2019年7月17日水曜日

【映画感想】『トイ・ストーリー 4』

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『トイ・ストーリー 4』

内容(ディズニー公式より)
“おもちゃにとって大切なことは子供のそばにいること”―― 新たな持ち主ボニーを見守るウッディ、バズら仲間たちの前に現れたのは、彼女の一番のお気に入りで手作りおもちゃのフォーキー。しかし、彼は自分をゴミだと思い込み逃げ出してしまう。ボニーのためにフォーキーを探す冒険に出たウッディは、一度も愛されたことのないおもちゃや、かつての仲間ボーとの運命的な出会いを果たす。そしてたどり着いたのは見たことのない新しい世界だった。最後にウッディが選んだ“驚くべき決断”とは…?

≪公開中の映画に関するネタバレを含みます≫

ぼくは『トイ・ストーリー』シリーズの大ファンだ。
これまでの3作、および短篇作品もくりかえし観た。『4』の公開は何年も楽しみにしてきた。
ほかのファンと同じようにぼくも「あんなに完璧な『3』の後に続編を作れるのか?」とおもったが、同時に「でもピクサーならその不安をふっとばしてくれるすばらしい作品を生みだしてくれるはず」と信じていた。

で、『4』を観賞。
結論からいうと、不満がたくさん残る作品だった。
ぼくが大ファンじゃなかったら素直に楽しめたんだろうけど、思い入れが強い分、わだかまりも多く残った。

1~3までの作品とはずいぶん毛色がちがうなあとおもって調べてみたら、やはり『トイ・ストーリー』の生みの親であるジョン・ラセターが制作から離れたということで(離れた理由については自分で調べてください))、どうりでまったく別物になっているわけだ。
換骨奪胎。
変わったところが、ことごとく好きじゃなかった。




変えることが悪いとはおもわない。
同じようなことをくりかえすだけではマンネリを生む。『トイ・ストーリー3』ではウッディたちをアンディの元から去らせるという大転換をおこなって見事に成功を収めた。

今回の『4』では最終的にウッディがボニーやバズ・ライトイヤーたちと別れて新しい世界へと旅立つが、その決断自体は否定しない。

置かれた境遇が変われば心境も変わるし、「おもちゃは子どもに愛されるためにある」というウッディの自我は前三作で常に危機にさらされてきた。結果的にウッディたちは「子どもと一緒にいる」を選んできたが、唯一無二の選択だったわけではなく「悪いこともあるけどまあしょうがないよね」という妥協を内に含む決断だった。
だから今さらウッディの信念が揺らいだとしても驚かない。

ただ、これまでのウッディたちの決断を否定するのであればそれなりの理由が必要だ。『4』には「なるほど、それならウッディの信念が変わるのもしょうがないよね」と観客に思わせるだけの説得力がまったくなかった。

ひとことでいうと「」。
ストーリー展開、心理描写、リアリティ、整合性。ひたすらに雑。
いや『4』がほかの映画にくらべて悪いわけではない。『3』までがきめ細やかすぎただけ。『4』ではそれが受け継がれていないだけ。

もう少し具体的にいうと、前作までは「課題があって、おもちゃたちが100点ではないけど一応納得できる解決を導きだす」というストーリーだった。
だが『4』では「まず解決があって、そのために課題を設ける」という作り方をしている。

まず「ウッディがボニーやバズたちと離れる」というゴールがあり、そのために
  • ウッディがボニーやその親からないがしろにされる
  • ボニーの心の支えになるフォーキーというおもちゃを登場させる
  • 子どものおもちゃから離れて自由闊達に生きている、ボー・ピープというキャラクターと出会わせる
など、着々と「ウッディ引退のための花道」が準備されてゆく。いや、花道というより追い出し部屋か。
以前のウッディならフォーキーに対して嫉妬ぐらいは抱いていたはずなのに、まるで自分の引退を悟っているかのように己の持てるものをフォーキーに譲りわたしてゆく。

