2022年6月20日月曜日

【読書感想文】中谷内 一也『リスク心理学 危機対応から心の本質を理解する』 / なぜコロナパニックになったのか

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リスク心理学

危機対応から心の本質を理解する

中谷内 一也

内容(e-honより)
人間には危機に対応する心のしくみが備わっている。しかし、そのしくみにはどうやら一癖あるらしい。感情と合理性の衝突、リスク評価の基準など、さまざまな事例を元に最新の研究成果を紹介。


 世の中にはリスクがあふれている。我々はリスクに備え、様々な手を講じてリスクを回避・軽減しようとする。

 でも我々はリスクの計算が苦手だ。大した危険のないものにおびえ、ほんとに危険なものは軽視してしまう。

 よく言われるのが「多くの人間の命を奪った生き物だ」だ。ヒトを除けば、最も人間の命を奪った生物は蚊である。蚊が媒介した伝染病により、今でも多くの人が命を落としている。
 一方、サメで命を落とす人は年間数人程度。日本にかぎっていえば、ほぼゼロ(数年に一度負傷者が出るレベル)。でも我々は蚊よりもサメのほうが怖い。これはリスクを正しく判断できていない例だ。


 だからこそ保険が商売として成り立つ。スマホや家電を買うと、有償の保険に勧められる。壊れた場合に無償で修理できますよ、というものだ。数万円のスマホに対して数千円の掛け金。故障の確率を考えると、どう考えたって加入すると損だ(頻繁に壊す人は別)。それでも加入する(そして故障しない)人が多いから商売として成り立つんだろう。ぼくは加入しないけど、それでもちらっと「どうしよっかな」と迷ってしまう。




『リスク心理学』では、なぜ我々はリスクを誤って査定してしまうのかについて説明してくれる。

 スターの分析結果のうち、後の研究により影響を与えたのはもうひとつの方の知見でした。それはスキーや喫煙のような能動的に行う行為は、電力や自然災害のように、通常の日常生活を送るだけでかかわることになる受動的なハザードに比べて一○○○倍もの大きなリスクが許容されている、ということでした。
 例えば、自家用飛行機の事故率は一般の商用飛行機よりも格段に高いのですが、自家用機は自分の意思で利用するのでリスクが大きくても利用者は受け入れます。一方、一般の商用飛行機は人々は移動にそれを利用せざるを得ないのでより低いリスクでないと受け入れない、というわけです。
 つまり、社会は、一定のリスク/ベネフィット関係でいろいろなハザードを受容しているのではなく、自発的に接するハザードと非自発的なハザードとでは、別のリスク/ベネフィット関係があって、自発的ハザードは高リスクでも受け入れるダブルスタンダード(二重規範)になっていたのです。スターは徹底してリスクとベネフィットを数量的に扱い、両者の関係を定量的に求めてきました。その結果として自発性という定性的な要因の影響が顕わになってきたという点が面白いですね。

 つまり、自分が好きでやっていることはリスクを低く見積もってしまうのだ。

 新型コロナウイルスでいえば、満員電車はみんなマスクをして口を閉じていても怖い。でもマスクを外して会食する飲み会は大丈夫だとおもってしまう。

 かつてぼくが視力回復手術をしようとしたところ、父親から「やらなくていいことでリスクがあることはやめとけ」と反対された。でもそんな父親はゴルフが趣味だ。ゴルフなんて「やらなくていいことでリスクがあること」の筆頭みたいなものなのに(父親の反対は無視した)。


「自分の意思でコントロールできないもの」「大惨事になる可能性があるもの」「すぐに死につながるもの」「目に見えないもの」「リスクにさらされていることに気づきにくいもの」「新しいもの」「よくわからないもの」は、じっさいよりもリスクを高く算定するそうだ。

 新型コロナウイルスなんかまさにその代表例で、コントロールできない、目に見えない、感染してもすぐに発症するわけではない、新しくてよくわからない、といった条件が重なり、人々はパニックに陥った。特に2020年の右往左往っぷりは(ぼくも含めて)滑稽なほどだった。

 個人だけではない。子どもの死者がひとりも確認されていない時点で国があわてて全国的に休校をしたり、一日の感染者数が日本中で数十人しかいないのに実質ロックダウン状態にしたり。国の対応も、2022年の今からおもえば「もうちょっと落ち着け」と言いたくなるようなものばかりだった。まあ今だから言えるわけだけど。

 そのくせ、2021年に東京オリンピックが近づくとあれやこれやと「オリンピックを開催できる理由」をアピールしはじめた。これなんかまさに「自発的ハザードは高リスクでも受け入れる」の典型例だ。つまり政府といったって結局は人間の集まりなので、ぼくら個人と同じくらいバカでよくまちがえるということだ。


