2019年3月22日金曜日

ラサール石井さんに教えてもらえ!

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もう十年以上前、何の番組だったかも忘れたが、テレビで教育についての番組をやっていた。

「子どもたちに大人気の先生」のVTRが流れた。
小学校の教師で、ダジャレを言ったり、変な顔をしたりして、授業中は爆笑の連続。
子どもたちから大人気、そのクラスは学級崩壊とは無縁。勉強嫌いの子どももちゃんと授業を聞くと評判になって、今では他の学校からも多くの教師が視察に来る……。
という内容のVTRだった。

それを見ていた芸能人たちが口々に言う。
「すごくいい先生」
「こんな先生の授業を受けたかった」
「みんながこんな授業をやってくれたらいいのに」

そんな中、スタジオにいたラサール石井氏がこんなことを口にした。
「あのクラスの子どもたちが好きになってるのは勉強のおもしろさじゃなくて先生のおもしろさだと思う。先生の仕事は笑わせることじゃなくて勉強のおもしろさを伝えることだ」

するとその場にいた芸能人たちが言った。
「ふつうは勉強なんて好きにならないよ」
「勉強はおもしろくないけどやらなきゃいけない。だから子どもたちを授業に集中させるだけでいいじゃない」

ラサール石井氏は反論した。
「いやそんなことはない。勉強は本来おもしろいものだ」

すると誰かが言った。
「ラサールさんは勉強ができるからね」

それでその話は終わりになった。

ラサール石井氏の悔しさが、ぼくにも理解できた。



何も言い返さなかったラサール石井氏に代わってぼくが言ってやりたい(言ったのかもしれないけど少なくとも放送はされなかった)。

そうだよ、勉強できるからだよ! だから知ってるんだよ!

勉強できるようにさせたいなら勉強できる人の言うことを聞け! ラサール石井さんに頭を下げて教えを乞え!

おまえは英会話を学ぶときに「英語をまったく話せない人がおすすめする教材」を選ぶのか!
「勉強嫌いの子が選ぶ、いい授業をする先生」なんてそれと同じだぞ!



ぼくは、ラサール石井氏の意見に全面的に賛同する。勉強は楽しい。

ぼくも勉強がよくできた。授業についていけないという経験をしたことがない。
だから「勉強ができる人はそうでしょうけど」と言われたら少したじろいでしまうけど、それでもきっぱりと言いたい。勉強は楽しい、と。

たしかに、勉強ができるから勉強を楽しめるのかもしれない。だが逆もまた言える。勉強を楽しいと思うから、勉強ができるのだ。
サッカーが上手な子がサッカーを好きになり、サッカーを好きな子がサッカーの練習をして上手になるように。


小さい子どもほぼ例外なく身体を動かすのが好きだ。隙あらば外で走りまわろうとする。
運動が得意とか苦手とか関係ない。外でおにごっこしようというとみんな大喜びする。

それが成長するにつれ運動嫌いになってゆくのは、やりたくもない動きを強制されたり、できないことをバカにされたりするからだ。
「体育の授業は嫌いだったけど、身体を動かすのは好き」という人は多いはずだ。

勉強もそれと同じだ。
やりたくないことをやらされたり、できないことを笑われたりするから嫌いになるのであって、勉強は本来楽しいものだ。

わからなかったことがわかるようになる。こんな楽しいことがあるだろうか?



もちろん、「勉強が楽しい」というのと「学校の勉強が楽しい」のはまた別だ。

恐竜の名前を覚えたり、新幹線についていろんなことを知っていたり、アイドルについて詳しかったり、自分の興味のあることには興味を見いだせても、学校の勉強に魅力を感じない人は多いだろう。

でもそれは、勉強の先にある世界を知らないからだ。
ぼくは九九が嫌いだった。なんでこんなの覚えなくちゃいけないんだ、と思っていた。でもやらないといけないから嫌々覚えた。

高校数学は楽しかった。確率や数列の問題を解くのは楽しかった。解法を覚えるたびに世界の見え方が広がる気がした。
もしも小学生のとき、九九を覚えるのがめんどくさいといって算数を学ぶことを投げ出していたら、この境地にはたどりつけなかっただろう。


学んだことではじめて見えてくる世界というのが存在する。
うちの娘にカタカナを教えようとしたとき、「ひらがなが読めるんだからもういいやん」と言われた。

大人なら誰しも「カタカナの読み書きができなくても何も困らないよ」とは思わない。
それは、カタカナが読める世界を知っているからだ。でもカタカナを学ぶ前の子どもにとっては、カタカナを学ぶことに価値は見いだせないのだ。

井戸から出たことのない蛙には、井戸の外がどうなっているのかわからない。
出てみてはじめて、周りにたくさんの池や沼やべつの井戸があることがわかる。

今では娘もカタカナを読める。もう「カタカナなんかいらないよ」とは言わない。カタカナが読める世界の楽しさを知ったから。

「学ぶことで世界が広がる」という経験をたくさんすることで、学ぶことが楽しいことに気がつく。
学校の勉強というのはそれに気がつくための練習だ。社会に出てから古文が何の役にも立たなくてもいい。古文の学習を通して「学ぶことで世界が広がる」という経験をしたのなら、十分すぎるほどの成果は出ている。



教育者の仕事は、「学んだら新しい世界が見えた」経験をたくさんさせることだ。
「学んだらご褒美をあげましょう」「学ばないと叩くぞ」といって無理やり学ばせることではない。
目的は井戸を登らせることではなく、「アメもムチもなくても自分で登りたくなる」ようにさせること。

学んだからといって必ず世界が広がるわけではない。
学んだものの新しいものは何もなかった、ということもよくある。しかしそれだって学んでみるまでわからない。

失敗しても、成功体験を多く持っていればまたチャレンジできる。
本好きはつまらない本をたくさん読む。映画ファンはくそつまらない映画をたくさん観る。数多くの駄作に触れないといい作品に出会えないことを知っているから。


教師がダジャレや顔芸で子どもの注意を惹きつけること自体は悪いことではない。
しかし問題はその後、どうやって学習のおもしろさを伝えることだ。笑わせることが目的化してはいけない。

ってことが言いたかったんですよね、ラサール石井さん!

え? ぜんぜんちがう? あっ、そうですか。すんません。

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