然なのに、アメリカ人にとってはそうでないらしい。これだから英語圏の人間は……。

 文章がユーモアに満ちていて、そこはおもしろかったけどね。



「日本にかぎらずアメリカ以外はどこもそうだろって話」「著者の身の周りの人たちの話」が多く、日本論として読める箇所はそう多くない。

 私の見解を裏づけるような統計が政府から発表されているらしいのだが、どこにも見あたらないので、ただ私の言うことを信じていただくよりほかはない。実は、拡声器について新発見をしたのである。つまり、一人あたりの拡声器の普及率は日本が世界で第一位、と私は見ているのだ。

 選挙カーや街宣車は言うまでもなく、駅や電車・バスのアナウンスなど、日本は音声案内が多いと言われる。たしかにそうだよね。外国の交通機関では停車直前に「Next stop is ○○」と流すぐらい。日本だと音声案内が多すぎて、逆にどれが大事な情報かわかりづらい。

 著者は「英語でもアナウンスしているが日本版に比べてすごく短い。我々にだけ大事な情報が伝えられていないのではないかと不安になる」と書いている。その気持ちはわかる。でも大丈夫、カットされているのは「××の治療ならおまかせ、○○クリニックをご利用の方は次が便利です」といったどうでもいい情報だから。日本人だって聞いてないから。




 日本の生活に慣れた(といっても5年ぐらい)著者がひさしぶりにアメリカに帰ったときの話。

「マローニさん、それ、やめてくれませんかね」
「やめろって、いったい何をやめるんです?」
「私が何か一言いうたびに、フンフンうなずいたり、エーとかハーハーとかソーソーとか、とにかく何にしろ、モソモソつぶやくのはやめていただけませんかね。ところで、そのエーとか、ハーハーとか、ソーソーは、どういう意味なんです?」
「フンフンとかエーとかハーハーとかソーソーというのは、フンフンとかエーとかハーーとかソーソーという意味であって、それ以上の特別な意味はないんですよ」
 日本に長く居過ぎましたね、と言いたげなまなざしで私の説明を聞きながすと、彼はまた報告を続けた。私は全神経を集中して、癖を直そうと努めた。そのかいあって、その後は一度たりとも、むやみやっとうなずいたり、エーと言ったりはしなかったが、まったく容易なことではなかった。
 フンフンとつぶやきながらしきりにうなずく。これなんぞはアメリカに持ち帰った「日本癖」のほんの一例に過ぎない。エレベーターに乗るやセカセカと「閉扉」のボタンを押したり、人に紹介された時ペコペコおじぎしたり、立っている時も座っている時も腕組みしたり、といったような習慣も、人からへんな目で見られる。

 へえ。アメリカ人ってそんなにあいづちを打たないんだ。言われてみればそうかも。今度洋画を観るときはあいづちに注目してみよう。


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2026年7月14日火曜日

【映画感想】『トイ・ストーリー 5』

トイ・ストーリー5

内容(映画.comより)
おもちゃと子どもの絆を描いてきたディズニー&ピクサーの人気作品「トイ・ストーリー」シリーズの第5作。現代的なテクノロジーというかつてない脅威を前に、ウッディとバズが再び手を取り立ち向かう姿を描く。

ボニーのもとで暮らすバズやジェシー、フォーキーたちは、これまでと変わらぬ日常を送っていた。しかし、最新型の電子タブレット「リリーパッド」がやってきたことで状況は一変。多機能なデバイスに夢中になるボニーの姿を前に、おもちゃたちは自分たちの存在意義に疑問を抱き始める。「おもちゃはもう必要とされていないのか」という不安が広がる中、仲間からのSOSを受けたウッディが再びボニーのもとへ戻り、バズと再会する。かつての名コンビは、おもちゃの居場所を守るため、新たな脅威に立ち向かう。。

 うん、まあおもしろかった。映像はすごいし(でもすごすぎて、まるで実写映画を観ているようで、かえって驚きを感じなくなってしまった)。

 ストーリーも『4』に比べればぜんぜんいい。まあ『4』は大失敗作なので(ぼくは記憶から消してなかったことにしている)、それと比べればどんなものでもマシなんだけど。

 でもなあ。やっぱり『3』で終わりで良かったな、とおもう。続編をつくるとしても、登場人物を全部入れ替えて別のおもちゃの物語にしていれば良かったのに。

 ここから愚痴。


『4』で子どもを捨てて出ていったウッディを『5』で無理やり登場させたが、これはファンサービスでしかなく、出てくる必然性は何もない。ウッディが古くなったという設定もすでに『2』で通りすぎた話題だ(ハゲをギャグにするのはさすがに古すぎないか?)。

 オールドファンに向けて昔のようなウッディとバズの関係性を描きたかったのだろうが、ウッディとバズに今さら喧嘩をさせるのもしらじらしい。もうそんな段階はとっくに過ぎただろう。まして勝手に出ていったウッディがえらそうに仕切りだす正当性がどこにあるんだ?

 もうウッディのことは忘れて新しい一歩を踏み出してもいいんじゃない?(ていうかその覚悟がないくせに『4』みたいなのを作るなよ) 唐沢寿明のお声もだいぶ歳をとっていたし。



『3』までの3作は完璧だったし、その中であらゆる展開をやりつくしてしまった。主役の座を奪われる、置いていかれる、売られそうになる、盗まれる、捨てられる、寄付される。『おもちゃにとって何がいちばん幸福なことか』というテーマを3作かけてじっくり問いつづけ、これ以上ないという答えを提示してしまった。

 その後でどれだけピンチが訪れても、おもちゃたちが悩んでも、全部『3』までの焼き直しでしかないし、それでもまだ現状に不満を示すなら「じゃあサニーサイド保育園に行けばいいじゃない」としか言いようがない。

『3』で「保育園でずっと子どもたちの遊び相手として生きる」「いつか遊んでもらえなくなるとしても、今、子どもにとっての親友として生きる」という究極の二択を提示してしまった以上、それ以外の道を選ぶ理由がない(だからそれ以外の道を選んだ『4』は失敗作だった)。



 おもちゃの幸福と葛藤、というテーマについてやりつくしてしまったからだろう、『5』は人間の話が大きな部分を占める。

「子どもに、タブレットなどのデジタルデバイスをどのように扱わせるか」というのがメインの(そして陳腐な)テーマだが、それっておもちゃが心配することじゃないよね。保護者が考えることだ。おもちゃが教育方針にまで口を出すのは出しゃばりすぎ。

 実際ボニーはタブレットのチャットが原因でトラブルを引き起こすのだが、これは保護者が注意深く管理していれば防げたことで、『トイ・ストーリー』という装置を使って描くべきテーマとはおもえない。本来なら人間が人間に向けて言うべきことをおもちゃの口を借りて言わせているだけなので、説教くさいことこの上ない。

 やるとしても『インサイド・ヘッド』あたりで良かったのでは。



 そしてやっぱりぼくはボニーを好きになれない。『4』でもおもちゃを大事にしていない様子がありありと描かれていたが、『5』でもあっさりとおもちゃたちを裏切る。

 世間体を気にしておもちゃを手放そうとするボニー(しかもそれはアンディから託されたおもちゃ)。持ち主がこれでは、おもちゃとの間の信頼関係など築けるはずがない。もうこいつアンディとの約束なんて覚えてもいないんだろうな。嫌いだわー。

 アンディはおもちゃを託す相手をまちがえたな。ボニーに比べれば『1』のシドのほうがまだおもちゃを愛してるぜ(愛の形は歪んでるけど)。


 ただ、『2』からずっとしこりのように残っていたジェシーとエミリーの物語に結着がついたシーンは本当によかった。



 8歳の娘といっしょに鑑賞したのだが、娘は中盤ちょっと飽きていた。でもその気持ちはわかる。視点があっちこっち行くのでむずかしいんだもん。

「ボニー」「ジェシー」「バズたち」「ウッディたち」「ハイテクバズ軍団」と、それぞれのシーンが目まぐるしく変わる。ぼくは大人だし前作までの内容も頭に入っているから(『4』の内容は記憶から消去したけど)ついていけたけど、子どもには追いきれないよね。

 過去作ではシーンの切り替えは少なかった。『1』で言うと「2階と1階」「ウッディ&バズとその他のおもちゃ」ぐらい。『2』『3』も多くてせいぜい3シーンまで。

 これは意識的にやっていたんだろう。なるべくストーリー展開をシンプルにして、メインターゲットの子どもにも十分ついていけるようにしていた(時系列をさかのぼるシーンも極力なくしていた)。なぜなら、おもちゃで空想の世界にふける子どもたちは「数多くのシーンの切り替え」「時系列をさかのぼるストーリー展開」なんて考えてないのだから。幼少期におもちゃで遊んでいた気持ちを思い出させてくれる感覚が『3』にはあったが、こういった配慮が『4』以降失われた。監督の交代によるものだろうか。

 おもちゃに向けるあたたかい目を失ってしまったのは、はたしてエミリーやボニーだけなんだろうか。制作陣もまた子ども心を忘れてしまったんじゃないだろうか。

 制作陣に問いたい。あんたたちこそデジタル端末の使いすぎでは?


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2026年7月10日金曜日

【読書感想文】桐野 夏生『顔に降りかかる雨』 / 悪い意味で力作

顔に降りかかる雨

桐野 夏生

内容(e-honより)
親友の耀子が、曰く付きの大金を持って失踪した。被害者は耀子の恋人で、暴力団ともつながる男・成瀬。夫の自殺後、新宿の片隅で無為に暮らしていた村野ミロは、耀子との共謀を疑われ、成瀬と行方を追う羽目になる。女の脆さとしなやかさを描かせたら比肩なき著者の、記念すべきデビュー作。江戸川乱歩賞受賞!

