2025年9月18日木曜日

【読書感想文】小川 哲『ゲームの王国』 / わからないがおもしろい。なんなんだこれは!

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ゲームの王国

小川 哲

内容(e-honより)
サロト・サル―後にポル・ポトと呼ばれたクメール・ルージュ首魁の隠し子、ソリヤ。貧村ロベーブレソンに生まれた、天賦の「識」を持つ神童のムイタック。運命と偶然に導かれたふたりは、軍靴と砲声に震える1975年のカンボジア、バタンバンで邂逅した。秘密警察、恐怖政治、テロ、強制労働、虐殺―百万人以上の生命を奪い去ったあらゆる不条理の物語は、少女と少年を見つめながら粛々と進行する…まるで、ゲームのように。

 ううむ。わけのわからない小説だ。ほんとにわからない。だがおもしろい。なんなんだこれは!


 話があっちこっちにいく。登場人物も変わる。時代も変わる。それぞれがまじわることもあればそうでないこともある。テーマに一貫性があるわけではない。とにかくとりとめがない。

 小説というより神話を読んでいるような感覚になる。神話とか古い物語って「そのエピソードいる? それ本筋にはまったく関係ないからまるまるカットしても問題ないんじゃない?」みたいなエピソードがあるじゃない。ちょうどそんな感じ。枝葉末節だらけ。ほとんど幹がない。でもその枝葉末節がおもしろい。


 カンボジアの歴史についてすごく丁寧に調べて書いているくせに、史実にまじってとんでもない嘘も語られる。

 土を食べることで土の声を聴くことができて土を自在にあやつれる男とか、輪ゴムに触れることによって未来を正確に言い与えることができる男とか。罪のない人々が次々に理不尽な死を遂げてゆく(クメール・ルージュ支配下のカンボジアの話だからね)シリアスなストーリーなのに、ユーモアがあふれている。

 しかもそれらはストーリー上欠かせない要素というわけでもない。おもしろいからこのエピソードも入れてみた、みたいな感じ。なくても物語としてはぜんぜん成立する。だけどやっぱりそのエピソードこそがこの小説を魅力的なものにしている。

 手塚治虫『ブッダ』はぼくの好きな漫画なんだけど、それに通じるものがある。大胆な嘘と入念に調べられた史実が入り混じり、読んでいて虚構と現実の境目がわからなくなる。

 だけど、ぼくらが現実とおもっているものだって案外虚構なのかもしれない。記憶は容易に書き換わる自分が体験したとおもっていることだって作り話なのかもしれない。そう、自分の人生だって何が本当か何が嘘かわからない。

『ゲームの王国』を読んでいる気分は、まるではるか遠く昔の“記憶”をたどるような感覚だった。




 ひとつひとつのエピソードがおもしろい。たとえば。

 すべてを聞き終えたムイタックは「――まず、そもそも俊足ペンは足が速いわけじゃない」と言った。
「どういうこと?」
「言葉のままだよ。俊足ペンはむしろ鈍足だよ」
「何を言ってるの? 君は普段一緒に遊んでないからそう思うのかもしれないけど、覚えてる限りペンが捕まったのを見たことは一度もないよ」
「そう、問題はそこだ。ペンは、何よりもその『一度も捕まったことがない』という名声のおかげで、不当に鬼ごっこに勝利している」
「どういうこと?」
「つまり、鬼は『俊足ペンを追いかけても、どうせ勝てない』と考えて、最初からペンを追おうとしないんだ。君もそうなんじゃない? 自分が鬼のときを思い出してみてよ。いつも無意識にペン以外を追いかけてない? たしかにペンはそこそこの初速だけど、持久力はまったくないよ」
 クワンはこれまでの鬼ごっこの記憶を思い出した。たしかにその通りだった。
「ペンはそのことがよくわかっているから、常に誰かと一緒に行動するんだ。現にさっきも君と一緒に逃げていた。もし鬼に見つかったとしても、一緒に行動しているやつが狙い撃ちにされるから、自分は悠々逃げることができるってわけ」
「たしかにそうだ。ペンは常に誰かと一緒に逃げている」
「だからペンは自分の名声を守るために、他の誰かとサシの駆けっこをしようとしない。正直に言って、純粋に駆けっこをしたら君の方が速いと思う。距離にもよるけど」
「そんなことはないよ。僕はいつも捕まってしまうから」
「ペンが鬼ごっこに強いのは『足が速い』という評判のおかげだ。この話をひっくり返すと、さらに多くのことがわかる」
「何がわかるの?」
「つまりね、一度足が遅いと評判になった者は、不当に追われ続けるってこと。君は足が遅いわけではないのに、『足が遅い』という評判のせいで、集中的に鬼に狙われている。鬼ごっこは基本的に追いかける側が有利だから、一度狙われれば捕まりやすい。そのせいで足が遅いというイメージが強くなり、さらに捕まりやすくなるってわけ。君だって鬼のときは無意識に『足が遅い』とされている人を探してるはずだよ。豆フムとか、ルットとか、蟹ワンとか。蟹ワンは左足だけ拾った靴を履いているせいで、蟹みたいな走り方をしてるから目立つしね。あいつ、実は結構足速いと思うけど」
「なるほど。たしかにその通りだ。僕はいつも豆フムやルットや蟹ワンを探してる。それに実際には、いつも蟹ワンを捕まえるのに苦労してた」
「この話にはさらに続きがある。この世の中のなんだってそうなんだ。王様だってね。一度偉くなってしまえば、そのおかげでみんな彼が正しいと思いこむ。何か間違ったことをしているように見えても、自分の方が間違っているのではないかと思い直す。そうして王様の権威は増していき、本当の実力とは関係のない虚構のイメージが作り上げられていく。そしてそれは、たとえば俊足ペンみたいに、王様がひとりで作り上げるものではなく、周囲と連動して勝手に作り上げられていくものなんだ」

