2022年7月28日木曜日

【読書感想文】『ズッコケ発明狂時代』『ズッコケ愛の動物記』『ズッコケ三人組の神様体験』

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   中年にとってはなつかしいズッコケ三人組シリーズを今さら読んだ感想を書くシリーズ第十一弾。

 今回は31・32・33作目の感想。

 すべて大人になってはじめて読む作品。


『ズッコケ発明狂時代』(1995年)

 夏休みの自由研究のために発明にチャレンジするハカセ。一獲千金を夢見てハチベエやモーちゃんも発明に夢中になるが、厳しい現実を知って諦めかける。そんな折、壊れたテレビと電卓をつないだ装置の付近に雷が落ち、それを機に「未来の番組が見られるテレビ」が誕生する。これで金儲けを試みる三人だったが、なんと三人組死亡のニュースが流れてきて……。


 テーマは決して悪くないのだが、これは前半と後半がまったくべつの話だよなあ……。『ズッコケ発明狂時代』といっていいのは前半までで、後半は『ズッコケ三人組と未来テレビ』だ。置いていたガラクタにたまたま雷が落ちて未来が見られるようになっただけで、まったく発明じゃない。机の引き出しから未来のロボットが出てきたのを発明という人はいないだろう。

 前半の「理論立てて考えるハカセよりも先に、適当な気持ちで手を出したハチベエやモーちゃんのほうが発明品を完成させる」あたりのハカセの心の動きの描写もいいし、後半の「自分たちの死亡を知らせるニュースを見てしまい、回避するために全力を尽くす」もおもしろい。『バック・トゥー・ザ・フューチャー』や乾くるみ『リピート』を彷彿とさせるサスペンス展開になっている。

 未来のニュースを見られるようにはなったが、バタフライ効果(とは作中で書かれてはいないが)により必ずしも実現するわけではない。未来テレビ通りの結果になることもあれば、そうでないこともある。なので三人組は助かるかもしれないし、助からないかもしれない……。この塩梅がいい。緊張感がある。

 当然ながら三人組が死亡してバッドエンドになることはないのだが、そこで終わらせずにラストに「未来テレビで観た競馬の結果」が実現するかどうかという展開を持たさているのもニクい。そしてその結末が作中で明かされず読者の想像にゆだねられるところも。

 改めて考えると、中期作品にしてはかなりの佳作といっていいだろう。それだけに、テーマである「発明」から離れてしまったのがかえすがえすも残念。



『ズッコケ愛の動物記』(1995年)

 捨て犬を拾ったモーちゃん。もらい手が見つからないので、工場の跡地で飼うことに。噂を聞きつけた子らが、飼えなくなったリスザルやニワトリやウサギやヘビなどを持ちこみ、それらもあわせて飼うことに。さらにハカセがイモリやトカゲを捕まえてきて飼育をはじめる。ところが土地の持ち主に見つかって動物たちを連れて出ていくように言われ……。


 今の子、都会の子はどうだか知らないけれど、数十年前に郊外で育った子どもなら「動物を拾って困る」は一度は経験したことがあるんじゃないだろうか。

 ぼくは三度経験した。一度は学校に犬が迷いこんできて、学校で保護したとき(昔の学校ってそんなことまでしてたのだ)。その犬は結局我が家で飼うことになった。十数年生きた。

 二度目は、父親が仔犬が捨てられているのを発見して拾って帰ったとき。家族で八方手を尽くして、どうにか貰い手を見つけた。

 三度目は、ぼくが友人たちと遊んでいるときに捨て犬を発見した。それぞれの親に訊いたり、近所の家をまわって「犬飼いませんか」と訊いてまわったりしたが、結局貰い手は見つからず。泣く泣く、元の場所に戻した。翌日その場所を訪れると、「ここに犬を捨てた人へ。あなたの身勝手な行動によって一匹の犬が殺処分されることになりました。動物を飼うなら責任を持ってください」という怒りの貼り紙がしてあった。元々は別の人が捨てたのだが、あれこれ連れまわしたあげく結局元の場所に戻したぼくらは、自分が責められているような気になった。いまだに苦い思い出だ。


