2022年6月23日木曜日

【読書感想文】半藤 一利『B面昭和史 1926-1945』 / 昭和もB面も遠くなりにけり

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B面昭和史

1926-1945

半藤 一利

内容(e-honより)
「六十年近く一歩一歩、考えを進めながら、調べてきたことを基礎として書いた本書の主題は、戦場だけではなく日本本土における戦争の事実をもごまかすことなしにはっきりと認めることでありました。民草の心の変化を丹念に追うということです。昔の思い出話でなく、現在の問題そのものを書いている、いや、未来に重要なことを示唆する事実を書いていると、うぬぼれでなくそう思って全力を傾けました」ロングセラー『昭和史1926‐1945』の姉妹編!

「昭和史」を名乗ってはいるが、書かれているのは昭和20年まで。サブタイトルに「1926-1945」とつけてはいるが、63年のうち20年だけを書いて「昭和史」と掲げるのは景品表示法違反じゃないか。

 ま、それはいいとして。

 昭和元年から20年までの、一般庶民の風俗についてのトピックを拾い集めた本。A面(政治・経済)に対するB面ということだが、そうはいっても政治や経済について語ることなくこの時代を語ることは不可能なので、じっさい半分近くはA面の話題。まあこれはしかたない。




 大正12年、つまり昭和元年の3年前に起こった関東大震災について。

 相当のちの話となるが、東京横浜電鉄の社長として、腕をふるい昭和十七年にはこの小田急までも合併して東京急行電鉄(現東急)という大鉄道会社を設立した五島慶太が、徳川夢声と『夢声対談』で少なからず得意そうに語っている。
「まったく関東大震災さまさまでした。震災後、日本橋や京橋におることができないから、みんな郊外に出た。ちゃんとこっちが郊外に住宅地を造成しておいたから、そこへみんな入ってくれたんです。その前は、あんなところに住むものは、退役軍人以外になかった」
 これはもうなるほどネと合点するばかり。大震災が東京の住宅地を東西南北とくに西の郊外へとぐんぐんひろげていったのである。さきの五島慶太の履歴をみるとそのことがよくわかる。そもそもが目黒蒲田電鉄にはじまって、彼がつぎつぎに買収ないし合併していった鉄道会社の名はざっとつぎのとおり。池上電鉄、玉川電気鉄道、京浜電気鉄道、東京横浜電鉄、京王電気軌道、相模鉄道……。すべて鉄道建設と沿線の住宅地分譲をいっしょに行う積極的な企業家活動が成功したのである。
(中略)
 こうして東京はぐんぐん変貌していく。震災のため下町から焼けだされた人びとが、山の手からさらにその先の、とくに西や南の郊外へと移っていった。必然的にその郊外への起点である渋谷や新宿が存在を重くしていく。単なる盛り場にあらず、いまの言葉を借りれば副都心的な繁華街へとのし上がっていったのである。
 と同時に、地方からの人びとの流入、その結果としての東京の人口の爆発的な増加ということも、忘れずにつけ加えておかなければならないであろう。

「まったく関東大震災さまさまでした」なんて今だったら大炎上してる発言だけど、まあ鉄道会社社長からしたら本音だろう。

 結果的に関東大震災があったからこそ東京は鉄道網や住宅地の整備が進み、都市化が進んだ。地震が起こる前の東京都の人口は400万人ぐらいだったが、昭和15年には700万人を超えている。空襲で激減したものの、その後に起こった再度の人口増加はご存じの通り。地震と空襲という二度の災害が、東京を大都市にしたんだね。

 そういや大地震にも空襲にも襲われていない京都市の中心部では、地上を鉄道が走っていない(昔は路面電車が走っていたが)。阪急も京阪も地下。JR京都駅は中心部からずいぶん離れている。道は狭く、バスやタクシーは渋滞で動けない。

