『映画ドラえもん
のび太と空の理想郷(ユートピア)』
九歳の娘といっしょに映画館で鑑賞。
古沢良太氏脚本ということで期待して観にいった。『リーガルハイ』『コンフィデンスマンJP』もすばらしかったからね(しかし今年の大河『どうする家康』もやってて、仕事しすぎじゃないすかね)。
期待通り、どころか期待を上回るすばらしい出来だった。ドラえもんの映画はだいたい観てるけど(主にテレビやAmazonプライムでだけど)、その中でも個人的ナンバーワンかもしれない。
(一部ネタバレあり)
グレート・マンネリズム
ちょっと前に「ドラえもんの映画はだいたい同じ展開でワンパターンだ」っていう批判的な記事を読んだんだけどさ。
わかってないなー! だいたい同じでいいんだよ。ドラえもんの映画のメインターゲットは何十年も映画を観つづけている大人じゃなくて(ぼくもそうだけど)、数年たったら劇場から足が遠のく子どもなんだから。わくわくする新しい世界を見せてくれて、異世界の住人との間に友情が芽生えて、敵が現れて窮地に立たされて、知恵と勇気と友情で強大な敵に立ち向かって、敵を倒して平和を取り戻してのび太たちは日常に戻る……でいいんだよ。むしろある程度はお約束通りに進むからこそいい。グレート・マンネリズムというやつだ。
大枠が決まっているからこそ、「どんなきっかけで冒険をスタートさせるのか」「どんな新しい世界を見せてくれるのか」「理想的とおもえたその世界にどんな不都合が起こるのか」「どうやって敵の強大さを見せつけるのか」「その敵に各人がどう個性を活かしながら立ち向かい、どんな戦いをするのか」「どうやって収束させるのか」といった細部の設定で出来不出来が大きく変わる。
そして、今作『のび太と空の理想郷』は細かい設定がどれも効果的だった。
ほら話
おもしろいドラえもんの映画にはおもしろいほら話がある。
「いつも霧がかかっていて航空写真を撮れない〝ヘビー・スモーカーズ・フォレスト〟という森がある」「バミューダトライアングルは古代帝国が仕掛けた自動防衛システムだった」「アラビアンナイトは創作だが元になった話は事実だった」なんて、もっともらしいほら話を聞かせてくれる。
『空の理想郷』では、理想郷・パラトピアが時代や空間を超えて移動をくりかえしていることから、世界各地に伝わる空中都市伝説や竜宮城の伝説はパラトピアの目撃談だったのだというほら話が語られる。
こういうの大好き!
道具をいかに封じるか
ドラえもんの映画において最も重要なタスクが「ドラえもんの道具の力をいかに封じるか」である。
ドラえもんの道具はうまく使えばほとんど無敵だ。時間も空間も飛び越えられるので、どんな困難な問題でもあっさり解決させてしまえる。それでは緊張感ある冒険にならない。
だからほぼすべての映画で、「道具が故障して使えない」「ドラえもんが故障する」「四次元ポケットが失われる」「あえて道具を置いてくる」「道具の使えない世界を用意する」「ドラえもんの道具より優れた道具を敵が持っている」といったギミックをかますことで、道具の力を封じてきた。
だがドラえもんをドラえもんたらしめているのは未来の道具であるので、封じすぎてもつまらない。
この「どうやって道具を封じるか」「どこまで封じるか」が映画の成否を決めるといってもいい。
『のび太と空の理想郷』はちょうどいい塩梅だった。序盤に「どこでもドアが壊れて四次元ごみ袋に入れてリサイクルする」という設定が提示されるが、それ以外の道具はほぼ使用可能。
ほぼすべての道具が使用可能であるにもかかわらず、敵の策略によって知らぬ間に追い詰められていくドラえもんたち。このシナリオが絶妙だった。
しかも、この「四次元ごみ袋」が終盤でキーアイテムとなるという周到さ。うーむ、隙が無い。
ほどよい伏線
ドラえもんに限った話ではないのだが、最近のドラマや映画はどうも「伏線回収」が重視されすぎているきらいがある。
もちろん伏線は物語をおもしろくしてくれるスパイスではあるが、それはあくまで調味料であってメイン食材にはなりえない。だから「あなたはラストであっと驚く!」「もう一度はじめから見直したくなる!」「映像化不可能と言われたトリックを初映像化!」などの伏線回収をメインに据えた物語はほぼ確実に失敗する。ほら、アレとかアレとかつまらなかったでしょ?
