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2019年12月4日水曜日

【読書感想文】人間も捨てたもんじゃない / デーヴ=グロスマン『戦争における「人殺し」の心理学』

戦争における「人殺し」の心理学

デーヴ=グロスマン (著)  安原 和見 (訳)

内容(e-honより)
本来、人間には、同類を殺すことには強烈な抵抗感がある。それを、兵士として、人間を殺す場としての戦場に送りだすとはどういうことなのか。どのように、殺人に慣れされていくことができるのか。そのためにはいかなる心身の訓練が必要になるのか。心理学者にして歴史学者、そして軍人でもあった著者が、戦場というリアルな現場の視線から人間の暗部をえぐり、兵士の立場から答える。米国ウエスト・ポイント陸軍士官学校や同空軍軍士官学校の教科書として使用されている戦慄の研究書。

戦争について考えるたびにおもう。
自分が戦争に行くことになったらどうしよう、と。
もちろん「殺される」恐怖もあるが、「殺す」恐怖もある。どちらかといったら「殺す」恐怖のほうが強いかもしれない。
ぼくが最後に人を殴ったのは中学一年生のとき。たあいのない喧嘩で。本気じゃない。怪我させるつもりすらなかった。それ以来、人を殴ったことはない。
そんな自分が戦場に出向いたとき、はたして見ず知らずの相手に向かって引き金を引けるのだろうか。

また、周囲の人間についても想像する。
自分の友人のアイツや同僚のアイツも、戦争に行ったら敵兵をばんばん撃ち殺すんだろうか。気のいいアイツらが戦場に行けば冷徹な殺人マシーンに変わるのだろうか。
ぼくのおじいちゃんも戦地に行ったそうだが、あの優しいおじいちゃんも敵兵を殺したんだろうか(ぼくがその疑問をぶつけることのないままおじいちゃんは亡くなってしまった)。

だとしたら、戦場のいったい何が人間をそこまで変えるのだろうか。



『戦争における「人殺し」の心理学』は、ぼくの長年の疑問に答えを示してくれた。

まずぼくが根本的に勘違いしていたことだが、戦場に行ったからといって人は殺人マシーンに変わらないということだ。
 第二次世界大戦中、米陸軍准将S・L・A・マーシャルは、いわゆる平均的な兵士たちに戦闘中の行動について質問した。その結果、まったく予想もしなかった意外な事実が判明した。敵との遭遇戦に際して、火線に並ぶ兵士一○○人のうち、平均してわずか一五人から二〇人しか「自分の武器を使っていなかった」のである。しかもその割合は、「戦闘が一日じゅう続こうが、二日三日と続こうが」つねに一定だった。
 マーシャルは第二次大戦中、太平洋戦域の米国陸軍所属の歴史学者であり、のちにはヨーロッパ作戦戦域でアメリカ政府所属の歴史学者として活動した人である。彼の下には歴史学者のチームがついていて、面接調査に基づいて研究を行っていた。ヨーロッパおよび太平洋地域で、ドイツまたは日本軍との接近戦に参加した四○○個以上の歩兵中隊を対象に、戦闘の直後に何千何万という兵士への個別および集団の面接調査が行われたのである。その結果はつねに同じだった。第二次大戦中の戦闘では、アメリカのライフル銃兵はわずか一五から二〇パーセントしか敵に向かって発砲していない。発砲しようとしない兵士たちは、逃げも隠れもしていない(多くの場合、戦友を救出する、武器弾薬を運ぶ、伝令を務めるといった、発砲するより危険の大きい仕事を進んで行っている)。ただ、敵に向かって発砲しようとしないだけなのだ。日本軍の捨て身の集団突撃にくりかえし直面したときでさえ、かれらはやはり発砲しなかった。
最前線に立って、敵兵を目の前にして、殺さなければ自分や仲間が殺されるかもしれない状況において、手元には弾の入った銃があって、それでも大多数の兵士は敵を撃たないのだという。
熾烈を極めた第二次世界大戦の戦闘ですら、発砲した兵士は銃を持っていた兵士の15~20%ぐらい。その中の大半は空に向かって撃つなどの威嚇射撃だったので、敵兵めがけて撃った兵士は全体の2~3%ぐらいだったというのが著者の見立てだ。

これを知ってぼくは安心した。
なんだ、人間もそこまで捨てたもんじゃないな。
ああよかった。人間は基本的に殺人が嫌いなのだ。

積極的に敵兵を殺す2~3%の人間にしても、イコール快楽殺人者というわけではないようだ。
 面接調査に応じたある復員軍人はこう語ってくれた。彼の考えでは、世界の大半は羊なのだ。優しくておとなしくて親切で、真の意味で攻撃的になることはできない。だがここに別の種類の人間がいて(彼自身はこちらに属する)、こちらは犬である。忠実でいつも油断がなく、環境が求めればじゅうぶんに攻撃的にもなれる。だがこのモデルにならって言えば、この広い世界には狼(社会病質者)や野犬の群(ギャングや攻撃的な軍隊)も存在するわけで、牧羊犬(兵士や警察)は環境的にも生物的にもこれらの野獣に立ち向かう傾向を与えられた者だ、ということになる。
彼らは攻撃的な資質は持っているが、あくまで「殺してもいい状況になれば殺せる」なので、兵士や警察官といった職業につけばむしろ英雄として社会から受け入れられやすい。
もちろん反社会的勢力に属した場合はたいへん危険な存在になるわけだが、それは彼ら自身の罪というより社会の責任の話だろう。


水木しげる氏の戦争体験談で、「ぼくは臆病だったので戦闘になってもすくみあがってしまって何もできなかった」というようなことを書いていたが、水木しげる氏だけが特に臆病だったわけではなく、あれこそが標準的な行動だったのだ。
「さあ戦闘だ。敵を撃つぞ!」と思えるのはごくごく少数の人間だけなのだ。

多くの兵士は戦争を通して精神病になる(戦いが長期化するとほぼ全員が精神に支障をきたす)が、空襲を受けて家や家族を失った人が精神病になる割合は平時と変わらなかったそうだ。
つまり、「自分が殺されそうな目に遭う」よりも「敵を殺す」ほうが精神的な負担は大きい。
多くの兵士は人間としての尊厳を守り、他人を殺すぐらいなら死を選ぶ。なんて美しいんだ!いいないいな人間っていいな!



……ところが、面と向かっている相手を殺しにくい」だけで、条件を超えると殺人の抵抗はぐっと下がる。
チームで戦っているとか、仲間が殺されるとか、強い上官から命令されるとか、既に一人以上殺しているとかの条件がそろうと、殺人の敷居は下がるのだそうだ。

特に重要なのは「相手の顔を見なくて済むこと」で、対象との距離が離れれば離れるほど殺人は容易になるそうだ。
 圧倒的な音響と圧倒的な威嚇力で、火薬は戦場を制覇した。純粋に殺傷力だけが問題だったのなら、ナポレオン戦争ではまだ長弓が使われていただろう。長弓の発射速度と命中率は、銃腔に旋条のないマスケット銃よりはるかに高かったからである。しかし、中脳で考えている怯えた人間の場合、弓矢で「ヒュン、ヒュン」やっていたのでは、同じように怯えていてもマスケット銃を「バン!バン!」鳴らしている敵にはとてもかなわない。
 言うまでもなく、マスケット銃やライフル銃を撃つという行為は、生物の本性に深く根ざした欲求、つまり敵を威嚇したいという欲求を満足させる。と言うよりむしろ、なるべく危害を与えたくないという欲求を満たすのである。このことは、敵の頭上に向けて発砲する例が歴史上一貫して見られること、そしてそのような発砲があきれるほど無益であることを考えればわかる。
なるほど。
日本でも織田信長が火縄銃を使って戦いのありかたを変えたと言われているけど、単純な強さでいえばそんなに強くなかったんじゃないかな。
当時の銃は準備にも時間がかかっただろうし、命中率も高くなかっただろう。暴発の危険性だってあっただろうしね。
だが「相手をびびらせる」「殺人への抵抗を小さくする」という点で、銃は他の武器に比べて圧倒的に優れていたからこそ火縄銃戦法は成功を収めたのだろう。


太平洋戦争のとき、米軍のパイロットは空襲で日本本土に焼夷弾を落としていった。結果、多くの民間人が命を落とした。
攻撃を加えた米軍のパイロットが特別に冷酷非情だったわけではない。彼らだって、ナイフを渡され「これで民間人を百人殺せ」と言われたら、そんなことはできないと尻ごみしていたことだろう。たとえ相手が無抵抗だったとしても(いや無抵抗だったらなおさら良心がとがめたかもしれない)。

だが飛行機から焼夷弾を落とすのはナイフで人間の腹を切り裂くよりもずっとかんたんだ。
飛行機からは姿の見えない敵、自分がやることは相手の肉を切り裂くことではなくボタンを押すだけ、そういう「抵抗の少なさ」が大量殺人を可能にしたのだ。


だから近代の軍隊がおこなう訓練は、銃の命中率を高めるとかのテクニック的訓練よりもむしろ「人を殺したくない気持ちを抑えこむ訓練」に力を注いでいる。
 こうして第二次大戦以後、現代戦に新たな時代が静かに幕を開けた。心理戦の時代──敵ではなく、自国の軍隊に対する心理戦である。プロパガンダを初めとして、いささか原始的な心理操作の道具は昔から戦争にはつきものだった。しかし、今世紀後半の心理学は、科学技術の進歩に劣らぬ絶大な影響を戦場にもたらした。
 SL・A・マーシャルは朝鮮戦争にも派遣され、第二次大戦のときと同種の調査を行った。その結果、(先の調査結果をふまえて導入された、新しい訓練法のおかげで)歩兵の五五パーセントが発砲していたことがわかった。しかも、周辺部防衛の危機に際してはほぼ全員が発砲していたのである。訓練技術はその後さらに磨きをかけられ、ベトナム戦争での発砲率は九〇から九五パーセントにも昇ったと言われている。この驚くべき殺傷率の上昇をもたらしたのは、脱感作、条件づけ、否認防衛機制の三方法の組み合わせだった。
人間としてごくあたりまえに持っている「人を殺したくない」という気持ちを抑えるために、ほとんど考えずに引き金を引ける訓練を近代軍はおこなってきた。いや訓練というより洗脳といったほうがいいかもしれない。

結果、第二次世界大戦 → 朝鮮戦争 → ベトナム戦争 と、回を重ねるごとにアメリカ軍の発砲率は飛躍的に向上した。

……ところが。
訓練によって発砲するまでの抵抗感は減らすことができたが、発砲した後、人を殺した後の嫌悪感までは減らすことができなかった。
かくして、ベトナム戦争に従軍した兵士たちは(アメリカ国内の反戦ムードもあいまって)帰国後に罪の意識に押しつぶされ、多くの兵士がPTSDなどの精神的不調に陥った。


なんちゅうか、軍隊ってそういうものなんだといわれればそれまでなんだけど、つくづく狂ってるなあ。
人間性を壊す訓練を施すわけだもんな。
そして戦いが終わったら「さあ前と同じように生活せえよ」と言われるわけで、殺されるも地獄、殺すも地獄、いやほんと戦争なんて行くもんじゃないよ。あたりまえだけどさ。



この本を読みながらおもったんだけど、自衛隊はいざ殺し合いとなったらめちゃくちゃ弱いだろうね。
だっておそらく自衛隊員たちは「殺すための訓練」を受けていないだろうから。それどころか「殺さないための訓練」しか受けていないだろう。

どれだけ装備や技術が優れていても、隊員たちが敵を撃たないんじゃ戦いに勝てるわけがない。
敵を殺せない自衛隊と「殺すための訓練」を受けてきた軍隊が向きあったら、もう1対100ぐらいの負け方をするはず(『戦争における「人殺し」の心理学』ではそういう例が紹介されている)。

だからいくら軍事費を上げたって、自衛隊は戦闘集団としてはまるで役に立たない。
その解決策としては
・だから自衛隊は軍であることを捨てよう
・だから自衛隊を正式な軍にして敵を殺す訓練をしよう
のふたつがある。
ぼくの意見はもちろん前者だけど……。後者を唱える人が増えているようにおもうなあ。戦争を知らないからなんだろうなあ……。
そういう人にはぜひ『戦争における「人殺し」の心理学』を読んで自分が帰還兵になった気持ちを想像してほしい。



この本にはあまり書かれていないけれど、人を殺すための条件として「年齢」はかなり重要だとおもう。

ぼくも小中学生のときは「あいつ殺したい」とか「死ねばいいのに」とかよくおもっていた。
もしも当時のぼくがデスノートみたいな「こちらの身は安全で絶対にバレない殺害方法」を持っていたら、ばんばん教師や級友を殺していたとおもう。

でも今はそこまでおもわない。殺したいほど憎んでいる人はいないし「死ね」と呪うこともない。
せいぜい「あいつ会社クビになればいいのに」「あいつ逮捕されねえかなあ」「たちの悪い病気になればいいのに」ぐらいで、子どものときに比べればずっと穏健な思想になった(卑屈ではあるが)。
嫌いなやつに対しても「まああんなやつでも死ねば悲しむ人もいるだろうから死ぬことはあるまい」ぐらいの優しさは抱けるようになったのだ。

たぶんぼくだけでなく、子どもはそういう生き物なんだとおもう。ブレーキのかけどころを知らない。だから子どもに銃を持たせたらカッとなっただけですぐにぶっ放しちゃうとおもう。

ゲリラやテロ集団が少年兵を育成するのも、少年のほうが「人を殺したくない」という気持ちが弱いからなんだろう。

未来の戦争は「子どもがゲームをする感覚で敵を殺せる兵器」が活躍するんだろうなあ。いや、もうあるのかも……。



この本、中盤まではおもしろかったんだけど(ちょっと冗長ではあるが)、最終章はいらなかった。
「アメリカ国内には暴力的なゲームや映画が増えている。そのせいで暴力行為への抵抗感がどんどん下がっている!」
みたいな話が延々と。
いや「もしかしたらそうなんじゃないかとわたしは危惧している」ぐらいだったらいいんだけどね。たしかなデータもなしに断言されても。

最終章は完全に蛇足。
これで評価を落としたなあ。

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2019年11月29日金曜日

【読書感想文】人はヤギにはなれない / トーマス・トウェイツ『人間をお休みしてヤギになってみた結果』

人間をお休みしてヤギになってみた結果

トーマス・トウェイツ(著)  村井 理子(訳)

内容(e-honより)
仕事はパッとしないし、彼女に怒られるしで、ダメダメな日々を送る僕。いっそヤギにでもなって人間に特有の「悩む」ことから解放されることはできないだろうか…というわけで本気でやってみました。四足歩行の研究のためにヤギを解剖し、草から栄養をとる装置を開発。医者に止められても脳の刺激実験を繰り返し―。イグノーベル賞を受賞した抱腹絶倒のサイエンス・ドキュメント。

トーマス・トウェイツ氏の『ゼロからトースターを作ってみた結果』がめったらやたらとおもしろかったので(感想はこちら)、同じ著者の別プロジェクトであるこちらも購入。

『ゼロからトースターを作ってみた結果』もそうだったけど、このまとめサイトみたいなタイトルはどうにかならんかったのか(原題は『GoatMan: How I Took a Holiday from Being Human』)。
いや興味を惹かせるという点では悪くないんだけど、「結果」はないだろう「結果」は。トースター・プロジェクトもそうだけど、結果じゃなくて過程を楽しむプロジェクトなんだからさ。


誰しも「人間以外の動物に生まれ変わったら楽だろうな」なんて考えたことがあるだろう。
ぼくも一時間に一回考えている(すぐ精神科行ったほうがいい)。

セミとかはいやだけど、来世も人間がいいですか、それともちゃんと世話をしてもらえる家の飼い猫にジョブチェンジしてみます? と訊かれたら本気で悩んでしまう。



『人間をお休みしてヤギになってみた結果』は、トーマス氏がヤギとして生きる(四つ足で丘を越えて草を食べる)ためのチャレンジを書いた本だ。

これもおもしろそう! とおもったのだが……。

うーん……。
『ゼロからトースターを』はその行動力に感心したものだが、『ヤギになってみた』はなかなか動きださないんだよね。
シャーマンを訪れて話を聞いたり、ヤギと人間を分けるのは何かと思索をくりかえしたり、ヤギを育てている人に話を聞きに行ったり……。
ぜんぜんヤギにならないんだよね。

