『リメンバー・ミー』
(2018)
ピクサーの真骨頂といってもいいような映画だった。
個性豊かな登場人物、ストーリーが進むにつれて明かされる真実、手に汗握るアクション、シンプルながら力強いメッセージ。どこを切り取ってもすばらしい。
ピクサーファンのぼくとしてはもっと早く観たかったのだが、五歳の娘に「これ観ようよ」と誘っても「やだ。プリンセスが出てくるやつがいい」と断られて、なかなか観ることができなかった。
そりゃあね。五歳の女の子からしたら『リトル・マーメイド』とか『眠れる森の美女』とかのほうがいいよね。ということで、そのへんの作品も観てもらった上で、「じゃあ次はいよいよ『リメンバー・ミー』ね」ということでようやく観させてもらった。
(ここからネタバレ)
いやあ、泣いたね。
中盤ぐらいで「たぶん最後はミゲルがママココといっしょに『リメンバー・ミー』を歌うんだろうな」と思って、その通りの展開になったんだけど、やっぱり泣いた。まんまとしてやられた、って感じだ。音楽の力って偉大だなあ。
序盤に
「祭壇に写真を飾られていないと死者の国から帰ってくることはできない」
「現世で誰からも忘れられたとき、死者の国で二度目の死を迎える」
というふたつのルールを自然な形で提示する。
そして中盤以降はその二つのルールが物語にいい制約を与え、ラストはこのルールが感動を生む。
ピクサーはほんとに物語作りがうまいよね。
最近「ラストに意外などんでん返し! あなたは伏線を見抜けるか?」みたいな小説や映画がよくあるけど、その手の物語はまあたいていつまらない。
伏線やトリックが読者を驚かせるためのものでしかないんだよね。驚かせたその先に何があるかが大事なのに。
その点『リメンバー・ミー』は、伏線の貼り方が巧みすぎて観終わった後でも伏線だったと気づかないぐらい。なんて上質な仕掛け。
しかも「観客をだますための仕掛け」自体は物語の中心に据えられていない。あくまで、メッセージを届けるための手段でしかない。
ミゲルが歌う『リメンバー・ミー』を聴きながらぼくは、自分が死んで数十年たった日のことに思いを馳せた。
自分が死に、娘が歳をとり、百歳の娘にも死期が迫る。そのとき、娘はぼくのことをおぼえていてくれるだろうか。ぼくと過ごした日のことをいまわの際に思いだしてくれるだろうか。
百年後のことまで想像させてくれる映画は、文句なしにいい映画だ。
ピクサー作品にははずれがない(『カーズ』を除く)。
だからこそこんな映画が作れたんだろう。
この設定を思いついたとしても、ふつうは金をかけてつくれない。
かわいいキャラは出てこないし、主人公もごくごくふつうの少年だし、行動を共にするのはガイコツだし、舞台は死者の国だし、とにかく地味だ。主人公の相棒も汚い野良犬だ。
とても客を呼べる設定ではない(現に、ぼくの娘はなかなか観ようとしなかった)。
それでもぼくが観ようと思ったのは、それがピクサー制作だから。信頼と安心のピクサーブランド。
そして見事に期待に応えてくれた。
名作ぞろいのピクサー作品の中でも、『トイ・ストーリー』シリーズ、『インクレディブル』シリーズの次に好きな映画になった。
ところで、この映画の舞台である死者の国には、
「現世の誰からも忘れられたら消える」
「死んだときの年齢で死者の国にやってくる」
という設定があるが、この世界は現世以上に少子高齢化がすごいだろうな。
医学の発達によって若い人はどんどん死ななくなっていて、死ぬのは年寄りばかり。おまけに子どもは忘れられて死者の国から消えるのも早い(子孫がいないから)。
じっさいにこの設定の死者の国があったら、年寄りであふれかえっていて目も当てられない状況かもしれないな。
戦争があったら一気に死者の国も若返るんだろうけど。
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