中年にとってはなつかしいズッコケ三人組シリーズを今さら読んだ感想を書くシリーズ第八弾。
今回は20・21・22作目の感想。
(1~3作目の感想はこちら、4・5・7作目の感想はこちら、8~10作目の感想はこちら、6・11・14作目の感想はこちら、12・15・16作目の感想はこちら、17・13・18の感想はこちら、20・23・19の感想はこちら、28・23・19作目の感想はこちら)
『大当たりズッコケ占い百科』(1989年)
占いにハマったハチベエが、クラスメイトの市原弘子から〝レイコンさん〟なる占いを紹介される。死者の霊を呼びだすというその占いは驚異の的中率を見せ、すっかり〝レイコンさん〟に魅せられる三人組。
ところがクラスの女子がなくしたペンダントが他の子の鞄にあることを〝レイコンさん〟が当てたことによりクラスメイトたちの関係が悪化する……。
なかなかの問題作。オカルト、呪い、不登校、嫉妬など扱われている題材がとにかく陰湿だ。だが、個人的にはかなり好きな作品に入る。こういう〝ふつうの人の嫌な部分〟をちゃんと書いてくれる文学は信用できる。
特に児童文学だと、悪い人が出てこなかったり、出てきたとしても〝頭の先から足の先までぜんぶが悪い単純な人物〟として描かれることが多い。
でも現実はそうじゃない。誰しも優しい面もあれば意地悪な面もある。クラスの九割から好かれている人物が、残りの一割からものすごく憎まれていたりする。
その点、ズッコケシリーズには根っからの悪人も出てくるが、ごくごくふつうの人の醜い姿や意地悪な面も書かれている。『ぼくらはズッコケ探偵団』の学級会のシーン、『花のズッコケ児童会長』で優等生がおこなったいじめ行為、『ズッコケ結婚相談所』の男子の恋心をもてあそぶ女子や、暴かれた母親の嫌な過去、『ズッコケ文化祭事件』での小説家の狭小な態度……。
特にそれが顕著なのがこの『大当たりズッコケ占い百科』だ。占いを引き合いにクラスメイトをこばかにしたり、持ち物がなくなったときにクラスメイトを犯人だと決めつけたり、ターゲットにわかるように〝呪いのおまじない〟を実行したり、うわさ話を広めたり……。そういった行動をとるのは特定の悪い子ではない。ごくごくふつうの子である。主人公の三人組も加担している。
学校でのいじめもだいたいそんなものだ。めちゃくちゃ悪いやつ、なんてのはそんなにいない。いじめの加害者がクラスの人気者で被害者のほうが問題行動の多い嫌われ者、なんてケースも多い( 奥田 英朗『沈黙の町で』もそんなリアルないじめを描いていた)。
クラス内に疑心暗鬼が蔓延してギスギスしている様子なんか、挑戦的ですごくいい。しかも最終的に「悪いやつがやっつけられてめでたしめでたし」にならないのもいい。悪役もいるが、懲らしめられることもないし、悔い改めたりもしない。
でもそれでいいとおもう。世の中、勧善懲悪ってわけにはいかないし、「クラスみんな仲良くしましょう」なんて欺瞞だ。そんなことを言っても弱い子は助からない。「嫌なやつもいるけどほどほどの距離をとってつきあっていきましょう」こそが教えなきゃいけないことだ。
ちなみにこの本に、栄光塾という過激な塾が出てくる。毎月のテストで生徒を順位付けし、成績下位者は上位者のために靴をそろえてやらなければならない、というとんでもないやりかたをとっている。これ、人によっては「そんな塾ねーよ」とおもうかもしれないけど、今はどうだか知らないけど三十年前は野蛮な時代だったからこういう塾もあったんだよ。ぼくの友人が通っていた中学受験対策塾でも「まちがえた回数だけ物差しで叩かれる」って言ってたし。
厳しいシステムをとりいれた結果、一生懸命勉強するよりも他の生徒に嫌がらせをして足を引っ張るようになる、というのが現実的でおもしろい。