ヤギになるのは終盤も終盤。
ヤギに囲まれて義足みたいなのをつけた人間が四つ足で歩いている写真はおもしろいけど、肝心の心境の変化はほとんどつづられていない。
痛いとか疲れたとかばかりで、そりゃそうだろうな、そんなのやってみなくてもだいたい想像つくよ。
結局「ヤギになってみた結果」ではなく「人間が四本足で歩いて草を食べてみた結果」だった。がっかり。



とまあプロジェクト自体はあまり実りのあるものではなかったけど、ヤギとヒトを分けるものについてあれこれ考えていく中にはおもしろいところもあった。
それに加えて、これはすべての種に見られることだが、家畜化は脳の萎縮をまねく。犬の脳は狼の脳より小さく、一般的な家畜のヤギは野生のヤギよりも小さな脳を持つし、豚の脳はイノシシの脳より小さい。そして興味深いことに、過去三万年間において、人間の脳も萎縮しているのだ。実際のところ、ホーレンシュタイン・シュターデル洞窟のライオンマンを彫った人間は、我々と比較して、テニスボール一個分大きい脳を持っていたのだ。彼らはまた、我々よりも体格がよく、大きな歯と、よりしっかりとしたあごを持っていた。
 この進化のパターンは、人間も家畜化のプロセスを辿っており、凶暴さをそぎ落とされる方向に淘汰されつつあるという、興味深い考えに行きつく。ただし、人間を家畜化したのは、人間自身なのだ。この自己家畜化プロセスは、どのように行われたのだろう? ハーバード大学の生物人類学教授のリチャード・ランガム氏によれば、それは以下のようになされた可能性があるという。誰か(怒っている若い男性の場合が多い)が、その暴力的な気質で集団を混乱させ続ける場合、集団の残りのメンバーは団結して、その若い男に対処しようと決める。そして不穏なことが起こる。集団の残りのメンバーたちは結託して彼の頭に岩を打ちつけたり、崖から突き落としたり、槍で突き刺したりするというわけだ。手荒いやり方ではあるが、問題は解決する。

現代人の脳は、ネアンデルタール人よりも小さいのだそうだ。
そういや島 泰三『はだかの起原』にも同じことを書いていた。

ふうむ。多くの人は現代人が地球史上いちばん賢いとおもっているけど、じつはそうではないのかもしれない(賢さの定義をどう決めるかによるだろうけど)。
自分でエサをとらなくてもいい環境がそうさせるのか、賢すぎる個体は社会で生きづらいのか、ただ単に経年劣化しているだけなのか……。

ということは今後どんどん脳は縮小していくんだろうか。有史以来ずっとくりかえされてきた「最近の若いやつは……」は意外と正しかったのかもしれない。



ヤギの生活をするためにはただよつんばいになればいいとおもってたんだけど、そもそも人間はよつんばいで生きていくことはできないのだそうだ。
「その通り。僕らはものごとを快適にして痛みを軽減することはできるけれど、体の各部位にかかる圧力を減らすことはできない。その圧力が君を破壊するってわけだ」
 破壊なんて強い言葉だけれど、でも彼らはゆずらなかった。それじゃあ、義足をつけてマラソンを走った男性は?
「それは素晴らしいことだな」とジェフは言った。「でも、臨床的観点で言うと、狂気の沙汰だ。マラソンが終わった後の足の状態を見てみたい。フニャフニャになるまで叩いたハムみたいになっているはずだ。しかしそうだったとしても、そのランナーは二本足で立っていたわけだ。君の場合は問題が山積みだよ。例えばどうやって頭を上げておく? めちゃくちゃ辛いはずだ。ヤギには人間よりも強い項靱帯というものがある。それは、ピンと張ったロープのようなもので、首の後ろ側にあって、それがあるおかげで頭を上げておくことができるんだ。でも君にはそれがない。それから、たとえ項靱帯のような装具を作ることができても、君はそれを作るべきじゃないと思う。だって快適過ぎてしまうから。君には疲れてもらわなくちゃならない。疲れることで、止まることができるからね。長期間頭を上げ続けて、神経や頭への血流に影響を与えることを避けないと」
ヒトも大昔は四足歩行する動物だったんだろうけど、それは遠い昔。今さら四足歩行には戻れないのだ。

そういや昔から「オオカミに育てられた子」という言い伝えがある。ローマ神話のロームルスとレムスだったり、有名な例だとアマラとカマラだったり、フィクション作品にも数多く出てくる(ぼくがすぐ思いうかべたのは手塚治虫『ブッダ』のダイバダッタ)。
でもどれも信憑性に乏しいらしい。少しだけ行動を共にするぐらいはあっても、人間はオオカミの行動ペースについていけないのだそうだ。


ということで、人間はヤギにもオオカミにもなれない。残念ながら人間として生きていくしかなさそうだ。
とりあえず現世は。

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2019年11月28日木曜日

【読書感想文】たのむぜ名投手 / 藤子・F・不二雄『のび太の魔界大冒険』

のび太の魔界大冒険

藤子・F・不二雄

内容(e-honより)
「もしも……魔法の世界になったら!!」。魔法が使えることを夢見るのび太が、もしもボックスでそう願うと、次の日の朝には、街の空は空飛ぶじゅうたんでいっぱい!!ママは指先から光を出して朝食を作り、小学校では物体をうかす授業をしている。そう、本当の魔法世界になったのだ!!そんななか、のび太とドラえもんは魔界博士の満月先生とその娘の美夜子に出会い、博士の魔界接近説を聞いた。魔界が接近して地球をほろぼすというのだ。にわかに信じがたいのび太たち。だが、次の日、再び満月博士の家を訪ねると、博士の家が跡形もなく消えていた!!すべてが謎のまま夜を迎えると、昼間からのび太たちのそばにいた不思議なネコが、月の光を浴びて、美夜子になった!!彼女は博士が魔物にさらわれたと言い、いっしょに魔界に乗りこんでほしいと哀願する。さあ、どうする!?のび太、ドラえもん!!仰天摩訶不思議の大長編シリーズ第5弾!!
小学生のときに買ってもらって、何度もくりかえし読んだ本。
娘がドラえもんを読むようになったので、娘といっしょに読んだ。二十数年ぶりに。

いやあ、やっぱりおもしろい。
これは大長編ドラえもんの中でも最高傑作だ。

まずなにがいいってドラえもんがふつうに道具を使えること。
大長編ドラえもんって、たいていドラえもんの道具が使えなくなるんだよね。
いろんな事情で使える道具に制約がかかる話が多いんだけど、魔界大冒険はもしもボックス以外は使える(もしもボックスも終盤でドラミちゃんが持ってくるので使えるようになる)。道具を使えるのに倒せない敵、ってのがいい。敵の強大さがはっきりわかる。

やっとの思いで大魔王のところにたどりついたのに、あえなく一蹴されるとことか。
タイムマシンやもしもボックスといった反則級の能力を持つ道具を使ってもどうにもならなくなる絶望的な展開とか。
石ころ帽子をかぶっての緊張感ある潜入シーンとか。
ハッピーエンドかと思わせておいてもう一度ひっくりかえす裏切りとか。
とにかくハード。何度も絶望させられる。だからこそ、最後の最後で大魔王を倒したときのカタルシスはすごい。
「たのむぜ名投手」このセリフもしびれるし、期待に見事応えてみせるジャイアンはほんとにかっこいい。

誰もが空想したであろう「もしも魔法が使えたら」という導入の自然さから、楽して魔法が使えるわけではないというせちがらさを経て、徐々にのび太が魔法を使えるようになってゆく王道冒険ストーリーもいい。
この展開で心躍らない子どもはいないでしょ。

のび太とドラえもんが喧嘩して仲直りするシーン、美夜子さんがのび太を信じて後を託すところなど、些細な心の動きを丁寧に描いているのも名作たるゆえん。

石像、帽子の星、最後のオチなど、伏線の張り方も自然で、SFとしても完成度が高い。
ちょっと絶賛しすぎかなと自分でもおもうが、褒めるところしかないのだ。

あと悪役が魅力的なのもいい。大魔王はちょっと印象に残らないけど、星の数で張り合う魔界の連中は妙に人間くさくていい。

そしてなんといってもメジューサ。
ドラえもん映画史上もっともおっかない敵じゃない?


子どものときはトラウマになるぐらいこわかった。今読んでもやっぱりこわい。
最恐にして最強。
だって
・空を飛べる(しかも速い)
・時空の流れに逆らって飛べるのでタイムマシンで逃げても追いつかれる
・人間を石にする
・石にされた人間は動けなくなるが意識だけは残る
と、とんでもない凶暴性。弱点もない。

なによりおそろしいのは、こいつはドラえもんとのび太を石に変えた後、どこへともなく姿を消して二度と現れないってことだ。大魔王は倒されたことがはっきりと描かれるが、メジューサの行方は最後までわからない。パラレルワールドではまだ生きているにちがいないとぼくはおもっている。

今も時空のはざまでうなり声を上げながら人々を石に変えるために飛びまわってるのかもしれない……。


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2019年11月20日水曜日

【読書感想文】生産性を下げる方法 / 米国戦略諜報局『サボタージュ・マニュアル』

サボタージュ・マニュアル

諜報活動が照らす組織経営の本質 

米国戦略諜報局(OSS) (著)
越智 啓太(監修・訳) 国重 浩一(訳)

内容(Amazonより)
CIAの前身、OSSが作成した「組織をうまくまわらなくさせる」ためのスパイマニュアル。「トイレットペーパーを補充するな」「鍵穴に木片を詰まらせよ」といった些細な悪戯から、「規則を隅々まで適用せよ」「重要な仕事をするときには会議を開け」まで,数々の戦術を指南。マネジメントの本質を逆説的に学べる、心理学の視点からの解説付き。津田大介氏推薦!

サボタージュマニュアルとは、CIAの前身に当たる米国の諜報機関OSSが作成した、諜報員向けのマニュアル。
第二次世界大戦の敵国の軍事活動や生産性を妨害するためのマニュアル。
マニュアルというとふつうは効率を上げたりミスを減らしたりするためにつくるものだが、このマニュアルは逆。どうやったら効率を下げるか、ミスを減らすか、人々のやる気がなくなるか、という発想で作られている。
当時はまじめにつくったのかもしれないが、ブラックユーモアのようでおもしろい。

といっても、サボタージュマニュアルの大部分は「トイレを詰まらせる方法」とか「燃料タンクに何を入れたら車が故障するか」とかで、悪質ではあるが程度の低いイタズラ、というレベルでどうもくだらない。
そもそも燃料タンクを一人で触れる立場にある人間以外には実行不可能だし。

完全イタズラマニュアル、といった感じ。
これ考えるのは小学生に戻ったようで楽しかっただろうなあ。でも実用性は乏しそう。


だがこのマニュアルの白眉は第11章。
▼11 組織や生産に対する一般的な妨害
(a) 組織と会議
1.何事をするにも「決められた手順」を踏んでしなければならないと主張せよ。迅速な決断をするための簡略した手続きを認めるな。
2. 「演説」せよ。できるだけ頻繁に、延々と話せ。長い逸話や個人的な経験を持ち出して、自分の「論点」を説明せよ。適宜「愛国心」に満ちた話を入れることをためらうな。
3. 可能なところでは、「さらなる調査と検討」のためにすべての事柄を委員会に委ねろ。委員会はできるだけ大人数とせよ(けっして5人以下にしてはならない)。
4. できるだけ頻繁に無関係な問題を持ち出せ。
5. 通信、議事録、決議の細かい言い回しをめぐって議論せよ。
6. 以前の会議で決議されたことを再び持ち出し、その妥当性をめぐる議論を再開せよ。
これは一部だが、この“妨害方法”は七十年以上たった現在でも十分通用する……というか多くの企業や官公庁で実行されているよね。

ぼくが前いた会社でも実行されてた。毎日朝礼して誰かが演説したり、なにかというと「それは会議を開いてみんなの意見を聴こう」と言いだすやつがいたり……。
もしかしたらあの人たちはどっかの諜報機関から送りこまれたスパイだったのかなあ……。そうおもいたい……。



おそらく学校教育のせいでもあるんだろうけど、「みんなで話しあえばよい知見が得られる」という思いこみを持っている人は多い。
たしかに集団の水準より下にいるバカからすると「他の人に考えてもらう」は有効な方策かもしれない(だから自分で考えない人間ほど会議をしたがる)。

しかしたいていの会議はレベルの低い人間に議論がひっぱられるので正しい結論が導きだされないことも多い。
このうち、スペースシャトル「チャレンジャー」は、1986年1月8日に打ち上げの途中で爆発しました。この事故に際しては、打ち上げ当日に気温が非常に低くなることが予測されたので、シャトルの部品を製作している下請け会社の技術者が、危険性を指摘していたのに、「会議」によってその発言が封殺されて、事故が発生してしまったのです。
 また、スペースシャトル「コロンビア」は、2003年2月1日、発射の際に主翼前縁の強化カーボンとカーボン断熱材が損傷したことにより、大気圏再突入時に空中分解してしまいました。この事故では、NASAの技術者のロドニー・ローシャが、打ち上げ時に断熱材が破損した可能性を早くから指摘し、再三にわたって、人工衛星からその部分を高解像度で撮影することや乗組員に直接チェックさせることを要求したのに対して「会議」でその意見が封殺されて、事故が発生したことが後の調査でわかりました。
「可能なところでは、『さらなる調査と検討』のためにすべての事柄を委員会に委ねろ。委員会はできるだけ大人数とせよ(けっして5人以下にしてはならない)」(5章▼11(a)3)、「重要な仕事をするときには会議を開け」(5章▼11(b)11)といったルールがサボタージュになり得るのは、じつはこのような現象が頻繁に生じるからなのです。

まったく同じ能力の人間が、完全に対等な立場で、自由闊達な雰囲気で話しあえば議論も有意義なものになるのだろうが、そんな会議はまずない。

声の大きいやつの意見が通るか、誰も反対しないような無意味な結論(「各自効率性を上げるよう努力する」みたいな)に達するか、後になって「だからおれはあの時反対したじゃないか」と自己弁護するための議論になることがほとんどだ。

もちろん複数人がからむプロジェクトにおいてコミュニケーションは必要不可欠だが、課題解決の手段としては会議はふさわしくない。
「意見のある人間が集まって意見を出し、それを踏まえた上で誰かひとりが方針を決める(もちろん意思決定者と責任をとる人物は同じ)」がいちばんいいやりかたなんだろうなあ。



 さて、このような「学習性無力感」を意図的につくり出すためにはどうすればよいでしょうか。サボタージュ・マニュアルの次の項目を見てください。「非効率的な作業員に心地よくし、不相応な昇進をさせよ。効率的な作業員を冷遇し、その仕事に対して不条理な文句をつけろ」(5章▼11(b)10)。これを行うと、効率的に一生懸命仕事をしている作業員は自分がやっていることがばからしくなるか、何をすればよいのかわからなくなってきます。つまり、学習性無力感が職場につくられてしまい。作業員の士気は大きく損なわれるのです。
これもよく見る光景だね。
無能なイエスマンが引き上げられた結果、現場の人間がどんどん辞めていくやつ。

このへんの「生産性を下げる方法」は共感できてすごくおもしろい。

生産性を下げるマニュアルがあるということは、この逆をやればいいだけなんだけど、ほとんどの組織はそれができないんだよなあ……。やっぱり大企業や省庁には諜報員がまぎれこんでてサボタージュ・マニュアルを実行してんのかな。


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2019年11月18日月曜日

【読書感想文】革命起きず / 『ゴトビ革命 ~人生とサッカーにおける成功の戦術~』

ゴトビ革命

人生とサッカーにおける成功の戦術

アフシン・ゴトビ(著)  田邊 雅之(取材・文)

内容(e-honより)
少年時代、イランからアメリカに移住。家族との別離や人種差別、苦学をしながらのUCLA卒業を経て、世界が注目するサッカー監督へ。数奇な運命と戦ってきた男だから教えられる逆境の乗り越え方と、組織を躍動させる秘訣。

本の交換で手に入れたうちの一冊。

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アフシン・ゴトビの半生とインタビュー集。
といってもサッカーにあまり興味のないぼくは、アフシン・ゴトビという名前すら聞いたことがなかった。
ゴトビといっても決済日のことではございません(関西ジョーク)。

