2025年11月26日水曜日

【読書感想文】松原 始『カラスはずる賢い、ハトは頭が悪い、サメは狂暴、イルカは温厚って本当か?』 / 「最強の動物」はナンセンス

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カラスはずる賢い、ハトは頭が悪い、サメは狂暴、イルカは温厚って本当か?

松原 始

内容(e-honより)
かわいい、怖い、賢い、頭が悪い、汚い、ずるい―人間が動物たちに抱いているイメージは果たして本当か?カラスの研究者である著者が動物行動学の視点から、さまざまな動物たちにつきまとう「誤解」をときあかしていく。一匹狼は、孤独を好んでいるわけじゃない。ハゲタカは、ハゲだから清潔に生きられるのだ!真剣で切実で、ちょっと適当だったりもする彼らの真の生きざまが見えてくる一冊。文庫化にあたり書き下ろしのエッセイと新規イラストを収録。


 動物に対して我々が感じる美醜、好悪、賢愚などのイメージに対して「いやいやほんとの動物の生態って一般的なイメージとちがうんですよ。っていうか動物に対して人間の尺度であれこれ言うことはナンセンスなんですよ」と説いた本。

 たとえば「最強の動物は何か?」という議論でライオンやカバやゾウやシャチなどが挙げられることが多いけど、異なる種の動物同士が一対一で戦うことは多くない。一対一で戦ったとして、陸上ならライオンがワニに勝つだろうが水中なら文句なくワニが勝つ。また集団で行動する動物の場合は集団での強さを考慮する必要がない。また絶滅しかかっているサイと世界中で繫栄しているアリを比べたら、後者のほうがはるかに種として強いと言えるだろう。だがそれも現代の話であって、地球環境が大きく変化したらアリが絶滅してサイが繫栄する時代がくるかもしれない……。

 ……と考えると、「どの動物が最強か?」を論じるのはまったく無意味だろう。「どの人間がいちばんえらいか?」というのと同じぐらいナンセンスだ。



 ヒトは、自分と近い動物に肩入れをする。環境保護を訴える人ですら。

 スナメリという動物がいる。小型のクジラで、せいぜい2メートルくらいにしかならない。ハクジラ類(つまりイルカの親戚)だが、鼻先は丸く、シロイルカのような姿だ。日本でも瀬戸内海や伊勢湾など、内湾や近海に分布している。それが減少している、と聞いたら、ちょっと胸が痛まないだろうか。
 では、オーストラリアのクイーンズランド州にいた、全長5センチほどの、鮫肌でざらっとした感じのカエルが絶滅したと聞いたら? スナメリほど気になるだろうか?
 これについて、2012年にこのような論文が発表された。
 「保全の対象となっている動物は多くが大型でかわいい、あるいは目立つ動物である。目立たない動物は少なく、植物に至っては滅多に取り上げられない」(Earnest Small, 2012, The new Noah's Ark : beautiful and useful species only. Part2. The chosen species. Biodiversity:12-1)

