中年にとってはなつかしいズッコケ三人組シリーズを今さら読み返した感想を書くシリーズ第六弾。
今回は17・13・18作目の感想。
(1~3作目の感想はこちら、4・5・7作目の感想はこちら、8~10作目の感想はこちら、6・11・14作目の感想はこちら、12・15・16作目の感想はこちら)
『ズッコケ文化祭事件』(1988年)
ズッコケシリーズの舞台は学校の外になることが多いのだが、この作品はめずらしくほぼ学校の中に収まっている。
文化祭で劇をやることになった六年一組。ハチベエは、自分が主役になるべく、近所に住む童話作家・新谷氏に脚本執筆を依頼する。ところが新谷氏の書いた脚本は「幼稚」「古い」と六年一組の生徒からは評判が悪く、大幅に改作をおこなって上演。劇は成功に終わったが無断で手を入れられたことを知った新谷氏が怒りだし……。
と、児童文学らしからぬ「大人の世界」が描かれる。特に宅和先生と新谷氏が酒を飲みながら口論を交わす場面は、子どもが一切登場しない。だが、こういう場面を明かしてくれるところこそズッコケシリーズの魅力なのだ。子どもは「ふだん子どもが目にしない大人の世界」を見たいのだ。ぼくは小学生のときにもこの作品を読んだが、強く印象に残っているのはやはり「おじさんとおじいさんの口喧嘩シーン」だ。
この物語におけるハチベエ、ハカセ、モーちゃんは、〝文化祭を成功させようとがんばる子どもたち〟の中のひとりでしかない。とても物語の主役たりえない。主役は子どもたちの自主性を尊重するために陰ながら奮闘する宅和先生であり、執筆の苦悩を抱えた新谷氏である。
このふたりが教育や児童文学について意見を戦わせるシーンは、著者である那須正幹先生の児童文学感が濃厚に反映されていておもしろい。ああ、きっと那須正幹先生もこういう批判を浴びたんだろうなあ、とか、こう言い返したかったんだろうなあ、とかいろいろ邪推してしまう。そしてそうした批判に対して、Twitterで口喧嘩をするのではなく(当時Twitterがなかったからあたりまえだけど)作品の中で見事に反論してみせるのがかっこいい。この『文化祭事件』こそが、古くさい批判に対する那須正幹先生の回答になっている。それは、〝新谷氏の最新作のタイトルが『ズッコケ文化祭事件』〟というメタなオチにも表れている。
「純粋無垢な子ども」という価値観は、現実を見ようとしない大人の勝手な思いこみにすぎない。「昔の日本人は思いやりがあった」の類といっしょだ。子どもは、大人以上に身勝手で、残酷で、小ずるくて、傲岸である。だからこそおもしろい。
子どものときは特になんともおもわなかったが、今読むとおもしろいのは
「中学受験をする連中が、受験前は学校行事なんかどうでもいいという態度をとってたくせに、受験が終わったとたん最後の思い出づくりとばかりに出しゃばってくる」
シーン。
ああ、いたなあ。こういうやつ。それまで誘いに乗らなかったくせに自分の推薦入試が決まったとたんやたら誘ってくるやつとか、学校行事なんてだりーみたいな態度とってたくせに中三の文化祭だけやたらと張りきって仕切ろうとしてくる不良とか。
ああ、やだやだ。ふだん横暴にふるまって周囲に迷惑かけてるくせに映画のときだけ仲間の大切さを語るジャイアンかよ。
『うわさのズッコケ株式会社』(1986年)
ポプラ社が2021年に企画した「ズッコケ三人組50巻総選挙」で見事一位を獲得した人気作。ぼく個人の中でも、三本の指に入る好きな作品だ(あとの二作は『探検隊』と『児童会長』かな)。
イワシ釣りに出かけた三人。釣り客が多かったのに食べ物を売る店がないことをハチベエが父親に話すと「商売してみろよ。もうかるぞ」とそそのかされる。すっかりその気になったハチベエはハカセやモーちゃんを誘い、クラスメイトからも借金をしてジュースや弁当を仕入れ、釣り客たちに販売する。成功に気を良くした三人はさらなる出資金を集めるために株式会社を設立する……。
何度も読み返した作品なのでだいたいおぼえていたが、それでもやっぱりおもしろい。
上にも書いたが、これぞ「大人の世界を見せてくれる児童文学」だ。
多くの大人は、子どもは純粋無垢な存在であってほしいと願っている。性や暴力や金儲けとは無縁な存在であってほしい、と。しかし残念ながら多くの子どもはそういったものが大好きだ。大人が隠そうとすればするほど覗き見たくなる。
