2050年1月1日土曜日

犬犬工作所について

読書感想文を書いたり、エッセイを書いたりしています(読書感想文 五段)。



読書感想文は随時追加中……

 読書感想文リスト



2026年1月28日水曜日

【読書感想文】田中 俊之『男子が10代のうちに考えておきたいこと』 / 「すごい」=「すごいバカだね」

男子が10代のうちに考えておきたいこと

田中 俊之

内容(e-honより)
性別によって求められる役割や進路選択、期待のされ方が違う日本。そのことに気が付かぬまま、また「男らしくあれ」という見えない圧力に窮屈な思いをしたまま大人になる若者も多い。男性学の視点から進路・生き方をとらえなおすとともに、若者へのエールをこめて新しい男子のありようを提言する。

 岩波ジュニア新書。

 この手の、「10代に向けて書かれた本」を読むのけっこう好きなんだよね。もういいおっさんなんだけど。でもおっさんだからこそ素直に読める。

 中高生のときはこういう「年寄りが若い人に向けて説教をする本」なんて読んでも素直に受け取らなかっただろうし、というよりそもそも手に取ろうともおもわなかった。

 でも自分事じゃないから「うん、まあわりとええこと言ってるやん。まあぼくが言われてるわけじゃないからよくわからんけど」ってぐらいのスタンスで読める。本なんて「9割は嘘でも1割ぐらいはいいこと書いてるかもしれん」ぐらいの気持ちで読むのがいいですよ。



 男の子向けの本は、女の子向けの本と比べてあまり多くない。

 それはですね、今の世の中では男のために社会がつくられているので、女性のほうが生きづらさを抱えているんですね、だから女性の問題を考える必要があるのです……なんてことを言う人もいるだろう。まあだいたいあっている。なんだかんだいっても女であることで不自由することのほうが、男だから不自由することよりも多そうだ。

 とはいえ、だからといって男が生きづらくないということにはならない。男は男で大変だ。なのに「男の生きづらさ」はあまり語られない。

 そう、それこそが男の生きづらさの最大の原因だとおもう。つまり「男の生きづらさ」を語ってはいけないとされていることこそが、男の生きづらさだ

「女は家庭を支えなくちゃいけないなんて考えはおかしい!」と言う女はたくさんいるが、「男が仕事に打ちこまなきゃいけないなんて価値観はおかしい!」と言う男は多くない。なぜならそんなことを言う男は“劣った男”という烙印を押されてしまうからだ。

 そりゃあ、男が弱音を吐いたっていい。「仕事は向いてないから兼業主夫がいい」とか「デートのときに男が多く支払うのは嫌だ!」とか言ったっていい。……けどそれはタテマエだ。「言ったっていいですよ、でもそういうことを言う男は雇いませんよ、そんな男は交際相手として魅力ありませんよ」というのが世の中のホンネだ。みんな知っている。だから「男だって生きづらいんだよ!」と主張しない。でも主張しないだけでけっこうつらいんだぜ。


 確かに職業生活は四〇年もの長期にわたりますが、生涯という視点から見た場合、あくまで定年退職は通過点です。それがどれだけ本人にとって価値のあるものだとしても、あくまでワークはライフの一部です。それにもかかわらず、中高年の男性たちはどうしてその後の生活を考えないのでしょうか。聞き取り調査で、定年したばかりの河野さんがこの点について次のような興味深い話をしてくれました。
「ある時点までは我慢でしたね。要するにそれで麻痺して慣れてくるんですね。そういう適応能力ってあるじゃないですか、人間って。だからそういうことで乗り切ってきたのかもしれませんね。」

 特にぼくがつらさを感じていたのは仕事面だ。若い頃、ほんとに仕事がつらかった。ぼくが勤務していたのがブラック企業だったこともあって、1日あたりの通勤時間と勤務時間はあわせて14~16時間。休みは週1日、それでいて給与は低い。いやおうなしに仕事が人生のすべてになってしまう。つらい日々を送っていた。

 そんなにつらかったのに仕事をやめなかったのは、「働かないといけない」というプレッシャーが常にのしかかっていたからだ。たぶん女だったら親や社会からの「働かないといけない」圧もそこまで強くなかったんだろうな、とおもったものだ。

 でも転職をしながらもまあなんとか仕事を続けて今ではもっと楽で給与もいい仕事に就けているので、多少無理をしてでも働き続けてよかったな、とおもわなくもない。ぼくが精神を病んで立ち直れなくなったりしなかったからこそ言えることなんだけど。



 男子のコミュニケーションについて。
 男子のみなさんは、女子から「すごい」と言われたときには、自動的に「バカだね」をつけるクセをつけてください。そのような訓練を積んでおけば、学校はもちろんのこと、将来的には職場でも私生活でも余計な負担を女性にかけず、コミュニケーションがとれるようになります。ついでに言えば、SNSで炎上することもないでしょう。
 せっかくなのでつけ加えておくと、さらにたちが悪いと個人的に思っているのが、達成も逸脱もできるというアピールです。頭がいいけど、悪いこともできる俺は「すごい」というわけです。こうしたケースでは、受験、就活、そして、出世レースで勝ち抜いてきたという「自信」があるので、もはや女性からの視線や評価を気にする必要がありません。そのため、宴会芸としての裸踊りのように逸脱の度合いが高くなり、はたから見れば少しも面白くない内輪ウケになりがちです。
 「一流企業」が「男社会」だった時代は終わりつつあります。職場に女性や外国人などが増え、多様な人が一緒に働くようになる流れのなかで、こうしたノリは確実に廃れていきます。

 これはほんと大事。男子はみんな肝に銘じておいたほうがいい。

 男同士のコミュニケーションって「いかにバカをやるか」「いかに無茶するか」を競うようなところがある。若いうちは特にそうだし、歳をとっても続けている男は少なくない。飲み会で大騒ぎして一気飲み、みたいなのをかっこいいとおもっている男は令和の時代にもまだ絶滅していない。

 そういうのを見たときに女子が「ばかね」と眉をひそめているのを見て、バカな男子は「おっ、おれに注目してるぞ。アピールするチャンス!」なんておもっているけど、その状況でアピールするチャンスなんてゼロだと早くに気づいたほうがいい。部屋にゴキブリが出たときに自分のほうに飛びかかってこないか警戒しながら観察しているのと一緒なので、その注目が好意に転じる可能性は万に一つもない。

 バカが一気飲みをしているときに、モテる男はちゃっかりおまえの意中の女性に優しい言葉をかけて一気飲み男と大きな差をつけているのだ。



 男は友だちをつくるのが下手だとよく言われている。ぼく自身も、学生時代から続いている友人はいるものの、大人になってから休みの日に遊びに行くような友だちができたことはない。

 競争に勝って社会的な地位を達成する上では、形式に基づいてなされる表面的なコミュニケーション能力が高ければ十分です。それだけではなく、流れるように話すことを立て板に水と言いますが、この文脈では、一方的に相手を説き伏せるような能力さえコミュニケーション能力が高いと評価されることもあります。
 ただし、お笑い芸人さんやクラスの人気者に必ずしも友達が多いわけではないことからも分かるように、形式的なコミュニケーションだけでは、人間関係を深めることはできません。逆に人間関係を悪くすることさえもあります。例えば、自分がイジっているつもりなのに、相手はいじめられたと感じるのは、形式ばかりに気を取られて人の心を蔑ろにしたためです。友達になったり、恋人になったりするためには、形式よりもお互いの心に配慮してコミュニケーションをする必要があります。すると、事前に想定していないような方向に会話が展開するので、新しい自分に出会うことになります。相手にも同じことが起こります。こうした深いコミュニケーションを通じて、お互いに信頼感を持つことができるのです。「こんなことを言ったらどう思われるだろう」という不安が自分の気持ちよりも先立てば、いつまでもワンパターンなコミュニケーションから抜け出すことはできず、人間関係が発展することはありません。
 他人の心とつながりを持とうとすると、それに伴って自分の心を覗くことにもなります。みなさんが友達や恋人が欲しいと思っても一歩踏み出せないのは、幼い頃から目を背けてき自分の心に向き合うのが怖いからかもしれません。

 男同士のコミュニケーションって競争が根底にあるんだよね。「こいつより強いとおもわれたい」とか「こいつよりおもしろいとおもわれたい」とか。大人になってもあんまり変わらない。競争の種類は変わるけど(「仕事できるとおもわれたい」「金持ってるとおもわれたい」とか)。

 相手より上に立ちたいとおもっている人間同士がうまくやっていけるはずがない。

 ぼくもずっと「優れた人間になれば人が集まってくる」とおもってたけど、歳を重ねてようやくそれが間違いだったと気づいた。「周りの人間を優れていると認められる人間になれば人が集まってくる」なんだよね。


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2026年1月21日水曜日

【読書感想文】川上 和人『鳥肉以上、鳥学未満。 Human Chicken Interface』 / 飛ぶために多くのものを捨てたやつら

鳥肉以上、鳥学未満。

Human Chicken Interface

川上 和人

内容(e-honより)
ボリュームたっぷり胸肉、スジが噛み切れないササミ…。鳥肉を食べ尽くしながら鳥類を語り尽くす鳥肉界随一の快著、ついに文庫化。ボンジリってお尻じゃないの?鳥の首はろくろ首?昭和の野球部はスズメ跳び!?―トリビアもネタも満載。オーブンのチキンが焼けるまで、とっておきのサイエンスを召し上がれ。

 鳥類学者が、“鳥肉”の観点から鳥の身体について説明する本。ありそうでなかった、おもしろい切り口だ。

 我々にとって鳥肉は日常的に食する身近な食材で、生きて活動する鳥も毎日のように目にする(街中に住んでいたらハト、カラス、スズメぐらいだが)。でもその両者を結びつけて考えることはあまりない。鶏の唐揚げとかフライドチキンとか焼き鳥とかを食べながら「これはあのへんの部位だな」とかいちいち考えない。だって嫌だから。元々は命だったとおもわないほうが気軽に食えるから。

 だけど鳥肉はもともと生きている鳥の一部だったわけで、人間に食べられるために存在しているわけではない。あたりまえだが、あたりまえじゃない。我々が「鶏むね肉」「ササミ」「砂肝」「ぼんじり」「せせり」と呼んでいる部位は、なんのために存在しているのか、なぜ部位によって味が異なるのかを『鳥肉以上、鳥学未満。』では細かく説明してくれる。「鳥」と「鳥肉」をつないでくれる本だ。

 余計なことしないでくれよおれは命だと意識せずに鳥肉を食いたいんだ、という人は読まないほうがいいです。



 食材としてはトリガラ扱いされている鳥の首について。

 鳥にとって首は重要なパーツだ。手のない彼らにとっては、クチバシこそが物を扱う代替器官となっている。クチバシで巣を編み、クチバシで食べ物を採り、クチバシで羽繕いをする。訓練すれば超絶技巧のラ・カンパネラも夢じゃない。首は、このクチバシを世界各地に送り込むための、伸縮自在の可動アームである。能ある鳥は首を隠し、しばしば折りたたんで羽毛の中に収納している。このため目立たないことも多いが、羽毛を取り除くと意外な長さと存在感を誇っているのだ。そして首の長さに合わせ、数多くの頸椎が内包されている。
 哺乳類の頸椎はほとんどの種で7つである。鼻の長いゾウだろうが、耳の長いウサギだろうが、基本的に椎骨の数はそろっているのだ。ホフマンナマケモノでは6つ、ミユビナマケモノでは9つと、なぜだかナマケモノは怠けすぎて例外的な種もいるが、このような例を含めてもせいぜい6~9個と、比較的安定した数となっている。
 一方の鳥類では、ほとんどの種で11個以上の頸椎を持つことが知られている。その数は哺乳類ほど画一化しておらず、種によって大きな変異を持っている。頸椎の少ないものとしては、インコの仲間で9つしか持たない種がいるそうだ。外見的にもインコ類の首はそれほど長くなく、数の少なさも納得が行く。最も数が多いとされているのはオオハクチョウで、25個を誇っている。
 しかし、哺乳類でもキリンのように首の長い種がいる。首の長さをかせぐには、1つ1つの頸椎の長さを伸長させる方法と、頸椎の数を増やす方法の2つがある。哺乳類は前者を採用し、鳥類は後者を採用したというわけだ。なにしろ鳥は、クチバシを小器用に使いさまざまな動作を行う。サギのように首をムチのごとくしならせて、遠くの魚を一撃で捕捉するものもある。首をマニピュレータとして活用する鳥にとって柔軟性は不可欠、短い骨を多数重ねて関節を増やすことによって、滑らかな動きを実現しているのである。

 哺乳類の頸椎の数は基本的に7つ。ヒトでも、キリンやウマのように首の長い動物でも、数は変わらない。だが鳥類はほとんどが11個以上。25個の頸椎を持つ種もいる。

 頸椎が多いということは、首を柔軟に動かせるということだ。そういえば鳥の動きを見ていると、首を器用に動かしてエサをつっついている。あれは頸椎が多いからできる芸当だったのか。