 桐野夏生氏のデビュー作。デビュー作だなあ、という感じ。力の入れ方は伝わってくるが、技術が十分備わっていなくて空回りしている感じが。

 肩に力が入りすぎなんだよな。いっぱい調べていっぱい考えて書いたんだろうけど、それが伝わってしまう。もっとさらっと、なんでもないことのように提示してほしい。勝手な要望だけど。

 たぶん、女性を主人公にしたハードボイルド小説を書きたかったんだろうな。だから必要以上につっぱってる女性が主人公。いやそこまで無理してかっこつけんでも、という気になる。なんか「めちゃくちゃがんばって都会で強く生きる女性」って感じで、かっこいいどころか痛々しい。


 たとえば後の桐野夏生作品である『OUT』に出てくる女性は、もっとワイルドでありながら、もっと自然体だ。なんでもないことのように大胆な犯罪をやってのける。カッコイイとは、こういうことさ。

 まあこの青さもデビュー作の魅力と言えるかもしれないが。



(以下ネタバレを含みます)

 ストーリーも退屈だった。

 序盤で「主人公の親友が1億円の金とともに失踪した」という謎が提示されるが、どうも弱い。

 だって「大金に目がくらんで持ち逃げしちゃいました」ではミステリにならないことを読者は知ってるんだから。なんらかの事件に巻き込まれたことは容易に想像がつく。

 だから早くその「なんらかの事件」を見せてほしいのだが、それがなかなか書かれない。半分ぐらいは、ただいなくなった女の足跡を追うシーン。登場人物も多いしたっぷりページ数を割いているが、何も起こらなくて退屈。ここはもっとテンポよく書いてほしかったなあ。


 中盤でやっと“事件”が見えてくるが「ああこれが真相ではないんだろうな」というにおいがプンプン。明かされる真犯人もさして意外な人物ではない。というか大本命。いちばん身近な人物が犯人ってベタベタじゃん。

 まあこれは2026年に読んだからであって、刊行された1993年当時は十分意外だったのかもしれないけど……。



 ボディ・モディフィケーション(身体改造)、ネオナチ、ヤクザ、夫の自殺、不倫など刺激的な要素をこれでもかと詰め込んでいるけど、正直あんまり効果を発揮しているとはおもえない。なくてもミステリとして成立してるし。

 いろんな意味でデビュー作だなあ、という作品でした。


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2026年7月3日金曜日

【読書感想文】平賀 緑『食べものから学ぶ現代社会 ~私たちを動かす資本主義のカラクリ~』 / 価格は需要と供給で決まらない

食べものから学ぶ現代社会

私たちを動かす資本主義のカラクリ

平賀 緑

内容(e-honより)
豊かなはずの世界で「生きづらい」のは、経済学の考え方と私たちのリアルがずれているからではないだろうか。新たな目で、食べものから、現代社会のグローバル化、巨大企業、金融化、技術革新を読み解いてみよう。私たちを動かす資本主義のカラクリが見えたら、地に足をつけた力強い一歩を踏み出せるだろうから。

 食べものを入口に、現代社会、主に資本主義について語る本。

 今まで経済の本はあれこれ読んだけど、どうも腑に落ちないところがあった。

 需要曲線とかを見ながら「こうやって価格が決定するんです」と言われると、
「うーん、確かに理論的な説明だけど、まちがってないんだろうけど、でも核心はついていないような気がする」という気になった。

 だってほとんどの場合、ものの価格って売り手の都合で決まってるじゃん。たとえばいっときコメの価格がすごく上がったけど、それってほんとに受給の綱引きによるもの? 日本人がコメを食べる量は数ヶ月でそんなに変わるわけない。ってことは供給が減ったということになるわけだけど、ほんとにそこまで減ったの? そんなに記録的不作なら、もっと早い段階で「コメが大不作!」とニュースになったはず。 でも収穫量減少は話題にならなくて、あるときから急に価格高騰が話題になった。

 ほんとに需要と供給で価格が決まってるの?



『食べものから学ぶ現代社会』では、経済学の教科書とはちがう、より現実的な経済の動きが説明されている。

 AIではない、人間の頭脳で考えた答えをチラ見せすると、小麦のような世界の「主食」といわれる食べものも、資本主義経済が始まってからは売って儲ける「商品」へと変わり、小麦を大量に生産して、貿易して、小麦原料の食料品を大量に製造して販売するというサプライチェーンが形成され、その役割や価値の測り方が変わっていった歴史的な経緯があります。加えて近年では、小麦など食料の価格を決める商品取引市場では、小麦を売りたい農家や小麦を買いたい食品産業は少数派で、むしろ9割方ほとんどの取引は、小麦なんて実際には必要ない、ただ小麦価格の変動により手っ取り早く儲けることを狙っている「投機筋」や「投機マネー」とも呼ばれる、食や農に関係ない人たち(機関投資家、組織、最近はAIも)なのです。そこではもう、小麦の影も形も見られない抽象化された「金融商品」が取引されています。つまり、食や農の「金融化」によって、小麦などの食料もマネーゲームの駒の一つになってしまったということ。このマネーゲームにおいては、ちょっとした情報で相場が大きく動くのが特徴です。実際の需要や供給より、これから小麦の価格が上がるかもしれない(儲けられるかも!)と思わせる小さなきっかけで大きく値動きする。そのきっかけは、戦争でも、天災でも、誰かの発言でも、構わないとのこと。

 小麦の取引のうち9割が「小麦をほしい人」ではなく「小麦の価格差を利用して儲けたい人」によっておこなわれているというのだ。

 はーん。まあ江戸時代からコメ相場とかアズキ相場とかはあったので、マネーゲームとして食糧を売買する人は昔からいた(取引量が増えると流動性が増して価格の安定につながるというメリットもあるそうだ)。

 でも昔は、基本は農家と問屋の売買で、そこにちょっと仕手筋が乗っかるぐらいだったのだが、今では逆に「生産者と流通業者はごく一部で、そこに大量の仕手筋が乗っかる」という構造になってしまった。

 そりゃコメ価格も暴騰するはずだ。生産量が5%減っただけでも「今年はコメが少ないから値上がりするはず!」と大勢の投機筋が群がってくるわけだから、あっという間に価格は倍になってしまう。先物取引であれば実際にコメを貯蔵する必要もないからどれだけでも買えるしね。

 まだ株とか金とかであれば価格が何倍になろうと庶民の生活には直接かかわらないからいいんだけど、金持ちのマネーゲームのせいで食料品の価格が乱高下するのは困る。

 食料とか土地とかの取引はちゃんと法律で規制してほしいな。投機目的の取引には高い税金をかけるとかさ。




 先ほど「書類上は」と書いたように、物理的なバナナの貨物が大西洋をまっすぐ横断している間に、この貿易に関する書類は、ケイマン諸島、バーミューダ、ジャージー島、マン島、アイルランド、ルクセンブルクなどを手続きとして経由していく。各地でブランド使用料や金融・保険のサービス料などいろんな名目の「コスト」を計上して回り、結果、そのバナナを販売する英国では、残りわずかになった利益を計上してそれに対する少額の税金だけを払う。つまり、書類上だけ「タックスヘイブン」と呼ばれる租税回避地を渡り歩き、途中でいろんな名目の経費を計上したりして、その富は生産国でも消費国でもない「オフショア」に吸い上げられる。結果、このバナナは英国の店頭では実際の生産や輸入にかかったコストとはあまり関係ない値段で販売され、関連企業は「合法的な節税」を行うことができるというカラクリです。その他にも「ほんと、すごい!」と感心するくらいマニアックな手法がいろいろ考案されているようです。
 生産から消費までのフードシステムの途中に、このような大企業による寡占状態があるとどんな影響があるか。これは「砂時計構造」で説明されます。
(中略)バナナの生産者も消費者も星の数ほど多数いますが、生産から消費までの途中、バナナを集めて倉庫で管理したり貿易したりする段階には5社しかありません。つまりこの5社が、世界のバナナ貿易を牛耳っているのです。当然、この部分が利益を上げることも多く、例えばバナナ1本の価格のうち、プランテーション農場主が10%、そこで働く農場労働者は1.5%分しか得られないことを示しています。(中略)
 こうした砂時計構造がある場合、細くくびれた首根っこ部分を握っている企業が、どんな商品を選ぶか(遺伝子組み換えか否かなど)、どれだけ市場に流通させるか、どう価格設定するかなどに大きな力を発揮するのです。
 こんなリアル社会において、経済学が語る「需要と供給の法則」がまともに機能していると思いますか?

 食料が「金融商品」になってしまった結果、食料の流通や価格は大企業が決定するようになってしまった。いちばん報われるべき生産者にはほとんどお金が入ってこない。

 200円のバナナが売れても、バナナ農園で働く労働者に入ってくるのはたったの3円(1.5%)!

 そりゃあ輸送したり仕入れて卸したり店頭で売ったりするのも大事だけど、さすがに生産者に1.5%しか入らないのはおかしい。かといって消費者としては価格は安いにこしたことがないので「じゃああなたが300円で買ってください」って言われても困るんだけど……。

 経済学の教科書だと「売り手と買い手の綱引きによって価格が決定する」とあるけど、実際のところ貿易の大部分を握っているのは売り手でも買い手でもなく中間業者なわけだ。しかもその中間業者も税金対策で入っていたり。

 こんな状態で「自由な競争に基づく適正価格」なんてつくはずがない!



 ただ問題なのは「大企業が悪いせいだ!」と単純化できる話でもないってことだ。

 よく派遣の話になると思考停止して「派遣会社がピンハネするのが悪い!」と叫んで終わり、って人がいるけど、世の中はそんなに単純なものではない。たったひとつの原因と明確な悪人がいてそいつを退治すればすべてが丸く収まるのはおとぎ話だけだ。

 バナナ農園で働く労働者も、農場主も、流通を握っている大企業も、小売のスーパーも、バナナを買う消費者も、みんな悪くない。誰もが社会のルールにのっとって行動して「損をしないように」ふるまっている。その結果「バナナを作っている人に売上の1.5%しか入らない」というずいぶんおかしなことになってしまう。

 これがぼくらの生きる資本主義社会のシステムなのだ。システムがまちがっているのか? それとも「バナナを作っている人に売上の1.5%しか入らない」と考えるぼくらのほうがまちがっているのか?


 だからといって、一部の企業やビジネスだけが強欲なのが問題だというつもりはありません。資本は集中する傾向があるといわれます。その要因など議論し始めるとキリがありませんが、ただ実際、一部の巨大企業群が大きな影響力を持っていることは確かでしょう。
 問題は、こんな現代社会でも、いまだに経済学の教科書には完全競争市場の需要と供給の法則が説かれているし、ニュースでも需要や供給で説明されることが多いこと。そのギャップに気をつけて欲しいと思います。市場のメカニズムがきれいに機能するためには、多数の売り手と多数の買い手がみんな平等に売買していて、誰も価格や量を操作できない、みんなが市場が定めた価格を受け入れるという、大きく現実離れした前提条件が必要なのだということを認識しておくと、経済学者たちにだまされることなく、問題をクリアに見ることができるようになるはずですから。

 結局この本を読んでも「私たちを動かす資本主義のカラクリ」はよくわからなかった。でもそれでいいとおもう。資本主義のカラクリだなんて複雑でむずかしいものを、本一冊読んだぐらいでわかったら嘘だろう。たぶん誰にもわからない。

 わからないことをちゃんとわからないままに提示できるのは、誠実でいい書き手だ。バカは単純明快な答えを求めるけど、わからないものをわからないもの受け止められるのが知性だ。


 とりあえずわかるのは「市場のメカニズム」なんてのは現実とはほど遠い論理だってこと。わかりやすい説明に飛びつかないようにしなくちゃね。


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2026年6月30日火曜日

【読書感想文】樋口 耕太郎『沖縄から貧困がなくならない本当の理由』 / 補助金はイノベーションを阻害する

沖縄から貧困がなくならない本当の理由

樋口 耕太郎 

内容(Amazonより)
沖縄には、謎が多い。圧倒的な好景気が続く中、なぜ、突出した貧困社会なのか。「沖縄の人は優しい」と皆が口をそろえる中、なぜ、自殺率やいじめ、教員の鬱の問題は他の地域を圧倒しているのか。誰もなしえなかったアプローチで、沖縄社会の真実に迫る。「沖縄問題」を突き詰めることは日本の問題を突き詰めることであり、それは、私たち自身の問題を突き詰めることだ――。「コロナ後の世界」のありかたをも問う、鮮烈の問題作。

