2022年7月21日木曜日

書かないことのむずかしさ

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 このブログには特にテーマを決めず、書きたいことを好きに書くようにしているのだけれど、なるべく書かないようにしていることもある。

 それは、時事ネタ、特にいわゆる〝炎上案件〟だ。


 このブログの最優先読者は、まぎれもなく自分だ。自分が後日読んだときにおもしろいとおもってもらうために書いている。

 そのとき旬なテーマは後になると意味がわかりにくくなるし、特に炎上案件のように爆発的に注目度の上がったネタは冷めて忘れられるのも早いから後日読んでもつまらない。


 それよりなにより「炎上案件に首をつっこむのはみっともない」という意識がある。

 といっても今まで何度か首をつっこんだことはあるが、それは一応自分も当事者の端くれであったり、あるいはこの分野に関しては他人より深い前提知識を持っているはずという自負があったりする場合にかぎっている。

 やっぱりほら、みっともないじゃん。〝野次馬根性〟ってめちゃくちゃ醜悪じゃない。

 たとえば誰かが危険運転をしたときに、被害者自身とか、加害者を以前から知る人物だとか、道交法の研究者とかがあれこれ語るのはまあわかる。でも、YouTubeにアップされたドラレコの映像を見て「これは許せん!」とおもっただけの人は、不純物ゼロ、美しいほどの野次馬じゃない。

 いや、わかるのよ。野次馬が石を投げたくなる気持ちも。ぼくだって本心はそうだし。人間は社会的動物だから不正をはたらいて社会のメンバーに迷惑をかけるやつは迫害したくなる。そうやって攻撃的なやつやずるいやつを追いだして、社会秩序を維持してきた。だから炎上案件に首をつっこんで遠くから石を投げたくなるのは本能的なものなんだとおもう。

 でも、だからこそみっともないわけで。

 飯をがっついているところやセックスをしているところやウンコをきばったり惰眠をむさぼったりしている姿が本能に忠実であればあるほどみっともないのと同じで。そこを開陳してしまったら、もうえらそうな顔をできないじゃない。べつにえらそうにしなくたっていいんだけど。


 ま、これはあくまでぼくの個人的美学だ。

 首をつっこみたい人はつっこめばいいし、ただぼくは首をつっこみたくないというだけだ。

 だからこの問題についてひとこと言いたい、とおもったとしても自らブレーキをかけて書かないことにしている。


 問題は「書くのをやめたこと」は他人に伝わらないことだ。

 書いたことは他人に伝わるが、書かなかったことは他人には伝わらない。

 炎上案件についておもうところはあるし、それを文章化することもできるんだけど、あえて書かない。そこは伝わらない。

 ぼくとしては、人並みあるいは人一倍承認欲求があるわけだから「まあこの人は野次馬たちが集まっている下品な話題に首をつっこまないのね。やはりそのへんの凡百な連中とはちがうわ。なんて分別のある人なの」とおもってもらいたい。あわよくば賞賛されたい。

 でも、書かないから伝わらない。「私はこの問題について書きたいことがあるんだけど半端な知識でいっちょかみするのは下品なので、あえて首をつっこみませんでした」と書いてしまったら、それはもう首をつっこんだことになってしまうから、書けない。野次馬にはなりたくないが、野次馬でなければ他人から認識されない。野次馬のジレンマだ。


 こういうのはどうだろう。ぼくがある問題について書くのをやめ、ぼくが自作自演した別アカウントが「犬犬工作所はこの問題については沈黙を貫いている。なんと立派な姿勢だろう」と賞賛する。

 うむ、これがいちばんみっともないな!


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