 なぜ首を柔軟に動かすのかというと、鳥は手(前脚)が使えないからだ。脚を2本翼に転用したため、首が脚の代わりをするようになった。

 よく噛んで食べなさいという美人ママのお叱りを尻目に、鳥たちは食べ物を丸呑みにする。タカのようくちばしで肉を切り裂いたり、イカルのように種子を割ったりすることもあるが、基本は丸呑みだ。何しろ歯がなくて噛むことができないのだからしょうがない。しかし、それではいかにも消化に悪そうである。
 にもかかわらず、鳥たちがいちいち胃もたれになっているわけではない。それは、彼らが口の代わりに胃袋で咀嚼しているからだ。鳥は筋肉に覆われた堅牢な胃を持っている。一般に「砂肝」と呼ばれる部位で、そのコリコリとした歯触りで食通たちを喜ばせている。歯を持たない鳥たちは、歯の機能を内臓で補うことによって消化を助けているのである。
 このような器官は人間には存在せず、4つの胃を持つウシですらこれほどにマッチョな胃は持たない。砂肝は鳥に特有の消化器官なのだ。
 
 (中略)
 
 鳥は飛翔のために歯以外にも大切なものを失っている。それは手の器用さだ。人間はお米に字を書けるが、鳥にはできない。これは、手先が不器用だからだ。彼らは空気抵抗の少ない空力学的に優れた翼と引き替えに、手の指をなくしてしまった。指は食物を扱ったり巣を編んだりするために不可欠な器官だったはずだ。この便利な道具を失うのであれば、当然それに代わる道具が必要となったはずだ。それがくちばしだったのかもしれない。
 確かに歯のある口は鳥にとって有用な器官だったはずだが、そのままではトゲのあるペンチのようなもので、指の代替器官としての器用さは不十分だろう。しかし、しなやかなピンセットのごとき精緻な動きを実現するくちばしがあれば、指の消失とともに失われた機能を補うことができただろう。そう考えると、歯のある口に対して歯のないくちばしに、進化的な軍配が上がったとしてもおかしくない。結果的にくちぼしを持つ鳥が進化しているのだから、その機能性の高さは疑うべくもない。
 つまり、焼鳥屋で砂肝に舌鼓を打てるのは鳥に歯がないためで、歯がないのはくちばしがあるためで、くちばしがあるのは指がないためで、指がないのは空を飛ぶためと考えられるのである。ではなぜ空を飛ぶのかというと、それは鳥類が出現した1億5000万年前の世界は恐竜に支配されており、地上にいると肉食恐竜に襲われやすかったからだと推察される。肉食恐竜がイモータン・ジョー的に地上を牛耳っていたからこそ、鳥たちは捕食圧から逃れるために風に乗って空を飛びはじめ、それが結果的に焼鳥屋のメニューを増やすに至ったのだと予想されるのだ。

 空を飛ぶために指をなくした、指をなくしたから器用にものをつかめるくちばしが発達した、くちばしが発達したから歯がなくなった、歯がなくなったから口中で咀嚼できなくなった、口中で咀嚼できないから砂肝を発達させた……。風は吹けば桶屋が儲かる、みたいな話だ。




 鳥はいともかんたんに飛んでいるように見えるが、鳥の身体についていろいろ知ると、「飛ぶ」という能力と代償に実に多くのものを失っていることがわかる。

 前脚、指、歯もそうだし、筋肉や内臓も「とにかく軽く、とにかく翼を動かす力を強く」に振り切って作られている。鳥のヒナが未熟な状態で産まれてくるのも、母鳥の身体を軽くするためだ(なので飛ばなくてもいいニワトリやカモの雛はわりと大きい状態で生まれてくる)。

 空を飛ぶって、相当無茶なことをやっているんだなあ。

 

 動物の身体はよくできているけどちっとも完璧なものではなく、あるものでなんとかやりくりしているだけなのだということがよくわかる。


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2026年1月19日月曜日

【読書感想文】東野 圭吾『希望の糸』 / そもそも血のつながりに興味がない

希望の糸

東野 圭吾

内容(e-honより)
小さな喫茶店を営む女性が殺された。加賀と松宮が捜査しても被害者に関する手がかりは善人というだけ。彼女の不可解な行動を調べると、ある少女の存在が浮上する。一方、金沢で一人の男性が息を引き取ろうとしていた。彼の遺言書には意外な人物の名前があった。彼女や彼が追い求めた希望とは何だったのか。

 加賀刑事シリーズのミステリ。

 殺人事件が発生。捜査を進めていくと、被害者と親しかった男性と、被害者の元夫が何かを隠しているらしい。だが自分が殺したとして名乗り出たのは別の女性だった。はたして犯人の動機は何なのか、二人の男性の隠し事とは何なのか。さらには謎を追う刑事にも「死んだと思っていた父親がいるらしい」という個人的な衝撃事実が伝えられる……。

 と、なかなか込みいったストーリー。「誰が殺したのか」「なぜ殺されたのか」「二人の男はそれぞれ何を隠しているのか」「刑事の父親は誰なのか」といくつもの謎が同時進行で語られる。ごちゃごちゃしてしまいそうなものだが、すっきりわかりやすく読ませる技術はさすが東野圭吾氏。登場人物も画面転換も多いが、「こいつ誰だっけ?」とはならない。

 犯人は中盤で明らかになるのでそこからは犯行にいたった経緯の解明。八割ぐらい読んだところで動機もだいたいわかり、ラストは心情の描写。

 犯人当て、動機の推理、心情変化と物語の主題が移り変わってゆく。飽きさせない構成だが、少々散漫な印象も。すべてが中途半端になってしまった感じもある。



 細かいネタバレは避けるけど、「親子のつながり」がテーマとなっている。親子関係のもとになっているのは何なのか。血のつながりなのか、共に生活してきた記憶なのか、はたまたそのどちらでもないのか。古今東西よく扱われているテーマだ。

 が、個人的にはあまり興味の湧かないテーマだ。幸いにして「親子のつながりとは何か?」という問題に直面してこなかったからかもしれない。(おそらく)実の母親と実の父親に育てられ、(おそらく)実の子を育てている者としては、「そんなに血のつながりって大事なのかな?」とおもってしまう。

 仮に「あなたが父親だとおもっている人は、実は本当の父親ではありませんでした。本当の父親はこの人です」って言われたとしても「はあそうですか。そうはいっても生まれてから40年以上この人を父親とおもって育ってきたので今さら別の人を父親と思うことなんてできないですし、今後もこれまでと同じように『年に数回実家に帰って父母(と思っている人)と会う』という生活が大きく変わることはないでしょうね。まあ遺産相続のときはめんどくさそうなんで、できれば知りたくなかったことですけど」ぐらいにしか思わないんじゃないかな。

 仮に妻から「実は浮気をしていたから、娘はあなたと血のつながった子じゃないかも」と言われたとしたら「えーそんなことは墓まで持っていってほしかったな。どっちにしろぼくは今の生活を壊す気はないし」と思うだろう。もし子どもが生まれなかったら養子をとってもいいと本気で思っていたぐらいなので。

 つまりぼくにとって親や子と血のつながりがあるかどうかなんて、わりとどうでもいいことなのだ。それよりも「いっしょに生活していてそこまで苦じゃないか」とかのほうが大事だ。血のつながりがあろうと嫌いなやつは嫌いだし、血のつながりがなくたって好きな人は好き。それだけ。

 そんな考えだから、「一度も会ったことのない我が子」とか「顔も名前も知らない親」とか言われてもぜんぜん興味が湧かないんだよね。『希望の糸』の登場人物たちの行動を呼んでも、よくそんなどうでもいいことに右往左往できるなあ、という感想しか湧いてこなかったな。

 加賀刑事シリーズはほぼすべてがあたりだとおもっていたけど、今作は加賀刑事シリーズの中ではハズレだったな。加賀刑事あんまり活躍してないし。


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【読書感想文】小川 哲『君が手にするはずだった黄金について』 / ダメなやつに向ける温かい目

君が手にするはずだった黄金について

小川 哲

内容(e-honより)
片桐は高校の同級生。負けず嫌いで口だけ達者、東大に行って起業すると豪語していたが、どこか地方の私大で怪しい情報商材を売りつけていたらしい。それが今や80億円を運用して六本木のタワマンに暮らす有名投資家。ある日、片桐の有料ブログはとつぜん炎上しはじめ、そんな中で僕は寿司屋に誘われる…。著者自身を彷彿とさせる「僕」が、怪しげな人物たちと遭遇する6つの連作短篇集。

 “小川哲”を主人公とする、私小説風の短篇集。

『プロローグ』『三月十日』『小説家の鏡』『君が手にするはずだった黄金について』『偽物』『受賞エッセイ』の6篇を収録。



 読んでいると、つくづく“小川哲”はめんどくさい人だな、とおもう。むずかしく考えなくていいことをわざわざむずかしく考えている。

 就活で企業から「あなたという人間を円グラフで表現してください」という課題が出されたら、一人の人間を有限個の要素によって表現することは可能なのか、その言語的な記述と“私”は完全に同一なものと言えるのか、と哲学的な思考を深める。企業が求めているのはそういうことじゃない、と知っているのに、それでもなお理屈をこねくりまわしてむずかしく考えてしまう。

 でも嫌いじゃないぜ、こういう人。なぜならぼくもそっちのタイプの人間だからだ(ここまでじゃないけど)。当然ながら就活はうまくいかなかった。「本質」とか「完全に正確な回答か」とか考える人間を企業は求めていないのだから。


 野球のことが気になって日常生活を正常に送ることができなくなった時期がある。中学生のときの話だ。
 野球には不可解なネーミングが多すぎる。たとえば「ストライク」と「ボール」と「アウト」。「ストライク」は「打つ」という意味の動詞で、ボールは「球」という意味の名詞で、アウトは「外へ」とか「外に」という意味の副詞や前置詞だ。品詞がまったく揃っていなくて気持ちが悪い°
 内野手が「ファースト」、「セカンド」、「サード」、「ショート」となっているのも気持ち悪い。「ショート」ってなんだ。
 僕はそれらの疑問を野球部の友人たちにぶつけたが、彼らは「わからない」と答えた。彼らがこれらの意味もわからずに野球をやっていることが、僕にとっては理解不能だった。

 ぼくも学生時代こんなことばっかり書いていたなあ。こういう「ささやかな疑問」を書くためのノートも作っていた。ぼくが学生の頃はインターネットが身近になかったので、ちょっとした思い付きやくだらないへりくつを公表する手段がなくて、ノートに書いたり、せいぜい友人に話したりするぐらいだった。当時SNSがあったらハマっていただろう。

 でもいつしかそういう「世の中にある変なこと」に気づくことも減ってしまった。歳をとって感受性が鈍ってしまったんだろうな。残念ながら。

 だが物事をまわりくどくとらえる人がいるから世の中はおもしろい。指示に対して適切に動く人ばかりだったらつまんないぜ。



 おもしろかったのは、占い師にはまってしまった友人の妻を救うため(というより占い師が気に食わないから)占い師と直接対決してその嘘を暴こうとする『小説家の鏡』。

 ぼく自身、占いなんてものはまったく信じていない。とはいえ占いだとか宗教に救われる人がいるのは理解できるので、まったくの無価値とは言わない。鰯の頭も信心から、だ。「テレビの占いを見てちょっといい気分になる」とか「初詣でおみくじを引く」というレベルであれば好きにすればいいとおもう。

 ただ、親しい人が占いにどっぷりはまって毎月安くない金をつぎこむようになったり、占い師に吹き込まれたせいで妙な道に進もうとしていたら、なるべくなら止めたいとおもう。家族なら全力で止める。

 幸い今のところそんな機会はないが、ひょっとしたらこの先娘が良くない占い師にはまってしまうかもしれない。そんな日のために『小説家の鏡』は参考になった。いや、なるのかな。ならないかもしれない。

『小説家の鏡』に出てくる占い師は、かなり優秀な人だ。上手な言い方で誰にでもあてはまるようなことを言う、さりげなく相手の情報を聞き出してさも自分が占いで当てたかのように見せる、はずれたときのための言い訳を散りばめておく、はなから占いに対して疑いを抱いている人と見極めたら早々に返金の意志を示して撤退する(その場合でも占いがイカサマであるとは言わず上手に言い訳をする)……。占い師として優秀なのではなく、営業マンとして優秀だ。成功している占い師というのは多かれ少なかれ似たようなものなのだろう。高額な不動産を買わせたり、ブランド品を買わせたりするのとそう変わらない仕事なのだろう。




『君が手にするはずだった黄金について』『偽物』の2篇も良かった。おもしろい、とはちょっとちがう。感動でもないし怒りでもない。でもたしかに心のある部分を揺さぶられた。なんと表現すればいいんだろう。強いてあげるならやるせなさ、みたいなものかな。

『君が手にするはずだった黄金について』と『偽物』はどちらもダメな人間が出てくる小説だ。巨悪ではない。ちょっとした嘘をつく、少しだけ見栄を張る、約束をすっぽかしてしまう、楽な道を選んでしまう、やらなきゃいけないと知りつつ怠けてしまう。そういうタイプの“ダメ”だ。つまりぼくたちみんなが抱えている“ダメ”だ。たぶん大谷翔平のようなスーパースターですら、ある部分ではそんな“ダメ”な部分を持ち合わせていることだろう。

