2022年7月19日火曜日

【読書感想文】上原 善広『一投に賭ける 溝口和洋、最後の無頼派アスリート』 / 攻撃的な変人

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一投に賭ける

溝口和洋、最後の無頼派アスリート

上原 善広

内容(e-honより)
全身やり投げ男―1989年、当時の世界記録からたった6センチ足らずにまで迫り、WGPシリーズを日本人で初めて転戦し、総合2位となった不世出のアスリート・溝口和洋。無頼な伝説にも事欠かず、まさにスターであった。しかし、人気も体力も絶頂期にあったはずにもかかわらず、90年からは国内外の試合にほぼ出なくなり、伝説だけが残った。18年以上の取材による執念が生んだ、異例の一人称ノンフィクション!ミズノスポーツライター賞優秀賞受賞作!(2016年度)。


 評伝かとおもって読みはじめたら「私が~」という文章が続くので戸惑ってしまった。なんだこれ、自伝なのか? だとしたら著者名と扱っている人物の名が異なるのはなぜだ?

 あとがきまで読んで、ようやくわかった。著者が二十年近く溝口和洋氏にインタビューしてその選手人生について書いたのだが、あえて一人称を使ったらしい。それならそれで最初に説明してくれよ。だいぶ戸惑ったぞ。




 ぼくは陸上競技にぜんぜん興味がないので、溝口和洋という人のことはまったく知らなかったのだが、いろんな意味ですごい人だ。

 まず、身長180cmという(世界で闘うやり投げ選手としては)小柄な肉体ながら、圧倒的に身体の大きい人が有利なやり投げで世界トップクラスの成績を残す。(再計測により無効となったが)世界新記録もたたき出している。彼の持つ87m60という日本記録は、30年以上たった今でも破られていない。若き日の室伏広治にハンマー投げの指導をした人物でもある。

 だが彼のすごさは、その記録よりもむしろ生き様にある。

 指導者はおらずほぼ独学のみで、尋常でないトレーニングを重ね、たった一人で世界の舞台で闘いつづけた。さらに、酒を飲み、本番前にもタバコを吸い、女遊びもする。他の選手や陸上協会に対しても堂々と批判し、マスコミ嫌いで気に入らない記事を書いた記者は捕まえて暴行をくわえる。引退後はパチプロとして生活をし、後に実家に帰って農家になる。

 まさに「無頼派」という言葉がぴったりだ。

 ぼくは小中学生のときに近藤唯之さんという人の本で昔(昭和)のプロ野球選手の逸話をよく読んだが、昭和のプロ野球選手の生活に近いかもしれない。昔のプロ野球選手にも「銀座のクラブで豪遊した」「夜通し飲んで、徹夜明けで出た試合でホームランを打った」なんて逸話が残っている。だが、彼らは無頼派とは異なる。そういう時代だったからやっていただけで、周囲が夜遊びをしていなければやらなかっただろう。

 だが溝口和洋は、あくまで我が道をゆく人だ。

 タバコも一日二箱は吸っていた。タバコはリラックスするために吸うので、「試合の前には必ず二、三本は吸っていた。
 代々木の国立競技場でも、できるだけ目立たないように外に出て限で吸っていたつもりだったが、見つかって「ミゾグチはタバコを吸っている」と非難されたこともある。これもまた、言いたい奴には勝手に言わせておけばいいと放っておいた。
 タバコを吸うと持久力が落ちるというが、タバコは体を酸欠状態にするので、体にはトレーニングしているような負荷がかかるから事実は逆だ。タバコを吸うと階段が苦しくなるというのは、単にトレーニングしていない体を酸欠状態にしているからだ。
 また「タバコは健康に悪い」と言う人がいるが、どう考えてもやり投げの方が体に悪い。一生健康でいたいのなら、やり投げをやめた方がよほど健康的だ。練習中は集中が途切れるので吸わないが、試合前の一服は不可欠だ。
 陸上関係者やマスコミは、こうした私のことを「無頼」とか「規格外だ」とか言っていたが、やり投げ以外のことを、私の事情を知らない他人にとやかく「言われる筋合いはない。逆に「今に見てろ」と、闘争心をかきたてられた。