イランで生まれ、13歳からはアメリカで育ち、韓国代表のコーチやイラン代表監督を経て、2011年からは清水エスパルスの監督を務める人物だそうだ。

この本の刊行は2013年だが、この時点では「ゴトビはすごいぞ! ゴトビが日本サッカー界を変える!」といった調子で書かれているが、残念ながらその後もゴトビはエスパルスで結果を出すことはできず、2014年シーズン途中で監督を解任されている。
もちろんチームの結果が悪いのは監督だけの責任ではないが、とはいえ、10位(2011)→9位(2012)→9位(2013)→15位(2014最終順位)という成績を見ると、少なくともJリーグにおいては“ゴトビ革命”は起こせなかったのだろう。

ぼくとしては「成功者の本」よりも、むしろゴトビ監督が退任した後に「なぜうまくいかなかったのか」を分析する本のほうが読みたかったな。
成功者の自慢話から学ぶことはないが、失敗から得られるものは多いから。



とはいえ、中盤の失敗エピソードはおもしろい。
アメリカのでの大学選手時代に実力はあったので監督に気に入られなかったから試合に出してもらえなかったエピソードとか(あくまで自分でそう言ってるだけだけど)、故郷イランの代表監督に就任したものの権力争いに巻きこまれて様々な妨害に遭った話とか。

オシム氏もユーゴスラヴィア代表監督時代に各方面から脅迫されたって言ってたけど、人気スポーツの監督ってとんでもなく気苦労の多い仕事だよなあ。もちろん采配や指導もたいへんだろうけど、それ以上に本業以外の邪魔が多くて。
国家元首よりたいへんな仕事かもしれない。

このへんの話をもっと読みたかったなあ。
後半はゴトビ氏の「私は〇〇だ。だからきっと成功するだろう」みたいな話が並んでいるけど、2019年の読者からすると「でもあなた成果出せずにクビになってんじゃん」としかおもえないからなあ。

現役でやっている人をヨイショしすぎる本は書かないほうがいいね。



韓国代表チームの参謀、そして日本のクラブチームの監督の両方を経験しているゴトビ氏ならでの「韓国と日本の共通点」はおもしろかった。
 ただしこういう例を除けば、やはり日本にいちばん似ているのは韓国だ。その最大のものがヒエラルキー、つまり「タテの人間関係」で社会ができている点だろう。
 タテ社会の意識の強さは、強いサッカーチームを作っていくうえでネックにもなっている。サッカーではいったんホイッスルが鳴ってしまえば、最低でも45分間は試合が続く。この間、監督はほとんど何もできないし、試合に勝つには選手が自分で考え、判断し、リスクを冒してチャレンジすることが不可欠になる。
 だがタテ社会に慣れてしまっていると、ピッチ上でもなかなか自分で判断が下せなかったり、年上の選手の指示を仰いでしまう。そんなことをしていたら何度チャンスをつくってもフイにしてしまうし、守備でもあっという間にゴールを奪われてしまう。
 また、タテ社会の発想に慣れていると、本来の実力を発揮できないという問題も起きてくる。私が日本に来て気がついたことのひとつは、日本人選手は練習の出来と試合のパフォーマンスにかなり開きがあるということだった。実際、エスパルスにも練習では本当に素晴らしいプレーができているのに、試合になると力を発揮できなくなる選手が多い。
韓国を毛嫌いしている日本人は多いけど(そして日本を毛嫌いしている韓国人もきっと多いんだろう)、それは両国の国民性が「似ている」からなんだろうなとぼくもおもう。

なまじっか似ているからこそ些細な違いが許せないんじゃないかな。
何から何まで違う国民性だったら「もうあいつらはほんとしょうがねえな」ぐらいで呆れることはあってもそんなに腹は立たない。
でも微妙に歪んだ鏡だから「なんでこれが通じないんだ!」っておもって嫌いになるんじゃないかな。

こういうこというと、嫌っている人は烈火のごとく怒るだろうけど。

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2019年11月14日木曜日

【読書感想文】壊れた蛇口の消滅 / リリー・フランキー『東京タワー ~オカンとボクと、時々、オトン~』

東京タワー

オカンとボクと、時々、オトン

リリー・フランキー

内容(e-honより)
オカン。ボクの一番大切な人。ボクのために自分の人生を生きた人―。四歳のときにオトンと別居、筑豊の小さな炭鉱町で、ボクとオカンは一緒に暮らした。やがてボクは上京し、東京でボロボロの日々。還暦を過ぎたオカンは、ひとりガンと闘っていた。「東京でまた一緒に住もうか?」。ボクが一番恐れていたことが、ぐるぐる近づいて来る―。大切な人との記憶、喪失の悲しみを綴った傑作。
私小説。
読みながら、けっこう早い段階で「ああこれはオカンの死を描いた小説だな」と気づいた。ぜったい泣かせにくるやつだ、と警戒しながら読む。
はたしてそのとおりの展開になるわけだが(まあ世のオカンはだいたいいつか死ぬ)、わかっていても悲しい。他人のオカンでもオカンの死は悲しい。

考えてみれば、「母親が死ぬ」なんてごくごくあたりまえの話だ。
たいていの人は母親より後に死ぬから、人生において一度は母親の死を経験することになる(二度経験する人はほとんどいない)。
だから「母親が死ぬ」というのは「小学校を卒業する」とか「仕事を辞める」とかと同じように普遍的な出来事だ……なのにどうしてこんなに悲しいんだろう。

いや、ぼくの母親はまだぴんぴんしているから母を亡くした悲しみは味わったことはないんだけど、それでもそのつらさは容易に想像がつく。
「父親が死ぬ」とはまた別格の悲しさだ。
ぼくの父も、父親を亡くしたときは泣いていなかったが母親を亡くしたときは号泣していた。
ぼくからしたら祖母が死んだわけだが、あまり悲しくなかった。まあ順番的にいっておばあちゃんは先に死ぬからな、という気持ちだった。
でも父親に感情移入して「この人はおかあさんを亡くしたのか」と考えていたら泣いてしまった。
「自分の祖母の死」よりも「父親のおかあさんの死」と考えるほうが悲しいのだ。


穂村 弘・山田 航『世界中が夕焼け』という本の中で、穂村弘氏がこう書いている。
自分を絶対的に支持する存在って、究極的には母親しかいないって気がしていて。殺人とか犯したりした時に、父親はやっぱり社会的な判断というものが機能としてあるから、時によっては子供の側に立たないことが十分ありうるわけですよね。でも、母親っていうのは、その社会的判断を超越した絶対性を持ってるところがあって、何人人を殺しても「○○ちゃんはいい子」みたいなメチャクチャな感じがあって、それは非常にはた迷惑なことなんだけど、一人の人間を支える上においては、幼少期においては絶対必要なエネルギーです。それがないと、大人になってからいざという時、自己肯定感が持ちえないみたいな気がします。

(中略)

でも、そうはいっても、実際、経済的に自立したり、母親とは別の異性の愛情を勝ち得たあとも、母親のその無償の愛情というのは閉まらない蛇口のような感じで、やっぱりどこかにあるんだよね。この世のどこかに自分に無償の愛を垂れ流している壊れた蛇口みたいなものがあるということ。それは嫌悪の対象でもあるんだけど、唯一無二の無反省な愛情でね。それが母親が死ぬとなくなるんですよ。この世のどこかに泉のように湧いていた無償の愛情が、ついに止まったという。ここから先はすべて、ちゃんとした査定を経なくてはいけないんだという(笑)。
この文章、すごく的確に「母への気持ち」を表しているとおもう。
もちろんすべての母子関係にあてはまるわけはないが、少なくともぼくは、この気持ちに全面的に同意する。

「世界中を敵に回してもぼくは君の味方だよ」という安っぽい言葉があるが、母親の子への愛情に関してはこの安っぽい言葉がぴったりとあてはまる。そして子のほうでもそれを知っている。この人はなにがあっても自分の味方なのだ、と。
リリー・フランキーさんの母親も、まさに「壊れた蛇口」のような人だったのだろう。我が子のためなら自分の人生を犠牲にしてもよい。おそろしいほどの愛情。
しかも信じられないことに、そんなふうに考えている母親がめずらしくないようなのだ(ぼくの母親もそれに近い)。おお怖い。


ぼくには娘がいる。
なにがあっても味方でいたい、とおもっている。娘に命の危険が迫っていたら自分の命を投げだすこともやぶさかではない。たぶん。
でも、娘が殺人犯になったらどうだろうか。それでもぼくは娘の味方でいられるだろうか、と考えると自信がない。糾弾する社会の側につくんじゃないかという気がする。

やはりぼくは母にはなれない。



リリー・フランキー氏のオカンのエピソードを読んでいると、なんとも男前な人だなあと感じる。
 小学生の頃、誰かの家でオカンと夕飯を御馳走になったことがあった。家に帰ってから早速、注意を受けた。
「あんなん早く、漬物に手を付けたらいかん」
「なんで?」
「漬物は食べ終わる前くらいにもらいんしゃい。早いうちから漬物に手を出しよったら、他に食べるおかずがありませんて言いよるみたいやろが。失礼なんよ、それは」
(中略)
「うちではいいけど。よそではいけん」
「きゅうりのキューちゃんやったんよ」
「なおのこといけん」
ある程度大きくなって、人の家に呼ばれる時は、オカンに恥をかかせないようにと、ちゃんとした箸の持ち方を真似てみたりするのだが、オカンはあまりそういう世間体は気にしないようだった。自分が恥をかくのはいいが、他人に恥をかかせてはいけないという躾だった。
 別府のアパートに来て、オカンは勘づいたらしく、こたつにいるボクの前に座って言った。
「あんた、煙草喫いよるやろ」
「うん.........」。なんでバレたんだろうかと、顔を上げられないでいると、オカンは自分の煙草とライターをボクの目の前に差し出した。
「喫いなさい」
「えっ......?」
「喫うていいけん、喫いなさい」
「オレ、マイルドセブンやないんよ......」
 どぎまぎして席を立ち、机の引き出しに隠したハイライトを出して来て、オカンの前で火をつけて喫った。オカンも煙草を喫いながらボクに話した。
「隠れてコソコソ喫いなさんな。隠れて喫ったら火事を出すばい。火は絶対に出したらいけん。人に迷惑がかかる。男やったら堂々と喫いなさい」
 次の日。オカンは別府の商店街で、会社の重役室に置くようなカットガラスの大きな灰皿を買って来て、こたつの上にどかんと置いた。
このエピソードだけで、ああ、“オカン”は立派な人だったんだなあとおもう。
箸の持ち方が変だったり、高校生が煙草を吸っていたりは気にしない。だけど他人に恥をかかせることや火事を出して他人に迷惑をかけることはぜったいに許さない。
自分を守るためではなく他人を守るためのマナーを徹底して教える。
マナーってそうあるべきだよね。
他人を攻撃するためにマナーをふりかざす人が多いけど、他人を守るためだけにマナーを使うオカン。かっこいいなあ。


オカンもオカンなら、オトンのほうも肝の据わったオヤジだ。
「おう。お母さんから聞いたぞ。就職せんて言いよるらしいやないか」
「うん。せん」
「どうするつもりか?」
「バイトはするけど、とりあえずまだ、なんにもしたくない」
「そうか。それで決めたならええやないか。オマエが決めたようにせえ。そやけどのお。絵を描くにしても、なんにもせんにしても、どんなことも最低五年はかかるんや。いったん始めたら五年はやめたらいかんのや。なんもせんならそれでもええけと、五年はなんもせんようにみい。その間にいろんなことを考えてみい。それも大変なことよ。途中でからやっぱりあん時、就職しとったらよかったねえとか思うようやったら、オマエはプータローの才能さえないっちゅうことやからな」
これ、よその子になら言える男は多いとおもうんだよね。
ぼくだって甥が「仕事したくない」と言いだしたら「そっか。じゃあしばらく遊んで暮らしたらいい」って言える。どっか他人事だから。
しかし自分の子にこれを言えるかというと、ぼくには自信がない。

大した肝っ玉だとはおもうが、このオトンの場合、単に父親としての自覚があんまりなかっただけかもしれんな……。ほとんど息子といっしょに住んでないから……。

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げに恐ろしきは親の愛情



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2019年11月13日水曜日

【読書感想文】凪小説 / 石井 睦美『ひぐまのキッチン』

ひぐまのキッチン

石井 睦美

内容(e-honより)
「ひぐま」こと樋口まりあは、人見知りの性格が災いし、就活をことごとく失敗した二十三歳。ある日、祖母の紹介で「コメヘン」という食品商社の面接を受ける。大学で学んだ応用化学を生かせる、と意気込むまりあだったが、採用はよもやの社長秘書。そして、初出勤の日に目にしたのはなぜか、山盛りのキャベツだった。

六歳の娘と毎週のように図書館に行って本を借り、毎晩のように読みきかせている。
年間三百冊以上の児童書を読んでいることになるが、それだけの絵本を読んでいるぼくの一押しが、石井睦美『すみれちゃん』シリーズだ。


「これはおもしろい! なんてみずみずしく少女の感覚を表現しているんだ!」と感動して『すみれちゃんは一年生』『すみれちゃんのあついなつ』『すみれちゃんのすてきなプレゼント 』と立て続けに読んだ。どれもおもしろかった。図書館で読んだ本だが、これは買っておいておかねばとおもい購入もした。

妹の誕生、妹との喧嘩、母親に対する不満、友だちとの関係。さまざまな出来事を通して、すみれちゃんの五歳から八歳までの成長を描いている。
同じ年頃の娘や姪がいるのだが、まさにこの時期の女の子ってこんなこと言ってこんな歌つくってこんなことで悩んでるよなあと共感することばかり。
自分が五歳の女の子だったときのことを思いだすようだ。五歳の女の子だったことないけど。



ということで期待しながら、同じ作者の大人向け小説を読んでみたのだが……。

あれ。あれあれあれ。ぜんぜんおもしろくない。
何も起こらない。謎もない。失敗もない。誤解も生じない。裏切りもない。悪意もない。差別もない。不幸もない。
ほんとうに何もない小説なのだ。ただ女性が就職してちょっとずつ仕事に慣れながらときどき料理を作るだけ。なんじゃそりゃ。
めちゃくちゃ文章がうまいとかユーモアがあるとかなら、平凡な日常もおもしろおかしく描けるのかもしれないが、それもない。
「それであの立派なオープンキッチン! すごいですね、吉沢さん」
 と、まりあは言った。
(そしてそれをすんなり聞いちゃう社長って。まるで妻の言いなりになる夫のようではないですか。)
 という部分は、こころのなかで思うだけだ。
「すごいだろ? 奥さんだって言わないようなことをサラッと言っちゃうんだから。でも、同時にそれができたら、いいなと思ったんだよ。なあ樋口くん、人間っていうのはなんでできていると思う?」
(えっ。いきなりなんですか?)
「水と、タンパク質?」
 おそるおそるまりあは答えた。答えながら、ここは食品商社なのだから、食べたものでできていると答えればよかったと後悔し始めていた。
「なるほど。そうきたか。僕はね、記憶でできていると思っているんだ。そう、人間っていうのは記憶なんだよ」
 予想外の答えにまりあは目を白黒させた。もちろん、ほんとうに白黒させたわけではなく、それは比喩だ。実際には、あきらかに大きなまばたきを二度して、米田を見た。
どうよこの説明過剰な文章。
「あ、安藤部長!」
「部長はなしだよ。倉庫番の安藤さん」
「いえ、そんな……」
「じゃあ、ただの安藤さん」
「ただの安藤さんていうのも、ちょっと」
 まりあがそう言うと、一瞬、安藤はキョトンとした。
「そうじゃないよ。呼ぶときはただのはつけないよ」
 安藤に言われて、今度はまりあがキョトンとする番だった。やや遅れて、
「あっ」
 まりあが小さな悲鳴のような声をあげた。
どうよこのそよ風のようなユーモア。

このつまんなさ、どこかで読んだことあるなと考えておもいだした。
『和菓子のアン』だ……。
「どんなクソつまらない本でも一度手にとったら流し読みでいいから最後までは読む」を信条にしているぼくが、「これはアカン……」と途中で原子炉に放りなげてしまった『和菓子のアン』だ(あぶないからマネしないでね)。
上すべりしている毒気のないユーモア、食に関する半端な蘊蓄、どうでもいい話が延々と続く退屈な展開。どれをとっても『和菓子のアン』だ。

しかし『和菓子のアン』もそこそこ売れていたから、こういうのを好きな人もいるんだろうね。朝ドラが好きな人とか。

ぼくの心には波風ひとつ立たなかったなあ。凪。

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2019年11月11日月曜日

【読書感想文】収穫がないことが収穫 / 村上 敦伺・四方 健太郎『世界一蹴の旅』

世界一蹴の旅

サッカーワールドカップ出場32カ国周遊記

村上 敦伺  四方 健太郎

内容(Amazonより)
現地観戦やサッカー協会訪問、選手に突撃取材……南アW杯に出場する32カ国を1年かけて廻ったアシシとヨモケンから成るユニット・Libero。その活動を記した人気ブログ「世界一蹴の旅」が、大幅な加筆修正を経てW杯直前に書籍化!1年に渡る感動と笑撃のサッカーバカによるサッカー外交で、W杯を32倍楽しもう!