そうなんだよね。狭いコミュニティで競争させたら自分が向上するより他人を蹴落とすほうが楽なんだよね。こういう成果主義の弊害を1989年に書いていた、というのもすごいなあ。まだまだ「これからは欧米を見習って日本企業も成果主義だ!」って言われていた時代だもんなあ(そして国全体での凋落がはじまった時代でもある)。
『ズッコケ山岳救助隊』(1990年)
子ども会の登山旅行に参加することになった三人。ところが悪天候やハプニングにより、三人組+同学年の有本真奈美だけがはぐれてしまう。霧、豪雨、土砂崩れ。最悪の状況でやっとたどりついた山小屋で出会ったのは、なんと誘拐されて監禁された少女。誘拐犯が戻ってくるかもしれないこの小屋で一夜を過ごすことになった子どもたち……。
とまあ、これまでに様々な危険な目に遭ってきた三人組だが、その中でもかなりのピンチに陥る。にもかかわらずあまり緊迫感がない。
山は怖い。が、その怖さはどうも伝わりにくい気がする。海で溺れるとか、高いところから落ちるかもとか、殺人犯に狙われるとか、そういう一刻一秒を争う危機に比べるとどうも「山での遭難」は人間の本能に訴えかけてくるものが小さい。だからこそ人々は山をなめ、遭難するのだろう。
次から次にいろんなことが起こるので決してつまらないわけではないのだけれど、いまいち印象に残らない作品。ただ出来事が説明されるだけで、登場人物たちの心の動きが伝わってこない。終始三人組と行動をともにする真奈美という新キャラクターも、これといった活躍を見せるわけでもないし。
唯一内面の苦しみが伝わってきたのが、引率役の有本さん。おもわぬアクシデントや一瞬の甘さのせいで子どもたちを遭難させてしまい、大いに苦しむ。もちろん自分の娘も心配だろうが、それ以上に心配なのはよその子。十分に監督しなければならない立場だったのに、ほんのわずか目を離してしまった隙にはぐれてしまったのだから悔やんでも悔やみきれないにちがいない。さらには子どもたちが遭難して夜になっても見つからないことを保護者に連絡しなければならない状況、その心痛は想像するにあまりある。
子どもの頃は引率する大人の気持ちなんてまったく考えなかったけど、自分が親になると痛いほどよくわかる。『となりのトトロ』でも、いちばん共感してしまうのはカンタのおばあちゃんだもん。面倒を見るといっていた四歳の子が迷子になる……、こんなおそろしいことはないぜ。もしものことがあったら、と考えると自分が死ぬよりも怖い。
ぼくが小学校四年生のとき、担任の先生が「初日の出を見るツアーをする!」と言いだして、子どもたち(希望者だけ)を連れて大晦日の夜から山に登った。
当時は夜中に友だちと出かけられる楽しさしか感じていなかったけど、今考えたら「担任たったひとりで小学生数十人を深夜の山登りに連れていく」ってめちゃくちゃリスキーなことやってたなあ(ご来光目的の登山客が多かったとはいえ)。おお、こわ。
『ズッコケTV本番中』(1990年)
ひょんなことから放送委員になったモーちゃん。慣れないカメラ操作に悪戦苦闘していると、見かねたハカセやハチベエが練習につきあうことに。折しも町内で放火事件が相次いでいるので、放送委員の後輩である池本浩美もくわえて放火犯を追うドキュメンタリー映画をつくることになった。
ところがハチベエの不用意な発言のせいで池本浩美が放送委員内で孤立。めずらしくモーちゃんがハチベエに対して怒りをぶつけ……。
後半こそ放火犯をつきとめることになるが、中盤までは学校の委員活動などの描写が多く地味な作品。
……というのが小学生時代のこの作品に対する評価だったのだが。
