君が手にするはずだった黄金について
小川 哲
“小川哲”を主人公とする、私小説風の短篇集。
『プロローグ』『三月十日』『小説家の鏡』『君が手にするはずだった黄金について』『偽物』『受賞エッセイ』の6篇を収録。
読んでいると、つくづく“小川哲”はめんどくさい人だな、とおもう。むずかしく考えなくていいことをわざわざむずかしく考えている。
就活で企業から「あなたという人間を円グラフで表現してください」という課題が出されたら、一人の人間を有限個の要素によって表現することは可能なのか、その言語的な記述と“私”は完全に同一なものと言えるのか、と哲学的な思考を深める。企業が求めているのはそういうことじゃない、と知っているのに、それでもなお理屈をこねくりまわしてむずかしく考えてしまう。
でも嫌いじゃないぜ、こういう人。なぜならぼくもそっちのタイプの人間だからだ(ここまでじゃないけど)。当然ながら就活はうまくいかなかった。「本質」とか「完全に正確な回答か」とか考える人間を企業は求めていないのだから。
ぼくも学生時代こんなことばっかり書いていたなあ。こういう「ささやかな疑問」を書くためのノートも作っていた。ぼくが学生の頃はインターネットが身近になかったので、ちょっとした思い付きやくだらないへりくつを公表する手段がなくて、ノートに書いたり、せいぜい友人に話したりするぐらいだった。当時SNSがあったらハマっていただろう。
でもいつしかそういう「世の中にある変なこと」に気づくことも減ってしまった。歳をとって感受性が鈍ってしまったんだろうな。残念ながら。
だが物事をまわりくどくとらえる人がいるから世の中はおもしろい。指示に対して適切に動く人ばかりだったらつまんないぜ。
おもしろかったのは、占い師にはまってしまった友人の妻を救うため(というより占い師が気に食わないから)占い師と直接対決してその嘘を暴こうとする『小説家の鏡』。
ぼく自身、占いなんてものはまったく信じていない。とはいえ占いだとか宗教に救われる人がいるのは理解できるので、まったくの無価値とは言わない。鰯の頭も信心から、だ。「テレビの占いを見てちょっといい気分になる」とか「初詣でおみくじを引く」というレベルであれば好きにすればいいとおもう。
ただ、親しい人が占いにどっぷりはまって毎月安くない金をつぎこむようになったり、占い師に吹き込まれたせいで妙な道に進もうとしていたら、なるべくなら止めたいとおもう。家族なら全力で止める。
幸い今のところそんな機会はないが、ひょっとしたらこの先娘が良くない占い師にはまってしまうかもしれない。そんな日のために『小説家の鏡』は参考になった。いや、なるのかな。ならないかもしれない。
『小説家の鏡』に出てくる占い師は、かなり優秀な人だ。上手な言い方で誰にでもあてはまるようなことを言う、さりげなく相手の情報を聞き出してさも自分が占いで当てたかのように見せる、はずれたときのための言い訳を散りばめておく、はなから占いに対して疑いを抱いている人と見極めたら早々に返金の意志を示して撤退する(その場合でも占いがイカサマであるとは言わず上手に言い訳をする)……。占い師として優秀なのではなく、営業マンとして優秀だ。成功している占い師というのは多かれ少なかれ似たようなものなのだろう。高額な不動産を買わせたり、ブランド品を買わせたりするのとそう変わらない仕事なのだろう。
『君が手にするはずだった黄金について』『偽物』の2篇も良かった。おもしろい、とはちょっとちがう。感動でもないし怒りでもない。でもたしかに心のある部分を揺さぶられた。なんと表現すればいいんだろう。強いてあげるならやるせなさ、みたいなものかな。
『君が手にするはずだった黄金について』と『偽物』はどちらもダメな人間が出てくる小説だ。巨悪ではない。ちょっとした嘘をつく、少しだけ見栄を張る、約束をすっぽかしてしまう、楽な道を選んでしまう、やらなきゃいけないと知りつつ怠けてしまう。そういうタイプの“ダメ”だ。つまりぼくたちみんなが抱えている“ダメ”だ。たぶん大谷翔平のようなスーパースターですら、ある部分ではそんな“ダメ”な部分を持ち合わせていることだろう。
『君が手にするはずだった黄金について』に出てくる片桐と『偽物』に出てくるババは、そんなダメな人間だ。でも彼らは幸か不幸かいろんな偶然が重なって名声を上げてしまう。はじめはちょっとした嘘だったのに、その嘘が評価されてしまう。その評価に応えるため、さらに嘘を重ねる。それがまた賞賛され、嘘をとりつくろうためにさらなる嘘を重ねる……。
もちろんそんな虚飾が永遠に続くはずがない(中には死ぬまで逃げ切ってしまう人もいるが)。彼らの嘘は暴かれ、嘘がすべて明るみになったときには謝罪だけでは取り返しのつかない事態になっている。
これだけなら単なる詐欺師の破滅の物語なのだが、“小川哲”は彼らの炎上、破滅を対岸の火事とはとらえていない。自分と彼らの間に本質的な違いがあるわけではないといスタンスをとったまま一定の理解を示している。彼らが詐欺的行為をはたらいていたことを認めつつも、彼らの嘘がすべて私利私欲から出たわけではないことや、また一面では善性を持っていたことも評価している。トータルでダメなやつだったことは認めつつも。
このスタンスは持ち続けていたいなとぼくもおもっている。SNSなんかは対立を煽るアルゴリズムが組まれていて、やたらと極端な意見が目立つ。でも、対立する陣営の人たちも、こっち側の人たちも、実際はそんなに変わらないんだろうとおもう。ぼくも嫌いな政治家や嫌いな政党はあるけど、その人たちだって100%私利私欲のために悪をはたらいているわけではなく、別の誰かにとっては優しくて良い政治家だったりするのだろう。
人でも組織でも思想でも政策でも同じだけど、完全なる善もなければ完全なる悪もない。
その他の読書感想文はこちら

0 件のコメント:
コメントを投稿