 所得水準、子どもの貧困率、正規雇用率、ひとり親世帯率(そしてその貧困率)、進学率、自殺率など様々な指標で全国ワーストクラスの数字を出している沖縄県。

 なぜ「気候も人もあたたかい」と言われる沖縄県で多くの人が貧困にあえぐのか。

 野村証券などで働いた後に沖縄でリゾートホテル経営をおこない、経営から退いた後は沖縄の飲み屋で数千人の話を聞いたという著者が、中と外から見た「沖縄問題」。


第1章『「オリオン買収」は何を意味するのか』、第2章『人間関係の経済』、第3章『沖縄は貧困に支えられている』は様々なデータに基づく分析が光っておもしろかったが、第4章『自分を愛せないウチナーンチュ』あたりからデータはほとんどなくなり、「聞いた話」が続く。さらに第5章『キャンドルサービス』にいたってはほぼ沖縄と関係のない著者の人生観が語られる。

 せっかく前半で事実に基づく考察が光っていたのに、中盤からは「自尊心が低いのが原因だ」「愛がすべてを解決する」みたいな話になってくるのでげんなりしてしまった。中盤まではいい本だったのになあ。



 少し前に読んだ高橋哲哉『沖縄について私たちが知っておきたいこと』 (→ 感想)に、「沖縄が経済的に基地に依存している割合は低い」といったことが書かれていたが、樋口耕太郎氏はその論調に反論する。

 たしかに基地から直接沖縄県に流れる金は多くないが、基地を受け入れる(受け入れさせられる)ことと引き換えに、沖縄県は日本から非常に多くの補助金や軽減税率を与えられている。

  たとえば、沖縄県が本土復帰した1972年以来、沖縄で生産・消費されるビールや泡盛には軽減税率が適用されていた。これにより、沖縄企業生産のオリオンビールはキリンやアサヒといった大手企業よりもずっと有利な条件で販売することができ、そのため沖縄県内では高いシェアを誇っていた。

 復帰後の一時的な対策だったはずの酒税軽減措置はその後も政治的な理由などで延長をくりかえされ、50年以上たった今年2026年にやっとビールの酒税軽減は終了するらしい(泡盛は2032年予定)。

 だが多くの補助金や税制優遇がそうであるように、それにより助かるのは真に困っている人たちではなく、大手企業や政治家とつながりを持つ金持ちをさらに潤すことになっている。

 このように、利権は入れ子構造になっていて、「多くの弱者のため」に政治が動き、援助がなされるほど、一部の利権者が多大な配分に与る構造が存在するのだ。これらの利権は所得として計上されないことも多く、問題が表面化しにくい。
 社会の権力者たちは、「社会のため」を語りながら、意識的あるいは無意識に自分の利害を最優先する。多くの場合それほどの悪意もない。場合によってはその自覚すらない。
 このように、沖縄振興を目的として大量に注がれた税金が、沖縄社会を激しく歪める原動力になっているのだ。「弱者を助けるため」に活動する沖縄の利権者が、「成果」を上げれば上げるほど、沖縄内部に問題を生み出す原因を作り出してしまう。
 このように、社会を歪め、弱者を助ける名目で(無意識に)搾取し、格差を生み出し、維持しているメカニズムは沖縄社会の内部にある。そして、日本政府からの大量の経済援助が、その歪みの構造を支える重要な役割を果たしてしまっている。
 利権者たちは、必ずしもそれを意図しなくても、あるいは、自分が利権者だという自覚がなくても、結果的に、自ら多額の援助金を獲得し、大きな利益を手にしてしまうため、事業そのものには意識が向かない。事業家の自律心が奪われれば商品の質は低下する。

 このような「沖縄を助けるため」であったはずの補助金や税制優遇が利権構造をつくりだし、結果的に沖縄の産業の競争力が弱まっていると著者は指摘する。

 泡盛に対する軽減税率にしても、ごくごく一部の大手酒造メーカーの役員だけが莫大な利益を得る構造になっているという。



 沖縄はもっとも政治によって翻弄されてきた地域だ。

 在留米兵による少女暴行事件により基地反対運動が高まった際には、日本政府は基地をひきつづき沖縄に引き受けさせるため、有形無形様々な形で経済援助をおこなった。

 沖縄で野火のように広がった基地反対運動。これに対してなされた政府主導の強烈な「火消し」の多くは、目に見えない経済援助の形をとった。ここに挙げた事例はそのほんの一部である。そして、それに呼応するように、1995年以降、沖縄は目覚ましい「経済発展」を遂げた。
 このように、沖縄の経済発展には、ことごとく基地経済と(ときには過剰な)援助の影がつきまとう。
 もし、1995年の基地反対運動が熱を帯びていなかったら、普天間飛行場の移設問題が浮上していなかったら、
 
 2000年のサミットは沖縄で開催されていただろうか?
 首里城は世界遺産になっていただろうか?
 新2000円札の表面は守礼門だっただろうか?
 そもそも2000円札は発行されていただろうか?
 沖縄自動車道や那覇空港は今ほど整備されていただろうか?
 沖縄のリゾートの価格帯は、現在のような水準だっただろうか?那覇空港の発着便は、現在の水準にまで激増しただろうか?
 
 このように考えた場合の基地依存型経済の規模は「5%」どころか、県民総所得の相当規模を占めると考えるべきだろう。(中略)
 しかし不可解なのは、これだけの経済援助を受け、「経済発展」を遂げている沖縄が、日本最大の貧困社会だということだ。
 なぜ、日本で最も援助を受けている地域が、最も貧困なのか?これは問いの前提に誤りがあると考えるべきではないだろうか?
 経済援助は、そのやり方次第では、貧困を解消するよりも増幅させる可能性があるからだ。

 ダロン・アセモグル & ジェイムズ・A・ロビンソン『国家はなぜ衰退するのか』に、政治が腐敗していて特定の有力者だけが利益をむさぼる構造になっている社会ではイノベーションが起こりづらく、自由な競争が保障されている国との競争に負けて衰退していくのだと書いてあった。


 沖縄はまさにその「イノベーションが起こりづらい」地域になってしまっている。補助金が多ければ、当然甘い汁を吸うのが大好きな連中がそこに群がってくる。リスクを負って新しいことに挑戦する者は既得権益者によってつぶされる。人々はますます新しいことに挑戦しなくなり、一部の権力者がますます肥大してゆく……。

 このスパイラルから抜け出すのは相当むずかしいだろう。



 また著者は、沖縄の人は、慣れ親しんだものを志向する傾向が本土の人よりもずっと強いと指摘する。

 周囲から「冷たい人」とおもわれるのを避けるため、少々高かったり品質が劣ったりしても、なじみの店、なじみの相手から買うことを選ぶ傾向があるという。

 助け合いの精神が根付いているという良さもある反面、新しい価値を生み出すビジネスが成功しにくい環境でもあるという。

 このように沖縄経済を捉えると、品質の良いもの、価値のあるもの、優れた商品が生まない理由が説明できる。
 消費者は、商品やサービスの良し悪しで選ばず、同じ商品を買い続ける性向が強く、沖縄では品質の良いもの、価値のあるもの、優れたサービスを顧客に提供しても、結果(売り上げ)につながりにくい。付加価値の高い事業が収益を上げにくい沖縄の社会構造である。それらの結果、沖縄社会では一流を目指す人が力を発揮しにくいのだ。
 人間関係で成り立つ商売は、長期安定的で、本土企業に対して強い参入障壁を作り出すという大きなメリットがある一方で、革新を妨げ、低品質、低付加価値、低報酬を特徴とした、沖縄独特の経済圏を作り上げてきた。
 このような環境下では、品質改善への重要性は低く、創造力は発揮されない。開発力、革新力、サービス力が低下し、県外の「厳しい」顧客に訴求する商品を生み出すことは難しくなる。

 これ自体はそんなに悪いことじゃないんだけどね。みんなが安定した生活が送れるわけだから。島の中でやってる分には。

 ただ県外、海外企業との競争には勝てない。

 でもこれって沖縄の企業がおかしいんだろうか。県外、国外の企業と競争して勝たなきゃならない! という本土の企業のほうがヘンなんじゃないかな、と個人的にはおもう。いいじゃない。島の人が島の人を相手に商売して、食っていけるぐらいの儲けが出てるんだったら、それで。

 グローバル化が進んだからそうも言ってられなくなったという現実はわかるんだけど、でも多くの人にとってグローバル化っていいことばかりじゃない、むしろ悪いことのほうが多いわけで。

「グローバル化してるのにそれについていけない沖縄企業が悪い!」と書いてるけど、ほんとは「そもそもグローバル化したのが悪い」なのかもしれない。そう言っても一度開いてしまった扉はなかなか閉じられないものなんだけど。


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2026年6月23日火曜日

【読書感想文】サイモン・マッカーシー=ジョーンズ『悪意の科学 意地悪な行動はなぜ進化し社会を動かしているのか?』 / 己の中の悪意と向き合わされる本

悪意の科学

意地悪な行動はなぜ進化し社会を動かしているのか?

サイモン・マッカーシー=ジョーンズ(著) プレシ南日子(訳)

内容(e-honより)
悪意の力を明かし、人間観をくつがえす傑作!悪意はなぜ失われずに進化してきたか?悪意をもたらす遺伝子、脳の仕組みとは?なぜ自分に害が及んでも意地悪をするのか?善良な人まで引きずり下ろそうとするわけ。悪意と罰の起源とは?悪意にはどのような効用・利点があるか?悪意をコントロールするには?…脳科学・心理学・遺伝学・人類学・ゲーム理論などの最新成果を駆使して、まったく新しい人間観が示される…

 この本における「悪意」とは「自分が損をする(得をしない)としても他者に損害を与えるような行為」を指す。

 たとえばあおり運転とか。気に入らない運転の車があると、その後ろにぴったりついて嫌がらせをする。それをしたところで自分が得をするわけではない。むしろ損をする(事故に遭う確率が上がる)。それでもそうした運転をする人は後を絶たない。

 そこまでいかなくても、気に入らない有名人をSNSで攻撃するとか。たいていの場合、炎上させたって自分が得をするわけではない。むしろ自身の評判を下げるだけだ。それでも多くの人にとって「気に入らないやつを攻撃する」行動は楽しい。



“悪意”は決してひとにぎりの人だけが見せるものではなく、多くの人の選択となって社会全体に影響を及ぼすこともある。

 悪意の影響は、選挙の行方だけでなく、当選者が推進する政策やそれに対する有権者の反応にも及ぶ。所得配分に関する政策について考えてみよう。経済状況が悪化している時代には、貧富の差を縮める政府が支持されるはずだ。ところが2008年の不況の際、人々は政府による所得の再配分をさほど重視していなかった。これは減税により自分たちよりも低い社会階層の人々との差が縮まる場合、たとえ生活が多少楽になるとしても、減税を望まない人々が一定数いたためだと考えられる。人間の「最下位を避けようとする」性質が表れたのだ。