そして、自分自身が不要になったことを(それなりの葛藤があるとはいえ)あっさり受け入れて新天地へと旅立つ。

まるで、社内に居場所がなくなってきたと感じているベテラン社員が、会社が用意した早期退職制度に応募して「おれの実力なら独立してもやっていけるっしょ」と起業するみたいに。
アンディ社でエースを張り、子会社のボニー社で不遇を強いられてきたウッディが、脱サラして喫茶店のマスターに。どう考えてもこの先うまくやっていけるとはおもえない。
独立するのであれば、追い立てられるような逃避的独立ではなく、前向きな理由でのリスタートであってほしかった。




制作者の敷いたレールを最短距離で走らせるために、前作までで丁寧に描いてきた
  • 常に自分が主役でいたいというウッディの人間くさい欲
  • アンディとボニーが交わした、おもちゃを大切にするという約束
  • ボー・ピープは陶器のおもちゃだからアクションができないという制約
  • 直情的なウッディに比べて思慮深いバズのキャラクター
  • ウッディとバズの深い友情
といった設定はあっさり無視されている。

そしてなにより、「子どもの友だちでいることがおもちゃにとってなによりの幸せ」というウッディの信念、ときにはそのせいでバズに嫉妬心を燃やし、プロスペクターやジェシーとの約束を反故にし、居心地の良い保育園やおもちゃの仲間たちに別れを告げたほどの頑固な信念は、「あっちのほうがなんとなく良さそう」ぐらいの軽いノリであっさり捨てられてしまう。


ほぼ称賛一色だった前作とはちがい今作は賛否両論だそうだが、その"否"はほとんどここに向けられているのだろう。
過去三作に対する思い入れの強い観客ほど、ウッディやボニーの豹変っぷりには戸惑いを感じるはずだ。

主役の座から降ろされることも、子どもが成長すればいずれ遊んでもらえなくなることも、子ども部屋の外にはいつまでも子どもと遊んでもらえる場所があることも、ウッディはこれまでの三作で味わってきた。
それでも愚直なまでに信念を曲げなかったウッディが『4』ではさしたるきっかけもなくあっさり考えを転向させてしまう。

よほど現状がつらいとか、よほど移動遊園地が魅力的な場所であるとかの「これまでの決断を覆すほどの根拠」は描かれない。これこそぼくが「雑」と思うゆえんだ。

ボニーの元を離れて生きていくという決断を見せられても、「だったらあのときサニーサイド保育園に行ってたらよかったじゃない」としかおもえない。
強権的政治を敷いていたロッツォが退場したサニーサイド保育園はおもちゃの楽園だ。しかもボニーの家からおもちゃでも移動できる距離にあるから今からでも行ける。
「他のおもちゃといっしょにサニーサイド保育園」に背を向けたウッディが、なぜ「単身で移動遊園地」は受けいれるのか?

移動遊園地がサニーサイド保育園に勝っているところはただひとつ。
「ボー・ピープがいる」という点だけ。
それだけでウッディがあっさりボニーやバズを捨てちゃうの? 子どもと遊んでもらえなくなってもかまわないの?
まさか「恋愛はすべてに勝る」ということをトイ・ストーリーを通して伝えたいわけじゃないよね?

トイ・ストーリーの世界観において、おもちゃは単なる子どもの友だちではない。制作者たちも語っているように、彼らの役割は「保護者」だ。
おもちゃたちは子どもを守るために行動している。第一作でウッディが憎いバズを助けにいくのも、『2』でさらわれたウッディを他のおもちゃたちが連れ戻しにいくのも、理由は「アンディが悲しまないように」だ。
だからこそ『3』ではアンディが家を出ていくときにアンディのママが感じる我が身を引き裂かれるようなつらさがおもちゃの視点を通して描かれる。あのシーンは時間にすればわずかだったが、強烈な印象を放っていた。
『4』でも、ボニーがはじめて幼稚園に行くときに寂しがらないようにウッディがついていったり、モリー(アンディの妹)が寝るときに怖がらないようにボーがついていたことが語られたり、おもちゃは子どもたちの保護者としてふるまっていた。
なのに、ボーと出会ったウッディはあっさり保護者であることをやめてしまう。


「新しい生活のほうがなんとなく良さそう」とボニーのもとを離れるウッディの姿は、まるで新しい男を見つけて子どもを置いて去ってゆく母親だ。
母親には母親の人生があるからそういう選択を否定する気はないけど、でもピクサー映画で見せる必要はあるか?
ぼくは、自分が母親に見捨てられたような気分になった