 タバコを吸うのはトレーニング……。すごい理屈だ。めちゃくちゃだが「どう考えてもやり投げの方が体に悪い」は笑った。はっはっは、たしかにその通りだ。そういえば大学時代の運動科学の先生も「体にいい運動は散歩程度で、あとは全部体に悪い」って言ってたなあ。

 そうだよなあ。趣味でやるレベルならともかく、部活やプロ選手がやるスポーツはほぼ例外なく不健康だよなあ。身体的にも精神的にも。苦しくなるまで身体を痛めつけるって、冷静に考えたらかなりの異常行動だ。ケガもするし。スポーツは体に良いとおもってしまいがちなので、気をつけねばならない。




 溝口氏がすごいのは、徹底的に考えたことだ。外国人選手に比べて小柄な身体というハンデを乗り越えるためにひたすら考え、疑った。

 まず「やり投げ」という競技について、一から根本的に考えてみた。
 これはそもそも「やり投げ」と考えるからよくないのではないか。「やり投げ」と考えるだけで、例えばこれまでのトップ選手のフォームが脳に焼きついてしまっているので、偏見から抜けきらない。「そこで私が考えたのは、「全長二・六m、重さ八〇〇gの細長い物体をより遠くに飛ばす」ということだ。
 こう考えれば、それまでの「やり投げ」という偏見を取り除くことができる。
 私がやるべきことは結局、「やり投げのフォーム」を極めることではない。「やり投げという競技」を極めることにあるのだ。
 具体的には「二・六m、八〇〇gの細長い物体をより遠くに飛ばす」ことができれば、世界記録を出し、オリンピックでも金メダルを狙えるところまでいけるのだ。そうして初めて「やり投げ」を極めることができる。

 言われてみれば当然のことのようにおもえるが、なかなかできることではない。スポーツの練習というのは基本的に形から入る。上手な人のフォームを真似るところから始まる。その時点ですでに先入観にとらわれている。

 溝口選手は、あらゆるものを疑い、フラットな状態から見つめなおした。

 こうした技術面での新発見に、コツというものがあるとしたら、これまでの常識を全て疑い、一からヒトの動作を考えることだ。
 短距離だったら、まずスタートから疑ってかかる。現在はオーソドックスとなっているクラウチング・スタートも、本当にそれが正しいのか、一から検証していくのだ。
 例えば、ヒトはなぜ「後ろ向きで走ると遅くなる」と思うのだろうか。わかっていても、その本当の理由を答えられる人は少ないだろう。もしかしたら、後ろ向きで走る方が速いかもしれないのに、誰も試そうとはしない。私は実際に、後ろ向きに走って確かめた。

 ここまで疑うのか……。

 たしかに「後ろ向きに走るよりも前向きに走ったほうが速いのはあたりまえ」とおもっているが、じっさいに確かめたことはない。障害物のない平地で、周囲に人がいない状況で、練習を重ねたら、ひょっとすると前向きで走るよりも速くなるかもしれない。やったことがないのだからぜったいにないとは言い切れない。

 走り高跳びがオリンピック種目になったのは1896年だが、アメリカのディック・フォスベリーが背面跳びを発明し、金メダルをとったのは1968年のメキシコオリンピックである。それまでの70年以上(オリンピック種目になる前も含めれば数百年にわたって)、誰も後ろ向きに跳ぶほうが高く跳べるなんて考えもしなかったのだ。

 常識にとらわれない発想をすることこそが、超一流選手とそれ以外を分ける点かもしれない。

とにかく他人の目など気にしないことが大事だ。
 しかし意外に、これが他の選手には難しいらしい。
 例えば学校の陸上コーチから「そんなフォームはやめろ」と言われれば、あなたならどうするだろうか。ここで自分を貫けば、コーチとの縁は切れてしまうかもしれない。しかし、やり投げの飛距離は伸びるかもしれない。
 実際に、世界レヴェルの選手で、記録ではなく恩師をとった日本人選手も少なくない。
 素質は世界レヴェルなのだから、本気で競技のために親兄弟をも捨て、本当の意味で命を賭ける覚悟があったなら、世界記録もオリンピックの金メダルも狙えただろう。しかし、それができる人の方が少ないのである。世界トップになるよりも、まず人であることを選んだのだ。
 それもまたいいだろう。人の生き方は、それぞれなのだから。べつに良いも悪いもない。
 だが、私は違う。
 やり投げで、世界トップに立とうと思った。
 だから肉親とか恩師とか女とか、そのような存在は無視すべきものであり、他人からどうこう言われようが、自分が一旦納得したら、それを貫き通した。素質のない私のような日本人が、やり投げで世界トップに立つためには、それくらいの覚悟が必要だった。もしかしたら、素質がなかったからこそ、馬鹿に徹し切れたのかもしれない。