 鬼ごっこについてここまでじっくり考えたことがなかったけど、たしかに無意識のうちに「あっちは速い(らしい)からこっちを追いかけよう」という判断をくりかえしてるよなあ。子どもの言う「足が速い」は「初速が速い」とほぼ同義なので、足が速いとされている子でも長時間にわたって追い続ければ捕まえられるかもしれない。ただ鬼ごっこにはなんとなく「ひとりだけを集中的に追いかけると他の子がつまらないからやめよう」という不文律があるからみんなやらないだけで。

 こんなふうに、我々が意識の隅っこのほうでなんとなく捉えていることを言語化するのが小川哲さんはすごくうまい。


「オンカーは理想郷を作ろうとしている。そしてそれはとても危険な考えなの」
「どうしてですか?」
「理想郷は無限の善を前提にしているから」
「素晴らしいことじゃないですか」
「違う。最低の考えよ。無限の善を前提にすれば、あらゆる有限の悪が許容されるから。無限の善のために、想像以上の人が苦しみ、そして死ぬことになる。もっとも高い理想を掲げている人が、もっとも残酷なことをするの」

 うーん、端的にして的確。善行をしようとする人間が往々にして悪事に走る理由を簡潔に説明してる。その最たるものがポル・ポト。




 話があっちこっちにいくので先の展開がまったく読めなかったんだけど、巻末の橋本輝幸氏による解説を読んで腑に落ちた。

 実は、本書の執筆行為自体がゲーム的だった。この小説は「いくつかの道のどれを選ぶか迷ったら、もっとも険しい道を選ぼう」(小川哲による第三十八回日本SF大賞「受賞の言葉」、二〇一八年)というルールの下に書かれた。著者は最もありえざるルートをたどり、未知の先にある物語を目指した。小川は展開の分岐に差しかかると、思いついた中で一番先がなさそうな道を選んで続きを書いてみたという。
 そうすると何が起こるかというと、しばしば書き進められなくなり、詰む。そうして小川は、完成稿の三倍ほど書いては捨てる作業を途中まで繰り返した。物語の選択肢は「九〇パーセント死んで、一〇パーセントが生きた」(京都SFフェスティバルにおける小川一水との対談より、二〇一九年)という。数百枚書いて破棄したこともあるそうだ。

 なんと「いくつかの道のどれを選ぶか迷ったら、もっとも険しい道を選ぼう」というやり方で書いたのだという。なんでそんな苦行を……。

 道理で、せっかく構築した世界もすぐ壊れてしまうし、登場人物もようやく活躍しだしたとおもったとたんに死んでしまう。まるで意識的に読者を置いていこうとしているかのように。

 すごく粗削りなんだけど、「なんだかすごい小説を読んだ!」という気になる本だった。ひとりの人間がこれだけのものを作れるということに驚く。


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