 大きな災害がないのはいいことだが、都市開発という点では必ずしもいいこととはいえなさそうだ。




 昭和6(1931)年の話。満州事変後の報道について。

 さらには忘れてはならないことがある。新聞各紙が雪崩をうつようにして陸軍の野望の応援団と化したことである。背後から味方に鉄砲を撃つようなことは出来ぬと格好のいいことをいい、あれよという間にメディアは陸軍と同志的関係になっていく。
 その理由の一つにラジオの普及があったことは、すでに拙著『昭和史』(平凡社)でかいている。九月十九日午前六時半、ラジオ体操が中断されて「臨時ニュースを申しあげます」と元気よく江木アナウンサーが事変の勃発を伝えた。これがラジオの臨時ニュースの第一号。新開はこのラジオのスピードにかなわなかった。負けてなるかと号外につぐ号外で対抗しようとするが、号外の紙面を埋めるために情報をすべて陸軍の報道班に頼みこむほかはない。勢い陸軍の豪語のままに威勢のいい記事をかくことになる。軍縮大いに賛成、対中国強硬論反対、さらには満蒙放棄論までぶって陸軍批判をつづけてきたこれまでの新聞の権威も主張もどこへやら、陸軍のいうままに報じる存在となる。ああ、こぞの雪いまいずこ。どの新聞も軍部支持で社論を統一し、多様性を失い、一つの論にまとまり、「新聞の力」を自分から放棄した。

 このへんはひとつの分岐点だったのかもしれない。陸軍の暴走があったことはまちがいないが、ここで報道機関や国民が冷静になっていれば……ひょっとして無謀な戦争への突入は避けられたのかもしれない。

 翌昭和7年の話。

 そう思うと満洲事変いらい、日本は戦時下となったといえるのかもしれない。召集令状の赤紙がしきりに舞いこんでくる。戦死者の無言の遺骨が帰国してくる。そのなかで思いもかけぬ事件が起こった。大阪の井上清一中尉に赤紙が届けられたとき、夫に心残りをさせないためにと、彼の妻がみずから命を絶った。この行為が軍国主婦の鑑ともてはやされたのである。井上中尉と親類筋にあった大阪港区の安田せい(金属部品工場主の妻)が、この事実に感激し、友人や近所の婦人たちに呼びかけ、お国の役に立つための女だけの会の結成をよびかけた。これが国防婦人会の発足なのである。それがこの年の三月十八日のこと。
 着物で白いかっぼう着にたすきがけの女性四十名近くが、新聞記者を前にさかんに気勢をあげる。
「銃後の守りは私たちの手で」
 それが会の目的である。そのために出征兵士の見送りや慰問をすすんでやることになる。喜んだのは軍部である。女性のほうから積極的に戦争協力に挺身し、さらに五・一五事件の減刑運動をするというのであるから。
 会はどんどん大きくなる。関西ばかりでなく東京にも進出、十月二十七日に関東本部発会式。十二月十三日には大日本国防婦人会へと発展する。やがて会員も七百万人を超えるようになる。恐るべし、女性の力。

 NHKの朝ドラなんかだと「勝手な戦争をしかけたえらいさんのせいで、我々庶民がひどい目に遭う」みたいな描き方をされがちだけど、そんなことはない。庶民こそが旗を振って戦争突入を後押ししたのである。

 斎藤 美奈子『モダンガール論』にも同じような記述があった。それまで女は家の外のことに口出しするな、だったのが、勤労奉仕、銃後の守りを理由にどんどん家の外に出て活躍できるようになった。多くの女性にとって戦争協力は喜びに満ちたものだったにちがいない。




 昭和11年。国際連盟を脱退した3年後。日中戦争開戦の前年である。

 それと都市を中心に結婚ブームが起こったという。八年ごろからの軍需景気がつづいて失業者は減り、蒼白きインテリなどといわれた大学卒業者はみな大手をふっていい職業につくようになる。それと軍人たちが救世主のように思われ、娘たちの憧れの的となっている。加えて、新婚生活のすばらしさを歌った歌謡曲がやたらに売りだされ、それがまた大いに売れた。(中略)
 こんな風に、時代が大きく転回しようとしているとき、民草はそんなこととは露思わずに前途隆々たる国運のつづくように思い、生活にかなりの余裕を感じはじめていたのである。東北地方の貧農の娘の身売り話などまったくといっていいほどなくなっていた。

 このへんが最後の平穏という感じだろうか。昭和9~10年頃は景気もよく、喫茶店やミルクホールが流行るなど都市の市民は平和を謳歌していたらしい。 岩瀬彰 『「月給100円サラリーマン」の時代』にも、昭和10年頃のサラリーマンが銀座で飲み歩いたりしていた様子が描かれている。まさか数年後に、南国に出兵して命を落としたり、空襲で家を焼かれたりしているなんて想像もしていなかったことだろう。たった数年で「大卒サラリーマンの結婚ブーム」から「戦争で焼け野原」になるなんて。