 最低賃金の引き上げに最も反対するのは、金持ちや経営者よりも「最低賃金よりはちょっと上の給与で働いている人たち」だという。ふつうに考えれば彼らは最低賃金の引き上げによって恩恵を被る立場の人たちだ。

 それでも「自分より下の立場の連中が自分と同じ位置にくるかもしれない」という思いが“悪意”に走らせる。貯蓄の少ない者が生活保護受給者を非難したり、貧しい者が金持ち優遇政策をとっている政党に投票したりといった例は枚挙にいとまがない。自らにとっての実益よりも「あいつらを困らせたい」という“悪意”のほうが優先されることは決してめずらしくない。

 そして“悪意”は直接的な攻撃の形をとらないことも多い。

 仕返しが可能な現実の世界で、自分を不公平に扱った人々に直接、悪意のある行動をすることは、最後通牒ゲームの結果から想像するよりもずっとまれだ。小規模な部族社会に関する人類学的研究では、人々が協力関係を維持するためにこのような行動をとることは確認されていない。彼らは別の形態のコストの低い反支配行動をとる。彼らは安上がりな悪意を使うのだ。
 不公平な人を罰する個人的なコストを減らす方法の1つは、1人あたりのコストを減らすことだ。それには集団内でコストを負担し合えばいい。小規模な社会では、目に余る行ないをした人々を個人ではなく集団が殺す。そうすれば個人に対する反撃を最小限にできるからだ。同様に西洋ではほかの人も同じ相手に罰を与えている場合のほうが、人々は気楽に罰を与える。人数が多いほうが安全だからだ。
 罰のコストを減らす別の方法は、直接的な対立よりも安上がりな方法を用いることだ。たとえばうわさ話(ゴシップ)や嘲笑、村八分などがこれにあたる。現実の世界、特に小規模な社会では、人々は直接的な対立よりもこれらの方法を使いがちだ。

 悪いうわさを流す、集団で村八分にする、といった方法だ。正面切って悪意をぶつけるよりも、こちらのほうが自らの立場は安全だ。

 人間はいじめが大好きなのは、喧嘩よりもいじめのほうがリスクが低いからだ。



“悪意”と書くと無条件で悪いもののようにおもえるが、悪意はメリットもある。というよりメリットがあるからヒトは悪意をはたらくように進化したわけだ。

 悪意の理由は単純だ。悪意のある行動をとると得するからだ。短期的に見ると悪意のある行動が、長期的な利益をもたらすことも多い。悪意+時間=利己主義というわけだ。反支配的悪意は乱暴者や支配者、暴君を引きずり下ろす。この場合、悪意は正義を守る手段となりうる。他者に害を及ぼす人に悪意を向けると社会関係資本が増える。そして、ほかの人々からの協力や高い評価という見返りが得られる。一方、自分に害を与える相手に悪意を向ければ、相手はわたしたちにもっと気を使わなければならなくなる。やがて人間は言葉の助けを借りて、コストのかかる罰をより安上がりで安全に使えるようになった。また、神や国家に悪意のある行動を委託するようにもなった。こうして今や人間は、ニーチェのいうところの「盗んできた歯」でかみつけるようになったのだ。

 極端な例でいえばテロやクーデター、そこまでいかなくてもスキャンダルをした議員を引きずりおろしたり、不正をはたらいた企業に対して抗議運動をすることで、不正が正されることがある。また不正に対する抑制にもなる。

「自分勝手なことをすると俺はおまえを罰するぞ」という意思表示が悪意、早く言えば「なめられないようにする」ということだ。悪意を見せることで、将来的に自分が厚遇されるようになるわけだ。

 誰も悪意を行使しなければ権力者のやりたい放題になってしまう。



 だが、悪意は不正を正すために使われるとはかぎらない。

 人より優位に立った人は悪意を向けられやすいが、幸運によって優位を得た人よりも、実力で優位に立った人のほうが悪意を抱かれやすいという。宝くじで大金を得た人よりも、事業で成功して大金を手にした人のほうがねたまれやすいのだ。

 さらに、みんなのためにコストを払った人、つまり「気前のいいひと」にも悪意を向ける。

 人助けや親切な行動を罰するのは、実験として行なうゲームだけの話ではない。人類学に目を向ければ、狩りに成功し、部族の全員で分け合えるような大きな獲物を捕らえた者が非難される事例が見られる。(中略)
 では、なぜ気前のいい人に罰を与える人がいるのだろう? これは反支配的傾向が引き起こされるためと思われる。貢献が少ない人々は、より多く貢献している人々が有利な地位を得たと感じるだろう。寛大な行動をした協力的な人々は地位や評判を手にする。そして、こうした気前のいい人々は支配的になるかもしれないと恐れられてしまう。ヴォルテールが言ったように、最善は善の敵なのだ。
 生物学的市場理論の観点からも、これに関連した説明ができる。生物学的市場理論では、人間は協力相手に選ばれるために競争していると考えられている。選ばれるための方法の1つは、ほかの人々より親切で気前よくなることだ。一方、競争相手を見劣りさせるという戦略もある。善人ぶる者を妨害すれば、実は悪意を持っていても、自分を比較的善良(もしくは少なくとも実際よりは悪くなさそう)に見せられるかもしれない。
 こうした行動をとると、ケチで自尊心がないと見なされるリスクを冒すことになる。しかしながら、自分をより魅力的なパートナーに見せるために気前のいい人々を罰するという発想を裏付ける証拠が見つかっている。人間は他者が別のゲームのパートナー候補を物色していると感じると、自分たちよりも多く貢献した人々に悪意から罰を与える傾向が強くなるのだ。

「気前のいい人」はリーダーに選ばれやすいし、恋愛市場でもパートナーから選ばれやすい。だから周囲から悪意を向けられやすい。


 ふうむ。たしかに自分の周りのことを思い返しても、「いつもおごってくれる上司」って、慕われるどころか嫌われていることのほうが多い気がする。

「いつもおごってくれるなんて優しい人だ!」ではなく「こいつこんなに稼いでるのかよ。だったらこっちに分けろよ」という気持ちになる。
(おごってくれるから嫌いなのか、嫌われてるから好かれようとしておごれるのかわからないけど)

 気前よくふるまうと感謝されるどころか悪意を向けられるなんて……。だったらあんまり気前よくしないほうがいいな。



 この本で挙げられている“悪意”の事例ってよく見聞きしたり、自分自身も同じように感じたりすることだけど、意外とこういうことについて書かれた本って多くない。

 みんな「自分は悪意を抱えていて、隙あらば成功者や自分より人気のあるやつを引きずりおろしたいという気持ちを持っている」ことを認めたくないからね。だから“悪意”ってなかなか研究対象にしにくかったのかもしれない。どうしたって己の中にある醜い感情と向き合うことになるからね。


 ぼくもこの本を読んで、自分の中のイヤな感情と向き合ってしまった。いやあぼくってイヤなやつだよな。わざと歩きスマホをしてるやつの前を横切って歩きづらくさせたり、あとわざわざ●●をしたり■■なやつの邪魔をしたり……(自粛)。


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2026年6月22日月曜日

【読書感想文】高野 和明『グレイヴディッガー』 / 風呂敷を畳むのに失敗していろんなものがはみ出してしまった

グレイヴディッガー

高野 和明

内容(e-honより)
改心した悪党・八神は、骨髄ドナーとなって他人の命を救おうとしていた。だが移植を目前にして連続猟奇殺人事件が発生、巻き込まれた八神は白血病患者を救うべく、命がけの逃走を開始した。首都全域で繰り広げられる決死の追跡劇。謎の殺戮者、墓掘人の正体は?圧倒的なスピードで展開する傑作スリラー巨編。


 一年以上前に死んだはずなのにきれいな状態で発見された死体、異常な殺し方の連続殺人事件、「見えない炎で焼き殺された」焼死体、なぜか追われる主人公。

 前半は謎だらけだ。犯人もわからなければ被害者の正体もわからない。被害者に共通していたのは骨髄ドナー登録をしていたことだけ。犯人の人数も謎だし、殺しの動機もわからない。主人公・八神が追われる理由も、ワルの八神が「どうしても骨髄提供をしたい」と考えて必死に警察から逃げ回っている理由もわからない。

 うーん、謎が多すぎて何が何やら。

 中盤で、タイトルになっている“グレイヴディッガー”という言葉が出てくる。

 その聞き慣れない単語は、しかし確かな重量感をもって耳の奥で反響した。「グレイヴディッガー?」
「ええ。英語で、『墓掘人』の意味です。魔女迫害の機運がイングランドに及んだ頃、異端審問官たちが何者かによって虐殺されるという事件が起こりました。魔女裁判と同じ拷問の方法を使ってね。それに怖れをなした異端審問官たちが、魔女狩りを自粛したのではないかというのです。今となっては事件の真相は分かりません。しかし当時の人々は、拷問によって殺された男が墓の中から蘇り、自分を殺した者たちに復讐をしたのではないかと噂しました。そして、この蘇った死者を、『グレイヴディッガー』と呼んだのです」

 魔女狩りをしていた異端審問官たちを私刑に処していたのが“グレイヴディッガー”らしい。言ってみれば「『魔女狩り』狩り」。

 これによってすべての謎がつながって一気に真相に近づく……とはならない。どうやら犯人が“グレイヴディッガー”を模倣して犯行をしているらしいということだけはわかるが、一向に真相は見えてこない。

 ひたすら八神が追手から逃げまわっている姿だけが描写される。ついに捕まった、とおもったらまた逃げて、やっと捕まった、とおもったらまた逃げて、今度こそ捕まった、とおもったらまた逃げて……。

 しつこい。もういいって。逃避行自体が目的の作品ならそれでいいんだけど、謎解きがメインなので逃亡劇は冗長に感じる。逃亡劇がなくても成立する小説だったんじゃないかな。



 きれいな状態で見つかった死体、公安組織、骨髄ドナー、グレイヴディッガーという一見ばらばらに見える伏線が一本につながる手腕は見事。ただ要素が多すぎて荒唐無稽な印象も受ける。

“グレイヴディッガー”側も、“グレイヴディッガー”に狙われる側も、「その目的のためにそこまでやらんだろ……」という感じなんだよな。やってることの壮大さのわりに、目的がしょぼすぎる。

 逆トロッコ問題みたいな感じ。「1人を助けるために5人の命を奪う」みたいなことをやってる。そんなやついるか?

 犯行のスケールの大きさに動機が釣り合ってないように感じた。


 あと最終的に「あいつもこいつもお咎めなし」で決着したのも、なんか腑に落ちない。あんな都内各地で大騒動をくりひろげておいて、みんな無かったことになっちゃうの!?