『君が手にするはずだった黄金について』に出てくる片桐と『偽物』に出てくるババは、そんなダメな人間だ。でも彼らは幸か不幸かいろんな偶然が重なって名声を上げてしまう。はじめはちょっとした嘘だったのに、その嘘が評価されてしまう。その評価に応えるため、さらに嘘を重ねる。それがまた賞賛され、嘘をとりつくろうためにさらなる嘘を重ねる……。

 もちろんそんな虚飾が永遠に続くはずがない(中には死ぬまで逃げ切ってしまう人もいるが)。彼らの嘘は暴かれ、嘘がすべて明るみになったときには謝罪だけでは取り返しのつかない事態になっている。

 これだけなら単なる詐欺師の破滅の物語なのだが、“小川哲”は彼らの炎上、破滅を対岸の火事とはとらえていない。自分と彼らの間に本質的な違いがあるわけではないといスタンスをとったまま一定の理解を示している。彼らが詐欺的行為をはたらいていたことを認めつつも、彼らの嘘がすべて私利私欲から出たわけではないことや、また一面では善性を持っていたことも評価している。トータルでダメなやつだったことは認めつつも。

 このスタンスは持ち続けていたいなとぼくもおもっている。SNSなんかは対立を煽るアルゴリズムが組まれていて、やたらと極端な意見が目立つ。でも、対立する陣営の人たちも、こっち側の人たちも、実際はそんなに変わらないんだろうとおもう。ぼくも嫌いな政治家や嫌いな政党はあるけど、その人たちだって100%私利私欲のために悪をはたらいているわけではなく、別の誰かにとっては優しくて良い政治家だったりするのだろう。

 人でも組織でも思想でも政策でも同じだけど、完全なる善もなければ完全なる悪もない。


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2026年1月14日水曜日

【カードゲームレビュー】ナナ

ナナ

nana


ルール

 1~12の数字が書かれたカードが3枚ずつある(人数によっては使わないカードもある)。これを何枚かずつプレイヤーに配り、残りは場に裏向きに出す。

 つまり「自分が持っているカード(数字がわかる)」「他のプレイヤーが持っているカード(自分には数字がわからない)」「場に裏向きに置かれている(誰にも数字がわからない)」という3種類があるわけだ。

 このうち3枚をめくり、数字がそろえば手に入れられる。3セット、または特定の2セット、1セットをそろえば勝利となる。

 神経衰弱に似ている。ただしポイントは「プレイヤーのカードを表にするときは、所有している中で最大の数、または最小の数しか出せない」というルールがあることだ。これが非常によく効いている。

 たとえば自分のカードが「1,2,2,2,6,8,10,11」だとする。2のカードが3枚あるが、これを出すことはできない。最小ではないからだ。


味わい

 ルールは神経衰弱に似ているが、味わいはまったく違う。神経衰弱が記憶力と運だけの勝負なのに対し、『ナナ』はそれらに加え、推理や心理の読み合いが重要となる。「自分だけが知っているカード」という要素が加わるからだ。

 たとえば、
「あいつの最小のカードは4だった。ということは大きなカードを多く持っている可能性が高い」
とか
「現在、2のカードのありかが2枚明らかになっている。にもかかわらずあいつが2をそろえなかったのは、あいつが2を持っていない、または2を持っているが1も持っているので出したくても出せないからではないか」
といった読みが必要になってくる。

 ときには嘘をつくことも必要だし、すると当然嘘を見抜く力もいる。演技力も必要となる。


感想

 我が家ではかなりのヒット作だった。12歳、7歳の子どもたちは毎日のように「ナナやろう!」と誘ってくる。ぼくとしてもやっていておもしろい。

 なぜなら、手加減しなくてもいい勝負になるから。ぼくは子ども相手だからといって手加減をしたくないので「本気でやってもいい勝負になる」のはすごくありがたい。かといって運まかせでもない。

 はっきりいって、記憶力では子どもたちに敵わない。子どもの方が集中力もある。でも洞察力や嘘をつくうまさではぼくのほうが上だとおもう。ということで、総合的にはいい勝負になる。

 そして最後まで全員に勝利の可能性があるのもいい。基本的には3セットをそろえないと勝利にならないが、7のカードをそろえた場合はその時点で勝利となる。中盤まで劣勢でも逆転勝利の可能性があるので終盤まで緊張感が持続する。

 1回の勝負が5分程度で終わるのもいい。お風呂を沸かしている間に2ゲーム、みたいな感じで気軽にできる。カードだけなので片付けも楽だし。

 不満があるとしたら、カードの裏面の絵柄が上下対称じゃないこと。これだとわりとかんたんにイカサマができちゃうんだよね。ある数字だけ上下逆にしとく、とか。それを防ぐために全部のカードの向きをそろえているんだけど、これがけっこうめんどくさいんだよなあ。

 でも不満点はそれぐらい。カードデザインもかわいいし、材質もいい。手軽にできてハマるゲームです。



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2026年1月9日金曜日

【読書感想文】速水 融『歴史人口学で見た日本』 / 弾圧や差別が戸籍をつくる

歴史人口学で見た日本

速水 融

内容(e-honより)
留学先の欧州で教区簿冊を利用した「歴史人口学」(結婚年齢、家族構成など、ミクロの人口研究)に出会った著者は、帰国後「宗門改帳」を使って同様の研究を開始し、江戸期庶民の暮らしぶりを活写。「家族」と「人口」から見た「新しい日本史」。

 日本における歴史人口学の第一人者による歴史人口学概論。

 歴史人口学とは聞きなじみのない学問だが、ある時代・地域の出産、死去、婚姻、転入、転出などの数をデータベース化して、そこから過去の社会について立体的に分析するという学問だそうだ。

 死ぬ人が徐々に減ってきているとか転出する人が急に増えたとかがわかれば、そこから社会の様子をかなり正確に探ることができる。歴史学というとふつうは古文書を読むことで過去を知るのだろうが、「文書には書き手の主観が多分に入っている」「文書に書かれたことが本当かどうかわからない」「そもそも文書にされないことはわからない」などの弱点があり、かなり局所的、主観的な歴史になってしまう。

 歴史人口学はその弱点を埋める、かなり客観的・科学的な学問なのだ。

 次に、歴史人口学は、対象とする人口集団を人口学や統計学の方法を用いて分析することができる。従来の人口史が観察を主とする歴史学であったのに対し、歴史人口学は分析を含む社会科学的性格の強い歴史研究である。その結果、歴史人口学によって見出された事象の解釈ははるかに科学的になり、従来の事実の叙述を主とする「人口学」から、著書の表題はどうあれ、少なくとも人口学的分析を含むものとなった。つまり、ソフト・サイエンスからハード・サイエンス的性格をもつように変わったのである。

 とはいえ戸籍がなかった時代のことなので、人口を推察するのも容易ではない。

 ヨーロッパの場合は、教区簿冊(教会が作成した、洗礼、婚姻、葬礼などの記録)を元に解析をおこない、日本の江戸時代だと宗門改帳(幕府がキリスト教禁制のために住民の信仰を調べた記録)が重要な史料になったという。

 またドイツの場合は、ナチスが「ユダヤ人の血」を調べるために調査した記録が重要な史料になっているそうで、宗教弾圧だったり人種差別だったりが調査の動機になっているという話は興味深い。なるほどね、「住民を支配したい」という強烈な動機があるからこそ莫大な手間暇をかけて人口について調べようということになるんだよね。

 ブラック会社が日報を細かく提出させて社員の行動をコントロールしようとするけど、案外後世になったらそういう記録が貴重な史料になるのかもしれないね。やべーやつのやべー行動が後の世では価値を持つのだ。



 またこんな話も。

 前述したように、明治以前にもマクロの統計史料がないわけではない。幕府の全国人口調査があったし、また、いくつかの藩では領内の総人口を記録した。だから総人口くらいについてであれば統計資料はあるわけだが、より詳しい出生や死亡、結婚、移動に関するマクロのデー夕というものはなかった。
 一方、明治維新以降は(正確には「宗門改帳」が明治四=一八七一年まで続いたわけだから、明治五年以降は)、ミクロの史料のない状態で歴史人口学をやらなければならなくなる。明治五年に編成された「壬申戸籍」があるが、これには身分が書いてあり、利用が法的に禁止されている。現在の社会状況では、この禁止はやむを得ない。

 なるほどね。明治時代に作られた戸籍があるが、身分が書かれていて差別につながるから利用できない、と。だから、宗門改帳があった江戸時代のほうがかえって明治時代より史料が豊富なのだとか。

 でもそれって、今の戸籍だって将来的には利用できなくなる可能性があるってことだよね。たとえば100年後の世界では戸籍に性別を記載するのは差別だってことになってて、今の戸籍を見ることもできなくなってるとか。ありえなくもないな。最近の履歴書には性別の欄がないものもあるし。



 江戸時代の人口動態について。

 日本全体の傾向としては、ほとんど人口変動がなかったが、危機だけをとると、例外なく全国人口は減っている。つまり、危機を免れた場所はまずないといっていい。しかし逆に平常年だけとると、二地域を除いて人口はだいたい増えている。その人口の増えなかった地域はどこかというと、関東地方と近畿地方である。
 これはひじょうに興味深い。なぜかというと、関東地方には江戸があり、近畿地方には京都、大坂があった。江戸の人口は百万といわれているし、京都と大坂もそれぞれ四、五十万だから、両方足すと百万近くになる。江戸時代の日本は、江戸という百万都市、京・大坂を足すと百万近い都市という、二つの人口密集地をもっていたわけだ。人口百万という都市は、現在でも相当な規模で、世界にそれほど多くはない。この二つの百万都市をもっているにもかかわらず、その地域を含む関東や近畿で人口が減っているのである。これは一見不思議なことで、そういう巨大な都市があれば、その周辺の地域では、都市に物資を供給する産業、すなわち手工業や市場向け農業生産が盛んになって、経済的に発展し、その結果人口も増えるだろうと常識的には考えてしまう。ところが、そういうところで平常年の人口が減っているのである。これには説明が必要となる。
 そこで私は、自分の造語であるが「都市アリ地獄説」を提起した。つまり都市というのはアリ地獄のようなもので、引きつけておいては高い死亡率で人を(やって来た人だけではないが)殺してしまう。だから地域全体としては人口は増えなくなる。江戸っ子は三代もたないという俗説があるが、これは、江戸は住んでいる人にとっては健康なところでなく、農村から健康な血を入れないと人口の維持ができないということを意味している。

 江戸と大阪・京都といった都市部には人が集まってくる。だが都市部の人口は減りつづける。なぜなら都市の死亡率は高いから。

 今のような公衆衛生の考えも技術もなかった時代、人が集まれば環境は悪くなるし、疫病も流行る。農村部のほうが健康的な生活を送れていたようだ。それでも人は都市に集まってくる(まあ農村で安定した暮らしを送れている人はわざわざ都市に行く理由がないから、都市に移住する人の生活が貧しい=死亡率が高いのは当然かもしれない)。

 これは現代にも通じるものがあって興味深い。さすがに今は都市部のほうが極端に死亡率が高いということはないが、その代わり都市部は出産率が低い。独身でも生活しやすいとか、都市のほうが周囲からの結婚・出産へのプレッシャーが少ないとか、都市部は家が狭いから多くの子どもを持ちにくいとかいろいろあるけど、とにかく出産率が低い。東京の合計特殊出生率(女性1人が生涯に産む子どもの数)は1を切っている。

 都市アリ地獄は今も続いている。


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2026年1月2日金曜日

【読書感想文】浜口 桂一郎『新しい労働社会 雇用システムの再構築へ』 / 思いつきで制度を変えるな

新しい労働社会

雇用システムの再構築へ

浜口 桂一郎

内容(e-honより)
正規労働者であることが要件の、現在の日本型雇用システム。職場の現実から乖離した、その不合理と綻びはもはや覆うべくもない。正規、非正規の別をこえ、合意形成の礎をいかに築き直すか。問われているのは民主主義の本分だ。独自の労働政策論で注目される著者が、混迷する雇用論議に一石を投じる。

 2018年刊行。積読をしているとままあることだが、なんで買ったのか自分でもわからない本。

 読んでみて、その謎がさらに深まった。なんで買ったんだろう……。

 ぼくははるか昔の学生時代、労働法研究のゼミに所属していたのだが、そのときに読んだ本のことを思い出した。めちゃくちゃ固い本だった。なんで研究者でも労務担当者でもないのに買ったんだろう……。



 派遣業について。「登録型派遣事業」というのはいわゆる一般的な派遣事業で、働いた月だけ派遣元企業から賃金が出て、働かなかったとき(仕事がないとき)は賃金が出ないというスタイルだ。