 最近読んだ別の本に、「毎日100種以上の生物が絶滅している」と書いてあった。大半は菌類や微生物だろう。

 だがそいつらは話題にならない。数が減っているイルカやパンダやトキは大きなニュースになるのに。我々はイメージで保護するかどうかを決めているのだ。



 クジャクのオスが長く美しい尾を持つのはメスにアピールするため……というのが定説であるが、これはすべてのクジャクにあてはまるわけではないそうだ。

 例えば、クジャクのオスだけが持つ長い尾(正しくは尾と上尾筒からなる)はどう考えてもメスにモテようと発達したものなのだが、現在の伊豆シャボテン動物公園においては、もはやメスに対するアピールにいないという研究がある。
 長谷川寿一(東京大学)らは長年、伊豆シャボテン動物公園で繁殖しているクジャクのモテ方を計測していた(というとなにやら軽く聞こえるが、性選択の実証研究として非常に重要で厳密なものである)。長谷川らは尾の長さ、目玉模様の数、対称性など、様々な要因と、繁殖成功の関連を調べ続けた。だが、結果はことごとく予想を裏切るものであった。尾の長さも目玉模様も、オスのモテ具合と今ひとつリンクしないのである。
 ところがある時、思いもよらない結果が出た。クジャクのオスの繁殖成功と強い相関を持っているのは、鳴き声だったのだ。よく鳴くオスはモテるなんとシンプルな、そして意外な結果であったことか。
 もちろん、「だからクジャクの尾はオスのモテ方とは関係なかったんだ」とか「進化論なんてうそっぱちだ」という意味ではない。海外の研究では対称性や目玉模様の数などが影響するという結果も出ているからだ。かつては立派な尾を持つことが、クジャクにとって重要だったのだろう。
 ただ、伊豆シャボテン動物公園においては、どうやらメスがオスの選択基準を切り替えてしまい、「歌えるオスがいい」という好みにシフトしてしまっていたようなのである。あるいは、「尾が立派なのは当たり前、さらに歌がうまくなきゃイヤ」と言う方が正しいかもしれない。

 まあ人間だって、文化や時代によって「どんな男/女がモテるか」は変わるもんね。クジャクだって世界中どこへ行っても同じ嗜好をしているわけではないんだね。

 考えてみればあたりまえの話なんだけど、ついつい「動物には固有で不変の生態がある」と考えてしまう。



 多くの日本人に愛されているツバメ。そんなツバメの「イメージ」が変わるかもしれない話。

 さて、ライオンはいかにも「猛獣」だから、こういうことをやると聞いてもそんなに不思議に思わないかもしれない。だが、身近なところで子殺しをやるのはツバメだ。
 ツバメは渡り鳥で、春になると日本にやって来る。そして、営巣場所を見つけると巣を作り始める。
 ところが、巣の前にツバメが3羽、ないしそれ以上いることがある。仲良くお手伝いしてあげている、なんてことはもちろんない。2羽はペアで、もう1羽は割り込んできたよそ者だ。営巣場所、ないし巣そのものを乗っ取ろうとしているか、メスを奪おうとしているか、である。このストーカー野郎の攻撃はさらに続くことがあり、ひどい時はペアが産んだ卵や雛を捨てしまう(営巣場所を狙っている場合、ペアでやる場合もある)。この時に攻撃しているツバメが何かを計算している、というわけではないと思うのだが、結果として、ペアがその巣を使うことを諦めたり、ペアを解消したり、ということはあり得る。そうなれば巣、あるいはメスを分捕れる可能性が出て来るわけだ。

 軒下にツバメが巣を作って春が来たなあ、なんて人間がのんきなことを考えている間に、ツバメたちは子孫を残すために子どもを殺すか守るかの攻防をくりひろげているのだ。

 これをもって「ツバメは残酷」と考えるのもそれはそれで単純な見方で、「他人の子を殺すのは重罪」というのはあくまで人間の価値観だからね。



 有名なすりこみ(鳥のヒナなどがはじめて見たものを親とおもう習性)について。

 それはともかく、カモの雛たちは親鳥の後ろをついて歩く。ところが、子連れの親同士が、ばったり出合ってしまうこともある。彼らは別に縄張りを持っているわけではない(というのも、餌である草は十分にあり、喧嘩してまでその場を独占する意味がないからだ)ので、お互い特に干渉しないで餌を食べ、また別れる。
 ところが、この時に雛がちゃんと自分の親について行くかというと、どうもそうとは限らない。ガンカモ類の多くの種で、雛がごちゃ混ぜになってしまうのである(雛がうんと小さい間は、親鳥が鳴き声で我が子を区別し、他の雛を入れない例もある)。
 (中略)
 さらに言うと、種内托卵の盛んな種の方が、雛混ぜが多いという意見もある。種内托卵というのは、さっきのダチョウのように、同種の巣に自分の卵を産んでくる、という行動だ。他人に世話を押し付けて自分だけ楽しようという考えにも見えるが、どいつもこいつもこの行動をやる場合、自分の巣にも誰かが卵を産み込んでいるはずなので、かかる手間は結局一緒である。
 種内托卵が常態化しているなら、「自分の巣にいるから自分の血を分けた子ども」ということにはならない。赤の他人の子どもが混じっているのだ。そういう雛を引き連れて歩き、雛混ぜが起こったところで、他人の子どもが別の他人の子どもに入れ替わるだけで、特に違いはない。
 それどころか、お隣さんが連れていた雛の1羽か2羽こそが、自分が托卵してきた我が子かもしれないのである!こうなるともう「自分の子ども」という概念が崩壊し、何がなんだかわからない集団子育て化してしまうのも仕方ないだろう。
 ということで、カモが他人の子どもまで機嫌よく面倒を見るのは、やさしいからというよりズボラだからと言った方が正しいような気さえしてくる。まあ、こういう大らかさは、それはそれで人間も見習うべきところがあるような気はするが。

