中年にとってはなつかしいズッコケ三人組シリーズを今さら読み返した感想を書くシリーズ第四弾。
今回は6・11・14作目の感想。
(1~3作目の感想はこちら、4・5・7作目の感想はこちら、8~10作目の感想はこちら)
『ズッコケ時間漂流記』(1982年)
今回の舞台は、過去。子ども向けの物語の舞台として定番だね。音楽準備室の鏡が過去とつながるトンネルになっており、三人は江戸時代にタイムスリップしてしまう。そこで出会ったのは平賀源内。三人は源内に未来から来たことを証明するが……。
江戸の風俗などよく調べて書かれているなという気にはなるが、物語としてはややこぢんまりとしている。江戸にタイムスリップといっても二日だけだし、特に何をするわけでもなく戻る方法を探してうろうろしていただけ。
ピンチを脱出したのも自分たちの活躍ではなく、ただ助けてもらっただけ。せっかくのSFなのに地に足がつきすぎているきらいがある。
とはいえゴム飛行機を作って江戸の空に飛ばすところは痛快。きっと誰しも「過去に行ったら現代の知識でちやほやされるにちがいない」と考えるだろうが、いざ江戸時代に行っても困ってしまうだろう。現代人の持つスキルや知識なんて、現代の道具がなければほとんど何の役にも立たないわけで。
三人もその問題に直面する。テレビやコンピュータの存在を知っているが、それを作ることはもちろん、原理を説明することすらできない。ゴム飛行機を作れただけでも上出来だろう(もっともハカセが三輪車の絵を描いて平賀源内をうならせているが、大八車もあった時代の人が三輪車の絵を見ただけでそこまで感心するだろうか?)。
今作の主人公はなんといってもハカセ。関ヶ原の合戦の年号ぐらいは歴史に詳しい子なら覚えているかもしれないが、田沼意次の功績とか鎖国が解かれた年とかを(いくら前日に歴史の本を読んだからといって)記憶しているのはすごい。
歴史好きの小学生はけっこういるけど、たいていは戦国武将とか新撰組とかで、天下泰平の江戸時代に詳しい子はめずらしい。ぼくが小学生のときなんか、水戸黄門と遠山の金さんしか知らなかったぜ。
この物語の中で、平賀源内が殺人を犯してしまうのだが、史実でも平賀源内は殺人を犯して投獄→獄中死してるんだそうだ。小学生のときは知らなかったけど、このへんはちゃんと史実に基づいてるんだなあ。虚実交えたストーリーテリング、見事。
ところで、この物語のキーパーソンである若林先生は「原子爆弾で死に絶えた若林家の血を後世に残すために江戸時代から二十世紀に行く」という設定だが、ズッコケシリーズで原子爆弾が出てくる作品は実はほとんどない。
『それいけズッコケ三人組』の『立石山城探検記』、『あやうしズッコケ探検隊』、『ズッコケ財宝調査隊』などでは戦争の影が描かれるのだが、原子爆弾については触れられない。
三人組が住むミドリ市のモデルは広島市らしいので、原爆についての話題があまり出てこないのはちょっと意外な気がする。
被爆経験者でもあった那須正幹氏にとって、原爆は小説の題材にするにはあまりに生々しかったのだろうか、と考えてしまう。
まあそこまでたいそうなものではなく、原爆を出してしまうと「ミドリ市」が架空の町にならなくなるからってだけかもしれない。
『花のズッコケ児童会長』(1985年)
津久田少年に喧嘩で負けたハチベエが、児童会長選挙で復讐を誓う
→ クラスの荒井陽子をかつぎだして後援会を結成。順調にメンバーを増やす
→ 後援会の選挙違反が明るみに出て陽子が出馬を辞退。メンバーが離れる
→ ハチベエが出馬を決意。はたして結果は……
と、起承転結がはっきりした作品。
ブレイク・スナイダー『SAVE THE CAT の法則』という本( → 感想 )に、成功する脚本の構成パターンが紹介されている。
悩み→ターニングポイント→お楽しみ→迫り来る悪い奴ら→すべてを失って→第二ターニングポイント→フィナーレ といったストーリーの定型が紹介されているのだが、『花のズッコケ児童会長』はまさにその王道パターン。
ひさしぶりに読んで、改めておもう。名作だなあ。
ぼくが小説を読んではじめて涙を流したのはこの作品じゃないかな。今回は娘に読んであげたのでさすがに泣かなかったけど、やっぱり涙を流しそうになった。
今作のキーパーソンはふたり。スポーツ万能、特に柔道が強く、背も高くて顔もかっこいい、勉強もよくできる津久田少年。そして、運動が苦手で、引っ込み思案で、口下手な皆本少年。
津久田少年には、皆本少年の気持ちがわからない。津久田少年だって何もせずに柔道ができるようになったわけじゃない。努力に努力を重ねて柔道が強くなったのだ。その自信があるからこそ、努力をしないやつが許せない。
今でいうネオリベラリズムといったほうがいいだろうか。自由な競争を尊重し、公的機関による市場介入は最小限にする。極端にいえば、「負けたやつは努力が足りなかったのだからそいつが悪い」である。
学校現場でもどっちかというとその考えが主流かもしれない。「がんばればなんでもできる」と教えることは、そのまま「失敗したやつはがんばりが足りなかったのだ」につながる。学校ではあまり「がんばってもどうにもならないこともある。生まれつき決まっていることも多い」とは教えない。
だが、モーちゃんやハカセは津久田少年のネオリベラリズムに疑問を呈する。