 この派遣業、やたらと目の敵にする人がいる。諸悪の根源は派遣業だとでも言わんばかりに。人身売買とまで言い出す輩もいる。

 かねてから労働界に根強いのが登録型派遣事業禁止論です。これはかつてのドイツの仕組みであるとともに、日本政府が当初検討した案でもあり、それ自体としては筋の通った議論ではあります。ただ、すでにドイツも捨てた過去の制度に固執するには、それなりの理由が必要でしょう。
 あたかも登録型派遣事業を禁止すれば労働者はすべて常用雇用になるかのような議論も存在しますが、いうまでもなく日本の労働法制は有期雇用契約をほとんど規制していませんから、「派遣切り」が「有期切り」に姿を変えるだけです。判例法理でも、有期契約を単に反復更新しただけでは無期契約と同等と見なされるわけではありません。むしろ、有期労働者の雇止めがほとんど規制なしに行えるのが日本の現状です。
 そもそも、市場経済においては労働力需要が増大したり減少したりすることはごく普通のことです。その増減に対応して臨時的に労働者を活用したりそれを停止したりすることも、本来的に禁止されるべきことではありません。世界中どこでも、一時的臨時的雇用を禁止している国はありません。問題があるのは、本来労働力需要自体は恒常的に存在するのに、つまり無期契約で雇用することが自然であるにもかかわらず、解雇規制をすり抜ける目的でわざと有期契約にしておき、必要のある限り更新に次ぐ更新を重ねておいて、いざというときにはその期間満了を装って実質的に解雇しようとすることなのです。

 そうなのよね。悪い派遣業者がいるのは事実だが、派遣業自体は何ら悪くない。派遣で働きたい人と、派遣社員を雇いたい企業がいるのだから、派遣のような有期雇用契約が生まれるのは当然のことだ。

 世の中には、繁忙期と閑散期がある仕事がある。たとえば農業従事者が農閑期である冬場だけ有期で働きたいと考えるのは当然だ。建設業なんて、大きな仕事を受注すればその間は人手が必要だが、案件のないときに社員を大勢抱えていたら会社がつぶれてしまう。

 世の中にいろんな仕事があることを知れば、調整弁となる派遣社員が必要不可欠だとわかるとおもうんだけど。2008年頃の「派遣切り」のイメージが強すぎて、派遣と聞いただけで脊髄反射で拒否反応を示してしまう人がけっこういるんだよね。



 今はすっかりなりをひそめたけど、2000年前後の頃って「終身雇用制・年功序列制をとっているから日本の企業はだめなんだ」という言説をよく聞いた(そういうやつはどうせ日本経済の調子が良かったときは「日本型雇用システムがあるから日本経済は強いんだ」とか言ってたんだろうな)。

 九〇年代から二〇〇〇年代にかけてのさまざまな改革は、それまでの日本社会のあり方がそのままでは持続可能ではないという認識に基づいていました。そのこと自体は一定の根拠のある判断であったと思われます。問題は、社会システムはそのさまざまな要素がお互いに支え合って成り立っており、一見不合理に見えるある要素を不用意に取り除くことが他の部分に好ましくない影響を与えることがあり得るという認識のないまま、ややもするとただひたすらに「悪しき規制を退治せよ」といった勧善懲悪的な演出の下で改革が推し進められた点にあるように思われます。
 それゆえ、改革への熱狂が社会全体を覆っている時期には、改革の副作用が深刻な形で噴出していても、それに言及すること自体が改革への熱意を引き下げるのではないかといった配慮から、その問題は意識的に黙殺され、逆に改革への熱狂が醒めてくると、副作用ゆえに改革を全否定する議論が噴出するという事態が起こるのでしょう。そこに欠落していたのは、社会システム総体の様子を見ながら、副作用が最低限に収まるように、漸進的に改革を進めていこうという冷静な感覚だったのではないでしょうか。

 これは雇用システムに限った話ではなく、何かあると極端なことを言い出すやつがいる。どっかの学校でいじめ自殺が起こったら「制度が悪い。制度を変えよう!」とか言い出すアホが。

 そりゃあどんなシステムにだって悪いところはある。だけど長く使っている制度にはいい点もたくさんあるし、アホなえらい人の思い付きで変更したときに良くなるという保証はどこにもない。ちゃんとあらかじめ指標を決めて変更前後の影響を計測して改革がうまくいったかどうかを検証して、定められた期間に目標達成しなければ政策の過ちを認めて引き返す……ということをすればいいのだが、アホなえらい人がそんなことをするはずがないけどね(過ちを認められるまともな人は思いつきでころころ制度を変えない)。


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【読書感想文】ダライ・ラマ『ダライ・ラマ自伝』 / 汝の敵を愛せる人

ダライ・ラマ自伝

ダライ・ラマ(著)  山際 素男(訳)

内容(e-honより)
チベットの宗教的、政治的最高指導者として精力的に平和活動をつづけ、ノーベル平和賞を受賞した第14世ダライ・ラマが、観音菩薩の生れ変わりとしての生い立ちから、長きにわたる亡命生活の苦悩、宗教指導者たちとの交流、世界平和への願いなどを、波乱の半生を振り返りつつ語る。チベットとダライ・ラマを知る恰好の入門書。

 

 3歳のときにダライ・ラマと認められ、中国軍に侵攻されたことで亡命政府の長となり、後にノーベル平和賞を受賞するという波乱万丈な人生を送っている第14代ダライ・ラマによる自伝。

 高野秀幸さんが『未来国家ブータン』の中でおもしろい本だと絶賛していたので読んでみた。

 ダライ・ラマといえばチベット仏教の最高位であり、チベット国の元首でもある。国民にとっては精神的支柱である。いわば大日本帝国における天皇ぐらいの大権力者だ。

 それなのに、ぜんぜん飾らない人柄であることが文章からもにじみ出ている。ダライ・ラマになった後も清掃係たちといっしょにいたずらをしたことを書いていたり、大事な式典のときに時間がかかるからトイレが大丈夫だろうかとばかり考えていたと書いていたり。

 ちなみに、ダライ・ラマは生まれたときからダライ・ラマなわけではない。先代のダライ・ラマが亡くなったときに、高僧である摂政が“視た”光景をもとに使者が国中を探しまわり、その光景通りの家を探し当て、そこに住んでいた子どもに先代の遺品とそれにそっくりな偽物を見せ、その子がことごとく本物を選んだためにダライ・ラマの化身であると認めたという。それが第14世ダライ・ラマ。まるで神話。今でもこんなやりかたが生きる世界もあるんだね。ローマ法王がコンクラーベという投票制で決まるのとえらい違いだ。



 1948~1951年に、チベットは中国共産党軍に攻め込まれて占領された。今なおチベットは自治権を失っており、中華人民共和国のチベット自治区となっている。ある日突然中国軍が攻め込んできて植民地になったわけだ。当然チベット民衆は抵抗し、中国軍はチベット人に対して残虐の限りを尽くした。多くの人が虐殺され、拷問され、経済的自由や教育の機会を奪われた。

 祖国と同胞を踏みにじられたにもかかわらず、ダライ・ラマ氏の文章からは中国に対する怒りはまるで感じられない。いや、そんなわけないだろとおもってしまう。憎しみや怒りがあふれて当然だろう。それでも憎悪や恨みは微塵も感じさせない。さすがは高僧である。


 わたしは中華人民共和国との提携の可能性を本気で考えはじめた。マルキシズムを考察すればするほど気に入ってきた。それは、万人の平等と正義に基づく制度、世界の悪への万能薬を宣言している。理論的観点からいえば、その唯一の欠点は、人間的存在を純粋に物質的側面からのみとらえようとする面に思え、これには同意しがたかった。また彼らの理想追求のために用いる手段も気にかかっていた。その硬直さがあまりに目立ちすぎる。それでもわたしは共産党員になりたいという気持すら表明した。仏教と純なマルキシズム理論との統合によって政治を導く効果的方法を編み出しうるのではなかと考えたのであり、今でもその可能性を考えている。

 祖国の敵である中国を憎むどころか、そこから学ぼうという姿勢まで見せる。

「汝の敵を愛せよ」という言葉があるが(聖書の言葉だが)、言うは易くても行うは難し、自分の愛する人を殺した国を愛することはなかなかできない。

「中国にはあれだけ多くの人がいるんだから、一部残虐なことをする人がいたとしても、大半の国民は我々と同じ平和を愛する人のはず」なんてことを書いている。よくその境地に達することができるものだ。



 ダライ・ラマ氏による平和への提言。

 チベット、中国両国民の関係改善に、何よりも必要なのは信頼の確立である。過去三十年にわたる大量殺戮によって、信じがたいだろうが、百二十五万ものチベット人が、飢餓、処刑、拷問、自殺などで死に、数万人が強制収容所に閉じ込められており、中国軍隊の撤退のみが、真の調停交渉の道を開くことができるのである。チベットにおける強大な占領軍の存在は、チベット人の嘗めてきた辛苦と抑圧をつねに思い起こさせる。軍隊の撤退こそが、友情と信頼に基づいた有意義な関係を中国との間に将来打ち樹てうる最も大切な要素なのだ。
 残念ながら中国は、わたしの提案の最初の部分を、わたしはそうは考えていないのだが、分離に向かう動きと解したようだ。わたしの意図するところは、両国民間に真の調和があれば、どちらかが、あるいは双方が歩み寄り、少なくとも妥協的態度をとるべきなのが論理的帰結だということだ。しかもチベットが権利を侵害されている側─われわれはいっさいを奪われているなのだから、中国に提供すべきものは何もない。それゆえ、相互信頼的空気を生み出すために、武器を持っている(それらが隠されていようといまいと)者がそれを引っ込めるのは理の当然である。これがわたしの平和地域という意味である。つまりだれも武器を振りまわさない地域ということだ。このことは、 両者間に信頼を生むだけでなく、中国側に大きな経済的プラスとなるはずだ。チベットに駐留する厖大な軍隊の維持費は、開発途上国にとって大変な損失だからである。

 こんな冷静な思考ができるのはすごい。(特に被害者の側は)自分の側の要求を叫びたくなるものだが、相手側のメリットを訴えることができる。

 なんと大人な対応だろう。昨今、自国の利益ばかり求める人ばかりが各国のトップに立っている。そんな態度で相互に利益のある共同関係が築けるはずがない。ダライ・ラマ氏のような人が首脳になってくれたらしいのになあ。


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2025年12月31日水曜日

M-1グランプリ2025の感想


敗者復活戦

 トップバッターのミカボの徳永英明クイズがすごくおもしろくて(何年か前の予選でも観たことあったけど二度目でも変わらずおもしろい)、これは期待できるぞとおもっていたら、結局ミカボがいちばんおもしろかった。

 勝ち上がりはカナメストーン。最終3組中にラストイヤー組がいたらそりゃあ勝たせたくなるよね。まあ場を盛り上げていたし、「決勝で何かやってくれそう」という感じがいちばんあったのはカナメストーンだったかな。


決勝戦

ヤーレンズ (結婚したい)

 過去2年の決勝で披露していたコント漫才ではなく、他愛のないテーマで軽妙なおしゃべりの披露するスタイル。原点回帰のようなネタ。そういやヤーレンズってこういう漫才をするコンビだったよなあ。長々とどうでもいい話をして、最後の10秒で「ネタやりまーす」というスタイル。この軽さこそヤーレンズの真骨頂という感じがする。

 ヤーレンズのラジオを何度か聞いたことがあるが、こんな感じだった。無理をせずに自分たちのスタイルを貫いても認められるようになった、という点でヤーレンズにとってはすごくいいことだと思う。

「栄光の孤立」「マーガレットサッチャでもいい」のような、伝わらないのがわかっていても自分たちが言いたいと思っているフレーズをねじ込んでくる感じもすごくいい。いい意味でM-1向けじゃないというか。M-1グランプリを卒業してもやっていける立派な漫才師になった姿を見せてくれた。

『さようなら、ドラえもん』におけるのび太の「見たろ、ドラえもん。勝ったんだよ。ぼくひとりで。もう安心して帰れるだろ」を彷彿とさせてくれる漫才だった。

 個人的には、ネタ後の「手ごたえあり!」がスルーされていたのがおもしろかった。カズレーザーがM-1ファイナリストだったことなんてみんなおぼえてないよなあ。ぼくもこれ見るまで忘れてた。


めぞん (女友だちの彼氏のふりをする)

 チュートリアルやさや香のような熱演型漫才。とはいえ、2006年時点で完成されていたチュートリアルに比べると、緩急の使い方や声のトーンに粗さが感じられた。こういうアドリブの利かないかっちりしたネタをやるのであれば、細部まで完璧であってほしかったな。「逃げろ!」の唐突さは好きだった。


カナメストーン (ダーツの旅)

 敗者復活戦ではじめて見たコンビだけど、風貌に苦労してきた感じがにじみ出ていていい。あふれ出るくたびれ。

 敗者復活組、ラストイヤー、にじみ出る苦労人感、明るくハイトーンなツッコミと応援したくなる要素が詰まっていたコンビ。……だっただけに、過失致死に発展してしまうブラックな展開で悪い方に裏切られた気分になってしまった。勝手に想像していた芸風と似つかわしくなかった。

 隙間まで細かいボケが詰め込まれていて、15年間の集大成であることが感じられる漫才でした。


エバース (ドライブデート)