今読むとおもしろい。たしかに町内だけで完結するので派手さはないが、モーちゃんやハチベエの胸中の動きが丁寧に描かれていて引きこまれる。
温厚なモーちゃんがハチベエに対して怒る展開がいい。
自分のことではまず怒らないモーちゃんが、自分を慕ってくれる後輩の女の子が放送委員内で吊しあげを食らい、原因をつくったハチベエに対して堪忍袋の緒が切れる。これが熱い。
モーちゃん VS ハチベエの喧嘩にいたるための流れも丁寧だ。モーちゃんが当初は苦手意識を感じていた放送委員の仕事にやりがいを感じるところ、いつもなら「モーちゃんがハチベエを誘おうとしてハカセが渋る」なのに今回はその逆「ハカセがハチベエを誘おうとしてモーちゃんが渋る」になっていること、ハチベエやハカセたち VS 放送委員 という対決構図になって両方に属するモーちゃんが板挟みになることなど、周到に喧嘩の伏線が組まれていく。
また今作のキーパーソンである池本浩美の存在も重要だ。モーちゃんにはあまり主体性がないが、後輩から頼られることで責任感を持ちはじめるあたり説得力がある。恋をしても終始もじもじしていた『ズッコケ㊙大作戦』のときから比べると飛躍的な成長だ。
モーちゃんの怒りもいいが、ハチベエの心中描写もリアリティがあって好きだ。
うっすら見下していた相手から怒りをぶつけられ、とっさに逆ギレしてしまう。さらには相手の痛いところをつく攻撃的な言葉までぶつけてしまう。自分の落ち度にも気づいているので後悔するが素直に謝れず、そのくせ妙に下手に出てしまう。このへんの心の動きは実に現実的だ。ぼくも何度こんな失敗をしたことか。おもわぬ人から急に怒られるととっさに攻撃的になっちゃうんだよね。自分が悪くても。
また、はっきりとした仲直りが描かれないのも好感が持てる。そうそう、友だちと喧嘩をした後って仲直りなんかしないんだよ。なんとなくうやむやになって、いつのまにか元の関係に戻っている。友だちってそんなもんだよね。謝罪しないと仲直りできない関係なんて友だちじゃないぜ。
いやあ、よかった。かつては平均点ぐらいの作品だとおもっていたけど、今読むと『花のズッコケ児童会長』の次ぐらいに繊細な心の動きが描かれたいい作品だ。
「放火魔を捕まえる」が後半の見どころではあるが、正直いってこのくだりはなくてもいいぐらい。日常の枠内でも十分おもしろい作品になったとおもう。
放送委員の連中がかなり痛々しいのもおもしろかった。
委員以外の子を「素人さん」と呼び、自分たちを「プロ」と呼ぶ。バイトを始めていっぱしの社会人になった気分でイキがる大学生みたいだ。十代って妙に優劣をつけたがるもんね。どうでもいいことを鼻にかけて。
大人になってみると、放送委員の仕事に慣れてることのなにがえらいんだって感じだけど、子どもにとってはこういうのがすごく誇らしいんだよなあ。
あと、映像作品というものに対する意識の違いが今とずいぶん違うのも興味深かった。
テレビカメラで撮影されると町の人たちが喜んでインタビューに答えてくれたり、自分たちが映っている映像を子どもだけじゃなく大人も熱心に眺めたり。
今となっては忘れがちだけど、この頃って「自分が映像に記録される」ってめちゃくちゃ貴重な体験だったんだよなあ。ほとんどの人にとっては一生のうちに数えるほどしかない出来事だった。ぼくは大学生のときにビデオカメラを買ったけど、17万円した。で、それを向けられた友人たちは例外なくテンションが上がった。それぐらいビデオカメラというのはめずらしい存在だった。
子どもでもスマホを持っていてあたりまえのように動画撮影をして、撮影どころか全世界に向けてかんたんに配信できる今じゃ考えられないことだけど。
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