某氏との本の交換で手に入れたうちの一冊。

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ぼくはサッカーワールドカップだけはちょっと観る。ただしほとんどダイジェストで。
……という程度のにわかですらないサッカーファンだ。

しかしワールドカップはおもしろい。サッカーが好きというより「世界各国が集うお祭り」が好きなのだとおもう。
最先端の中継技術を楽しめることや、喜びかたにそれぞれの国民性があらわれることや、チーム事情に各国の背負っている政治背景が感じられることなどピッチ以外の見どころも多い。

2014年のワールドカップの時期にNHKスペシャル『民族共存へのキックオフ〜“オシムの国”のW杯』という番組を放送していた。
ぼくはその番組でボスニア・ヘルツェゴヴィナ、そしてユーゴスラヴィアの歴史を知った。その後に見たボスニア・ヘルツェゴビナ代表の試合はすごく楽しめた。
べつにサッカーのことじゃなくても、その国の歴史だとか地理とかがわかるだけでぐっとおもしろくなるのだ。


『世界一蹴の旅』は、サッカーファンの二人が、2010年ワールドカップ出場国32国(日本含む)をめぐった旅行記だ。
短い期間に32ヶ国をまわるということでかなりの駆け足になっているので旅行記としてはものたりないが、これを読んでいるとほんとにそれぞれの国の代表チームに興味が湧いてくるからふしぎだ。2019年の今となっては、とっくに終わった大会なのに。

テレビ局は、いまだに「駅前やパブで浮かれているにわかサッカーファンの声」を垂れながすことが自分たちの仕事だとおもっているが、ちょっと視点を変えるだけでこんなにおもしろいレポートができあがるのだ。

とはいえ、これはこの二人が勝手にやっているからこそおもしろいのであって、テレビとかが入ってきちんとしたレポートになるとつまらなくなりそうな気もする。

「オランダの道路はすごくややこしいからそこで生活しているオランダ人プレイヤーは視野の広いプレーができる」
とか
「アルゼンチン人は遊ぶときはしっかり遊ぶからマラドーナやメッシのように攻守で力の入れ具合の極端に異なるプレースタイルになる」
とか、現地を訪れた一ファンの感想として読む分にはおもしろいけど、公式レポートにしちゃうと「根拠のないいいかげんなことを言うな!」って怒られちゃいそうだもんなあ。



中国から北朝鮮に向かう電車の中で、たまたま乗り合わせた「日本語を専攻していた北朝鮮人」との会話。
対する僕も、北朝鮮人の日常生活や仕事、趣味に関する話などを聞いた。一緒にお酒を飲みながら語り合った中で感じ取れた彼らの考え方や価値観は、元々描いていた北朝鮮の閉鎖的なイメージとはかけ離れており、至極真っ当なものだった。この印象を決定付けた会話がこれだ。「なぜあなたは大学の専攻で日本語を選択したのですか?」と問うと、こんな答えが返ってきたのだ。「隣の国の人と会話できるというのは、人生の財産だと思うんですょ」と。
 彼自身、中国に行き来ができるほどの立場なので、北朝鮮人の中でも比較的グローバルな視点を持った人であることは確かだが、それにしても「日本語は人生の財産」という言葉が北朝鮮人の口から聞けるとは思いもしなかった。
 旅の醍醐味のひとつに、現地にて肌で感じ取った体験を通して、事前に張っていたレッテルを自分自身の手ではがしていくことが挙げられるであろう。今回もまた北朝鮮に対する先入観を自らの手で粉砕することができた。これだから旅は面白い。
へえ。北朝鮮でも日本語を専攻できるんだ。知らなかった。
それってもしかして日本に潜入して諜報活動をする工作員を養成しているのでは……と考えてしまったのはぼくの心が汚れているからですね、そうですね。すみません、魂のふれあいに水をさしてしまって。



いちばんおもしろかったのは、皮肉なことにニュージーランドのレポート。
皮肉というのは、ニュージーランドのレポートにはサッカーの話がまったく出てこないのだ。
ニュージーランドといえば、オールブラックスに代表されるラグビーの国。サッカーがまったく根付いていないのだ。
サッカーコートもサッカーボールを蹴っている人もいなくて、挙句に知り合った人から「サッカーワールドカップじゃなくてラグビーワールドカップの出場国をまわりなさい」と言われる始末……。

サッカーファン的には収穫のない話かもしれないけど、こういうのこそ実際に行ってみないとなかなか感じられない話なのでおもしろい。収穫がないことが収穫だね。


あとアメリカで「サッカーをどうマネタイズするか」みたいな話が出てくるのも、さすがはアメリカという感じでおもしろい。
ヨーロッパの国だったら「フットボールはスピリットを楽しむものだ。金儲けの話ばかりするな!」みたいなことを言われそうなものだけど、アメリカにおけるサッカーは「数あるスポーツのうちのひとつ」なのでドライにビジネスとしての現状を分析している。
プロである以上は金を稼がないといけないわけだし、金を稼げればいい選手が多く集まってくるわけだから、強くするためにもアメリカ的な視点が大事なんだろうね。

日本だと「子どもの野球離れが進んでいる」「この競技をどうやって盛りあげるか」と議論しても「どうやって金を稼ぐか」という話にはなりにくいよね。
「どう魅力を発信していくか」「もっとボランティアの活用を」みたいな声が多数を占めそう。そして衰退してゆく。
やっぱりスポーツは金儲けをしなきゃだめだよね。
ゴルフとかテニスなんかは(一部のプロは)すごく儲かるから、子どものときからやらせるわけだもんね。



「サッカー」という切り口であちこちまわるのはおもしろいね。
こういうワンテーマで掘り下げた旅行記があったらもっと読みたいな。

しかしこの本が物足りないのは、2010年ワールドカップ本選の話がまったく出てこないこと。
ワールドカップ直前に刊行された本なのでしょうがないんだけど、「事前情報では〇〇だったけど本選では××だった」みたいな後日談とあわせて読みたかったなあ……と2019年のぼくとしてはおもってしまう。
わがままな要望だけど。


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2019年11月5日火曜日

【読書感想文】すごい小説を読んだ! / 今村 夏子『こちらあみ子』

こちらあみ子

今村 夏子

内容(e-honより)
あみ子は、少し風変わりな女の子。優しい父、一緒に登下校をしてくれ兄、書道教室の先生でお腹には赤ちゃんがいる母、憧れの同級生のり君。純粋なあみ子の行動が、周囲の人々を否応なしに変えていく過程を少女の無垢な視線で鮮やかに描き、独自の世界を示した、第26回太宰治賞、第24回三島由紀夫賞受賞の異才のデビュー作。書き下ろし短編「チズさん」を収録。

以前、『たべるのがおそい』という文芸誌で『あひる』という短篇小説を読んだのが、今村夏子さんの作品との出会いだった。
その奇妙な味わいがやけに心に残っていた。飼っているあひるをすりかえる、なんてどうやったら出てくる発想なんだ。

で、今村夏子という名前をぼんやりとおぼえてAmazonのウィッシュリストに入れたりしていたんだけど(買ってはいない)、芥川賞を受賞したというニュースを見て「しまった! 先を越された!」という気になった。
ぼくが先に目をつけてたんだからな! 芥川賞選考委員より先にな! という身勝手かつ勘違いもはなはだしい妄想にとりつかれて、「だったらもういい! 読まん!」という己でもわけのわからぬ意地を張ってウィッシュリストからも削除したのだが、その直後に古本屋でばったり今村夏子作品と出会って「わかったよ……負けたよ……」と、誰に何の勝負で負けたのかわからぬ呟きを残しながら買ったという始末。なんなんだこの話は。



そして『こちらあみ子』。
いやあ、すごい! 久々に「すごい小説を読んだ!」という気になった。
読みおわったあと、しばらく何も手につかなかった。
こんなにも感情を揺さぶられる小説を読んだのはいつ以来だろう。

お花を愛する女性と近所に住む子どものハートフルなふれあい……かとおもいきや、いきなり女性が「中学生のときに好きだった男の子から顔面を殴られたせいで今も歯がない」というショッキングな話を語りだす。
そして語られるのは、さらにショッキングなあれやこれや……。
「好きじゃ」
「殺す」と言ったのり君と、ほぼ同時だった。
「好きじゃ」
「殺す」のり君がもう一度言った。
「好きじゃ」
「殺す」
「のり君好きじゃ」
「殺す」は、全然だめだった。どこにも命中しなかった。破壊力を持つのはあみ子の言葉だけだった。あみ子の言葉がのり君をうち、同じようにあみ子の言葉だけがあみ子をうった。好きじゃ、と叫ぶ度に、あみ子のこころは容赦なく砕けた。好きじゃ、好きじゃ、好きじゃすきじゃす、のり君が目玉を真っ赤に煮えたぎらせながら、こぶしで顔面を殴ってくれたとき、あみ子はようやく一息つく思いだった。
読んでない人にはなんのこっちゃわからないシーンだろうが、ぼくはここを読みながら息ができなかった。通勤電車の中で読んでいたのだが、周囲から人がいなくなったような気がした。
日本文学界に残る屈指の名シーンだ。



あらすじでは「あみ子は、少し風変わりな女の子」とオブラートに包んだ表現をしているが、あみ子は世間一般に言う「知的障害児童」だ。「支援」が必要な子だ。

小学生のときにひとつ上の学年にいた知的障害の女の子(当時は大人も子どもも「知恵おくれ」と呼んでいた)のことをおもいだした。
周囲にあわせた行動ができず、気持ち悪いと言われ、同級生からも上級生からも下級生からも等しくばかにされる女の子。
ひとつ下の学年であったぼくらもやはりその子をばかにして、まるで汚い犬のように扱った。感情を持たない生き物のように。

当時はどんな扱いをしてもいい存在だったあの女の子のことを、子を持つ親になって思いだす。
自分がいかに差別感情を持って接していた(接している)かを。そして自分の子どももそうなるかもしれないことを。
そして気づく。
あたりまえだけどあの子にはあの子なりの感情や論理があって、あの子を大切におもう家族がいて、その家族にもいろんなおもいがあったのだ、と。
あたりまえすぎることなんだけど、でも小学生だったぼくらにはわからなかった。

『こちらあみ子』は、そのわからなかった「あの子」の人生を追体験させてくれる。
「あの子」は自分とはまったく異なる人間ではなかったのだ、自分も「あの子」のすぐ近くにいたのだと気づかされる。

少し前に、小学校時代の同級生と再会した。昔毎日のように遊んでいたやつだ。
彼は精神病をわずらい、今は少しずつ社会になれる暮らしをしているのだという。障害者手帳も持っているそうで、つまり精神障害者だった。
だがぼくには、思い出の中にいる彼と、精神障害者という言葉が結びつかなかった。そういうのって“トクベツ”なやつがなるもんだろ?

だがじっくり考えるうちに、精神病になるのはトクベツでもなんでもないのだと気が付いた。誰でも風邪をひくことがあるのといっしょ。風邪をひきやすい人とそうでない人のちがいはあるが、ぜったいに風邪をひかない人はいない。
精神病のあいつも、“知恵遅れ”のあの子も、トクベツではなかったのだ。



べつの短篇『ピクニック』もよかった。

ばればれの嘘をつく人と、嘘だと気づきながら信じてあげる人たちの優しい世界。
優しい、けれど見方を変えればものすごく残酷な世界。

こういう人、いたなあ。
大学生のとき、サークルにどう見てもモテないYという男がいて「おれには彼女がいる」と言っていた。
でもいつ誘っても顔を出すし、合コンにも積極的に行っているし、彼女の姿はおろか写真すら誰も見たことがなくて、ぼくは「ほんとに彼女がいるのかなあ」とおもっていた。もちろん口には出さなかったが。

でもあるとき口の悪い後輩が「Yさんに彼女がいるっていうの、あれ嘘でしょ。脳内彼女でしょ」と言いだした(さすがにY本人はいない場だった)。
するとなぜか無関係である周囲の人たちがあわてだして、「いやまあいいじゃないそれは……」「まあまあ。本人がいるって言ってるんだからさ……」「問いただして、ほんとだったとしても嘘だったとしても後味の悪さしか残らないからさ。だから本当ってことでいいじゃない……」と歯切れの悪いフォローをはじめた。
それを聞いて、ぼくは「ああ、嘘だとおもっていたのはぼくだけじゃなかったのか」と安心した。みんな、嘘に気づいていて、気づかぬふりをしていたのだ。
知らぬはY当人ばかり。周囲はYを気づかっているようで「彼女がいないのにいると主張している哀れなやつ」と見下していたのだ。
優しいようで、すごく残酷な話だなあ。

いや、Yにほんとに彼女がいたのかもしれないけど。

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【DVD鑑賞】『勝手にふるえてろ』

【読書感想文】ちゃんとしてることにがっかり / 綿矢 りさ『勝手にふるえてろ』



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2019年10月31日木曜日

【読書感想文】正しい人間でいたいけどずるもしたい / ダン・アリエリー『ずる 噓とごまかしの行動経済学』

ずる

噓とごまかしの行動経済学

ダン・アリエリー(著)  櫻井祐子(訳)

内容(e-honより)
クリエイティブな人、偽ブランドを身につけている人、共同で仕事をする人は、「ずる」しやすい?不正による報酬が高額になると、ずるはむしろ減る?キャッシュレスになると不正が増える?行動経済学の第一人者であるアリエリー教授が、楽しい実験を通して「ずるをするのは悪人だけではない」ことを明らかに!私たちがちょっとした嘘やごまかしを正当化してしまうからくり、ずるを未然に防ぐ効果的な方法を考える。

世の中の人はみんなずるをする。ぼくもあなたも。
人間はずるをする生き物だ。そういうふうにできているのだからしかたがない。
「いついかなるときもずるをしてはいけません」と道理を説いても意味がない。それは「永遠に寝てはいけません」と同じで、どだい無理な話なのだから。

だったら、ずるを防ぐためには「人がどういうときにずるをしやすいのか」「逆にずるをしにくくなるのはどんなときか」を検証し、ずるをしたくなくなる仕組みをつくる必要がある。

たいていの人は、ずるを防ぐためには「罰を重くすればいい」と考える。
ずるによって得られる便益よりも、発覚する可能性、発覚したときの損失が大きくなればずるをしなくなるだろうと。

けれど話はそう単純ではない。
ぼくらは利害の大きさを計算した上でずるをしているわけではないのだ。
 この考えを検証するために、わたしたちはまず鉛筆のジョークの大学版を試すことにした。ある日わたしはMITの寮にこっそり忍びこんで、そこいらじゅうの共用冷蔵庫に魅力的なエサをしこんだ。冷蔵庫の半数には六本パックの缶コーラを入れ、残りの半数には一ドル札を六枚のせた紙皿を忍ばせて立ち去った。それから何度か冷蔵庫に舞い戻っては、缶コーラと札の減り具合をチェックした。缶コーラと札のいわゆる「半減期」を調べたわけだ。
 学生寮というものに行ったことがある人ならわかると思うが、缶コーラは七二時間以内に跡形もなく消滅した。だがとくに興味深いことに、札は手つかずのまま残っていた。学生は一ドル札を一枚とって、近くの自動販売機まで行き、缶コーラを手に入れ、お釣りまでものにすることもできたのに、だれ一人そうしなかったのだ。
缶コーラと現金なら、現金のほうがいい(死にそうなぐらいのどが渇いている場合をのぞく)。
コーラは飲むしかできないが、現金ならなんにでも使える。コーラだって買える。
おまけにコーラを盗むほうが現金を盗むよりもばれやすい。コーラは現金とちがってポケットに隠せない。「たまたま同じメーカーのコーラを持っている確率」は「たまたま同じ造幣局でつくられた現金を持っている確率」よりも低いから、言い逃れもしにくい。

