ヤクザになる理由
廣末 登
ぼくはヤクザではないし、ヤクザだったこともない、ヤクザの知り合いもいない(ぼくが知らないだけであの人やあの人がほんとはヤクザなのかもしれないが、こわいので考えないことにしている)。
なので、ヤクザだとか暴力団なんていうのはまるっきりフィクションの中の話だ。魔法使いとか宇宙警察とかと同じようなものだ。
でも魔法使いや宇宙警察とちがって、ヤクザは実在するらしい。魔法使いや宇宙警察もぼくが見たことないだけで実在するのかもしれないが(科学的態度)。
溝口 敦・鈴木 智彦『教養としてのヤクザ』によると、今どきのヤクザはやれ拳銃だやれ博打だやれ覚醒剤だという感じではなく(そういうとこもないではないのだろうが)タピオカや精肉や漁業や原発などさまざまな産業に入りこんで稼ぎを上げているらしい。そうなると、ぼくらも間接的にヤクザとかかわっていることになる。我々がスーパーで買う肉や魚が、ヤクザの利益になっているかもしれないわけだ。
そんな〝誰もが存在は知っているけど実態はよく知らない〟ヤクザの入口について書かれた本。
多くのヤクザとつながりのある筆者が実際に見聞きした話をもとに、どういう人がどういう流れを経て、ヤクザになるのかについて書かれている。
結論から言うと、「ヤクザになる理由」は意外性のないものだった。両親不在、貧困、ヤクザの多い地域などの悪環境で育った子どもが学業ができず中学生頃から学校(他生徒というより教員や授業)になじめず、非行グループを作って窃盗や喫煙やシンナーなどをおこない、その中でも特に悪いやつが先輩から声をかけられてヤクザになる……。
「うん、でしょうね」と言いたくなるようなコースだ。「だいたい想像していた通り」だ。もちろん例外はいろいろあるんだろうけど……。
あくまで傾向の話ではあるが、グレる理由としては「子どもの頃の環境」が大きいそうだ。
中でも重要なのは、家庭環境だ。
もちろんひとり親世帯で道を踏み誤ることなくまっとうに育っている子も多いことは当然のこととして……。
自分が親になってわかるのは、子育てに重要なのは「マンパワー」だということだ。経済力とか親の学力とか教育熱心さとかは些細なことだ。「親が子どものために使える時間」はすごく大事だ。
ぼくは、毎晩子どもに絵本を読み、風呂や食事の席で子どもの話を聞きだしたり質問に答えたりしている。勉強のわからないところは教えてやり、宿題をちゃんとやっているかをときどきチェックしている。週末には公園や図書館に連れていって、いっしょに遊んだり身体の動かし方を教えたりしている。家でテーブルゲームをしたりパズルを教えたりもしている。ぼくの親がやってくれたように。
それができるのは、ぼくに時間的余裕があるからだ。ぼくが子どもを見ている間の家事は妻がやってくれるし、ぼくの仕事は残業がほとんどない。土日祝も休めるし夜勤もない。
でも、ワンオペで家事・育児をしなくちゃいけなかったり、長時間労働や単身赴任を強いられていたら、とてもそんな余裕はないだろう。仕事をして、子どもに飯を食わせて風呂に入れて寝かせるだけでせいいっぱいだ。
ちゃんと勉強できているかを確認する、できていなければつきっきりで教えてあげる、なんなら自分が率先して勉強している姿を見せてやる。そんなことができるのは時間に余裕がある親だけだ。たとえ教育熱心で、親自身の学力が高かったとしても、時間がなければ不可能だ。
いやあ。親をやってみてわかったけど、学校教育ってめちゃくちゃありがたいなあ。そこそこの教養のある親なら、学校で教えているようなことの大半は家庭でも教えられるだろう。無限の時間があれば。でも無限の時間はない。代わりに学校がやってくれる。しかも無償で。ありがてえ。
このブログにも何度か書いているけど、ぼくは「子育ては家庭でやるべきじゃない」とおもっている。いや、家庭でやるのはいいんだけど、もっとアウトソーシングした方がいいとおもう。幸か不幸か、少子化で子どもの数は減っているわけだし。
経済的にも時間的にも余裕があって熱意もある親は子育てしたらいいけど、「子育ては親がやるもの」という考えは捨てたらいいとおもう。
