中年にとってはなつかしいズッコケ三人組シリーズを今さら読み返した感想を書くシリーズ第五弾。
今回は12・15・16作目の感想。
(1~3作目の感想はこちら、4・5・7作目の感想はこちら、8~10作目の感想はこちら、6・11・14作目の感想はこちら)
『ズッコケ宇宙大旅行』(1985年)
子ども向け、特に男子向けのフィクション作品には定番ジャンルがいくつかある。昆虫、戦国、恐竜、乗り物、幽霊、推理など。そのひとつに「宇宙」がある。
ということで定番の「宇宙」を題材にしているのだが、さすがは那須正幹先生、安易に宇宙人を登場させたりはしない。アメリカのUFO研究機関の蘊蓄を並べたり、バードウォッチングをしたところ奇妙な音がカセットテープに録音されることから磁力線が発生していることに気づいたり、これでもかと説得材料を並べ立てている。このあたり、非常に理屈っぽい。はっきりいってUFOの歴史や定義など子どもには難解でいまいち伝わらないとおもうんだけど、きっと著者自身が書かずには納得できないのだろうな。児童文学だからといって細部まで手を抜かない矜持を感じる。
ただ、設定がしっかりしていることが裏目に出たのか、宇宙をテーマにしているわりにはこぢんまりした印象だ。「大旅行」といいながら宇宙に行っているのは数時間だけだし、小宇宙船と母船の中をうろうろしているだけで、他の星に行くわけでもない。
「敵」が出てきて頼みの綱の宇宙人がやられて……とスリリングな展開になりかけたところで、あっさり「敵」の正体がゴキブリだと判明。
地球人をはるかに上回る科学力を持っているのに、防疫システムだけはザル。他の星に行って動植物をサンプルとして採集し、それを自分たちの食糧といっしょに保管しておくなんて、バカすぎるだろ宇宙人。
バルサンでやられる「敵」、UFOの形状や内部構造、宇宙人の姿などどれも「漫画で見た通り」な感じで、全体的にチープさが否めない。
……とおもいきや。
エピローグで明らかになる、意外な事実。
あーなるほどー。宇宙人やUFOがあまりにもステレオタイプだとおもったらこういうわけかー。このどんでん返しは見事。
うまいことやったね。宇宙人やUFOの描写っていろんな人が試みてるから、既視感があるものになっちゃうもんね。かといってあまりに新奇なものにすれば少年読者がついていけないし。「地球人にも理解できるように」かつ「地球人の想像も及ばないようなもの」という正反対の要求を見事にこたえる、すばらしい逃げ道、じゃなくて解決法だ。
ぼくが小学生のときにもこの本を何度か読んだはずだけど、ゴキブリ退治のくだりは印象に残っているが、エピローグはまったく記憶に残っていなかった。小学生にはちょっと難しいオチだったかもしれない。当時はあんまり好きな作品じゃなかったしな。
小学生のときと大人になってからで大きく評価が変わった作品だ。
似たようなメタなオチは、後の作品『ズッコケ文化祭事件』でも使われてて、そっちはよくおぼえてるんだけどなあ。
『ズッコケ結婚相談所』(1987年)
ズッコケシリーズの話の導入には大きく二種類あって、「三人組がおもわぬ事件に巻きこまれる」型と、「三人組(特にハチベエ)が行動を起こして周囲を巻きこんでいく」型がある。
前者は『探偵団』『探偵事務所』『山賊修行中』『時間漂流記』『恐怖体験』『宇宙大旅行』などで、後者は『探検隊』『心霊学入門』『事件記者』『児童会長』『株式会社』『文化祭事件』などだ。
好みはあるだろうが、ぼくはだんぜん後者のほうがおもしろい作品がおおいとおもう。
殺人事件に遭遇したり、幽霊に憑りつかれたり、宇宙人と出くわしたりする導入だと終始「お話」感がついてまわるが、「学校の壁新聞を作るための取材をはじめたら……」「子どもだけで会社を作ったら……」といった導入には「あるいは自分も同じような体験をできるかも」とわくわくさせてくれたものだ。
で、この『ズッコケ結婚相談所』である。これは典型的な「三人組の行動が周囲を巻きこむ」パターンの話だ。
女子小学生の自殺を伝える新聞記事、という異様に暗いシーンから物語が幕を開ける。ズッコケシリーズの中でも、いや全児童文学をさがしても、ここまで陰鬱なシーンからスタートする物語は他にそうないだろう。
新聞記事を読んだハチベエは顔も知らぬ女子小学生の死に心を痛め、同じ境遇にある小学生を救うために何かできることはないかと知恵を絞る。で、おもいついたのが「子ども電話相談室」の開設。
