賢い人とそうでない人の差は「わからないことが多いかどうか」だとおもう。
むろん、「わからないことが多い人」が賢い人だ。
考えることが苦手な人は「わからない」を遠ざける。
- そもそもわからないものには近づかない
- 勝手な解釈でわかった気になる
- 「わかりやすい」説明をしてくれる人の言うことを信じる
こんなやりかたで、わからないものを視界の外に置く。むりやり「わかった」箱に片づけてしまう。
考えることに慣れている人は、わからないを忌避しない。そりゃあ誰だってわからないのは嫌だ。わからないよりわかったほうがいい。でも、ちゃんとわからないものを「わからない」箱にしまっておく。
そうすると、いつかわかる日が来るかもしれないし、少なくとも「わかった気になる」ことだけは避けられるようになる。
賢い人の話や本には「これはまだわかりません」「~という説が有力ですが他の説もあります」「ここまではわかっています」といった言い回しがよく出てくる。
どこまでがわかっていてどこからがわからないか。その間に線を引けることこそが知性なのかもしれない。
人間は本質的に「どっちつかずの状態」が嫌いなんだとおもう。だから白黒つけたがる。
原発再稼働は是か非か。減税は是か非か。政権交代は是か非か。
こういう賛否両論ある問題に、賛成あるいは反対の声を躊躇なくあげられる人をぼくはあまり信用しない。
世の中はあまり単純にできていない。もちろん、絶対的にダメなものはある。「原発を動かしてメンテナンスはやめよう」なんてのは100%ダメだ。でも絶対的にいい案はない。どの案にも一長一短あるし、どうしたって不確実な部分は残る。
だから「いい面もあるし悪い面もあるしよくわかんないけど、今のところはこっちのほうがいいんじゃないかな」あたりが知的に誠実な態度だ。
「絶対にこっちが正しい! 反対するやつはバカ!」という態度こそがバカだ。
幼児なんだよね。何にでも答えを知りたがるって。
空はどうして青いの? という問いに対してたったひとつの答えが得られるとおもっている。
そりゃあ光の屈折とか光の波長とか人間の眼の構造とかいろいろあるんだろうけど(ぼくはよく知らないからそれっぽいことを並べてるだけだ)、「それはなぜ?」「それはどうして?」をつきつめていけば、最後は「わからない」にたどりつく。きっと詳しい人ほど「究極的にはわからない」になる。
ありとあらゆることが「〇〇は××だから!」で済むとおもっているのは、五歳児だけだ。そう、『チコちゃんに叱られる』がああいう番組になっているのは制作陣は全員五歳児並みの知性しかないからだ。自分たちでそう言ってるし。
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