ダウ90000第5回公演
『また点滅に戻るだけ』
配信にて視聴。
すばらしかった。おもしろいというより、すごさに圧倒されたといったほうがいいかもしれない。はじめてラーメンズの公演を観たときにも同じような衝撃を受けた。
とんでもなくいい舞台だったんだけど、同時にちょっと悔しさというか悲しさも感じて、というのはこれまでクリエイティブの分野で尊敬する人って年上ばっかりだったんだよね。
ところがぼくよりずっと年下で、それなのにぼくよりずっとずっとずっとおもしろいことを考えて、いいところに目をつけて、それを上手に表現する人が現れた。くそう、くやしいけど、こんなの尊敬するしかない。
以下、ネタバレ含みます。
まず、八人の使い方に感服した。
八人もの登場人物がいながら、ちゃんと全員に存在感がある。いてもいなくてもいいような人物はいなくて、全員がストーリーを進めるカギを握っている。道化役はいるが、「クラスにひとりぐらいはこんなやつもいるか」ぐらいのぎりぎりのリアリティ。ストーリーの進行や笑いをとるためだけの人物はおらず、ちゃんと全員血肉が通っている。きっと舞台を見ているだけではわからない設定上のバックボーンがあることが容易に想像できる。
まったく無駄がない。
そしてストーリー。
次々にいろんな話題が飛び出す。
自分製造機、紗々、サブスクの解約忘れ、暗算、ネコよりかわいい、寿司さえまずい、自販機の上に靴、おれのイヤホン、飯踏小麦、プリクラガチャ、キスガチャ、BMW、袋とじ、しゃらくさい、マックスバリュ、手つかずの男、カップヌードルミュージアム、ブブゼラ、ドラゴンの口からメダル、1階が接骨院、芸能界の本州にいない。
なんて魅力的なパーツなのだろう。それもドラマの題材になりそうにないものばかりだ。それらがすべて物語を補強する重要なパーツになっている。このありそうでない、なさそうであるリアリティがたまらない。
「ネコよりかわいい 寿司さえまずい」。なんて瑞々しい感性なのだろう。
そうなんだよなあ。高校生ってこういうの使うんだよなあ。ぼくも内輪の言葉をたくさん使っていた。それらをまとめたオリジナルの辞書を自分で編纂していたぐらいだ。
ちょっと前に流行った「〇〇しか勝たん」も、きっとどこかの高校生が内輪で使いだした言葉なんだろうな。
圧倒されるのは、これらのパーツをただ笑いのための道具として使うだけでなく、ちゃんとストーリーに活かしていることだ。すべてが不自然じゃなく登場して、すべてが笑いにつながり、すべてがストーリーを動かすガソリンになる。
詰将棋に「煙詰」というものがある。
盤上に39枚の駒を配置する。そこから攻め手は王手をくりかえし、受け手は王手をかわしつづける。数十手、数百手の攻防の後、盤上には詰めるために必要最小限の三枚の駒だけが残り、残りの駒はすべて王手とそれに対する受けに使われ、消失している。解はたった一通り。
『また点滅に戻るだけ』は煙詰のような芝居だった。まるで魔法を見ているように、すべての題材が過不足なく使われ、舞台から消えてゆく。あれだけあった疑問やわだかまりは何にも残らない。鮮やか。
すべてすっきりした……と言いたいところだが、ぼくが気になったのは最後の展開。
ヒロインと元カレがよりを戻すのだが、ええ? その男でいいの?
だって、ついさっきかなりけっこうひどい言葉をぶつけられたばかりだぜ。彼女のやってきた仕事をけちょんけちょんにこきおろすという、内面を深くえぐる言葉をぶつけた男だぜ。しかも一度別れた男。
いやーよりを戻さないほうがいいよ。その男は相手に対するリスペクトがないんだもん。絶対にまた別れることになるよ。
それに、ヒロインは、Aと付き合い、その後にBと付き合い、Bと別れてまたAと付き合い、またAと別れてBと付き合うわけで……。
これぞ紗々じゃん。二人の間を行き来するかね。しかもかわいい(ネコより)女性という設定だからモテるだろうに。ここだけはさすがに脚本家の都合よく動きすぎだとおもった。
でもそれ以外は完璧。
コメディとしても超一流だけど、それだけじゃなくちゃんと人間の複雑な内面も描いている。
芸能人になって東京に染まった同級生を誇りにおもう気持ちと妬ましくおもう気持ちとしゃらくさいとおもう気持ちがないまぜになってしまう感じとか、深刻な喧嘩に耐え切れなくてふざけたことを言ってしまう感じとか。自分でもあんまり直視したくないけど、そういう気持ちはたぶん誰しもが持っている。
それから、主人公はヒロインのワードセンスを好きになったって言ってたけど、あれは逆だとおもうな。ワードセンスがいいから好きになったんじゃなくて、好きになったからワードセンスが魅力的におもえるんだとおもうぜ。
だから彼女が他の人から影響を受けてたとしても気にすることないぜ!
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