 王、野茂、イチロー。いずれもそれまでの常識からすると常識外れの独特のフォームで活躍した選手だ。一本足打法、トルネード投法、振り子打法。多くの指導者が、そんなやりかたで成功するはずがないとおもっていただろう。だが彼らには理解ある指導者がいて、独自の道を貫いた結果大成功を収めた。

 溝口選手は理解ある指導者もなく、自分の思考だけで世界トップクラスで戦えるレベルまでたどりついた。とんでもない我の強さだ。

 ぜんぜん比べられるような話ではないが、ぼくも高校生のときに担任から「授業を聞かずに自分で教科書読み進めてええで」と言われてじっさいにその通りにしてから飛躍的に成績が伸びた。

 スポーツにかぎらず、初心者のうちは「他人のアドバイスに従う能力」が求められるが、ある程度のレベルまで達すれば逆に「他人の意見を聞かない能力」のほうが大事になるのかもしれない。他人から教えられたことと、自分で考えて試したことでは、定着力がぜんぜんちがうもの。




 溝口選手は、飲む・打つ・買うに代表されるその破天荒なスタイルに目が行ってしまうが、同時に誰よりもトレーニングをした選手でもあった。

 とはいえ懸垂も、もちろんMAXでおこなう。トレーニングは常にMAX、つまり限界になるまでやらなければ意味がない。
 何が限界なのかは、もちろん人によって違う。わかりやすくたとえると、他の選手の三倍から五倍以上の質と量をやって、初めて限界が見えてくると私は考えている。
 懸垂のMAXとは「できる限り回数をやる」ことになる。例えば懸垂を一五回できるのなら、それをできなくなるまで何セットでもやり続ける。間に休憩を入れても良いが、五分以上、休むことはあまりない。初めは反動なしでの懸垂だ。
 この懸垂ができなくなって初めて、反動を使っても良い。それでもできなくなったら、足を地面に着けて斜め懸垂をやる。
 ここまでくると指先に力が入らなくなり、鉄棒を握ることすらできなくなっている。ベンチをやっている時から、シャフトを強く握っているからだ。
 しかしここで止めては、一〇〇%とはいえない。
 そこで今度は、紐で手を鉄棒に括りつけて、さらに懸垂をおこなう。さすがに学生たちは本当に泣いていたが、ここまでやらないと、外国人のパワーと対等には闘えないのだから、無理は承知の上だ。

 よくこれで身体を壊さなかったな……。

 ふつうの人の考える「いちばん厳しいトレーニング」は、できなくなるまで懸垂を続けることだろう。溝口選手は、懸垂ができなくなれば斜め懸垂、斜め懸垂ができなくなれば手を鉄棒にくくりつけてさらに懸垂……。よくもまあここまで自分を追い込めるものだ。

 ここまで努力していることを公言はしていなかったそうだから、周囲からしたら
「あいつは酒もタバコもやって、素質だけでやり投げをやってちょっと結果が出ているものだから調子に乗ってるやつだ」
ってなふうに見えていたんだろうね。


 ついつい「あいつはたいした努力もせずに〇〇できていてずるい!」とおもってしまいがちだけど、他人の努力なんて見えやしないんだから勝手に推し量っちゃいけないね。




 やっぱり変な人の話を読むのはおもしろい。現実にはお近づきになりたくないようなタイプの人(つまり攻撃的な変人)であるほど、本で読むのはおもしろい。

 やり投げをやったことも今後やる可能性もないぼくにとっては役に立つ情報はまったくなかったけど、そんなことはどうでもよくなるぐらいおもしろかった。


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