 ということで、おもしろい小説ではあったんだけど、風呂敷を畳むのに失敗していろんなものがはみ出してしまった印象。遠い外国が舞台、とかのほうがまだすんなり読めたかも。


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【読書感想文】高野 和明『ジェノサイド』

パワーたっぷりのほら話/高野 和明『13階段』



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2026年6月15日月曜日

【読書感想文】鈴木 俊貴『僕には鳥の言葉がわかる』 / 情熱的で醒めた視点を持つ研究者

僕には鳥の言葉がわかる

鈴木 俊貴

内容(e-honより)
古代ギリシャ時代から現代まで、言葉を持つのは人間だけだと決めつけられてきた。しかし、シジュウカラたちは、それが間違いであることを教えてくれた。人間には人間の言葉があるように、鳥には鳥の言葉がある。シジュウカラは言葉を使って文を作る。世界を驚かせた研究者が綴る、大発見に至るまでの鳥愛あふれる研究の日々。


 少し前に、アリク・カーシェンバウム『まじめに動物の言語を考えてみた』という本を読んだ(→ 感想)。

 動物が音声を使って様々なコミュニケーションをとっていることを認めた上で、「とはいえ他の動物たちは人間の言葉に翻訳できるような言葉は持っていなさそうだ」といった論調だった(誤解を招きそうなので補足しておくと、人間が他の動物たちに比べて優れているとは書いていない。ただ異なると書いているだけだ)。


 それを読んだ後だったので、この『僕には鳥の言葉がわかる』というタイトルを見たときは「正確性を欠くタイトルだな。研究者としての知的誠実さが足りないのでは」と思っていた。

 そして読んでみた。

 いや、「鳥の言葉がわかる」という言葉は決して大げさじゃないな! もちろん「鳥の言葉を一対一で人間の言葉に翻訳できる」という意味ではないが、鳥の言葉を“わかる”ことは可能かもしれない。この場合の“わかる”とは、“理解する”というよりは“感じる”に近いけど……。



 シジュウカラのヒナが、親鳥の鳴き声によって異なる反応を見せることについて。

 夢中で観察しているといろいろなことに気がつくが、もっとも印象に残ったことはヒナの聞く耳の発達だ。この時期のヒナは、巣箱の外から聞こえてくる親鳥の声にも敏感に耳を傾けて、応じているようだった。
 たとえば、父親が近くで「ツツピーツツピー」とさえずると、「はやく餌を持ってきて」と言わんばかりに「ビビビ!」と激しく声を出す。すると、親も急いで巣箱の中に餌を運び入れるのだ。周囲から聞こえる様々な鳥の声のうち、自分の父親の声を覚えて、それにだけ餌を求めて鳴くのかもしれない。一体どうやって覚えたんだろうと不思議に思う。
 ある日、いつものようにカメラをつけて巣箱を観察していると、ハシブトガラスが近くの木までやってきた。ヒナは相変わらず「ビビビ!」と鳴いて、親に餌を求めている。「このままではマズいかも」と思った瞬間、「ピーツピ!」という親鳥の声が森に響いた。
 カラスに警戒して鳴いているのは明らかだ。この声は、人間やネコなど、他の動物が巣箱に近づいた時にもよく出すので、「警戒しろ!」という意味だろう。
 それと同時に、あることにも気がついた。先ほどまで騒がしかったヒナの声が聞こえないのだ。モニターで巣箱の中を確認すると、ヒナたちはググッとうずくまって静まり返っている。「そうか! ヒナは親鳥の声に対して静まることで、カラスに巣の場所を特定されないようにしてるんだ。それだけではない。もし、カラスが巣箱に気づいて嘴を突っ込んできたとしても、うずくまってさえいれば、つまみ出されずに済むだろう! なんて賢い方法なんだ」と僕は思った。
 親鳥はカラスがその場を去るまで警戒の声を出し続けた。そして、ヒナたちもずっとうずくまったまま、ひと声も発さず静かにしていた。

 ヒナたちは親鳥が近づくと餌をねだる声を出すが、親鳥が警戒音を出すと、鳴くのを辞めて巣の中でうずくまるという。

「じっとしろ!」というメッセージを伝えることに成功しているので、これは言語といってもいいのではないだろうか。最も人間が使う「じっとしろ!」とはまったく同じではないけれど。

 人間の「じっとしろ!」は敵に見つかりそうなときも、逆に獲物に気づかれないようにするときにも、朝礼で落ち着きのない生徒を叱るときにも使えるが、おそらくシジュウカラの「ピーツピ!」にそこまでの汎用性はない(どっちが優れているということはない)。



 カラスが巣に接近したときには「ピーツピ!」と鳴くシジュウカラは、ヘビが接近したときには「ジャージャー」という声で鳴く。

 そして「ピーツピ!」を聞いたヒナは、カラスから身を守るために巣の中でじっとするのに対し、「ジャージャー」を聞くと親鳥は地面を見下ろす。さらにヒナは巣箱から飛び立つ。

「ピーツピ!」のときは対カラスの行動(カラスが巣箱にクチバシを突っ込んでもつつかれないようにうずくまる)を取るのに対し、「ジャージャー」のときは対ヘビの行動(飛んで逃げる)をおこなう。異なる刺激に対して異なる音を出し、異なる音に対して異なる行動をアウトプットする。これは……言語だ。

 さらに著者は、枝に紐をつけて動かす実験をすることで、「ジャージャー」を聞いた後ではシジュウカラが枝をヘビと見間違うのに対し、音がない場合は見間違えないことを確かめる。

 そして二〇一七年五月、ようやく僕はすべての実験を終えた。気がつくと、実験を始めてから四年の月日が流れていた。結果はとてもクリアなものだった。八十四羽のシジュウカラからデータを得たが、本当予想通りの結果が得られた。
 ここまできて、ようやくシジュウカラの鳴き声にも“言葉”があると証明できた。「ジャージャー」という声を聞いたシジュウカラは、頭にヘビのイメージを思い描き、それを用いて視界の中からヘビのようなものを探す。だから、ヘビのような動きをする枝を、ヘビと見間違えて確認してしまうのだ。つまり、「ジャージャー」はヘビを示す"名詞"のようなものだといえる。
 これはすごい発見である! それまでにも、多くの動物学者がベルベットモンキーやミーアキャット、プレーリードッグ、ハンドウイルカなどの鳴き声を調べてきた。しかし、ある鳴き声が内的な感情ではなく、外的な対象物を指示し、聞き手にそのイメージを想起させることを明らかにした例は一つもなかった。僕の研究が、初めてそれを証明したのである。

 このあたりの実験の設計がすごくうまくて、実験の詳細を見ているだけでわくわくする。


 もしぼくが研究者だったら「カラスとヘビが近づいた時では異なる声を出して、異なる反応を見せる」と気づいた時点で「シジュウカラは敵によって言語を使い分けてる! まちがいない! やったぜ、オレすげー!」と発表しちゃうとおもうんだけど、鈴木俊貴さんはそこから数々の反論を想定して、その反論に負けないための実験をデザインしている。これがプロの研究者かー。

 研究者というと好きなことに対してまっしぐらな人、というイメージだけど、一流の研究者は情熱だけでなく醒めた視点も併せ持っているんだな。



 シジュウカラの“言語”はシジュウカラだけでなく、他の鳥も理解できるらしい。

 シジュウカラの鳴き声を聞いて他種の鳥が逃げたり、逆に他種の鳥の鳴き声を聞いてシジュウカラが警戒を強めたり。多種多様な鳥が協力して警戒に当たったほうが天敵から逃れる確率は上がるからだ。

 さらにそれを逆手にとって他の鳥を騙すことさえするというから驚きだ。

 たとえば、シジュウカラがタカを見つけて「ヒヒヒ」と鳴けば周りにいるコガラやヤマガラは一斉に藪に逃げ入るし、餌を見つけて「ヂヂヂヂ」と鳴けば、次から次へと集まってくる。反対に、シジュウカラもコガラやヤマガラの言葉を理解できる。森の中の小鳥たちは、周りに棲んでいるいくつもの鳥の言葉の意味を学習し、天敵から身を守ったり、食べ物を見つけるために役立てているのである。バイリンガルどころではない。“鳥リンガル”だ。
 たまに嘘をつくことだってある。たとえば、シジュウカラは、自分より体の大きなヤマガラやゴジュウカラが餌場を独占していると、「ヒヒヒ」とタカが来た時の声で警報を出すことがある。実は空にタカなんていないのに、そう鳴くのだ。すると、大きな鳥はまんまと騙され、藪に逃げ入る。その隙にシジュウカラは餌をゲットできるというわけだ。僕もしょっちゅう騙されるが、騙し騙される関係も、他種の言葉がわかるからこそ成り立つものだ。

 人間のように「嘘の情報を流して追い払ってやろう」と考えているわけではないだろうが、結果的には誤情報によって他個体の行動を操作しているわけでから、“嘘をつく”といっても大きな間違いではあるまい。


「鳥の言葉」と言ってしまうと誤解を招くかもしれないけれど、シジュウカラなどの鳥が部分的には人間と同等、あるいはそれ以上に高度なコミュニケーションをとっていることは間違いなさそうだ。

 研究内容もおもしろいし、文章も親しみやすいし、選んでいるトピックスもほどよく初心者向け、ほどよく専門的で、すごくよくできた本でした。


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小ネタ51(かけ算の順序 / コンビ名 / 効率)

かけ算の順序

「かけ算は(かけられる数)×(かける数)の順序でなければならない」という順番気にしいや派(シーヤ派、転じてシーア派)と「いや順番が逆でも数学的に問題はない」の順番気にすんな派(スンナ派、転じてスンニ派)の抗争は収まることがなく、すでに争いは泥沼化している。

 問題文にいちいち「※ただし、かけられる数を先に書くこと」と注釈をつければ一応両方の顔は立つが、それでも「何をかけられる数とするか」という抗争が生まれるだけだろう(4人にりんごを3個ずつ配る場合、3個/人×4人としてもいいし、4個/周×3周と考えることもできる)。

 戦争は始めるよりも終わらせるほうがはるかにむずかしい。


コンビ名

 個人的に好きなコンビ名のひとつが“メイプル超合金”だ。

 ただ単語を並べただけのように見えるが、コンビのそれぞれを見てみると、ちゃんとメイプル(シロップ)を好きそうな人と超合金を好きそうな人だ。どっちがメイプルでどっちが超合金だとおもう? と訊いたら、99%の人の答えは一致するだろう。


効率

「ダイエットしようとウォーキングをすることにした。数ヶ月やったけどぜんぜん痩せない。ウォーキングは効率が悪い」と書いている人がいた。

 それって効率が悪いんじゃなくて「エネルギー効率がいい」じゃないかと思った。時間あたりのエネルギー消費量が少ないのだから燃費がいい。

 ダイエットとしては効率が悪いけど、エネルギーの観点では効率がいい。

 お金がありあまっていてなんとかして使い果たしたい人からすると「読書は(浪費する上で)不経済だ。ギャンブルは短い時間でたくさん使うことができるから(浪費する上で)経済的だ」ということになる。



2026年6月12日金曜日

【読書感想文】岸本 佐知子『あれは何だったんだろう』 / 私の中に住んでいるホームレスのおじさん

あれは何だったんだろう

岸本 佐知子

内容(e-honより)
日常は不思議、不思議が日常。虚実のへだてを乗り越えてどこにも行かずにどこまでも行く。翻訳家のささやかな大冒険はつづく。お待ちかね、『ねにもつタイプ』第四弾!