 過去に見たことのあるネタだったけど、それでも大いに笑った。改めて見ると、「目的地がもう江ノ島水族館に決まっていること」までもがおもしろくなってくる。

「人間の中ではだいぶ車っぽい」の妙な説得力、「車の免許持ってたらレンタカー借りるだろ」という急な正論、巧みな話術で妄想の世界にひきこみながら「思われねえよ」「都内もやだよ」で現実と虚構の間を揺さぶる技術、そして終盤まで失速することなく「陰性。やばっ!」「なぜならまだこいつを裁く法律がこの世にないから」で強烈なパンチを叩きこむ。完璧なネタだった。

 最初に見た時も感心したけど、やっぱり「陰性」で笑いをとるところがすごい。凡百な漫才師だったら「覚醒剤やってる」で笑いをとりにいくところだけど、「覚醒剤やってない」で笑いがとれるところがすばらしい。真空ジェシカもやっている手法だけど、「逆にまともなことを言うことで笑いを生みだす」ところまでたどりついているのを見ると、漫才って進化したんだなあとしみじみ思う。


真空ジェシカ (ペーパードライバー講習)

 もう一個上の階だと思った、で見事につかんだのに、「車椅子テニスの選手が二連続で車のネタ」はほんと余計だったなあ。本人も反省していたらしいけど。あれ聞いたとき、ぼくは「ひとつ前も車のネタだったっけ。ああ、ルンバ車か。でもあれあんまり車のネタって印象ないけどなあ。それより車椅子の人をそういういじり方してもいいのかな」とかあれこれ考えてしまった。その割におもしろいコメントでもないし。ネタの邪魔にしかならないフレーズだった。

 発想の豊かさは相変わらず。免許のクソ問題、走るボタン、思い出が一個しかない、など笑わされるボケが盛りだくさん。そして真空ジェシカはそれぞれのボケが有機的につながってるのがいい。それだけに前半で少しつかみきれなかったことが惜しまれる。

 いちばん感心したのは、教官が発煙筒を吸うボケ。単体でもおもしろいが、あれがあることでその後の展開の中での演じ分けがスムーズになっている。「発煙筒を吸っているのが教官」とすぐわかるので、別の人を演じていてもすっと教官に戻ってこられる。ここまで計算しているのだとしたらすごい。


ヨネダ2000 (バスケドリブル)

「100万円めざしてバスケットボールをドリブルせよ」という挑戦をしていたら松浦亜弥が出てきて邪魔をされる、というシュールなネタ。

 やっていることはむちゃくちゃだったが、徐々に難度が高くなるところや出なかった高音が出るようになるところとか、妙なストーリー性があったのでなんとかついていけた。今まで観たヨネダ2000のネタは序盤でついていけなかったので、あんなネタをやりながらもちゃんと見せ方を工夫しているんだろうな。あややに得はないとか謎の引き戸とか細部の工夫もいい。

 ところで、誠のレイアップシュートがあんまりきれいじゃなかったのが残念。あれが美しいフォームだったらもっとおもしろかったのになあ。


たくろう (リングアナ)

 ぼくがたくろうの漫才をはじめて観たのは2018年の準決勝だったかな。その時点で十分おもしろかった。その後も関西のYTV新人賞の予選などで目にする機会は何度もあったが、言ってしまえばおもしろさはあまり変わってなかった。早くから完成されていたがゆえに小ぢんまりとまとまってしまっていた。赤木さんがおどおどとしながら強いフレーズを言う、というスタンス。

 だが今年のネタはずっと笑いやすくなっていた。駒場さんも言っていたが、無茶な追い込まれ方をしておどおど言うに足る状況を設定したことでぐっと良くなった。自信なさげにおどおどしてる人は「笑い者にしていいのかな」という感じがしてしまう。でも「そりゃあおどおどするよな」の状況を用意することでわかりやすく笑えるようになった。ボケとツッコミではなく、中ボケと大ボケ。

 ただ大喜利の羅列なので個人的にはそんなに好きなネタではなかった。


ドンデコルテ (デジタルデトックス)

 声質がいいね。ほんとにセミナー講師の声質をしている。あの声で「厚生労働省の定めた基準によると……」というと、漫才の大会にふさわしくなくて逆に引き込まれる。安心感のある声と堂々とした態度で情けないことを主張するギャップがたまらない。

 去年のブログを見返してみたら、敗者復活戦のドンデコルテの感想で「二年後ぐらいに決勝行くかもねえ」と書いていたが、思っていたよりも早く完成されていた。個人的には去年の恋愛がうまくいかない中年男の悲哀を描いたネタのほうが好きだったけどね。

「現実をスワイプ」「目覚めるな」「説得力だけがある」など、おもしろいフレーズが盛りだくさん。このネタのもっとロングバージョンも観たいなあ。


豪快キャプテン (小さいカバン)

 二人が会話をしているが、二人とも一切相手に歩み寄る気はなく、とうとう最後まで平行線をたどったまま交わることがない。そのディスコミュニケーションのおもしろさこそが豪快キャプテンの魅力なのだが、あまり刺さらなかった。こっち側のテンションの問題な気もする。すごくハッピーなときに見たらめちゃくちゃおもしろいのかも。

 数年前の敗者復活戦でやっていた「わたし、にじっぽん」のような、単体でおもしろいフレーズがあればもっと笑えたのかもなあ。あとあの感じでいくんだったら最後まで熱量演じてほしかった。


ママタルト (初詣)

 51,044,649円からの猪瀬都知事、神社倒壊というママタルトらしいギャグマンガ的世界観あたりまでは良かったんだけどね。ボケ、ツッコミともにたっぷり間を使うコンビなので、その分一発の破壊力が大きくないときついよなあ……。ここは豪快キャプテンとは逆にストーリーを進めすぎなんじゃないかという気がする。作品としてはきれいなんだけど。


最終決戦

ドンデコルテ (町の名物おじさん)

「名物おじさんになる」自体はさほど新奇な発想ではないが、保険料の支払いが増えた、介護保険、墓と固めの話題で丁寧に振るあたりが実にうまい。奇をてらったことを言っているようで自転車と光に意味を持たせる理屈っぽさ、「いえ、あなたが聞いた」のような小憎らしい言い回し、聞き役にまわりながらも「大型新人」「言語化」などさりげなくワードを添える小橋さんのサポート、中だるみしないよう後半に別タイプの名物おじさんを出してくる展開、つくづくよくできたネタだ。短く感じたなあ。もっと長い時間で聞きたい。


エバース (腹話術)

 これはネタの選択ミスだよなあ……。腹話術の話を切り出した時点で「町田を人形にする」という展開が読めてしまうし、一本目の「町田に車になってもらう」よりも弱くなってる。

 見た目でわかりやすく笑えるし、それぞれの普段見せない顔も見せるので、ファンの前でやったらウケるんだろうなあ、というネタ。危険だよね、ファンにウケるネタは。

 エバースは絶妙の間でツッコミを入れてくるのが心地いいんだけど、このネタに関しては観ている側が欲しているタイミングよりツッコミがずっと遅かったなあ。


たくろう (ビバリーヒルズ)

 すばらしい設定。冒頭の「英語じゃないと意味ないんちゃう」からはずっとボケの世界にいる状態なので、何を言ってもおもしろい。実際、「ニューヨークでテトリスさ」なんて大喜利の答えとしてはべつにおもしろくないんだけど、設定のおかしさのせいで笑いにつながる。

 何より、赤木さんの目がずっと泳いでるのがいい。ふだんからああいう人だけど、追い込まれる世界にしっくりはまっていた。

 一問一答大喜利だけでなく、ボケた後に「さすが大手だ。ばちばち当ててきやがる」で追撃したり、ナンシーの家に行くことをためらってる内向的人間のもやもやを描いていたのが実に良かった。「一応連絡だけ」「行って変な感じに」「あれだったら帰るよ全然」あたりは誰もが経験したことがあるだろうけど、これを漫才に落としこむ手法は他に類を見ない。



 ということで優勝はたくろう。特に最終決戦は、隙間まで笑いで埋め尽くしたいいネタでした。


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2025年12月24日水曜日

小ネタ44(物干し竿 / jammer / スーパーの分類)

物干し竿

 ふとおもったのだが、物干し竿って「干し竿」で良くない?

「物証(物的証拠)」という言葉があるが、こちらの「物」は明確に意味がある。「自白とか証言とか状況証拠ではない物の証拠ですよ」という意味がある。でも物干し竿の「物」には意味がない。竿に干すのは物に決まってる。発言とか概念を干すものだとは誰も思わない。

 物差しとか物置とか物思いとか、なくてもいい「物」はたくさんある。


jammer

 妨害物のことを英語で「jammer(ジャマー)」と呼ぶのはあまりにできすぎている。


スーパーの分類

 スーパーで紅茶を買おうとおもって「茶」のコーナーに行ったのだが、紅茶が見つからない。あちこち探すと遠く離れた「コーヒー・紅茶」コーナーにあった。日本茶と紅茶は別コーナーなのか。

 また別の日。食べるラー油を探したが、見つからない。「米」コーナーの近くにふりかけはあるのだが、ご飯のお供(鮭フレークとかごはんですよとか)がない。店員に訊くと、「缶詰・瓶詰」のコーナーにあった。うーん、まあ形状的にはそうなんだけど、客は形状じゃなくて用途で探すんだよなあ。陳列する人と使う人の思考の違いだ。

 ジャムも「缶詰・瓶詰」コーナーにあった。絶対にパン売場の近くのほうがいいぜ。


2025年12月22日月曜日

2025年に読んだ本 マイ・ベスト10

 毎年恒例、2025年に読んだ本の中からベスト10を選出。

 なるべくいろんなジャンルから。

 順位はつけずに、読んだ順に紹介。


プチ鹿島

『芸人式 新聞の読み方』


感想はこちら

 エッセイ(&対談)。

 新聞13紙を購読して読み比べをしている芸人・プチ鹿島氏。すごいのは、趣味で13紙も購読しているということだ(今ではそれが仕事にもなっているが)。そんなプチ鹿島氏が読み比べのおもしろさと説いた本。

 昨今、オールドメディアだとか偏向報道だとか批判されがちな新聞。鹿島さんがすごいのは、「偏っているからダメだ!」と切り捨てるのではなく、偏っていることを認識した上で、その偏りを楽しんでいるところだ。政権批判的な朝日・毎日は書いているけど、政府翼賛的な読売・産経は書いていない。ということは、政府にとって都合の悪いニュースなのだ。そんなふうに“偏り”を楽しんでいる。なんとも大人な味わい方だ。それに比べて「オールドメディアだ!」と騒いでいる人がなんと幼稚なことか。

 新聞の地位がどんどん低下している今だからこそ読みたい、ネットリテラシーを高めてくれる本。



小川 哲

『君のクイズ』


感想はこちら

 小説。

 クイズの大会で、一文字も問題が読まれないのに早押しボタンを押したプレイヤーが正解を答えて優勝した。なぜ彼は問題を聞かずに正解を導きだすことができたのか。八百長か、問題の漏洩か、それとも……?

 ぶっとんだ導入でありながら、「なぜ彼は正解できたのか?」という謎をきわめて論理的に解き明かしていく過程がなんともスリリング。

 そして競技クイズの奥深さが伝わってくる。豊富な知識があればクイズが強くなるのかと思っていたけど、ぜんぜんそんなことないんだねー。



川上 和人

『無人島、研究と冒険、半分半分。』


感想はこちら

 ノンフィクション。

 鳥類学者である著者が、昆虫の研究者、植物の研究者、カタツムリの研究者、プロの登山家、NHKの撮影班などと探索チームを結成して無人島探索に挑んだ記録。

 それぞれ得意分野を持った男たちが集結してミッションにあたる。まるで王道の冒険ストーリーのよう。文章もおもしろいし、書かれている研究内容も興味深い。こういう本が国の研究力を上げるのだ。



松岡 亮二

『教育格差 階層・地域・学歴』



感想はこちら

 ノンフィクション。

 様々なデータをもとに、日本に存在する「教育格差」について書いている。ただし著者は教育格差が良いとも悪いとも書いていない。客観的なデータに徹している。

 教育問題ってド素人でも一言いいたくなる分野だからこそ(この本にはそんなド素人の意見で大失敗したゆとり教育のことも書いてある)、口を挟む前にまずはこういう本を読んでほしい。



高比良 くるま

『漫才過剰考察』



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 M-1グランプリチャンピオンによる漫才考。

 読めば読むほど、高比良くるまさんはすごい漫才師だという感想と、芸人に向いてないんじゃないのという相反する感想が浮かんでくる。

 とにかく表現者としての我が感じられない。「おれはこれをおもしろいと思う。だから世間がどう思おうと表現する!」みたいなエゴがまるでない。とにかく世間が求めているものを考えてそれを最善の形で表現したら最強の漫才師になっていました、みたいな人だ。芸事の本というよりマーケティングの本を読んでいるみたいで新鮮だった。



鹿島 茂

『小林一三 日本が生んだ偉大なる経営イノベーター』



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 評伝。阪急電鉄、阪急百貨店、宝塚歌劇団、東宝などの創業者である小林一三氏の生涯を書く。

