2022年6月22日水曜日

人は変えられない

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 上野 千鶴子『女の子はどう生きるか』にこんな文章があった。

 朝日新聞の世論調査(二〇一八年)では、夫婦別姓選択制を支持するひとは六九%にのぼっています。ですから、最高裁の判事の意見は、世論の動向ともかけはなれています。それに夫婦別姓選択制は、「選択できる」という制度のことで、別姓にしなさいという強制ではありません。同姓にしたいひとはどうぞ、そうでないひとは別姓を選ぼうと思えば選べる、というものですから、誰も不幸にしません。現行の「夫婦同氏」の制度は、同姓にしなさいという強制です。強制をやめて選択にしようという法律の改正に反対するひとの理由が、わたしにはわかりません。国会議員のなかには強力な反対派がいます。反対派の言い分は、家族のなかで姓がばらばらだと家族の一体感がこわれるから、だといいますが、同じ姓でもばらばらの家族はあるし、姓がちがっても仲のよい家族もあるのにねえ。自分が認めないことは他のひとにもやらせない、って押しつけだと思うんですけど。
 ちなみに国連は日本政府に、男女平等を推進するなら夫婦別姓を可能にしなさい、とずいぶん前から勧告しています。この勧告を聞き入れようとしないのが今の政府です。あなたが結婚する頃までに、夫婦別姓選択制が実現しているといいですね。

 もっともだ。多数派である夫婦別姓選択制賛成派はだいたい同じ意見だとおもう。

 別姓を強制するわけじゃないんだよ?
 やりたい人がやるだけで、同姓がいい人はこれまでと同じようにすればいいんだよ?
 反対する理由ある?

と、おもうだろう。ぼくもそうおもう。

 でも、最近わかってきた。反対派にとっては、そんなことはどうでもいいのだと。




 ぼくが結婚するとき、姓をどうするか妻と話しあった。

 ぼくはどっちでもよかった。自分の苗字はあまり好きではない。嫌いというほどでもないが、ありふれていてつまらない。

 じっくり考えてみると、

・ぼくの苗字は、同じ読み方で複数の漢字のパターンがある(安部と阿部みたいな)ので他人に説明するときめんどくさい。妻の苗字はそこそこありふれている上に漢字のパターンはほぼ一種類なのでわかりやすい(佐々木とか石田みたいな)。

・結婚するタイミングでぼくは転職することが決まっていた。仕事も変わるタイミングで苗字を変えれば手続きが少なくて済む。

・妻のお父さんは長男だがは女きょうだいしかいないので、ぼくが改姓すれば苗字が途絶えなくて済む。一方ぼくの父は次男。長男(伯父)のところには息子がふたりいる。

など、ぼくが苗字を変えたほうがいい理由のほうが多かった。


 ということで、両親に「結婚したら向こうの姓にしようとおもう」と言ったら、母親には賛成されたが父親に反対された。

 そのときの父親の態度はなんとも煮え切らないというか、ぼくから見るとよくわからないものだった。

「うーん、絶対にダメってわけではないんだけど、でもふつうは男の苗字になるものだし、養子に入るわけでもないんだったら変えなきゃいけないわけじゃないんだし、変えなくてもいいんだったらふつうのやりかたにあわせといたほうがいいんじゃないか……」

みたいな曖昧模糊とした言い方で、けれども退く気はないといった様子で反対された。父はわりと合理的な考え方をする人だったので、これは意外だった。

 妻に「うちの父親が嫌がってるんだよね。なにがなんでも反対ってわけじゃないから強引に改姓することもできるとおもうけど」と伝えると、「これからの付き合いのこともあるからここで遺恨を残すのもよくないし、だったら私が姓を変えるよ」とのことで、結局ぼくの姓を名乗ることになった。




 そんな経験があるので、夫婦別姓反対派の態度もなんとなく想像がつく。

 結局、理屈じゃないのだ。「イヤだからイヤ!」なのだ。


 人間の「今の状況を変えたくない」という本能はすごく強い。

 たとえば「今と同じ仕事、同じ労働条件で今より給料が千円高い仕事がありますよ。転職しませんか?」と言われたとする。今の職場に強い不満がある人以外は断るだろう。
 合理的に考えれば千円でも給料が高いほうに転職するほうが得だ。人間関係などが今より悪くなる可能性もあるが、今より良くなる可能性も同じだけある。それでも、千円の得よりも「変えたくない」のほうが上回る。