 ぼくがいちばんおもしろいと思っているエッセイの書き手(本業は翻訳家)による待望の新作。


 第四弾だが岸本さんのエッセイのおもしろさはちっとも鈍っていない。むしろ円熟味を増している。

 ○月○日
 AさんからのメールをBさんに転送しようとして、間違ってAさんに返信してしまうというヘマをする。しかも「こんなの来たけど、どうする?」というコメントつきで。「穴があったら入りたいです」とAさんに詫びのメールをしてしばらくしてから、だんだんとその穴のことが気になりだす。
 それってどんな穴だろう。人ひとりが中でうずくまれるぐらいとなると、やはり直径七十センチ、深さ一メートルぐらいは必要だろうか。
 蓋もあったほうがいい気がする。外光を遮断したほうが反省の機運が高まるし、人が落ちたりしたら危険だ。
 内部の材質とかも気になる。冬はフリース素材にしてあたたかく、夏は通気性よくさらりとした麻素材。
 そうなってくると、意外と居心地がいいんじゃないか、この穴。
 ましてや穴を出れば、そこは自分がしでかしたヘマの恥が待ち受ける元の世界なのだ。自分だったらそのまま穴に住みつくだろう。
 そう考える人は他にもいて、穴人口はどんどん増えていく。だんだん穴と穴がつながって人の行き来がはじまり、経済が生まれ、地下に巨大な穴帝国ができあがり、ついには穴世界の人口が外の世界のそれを凌駕する日がやってくる。そのとき世界は。
 などと考えているうちに年が明ける。

 これぞ岸本佐知子氏エッセイ(エッセイか?)の真骨頂。

 身辺雑記からいつの間にか空想の世界に連れていかれ、空想が空想を呼び、空想世界に秩序が生まれる。あんなに狭い入口だったのにこんなに広い世界につながっているなんて。

 岸本さんのエッセイを読むたびに、エッセイってこんなに自由なものだったのかと感心する。



 めずらしく(?)翻訳家ならではの話も。

 May you grow like an Onion with your head in the ground ! (お前が頭を地面にめりこませて、タマネギみたいに逆さに生えますように!)
 調べてみたら、これはイディッシュ語の有名なののしり文句で、一言でいえば「くたばれ」となるところを、わざわざこういう回りくどい、ちょっと笑える言い方をしているところがいかにもユダヤ流だ。
 さらにもっと調べてみると、イディッシュ語はどうやらこの手のののしりフレーズの宝庫であるらしく、
――お前の歯が一本だけ残して全部抜けますように、そしてその一本が虫歯になりますように!
――お前がうんと金持ちになって、お前の寡婦の新しい夫が一日も働かなくて済みますように!
――お前が百軒の家を持ち、その一軒ごとに百の部屋があり、その部屋ごとに二十の寝台があり、お前が高熱に苦しんでその寝台を転々としますように!
――お前が百足になって、全部の足が巻き爪になりますように!
――お前が悠々自適の身分になって毎日昼寝をしているあいだに、お前のシャツのシラミとマットレスのトコジラミが結婚して、子々孫々がお前のパンツの中で繁栄しますように!
などの古典から、新しいところでは
――お前が億万長者になること間違いなしの素晴らしい企画書を書きあげた瞬間にパソコンがクラッシュしますように!
 みたいなのまで、枚挙に暇がない。
 英語にも、たとえば May you step on a Lego bare foot ! (お前が裸足でレゴ踏んづけますように!)のようなのがあるが、じゃあ日本語はどうなんだろう。「タンスの角に小指ぶつけろ」ぐらいか。でも足りない。「死ね」とか「くたばれ」とか「ぶっ殺す」みたいな直截的で殺伐としたのじゃない、皮肉で辛辣なんだけれどどこか可愛くて、それゆえに決定的な殺し合いは回避できる、そんな今の日本に何より必要なはずのののしりフレーズが、圧倒的に足りない。
 私か。私が考えるしかないのか。

 ただの罵り言葉ではなく、一度祝福の言葉をかけてから呪ったりするのがウィットに富んでいておもしろい。

「お前がうんと金持ちになって、お前の寡婦の新しい夫が一日も働かなくて済みますように!」なんて、一瞬悪口を言われたと気づかないもんな。そのときは「ああどうも」なんて言って、後から「よくよく考えたらめちゃくちゃひどい言葉ぶつけられてるじゃねえか」と気づくやつだ。

 日本語の定番の言い回しだと「豆腐の角に頭をぶつけて死んじまえ」が近いかな。でも「死ね」って言っちゃってるしなー。



 わりと共感できる話。

 今年もまた冬が来た。
 冬は嫌いだ。寒いからだ。
 冬は寒いというその事実を、何年たっても受け入れることができない。
 ときおり、冷え込みのきびしい日にやむを得ず外に出なければならないことがある。地面からしんしんと冷気が上がってきて、頭皮、顔、手、外気に触れているすべてが冷たい。そんなとき、体のどこかから声がする。
〈ああ、これではこの冬はとても越せん〉
 私の声ではない。初老の、しわがれた、男の声。私の中に住んでいるホームレスのおじさんの声だ。
 いつごろから住み着いたのかはわからない。もうかれこれ二十年にはなると思う。この人のせいで、私はつねにホームレス目線で世界を見てしまう。
 街を歩いていても、植え込みや、ビルとビルの隙間や、駅構内のちょっと奥まったスペースなどに自然と目が行く。
〈あそこなんか、風が防げて暖かそうだな〉
〈おっ、あの段ボール、いい具合に厚みがあるぞ〉
 寒い外から家の中に入ると、
〈ああ、ありがてえありがてえ、屋根があるってのはいいもんだ〉
 このおじさんは極度の寒がりであるらしく、現れるのはもっぱら冬だ。温かくなるとぱったり声が聞こえなくなり、そうするとちょっと寂しい。

 これはぼくもけっこう考える。街を歩きながら、自分がホームレスだったら、野宿をするなら、どこに寝るだろうかと考える。地下街とかにちょっとした隙間を見つけると「おお、ここなら安心して寝られそうだな。あとはどうやって警備員の巡回をやりすごすかだよな……」とか考えてしまう。

 他にもこんなこと考えてる人いたのかー。もしかしてわりとポピュラーな妄想なのかな。



 アピヨンポンポンについて。

 年とともにだんだんと、「アピヨンポンポン」は私ひとりが知らない、そしてそのためにいろんな場面で人生に不具合を起こさせるものの象徴のようになっていった。親しい友人たちの会合に一人だけ呼ばれなくなったのはアピヨンポンポン。私が気に入った商品が必ず廃番になるのはアピヨンポンポン。いくら考えてもわからない、この英文もアピヨンポンポン。
 自分には永遠に謎の、それゆえに美しいものの代名詞のようにそれを使うことさえある。あの映画はアピヨンポンポンみたいに良かったな、とか、この料理はアピヨンポンポンの味がする、とか。

 アピヨンポンポンが何なのか、それはぜひこの本でお確かめください。


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【読書感想文】これまで言語化してこなかった感情/岸本 佐知子『なんらかの事情』



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【読書感想文】山本 健人『すばらしい人体 あなたの体をめぐる知的冒険』 / 血液型は知っていてもしょうがない

すばらしい人体

あなたの体をめぐる知的冒険

山本 健人

内容(e-honより)
外科医が語る驚くべき人体のしくみ。唾液はどこから出ているのか?、目の動きをコントロールする不思議な力、人が死ぬ最大の要因、おならは何でできているか?、「深部感覚」はすごい…ブログ累計1000万PV超、Twitterフォロワー8万人超著者による人体&医学入門。

 医師による医学入門書。

 第1章は人体の雑学、第2章は病気になる理由、第3章は医学の歴史でこのへんはちょっと教科書っぽい。第4章は医療雑学で、第5章は現代医学の紹介。

 冒頭におもしろ雑学を持ってきてツカみ、中盤はちょっと堅めの話で、飽きてきたころに血液型や食中毒など身近な話。 で、最後はまた雑学的な話。構成がうまい。


 語り口も見事で、
「肛門はやってきた物体が固体か液体か気体かを判断して気体のときのみ通すというすごい判断をやっている」
なんてちょっとビロウな話で、とっつきにくさを感じさせない。さすがネットで人気になっている(ぼくは知らなかったけど)人だね。



 食物アレルギーについて。

 なぜ、経口免疫寛容がうまく働かなくなるのだろうか? 何がきっかけで、本来無害な相手を敵と見なすようになるのだろうか?
 その原因として、近年は「経皮感作」という現象が明らかになっている。
 昔から、アトピー性皮膚炎のある子どもは食物アレルギーを起こしやすい、という事実はよく知られていた。以前は、いわゆる「アレルギー体質(素因)」によるものと考えられていた。だが近年は、バリア機能が破綻した皮膚で、経皮感作が起こりやすいことが原因だと考えられるようになった。
 つまり、私たちの免疫は、どうやら「口から入ったもの」には寛容になり、「皮膚のバリアを突破して侵入したもの」は異物と見なすようなのだ。そして食物アレルギーは、周囲の環境にある食べものが、皮膚を通して「異物」という記憶を植えつけてしまうことで起こると考えられている。
 まだ謎の多い食物アレルギーだが、研究が進むにつれ、その一端が徐々に明らかにされつつあるのだ。

 へえ。口からではなく皮膚から身体に入ってきたものに対してアレルギー反応を起こしやすいのか(それが原因のすべてではないらしいが)。

 たしかに「皮膚から異物が入ってくるものは基本的に悪いものなので追い出す」「口から入ってきたものは基本的にはいいものなので許す」ってのは確率的にはいいやりかただよね(たまには有害なものも口から入ってくるけど)。


 職業性アレルギーというのを聞いたことがある。たとえばパン職人が、長年パンを作っているうちに小麦アレルギーになってしまう、といったケースだ。これも経皮感作によるものなのかもしれない。

 逆に、漆塗りの職人は漆をなめることによって漆にかぶれないよう耐性をつけていたのだとか(今はあんまりやらないらしい)。

 


 日本人の大好きな血液型について。

 では、私たちが記載する血液型情報は、一体何に使われるのだろうか?
 もしかすると、怪我などをして輸血が必要になった際に役立つ、と思ったかもしれないが、それは誤りだ。
 輸血前には、必ず血液検査で血液型を確認するからである。病院によって異なるが、一般に血液型の検査結果は数十分で得られる。さらに、患者の血液と血液製剤の一部を混ぜてみて有害な反応が起こらないかを見る「クロスマッチ試験(交差適合試験)」も輸血前に必ず行う。
 これは、もし本人が「私はA型です」と主張しても決して省略しない。同じ病院で以前血液検査を受けたことがある人で、血液型が確実にわかっている場合でも、クロスマッチ試験は必ず行う(術前検査など一部の例外は除く)。

(中略)

 では、血液型がわからない患者に大出血が起き、血液型検査をする余裕もないくらいの緊急事態だったらどうするだろうか?このときばかりは仕方なく本人の自己申告を信じるだろうか?
 もちろん、それもありえない。この場合は、やむを得ずO型の血液製剤を用いる。相手が何型でも重篤な反応が起こらない可能性が高いからだ。たとえ緊急事態であっても、やはり自己申告の血液型情報を利用することはないのである。
 近年は、こうした事情から出生時に血液型検査をしない医療機関も多い。これを読んでいるあなたも自分の子の血液型を知らないかもしれないが、心配ご無用である。