そういう政治家がいたっていいとはおもうけど、あまりにも多すぎる。政治家になるのって99.9%は成功者なんだよね。家が金持ちで、勉強ができて、学歴が高くて、仕事で成功した人。努力できる人。だからそうでない人にはなかなか寄り添ってくれない。
いっそ裁判員制度みたいに全国民から無作為に選んだほうがよっぽどマシになるかもしれない。
話がそれた。そんなわけで、弱者として描かれる皆本くんにとって、いじめられているところを助けにきたハチベエは正義のヒーローである。だが、べつにハチベエはいいことをしたわけじゃない。ムカついたから喧嘩を売りにいっただけで、皆本くんを助けようなんて気はさらさらなかった。
これがいい。ハチベエが人助けをしたりしたら、嘘くさいもの。己の欲望のままに行動したら、結果的に救われた子がいた。それでいい。「誰かのためにたたかう」なんて偽善だよ。
「ハチベエの児童会長選出馬」以外にも見どころの多い作品だ。
ひとつは、女子との交流。放課後や休日に男子も女子も集まって、児童会長選挙に向けての作戦を練っている。こういうシーンはこれまでのズッコケシリーズではほとんど見られなかった(例外は『それいけズッコケ三人組』の『立石山城探検記』ぐらい)。
『探偵団』や『事件記者』でも女子は出てくるが、そこでの女子はあくまで〝敵〟だった。
そう、昔の男子小学生にとって女子は〝別世界の住人〟もしくは〝敵〟だった。ぼくも、小学生のときに女子と協力して何かをした記憶がほとんどない。でも、だからこそたまに女子といっしょに何かをするときはテンション上がったものだ。劇の練習とか誰かの誕生日会とかで休みの日に女子と集まったときはわくわくしたなあ。
ズッコケ三人組が女子と(一時的にではあるが)手を組むようになったのは、時代の変化のせいかな。あるいは女子の読者が増えたから、というもっと直接的な理由かもしれない。この作品以後、『株式会社』や『文化祭事件』など女子が味方になる作品が出てくる。
しかし「陽子はかわい子ちゃんだから票が集まるはず」とか「かわいければ男子からの票が入るかもしれないが、あの顔では無理だろう」といった、今の時代の児童文学なら完全アウトな発言が随所に出てくるのは昭和だなあ。
他にも、ハカセがアメリカ大統領選挙にも精通しているところを披露したり、事前運動を回避するために後援会を組織するといった本物の政治家さながらの悪知恵をはたらかせたり、組織が大きくなるにつれて末端が腐敗していってコントロールが効かなくなる様子を描いていたり、細部まで手を抜いていない。
長いお話だとどうしても中だるみの部分が生まれる。それはズッコケシリーズも例外ではない。だけどこの作品に関してはどこをとってもおもしろい。めまぐるしく話が動くので退屈する暇がない。
大人になって読んでも、子どものときとまったく同じように楽しめた。本当にすばらしい児童文学ってこういうもんだよな。
『ズッコケ恐怖体験』(1986年)
ハカセのおじいちゃんの家に遊びに行った三人。ハチベエは不気味な老婆から「おたかの亡霊を呼び寄せた」と告げられ、さらに肝試しで道に迷った際に奇妙なな体験をする。
町の人々は急に三人に対してよそよそしくなり、追いかえされるようにして家に帰ることに。だが家に帰った後も奇妙な現象は続き……。
小学生向け物語の定番ジャンル「怪談」。書店の児童書コーナーを見ると、けっこうなスペースが怪談本に割かれている。
ズッコケシリーズでも既に『ズッコケ心霊学入門』という作品があるが、あれは心霊写真という入口ではあったが、結果的には心理学や超能力の領域の話になり、しかも三人組がいない間に事件が解決してしまうという、怪談話を期待していた読者には肩透かしを食らわせる展開だった。
その反省を踏まえてか、『ズッコケ恐怖体験』ではきちんと幽霊を登場させている。
とはいえ、単に「はい幽霊出ましたよーこわいですねー」としないところが、さすがは那須正幹先生。冒頭からあやしい人物を登場させるなど周到に雰囲気づくりをおこない(まあその人は優しいおじさんなんだけど)、幽霊の正体を細かく設定し、幕末の長州征討の話にからめるなど虚実まじえて見事にもっともらしいほら話をつくりあげている。大人が読んでも、なるほどとおもわせる話運びで、子どもだましにしないところがいい。
小学生のときにも読んだはずだが、細かい設定はほとんどおぼえていない。幕末の説明のあたりは読み飛ばしていたんだろうな。
話としてはよく練られているが、怖いかというとあまり怖くはない。これは、幽霊の正体であるおたかさんという人物、死に至った背景、おたかさんの心残り、他の誰でもなくハチベエが憑りつかれた理由などがきちんと説明されているからだろう。結局、怖いという感情は「わからない」と表裏一体なのだ。わかってしまえば怖くない。その証拠に、幽霊嫌いの娘(八歳)も怖がらずに聞いていた。
怪談としては失敗かもしれないが、幕末の悲劇として読めばよくできている。いわゆる子ども向けの怪談というより、落語や講談に出てくる怪談話に近い。
ただ、児童文学として読むとはっきりいってつまらない。自然に憑りつかれて自然に解決してしまったのだから、三人組の活躍といえるようなものは皆無。『ズッコケ心霊学入門』と同じだ。
もっと知恵や勇気や行動で困難を打開していく話が読みたいな。
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