 今ある市場で勝負するのではなく、ない市場を生みだすという経営手法はすごい。人口学を元に将来の予測をかなり正確に立てていたからこそできたことだろう。

 そして今の経営者とまったく違うのは、「儲けすぎないようにする」という精神を持ちつづけていたこと。税金をかすめとってでも儲けてやろうとしている現代の経営者たちにぜひ読んでもらいたい本。



小川 哲

『ゲームの王国』



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 小説。

 なんだかわからない。だがすごい! この本を正確に表現する言葉をぼくは持たない。

 史実に正確な部分と、とんでもない大嘘が入り混じる。だがどちらのエピソードも魅力的。どこに連れていかれるのかさっぱりわからない(作者もわからずに書いていたらしい)。

 「よく理解できないけどおもしろい」という読書体験、幼いときに物語を聞かされたときの感覚に似ている。



藤井 一至

『土と生命の46億年史 土と進化の謎に迫る』


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 ノンフィクション。

 人間が作ることができないのが生命と土なのだそうだ。 『風の谷のナウシカ』で「土から離れて生きられないのよ」という台詞があるが、まさにその通り、土が世界のすべてを決めているのだということがよくわかる。

 土の複雑さ、偉大さを実感して大地讃頌したくなる一冊。



松原 始

『カラスはずる賢い、ハトは頭が悪い、サメは狂暴、イルカは温厚って本当か?』



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 カラスの研究者が、人間が動物に対して抱く「イメージ」と実態の差異を説明する本。人間から愛されている動物が残酷(と人間には見える)な習性を持っていたり、人間から嫌われがちな動物が意外に優しい(と人間には見える)行動をとっていたり。すべての動物はただ生きて子孫を残すためだけに行動しているのだが、人間はその行動を自分たちと重ねて勝手な意味を見いだしてしまう。

 ペットに対してなら勝手に感情を読み取ってもいいんだけど、冷静な判断が求められるときでもついついストーリーを作ってしまう(かわいい動物のほうが絶滅しかかったときに保護されやすい)。温かい眼と冷静な眼のふたつを持つ必要がある。



浅倉 秋成

『教室が、ひとりになるまで』




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 SFミステリ小説。

「嘘を見やぶることができる」という超能力を身につけた主人公。この能力を使い、クラスメイトたちを死に追いやった犯人を見つけ、犯行を食い止めなくてはならない。能力者は主人公の他に三人いることはわかっているが、それが誰で、どのような能力なのかはわからない……。

 実にスリリング。そしてミステリとしてフェア。材料はすべて序盤に提示され、後付けのルールが出てきたりしない。

 さらにすごいのは、SFやミステリ要素はあくまで味付けで、青春小説としてもしっかり読みごたえがあること。SFミステリってえてしてパズルっぽくなってしまうんだけど、『教室が、ひとりになるまで』は小説として高い完成度を誇る作品だった。



 来年もおもしろい本に出会えますように……。


【読書感想文】更科 功『化石の分子生物学 生命進化の謎を解く』 / 研究の道の険しさを突きつける本

化石の分子生物学

生命進化の謎を解く

更科 功

内容(e-honより)
ネアンデルタール人の謎から、ジュラシック・パークの夢まで、太古のDNAが明かす驚きの生命史。化石がとどめるかすかな“記憶”に耳を澄ませる分子古生物学者たちの夢と冒険の物語―。

  DNA分析を使って古生物の生態について調べる分子古生物学者の取り組みを紹介した本。

 新書ではあるものの、専門用語もばんばん出てくるので、素人にとって決して読みやすい本ではない。たぶんこれでも平易に書いてくれてはいるんだろうけど……。


 カンブリア紀の爆発で、実際に活躍した遺伝子を明らかにする。そう考えた私は、軟体動物をターゲットにした。巻貝や二枚貝などの軟体動物の貝殻は化石としてよく残り、カンブリア紀の爆発で獲得された硬組織の中でも代表的なものだからだ。
 しかし、あまりに古い化石には、DNAやタンパク質は残っていない。どんなに保存のよい化石を見つけたとしても、カンブリア紀の化石にはDNAやタンパク質は残っていないだろう。カンブリア紀の爆発は五億年以上も前の出来事である。恐竜が生きていた時代よりも、ずっと昔なのだ。では、ほかにやり方はないだろうか。
 昔のDNAやタンパク質があれば、それにこしたことはない。しかし、考えてみれば、現在生きている生物のDNAやタンパク質にも、歴史情報は含まれているのだ。
 DNAは、親から子に伝える遺伝情報をもっている。また、個体自身が成長するための発生情報もDNAの中にある。しかし、これらの遺伝情報や発生情報は、かならず過去を引きずっている。なぜなら、これらの情報は、進化の過程で形成されてきたものだからだ。
 ただ、現生生物のDNAが過去を引きずっていると言っても、あまりに昔の情報は、ぼやけているかもしれない。解読するのは難しいかもしれない。しかし、とにかく量が多い。化石の中のDNAやタンパク質に比べたら、現生生物のもっているDNAの量は、文字通り桁違いである。手に入れられるサンプルの数は、比べ物にならない。これを利用しない手はないだろう。

 大昔の生物のことを調べるなら化石を調べるしかないだろう、とおもっていたけど、それは素人の考え。原生生物のDNAを調べることでもう絶滅した生物の遺伝子を突き止める。そんなことができるんだー(どうやってやるかは、正直読んでもよくわからんかった)。




 新書にしてはずいぶん読みにくい本だとおもっていたら、あとがきを読んで著者の意図がわかった。

 科学の営みは、数学のような意味での厳密なものではない。100%正しい結果は得られないのだ。むしろ、大きな川の流れのように、右や左に曲がりくねりながら、ゆったりと真理に接近していくイメージに近いだろう。
 その川の流れの中で、人は過つこともある。良心的な科学者でも誤りはおかすのだ。それらを全部ひっくるめて、科学は人類のすばらしい財産だと私は思う。 私はこの本を、うまくいった結果だけをならべた成功物語にはしたくなかった。そういう本で科学を好きになった人は、科学のつらさやあやうさを知ったときに、科学から離れていくだろうから。

 科学の本というより科学史の本だったんだよね。○○と考えた人がいたけどこの考えは間違いだった、かつては××と思われていたけどその後の研究で誤りだったことがわかった……という「失敗史」に多くのページが割かれている。

 こういう「100回やって99回失敗」こそが研究者のリアルであり、それに耐えられる人しか成功しないんだろう。だから初学者に向けて「かんたんに世間をあっと言わせる研究結果が出るとおもうなよ」という戒めを込めてこの本を書いたんだろうけど……。

 正直、ぼくのように研究の道に進みたいわけではなく、「ただおもしろい研究結果だけ知りたい」という人にとってはあんまりおもしろい本じゃなかったな。


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2025年12月19日金曜日

小ネタ43 (この世にひとりも存在しない人 / 桃 / 子役)

この世にひとりも存在しない人

「あーもしもし。何年か前に、そちらの市役所に電話して『クマを殺すな。かわいそうだろ。人間のエゴで動物を殺すな!』ってクレーム入れた者だけど。
 ニュース見てて、おれの考えがまちがってたことに気づいたよ。ほんとに申し訳なかった」

「嘘つけー! 縁もゆかりもない役所にクレームの電話するやつが己の過ちを認めて反省できるわけないだろー!」


「りんごを収穫するところを思い浮かべてください」と言うと、りんごが木になっているところをイメージできる。

だが「桃を収穫するところを思い浮かべてください」だと、頭に浮かんでくるのは桃が川から流れてくる映像だけ。


子役

役者をやってる子どものことを「子役」と呼ぶのは変じゃないか?

「悪役」は悪人を演じる役者、「刑事役」は刑事を演じる役者のことだ。

であれば「子役」かどうかは「芝居による」としか言いようがない。

30歳でも子どもを演じていれば子役だし、逆に5歳でも大人を演じていれば子役ではない。

役者をやってる子どものことは「子役」ではなくちゃんと「ジャリタレ」あるいは「激イタ親持ちガキ」と呼ぶべきだ。



2025年12月17日水曜日

小ネタ42 (いい返事 / SING / 秋服コーデ)

 いい返事

 長年いろんな人間を見てきて得られた真理のひとつに「返事がいいやつはだめなやつ」というものがある。

 こちらが何かを注意したときに「はい!」と気持ちいい返事をしてくるやつ。打てば響く、というやつだ。そういうやつは同じ失敗を何度もくりかえす。

 なぜなら何も考えずに返事をしているからだ。「この人はどういう意図でこんな注意をしているんだろう」とか「おれの考えとこの人のやり方は違うんだけどなあ」とか「いやそれ逆にあんたがまちがってるだろ」とか何も考えずにとりあえず「はい!」と返事をするくせがついているのだ。

 ある種の部活ではこういう人間を育成している。


SING

 カーペンターズに『SING』という曲がある。これはカーペンターズのオリジナルではなく、セサミストリートで用いられていた曲のカバーらしい。

 これは完全に想像なのだが、きっとカーペンターズが営業の仕事で子どもが多い現場に行って、なかなか曲を聴いてもらえなくて苦労して、子どもウケするようにセサミストリートの曲を歌いはじめたんじゃないだろうか。

 以前なんばグランド花月に行ったとき、春休みだったので子どもや学生の客が多く、2丁拳銃が童謡をテーマにした漫才を披露して爆笑をとっていた。きっとカーペンターズも同じことをしていたにちがいない。


秋服コーデ

 同僚の女性が「Googleで『秋服コーデ』で検索するとレディースファッションばかりが表示される。Googleはちゃんとユーザーが女性であることを認識しているんでしょうね」と言っていた。

 半分正解だが半分間違いだ。なぜなら秋服とは女性だけが持つ概念で、男の服に秋服なんてものは存在しないからだ。

 男の服には夏服と冬服しかない。より正確に言えば半袖と長袖があるだけだ。

 夏は半袖。秋は長袖。秋服にアウターを羽織ったら冬服で、冬服からアウターを脱いだら春服だ。



2025年12月16日火曜日

【カードゲームレビュー】はらぺこバハムート

 はらぺこバハムート


 2人用対戦カードゲーム。

 カードの枚数はたったの16枚。同じカードは2枚としてなく、それぞれが異なる効果を持っている。それぞれ「ライフ」を4ポイントずつ持っており、カードを交互に出して相手のライフを0にした方の勝利。


 相手のライフをなくすゲームだが、相手のライフを削ることのできるカードは意外と少なく4枚しかない。相手に2ダメージを与える『そらとぶナイフ』、毎ターン相手に1ポイントを与える『こどもバハムート』、受けたダメージを相手にはねかえす『はねかえしゴブリン』、そして一度に4ダメージを与えることのできる『はらぺこバハムート』だ。

 一撃必殺の『はらぺこバハムート』を出せば勝ちじゃん! でもまあそうかんたんにはいかないんだろうな。

 そのとおり、あたりまえだがかんたんには一撃必殺は決まらない。まず『はらぺこバハムート』は手札から直接出せない。他のカードと交換する、捨て札から復活させる、などの手段をとる必要がある。首尾よく『はらぺこバハムート』を出しても、ダメージを与える前に相手に「モンスターを葬る」カードを使われてしまうこともある。

 さらにこのゲームを複雑にしているのが「打ち消しの書」というアイテム。相手の出した札を無効化することができるアイテムだ。さらに「打ち消しの書」を2つ消費することで、「相手の打ち消しを打ち消す」という荒業を使うこともできる(「打ち消しの打ち消しの打ち消し」はできない)。

 この「打ち消しの書」が強力なので、序盤~中盤は「いかに相手に打ち消しの書を消費させるか」の攻防がくりひろげられることになる。

「いかにダメージを与えるか」ではなく、「いかに相手がダメージを防ぐ方法を削れるか」の戦いだ。なかなか奥が深いじゃないか。

 最初は攻撃のことばかり考えてしまうが、何度かやっているうちに防御の重要性に気づく。将棋の初心者が「どうやって詰ますか」を考えてしまうのに対し、中級者が「どうやって守りを固めるか」と考えるのにも似ている。


 そう、味わいがけっこう将棋に似ているのだ。

 もちろんカードゲームなので運には左右されるが、おもっていたよりも運の要素は小さい。

 カードは全部で16枚しかなく、自分が数枚持っていて、捨て札にも何枚かあるわけだから、相手が持っているカードはある程度見当がつく。おまけに「相手の手札を見る」「山札をすべて見る」といった効果を持つカードもあるので、相手の手札がだいたい把握できる。なので「たぶん相手はあのカードを出してくるから、そしたらこれを出す。すると相手は取り消しの書を使うだろうから……」と数手先を読む思考が求められる。

 自分の読み通りに相手が動いてくれて勝つことができればうれしいが、運の要素もあるので必ずうまくいくとはかぎらない。「相手があのカードさえ引かなければ勝てる!」という局面で、まんまとそのカードを引かれて負ける、なんてことも起こる。