 なんと最初に見たものを親とおもうどころか、ある程度成長してからも、近くにいる大きな鳥を親とおもってしまうのだ。親のほうも気にせず、数十羽の雛を連れて歩いている親ガモもいるという(カモが一度に卵の数は十個ぐらい)。おおらかというかいいかげんというか……。

 こういうことができるのは、雛のために親が餌を運んできてやらないといけないツバメのような種と違い、カモの雛は自分で餌場まで歩いて餌をとれるからなんだけど。

 なんとなく「おや、やけに子どもの数が多いね。よく見たらうちの子じゃないのもいるね。まあいいや、腹へってるなら食っておいき!」という肝っ玉かあちゃんを想像してしまう。人間の勝手なイメージだけど。



 ドングリでおなじみのブナの生存戦略について。

 この、「大量に産めば誰か残るよ」作戦は生物には普遍的なものである。例えば、毎年毎年、大量の実を落とすブナ。だからって雑木林がブナの若木で埋め尽くされているのは見たことがないはずだ。というのも、ブナが発芽するには、いくつものハードルがあるからである。
 まず、地面に落ちたブナの実は片っ端から動物に食われる。だいたいはネズミ、あとはイノシシなどだ。いや、落ちる前からゾウムシが産卵していて、殻の中で食べられていることも少なくない。あるいは腐ってしまう。その結果、多くの場合はその全てが食われるか腐るかしてしまい、発芽することさえできない。
 だが、数年に一度、大豊作がある。こういう時はネズミも食べ尽くすことができず、実が生き残って発芽するチャンスがある。というより、数年に一度ドカンと豊作にすることで、チャンスを作り出している、と言ったほうがいい。
 平常の結実数を低く抑えておくと、ネズミはそのレベルで食っていける数までしか増えられない。そうやってネズミの個体数を抑えておき、たまにネズミの食べる量を大きく上回る数の実を落とせば、間欠的にだが、ブナは発芽のチャンスを得られるのだ。こういう周期的な大豊作を「マスティング」といい、様々な植物に見られる。
 もっともブナの場合、発芽したとしても林床はササで覆われて光が届かない。光を浴びて大きく成長するチャンスは、ササが一斉開花して一斉枯死し、林床が明るくなる時だけだ。だが、光が不足したままヒョロヒョロの苗木として生き延びられるのはせいぜい数年。一方、ササが一斉枯死するチャンスは、数十年に一度しかない。
 つまり、マスティングの年に実り、かつそれから数年以内にササが枯れてくれた場合だけ、その実はブナの大樹に育つ可能性がある。そんな気長な、と思うが、ブナの寿命は400年くらいあるので、その間に何度か「子孫が残る年」があればいいのだろう。
 これは、少数の子どもを産んで大事に育てる霊長類には理解しがたい戦略である。だが、我々の子育てとは対極にある、「子育ての手間を最小限にし、代わりにとにかく大量に産む」戦略も有効であることは間違いない。

 なるほどー。400年も寿命があれば、「数十年に一回子孫を残せればいっか」ぐらいの戦略をとることもできるのか。人間の思考スケールではとても考えつけないやりかただ。




 どこをとってもおもしろい本だった。語り口もおもしろいし、エピソードや動物知識も興味深い。

 そして何より、カラス研究者である著者のカラス愛が存分に伝わってくる本だった。いろんな動物のことを書いているのに、すぐにカラスの擁護になるんだもん。ホントカラスが好きなんだなあ。


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