盗むことによって得られる利益、盗んだことがばれる確率、どちらをとっても現金を盗むほうがいい。
だけど現金よりもコーラを盗むほうが抵抗が小さい。

それは、我々がずるをするかどうかを損益ではなく「盗んでも自分の心が痛まないか」に従って決めているからだ。

上に引用した文の最初に出てくる「鉛筆のジョーク」というのは、
友だちの鉛筆を盗んだ息子に対して父親が「どうして他人の鉛筆を盗むんだ! 鉛筆がほしければお父さんに言えば、いくらでも会社から持ってきてあげるのに!」と叱る、
というものだ。
これはジョークだが、この父親の感覚はきわめて一般的なものだ。
多くの人は、友人が財布を置きっぱなしにしていたからといってそこから千円を抜きとったりはしないが、会社の経費申請を少しごまかして千円多く請求することにはあまり良心が痛まない。
それは、後者は「会社は儲かっているから」「サービス残業をしていることもあるからこれでチャラだ」「みんな多かれ少なかれやっていることだから」と言い訳がしやすいからだ。

ぼくらはずるをしたい。
だけど「自分は正しい人間だ」と思いたい。
この、本来なら決して両立するはずのない二つの願いを叶えるため、「ずるをしてもいい言い訳を用意する」わけだ。

だから、ずるを防ぐには言い訳をしづらい状況を作ってやればいい。



この本には、様々な検証実験によって得られた「ずるをしたくなる条件」が紹介されている。

様々な決断を強いられた後、欲求をはねつけた後など、疲れているときは不正に走りやすいとか。
他人の不正を目撃したときは自分も不正に走りやすいとか(特に同じコミュニティの人間の不正だと効果が大きい)。
小さな不正をした後は大きな不正をするのに抵抗を感じにくくなるとか。

政治家が不正をはたらいても「お金返すからいいでしょ」「かぎりなく黒に近いグレーだけど証拠がないからセーフでしょ」「はいはい、発言を撤回すればいいんでしょ」とやっているが、あれは知らず知らずのうちに国民に大きな影響を与えてるんじゃないかとぼくは心配している。
ああやって居直る政治家が増えるにともなって、一般市民の間にも不正が増えるんじゃないかなあ。
なかなか統計的に調べられないことだけど。



とりわけおもしろかったのは、
人は、自分が利益を得るときよりも他人が利益を得るときのほうが不正をしやすい
という実験結果だった。

私利私欲のために不正をはたらくのは良心のブレーキがかかりやすいが、「チームのため」「会社のため」「政党のため」とおもうと、言い訳がしやすくなる分不正に走りやすくなるのだそうだ。

これを知って、いろんなことが腑に落ちた。


以前、歩道橋の上で道いっぱいに広がって「盲導犬のために寄付をおねがいしまーす!」と呼びかけている人たちがいた。
すごく邪魔だったんだけど、本人たちは「私たちは今他人のためにいいことをしている!」という幸福感に酔っているから、ぜんぜん悪びれてないのね。


選挙カーがやかましい音を垂れ流すのも同じ理由なんだろうね。
「地域のため、国のために自分がやらねば!」という崇高な理念がある(と本人はおもっている)から、騒音をまきちらして人に迷惑をかけても平気でいられるんだろう。
まともな感覚を持っている人だったら、あれだけ多数の人から「うるせえ消えろ」って思われたら死にたくなるもんね。

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2019年10月29日火曜日

【読書感想文】悪口を存分に味わえる本 / 島 泰三『はだかの起原』

はだかの起原

島 泰三

内容(e-honより)
「裸は適応的な進化だったはずがない」。では、ヒト科のただ一種だけの例外的な形質、生存の保温保水に圧倒的に不利な裸化は、なぜ、いつ起こったのか。同じく例外的に裸化した小型哺乳動物はそれぞれが独特の生態を身につけた。では、人類が獲得した生きのびるための術とは?自然淘汰説を超え、遺伝学・生物学などを参照しつつ現代人類の起原を探る。

はだかの起源といっても、「男は何歳から女の裸に興味を持つのか」とか「服を脱ぐと気持ちいいのはなぜなのか」みたいな話ではなく、「なぜ人類は体毛に覆われていないのか」というお話。

ううむ。
考えたことなかったけど、言われてみるとふしぎだなあ。
ぜったいに体毛はあったほうがいいよね。毛に覆われているほうが寒さや乾燥にも強いし、直射日光から肌を守ってくれるし、けがもしにくい。



体毛に覆われていない哺乳類は、ヒトだけではない。
きわめて少ないが、いるにはいる。
クジラ、セイウチやゾウアザラシなどの海獣、ゾウやサイやカバ、イノシシ科バビルーサ、ハダカオヒキコウモリ、ハダカデバネズミ。そしてヒト。

『はだかの起源』では、それぞれの動物がはだかである理由を説明する。

クジラのように一生を水中で過ごす生物には毛は必要ない。
体毛には防水、保湿、保温などの効果があるが、水中なので当然防水も保湿も関係ない。また保温につながるのは毛と皮膚の間に空気が入るからなので、ずっと水中にいるのであれば保温効果もない。(ただしラッコのように陸にも上がる動物は毛があったほうがいい。毛の中に空気を蓄えることで保温できるから)
ゾウやセイウチのように体重一トンを超える動物は、体重の割に体表面積が小さくなるので、熱を放散させるために毛がないほうがいい。
ハダカデバデズミは土の中に巣をつくり、巣の入り口を塞ぐことで湿度を保ち、仲間同士でくっついて熱を保つことができるので毛が無くても大丈夫。

……というように、それぞれの動物ごとに毛のない理由をひもといてゆく。
つきつめると、保湿、保温の機能を捨ててもいい哺乳類だけが、はだかでも生き延びることができるのだ。

ところがヒトの身体には保温、保湿の機能が備わっていない。
なぜヒトははだかになったのか?

人類水生生活説などいくつかの理由が提唱されているが、著者はひとつひとつ根拠を挙げて反証してゆく。



で、著者の出した結論がおもしろい。

それは「はだかのほうがいい理由なんてない。ヒトのはだかは単なる欠陥である」というものだ。

たまたまヒトは火や衣服や住居をつくることができたから、欠陥品だけど生きのびることができただけ、というものだ。

これは、あたりまえのようでなかなかできない発想だ。
ついついぼくらはヒトこそがいちばん高等な動物であるとおもってしまう。いちばん優秀な動物だから完全無欠の存在だ、と。

でもそうでもない。ヒトは欠陥だらけだ。
弱いし、一度にたくさんの子を産めないし、脳が発達しているせいで余計なことまで考えてしまうし。

はだかであることに理由なんてない。
衝撃的な結論だ。これが正しいかどうかはわからないけど。



……と、「ヒトはなぜはだかなのか?」という謎解き部分もおもしろかったのだが、この本の真骨頂はそこではない。

なんといってもすごいのが、著者の口の悪さだ。
もう、悪口のオンパレードなのだ。
ダーウィンを筆頭に、他の研究者をけちょんけちょんに書いている。
議論が甘いからといって、人間性から知性まで徹底的にけなす。

たとえばこんなふうに。
(太字・下線はぼくによる)
 このダーウィンの文章は、頭の中で文章を構成する人の典型的な文章で、書いているうちに、人間の顔が想像の中で浮かび、これが四足になったと考えると顔が下向きに想像され、そこは日陰だと思うのである。
 しかし、現実には地面を向いている獣たちの顔というのはない。顔は顎の下から喉まではともかくとして、頭とひとつながりの方向、つまり、正面から上を向く。だから、「太陽の熱」というなら、頭と顔は同じ熱の受け方をする。「顔は熱を受けない」と考えて、だから「男性の顔の毛」はこの仮説に「都合がよい」と思うダーウィンは、この一つの文章を作っているときに、ライオンなりなんなりの写真を確かめることをしないタイプの思索家なのである
 悪口になってしまうが、あえて言ってしまえば、こういう「思索家」は結局グウタラなのだ。サルの研究をするのに餌場ですませたいタイプ、動物の研究を本ですませたいタイプの研究者は、立ち上がって図鑑を取り出して見るという手間さえ惜しむ。文章を作る上では、そういう資料を参照する中断がないほうが、てっとり早いからである。
 しかし、このモリスの変な文章は、問題がどこにあるのかを本当は自分でも分かっていないためだ必要な事実を網羅しない、事実を確認していない、事実を取りあげる原則が決まっていない、事実の括り方が思いつきである、という四拍子揃った無原則さである。これでは、毛のない哺乳類の全体観はつかめない。
 この手の人は、論理的な矛盾は問題にしない。この手法では、論理的な整合性よりも、そこをぼんやりさせていることこそ望ましい。読み手の心の中に印象を作るのであって、説得するのではない。これが無意識下への刷り込み作業である。これが、サブリミナル手法である。この手の文章を書かせると、ライアル・ワトソンはダーウィンやグールドと同じようにうまい。どうも、うまい文章を作る欧米人は、同じ手法を使うと見える
 私は、こういうバカ話が学術的装いを凝らして流布するという、人間世界に愛想をつかしている。しかし、誰もが私のような経験をしているわけではないから、再び深呼吸を一○回繰り返して、心を平静にして雑賀さんに答えることにした。なにしろ、こういう細部だけを誇大に取り上げた空想的な話に、人間は実にたやすくだまされるからである。順を追って説明すれば、あるいはこの人間特有の妄想癖を崩すことができるかもしれないと、もう一度、深呼吸した。

はじめは「四方八方に喧嘩売りすぎだろ……。なんてめんどくさそうな人なんだ……」とあきれていたのだが、そのうち悪口がおもしろくなってきた。

一応フォローしておくと、著者は全方位的に喧嘩を売っているわけではない。評価するところは評価している。

とはいえ、さすがに度が過ぎる。
論旨が甘いからといって「グウタラ」だの「問題がどこにあるのかを本当は自分でも分かっていない」だの。挙句には「人間世界に愛想をつかしている」ときた。悪魔に身を売ったのかよ。

あまりに悪口の表現が多彩すぎて、議論を展開するときよりも悪口書くときのほうがエネルギー使ってるんじゃねえのとおもえるぐらい。
もしかしたらダーウィンの悪口を書きたくてこの本を書いたのでは?

いやあ、いろんな意味で楽しませてもらった。
おもしろい本ですよ。
著者とお近づきにはなりたくないけど。

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2019年10月28日月曜日

【読書感想文】おもしろさが物悲しい / 又吉 直樹『火花』

火花

又吉 直樹

内容(e-honより)
売れない芸人の徳永は、天才肌の先輩芸人・神谷と出会い、師と仰ぐ。神谷の伝記を書くことを乞われ、共に過ごす時間が増えるが、やがて二人は別の道を歩むことになる。笑いとは何か、人間とは何かを描ききったデビュー小説。第153回芥川賞受賞作。
へそまがりな人間なので、話題作、タレント本というとついつい避けてしまう。
「ふだん本なんて読まないくせに話題になっている本だけ読む」人間だとおもわれるのがイヤなのだ。といっても誰もぼくが何を読んでいるかなんて気にしないわけだから、完全に自意識過剰だ。それはわかっている。わかっていてもどうにもならないから自意識過剰なのだ。

というわけで『火花』も「おもしろい」という評判や、描かれている題材などからすごく興味を持っていたにもかかわらず、テレビによく出ている人が書いた+芥川賞受賞作という超話題作だったためにずっと遠ざけてきた。
しかし、そもそも何のためにやっているのか自分でもよくわからない意地を張っていても何の得もない。
ということで、読みたい本は話題作だろうとタレント本だろうと読むことにしようと決意して『火花』を手に取った。大仰な決意をしないと好きな本も読めないのだから、我ながらめんどくさい性格だ。



『火花』の主要登場人物である徳永と神谷も、負けず劣らずめんどくさい性格の人間たちだ。
芸人である以上、売れたいとおもっている。評価されたい、テレビに出たいとおもっている。
けれど自分がおもしろいと信じていることだけをやりたいともおもっている。
もちろん、自分がおもしろいとおもうことだけをやって、周囲からも認められるのがいちばん幸福だが、そうはいかないのが笑いの世界だ。
どこかで折り合いをつけなければならない、けれど妥協したくない、だけど評価もされたい。

表現の世界に身を置く人間であれば誰でも抱えている普遍的な悩みなのだろう。
しかし普遍的な悩みだからといって当事者にとっては悩みが軽くなるわけではない。
ずっとひりひりした痛みを抱えながら先の見えない闘いを続けるしかない。

これがスポーツならまだわかりやすい。勝ち数が多いとか防御率が低いとか、歴然とした指標があるから。
多少は監督のえこひいきも入るだろうけど、チーム一の成績を出している選手を起用しないことはよほどのことがないかぎり難しいだろう。

しかし「おもしろさ」は数値化できないし時代や場所によっても変わるものだから、芸人はずっと「おもしろい」を模索しつづけなければならない。
しかもおもしろければいいというものでもない。笑いをたくさんとった者が売れるとはかぎらない。

「論理的に批評するのは難しいな。新しい方法論が出現すると、それを実践する人間が複数出てくる。発展させたり改良する人もおるやろう。その一方でそれを流行りと断定したがる奴が出てくる。そういう奴は大概が老けてる。だから、妙に説得力がある。そしたら、その方法を使うことが邪道と見なされる。そしたら、今度は表現上それが必要な場合であっても、その方法を使わない選択をするようになる。もしかしたら、その方法を避けることで新しい表現が生まれる可能性はあるかもしらんけど、新しい発想というのは刺激的な快感をもたらしてくれるけど、所詮は途上やねん。せやから面白いねんけど、成熟させずに捨てるなんて、ごっつもったいないで。新しく生まれる発想の快感だけ求めるのって、それは伸び始めた枝を途中でポキンと折る行為に等しいねん。だから、鬱陶しい年寄りの批評家が多い分野はほとんどが衰退する。確立するまで、待てばいいのにな。表現方法の一つとして、大木の太い一本の枝になるまで。そうしたら、もっと色んなことが面白くなんのにな。枝を落として、幹だけに栄養が行くようにしてるつもりなんやろうけど。そういう側面もあるんかもしらんけど、遠くからは見えへんし実も生らへん。だから、これだけは断言できるねんけど、批評をやり始めたら漫才師としての能力は絶対に落ちる」
「平凡かどうかだけで判断すると、非凡アピール大会になり下がってしまわへんか? ほんで、反対に新しいものを端から否定すると、技術アピール大会になり下がってしまわへんか? ほんで両方を上手く混ぜてるものだけをよしとするとバランス大会になり下がってしまわへんか?」
「確かにそうやと思います」僕は率直に同意した。
「一つだけの基準を持って何かを測ろうとすると眼がくらんでまうねん。たとえば、共感至上主義の奴達って気持ち悪いやん? 共感って確かに心地いいねんけど、共感の部分が最も目立つもので、飛び抜けて面白いものって皆無やもんな。阿呆でもわかるから、依存しやすい強い感覚ではあるんやけど、創作に携わる人間はどこかで卒業せなあかんやろ。他のもの一切見えへんようになるからな。これは自分に対する戒めやねんけどな」と一語一語噛みしめるように言った。
これは『火花』の中で、傍若無人にふるまっているように見える芸人たちが交わす会話だ。
ここまで明快に言語化されているかどうかはわからないが、きっとほとんどの芸人たちはこれに近いことを考えながら生きているのだろう。そして考えれば考えるほど答えがわからなくなる。


ぼくの家の近くには公園があり、そこでよく漫才師の卵が稽古をしている。近くに芸人の養成所かなにかがあるのだろう。彼らは並んで一方向を見ながら派手な身振り手振りで話しているので(でも声は小さい。公園なので)、すぐに漫才の稽古だとわかる。
もちろん公園で練習するぐらいだからプロ未満の芸人なのだろう。だが彼らの顔は真剣そのものだ。稽古をした後は、小声でぼそぼそと話している。あそこがちがう、ここはこうしたほうがいい、などと話しあっているのだろう。
サラリーマンの商談のほうがよっぽど笑顔にあふれてるよ、というぐらい真剣なおももちで話しあっている。