 このバランスが絶妙で、子どもと遊ぶのにちょうどいい。子ども相手に本気でやってもけっこう負ける。でも運任せでもなく、戦略を持って戦えば勝率は上がる。

 1ゲーム5~10分ぐらいで手軽なのに、おもっていたより奥が深い。対象年齢10歳以上なだけはある。

 軽く、でも頭を使ったゲームをしたいときにおすすめ。


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2025年12月15日月曜日

【読書感想文】レイチェル・カーソン『沈黙の春』 / 外来種は環境にいいという60年前の主張

沈黙の春

レイチェル・カーソン(著)  青樹 簗一(訳)

内容(e-honより)
自然を破壊し人体を蝕む化学薬品。その乱用の恐ろしさを最初に告発し、かけがえのない地球のために、生涯をかけて闘ったR・カーソン。海洋生物学者としての広い知識と洞察力に裏付けられた警告は、初版刊行から四十数年を経た今も、衝撃的である。人類は、この問題を解決する有効な手立てを、いまだに見つけ出してはいない―。歴史を変えた20世紀のベストセラー。待望の新装版。

 環境問題について語る上で避けては通れない古典的作品。初出は1962年。今もって最も有名な環境問題の本といってもいい。

 (学生時代に英語の問題集に載っていたのでごく一部だけは読んだことがあった気がするが)刊行から60年以上たって、今さらながら読んでみた。



 今さら『沈黙の春』を手に取ったきっかけのひとつが、ポール・A・オフィット『禍いの科学 正義が愚行に変わるとき』に『沈黙の春』の引き起こした被害が書いてあったからだ。

『禍いの科学』によれば、『沈黙の春』が有機塩素系の農薬であるDDTの環境への悪影響を主張した結果、世界的にDDTの使用が禁止された。だがDDTはマラリアなどの疾病を抑えるためのきわめて効果的な薬だった。DDTが禁止された結果、ほぼ根絶できていたマラリアは再流行し、結果として5000万人がマラリアで命を落とした。そのほとんどは5才未満の子どもだった。

 ことわっておくと、『沈黙の春』にはDDTなどの化学農薬や殺虫剤をすべて使用禁止にせよとは書いていない。ただ、環境に与える害を述べ、不適切な使用、過度の使用に対して警鐘を鳴らしただけだ。

 だが、おそらくこの本は大きな反響を呼んでしまった。結果、カーソンが書いた以上に(カーソンはマラリア予防でのDDTの使用禁止は訴えていない)DDTは敵視され、過度に制限されてしまった。言ってみれば、科学肥料や殺虫剤のバカな使い方を批判したら、別のバカが過剰に反応してしまったというところだ。

「とにかく殺虫剤をばらまいて環境を破壊する人間」と「すべての農薬や殺虫剤を敵視してむやみに禁止させようとする環境保護主義者」は、主張こそ反対ではあるが思考はきわめて近いところにある。どちらも実験や観測を軽視して感情のために行動し、己の行動を顧みないという点が一緒だ。

 環境問題にかぎらず、あらゆる問題がそうだよね。政治的極右と極左とか、エネルギー問題とか、両端にいる人たちって実はけっこう似た者同士なんだよね。バカ同士仲良くしなよ、と言いたくなる。

『沈黙の春』は(おそらく著者の想定以上に)大きな反響を引き起こした。ちょうど、虫を殺すためだけに殺虫剤を使ったのに、他の虫や鳥や魚や獣まで殺してしまったように。


『沈黙の春』が過剰な反応を引き起こしたのは、刊行されたタイミング(科学の進歩によるひずみが表面化してきたころ)が良かったのもあるだろうし、カーソン氏の文章がうますぎるのもあるとおもう。情景を想起させる力が強いし、よくできたストーリーは人間の感情に訴えかけてくる。

 撒布剤、粉末剤、エアゾールというふうに、農園でも庭園でも森林でも、そしてまた家庭でも、これらの薬品はやたらと使われている。だが、《益虫》も《害虫》も、みな殺しだ。鳥の鳴き声は消え、魚のはねる姿ももはや見られず、木の葉には死の膜がかかり、地中にも毒はしみこんでいく。そして、もとはといえば、わずか二、三の雑草をはびこらせなため、わずか二、三の昆虫が邪魔なためだとは……。地表に毒の集中砲火をあびせれば、結局、生命あるものすべての環境が破壊されるこの明白な事実を無視するとは、正気の沙汰とは思えない。《殺虫剤》と人は言うが、《殺生剤》と言ったほうがふさわしい。
 化学薬品スプレーの歴史をふりかえってみると、悪循環の連鎖そのものといえよう。DDTが市販されてから、毒性の強いものがつぎからつぎへと必要になり、私たちはまるでエスカレーターにのせられたみたいに、上へ上へととどまるところを知らずのぼっていく。一度ある殺虫剤を使うと、昆虫のほうではそれに免疫のある品種を生み出す(まさにダーウィンの自然淘汰説どおり)。そこで、それを殺すためにもっと強力な殺虫剤をつくる。だが、それも束の間、もっと毒性の強いものでなければきかなくなる。そしてまた、こんなこともある。殺虫剤をまくと、昆虫は逆に《ぶりかえして、まえよりもおびただしく大発生してくるのだ。これについては、あとでくわしく書こう。とまれ、化学戦が勝利に終ったことは、一度もなかった。そして、戦いが行われるたびに、生命という生命が、はげしい砲火をあびたのだった。

 読んでいると「このままじゃだめだ。なんとかしないと」という気になってくる。60年後の日本人にすら強く訴えかけてくるのだから、当時の人々はより強い危機感を抱いたことだろう。

 多くの客観的な数字やグラフを並びたてるよりも、一行の詩のほうがはるかに力強く人間の心を動かしてしまう。



『沈黙の春』はそこそこのページ数があるが書かれている内容はシンプルで、だいたい同じことのくりかえしだ。

 害虫を殺すために殺虫剤を使っているが、その薬は他の生物も攻撃する。他の虫、魚、鳥、場合によっては獣やヒトも。直接害を及ぼすこともあるし、間接的に(殺虫剤を浴びた虫を食べることなどで)健康被害を受けることもある。

 また、狙った害虫だけを殺せたとしても、それがさらなる悪い結果を生むこともある。害虫が激減 → その害虫を食べていた虫や魚や鳥がエサ不足で減る → 捕食者がいなくなったことで再び害虫が増える(しかも薬品に対する耐性をつけている)、ということも起こる。

 これと似たようなことは、ほかにもある。私たちがふだんかまわずまったく無知のまひっこぬいている雑草のなかにも、土壌を健康に保つのに、なくてはならないものが、いろいろある。また、いま《雑草》と一言のもとに片づけられているものも、土壌の状態を的確に示すバロメーターとなっている。一度化学薬品が使われれば、もちろんこのバロメーターは狂ってしまう。
 何でも化学薬品スプレーで解決しようとする人たちは、科学的に重要な事柄――つまり植物の群落をそのまま残しておくのがほかならず科学的にどれほど大切であるか、を見落している。それは、私たち人間の活動がひき起す変化を知る物差なのだ。また、それは野生の生物たちのすみかでもある。

 生態系は無数の生物が複雑にからまりあって構成されているので、ピンポイントで「この生物だけを絶滅させる」「この生物だけを増やす」ということができない。何かが増減すれば、必ず他の生物も影響を受ける。



 そのあたりは納得できる。殺虫剤の農薬の過剰な使用は良くない。その通りだとおもう。

 ただ同意できないのは、終章『べつの道』で著者が提唱する化学薬品の代わりとなる手法。

 微生物殺虫剤というと、ほかの生物を危険にさらす細菌戦争を思い浮べるかもしれないが、そんな心配は無用だ。化学薬品と違って、昆虫病原体は、ある特定の昆虫をおそうだけなのだ。昆虫病理学の権威エドワード・スタインハウス博士は言う―――《本ものの昆虫病原体が、脊椎動物に伝染病を発生させたことは実験においてもまた実際にも一度もなかった》。昆虫病原体は、きわめて特殊なもので、ごくわずかの種類の昆虫だけ、ときには一種類の昆虫だけしかおそわない。高等動物や植物に病気をひき起すものとはまたべつの系統に所属している。スタインハウス博士が指摘しているように、自然界の昆虫に病気が発生するときには、その病気はいつも昆虫にかぎられ、それが寄生する宿主植物や宿主動物に及ぶことはない。

 要するに、ある種の虫を減らしたいのであれば、その虫の天敵となる菌、虫、鳥などを連れてきて、捕食(または病気に感染)させよ、というのが著者の主張だ。

 いやあ……。それはそれでだめでしょ……。

 外来種とかさんざん問題になってるし、沖縄でハブ退治のためにマングースを連れてきたらマングースがハブ以外の生物を食べて害獣化しちゃったなんて例もあるし、うまくターゲットとなる虫を減らせたとしてもどこにどんな影響が出るかわからない。

 60年後の世界から批判するのはずるいけどさ。でも化学薬品はダメで外来種ならいいというのは、やっぱり近視眼的だ。生態系は複雑で影響を予想できないのとちゃうかったんかい。


 環境問題ってつきつめていけば最後は「人間がすべての文明を捨てて原始的な生活をするしかない。子どもや働き盛りの人がばたばた死んでもそれはそれでしかたない」になっちゃうから、どこかで許容するしかないんだよね。農薬を使わないほうがいいといったって、農薬なしで今の人口を支えられないのもまた事実なわけで。

 まるで環境問題に“正解”があって、その“正解”を著者が知っているような書き方がきになったな。研究者として誠実な態度ではない。ま、だからこそ大きな反響を呼んだんだろうけど。世間は「Aが正しそうだがBの可能性もあるしCも否定できない」という人よりも、「Aが正解! 絶対A! 他はだめ!」っていう単純な人に扇動されてしまうものだから。


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2025年12月11日木曜日

知識がなくても正解にたどりつけるクイズ

「知識がなくても正解にたどりつけるクイズ」が好きだ。


「アメリカ合衆国の首都は?」という問題は、知っているか知らないかだ。知っていれば答えられるし知らなければ答えられない。それだけ。頭をひねる必要がないからおもしろくない。

 ぼくが好きなのは、答えを知らなくても、周辺知識から推理して答えにたどりつけるクイズだ。

 お気に入りの「知識がなくても正解にたどりつけるクイズ」を2つ出題しよう。



1. 日本の市町村(東京23区除く)のうち、JRの駅がなく、かつその中でもっとも人口が多い市町村はどこ?


2. ニュージーランドには人間がやってくるまで哺乳類が1種類しかいなかった。その哺乳類とは何か?(ヒント:ネズミではない)


以下、考え方と答え。

【読書感想文】堀井 憲一郎『若者殺しの時代』 / 成熟しすぎて腐ってしまった社会

若者殺しの時代

堀井 憲一郎

内容(e-honより)
クリスマスが恋人たちのものになったのは1983年からだ。そしてそれは同時に、若者から金をまきあげようと、日本の社会が動きだす時期でもある。「若者」というカテゴリーを社会が認め、そこに資本を投じ、その資本を回収するために「若者はこうすべきだ」という情報を流し、若い人の行動を誘導しはじめる時期なのである。若い人たちにとって、大きな曲がり角が1983年にあった―80年代に謎あり!ずんずん調べてつきとめた。

 様々な史料、そして著者自身の体験・記憶を元に、1980年代に「若者」の扱いがどう変わったのかを記録した本。

 史料がかなり偏っているし記憶に頼っている部分もあるので信頼性はないが、それでも「時代の空気」みたいなものは十分に伝わってくる。なにより堀井さんの語り口がおもしろい。いろんな人の文章を読んできたが、その中でも好きな文章ランキング上位に入る。

 ぼくは1980年代生まれなので、1980年代の空気というものをまったくといっていいほど知らない。新聞やテレビで自分の手の届かない“世間”を知るようになった頃にはもう1990年代だった。だから著者の語る「1980年代の前と後」の話はおもしろかった。なにしろぼくは“後”のほうしか体験していないのだから。



「若者」向けのマーケティングがなされるようになったのが1980年頃だと著者は語る。

 おとなにとって、若い連中とは、社会で落ち着く前に少々あがいてるだけの、若いおとなでしかなかったのだ。その後、「若いおとな」とはまったく別個の「若者」という新しカテゴリーが発見され、「若者」に向けての商品が売られ、「若者」は特権的なエリアであるかのように扱われる。若い、ということに意味を持たせてしまった。一種のペテンなのだけど、若さの価値が高いような情報を流してしまって、とにかくそこからいろんなものを収奪しようとした。そして収奪は成功する。
 あまりまともな商売ではない。田舎から都会に出てきたばかりの人間に、都市生活に必要なものをべらぼうな値段で売りつけているのと変わらない。それも商売だと言えば商売だが、まともな商売とは言えない。自分たちでまだ稼いでいない連中に、次々とものを売りつけるシステムを作り上げ、すべての若い人をそのシステムに取り込み、おとなたちがその余剰で食べてるという社会は、どう考えてもまともな社会ではないのだ。まともではない社会は、どこかにしわ寄せがくる。それが21世紀の日本と日本の若者だ。

 それ以前は、社会人になれば「大人」のカテゴリだったと著者は主張する。

 1980年代といえばだいたい団塊ジュニア世代が十代だった頃と一致する。つまり「若者」の数が多かった時代だ(それ以降ずっと減り続けている)。しかも日本は好景気。数多くいる「若者」にはそこそこ自由に使える金もあった。