古沢良太氏の脚本は、いつもうまく視聴者をだましてくれる。あっと驚く仕掛けを用意しているが、それは決してストーリーの中核にはならない。ストーリー自体は水戸黄門のように王道で、その中にほどよい伏線をピリリと効かせているからおもしろいのだ。
『のび太と空の理想郷』では、冒頭の「カナブン」「天気雨」などうまい伏線が用いられているが、観客である小さい子どもには理解できないかもしれない。だが、理解できなくてもちっとも問題ない。気づかなくても物語は十分に楽しめる。気づけばよりおもしろくなる(ところで種明かしの仕方は『コンフィデンスマンJP』っぽいよね)。
「小さい頃はわからなかったけど、数年後に観返してみたらこういうことかと気づく」と、二度楽しむこともできるかもしれない。
強すぎる敵、怖すぎる展開
いっしょに観ていた娘は二度泣いていた。後で聞くと、「一回は怖くて泣いちゃった。二回目は感動して泣いた」とのこと。それぐらいおそろしい敵だった。
なにがおそろしいって、すごく賢いのだ。『月面探査機』のようにとにかく物理的に強い敵ではなく、『空の理想郷』の敵は賢すぎておそろしい。のび太たちはほとんど戦う間もなく、知らぬ間に敵の罠にはまってしまう。
「住民みんなが勤勉で優しくてにこにこしているユートピア」が出てきた時点で、ある程度フィクションに触れた大人であれば「ああこれは裏で悪いやつが統制してるやつね」とわかるけど、たぶんほとんどの子どもはわからないだろう。で、ユートピアに見えたものが一枚めくると人間性を奪う管理社会だとわかったところで、途方もない恐怖におそわれるはずだ。
さらに追い打ちをかけるようにジャイアンとスネ夫としずかの感情が奪われ、ドラえもんが自由を奪われた上に退場させられ、残ったのび太までも感情を支配される。絶体絶命のピンチ。これまでのドラえもん映画の中でも一、二を争うほどのピンチだったかもしれない。これまで「ドラえもんが機能不全」や「五人中四人が捕まる」なんてことはあったが、全員戦意喪失させられるとは。
そしてピンチの度合いが大きいほど、切り抜けたときのカタルシスも大きい。のび太たちが感情を取り戻して立ち上がる瞬間は大人のぼくでもわくわくしたし、敵との戦闘の後にもさらなるピンチが訪れて最後まで息をつかせない。
手に汗握る、一級品の活劇映画だった。
出木杉問題
映画ドラえもんでは恒例となっている「序盤は登場する出木杉が冒険には連れていってもらえない」問題。
出木杉ファンのぼくは、毎度悔しいおもいをしている。
今回なんかは連れていってもよかったとおもうけどなあ。出木杉までが感情を支配されてしまったほうが怖さが増したとおもうし。元々いい子だから洗脳されていることに気づきにくいのも、うまく使えばプラスに働いたんじゃないかな。
ま、前作『のび太の宇宙小戦争 2021』に比べればぜんぜんマシだけど。前回なんか、序盤は出木杉もみんなといっしょに映画をつくってたのに途中で「塾の合宿」という名目で退場させられて、いない間に他のみんなが冒険したどころか映画まで完成しちゃってたからね。ひどすぎる。だいたい出木杉って塾(しかも四年生から合宿するってことは相当な進学塾)に行くキャラじゃないとおもうんだけど。
今回は「ただ誘われなかっただけ」だからまあいいや。前回は「途中からのけ者にされた」だからかわいそうすぎた。
お約束のあれやこれや
映画ドラえもんではぜったいにやらなきゃいけない「ぼくはタヌキじゃない!」と「しずかちゃんの入浴シーン」。
前者はどうでもいいとして、後者に関しては時世を考慮して、入浴シーンがあるものの「鎖骨から上あたりがちらっと映るだけ」である。
……やる意味ある?
元々やる意味ないんだけど。まあ当初はファンサービス的なシーンだったんだろうけど(原作漫画だとけっこう大胆に裸が描かれていたりする)、エロくもなんともなくて、もはや何のためにやっているのかさっぱりわからない。そこまでして入れないといけないシーンなのか? とおもう。
最初に「グレート・マンネリズム」って書いたけど、これは単に何も考えてないただのマンネリだよね。
メッセージ
ぼくは「ドラえもん映画にしゃらくさいメッセージはいらない」と考えている。一時、ドラえもんの映画の中で環境保全だとか他の生物との共存だとかを訴えていたが、ああいうのはいらない。大事なのは一におもしろさ、二におもしさ、三、四がなくて五におもしろさ。
おもしくするために必要であればメッセージがあってもいい。メッセージ性なんてしょせんその程度だ。
『空の理想郷』にもメッセージはある。「完璧な人間なんていない。欠点こそがその人らしさを作っている」といったことだろうか。「桃源郷であるパラトピアの住人と欠点だらけののび太」「パーフェクトネコ型ロボットであるソーニャとポンコツロボットのドラえもん」という対比を示し、後者は欠点があるからこそ愛おしいというメッセージを伝えている。
これがとってつけたような説教ではなく、ストーリーに深く結びついている。このメッセージが背骨となることで、シナリオが頑強なものになっている。おもしろさのために必要不可欠なメッセージだ。
そしてこのメッセージってさ、今作だけの話じゃなくて『ドラえもん』すべてに通底するメッセージじゃないかな。
のび太ってまったくもって成長しないじゃない。話の中で気づきを得たり決心したり反省したりすることはあるけど、次の話ではまた元の怠惰な小学生に戻っている。いつまでたっても成長しない。
そんなダメなのび太を、ドラえもんは決して見捨てない。バカな子なのに、いやバカな子だからこそ愛する。のび太に対するドラえもんの視点は友情ではなくほとんど母性だ(逆にママはあまりのび太を愛しているように見えない)。
バカでもダメでもなまけものでも成長しなくても、それでも愛してくれる人がいる。『ドラえもん』で描かれているのはそういう物語だ。
『空の理想郷』は、それを二時間足らずで表現した映画だった。藤子・F・不二雄先生の遺志が今の脚本家や監督にもきちんと受け継がれていることを感じて、ぼくはうれしくなった。
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