 また、我が家ではいろんな動物を飼っていた。犬に加え、文鳥、ハムスター、スズムシ、カメ、トカゲ、オタマジャクシ、カブトムシ、クワガタムシ、アリ、カマキリ、アリジゴク、カミキリムシ、カタツムリ……(後半は全部ぼくが捕まえてきたやつだ)。

 子どもにとって「動物を飼う」というのは身近にして大きなイベントだ。そして「最初はがんばって世話をするけどだんだん面倒になってしまう」のも共通する体験だろう。ぼくが捕まえた小動物たちも、ほとんどが天寿を全うする前に死んでしまった。


 前置きが長くなったが、『ズッコケ愛の動物記』はそんな動物を飼うことをテーマにした話だ。身近なテーマなので親しみやすいが、身近である分、はっきりいって退屈だった。まさに動物を飼いはじめた子どもと同じように、読んでいるほうも飽きてしまうのだ。子どもが親に隠れて動物を飼っても、その先は「死なせてしまう」「逃がす」「逃げられる」のどれかしかないわけで、いずれにしてもあまり楽しい未来は待っていない。さすがにそれではかわいそうとおもったのか、『ズッコケ愛の動物記』では「家で引き取る」という道も用意するのだが、それはちょっと反則じゃねえかという気がする。それができるんなら最初から家で飼えばいいじゃねえか。

 また、ニワトリの処遇だけが最後まで決まらず、ニワトリをかわいがっていた田代信彦が行方不明になるところがクライマックスなのだが、その結末も「ニワトリが何羽がいる神社に置いてきた」というなんとも微妙な決着。「神様がニワトリを放す場所を用意してくれた」とむりやりいい話っぽくしているが、いやあ、勝手にニワトリ放してきちゃだめでしょ。

 たぶん小学生が読めばそこそこ楽しめるんだろうけど、あまりに展開が平凡すぎてぼくには退屈だったな。ズッコケシリーズ史上もっとも波風の立たない作品だったかもしれない。




『ズッコケ三人組の神様体験』(1996年)

 神社の秋祭りで手作りおみこしコンテストが開催され、三人組たちもおみこしを手作りして賞金十万円を狙う。また秋祭りでは数十年ぶりに稚児舞いが復活し、ハチベエが踊ることに。ところがこの稚児舞い、踊った子の頭がおかしくなるといういわくつきの舞いだった。実際に、ハチベエが徐々に変調をきたし……。


 これはなかなかおもしろかった。中期作品にしてはよくできている。地域のお祭りという日常生活の延長から、徐々に摩訶不思議な世界に引き込まれていく感じがいい。神や精霊と交信するシャーマニズムに踊りはつきものだし、神事としての舞いには子どもの脳に異常をきたすといわれても納得してしまう説得力がある。

 この作品が書かれた前の年である1995年には、地下鉄サリン事件を筆頭とする一連のオウム騒動がテレビをにぎわせていた。子どもの間でも「サティアン」だの「ポア」だの「グル」だのといったオウム用語がおもしろ半分に飛び交い、スピリチュアルなものの危うさが受け入れられる土壌もあった。

 超常現象を扱いながらも、不思議な体験が事実だったのかそれともハチベエの見た幻覚だったのかはわからない。これぐらいがいい。『ズッコケ妖怪大図鑑』や『ズッコケ三人組と学校の怪談』は、明確に超常現象を書いちゃってるからなあ。具体的に書くほうが嘘くさくなっちゃうんだよね。

 またオカルト一辺倒にならないように「手作りおみこしコンテスト」というもう一本の軸を用意しているところも重要だ。これにより三人のバランスもとれるし、また神がかりの異常さも際立つ。個人的にはズッコケシリーズの心霊系の作品はハズレが多かったんだけど、これはその中では一番かも。


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