このあたりはコミカルに描かれているけど、すばらしい行動力だ。いきなり全員を救うことはできなくても、まずは近くの子どもに手を差し伸べる。自分にできる範囲の小さなことをやる。こうした小さな行動の積み重ねがやがて世界を変える。かもしれない。
しかしそんなハチベエ先生の奮闘むなしく、ハチベエはクラスの女子から嘘の相談を持ちかけられてまんまと騙され(このいたずらはほんとにひどい)、ハカセはヒステリックな母親から説教され、「子ども電話相談室」はあえなく終了することに。
そして後半はうってかわって、モーちゃんのお母さんの再婚話が主題となる。
この作品は、前半と後半でまったく別の作品だ。そしておもしろいのは断然前半だ。「周囲を巻きこんでいく」型の前半と、「巻きこまれる」型の後半なので当然かもしれない。
児童文学で親の離婚、再婚をテーマに据えた意欲は買いたい。今の時代でも挑戦的だと感じるのだから、三十年以上前の出版当時は相当新しいチャレンジだったのだろう。
意欲的な作品なのは事実だが、物語としておもしろいかというとそれはまた別の話。
親の離婚や再婚って子どもからすると人生を大きく左右する一大事件でありながら、自分が介入できる余地は少ないんだよね。納得いかなくても、親の決定に従う以外の道はないんだから。
だから母親の再婚話に直面したモーちゃんは大いに悩むし、それを知ったハカセやハチベエも親友のために東奔西走するけれど、子どもたちが悩んだり話し合ったところで事態は変わらない。なのでずっと空回り感はぬぐえない。
モーちゃんの行動が母親の最終的な決断に影響を与えたのはまちがいないけど、あくまで要因のひとつ。「あの行動がこの結果につながったかもしれないし、無関係かもしれません」では、読み終わった後の爽快感は得られないなあ。
モーちゃんの気持ちがいまいち伝わってこないのもマイナス。ずっとうじうじ悩んではいるけど、それは父親に対するものだけで、母親に対する思いはまったくといっていいほど書かれていない。子どもにとっては母親って絶対的な存在なわけじゃん。母子家庭だったら余計に。その母親が再婚するかもしれない、って自分のアイデンティティが揺さぶられるぐらいの出来事だとおもうんだけど、モーちゃんがそこについて戸惑っている描写がぜんぜんない。
モーちゃんは過去との決別のために実父に会いに行くわけだけど、どっちかっていったら「物心ついてから一度も会ったことのない父さん」よりも「生まれたときからたった一人だった母さんがよその人と結婚する」のほうが重要事項だとおもうのだが。そこを書かないのは片手落ちじゃないだろうか。
試みはおもしろかったけど、このテーマをエンタテインメントにするのはむずかしいよなあ。
『謎のズッコケ海賊島』(1987年)
モーちゃんが食べるものがなくて困っているおじさんを助けてあげたところ、後日そのおじさんから海賊の宝のありかを示したメモを渡される。そしてはじまる宝探し、暗号解読、小島の洞窟探検、そして悪者の登場……。
と、定番要素をぜんぶ詰めこんだ王道すぎる冒険譚。大人の目から見ると、王道すぎて逆に退屈なぐらい。手塚治虫の初期作品(貸本時代)にこんな話がよくあったなあ。つまり1987年当時でもすでに新しくない。
しかし「はやての陣内」という海賊を登場させ、歴史背景をもっともらしく語ることで洞窟の実在に説得力をもたせているところはさすが。那須先生はこういう「もっともらしいほら話」が非常にうまい。
暗号もいっぺんに解読されるのではなく、「二枚で一セット」「浄土にまいるべし」「『女島の南』というフレーズの意味が陸の人間と海賊とでは異なる」など、徐々に謎がとけてゆくところはうまい。
目新しさはないが、ズッコケシリーズとしてはまあまあの良作といっていいんじゃないだろうか。モーちゃんの人の好さ、ハカセの博識、ハチベエの行動力と三人の長所がそれぞれ発揮されているのもいい。子どもの頃は「つまらなくもないが、シリーズ上位に入るほどではない」という評価だったが、大人になって読んでもその評価は変わらなかった。
ただ、最後にほんとに宝を手にして三人組が全国区のヒーローになってしまうのが個人的にはちょっと物足りない。最後の最後でズッコけるのがこの三人組の魅力だし、物語にリアリティを与えてくれているのに。
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