2022年2月2日水曜日

絶好の死のタイミング

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  少し前に、母親から電話があり、祖母が倒れたと聞かされた。

「もうおばあちゃんも歳も歳だしね。お医者さんが言うにはかなり危ないらしいから、覚悟しといてね」

と言われた。

 それから一週間ほどしてまた母から電話があり「意識が戻って今はリハビリをしている。お医者さんも驚くほどの快復ぶりを見せている」とのことだった。

 ぼくは、おばあちゃんには申し訳ないが「医療よ、そんなにがんばらなくていいのに」とおもった。




 たいへん薄情な孫で申し訳ない。だが「もう死なせてやれよ」がぼくの偽らざる実感だ。

 ことわっておくが、ぼくは祖母を嫌いなわけではない。むしろ好きだ。いや、好きだったといったほうがいい。

 というのは、祖母は十数年ほど前から認知症を患っており、もはやぼくのことなどまったくおぼえていないのだ。
 認知症になりたての頃はまだかろうじてぼくのことをおぼえていて、ときどき電話をかけてきては「犬犬くん? 犬犬くんなの?」などと自分からかけてきたくせに驚いていた。だが祖母から出てくる話といえば、「長男が冷たい。嫁も冷たい。娘たちも冷たい」といった愚痴ばかりで、親身になって認知症介護をしている伯父や伯母の苦労を知っているぼくとしては(もうそんな話やめてくれよ……)とうんざりしたものだ。

 しかしそんな電話もめったにかかってこなくなり、たまにかかってきても無言だったりして(たぶん携帯電話の操作を誤ってかけてしまっただけだろう)、もうすっかり祖母にとってぼくは忘却の彼方の人となってしまったようだ。娘のことすら忘れてしまったらしいから孫のことなどおぼえているはずがない。
 祖母にとってぼくの存在が消えたのと同じように、ぼくにとっても祖母は「おもしろくて優しかったおばあちゃん」という過去フォルダの中の人になってしまった。

 そんなわけで、たぶん今祖母が死んでもぼくはちっとも悲しくない。むしろ、献身的に世話をしている伯父や伯母の苦労を知っているから、「やっと死んでくれたか」と安堵するだけだ。


 祖母は九十八歳。認知症で子どもの名前すらおぼえていない。ここで死んでも、誰も「もっと長生きしてほしかった」とはおもわない。満場一致で「もう十分生きた」だ。いや、「十分」をはるか昔に通り越してしまった。

 それでも、目の前で老人が倒れたら通報しないわけにはいかないし、通報されたら救急隊員は駆けつけないわけにはいかないし、搬送されてきたら病院は治療しないわけにはいかない。
 労力と金をかけて医療を施し、残るのは家族の「ああ……助かったの……よかったね……」というなんとも微妙な言葉だけ。誰も口には出さないけど「あのまま逝ってもよかったのに……」と心の中でおもっている。

 これって誰のための医療なんだろう。医療費を負担させられる赤の他人や、介護にあたっている家族はもちろん、当人のためにすらなってないんじゃなかろうか。

 もし祖母が十数年前に亡くなっていたら、親戚一同心の底から悲しんで見送っていた。それと、長生きした結果「はあ、やっと逝ってくれたか」と安堵のため息をつかれること、どっちがいいのだろう。
 他人の幸せなんて推し量れないけど、少なくとも今のぼくなら、惜しまれながら死んでいきたいとおもう。




 自らの死について考える機会が増えた。この二年は新型コロナウイルスの流行もあったので、余計に。

 若い頃も死を想像したが、それはあくまで〝自分にとっての死〟だった。
 だが今ぼくが想像する死は〝娘にとっての父の死〟だ。

 娘は今八歳と三歳。彼女たちのことを考えると「まだまだ死ねないな」という気になる。

 生命保険には入ってるし、妻も仕事をしているし、それなりに貯金もあるので、まあぼくが死んでも経済的にはなんとかなるだろう。
 だけど娘のこれからを考えたら「まだお父さんがいたほうがいいだろうな」とおもう。うぬぼれだと言われるかもしれないが、娘たちはまだまだお父さん大好きな年頃なのだ。なにしろ八歳の娘はいまだに寝るときは「おとうさん手つないで」と言ってくるのだ。

 娘のためにはまだまだ死ねない。
 だったら、いつになったら死んでもいいのだろうか。

 世間一般に言われるのは
「子どもが成人するまでは死ねない」
「孫の顔を見るまでは」
「孫の結婚式を見るまでは」
といったところだろう。

 人間の欲望は際限がないので、その後も「ひ孫の顔を見るまでは」「玄孫(孫の孫)の顔を見るまでは」……と永遠に続いていくのかもしれないが、ぼくとしては「孫が十歳ぐらいになるまでは」だとおもっている。

 孫が子どもの頃は、じいちゃんとしてやれることもいろいろある。
 ぼくの父母も、孫と遊んでくれたり、ぼくと妻が忙しいときは預かってくれたり、お年玉や誕生日プレゼントをくれたりする。

 しかし孫が大きくなれば、当人の世界も広がってくる。祖父母の存在は相対的に小さなものになってくる。

 そのあたりで「孫に死に様を見せる」ことこそが、じじいとばばあに残された最後の役割じゃないだろうか。
「孫が十歳ぐらいになったあたり」が理想的な死のタイミングじゃないかと、今のぼくはおもう。もっと歳をとったら「やっぱもっと長生きしたいわ」と延長しそうな気もするが。




 ところで、我が両親も「孫が十歳ぐらいになったあたり」に近づきつつある。初孫(ぼくの姪)は十一歳だ。今こそ理想的な死のタイミングといってもいい(あくまでぼくにとっての理想だけど)。

 そっちもそろそろ覚悟しとかないとな。
 もしも父母が倒れて意識不明になったら……。殺せとは言わないけど、無理な延命はしなくてもいいとおもう。

 父はどうだか知らないけど、母は常々「あたしが倒れても無理な延命はしないでね。子や孫に迷惑かけながら生きながらえるなんて絶対にイヤだから」と口にしている。認知症になった実母の姿を見ているからこそ、余計にそうおもうのだろう。
 だから母が倒れて意識不明になったとして、その場にいるのがぼくだけだったとしたら、あえて救急車は呼ばない……とはできないな、やっぱり。呼んじゃう。おかあさんだもん。


 臓器提供カードみたいに、「延命拒否カード」があればいいのにとおもう。そのカードを持っている人が意識不明になったら、一切の医療行為を断つの。
 尊厳死とまではいかなくても、それぐらいの死に対する決定権はあってもいいのになあ。


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