 へえ。自分の血液型を知っていても何の役にも立たないんだ。緊急の場合であっても自己申告に基づいて輸血をすることはないのか。

 そういや最近は病院の問診票とかでも書かないかも。うちの子が生まれたときも病院から血液型を教えてもらえなかったな(だから今も知らない)。


 あと何十年かしたら自分の血液型を知らない日本人が大半になって、血液型占いは完全になくなるかもね(今でもだいぶ廃れているけど)。

 ええこっちゃ。



 医師の技術について。

 かつてはすべて人間が手で縫っていたのだが、近年は多くを器械に任せられるようになった。たとえるなら、裁縫道具を使って手で布を縫うことと、ミシンを使うことの差に相当するだろう。手術用の自動縫合器を使うと、ホチキスの針のような金属製のステープルが細かい間隔で走り、あっという間に縫うことができるのだ。
 もちろん今でも手縫いが必要な場面はある。だが、便利なデバイスの導入によって、時代とともに、より安全かつ均質な治療が提供できるようになってきたのだ。
 医療ドラマなどのエンタメで手術が扱われるときは、たいていカリスマ的な一人の天才にスポットが当たる。確かに、誰も真似できない技術を持つゴッドハンドは、人間ドラマを大いに盛り上げてくれるものだ。
 だが、手術を受ける身になってみれば話は別である。全国どこでも同じ水準の手術が受けられるほうが、よほどありがたいはずだ。「誰にも真似できない技術」よりは、「誰でも真似できる技術」が普及するほうが、多くの人に利益をもたらす。利便性の高いデバイスは、こうした技術の普及に大いに役立っているのである。

 医療器具はどんどん進歩していて、個人の技術による差は昔ほど重要ではなくなっているそうだ。だいたいどの分野でもそうだね。職人を育成するよりも、道具やシステムによって「誰でも一定の水準の成果を出せる」方向に進んでいる。


 そういや『天久鷹央の推理カルテ』という小説がいま人気なんだけど、この小説に出てくる天才医師・天久鷹央は、症状や患者の様子やデータから診断を下すプロで、自分自身では一切治療をおこなわない(不器用なので手術などはできないという設定)。

 時代を映している「天才医師」と言えるかもしれない。

 フィクションにおける天才医師といえばブラック・ジャックだが(無免許なので厳密には医師でないのかもしれないけど)、ブラック・ジャックはどちらかといえば執刀のプロだ。一匹狼なので診断も自分でおこなうが、診断はけっこうまちがえたり迷ったりしている。

 器具や治療環境が充実していない時代ではブラック・ジャックのような手先の器用な人が天才医師とされたけど、現代の総合病院においてはブラック・ジャックよりも適切な診断を下せる天久鷹央のような人のほうが求められるのかもしれない。

 現代建築では、凄腕大工よりも全体を見るのに長けている現場監督のほうが重宝されるように。


 ただし「データから診断を下す」という行為はAIが最も得意とする分野なので、今後は天久鷹央のような「診断のプロ」もあまり必要とされなくなって、結局「親身になって話を聞いてくれる、人あたりの良さ」みたいなものが最も医師に求められる資質になってくるかもしれない(ちなみにブラック・ジャックも天久鷹央も真逆のタイプだ)。


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2026年6月11日木曜日

【芸能鑑賞】『シークレットNGハウス シーズン2』



 シークレットNGハウス
シーズン2

(AmazonPrime)

 大まかなルールは前作と同じ。

 8人のプレイヤーが集められる。「○○してはいけない」「××と言ってはいけない」といったNGルールが課せられるが、プレイヤーはそれが何なのかは知らされない。

 NGが多かったプレイヤーから徐々に脱落していく。NGが発生したときに鳴るブザーを頼りにNGを回避し、同時に他プレイヤーをNG行動へ誘導する。最後まで残ったプレイヤーが見事賞金を獲得する……というルール。


 シーズン1よりルールは洗練されていたものの、パワーダウンした印象。特に終盤がひどかった。

 やっぱりルールの細かいところが甘いのと、MC陣の出番が減ったことが最大の敗因だろうね。


良かった点

 まずシーズン1に続きメンバーのバランスが良かった。妙に察しのいい人、逆にひとりだけNGに気づかない人、天真爛漫な人、テンパってわけのわからないことを口走る人、攻めるのが下手すぎて他のメンバーにヒントを与えてしまう人……。タイプの異なる人たちがバランスよく配置されていて、様々なドラマを生んでいた。賢い人ばかりでは息苦しいし、バカばっかりでもつまらないしね。

 あと「最初のステージでは誰も脱落しない(与えられたNGは第2ステージへとくりこし)」としたのもいい。前回はなにがなんだかわからない状態でほとんど見せ場のないまま脱落しちゃった人がいたからね。


お題が良くない

 シーズン1では、序盤は「とにかくしゃべらない」が最善の策だった。

 なので、だんまり対策だろう、シーズン2では、クイズ番組、ゲームセンター、記者会見といった舞台を用意して、しゃべらざるをえない状況にしていた。

 それは良かったのだが、今作はお題が良くなかった。舞台にあっていない。たとえばゲームセンターでは「店員に文句を言う」がNGだったが、だったらあの店員じゃだめでしょ。ウザキャラだったり横暴だったり抜けてたりして、文句を言いたくなる人じゃないと。そもそも「ツッコミを入れる」ってバラエティでは場を盛り上げる行為だからね。それをNGにしたら、盛り上げてくれる人から先にいなくなっちゃうじゃん。

 案の定、番組を盛り上げることに貢献してくれた人から退場してしまい、後半は楽しい雰囲気が減ってしまった。


 シーズン1ではMCが状況を見てNGを決めていたけど、ぜったいにそっちのほうがいい(NG判定するスタッフは大変だろうけど)。

「カタカナ語禁止」も無茶苦茶だった。擬態語もNGにされてたし。うちの子の小学校の国語の教科書には「音をあらわす言葉(擬音語)は通常カタカナ、様子や心理を表す言葉(擬態語)は通常ひらがなで表記します」って書いてあったよ。

「わくわく」がカタカナ語とされてNGになったのは納得いかない。「湧く」に由来する生粋の日本語でしょ。その一方で「タラバガニ」はセーフってどういうことよ。スタッフ全員「たらばがに」って聞いて「鱈場蟹」を思い浮かべるのかよ。

「外来語(通常漢字表記しないもの)禁止」ぐらいにしとけばよかったのに。


「MCに対する敬語禁止」もひどかったなあ。「よろしくお願いします」がNGにされてたけど、あれはその場にいるすべての人への挨拶だしなあ。

 だいたいふだんから若林さんに敬語を使わない人(春日さん)に有利すぎるし。


 記者会見は、先に質問に答える人が圧倒的に不利になってしまう(後の人はそれを観ながらNGを推測できるので)。

 それ自体がダメなわけではなく、「現在のNG数が少ない人から順に指名する」とすればゲームバランスをとる有効な手段になったのに、「NG数が多い人が狙い撃ちにされる」というやりかたをしていた。逆だろー。


新ルールが機能していない

 シーズン1の感想でぼくは「一切の会話を拒否して、ときどき意味不明な奇声を発する」が最強の戦略になってしまう、と書いた。

 そうした行動への対策だろう、シーズン2ではイエローカードおよびレッドカードという新ルールが追加された(結局イエローカードは一度も発動しなかったが)。消極的な言動に対してはMC判断でペナルティが追加される、というルールだ。

 おお、ちゃんと改善してるじゃないか! とおもったのだが……。

 これがひどかった。

 レッドカードが激甘。レッドカードというからには退場かそれに近い処分を期待したのに、レッドカード=NG1つ加算、ってなんじゃそりゃ。一人がダンマリを決めこんでいる間に他のプレイヤーのNGが5個も6個も加算されてるのに、黙っていることの罰則がNG1個ってそれペナルティになってないじゃん。だったらレッドカードもらったほうがいい。最低でも「その時点でのNG最多数に並ぶ」ぐらいの罰じゃなきゃ意味がない。


ファイナルステージがつまんなかった

 ファイナルステージだけルールが異なり、「3名のプレイヤーはそれぞれ1つずつ(場合によっては2つ)NGを知っている。他のプレイヤーにそのNGを踏ませることができれば+1ポイント。自分自身がNGを踏んだときや、(導かれたのではなく)偶然NGを踏んだときはノーカウント」だった。また、NGは数分ごとに入れ替わる。

 これが良くなかった。

 推理の楽しみがまったくない。どうせ数分でNGが失効するんだから、自分だけが知っているNGがバレてもいいから強引に他のプレイヤーをNGに導けばいい。

 実際、終盤はどのプレイヤーもかなり強引な手段でポイントを稼いでいた。「追いかける」というNGカードを引いた人が、「ちょっとこっちへ」と他プレイヤーを歩かせて1ポイント、とか。それは「追いかける」じゃなくて「ついていく」または「連れだって歩く」だろう。判定がむちゃくちゃ。


「NG行為をしたとしても誘導されて発動したものでなければノーカウント」というルールも悪い方に出ていた。だってそれだと「他人の言動にリアクションをとらずにひたすらしゃべりつづける」をやれば無敵じゃん。他人のNGワードを言ってしまったとしても、自分が勝手に言っただけだからノーカウントなんだし。消極的じゃないからレッドカードも食らわないし。コミュニケーションをとらない人が有利になるルール。

 ラストは推理も心理戦もへったくれもなく「たまたまNGを踏んでしまったプレイヤーが負ける」という運ゲーになってしまった。

 シリーズ通していちばんつまらなかったのが今作のファイナルステージ。MCが仕切っていればもうちょっとマシだったんだろうけど。


総括

 シーズン1に比べればルールの改善の跡は見られた。でも跡が見えただけで改善はしていなかった。

 シーズン1は今作以上にルールに欠陥が多かったけどおもしろかった。それは幸運に助けられた部分もあるし、なにより出演者たちの「よくわからないゲームだからおもしろくなるかどうかは自分たちのがんばり次第。みんなで協力して盛り上げよう」という意思があったようにおもう。

 シーズン2では、明らかに番組の盛り上がりよりも自分の勝利を優先している人がいて、しかもその人が勝ち進んでしまったから後半に行くほどつまらなくなってしまった(その人が悪いのではなくそれを許してしまうルールが悪いんだけど)。

 つまんない人を残したらちゃんとつまんなくなる、ということがわかったことがシーズン2の最大の収穫かもね。次回作では改善してくれー。


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2026年6月9日火曜日

【読書感想文】朝日新聞「志布志事件」取材班『虚罪 ドキュメント志布志事件』 / 鹿児島県警によって捏造された事件

虚罪

ドキュメント志布志事件

朝日新聞「志布志事件」取材班

内容(e-honより)
前代未聞の捜査権力による「でっち上げ事件」はなぜ起こったのか。捜査内部の「情報提供者」の協力を得て、朝日新聞鹿児島総局の報道が捜査当局を追いつめる過程を詳細に報告し、元被告たちの苦悩の日々を追う。裁判員制度が始まろうとする今、まさに必読の書。