『3』までと『4』の制作者の「おもちゃへの愛」は、アンディの母親とボニーの両親のちがいにはっきりと描かれている。
アンディがおもちゃを大切にする気持ちをよく理解しているアンディの母親。一作目では最後の最後までウッディを捜すアンディに寄り添うし、『2』では高値を付けてウッディを買い取ろうとするアルに対していくら積まれても売らないと言い切る。

だがボニーの両親はアンディのママとはちがう。
ボニーのおもちゃを平気で踏んづけるし、旅行先でボニーのお気に入りのおもちゃがあるかどうかも確認せずに車を出そうとする。おもちゃがなくなっても「まあそのうち出てくるだろう」ぐらいで済ませる。
「おもちゃなんてなくなればまた買えばいい」ぐらいの気持ちなんだろうな。それは制作者の気持ちがそのまま表れたものだ。
ボニーの父親のもとにアルが現れて「あなたのお子さんのおもちゃを300ドルで売ってください」と言ってきたら喜んで手放すだろうな。『トイ・ストーリー4』の監督も。




不満を書きだしたら止まらなくなってきた。
いいところも書こうとおもっていたのに。ファンにはうれしい、ティン・トイのさりげない登場シーンやコンバット・カールの再登場とか。

ティン・トイ
迷子のシーンを通して「自分より弱いものを守る立場に置かれることで強くなる」ことを表現していたこととか。

それでも思いかえすほどに、納得のいかないところが次々に出てくる。

ボー・ピープのキャラクター変化とか。
内面が変化するのはぜんぜんかまわない。環境が大きく変わったのに同じ性格でいるほうが不自然だ。
でも、物理的な制約を飛びこえてしまうことはいただけない。
さっきも書いたけど、ボー・ピープは陶器の人形だ。激しいアクションには耐えられない。服は着色されているから着替えられない。折れたらかんたんに修復できない。
だから『2』では留守番を強いられたし、『3』では姿すら見せない。『4』ではそういった設定をぜんぶ無視している。
「おもちゃの材質や形状に応じた動きをする」ってのがトイ・ストーリーの魅力なのに、それがかんたんに捨てられている。

『4』におけるボー・ピープのキャラクターは、いかにもここ数年のディズニーヒロインという感じだ。
『シュガーラッシュ』シリーズのヴァネロペに代表される、旧習に縛られずに自分がもっとも輝くフィールドで戦うかっこいいヒロイン。
いっしょに観ていたうちの六歳の娘も「ボーがかっこよかった! ボーがいちばん好き!」と言っていた。そりゃそうだろうな。かわいくてかっこいいお姉さん。女の子は大好きだろう。
そういうキャラクターが出てくることには大賛成だ。
でもその役目を担うのはボー・ピープじゃないでしょ。陶器製の電気スタンドじゃないでしょ。ウッディを役立たず呼ばわりするのは、ウッディが誰よりも仲間思いなのを間近で見てきたボーじゃないでしょ。




『4』が雑な印象を与えるのは、キャラクターたちのその後の描かれ方が投げやりだからでもある。

これまでの作品では、キャラクターたちにしかるべき居場所が与えられていた。
たとえば『3』では、序盤に家を出た軍曹やグリーンアーミーメンたちはラストでサニーサイド保育園にたどりつき、そこではケンやバービーを中心におもちゃにとって居心地のいいコミュニティがつくられている。
ロッツォの手下として強権的支配に手を貸していたおもちゃたちも心を入れ替えて仲良くやっている。
最後まで無慈悲だったロッツォにすら居場所が与えられていた(ひどい目には遭うが彼を拾うのはおもちゃを愛している人物だ)。『2』でウッディを傷つけたプロスペクターも同じだった。

だが『4』はすべてがなげっぱなしだ。
移動遊園地に残ったウッディたちのその後が描かれるが、ダッキーとバニーは子どもにもらわれたいと願っていたのに叶わなかった。おもちゃを大切にしない家に残されたバズたちに明るい未来が待っているのだろうか? ベンソンは最後まで感情のないロボットとして描かれていて、ギャビーギャビーとはぐれた後にどうなったのかはわからない。不気味な存在から一転してかわいらしい赤ちゃんの心を取り戻した『3』のビッグベビーとは対照的だ。

おもちゃだけではない。ボニーというキャラクターの造形もひどかった。
ボニーがウッディを気にするシーンあった?
ウッディに話しかけたり、ウッディをさがしたりするシーンあった? ウッディから保安官バッジを引きちぎるシーンだけじゃない?
あれが、アンディが信頼しておもちゃを託した子?