まじめさとふまじめさ、常識と非常識、賢さと愚かさ、新しさと古さ、優しさと冷酷さ。いろんな「相反する要素」を持たないと生きていけない世界。
外から見た華やかさとは真逆の苦しい世界なんだろうなあ。



こういう小説は芸人界の内情を垣間見れておもしろい(フィクションなんだけど作者も芸人だとついつい実在の芸人と重ね合わせてしまう)。
でもこうやって芸人の悲哀を見せてしまうのは、今後の芸にとってはマイナスの影響のほうがずっと大きいんじゃないだろうか。「ぼくらめちゃくちゃ苦労してて命を削りながらネタつくってるんです」って言われると、もう笑えなくなっちゃう気がする。
特に漫才は、ネタのキャラクターと実際の芸人の姿が地続きになっているから。

そういや、高山トモヒロ『ベイブルース 25歳と364日』、ユウキロック 『芸人迷子』など芸人の私小説を読んだけど、どちらもコンビ解散してから書いてるんだよね。又吉直樹さんのピースも、『火花』が芥川賞を受賞してからほどなくして活動休止してるし。
やっぱり内情を暴露してしまうと、もう漫才は続けられないのかもしれないな……。


芸人が書いているだけあって随所にユーモアがちりばめられているんだけど、そのクオリティも十分に高いんだけど、だけどぼくは笑えなかった。
笑いよりも悲哀のほうが先にきてしまったのだ。
笑わせることは物悲しい。

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【読書感想エッセイ】 ユウキロック 『芸人迷子』

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2019年10月18日金曜日

【読書感想文】税金は不公平であるべき / 斎藤 貴男『ちゃんとわかる消費税』

ちゃんとわかる消費税

斎藤 貴男

内容(e-honより)
政治家の嘘、黙り込みを決めたマスコミ、増税を活用する大企業によって隠された消費税の恐るべき真実。導入から現在まで、その経緯と税の仕組みを一からわかりやすく解きほぐし、日本社会を「弱者切り捨て」へと向かわせ、新たに「監視社会」に導く可能性をも秘めた消費税の危険性を暴き出す。文庫化にあたり、武田砂鉄氏との対談を収録。消費税論の決定版。

大筋では著者の書いていることに納得。消費税よくない。
ただなあ。どうも議論が荒っぽいんだよねえ。

法律とか統計とかよく調べているんだけどね。そこは感心するんだけど、肝心の論理がちょこちょこ飛躍している。

Aが増えている。同時期にBも増えている。だからBが増えたのはAのせいでしょう!
……みたいな展開が多い。
いや疑似相関とか因果関係が逆とかいろいろ可能性はあるじゃない。

あと感情的な議論はやめようと書いているくせに、おもいっきり感情に訴えかけてきたり。
「源泉徴収制度はナチス時代のドイツのやりかたを参考に作られたのです。それを今でも使っているんです!」とか書いてある。

いやええやん。ナチス政権の考えたやり方だとしても、いい制度なら真似したらええやん。
問題視するのはそこじゃないでしょ。

まあまあ。
しかしこうやって改めて税金のことを説明してくれる人って貴重だね。
みんなよくわかってないもんね。もちろんぼくも。

税金を徴収する側(=税務署)としては、国民が税金のことをよく理解してない状態がいいからね。
そっちのほうががっぽりとれるわけだから。
だからこそ、国民は自分自身でちゃんと勉強しなくちゃいけない。



題は『ちゃんとわかる消費税』だが、消費税以外の話のほうがおもしろかったな。
規制緩和の話とか。
航空機のキャビン・アテンダント(CA)が真っ先に契約社員に切り換えられていきました。もちろん当事者は怒ったけれど、世間は「企業にとってよいことなら労働者にとってもよいはずだ」というように受け止めたのです。
 これは労働組合のナショナルセンターである連合の人に聞いた話ですが、最初がキャビン・アテンダントだったことには大きな意味がありました。他にも、早くから派遣に切り換えられていったのは、女性の、当時で言うOLたちでした。男性の仕事はすぐには派遣にならなかった。今は性別に関係なくどんどん派遣や請負に切り換えられてしまっていますが、あの頃の連合は、女性について「主たる家計の担い手ではない」という古い認識から離れられずにいたのです。連合の組合員の圧倒的多数は大企業の男性正社員でしたから、「女性の労働者がいくら非正規になったところで関係ないし、社会全体にとってもたいした影響はないだろう」と放置してしまっていた。ところが、次第に製造業に派遣が広がって、主たる家計の担い手であった男性も同じような目に遭っていきます。新自由主義の搾取のスタイルに当事者として被害を受けるようになるまでは、労働組合も問題の所在に気づくことができなかったわけです。
これってまさに寓話『茶色の朝』だよね。

寓話を解説しちゃだめですよ/『茶色の朝』【読書感想】

『茶色の朝』は、こんな話。
ある日、茶色以外の犬や猫を飼ってはいけないという法律が施行される。
"俺"とその友人は法律に疑問を持つが、わざわざ声を上げるほとでもないと思い"茶色党"の決定に従う。茶色の犬や猫は飼ってみればかわいいし、慣れてみればたいしたことじゃない。
だが"茶色党"の政策は徐々にエスカレートしてゆき、「以前茶色じゃない犬を飼っていた」という理由で友人が逮捕される。"俺"は自分の身もあぶなくなったことに気づきこれまで抵抗してこなかったことを悔やむが……。


契約社員への切り替えをまずはキャビン・アテンダントからはじめたってのは、実に巧妙だよね。上にも書かれているようにCAは女性が多いってのもあるし、容姿や学歴に恵まれた人のつく仕事ってのも大きいとおもう。やっかみを買いやすい立場だから、「どうせさんざんいい思いをしてきたんだろ」「仕事を失ったってたいして困らないだろ」と思われて反対運動が支持されにくかったってのもあるんじゃないかな。
「自分には関係のないエリート様が少々困ったところで平気でしょ」ってなぐあいに。
ところが「CAもやったんだから」という理由で、一度開いた穴はどんどん広がってゆき、しまいには堤防は決壊してしまう。
「じゃあ他の職種も規制緩和しましょう」「女性だけ対象にして男性だけ守るのは差別だから男性も非正規に切り替えましょう」となってゆく。
自分の身が危なくなってから反対してももう遅い。

最近めっきり聞かなくなった「高度プロフェッショナル制度」も同じだよね。
最近話題にならなくなった、ってのが恐ろしいところだよね。みんなが忘れた頃にどんどん導入されてゆくんだろうね。

消費税も、軽減税率だのキャッシュレス還元だのといろんな目くらましを用意して「なんだ、それならたいして困らないか」と思わせながら増税してるからね。
本当の苦しみは遅れてやってくるんだけど。



消費税増税に関して、新聞業界が「軽減税率」という毒まんじゅうを食わされて批判の拳をあっさりおろしてしまったことについて。
斎藤 こんなことは私が言うべきことじゃないかもしれないけど、もう本気で再編成を考えないと新聞の存在価値そのものがなくなっちゃうんじゃない?
武田 再編成?
斎藤 経営統合とか、宅配からの撤退とか。
武田 新聞社の記者と話していても、現場にそういった危機感はないですね。
斎藤 現場の人には全然ないでしょう。まだ自分たちのことをエリートだと勘違いしたまんまなんじゃないのかな。そこがまた質が悪い......どうしてこんなこと言うかというと、自分自身が業界紙の出身で、ろくでもないことを嫌というほど見聞きし、自分でも多少は経験したからなんですよ。会社に金がなくなると、ベテラン記者が懇意の大企業に行って金を貰ってくる。それで記事だか広告だかわからないような記事が載る。それができる記者が優秀な記者だってことになるわけだ。それを何十年もやっている先輩が何人もいて、それはそれで私も嫌いじゃないというか、否定なんかしません。そういう生き方もあると思う。業界紙というのはそういうものだし、相手の業界の人がわかっていればいいことだからね。でも、一般紙はそれとは違う信用の上に成り立っているわけじゃないですか。なのに今、一般紙がやっていることって、業界紙とまったく同じなんだよ。現場の記者からは見えないところで、どの新聞社も同じことをやっている。私がいた業界紙は記者と営業と広告の距離が近かったから見えちやったんだけど、彼らには見えないんでしょうね。

ぼくも広告の仕事をやっているので、「公的機関の仕事」のおいしさはよくわかる。
いくつかやったことがあるけど、はっきりいってめちゃくちゃ楽なんだよね。
値切ってこないし、成果も求められないし。

だからお金に困っている新聞業界が「原発のPR記事載せてください」とか言われたら飛びついてしまうのも無理はないとおもう。
で、スポンサー様になってもらったら舌鋒鋭く批判できなくなるのも気持ちもわかる。

でもなあ。
それってその場しのぎにはなるけど、長期的に見たらぜったいに寿命を縮める道だとおもうんだよなあ。

メディアの役割って「事実を伝える」と「解説する」があるとおもうんだよね。
事実を伝えるのはもちろん大事だけど、「なぜこうなったのか」「このままだとどうなるのか」「防ぐにはどうすればよいか」「外国だと似たケースでどうしているのか」「これによってダメージを受けるのは誰なのか」「逆に得をするのは誰なのか」などを論じることも重要。

で、政府や大企業からお金をいただいている新聞は「解説する」役割を放棄することになる。少なくとも批判的な解説はできなくなる。
「官房長官はこう言ってます」「〇〇社はこう発表しました」だけ伝える存在になる。
でもメディアが「事実を伝える」必要性はどんどん減っていっているわけだよね。昔なら新聞やテレビを通さないと国民に届けられなかった情報でも、ホームページやSNSでかんたんに発信できる。事件があれば現場近くの一市民が写真を撮ってツイートしてくれる。
単純な情報の量やスピードでいったら、新聞がネットに太刀打ちできるはずがない。

だから今後新聞が生き延びる道があるとすれば(あるかわからないけど)、「解説する」に力を入れないといけない。なのに目先の金欲しさにそれを捨てている。
政府広報紙になったらもう誰も新聞を読まないでしょ。じっさい産経新聞の部数減なんかいちばんすごいみたいだし。

と、えらそうに理想を語るのはかんたんだけど現実にはまあ無理だろうね。
新聞が「事実を伝える」を捨てて「解説する」に方針転換しようとしたら、記者を減らして、日刊をやめて、宅配をやめて、広告を減らして……ととんでもない数の人を切らないといけない。もちろん自分たちの給料も減らす必要があるだろう。
ぜったいに不可能だ。

ぼく自身は新聞を読むのは好きだし(とってないけど)、新聞社に勤める友人もいるので新聞社にはなんとか生き残ってほしいけど……。あと十年もつのかな。



消費税だけでなく、いろんな税がどう移り変わっていったのかを知ると、ある大きな流れが見えてくる。
それは「富める者には甘く、貧しい者には厳しく」という流れだ。

ここ数十年、消費税はずっと増えてきた。逆進性(貧しい者に対する負担がより大きいという性質)が大きいにも関わらず。
また税金ではないが社会保険料負担も増える一方。
対照的に減っているのは、法人税や高所得者に対する所得税。
そして輸出型企業は消費税によって逆に儲けている(輸出免税制度)。

誰が見ても一目瞭然だ。
日本はどんどん「金持ちに優しく、貧乏人に厳しい国」になっている。最大の原因はもちろん自民党だが、かつての民主党も手を貸している。
 弱肉強食、適者生存は世の習いですが、政府までが人間一人ひとりの命や尊厳や人権を尊重する建前を放棄してしまったら、世の中は獣たちのジャングルと変わらなくなってしまうじゃないか、と私は考えています。国家のためと言いながら、小さいところが辛うじて食べていくために稼いだお金までぶんどるというのが消費税増税です。そうやって巻き上げた税金を大企業に回す仕組みを強化して、それでGDPが増えたとしても、そんなものを本当の意味での「経済成長」と言えるのかどうか。
 成長ではなく搾取です。搾取を成長にみせかけるなどというのは、最も卑劣な手段だと思います。国家社会のためでさえありません。早い話、「なぜ消費税を上げたいかって? 俺や俺の身内が儲かるからだよ」というのが増税したい人たちの本音ではないでしょうか。

政府がこういう方針だからか、「貧しいのは努力が足りないせいだ。才能や努力によって儲けた人間から何の努力もしていない人間に金をまわすなんて不公平じゃないか」なんて自己責任論を口にする人間も少なくない(金持ちが言うんならまだわかるんだけど、そうじゃない人間が言うのがちゃんちゃらおかしい)。

だがぼくは言いたい。
そうだよ、不公平だよ。
税金ってそもそも不公平なもんなんだよ。
完全に公平にするんなら政府なんていらないじゃない。

金持ちは自費で水道をひき、警備員を雇い、子どもに家庭教師をつけ、医者を雇えばいい。貧乏人は川の水を飲み、何が起こっても自分たちで解決し、教育は受けられず、病気になったら死んでゆく。
まさに弱肉強食。政府は何もしない。これがいちばん公平だ。

でもそんな社会はみんな望んでいない。
だから国家をつくり、税金を出しあって警察や消防や学校や病院やインフラをつくってきたわけじゃない。
だから税制が不公平ってのはあたりまえの話なんだよね。

ねずみ小僧とかロビンフッドとかがやっていたような義賊システムを制度化したのが政府なんだから(ねずみ小僧もロビンフッドも元々は義賊じゃないらしいけど)。

だから、このまま低所得者から高所得者への財産移管を進めていってたら、そのうち大多数の国民が「国なんかいらないよな」ってことに気づいてしまうんじゃないかな。

これって日本だけの話じゃなくて、近いうちに今みたいな形の国家は解体に向かうのかもしれないなあ、とぼんやりと考えている。


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2019年10月16日水曜日

【読書感想文】一歩だけ踏みだす方法 / 鴻上 尚史『鴻上尚史のほがらか人生相談』

鴻上尚史のほがらか人生相談

息苦しい「世間」を楽に生きる処方箋

鴻上 尚史

内容(e-honより)
自分がもっている思い出は間違いのないものと考えるのがふつうだが、近年の認知心理学の研究で、それほど確実なものではないということが明らかになってきている。事件の目撃者の記憶は、ちょっとしたきっかけで書き換えられる。さらに、前世の記憶、エイリアンに誘拐された記憶といった、実際には体験していない出来事を思い出すこともある。このような、にわかには信じられない現象が発生するのはなぜか。私たちの記憶をめぐる不思議を、最新の知見に基づきながら解き明かす。

悩み相談といえば、ぼくの中では『中島らもの明るい悩み相談室』。


なぜか中学生のときに母親から「これおもしろいからあんた読み!」と全巻プレゼントされた思い出の本。

まじめなのかふざけてるのかわからないような悩みに、中島らも氏がふざけて回答。さらにまだ若かった西原理恵子、みうらじゅん、蛭子能収といったイラストレーターがふざけたイラストを添えるというもうめちゃくちゃな人生相談だった。
これを朝日新聞紙上でやっていたんだからいい時代だったんだなあ。


で、鴻上尚史さんの人生相談。ネット上でも少し話題になったりしてるね。
こっちは中島らも版とはちがっていたってまじめ。相談するほうも、相談されるほうも。
どちらも劇作家なのにこうもちがうかね。

しかし劇作家は人生相談に向いているのかな。
劇団というのは個性的な人たち、社会にうまくなじめない人たちが濃密な時間を過ごす場だから、そこに長くいるといろんな処世術が身につくのかもしれないね。



鴻上尚史さんの人生相談は、なんだかすごくいい。

特別なことを書いているわけじゃない。目からウロコが落ちるようなアドバイス、「そんな解決方法があったのか!」と驚くような解決は書かれていない。
ややこしい人とは少し距離をとりましょう、とか、病院に行って専門医に相談しましょう、とか、新しいことに手を出してみましょう、とか。
ごくごくあたりまえのこと。
たぶん質問者自身でも思いつくようなこと。

なのに心に染み入る。

それは、
・鴻上さんが質問者に寄り添うような語り口で書いている
・今さら言っても仕方のないことを責めない
・今日からでも実行できそうな手近な道を示している

あたりが理由なのかなあ、と読んでいておもった。

逆にいうと、ぼくも含めて世の中の多くの人たちは他人の悩みに対して
・突き放すような口調で
・今さら言っても仕方のないことを責める
・それができたら苦労しない、という解決方法を示す
という態度をとっているんだよね。