 もっとも平和を謳歌していたのは都市部の話で、昭和9年の東北は大飢饉で娘を身売りする家が相次いでいたそうだ。都市と地方の生活格差は今の比ではなかったのだ。




 昭和15年。太平洋戦争開戦前夜。

 雑誌「文藝春秋」の十五年新年号に、時代の風潮を知るうえに面白い世論調査が載っている。東京・神奈川・埼玉・千葉の読者六百九十六人に質問十項をだしてその回答を得たものである。
「・現状に鑑みて統制を一層強化すべきか
  強化すべし四六一 反対二二八 不明七
 ・対米外交は強硬に出るべきか
  強硬に出る四三二 強硬はよくない二五五 不明九
 ・最近の懐具合は良いか
  良い一〇八 悪い五七三 不明一五」
などなどであるが、これでみると、〝最後の平和〟を愉しんでいる人びとのいるいっぽうで、そうした悠長な国民的気分にかなり苛々として、もっと指導者による強い国家指導を望む声の高くなっているのがわかる。それに「懐具合」がかなり悪くなっているのも、はなはだよろしからざる気分を助長していたのであろう。それでなくとも統制が強化され、新聞も紙の事情からすべて朝刊八ページ、夕刊四ページ建てを余儀なくされ、情報量は減ってきている。そのことが人びとによりいっそうの思考停止をもたらしているのかもしれない。

 この感じは今の状況にも近いかもしれないね。

 景気は悪い、経済が上向く見通しも立たない。こうなると人々は「強いリーダー」「現状を打破してくれるおもいきった方針」を支持するようになる。

 漸進的に変えていきましょう、という地に足のついた意見は人気を集めず、改革だ、維新だ、刷新だ、という聞こえのいいだけの言葉に飛びつくようになる。貧乏人ほど一発逆転を狙って宝くじやギャンブルに走るようなものだね。もちろん『カイジ』じゃないんだから崖っぷちのギャンブルで勝てるわけないんだけど。




 昭和19年の「竹槍事件」について。長くなるので要約。

 毎日新聞が「竹槍では間に合わぬ 飛行機だ 海洋航空機だ」と見出しをつけ「敵が飛行機で攻めてくるのに竹槍では戦えない」と書いた。
 これを読んだ首相の東条英機が激怒。「国民一丸となって戦え」と演説をしたことにケチをつけられたと感じたこと、海軍が戦力増強を求めても陸軍がこれに応じなかったことなどが背景にあった。面子をつぶされたと感じた東条は、毎日新聞の記事は反戦思想だとして毎日新聞社に記者の処分を求めたが、毎日新聞社はこれを拒否。すると軍は書いた記者に召集令状を出す。

 これに海軍が「大正時代に徴兵検査を受けた記者を徴用するとは何事か」と抗議。すると、陸軍はなんと大正時代に徴兵検査を受けた他の兵役免除者250人にも召集令状を出したのだ。

 もう、むちゃくちゃ。「竹槍では戦えないから飛行機を増やしたほうがいい」は誰が見たって正論だ。しかし正論なのがよくなかったのだろう。無茶を言っている人は正論を言われると逆ギレする。さらに見せしめのような徴兵、さらには東条英機のプライドを守るためだけにルールまでねじ曲げる。ひでえ。

 ひどい時代だったんだなあ。まるで、賭け麻雀をやった黒川弘務検事長たったひとりを守るために、強引に法律をねじまげて不起訴にした検察組織みたいなむちゃくちゃだ。あっ、今もひどい時代だった……。




 読んでいておもうのは、ほんとに国全体が戦争に向かって突き進んだんだなってこと。もちろん中には戦争反対を貫く人もいたけれども、総体としてみれば戦争に傾いていた。そりゃあ軍部や政治家は特に悪いけど、そこだけの責任ではない。国民も報道機関も、みんなで突き進んだから、もう誰にも止められなくなっていた。総理大臣でも、天皇でも。

 そして、人々の気質は今もそんなに変わってないなってことも感じる。みんな、なんとかなるさとおもっている。自分がなんとかしなきゃとはおもっていない。国会議員も、総理大臣も。もちろんぼくも。

 だからまあ、戦争かどうかはわからないけど、似たような大失敗をまたやらかすんだろうな。反省もなく。

 国民が〝強いリーダー〟を求めているんだから。自分が強くなることよりも。

 そんなわけでもうすぐ参院選です。選挙に行きたい人は行きましょう。行きたくない人は行かなくてよろしい。


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