料理といっしょ。やりたい人は家でやればいい。でも無理にやらなくてもいい。すべて外食や中食で済ませたっていい。子どもの面倒も誰かが見ればいい。公立小学校で寄宿舎制度をつくったっていいんじゃないだろうか。で、気楽に利用したらいい。「平日は寄宿舎に行かせる」とか「寝るときだけ家に帰るけど食事は寄宿舎で済ませる」とか「親が夜勤のある日だけ寄宿舎に行かせる」とか。学童保育みたいなもんだね。
こういうこと言うと、「子どもがかわいそう」なんてことを言う輩が出てくるんだけどね。でも、どうしようもない親のもとに生まれ育つほうがよっぽどかわいそうでしょ。『ヤクザになる理由』に出てくる元ヤクザたちも、そのほとんどは別の家庭に生まれてたらヤクザにならなかっただろうよ。
そもそも親だけで子育てをしていた時代なんて、せいぜいここ数十年ぐらい。親以外の人も含めて子育てをしていた時代のほうが圧倒的に長い。「子育ては親がやるもの」という考えはそろそろ社会全体で捨てないといけないとおもっている。
うちの子らは一歳から保育園に通っていた。平日は家で親と過ごす時間よりも保育園にいる時間のほうが長かった。
これだって「ちっちゃい子はおかあさんといっしょにいないと」教の信者からするとかわいそうだとおもうんだろう。でもぼくは保育園に入れてつくづくよかったとおもう。親自身が助かっているのももちろんあるが、子ども自身のためにも。集団で暮らすほうが学べることは圧倒的に多い。子育てド素人の親よりも、プロの保育士のほうがぜったいにしつけはうまいわけだし。
仮にぼくが働かなくても食っていけるぐらいの大金持ちだったとしても、やっぱり子どもは保育園に預けたい(働いてなかったら預かってくれないだろうけど)。
就学年齢以上向け保育園みたいなのがあってもいいとおもうよ。
暴力団や暴走族について、ふしぎにおもっていたことがある。
社会のルールを守りたくない人が集まる組織なのに、どんな組織よりも厳しい掟があり、それに従っているのはどうしてだろう? と。
暴力団や暴走族に入ったことはないけど、聞くかぎりではとにかく厳しい世界らしい。ボスや先輩の言うことには口答えしちゃいけないとか、集まりにはぜったいに参加しなきゃいけないとか、朝から晩まで拘束されるとか。
どう考えたって、学校や会社のほうが楽だ。教師や上司に多少生意気な口を聞いたって殴られたりはしないし。拘束される時間も短いし。理不尽な目に遭ったら警察や労基署に駆け込むという道もある。暴力団だったらそういうわけにもいかないだろう。
「ルールを守らなくちゃいけない」のも「イヤなやつに頭を下げなくちゃいけない」のも「自分を押し殺さなくちゃいけない」のも、学校や会社よりも暴力団のほうがずっと厳しい。
「社会のルールを守りたくないから行き当たりばったりの犯罪に手を染める」ならまだわかるけど、「社会のルールを守りたくないからもっと厳しい掟に支配される世界に入る」ってのは理解できない。
でも、この本を読んで少しだけ理解できた気がする。
著者は、こう書いている。
結局、学校や会社とは別のつながりを求めているんだろうね。ひとりはイヤだから組織には属したい。でも学業で評価される世界では勝てる気がしない。だから別の土俵を求めて暴力団に所属する。そこなら勉強ができなくても出世できるチャンスがあるから。
暴力団に入る人というのは、すごく上昇志向が強いんだとおもう。そうじゃなかったらわざわざ厳しい世界に身を置かないもの。サラリーマンやフリーターのほうがずっと楽だもん。学校や一般企業では勝てない。でも勝ちたい。だから、少しでもチャンスのある世界に行く。
暴力団に入るためのそもそもの動機は「野球選手になりたい」「芸術家になりたい」「芸能人としてスターになりたい」ってのとそんなに変わらないんだろうね(だから野球選手や芸能人がヤクザとつながりやすいのかも)。
だからさ。
勉強以外にも、学校に「音楽コース」とか「芸人コース」とか「漫画家コース」とか「YouTuberコース」とか上を目指すための道がいろいろあれば、〝新たな帰属集団において自尊心の回復を希求〟が満たされて暴力団に入る人が減るかもね。
いや、SNSなどで帰属集団を作りやすくなったことで、既にそうなっているのかもしれない。
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