 2009年刊行。

 2003年の鹿児島県議会選挙で、自民党所属の現職議員3名の間に割って入るような形で新人が立候補し、見事当選。ところがその陣営が住民に現金や物品などを配ったとして、15名が逮捕・起訴され、厳しい取り調べを受けた。

 ところがこの容疑自体が県警の捏造であり、真っ赤な嘘だった。裁判においては全被告人の無罪が言い渡された。

 ここのところ全国で冤罪事件が相次いでいるが、この志布志事件は、その中でも極めて異常といえる。多くの冤罪事件は、事件そのものは存在し、警察が間違って容疑者を捕まえたケースだ。もちろんそれも許されないことである。だが、今回は、事件そのものを警察がでっち上げ、一三人の無実の人を容疑者に仕立て上げ、起訴したものだ。「冤罪」というより、いわば「警察の犯罪」と言える。
 起訴事実となった買収会合そのものが存在しなかったのである。誤って無実の人を逮捕、起訴したのではない。捜査権力がなかったことをあったとして無実の人の「罪」を問うたのだ。このようなことが、二一世紀になった現代でも実際にあるということに、驚くとともに、恐ろしさを感じずにはいられなかった。

 とんでもない事件だ。

 たとえば「他殺死体が見つかった。捜査を進めた結果、有力な容疑者が浮かびあがったので逮捕して起訴した。だが裁判の結果、無罪になった」というケース。冤罪事件だ。決して許されることではないが、これを100%防ぐことはできないだろう。人間誰しもミスは犯す(100%防ぐためには、ちょっとでも疑いが残る場合はすべて放免するしかない)。

 だが志布志事件は、このような冤罪とはちがう。鹿児島県警による事件の捏造である。本来なら存在しない事件だったのだ。間違えたのではなく、でっちあげられた事件だったのだ。まさに“虚罪”だ。

 警察が事件をでっちあげるのなら、もうなんでもありだ。どんなに品行方正な人だって、警察が気に食わなければ逮捕することができてしまうのだ。

「まちがって真犯人でない人を逮捕した」なら真犯人を見つければ無実が証明されるが、そもそも存在しなかった事件で逮捕された場合、身の潔白を証明するのは至難の業だろう。



 なぜこのような事件が起きたのか。

 警察が調べていないのではっきりした事情は判明していないが(そもそも調べないことがおかしな話なのだが鹿児島県警はそういう組織なのだ)、かぎりなく疑わしいのは、この事件によってくりあげ当選したP県議と県警の関係だ。

 実はP県議とX警部は、県警関係者の間では「親子同然の仲」と呼ばれていた。県警の内部関係者によると、二人の関係の親密度は県警も認知していた。かつて、県議会の正副議長選をめぐる贈収賄容疑でP県議が逮捕されたときには、二課の捜査員だったX警部を、県警は事件の捜査から外したという。ある県議会関係者は言う。「無投票だったらP県議は引退し、息子に地盤を譲るつもりだった。中山の立候補で計算が狂った」。P県議周辺で、中山さんの出馬に対する不満がくすぶり始めたのではとみる。

 県警の警部と県議が親密な仲だった。県議が選挙で落選した。あいつが立候補しなければ当選してたのに。で、その県議と応援者たちを逮捕。誰が見たってそういう構図だろう。だが県警はそれを認めない。とんでもなく異常な組織だ。



 事件自体も異常なのだが、もっと異常なのだが志布志事件が鹿児島県警の捏造だと判明した後の県警や地検の対応。

 久我本部長が会見すべきではないかと問われると、岩井田刑事部長は紅潮した表情で「執務時間なので本部長室で執務をしている」などと答えた。
 捜査を指揮した当時のQ志布志署長の責任については「(責任は)負っているが、二月末で退職したのでもう身分がない」と述べた。
 この日、警察庁は、当時の県警本部長だった稲葉一次・関東管区警察局総務部長に対し、長官が文書で厳重注意した。ただし、国家公務員法上の懲戒処分ではなく、業務上の指導。だが、長官自らが文書で行うのは異例という。漆間巌警察庁長官は同日の記者会見で「全体を見渡して指揮するのが本部長の役割。事件を見極めて引くなら引く、更に詰めが必要なら詰めるよう言える資質がないと失格だ」と語った。
 二〇〇七年六月二九日の久我本部長の定例会見では、志布志事件の処分についてのやりとりがあった。一二人全員が無罪となったこの事件の捜査をめぐる内部調査(後述)で、「(処分済みの「踏み字」事件をのぞけば)現時点で懲戒処分として取り上げるべき事由は把握していない」と述べた。三日前にあった接見交通権をめぐる国家賠償請求訴訟の口頭弁論で、当時の捜査幹部が、事件を指揮したX警部が捜査報告書を改ざんしたことを証言したが、X警部の行為も懲戒事由にあたらないとの見方を示した。清水警務部長は捜査報告書の改ざんについて、「係争中の裁判の具体的な証言内容についてのコメントは控える」とした。
 また、一二人の被告全員の無罪が確定したことを受けての責任の取り方を問われ、本部長ら幹部にボーナスを返上する考えがないことも示した。岩井田刑事部長は「判決は重く受け止めている」と断った上で、「法律違反があったというような判決内容ではない」と説明。ほかの県警での事例を踏まえて判断したとした。
 結局、この事件の処分は、捜査をした当時の本部長の稲葉一次関東管区警察局総務部長が警察庁長官名の文書での厳重注意。捜査の指揮をとったX警部と当時の志布志署生活安全刑事課長の二人が県警による口頭での厳重注意だった。しかし、X警部とともに捜査を指揮したQ志布志署長に対しては、二〇〇七年二月二六日付で退職したことを理由に県警は責任を問わず、退職金は規程通り払われた。しかも、X警部らへの口頭での厳重注意は、「職務上の注意」で、正式な処分ではない。

 当時の署長は注意を受けただけ。退職金を満額受け取って退職している。さらに警部や捜査主任は訓戒。要するに口頭注意で、「気を付けてね」で済まされている。

 担当警部補は3ヶ月の減給を受け、後に特別公務員暴行凌辱罪で執行猶予付きの有罪判決が下っているが、これは「取り調べの手段が適切でなかった」という理由の処分であり、「そもそも事件が捏造だった」ことの責任は誰もとっていないのだ(そしていちばん悪いのは取り調べにあたった警部補ではなくもっと上の人間だろう)。

 なんちゅう組織だ。



 事件の捏造が起きたのはもちろん悪いことだが、それが捏造だと判明した後も保身と組織の擁護に終始し、反省・改善を見せない鹿児島県警。

 反省がないのだからまた同じようなことをくりかえす。

 案の定、その後も鹿児島県警では不祥事が相次いでいる。個々の警察官による不祥事を隠蔽しようとしただけでなく、内部告発した勇気ある警察官を国家公務員法(守秘義務)違反で逮捕するなど、組織的なひどい動きは続いている。

Wikipedia:鹿児島県警内部告発事件

 こちらはまだ公判が始まってもいない。

 はたして骨の髄まで腐敗しきった鹿児島県警や鹿児島地検がまともになる日は来るのか。残念ながらあまり期待できない。


 ところで……。

 志布志事件の無罪判決が出たのが2007年の2ケ月。そのわずか4ヶ月後の6月に、くりあげ当選した県議が真夜中の交通事故で急死したそうだ。

 えっ、なにそれ。めちゃくちゃ怖いんだけど……。消された……?


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2026年6月4日木曜日

【読書感想文】乙一『暗いところで待ち合わせ』 / 視覚にも聴覚にもよらないコミュニケーション

暗いところで待ち合わせ

乙一

内容(e-honより)
視力をなくし、独り静かに暮らすミチル。職場の人間関係に悩むアキヒロ。駅のホームで起きた殺人事件が、寂しい二人を引き合わせた。犯人として追われるアキヒロは、ミチルの家へ逃げ込み、居間の隅にうずくまる。他人の気配に怯えるミチルは、身を守るため、知らない振りをしようと決める。奇妙な同棲生活が始まった―。書き下ろし小説。

 全盲の女がひとりで暮らす家に、殺人犯として追われる男が忍びこむ。見えない女と、見つかりたくない男。女は男の存在に気づくが、気づかぬふりをしたまま静かな同棲生活を続ける……。



(以下、少しネタバレを含みます)


 いくら全盲だからって、同じ家、それも同じ部屋に何日も別人がいて気づかないのは無理があるだろう。

 完全に音を出さないのは不可能だし、温度とかにおいとか空気の流れとかも伝わる。視覚以外の情報に関しては全盲で他の感覚が鋭敏になっている人のほうが気づきやすいかもしれない。

 書いてないけどトイレどうしてたのよ。仮に夜中に行くとしても、トイレを流す音は相当でかいよ。流さなければそれはそれでばれるし。

「使ってない部屋に住みつく」とか「屋根裏に居つく」ならまだしも(昔屋根裏に住んでいた人がいたというニュースを見たことがある)、「住人に気付かれずに同じ部屋に居続ける」は相当無理がある。


 というわけで、前半は「さすがにこれはないわ」と冷めた目で読んでいた。

 でも中盤、男がいることを女が確信するようになってからはわりと入りこめた。

 男の存在に女が気づき、女が気づいたことに男が気づく。それでもふたりは言葉を交わさない。だが無言のまま一緒に食事をとるようになる。

 昨夜の夕食は、向かい側の席でいっしょにシチューを味わっている他人がいるという以外に、何も変わっていない。静かだったし、何かが見えるわけでもない。それでも心の深いところに、不思議な安らぎを感じた。
 お互いの関係が微妙な均衡の上で成り立っているだけで、偶然、いっしょに食事をしているだけだということはわかっていた。
 言葉をかけることはできなかった。声を発しただけで崩れて消えてしまうような、危ういつながりしかないように思えていた。

 聴覚にも視覚にも頼らないコミュニケーション。ただ「ここに存在する」ことによるコミュニケーション。最も根源的で、シンプルだからこそ強力なコミュニケーション。


  いい友だちの条件って「話してて楽しい」とか「趣味が合う」とかいろいろあるけど、親友の条件は「何もしなくてもいい」だとおもうんだよね。

 なんとなく部屋に遊びに来る。だからといって何もしない。それぞれ漫画を読んだりギターを弾いたり、好き勝手なことをしている。でも間が持つ。「なんかあるかな。UNOあるけどやる?」とか気を遣う必要がない。

 何もしない、会話もない、それが苦にならない間柄こそが親友だとぼくはおもう。夫婦もやがてそうなる(そうでなかったらやってられない)。


『暗いところで待ち合わせ』で描かれる関係は、緊張感もあるのだけれど、同時に気の置けない親友同士のような居心地の良さも感じられる関係だった。



 言葉にしにくいけど、なんとなく心地の良さを漂わせている小説だった。

 終盤は種明かしのような展開があって物語としてのおもしろさもあるのだけれど、どっちかっていうとストーリーよりも雰囲気が印象に残る小説だった。


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