「親のくせにそんなことするなんて子どもがかわいそう」とか
「学生時代にちゃんと勉強しとけばよかったのに」とか
「そんな会社、やめたらいいじゃん」とか。

特にインターネット上では、そういう「へのつっぱりにもならないアドバイス」があふれてるよね。
「そんな人とは離婚したらいいとおもいますよ」とか。
できるならとっくにしてるっつうの。

でも鴻上さんは、我が事のように親身に寄り添いながら「一歩だけ踏み出す方法」を教えてくれる。

たとえば、「四歳の娘を憎たらしいと思ってしまう。娘を愛せない」という相談者に対する回答。
「娘にどう接するか」をアドバイスする前に、いくつか確認したいことがあります。
「理屈が通じない」理不尽に直面した時に、それを乗り越えるには、まずエネルギーが必要です。
 そして、エネルギーはちゃんと寝ないと生まれません。ごんつくさん、ちゃんと寝てますか?
 ごんつくさんが働いているのか、シングルマザーなのか、父親がまったく子育てに協力してくれないのか、分かりませんが、まず、ちゃんと寝ることが必要です。
 シングルマザーだとしても、娘さんが一人で4歳なら、それなりに寝られると思います。なによりも、0歳からイヤイヤ期を乗り越えてきたんですから。
 そして、理不尽を乗り越えるためには、ちゃんとした睡眠と共に、精神的余裕が必要です。
 精神的余裕は、まず、ごんつくさんが一人になれる時間を確保しているかどうかです。
 娘さんを預けて、ちゃんと一人になれる時間がありますか? もし、そんな時間がないのなら、公的サポート、家族、大人、民間サービス含めて、なんとか方法を見つけて下さい。
 そして、もうひとつ、精神的余裕は、ごんつくさんの悩みを理解してくれる人と話さないと生まれません。

子どもを愛せない親に対して、“正義の人”は「親なんだから子どもを愛さなくちゃいけない」とか「そんな親に育てられる子どもがかわいそう」とか言いがちだけど、そんなことは本人は百も承知だし、おまえはだめだと責められたって事態が良くなることはまずありえない。

鴻上さんの「ちゃんと寝る」「一人になれる時間をつくる」「愚痴をこぼしあえる人をつくる」というアドバイスなら今日からでも実行できそうだし、悩みなんて案外そんなことがきっかけで解決するんじゃないかな。

ぼくも子育てをしている真っ最中で、やっぱり子どもに対して憎らしくおもうことはある。
見え見えの嘘をつかれたり、わけもなく反抗的な態度をとられたり、こっちの言ったことを無視されたりしたら、やっぱりむかつく。

でもぼくが今のところ子どもを虐待していないのは、子ども以外の人と過ごす時間があったり、「こんなこと言われちゃったよ」と妻に話すことができたり、子育て以外の楽しみを持っていることが大きいとおもう。
これが、24時間自分がひとりで子どもの面倒を見なきゃいけない、子育て以外に楽しみがない、という状況だったらカッとなって手をあげてしまうかもしれない。

たいていの問題って、結局、ウェイトの問題なのかもしれない。
人生において子育てのウェイトが大きい人は子育てに悩むし、仕事が大事な人は仕事に対する悩みが大きくなるだろう。
だって、「月に一回行く趣味のサークル」に関して悩みなんか発生しないでしょう。たいていのことは「月に一回だけだから」とおもえば受けながせるし、どうしてもいやなことがあればサークルをやめればいい。月に一回がゼロ回になったところで生活はほとんど変わらない。

だから「選択肢を多く持つ」のはいろんな悩みに対する解決になりそうだ。
新しいところに行く、新しい人と会う、新しい本を読む。
人間関係で悩んでいるときは新たな人間関係を築きたくなくなるけど、でもちょっと無理してでも新しい人に会いにいったほうがいいんだろうね。「既存の人間関係の重み」が相対的に下がるから。


うーん、鴻上さんの回答は、考えれば考えるほどじわじわ味が染みだしてくるいい回答だなあ。



やはりいっしょに過ごす時間が長いからだろう、家族に関する悩みが圧倒的に多い(あと「世間」に関する悩みも)。
そういや『中島らもの明るい悩み相談室』でも家族に関する相談が多かったなあ。


長男である兄に比べて家庭内で冷遇されてきた妹が、「兄が家業をついだのに経営がうまくいかなかったから戻って助けてくれ」と親から泣きつかれたという相談に対する回答。
 大人になったら、家族を捨てなきゃいけない時も来るのです。それは、残酷だからとか冷たいからではなく、自分の人生を生きるためです。
 子供の頃、親はとても賢くて、従う対象でした。でも、自分が大人になると、親の愚かさが見えてきます。一人の人間としての限界がくっきりと分かります。
 そういう時、もちろん、「家族」として歩み寄れることはあるでしょう。
 正月に帰省して共に食事するとか、両親の古い人生観を黙ってうなづくとか、近所のグチを聞いてあげるとか。
 でも、自分の人生を差し出さなければいけないことは、歩み寄る必要がないのです。歩み寄ってはいけないのです。そんなことをしたら、残りの人生がだいなしになるのです。
 A子さん。どうか自分の人生を生きてください。

たいていの人って、学校とかで「おとうさんおかあさんを大切にしましょう」ってなことを教わるとおもうんだけど、あんなの嘘だとおもっといたほうがいい。

あれって、ほとんどの大人が「自分は親を大切にできなかったなあ」とおもっているから子どもに教えているだけなんだよね。
裏を返せば「親を大切にしないのがあたりまえ」ってことだ。

長く生きていればなんとなく「親を大切に」なんてやらなくていいとわかってくるけど、若いうちは真に受けてしまう。
で、自分にとって害になる親でも無理してつきあってしまう。

「親を大切に」という教えは害のほうが大きいんじゃないかとおもう。特に自分が親になっていっそうそうおもうようになった。

ぼくらはしょせん遺伝子の乗り物だ(by リチャード・ドーキンス)。
遺伝子を残す上で、親なんか大切にしても何の役にも立たない。

だからぼくは自分の子どもに言いたい。
親なんか大切にしなくていい! そんな余裕があるなら自分の子どもや孫を大切にしろ!


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2019年10月15日火曜日

【読書感想文】まじめに読むと腹が立つ / 麻耶 雄嵩『あぶない叔父さん』

あぶない叔父さん

麻耶 雄嵩

内容(e-honより)
寺の離れで「なんでも屋」を営む俺の叔父さん。家族には疎まれているが、高校生の俺は、そんな叔父さんが大好きだった。鬱々とした霧に覆われた町で、次々と発生する奇妙な殺人。事件の謎を持ちかけると、優しい叔父さんは、鮮やかな推理で真相を解き明かしてくれる―。精緻な論理と伏線の裏に秘された、あまりにも予想外な「犯人」に驚愕する。ミステリ史上に妖しく光り輝く圧倒的傑作。

はっはーん。そうきたか。

あらすじの「事件の謎を持ちかけると、優しい叔父さんは、鮮やかな推理で真相を解き明かしてくれる」という一文を読んで、はあはあなるほど、よくあるアームチェアディテクティブものかなとおもって読んだのだが……。

一篇目『亡くした御守り』の結末が衝撃的だった。
え? え? え? うそ? そんなのあり? それでいいの?
うそでしょ、まさか、とおもっているうちに物語が終わってしまった。

いやーこれは反則すれすれだね。ギリギリアウトかもしれん。
おもしろいけど。完全にだまされたけど。
九割シリアスで来たのにラストでいきなりコメディに急展開というか。これ以上書くとネタバレになりそうだからこのへんでやめとくけど。

ちなみにこのタイトル、アメリカのミステリ作家メルヴィル・デイヴィスン・ポーストの『アブナー伯父の事件簿』のパロディだそうだ。
っちゅうことで、あんまりまじめに読まずに「トンデモミステリ」として読んだほうがいいかもしれないね。まじめに読むと腹が立つから。



というわけで一篇目はあっと驚く展開だったのだが、同じパターンが続くので正直二篇目以降は先が読めてしまった。
少しずつ趣向を変えているのはわかるのだが、そのへんになると「裏の裏で来るかな」とこっちは身構えているのでもうびっくりしない。

トリック自体もちゃんと考えられているんだけど、なにしろ「一篇目の仕掛け」が強烈すぎたのでトリックに驚きはない。
出オチのような短篇集だった。


ところでこの本の主人公、高校生のくせに彼女とラブホテルに行ったり、別の女といちゃいちゃしたりしていて、許せん!
おまけにいっちょまえに将来の悩みを抱えていたり三角関係で悩んだりしているのだが、これがミステリ部分とあんまりからんでいなくて結局のところ何が書きたかったのかよくわからない。

「あぶない叔父さん」というせっかくの奇抜な設定があるんだから、もっとバカ丸出しな小説が読みたかったな。


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2019年10月10日木曜日

【読書感想文】記憶は記録ではない / 越智 啓太『つくられる偽りの記憶』

つくられる偽りの記憶

あなたの思い出は本物か?

越智 啓太

内容(e-honより)
自分がもっている思い出は間違いのないものと考えるのがふつうだが、近年の認知心理学の研究で、それほど確実なものではないということが明らかになってきている。事件の目撃者の記憶は、ちょっとしたきっかけで書き換えられる。さらに、前世の記憶、エイリアンに誘拐された記憶といった、実際には体験していない出来事を思い出すこともある。このような、にわかには信じられない現象が発生するのはなぜか。私たちの記憶をめぐる不思議を、最新の知見に基づきながら解き明かす。

自我が揺らぐぐらいおもしろい本だった。
この著者(本業は犯罪心理学者らしい)の『美人の正体』もおもしろかったが、こっちもいい本。
自分の専門分野ではないから、かえって素人にもわかりやすく説明できるんだろうね。

「虚偽記憶」という言葉を知っているだろうか。
その名の通り、嘘の記憶。実際に体験していないにもかかわらず実体験として記憶に残っていることがら。

かつてアメリカで、多くの人が次々に自分の親に対して「かつて性的虐待を受けた」として訴訟を起こしはじめた。
訴えられた親たちは戸惑った。なぜならまったく心当たりがなかったから。どうして成人した子どもたちが今になってそんなことを言いだすのか。
しかし多くの人々は自称被害者たちの言うことを信じた。なぜなら、わざわざ嘘をついて実の親を性犯罪の加害者にしようなんてふつうはおもわないから。嘘をつくメリットがない(というよりデメリットのほうが大きい)からほんとだろう、という理屈だ。

訴えた"自称"被害者たちは、ジュディス・ハーマンという精神科医の患者だった。ハーマンから「記憶回復療法」を受け、抑圧されていた記憶を取り戻したと主張していた。
その後、様々な検証がおこなわれた結果、今では彼らの「取り戻した記憶」はほとんど「記憶回復療法」によって植えつけられた偽りのものだったとされている……。

というなんとも後味の悪い話だ(想像だけど、ハーマン自身も悪意があってやっていたわけではなく誤った信念に基づいていただけで善意でやっていたんじゃないかなあ)。

そこまでいかなくても、嘘の記憶が発生することはある。
ぼくにも「今おもうとあれは虚偽記憶だったんだろうな」という記憶がいくつかある。

子どもの頃寝ていたら泥棒が寝室に入ってきてタンスをあさっていたこととか(家族は全員否定している)、

小学三年生ぐらいのときに断崖絶壁から落ちそうになったけど木にしがみついてなんとかよじのぼった記憶とか(たぶんこれは実際に起きたことが自分の中で誇張されてる。山の急坂からすべり落ちそうになったぐらいだとおもう)。

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第3章~第5章の『生まれた瞬間の記憶は本物か?』『前世の記憶は本物か?』『エイリアンに誘拐された記憶は本物か?』は、正直少し退屈だった。なぜならぼくが「どうせそんなものウソに決まってるだろ」とおもっているから。

しかし著者は、「エイリアンに誘拐されたなんて嘘に決まってるだろ」というスタンスはとらず、エイリアンに誘拐されたと証言する人の共通点や時代による変化など、「なぜエイリアンに誘拐されたと信じるにいたったのか」を丁寧に検証している。
また「彼らの証言は疑わしく見えるものの、エイリアンに誘拐された人などいないという証拠が挙げられない以上、否定することはできない」とあくまで科学的謙虚さをくずさない。
このスタンスが立派だ。なかなかできることではない。
「どうせそんなものウソに決まってるだろ」とハナから決めつけていた自分を反省した。


『ムー』的なものが好きでない人には第3章~第5章は退屈かもしれないが、その他の章はきっとおもしろいはず。
記憶に対する考え方が変わる。



SFだと記憶を植えつける装置なんてものが登場するが、じっさいにはそんなものを使わなくてももっとたやすく人の記憶は改竄できるそうだ。

こんな実験が紹介されている(ここに出てくロフタスという人は、ジュディス・ハーマンの虚偽記憶に対して反証した人だ)。
 たとえば、ロフタスは次のような実験を行っています。
 まず、目撃者役の実験参加者には、車が事故を起こす動画を見せます。その後、この事故について、目撃者からいろいろな情報を聞き取っていくわけですが、その中にその車のスピードを尋ねる質問があります。「その車がぶつかったときにどのくらいのスピードが出ていましたか?」という質問です。ただ、彼女はそのときの質問をいくつかのバリエーションで聞いることにしました。具体的には、「ぶつかった」の部分をニュアンスの異なったさまざまな語に変えて聞いてみたのです。
 興味深いことに、ここで使用される単語によって、実験参加者の回答は大きく変わってくることがわかったのです。たとえば、「その車が接触した(contacted)とき」と質問した場合には、実験参加者は自動車のスピードを時速三一・八マイル(時速五一・二キロメートル)と推定しましたが、「その車が激突した(smashed)とき」と質問すると、推定された測度は、時速四○・三マイル(時速六五・六キロメートル)になっていました。彼らが実際に見たのは同じ映像ですから、質問の仕方がその記憶の内容に影響してしまったのだということがわかります。
(中略)
 ロフタスは、この現象を示すために次のような実験を行いました。この実験で使われた動画では、じつは車が激突したとき、そのフロントガラスは割れていませんでした。ところが、スピードについて推定させたあとで、「車のフロントガラスは割れていましたか」と聞くと、「ぶつかった(hit)とき」と聞いた群の実験参加者は八六%が「割れていなかった」と正しく答えたのに対し(車のスピードについて質問しなかった群では、八八%)、「激突(smashed)」で質問した群の実験参加者は、「割れていなかった」と答えた人は、六八%に大きく減り、三二%が実際には割れていなかったフロントガラスを「割れた」と答えてしまったのです。

質問するときに使う単語のニュアンスだけで、同じ映像を見てもこれだけ記憶が変わるのだ。
まして、質問をする側に「事故加害者の罪を重くしてやろう」という意図があったりしたら、さらに記憶は大きくゆがめられることだろう。


じっさいには体験していない人に「子どもの頃に迷子になっておじいさんが助けてくれたことをおぼえていますか?」とくりかえし質問をするという実験の結果が紹介されている。
はじめは「おぼえていない」と語っていた被験者は(体験していないんだからおぼえていないのがあたりまえだ)、「たしかに経験しているはず」と何度も言われるうちにありもしない記憶を「おもいだした」そうだ。
 家族としばらく一緒にいたあとに、おもちゃ屋に行って迷子になったと思う。それであわててみんなを探し回ったんだけど、もう家族には会えないかもって思った。本当に困ったことになったなあと思ったんだ。とっても怖かった。そうしたら、おじいさんが近づいてきたんだ。青いフランネルのシャツを着ていたと思う。すごい年寄りというわけではないけど頭のてっぺんは少し禿げていて灰色の毛がまるくなっていて、めがねをかけていた。
また、ニーアンが、その記憶がどのくらいはっきり思い出せるかを一~一一までの段階で判断するようにクリスに求めたところ、「八」と答えました。
(中略)
いろいろな手がかりを頭の中で探すと、おそらく関連がありそうないろいろな記憶の断片が思い出されてきます。ユーアンの実験でいえば、ショッピングモールに行った記憶や、どこか(たぶんショッピングモール以外の場所)で迷子になった記憶、お母さんが見当たらなくて不安になった記憶や、見知らぬ男性と話した記憶などです。しかし、それらの記憶自体は、あくまで断片であり、いつどこでの体験なのかはあまりはっきりしないかもしれません。第1章でも述べたように、記憶の内容自体と、それがいつ、どこでの記憶(ソースメモリー)なのかを判断するのは、異なったメカニズムであるからです。
 しかし、本人はこのようにして想起された記憶の断片をそのとき」の記憶が蘇ってきたと考えてしまうのです(ソースモニタリングエラーです)。すると、ヒントとして呈示されたストーリーに従ってそれらの記憶がパッチワークのように貼り合わされていき、次第に現実感のある記憶が完成されていきます。さらに、頭の中でこれらのイメージを反芻するに従って、記憶はより鮮明で一貫した構造を獲得していきます。そして最終的には、リアルな偽の体験の記憶が形成されてしまうわけです。つまり、体験しなかった出来事でも一生懸命考えることによって、フォールスメモリーが完成してしまうのです。