 新型コロナウイルスとは逆に、リスクを低く見積もってしまうものもある。筆者が挙げるのは自転車だ。

 自転車は意外とリスクの高い乗り物です。自転車運転中の死亡者は減少してきているのですが、それでも毎年数百人(平成初期は一○○○人超、近年でも四○○人程度)が亡くなっています。バイクや原付は交通事故で死亡するリスクが高く思われますが、実は、死亡者は自転車の方がずっと多いのです。毎年安定して何百人もの犠牲者を出しているのですが、それでも反自転車団体が自転車廃止運動を展開し、多くの市民がそれに同調する、という話は聞いたことがありません。なぜか?
(中略)
 恐ろしさ因子からみていきましょう。自転車運転中の事故に関して、災害発生前の「制御可能性」はかなり高いですね。ブレーキという制動装置がありますし、周囲に注意を払い安全運転を心がけることで、事故に遭う確率を低くできます。そもそも自転車に乗るのは自分の意思による選択なので、乗らなければ被害に遭うこともありません。
 これは自発性ともからんできます。例えば、放射線だと、事故現場近くに居住しているだけで否応なしに被ばくしますので制御可能性はないといえます。
 自転車と耳にしただけで「恐怖を喚起する」ということはありませんし、自転車事故が世界中で同時多発的に起こって「大惨事となる潜在性」があるとは思えません。「致死的な帰結」については、実際には先述のようにかなり高いのですが、自転車事故=死、という印象はないでしょう。(中略)
 次に未知性因子をみていきましょう。自転車はそこにあれば誰にでも見えますので「対象を観察できない」ということはなく、自転車に乗っている人は自分でそのことがわかっていますから「リスクに曝されている本人がそのことを知り得ない」ということもありません。事故があればその場で怪我をしますので、脳震盪などを除いて「悪影響がその場でば顕れず、後になってから生じる」とも考えにくく、自転車は「新しい」ものでもありません。「科学的によくわからない」という要素もあまりなさそうです。

 なるほどねえ。

 飛行機が怖い人は多いけど(ぼくもそのひとりだ)、確率でいえば飛行機よりも自動車や自転車のほうがよっぽど危険な乗り物だ。それでもぼくらは自動車や自転車のリスクを軽視してしまう。

 リスクの算定を誤ることは避けられないけど、「こういうときにリスクを高く/低く見積もりがち」という己の傾向を知っていれば、その誤差は小さく抑えることができる。

 大事なのは「自分はバカでよくまちがえる」と知ることだ。




 バカな我々がまちがえる理由のひとつが「公正世界誤謬」だ。

 新型コロナ禍の中、厳しい労働条件におかれ、大きな負担を強いられている医療従事者が地域社会から排除されるというのはいかにも理不尽なことです。感染者や感染者家族が回復し、十分に感染リスクが下がっても不当な扱いを受け続けることも同様です。しかし、しばしば「ひどい目にあっている人は、そうなるだけの理由があるのだ」と考えられがちです。
 これを説明する心理学モデルがメルビン・ラーナーによって提唱された公正世界信念と呼ばれるものです。それによると、われわれは「世の中は公正にできていて、悪い人・悪行には悪い結果が返ってくるものだし、良い人・善行には良い結果が返ってくるものだ」という因果応報的な信念を持ちやすいのです。この信念を持つことには肯定的な側面もあり、例えば、目標を立てそれに向けて努力することや主観的な幸福感の高さに関連しています。けれども一方、この信念は正しい行いをしているのに理不尽にひどい目にあわされている人の存在を容認しにくくします。それを認めてしまうと自分の信念が脅かされるからです。

 世界は公正であることをうたう言葉は多い。「正義は勝つ」「お天道様は見ている」「悪銭身に付かず」「努力は必ず報われる」など。

 それ自体は悪いことではないが、こういう信念が強すぎると容易に「あの人が負けたのは正義ではなかったからだ」「おれが金持ちなのは正しいことをしているからだ」「あいつが報われないのは努力が足りないからだ」と信じこんでしまう。

 言うまでもなくこれは誤っている。どれだけがんばっても報われない人はいるし、畳の上で家族に見守られながら穏やかに死ねる悪党もいる。天災で死んだのはおこないが悪かったからではない。


 「正義が負けて悪が勝つこともよくある」と認めるのはしんどいんだよね。ぼくがテレビや新聞のニュースを見るのをやめたのも、それが理由のひとつだ。
「政権に媚を売っていれば検事長が違法な賭けマージャンをやっていても起訴されない」「権力を持っていれば有権者を接待しても検察が見てみぬふりをしてくれる」とか認めるのはすごくストレスだもの。検察が正しい仕事をしてくれるはず、検察が動かないということはそれ相応の理由があるからだ、それが何かはわからないけど、と無根拠に信じていればそれ以上頭を使わなくて済む。

 三歳児みたいに「正義は勝つし、常に正しい判断を下せる人がいるはず」と信じられれば楽なんだけどね。気持ちは。


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