『うわさのズッコケ株式会社』はその期待に見事に応えてくれる。この作品で株式会社の仕組みを知った人も多いだろう。ぼくもその一人だ。事業をやるために株式を売って出資を募る、事業が利益を出せば株主は配当金を受け取ることができる。この本で学んだ。そして、ぼくの株に対する知識はそのときからほとんど増えていない。
今読むと、株券の価値が下がるリスクを説明していないのはずるいとか、勝手に商売してたら怖い人にからまれるんじゃないかとか、ジュースはまだしも暑いときに弁当を持ち歩いて売ったりラーメン作ったりするのは食中毒の危険があるとか、子どもが缶ビール売っちゃまずいだろとか(子どもでなくても資格なしに売ってはいけない)、いろいろツッコミどころはあるんだけど、そんなのは全部ふっとばしてくれるぐらいおもしろい。
起承転結がしっかりしているし(釣り客がいなくなったときの絶望感よ)、終わり方も潔くて爽やか。無銭飲食をした人が高名な画家で……というのはややご都合主義なきらいもあるが、そのあたりをのぞけばすべて子どもたちだけの力で解決していて、児童文学としても完璧。
そういえばこれ読んで会社を作りたくなって、宝くじ販売会社を作ったなあ。一枚十円で宝くじを売って……。たいへんだったのと、飽きたので一回だけしかやらなかったけど。
『驚異のズッコケ大時震』(1988年)
子どもの頃に読んだときは「そこそこの出来」という印象だったが、今読むとひどいなこれは。
ここまででいちばんの失敗作じゃないだろうか。クラスにひとりふたりいる歴史好きな子以外には、さっぱりわけがわからない。
歴史に興味を持ったモーちゃんが『マンガ日本歴史』を買って読み、大いに感銘を受ける。翌日、学校帰りの三人組が歩いていると大きな揺れに遭遇する。気づくとそこは関ヶ原の合戦の舞台だった……という導入までは悪くないのだが、そこからがひどい。
関ヶ原を抜けだした三人は、琵琶湖の近くまで歩く(これがもうむちゃくちゃ)。そこで出会った老人はなんと水戸黄門・助さん・格さんだった。さらに京都に行った三人は坂本龍馬に出会って新撰組に襲われたところを鞍馬天狗に助けられ、邪馬台国で卑弥呼のお告げを聞いた後はジュラ紀に行って恐竜に遭遇する……。
もちろん、水戸黄門が諸国漫遊していたり、鞍馬天狗が実在していたりするわけはないので、最終的にはこれらは「三人の誤った認識のせいで時空がゆがんでしまったから」という理由が語られる。
……は?
理由を聞いても意味がわからない。過去にタイムスリップしてしまうのはそういうお話だからいいとして、なぜハチベエが鞍馬天狗の実在を信じていたら鞍馬天狗が眼の前に現れるのか。まったくもって意味不明だ。
ズッコケシリーズの魅力のひとつは「大胆なウソをもっともらしく並べたててくれる」ことにあるのだが、この作品にしてははなから整合性を放棄している。もっともらしいウソをつくことすらせず「とにかくこうだからこうなの!」という調子であっちこっちの時代に三人を連れていく。
ストーリー展開にまったく必然性がないのだ。なぜ有名人にばかり会うのか、なぜ場所もあちこち移動するのか、どのタイミングでタイムスリップが起こるのか、時代が未来に行ったり過去に行ったりするのはなぜなのか、そういった疑問への説明がまったくなされない。
「歴史上のなんとなくおもしろそうな場面をなんとなく並べてみました」以上の理由がない。
時間旅行ものは『ズッコケ時代漂流記』ですでに書いているから、差をつけるために何度もタイムスリップをさせたのかもしれないが、印象が散漫になっただけだ。それぞれの時代のうわっつらをなでているだけなので、歴史のおもしろさはまるで伝わってこない。その時代の風俗を語る余裕がない。
八歳の娘にとってもちんぷんかんぷんだったらしい。まあ日本史をほとんど知らないから当然なんだけど、歴史をある程度知っている大人が読んでもまるでおもしろくない。
『ズッコケ財宝調査隊』がワーストだとおもっていたけど、あれは難しいし地味だけどストーリー展開はしっかりしていた。ワーストワン更新だな。
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