「若者」は金になると気づいた大人たちが様々なメディアで「これが若者の理想の生活」「若者のカップルはこう行動する」「このアイテムを持っているのがナウい若者」とはやし立て、まんまと若者から収奪することに成功した……というのが著者の主張だ。

 そんなものかもしれない。ちがうかもしれない。なにしろぼくは80年代以前を知らないので。

 でも少なくとも90年代~00年代には「理想の若者像」がなんとなくあった気がする。こういう服を着て、こういう化粧をして、こういう所に行くのがイケてる若者ですよ、という像が。それは若者自身が抱いていたものというより、もっと上の世代が作って押しつけようとしていたものだったんだろうけど。

 最近はどうなんだろう。なんとなくだけど、なくなりつつあるような気がする。新聞やテレビが力を失い、ネット上では趣味が細分化され、SNSでの流行はあれどすごいスピードで消化され、1週間前のトレンドをもう誰も話題にしなくなっている。

 それに、若者の数がすごく少ない(今の10代は100万人ぐらいで全人口の9%ぐらい。1980年代にはこの倍ぐらいいた)ので「若者」市場が魅力的でなくなったのもあるだろうしね。しかも今の若者は金を持ってないし。



 社会の動きが止まった、という話。

 80年代の後半、バブルの時期は、まだ社会が動いていた。90年代に入ってすぐのころまで、まだ社会はダイナミックだった。つまり、がんばれば逆転可能だったのだ。
 でも90年代に入り、動きがにぶくなり、ついにほとんど止まってしまう。
 がんばれば逆転、の可能性がなくなって、もっともわりを食うのは若者である。「こいつは見どころがある」程度のレベルでは、相手にしてもらえなくなった。可能性があるだけでは、誰も見守ってくれなくなったのだ。入試に遅れそうな大学受験生に対して、1980年代が持っていた寛容さは、どんどん姿を消している。若者を許しておいてやろう、というおとながいなくなってしまった。それは、戦後生まれの世代とそのあとの世代が、まったくおとなになろうとはせず、いつまでたっても自分たちが若者のつもりだからである。上の世代がおとなになって、おとなを演じてくれなければ、10代や20代の若者は、若者にさえなれないのだ。若者にとってつまらない時代がやってきた。若者がおとな社会にとびこむには、札束で頬を叩き、ルールを無視して実績を作っていくライブドア的手法しか見出されなくなった。
 若者がゆっくりと殺され始めたのだ。

 個人的に強く印象に残ったのがこの文章。

「こいつは見どころがある」程度のレベルでは、相手にしてもらえなくなった。

 昔がどうだったかは知らないけど、たしかに90年代以降、ぼくが知るかぎりでは「若者の可能性に賭ける」だけの余力は日本の社会にはほとんどない。

 上に引用したのはずいぶん抽象的な文章で、裏付けとなるようなデータもないけど、ぼくの実感としてはしっくりくる。わけのわからんやつだけど若さに賭けていっちょ任せてみよう、という余裕を持っている企業や組織がどれだけあるんだろうか。それだけ日本社会が成熟したということでもあるし、成熟しすぎて腐ってしまったのかもしれない。



 今の日本を見てみると、多くのものが戦後に作られたシステムで動いている。

 マイナーチェンジはくりかえしているが、大きなシステムは1960年頃とあんまり変わっていない。

 問題はここにある。
 五十年かけて作ったシステムを、誰も手放すことができなかったのだ。
 ゴールしたことも知らされなかった。
 そのまま走り続けた。1995年のゴールから十年。無意味に走り続けたのだ。息も詰 まってくるはずである。
 でも次なる目標が設定されない。目標がおもいつかないのだ。おもいつかないのなら、 しかたがない。
 僕たちの社会は、古く、意味がなくなった目標のもとで進むことになった。「これから もまだ裕福で幸せな社会をめざして右肩上がりで発展してゆく」ことになったのだ。
 無理だ。おもいっきり無理である。わかってる。でもしかたがない。これから、いろん なものが過剰になる。 富が偏在する。どこかで綻びが目立ち始め、いつか破裂する。 それ でも進むしかない。僕たちは「いまのシステムを手放さず、このまま沈んでいくほう」を 選んでしまった。
 「大いなる黄昏の時代」に入ってしまったのだ。

 たとえば軍事に関していえば、「アメリカの核の傘に入って、アメリカと仲良くしておけば大丈夫」という感じでずっとやってきた。戦後80年それでやってきた。だがこれが続くという保証はない。

 経済に関しても「経済成長を続けていけば大丈夫。好不況の波はあれど長期的にはGDPが増えて国が豊かになる」という方針でやってきた。そのやりかたはもうとっくに破綻している。人口がどんどん減っていく社会で経済発展が続くはずがない。嘘だということにみんな気づいている。でも気づかないふりをして、80年間やってきたやり方を続けようとしている。その“嘘”のひずみが若者に押しつけられていても、年寄りを守るために見て見ぬふりをしている。



 ある時期を境に、若者の未来が年寄りに収奪されるようになった。『若者殺しの時代』ではその転機となった時代の流れを書いている。

 が、“若者殺しの時代”に抗う方法は書いていない。そんなものはないのだろう。年寄りだけが感染する致死性の高いウイルスでも流行しないかぎりは。

 いよいよ国がぶっ壊れてしまうまでは年寄り優先のシステムを続けていくんだろうな、この国は。


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2025年12月10日水曜日

【読書感想文】高野 秀行『未来国家ブータン』 / 不自由が幸福の秘訣

未来国家ブータン

高野 秀行

内容(e-honより)
「雪男がいるんですよ」。現地研究者の言葉で迷わず著者はブータンへ飛んだ。政府公認のもと、生物資源探査と称して未確認生命体の取材をするうちに見えてきたのは、伝統的な知恵や信仰と最先端の環境・人権優先主義がミックスされた未来国家だった。世界でいちばん幸福と言われる国の秘密とは何か。そして目撃情報が多数寄せられる雪男の正体とはいったい―!?驚きと発見に満ちた辺境記。

 ブータン探訪記。

 正直、高野秀行さんの他の著作と比べると、わりとふつうの旅行記に収まっているかな。高野さんのノンフィクションは「ほんとにそんな民族いるのかよ!?」「21世紀によくこんな国が成り立ってるな!」と我々とはまったく異なる文化を紹介してくれるのでおもしろいのだが、『未来国家ブータン』を読んでいておもうのは「ブータンってけっこう日本に似ているところがあるな」とか「昔の日本もブータンみたいだったのかもなあ」といったことで、あまり驚きはない。

 ブータンは「半鎖国国家」である。一般の旅行者は一日二百ドルも払う義務があり、基本的に観光ガイドを連れて、予定したルートしか回れないという。私は旅行者でなく政府と一緒に調査に来ている。「どこへ行ってもいい」と聞いていたから、おもしろい情報があればそこに行ってみるくらい当然できるだろうと思っていたのだが、それは間違いだった。
 行く場所は自由だが、それは前もって許可を申請しないといけない。それだけではない。その場所に到着する日にち、そこを出る日にちも申請し、その日程通りに動かなければいけない。
 要所要所に関所のような検問所があり、提出した書類の日にちとズレがあると通してもらえなくなるという。

 もしも明治維新が起きずに日本が鎖国を続けていたら、ひょっとしたらブータンみたいになっていたのではないか……。そんな想像もしてしまう。

 企業の依頼で生物資源探査に向かう、という(高野さんにしては)まっとうな目的があるのも、ルポルタージュとしてものたりない理由のひとつだ。



 ブータンは中国・インドという二大大国に挟まれる位置に存在している。人口は約87万人。世田谷区民より少ない。

 ブータンは小さな国だ。それは今までもさんざん見てきたが、ここタシガンに着いて改めて驚かされた。なにしろ、ブータンでも最も人口の多い土地の中心地なのに、呆れるほど小さい。端から端まで歩いて十分かからない。山の斜面に石造りとコンクリートの建物が数十軒へばりついていて、イメージとしては、箱根登山鉄道の一つの駅(例えば強羅)の周辺みたいだ。
 町の総人口が少ないうえ都市化も進んでいない。
 ホテルの部屋からタシガンの町を眺めていると、「どうしてブータンは国として認められているのか」という恐ろしい疑問をおぼえてしまう。
 別に国である必要はないんじゃないか。中国雲南省やタイ北部やインド東部の山奥の州や県であってもおかしくない。いや、そっちのほうがよほど自然だろう。
 私が思うくらいだから、ブータン王国を運営する人たちは、間違いなくそれを不安に思うはずだ。だからことある毎に「ブータンは一つ」「ブータン人は独自の民族」と訴えるわけである。
 なにしろインドと中国という人口十数億の二大超大国の間に挟まっているのだ。いつ、どちらかに飲み込まれるかわからない。現実にブータンと近しい二つのヒマラヤの国、シッキムとチベットはインドと中国にそれぞれ吸収されてしまった。
 シッキム王国はネパール系移民の数が元の住民を上回り、住民投票でインドに帰属することになってしまったし、チベットはご存じのとおり中国に侵略され、そのまま同化の道をたどっている。
 ブータンの独自路線というのは、環境立国にしても伝統主義にしても理想を追い求めた結果ではなく、「独自の国なんですよ!」と常にアピールしつづけないと生き残れないブータンの必死さの現れなんだとしみじみ思う。

 なるほど。このあたりはちょっとイスラエルにも似ている。イスラエルは(宗教的に対立する)アラブ諸国に囲まれているので、アメリカとの結びつきを強くしたり、諜報活動に力を入れたりしているそうだ。

 だがブータンは経済や軍事ではなく、「環境保護」「国民の幸福度」といった独自の路線で生き残る道を選んだ。これはいい戦略だとおもう。へたに軍備に力を入れたらかえって攻め込まれる口実を与えるだけだし、山ばかりの内陸国で経済発展はかなりむずかしいだろう。

 そして先進国が「経済成長ばかりじゃだめだ。物質の豊かさだけでは幸福にはなれない」と気づいたとき、気づけばブータンという理想的(に見える)国があったのだ。周回遅れで走っていたらいつのまにか先頭になっていたようなものである。

 ブータンがこの状況を完全に読んでいたわけではないだろうが、とにかく独自路線を貫いていたブータンは世界から注目される国になったのである。とりあえず今のところは作戦成功していると言ってよさそうだ。




 ブータンでは、1970年代に国王が提唱した「国民総幸福量」を提唱した。国内総生産のような物質的豊かさではなく、精神面での豊かさを強調したのだ。

 現にブータン国民は自身が幸福と感じている人が多く、結果、「世界一幸せな国」とも呼ばれるようになった(※ ただし2010年頃からはスマホの普及などで海外の情報が入ってきたこともあってブータン国民が感じる幸福度は低下してきている)。

 ブータン国民の「幸福」の原因を高野さんがこう考察している。

 そうなのである。ブータンを一ヶ月旅して感じたのは、この国には「どっちでもいい」とか「なんでもいい」という状況が実に少ないことだ。
 何をするにも、方向性と優先順位は決められている。実は「自由」はいくらもないが、あまりに無理がないので、自由がないことに気づかないほどである。国民はそれに身を委ねていればよい。だか個人に責任がなく、葛藤もない。
 シンゲイさんをはじめとするブータンのインテリがあんなに純真な瞳と素敵な笑みを浮かべていられるのはそのせいではなかろうか。
 アジアの他の国でも庶民はこういう瞳と笑顔の人が多いが、インテリになると、とたんに少なくな
 教育水準が上がり経済的に余裕が出てくると、人生の選択肢が増え、葛藤がはじまるらしい。
 自分の決断に迷い、悩み、悔いる。不幸はそこに生まれる。
 でもブータンのインテリにはそんな葛藤はない。庶民と同じようにインテリも迷いなく生きるシステムがこの国にはできあがっている。
 ブータン人は上から下まで自由に悩まないようにできている。
 それこそがブータンが「世界でいちばん幸せな国」である真の理由ではないだろうか。

 なるほどねえ。自由が少ないから、悩まない。情報が少ないから、迷わない。

 うーん。たしかに幸福なのかもしれないけど、なんかそれってディストピアみたいだよなー。知らないから幸せでいられる。大いなる存在が無知な人民を支配して、人々はぼんやりとした顔で幸福に暮らす、SFでよくある話だ。

 でも「幸福」ってそんなもんなんだよね。たとえば今の女性って(昔に比べて)いろんな生き方を選べるけど、じゃあ「女の幸せは結婚して子どもを産んで育てることよ」と言われていた時代と比べてハッピーになったのかというと、うーん……。幸福って相対的なものだから、「自分は70点だけど隣の人は90点」よりも「みんなが50点で自分が60点」のほうが幸福なんだよな。昔はせいぜい「隣の花は赤い」ぐらいだったのが、今では「SNSで流れてくるどっかの誰かの花は赤い」だもんな。


 人類は「便利になれば幸福になる」と信じて突き進んできたけど、実際は逆で、便利で自由になるほど不幸の種が増えていく。それでも便利への道を進むのを止められない。幸福立国ブータンですらも。


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