 夫婦別姓や同性婚に反対している人は、家族共同体だとか伝統だとかなんのかんのと理屈をつけるが、あんなのは全部ウソだ。いやウソとは言わないが後からつくった理屈だ。ほんとのほんとのところは「イヤだからイヤ!」なのだ。

 キュウリが嫌いな人は「青臭い。あんなのは虫の食べるものだ」とか「ほとんど栄養ないから食べなくてもいい」とか「小学校の給食でむりやり食べさせられて余計嫌いになった」とかいろいろ理屈をつけるが、ほんとは「イヤだからイヤ!」だ。


「夫婦別姓になると家族の絆が弱くなる」も「伝統だから」も「親と子の苗字がちがうと子どもがいじめられる」もぜーんぶ後づけの理屈だ。正直に「イヤだからイヤなの!」と言うのが恥ずかしいからもっともらしい言い訳を並べたてているにすぎない。

 なのに、賛成派はいちいちそれを真に受けすぎだ。

 上の例だと、上野千鶴子さんは「誰も不幸にしません」とか「同じ姓でもばらばらの家族はあるし、姓がちがっても仲のよい家族もある」「自分が認めないことは他のひとにもやらせない、って押しつけだと思うんですけど」とか書いてるけど、そんなことは何の意味もない。正論だけど意味がない。だって反対派の本当の理由はそんなことじゃないんだもの。

 キュウリが嫌いな人に「キュウリは低カロリーだし、カリウムやビタミンもけっこう含まれてるし、食物繊維もとれるから便秘にもいいし……」なんていくらいっても意味がない。だって「イヤだからイヤ!」なのだから。

 上野さんは「強制をやめて選択にしようという法律の改正に反対するひとの理由が、わたしにはわかりません」と書いているが、わからないのもあたりまえだ。理由なんてないんだもの。




 夫が妻の苗字を名乗るのに反対したぼくの父親の考えは古いとおもう。非合理的だとおもう。

 でもぼくは父を説得しようとはおもわない。無駄だとわかっているから。

「イヤだからイヤ!」な相手に、何を言っても変わるわけないのだ。


 瀧本 哲史『2020年6月30日にまたここで会おう』に、こんなことが書いてあった。

 地動説が出てきたあとも、ずっと世の中は天動説でした。
 古い世代の学者たちは、どれだけ確かな新事実を突きつけられても、自説を曲げるようなことはけっしてなかったんですね。
 でも、新しく学者になった若い人たちは違います。古い常識に染まってないから、天動説と地動説とを冷静に比較して、どうやら地動説のほうが正しそうだってことで、最初は圧倒的な少数派ですが、地動説の人として生きていったんです。
 で、それが50年とか続くと、天動説の人は平均年齢が上がっていって、やがて全員死んじゃいますよね。地動説を信じていたのは若くて少数派でしたが、旧世代がみんな死んじゃったことで、人口動態的に、地動説の人が圧倒的な多数派に切り替わるときが訪れちゃったわけですよ。結果的に。
 こうして、世の中は地動説に転換しました。
 残念なことに、これがパラダイムシフトの正体です。
 身も蓋もないんです。
 新しくて正しい理論は、いかにそれが正しくても、古くて間違った理論を一瞬で駆逐するようなことはなくてですね、50年とか100年とか、すごい長い時間をかけて、結果論としてしかパラダイムはシフトしないんですよ。

 客観的に観測可能な科学的事実でさえ、人の考えを変えられないのだ。思想信条がそうやすやすと変わるわけがない。


 たぶん夫婦別姓も同性婚も同じだ。今反対している人は、死ぬまで考えを変えないだろう。どれだけ正論で説得されても変わらない。説得によってキュウリを好きになることがないように。

 だから変えようとおもったら、投票行動によって反対派を政界から退場させるか、現世から退場なさるのを待つしかない。

 残念ながら、議論では変わらない。


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