愚痴はまだ続く。
ギャグシーンがうわすべりしていたこと。

デューク・カブーンが笑い担当だったんだろうけど、百人が百人ともケンを思いうかべるだろう(あと『トイ・ストーリー・オブ・テラー!』のコンバット・カールと)。つまり既視感しかない。

あとはダッキーとバニーの妄想コント。
ありえない展開がくりひろげられた後に「実はこれ、ダッキーとバニーの妄想でした!という流れが何度かある。
これ、おもしろくないとか以前に、完全に話の流れを妨げていた。
せっかく物語の世界に没入してるのに、「はいこれはぜんぶ作り物ですからね」といちいち現実に引き戻される。
しかも『2』のスターウォーズパロディや『3』のバズのスパニッシュモードのようなストーリーの流れにからんだギャグではなく、このシーンがあってもなくても本筋にはまったく影響を与えないようなとってつけたギャグパート。
「さあ、ここは笑うとこでっせ!」という制作者の声が聞こえるようで、完全に鼻白んでしまう。いかりや長介の「だめだこりゃ。次いってみよう!」という声が聞こえてくるようだった。
劇場でもほとんどウケていなかった。

おもしろかったのも鍵を手に入れるとこぐらい。でもあれも場面を区切って回想にしないでほしかった。
前作までは、ほぼすべて時系列にそって描かれていた。
回想が入るのは、ジェシーがエミリーとの思い出を語るシーンとロッツォが持ち主と離別するところぐらいかな。それでも単純な回想にはせずに「今語っている」という形をとっていた。
あれも、観客が物語の世界から現実に引き戻されないための工夫だったのだろう。時系列順に描かれることで、「この物語はまさに今目の前で起こっている」かのような気持ちで見ることができる。
『4』ではその約束も壊されてしまった。観客は(数分前の)回想シーンを通して「これはしょせん作り物ですよ」という野暮な事実をつきつけられる。


そう、ありていにいえば「野暮」なのだ。すべてにおいて。
永遠の友情なんてありえない、おもちゃなんてしょせん替えの利くモノにすぎない、このお話はつくりもの。この映画は、いちいち現実を突きつけてくる。
そんなことはわかっている。わかってるけど、なんで金を払ってつまらない現実を見せられなきゃならんのか。こっちは夢を観にきてるのに。




不満ばかりになってしまった。
書く前は「『昔は良かった』ばかりだと老害くさくなるから、良かった点と悪かったとこを半々ぐらいで書こう」とおもっていたのに。

でも、そうなんだよ。観ているときはおもしろかったんだよ。観終わったときの感想も、少なくとも半分は「良かった」が占めていたんだよ。これはほんと。
ピクサー作品の中でも平均以上の出来だとおもうよ。

ただ、高級イタリアンの店に入ったら出されたのがサイゼリヤの料理だった、みたいな気持ちにはなるよね。
ええ、おいしいですよ。サイゼリヤ。ぼくは大好きですよ。
でも高級イタリアンで出されたら「サイゼリヤはおいしいからまいっかー!」とはならない。味の問題じゃない。

要するにまったくべつの物語を作りたいならトイ・ストーリーの看板掲げて商売すんじゃねえよ、ってことなんですよ。
『トイ・ストーリー4』という名前の映画をつくる以上は、壊しちゃいけない部分がある。なのにこの映画では深い考えもなくそこを踏みにじっている。


「おもちゃが動いてしゃべるけどトイ・ストーリーじゃない」物語を作ればよかったんだよ。それならなんの不満もない。
ジョジョとスティールボールランとジョジョリオンみたいに、設定だけ活かしてまったく別のキャラの物語にすればよかったのに。


願わくば、『5』をつくってウッディに「あの決断は失敗だった」と語らせてほしい。
それが、おもちゃを愛する少年だったぼくの願いだ。


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