会話をくりかえすだけであっさりと偽の記憶がつくられてしまうのだ。
しかも一度形成されてしまった偽の記憶は強固なものになり、「あれは実験のためにやったことでほんとはあなたはそんな体験していないんですよ」と説明しても「いやたしかに体験したことだ」と納得しなくなるそうだ。

ぞっとする話だ。

ぼくには六歳の娘がいるが、子ども同士の喧嘩を見ているとつい数分前の記憶があっさり書き換えられることがよくあることに気づく。

たとえばAちゃんがBちゃんを叩き、それをきっかけに喧嘩になる。
だがAちゃんは「Bちゃんが先に叩いてきた!」と主張する。涙ながらに一生懸命訴える。
「一部始終を見てたけど先に手を出したのはAちゃんだったよ」と伝えても、一歩も引かない。
このとき、たぶんAちゃんには嘘をついているという自覚はない。「Bちゃんが先に叩いてきた!」と言っているうちに、自分の中で偽の記憶が形成されてしまい、それを本気で信じているのだ。

よくある虚言癖の子どもというのも、たいていこういう経緯をたどって嘘をついているんんじゃないだろうか。
「嘘ばかりつく子」というより「想像や発言によって記憶がすぐに書き換えられてしまう子」なんだとおもう。


こうなると、私の記憶は本物か? という問いが当然生じる。
ぼくらはふつう、自分の記憶は正しいとおもっている。「私の記憶が真実であることは、少なくとも私自身は知っている」と思いこんでいる。起きたことを忘れることはあっても、起きていないことをおぼえていることはありえないとおもっている。
でもそれは誤りかもしれない。

って考えると自我が揺らいでくる。
自分の記憶がほんとかうそかわからないなら、何を信じて生きていけばいいんだろう……と。



しかし記憶が不確かであること、容易に改変されることは必ずしもマイナスであるとはいえないと著者は見解を述べている。
  これらの現象は病理的な現象のように思われますが、もっと広い観点から見てみると、このような記憶の改変は、じつは私たちの記憶システムがもっている正常なメカニズムのひとつではないかとも考えることができます。上記のような一見異常な記憶の想起でも、想起によって自らのアイデンティティを確認したり、自らの精神的な不調の原因を納得させようとする動機が含まれていましたし、いまの自分が昔の自分よりも優れていると思うために過去の自分の記憶を悪い方向に改変したり、また、高齢者になると自分の人生をよきものとして受け入れるために逆に過去の記憶を美化して書き換える傾向は、もっと頻繁に起こっていることがわかりました。記憶は過去の出来事をそのままの形で大切にとっておく貯蔵庫であるという考え方自体かそもそも間違っているかもしれないのです。
なるほどねー。

そういえば、地下鉄サリン事件で有名になった毒物のサリンには「記憶を強化する」という効果があると聞いたことがある。
記憶力が良くなるんならいいじゃないかとおもってしまうが、嫌な思い出(地下鉄でサリン事件に遭ったこととか)も薄れずに残ってしまうためPTSDなどに悩まされやすくなるのだとか。
すぐに忘れてしまうのも問題だが、忘れられないのもよくないのだ。

記憶があいまいなおかげで「自分は昔より成長している」とおもえたり、「私の人生は悪いものではなかった」とおもえるのなら、それはそれでいいことだ。

だから、重要なのは「記憶とは記録だ」という認識がまちがいだと気づくことだね。
記憶はすぐに改変される、だから自分の記憶も信用ならない、という認識を持っておくのが「記憶との正しい付き合い方」なのかもしれないね。


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2019年10月7日月曜日

【読書感想文】チンパンジーより賢くなる方法 / フィリップ・E・テトロック&ダン・ガードナー『超予測力』

超予測力

不確実な時代の先を読む10カ条

フィリップ・E・テトロック (著) ダン・ガードナー (著)
土方 奈美 (訳)

内容(e-honより)
「専門家の予測精度はチンパンジーのダーツ投げ並みのお粗末さ」という調査結果で注目を浴びた本書の著者テトロックは、一方で実際に卓越した成績をおさめる「超予測者」が存在することも知り、その力の源泉を探るプロジェクトを開始した。その結果見えてきた鉄壁の10カ条とは…政治からビジネスまであらゆる局面で鍵を握る予測スキルの実態と、高い未来予測力の秘密を、米国防総省の情報機関も注目するリサーチプログラムの主催者自らが、行動経済学などを援用して説く。“ウォール・ストリート・ジャーナル”“エコノミスト”“ハーバードビジネスレビュー”がこぞって絶賛し、「人間の意思決定に関する、『ファスト&スロー』以来最良の解説書」とも評される全米ベストセラー。

おもしろかった!
仕事、投資、政治、軍事、趣味その他いろんなことに使えそうな知見がぎっしり。

この本のテーマは「予測」だ。
著者は多くのボランティアを集め、大規模な予測実験をした。
「北朝鮮は三年以内に韓国に軍事攻撃をしかけるか?」といった近未来に関する問いをいくつも用意し、回答者たちは「その可能性は30%」などと予測する(途中で変更してもよい)。

「Yes/No」で答えられる質問ばかりなので、チンパンジーがやっても50%は正解する。
大半の予測者の成績はサルと大差なかった。
だが、その中に明らかに高い正解率を出した人たちがいた。研究機関の専門家よりも正解率が高かったのだ。
著者は彼らを「超予測者」と呼び、重ねて実験をした。すると超予測者の多くは続いてのテストでも高い成績を出した。

超予測者とはどういう人たちなのか?
彼らにはどんなやりかたで高いスコアをたたきだしているのだろうか?
そして我々が彼らのような高い予測力を身につけることは可能なのだろうか?

……という本。
わくわくする内容だった。



「超予測者」というと百発百中で未来の出来事を言い当てる超能力者みたいな人を予想するかもしれないが、もちろんそんなことはない。
彼らもまちがえる。ふつうの人が50%まちがえる問題を、彼らは30%とか40%とかまちがえる。

なーんだそんなもんかとおもうかもしれないが、このちがいが大きい。
ルーレットで赤と黒が出るかを60%の確率で的中させることができれば確実に大金持ちになる。

超予測者自身も、重要なのはわずかな違いであることをを知っている。
100%は不可能。50%を60%にする、60%を61%にする。そのために学び続けられる人が超予測者になる資格を持っている。

つまり、予測の精度を上げるためには「自分はまちがっているのでは?」という反省を常にしつづけることが重要だということだ。

「おれは正しい! まちがってるはずがない!」って人はまちがえる。「私は誤っているかもしれない」という人が正解に近づける。皮肉にも。
 ビル・フラックも予測を立てるとき、デビッド・ログと同じようにチームメートに自分の考えを説明し、批判してほしいと頼む。仲間に間違いを指摘してもらったり、自分たちの視点を提供してもらいたいからだが、同時に予測を文字にすることで少し心理的距離を置き、一歩引いた視点から見直せるからでもある。「自分自身によるフィードバックとでも言おうか。『自分はこれに賛成するのか』『論理に穴はないか』『別の追加情報を探すべきか』『これが他人の意見だったら説得されるか』といった具合に」
 これは非常に賢明なやり方だ。研究では、被験者に「最初の予測が誤っていたと思ってほしい、その理由を真剣に考えてほしい、それからもう一度予測を立ててほしい」と要求するだけで、一度めの予測を踏まえた二度めの予測は他の人の意見を参考にしたときと同じくらい改善することがわかっている。一度めの予測を立てたあと、数週間経ってからもう一度予測を立ててもらうだけでも同じ効果がある。この方法は「群衆の英知」を参考にしていることから「内なる英知」と呼ばれる。大富豪の投資家ジョージ・ソロスはまさにその実例だ。自分が成功した大きな理由は、自らの判断と距離を置いて再検討し、別の見方を考える習慣があるためだと語っている。

知的謙虚さのほかに、超予測力のためには思考の柔軟さも必要であるとしている。

 ではなぜ二つめのグループは一つめのグループより良い結果を出せたのか。博士号を持っていたとか、機密情報を利用できたといったことではない。「何を考えたか」、つまりリベラルか保守派か、楽観主義者か悲観主義者かといったことも関係ない。決定的な要因は彼らが「どう考えたか」だ。
 一つめのグループは自らの「思想信条」を中心にモノを考える傾向があった。ただ、どのような思想信条が正しいか、正しくないかについて、彼らのあいだに意見の一致はなかった。環境悲観論者(「ありとあらゆる資源が枯渇しつつある」)もいれば、資源はふんだんにあると主張する者(「ありとあらゆるものにはコストの低い代替品が見つかるはずだ」)もいた。社会主義者(国家による経済統制を支持する者)もいれば、自由市場原理主義者(規制は最小限にとどめるべきだと主張する者)もいた。思想的にはバラバラであったが、モノの考え方が思想本位であるという点において彼らは一致していた。
 複雑な問題をお気に入りの因果関係の雛型に押し込もうとし、それにそぐわないものは関係のない雑音として切り捨てた。煮え切らない回答を毛嫌いし、その分析結果は旗幟鮮明(すぎるほど)で、「そのうえ」「しかも」といった言葉を連発して、自らの主張が正しく他の主張が誤っている理由を並べ立てた。その結果、彼らは極端に自信にあふれ、さまざまな事象について「起こり得ない」「確実」などと言い切る傾向が高かった。自らの結論を固く信じ、予測が明らかに誤っていることがわかっても、なかなか考えを変えようとしなかった。「まあ、もう少し待てよ」というのがそんなときの決まり文句だった。

なんていうか、世間で大きな声で何かを叫んでいるのって柔軟とは真逆な人たちだよね。

政治家や評論家やアナリストとかが「これからこうなる!」って叫んでるけど、この人たちのありかたは「謙虚」「柔軟」とは正反対に見える。
自分の正しさを疑うことなく、思想信条に基づいて、新たな情報の価値を低く見る。

当然彼らの予測はあまり当たらない。チンパンジー並みの成績しか出せない(逆にいうとどんなバカの予想でもチンパンジー程度には当たってしまう)。
予測が外れてもろくに検証されずに「私は元々こうなるとおもっていた」という後出しじゃんけんの一言で済ませてしまう。
あるいは「こんな悪いことになったのは私の言うとおりにしなかったからだ!」「おもっていた以上に良い結果になったのは私ががんばったからだ!」と己の手柄に持っていくか。

これは、チンパンジー並みの正答率しか出せない政治家や評論家が悪いというよりも、そういう人の発言に耳を傾けてしまう我々が悪いよね。
だってみんなはっきりものをいう人が好きなんだもん。
「Aの可能性もあるしBが起こる可能性も捨てがたい。もちろんCが起こる可能性もゼロではないので備えを欠いてはいけない……」
という人より
「A! A! A! ぜったいA! それ以外はありえん!」
って人の発言のほうをおもしろがってしまう。

だけどおもしろいからってチンパンジー並みの政治家を持てはやしちゃだめだ。それだったらまだタコにワールドカップの勝敗予想をさせるほうがマシだ(古い話だな)。



予測精度を上げるためには、検証が欠かせない。
 コクランが例に挙げたのは、サッチャー政権が実施した若年犯罪者に対する「短期の激しいショック療法」、すなわち短期間、厳格なルールの支配するスパルタ的な刑務所に収容するという手法である。それは効果的だったのか。政府がこの政策を一気に司法制度全体に広げたため、この問いに答えるのは不可能になってしまった。この政策が実施されて犯罪率が下がったら、それは政策が有効だったためかもしれないが、他にも考えられる理由は何百通りもある。反対に犯罪率が上昇した場合、それは政策が無益あるいはむしろ有害だったためかもしれないし、逆にこの政策が実施されなければ犯罪率はさらに高くなっていたかもしれない。当然政治家はどちらの立場もとる。与党は政策は有効だったと言い、野党は失敗だったと言うだろう。だが本当のところは誰にもわからない。政治家も暗闇で虹の色を議論しているようなものだ。
「政府がこの政策について無作為化比較試験を実施していれば、今頃はその真価がわかり、われわれの理解も深まっていたはずだ」とコクランは指摘する。だが政府はそうしなかった。政策は期待どおりの成果を発揮すると思い込んでいたのだ。医学界の暗黒時代が何千年も続く原因となった無知と過信の弊害がここにも見られる。
これはイギリスの話だが、日本の政治もほとんどが検証されていないようにおもう。

本来なら、政策導入前に「これを実施することによって〇〇の効果が見込めます。□□年までに××、□□年までに××の効果が得られなければ効果はなかったものとして中止します」といった検証プロセスを設定するべきだ。
(ちなみにぼくはWebマーケティングの仕事をしているが、Webマーケティングの世界ではこれはやってあたりまえのことで、やっているからといって誇るようなことではない)

残念ながらぼくは寡聞にして、政治の世界においてこのようなプロセスが公表されているのを聞いたことがない(仮にやっていたとしても公表しなければ意味がない。なんとでもごまかせてしまうのだから)。

もちろん政治においては数値で検証不可能なことも多い。人々の幸福度を上げるのが目的であればどうやったって恣意的になるし、結果が出るまでに十年以上かかるような政策もざらだ。
でも、仮目標として指標を定めるなり、スモールゴールを設定するなり、やろうとおもえばできることはいくらでもある。
それをしないのは、「失敗を認めたくない人間」ばかりが政策立案をしているせいなのだろう。

さっきの例でいうと「A! A! A! ぜったいA! それ以外はありえん!」っていうタイプ。言い換えると、チンパンジータイプ。


これはもう根本的に制度が誤っているんだろうね。
まちがえた人間を失脚させて、まちがえなかった人間を引き上げる制度にしていると、まちがいが減るかというとそんなことはない。
「まちがいを認めない人間」「まちがいをごまかす人間」ばかりになってしまう。そして予測精度は0.1%も改善しない。

改めるには、「まちがいを発見した人間(己のまちがいも含む)」に褒章を与えるような制度にしないといけないんだけどなあ。



この他にも、かつてドイツ軍が強かったのは「予測がはずれる前提で作戦を立てていた」からだとか、おもしろいエピソードがたくさん。

重要な意思決定に携わる人間は全員読むべき本だね。チンパンジーのままでいいならべつだけど。


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【読書感想文】人の言葉を信じるな、行動を信じろ/セス・スティーヴンズ=ダヴィドウィッツ『誰もが嘘をついている』



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2019年10月4日金曜日

【読書感想文】設定の奇抜さ重視なのかな / 田丸 雅智『ショートショート 千夜一夜』

ショートショート 千夜一夜

田丸 雅智

内容(e-honより)
多魔坂神社のお祭りの夜、集うのは妖しの屋台と奇妙な人々…。欲しいと念じたものが出てくるヒモくじ屋。現れたゴロツキどもが引いたヒモの先には(「ヒモくじ屋」)、夜店ですくった人魚がみるみるうちに成長して(「人魚すくい」)、モデルにスカウトされたエリカが突然行方不明に(「ラムネーゼ」)、降り注ぐ優しい雨を、自分のものにする方法(「雨ドーム」)他、珠玉のショートショート全20編。いちどページを開いたら止まらない!わずか5分間の物語が、あなたを魅惑と幻想の世界へと誘います。巻末には、しりあがり寿さん描き下ろし「あとがきの夜」も特別収録。

神社のお祭りの夜をテーマにしたショートショート集。
全篇が「多魔坂神社のお祭り」に関係するという設定はおもしろい。神社のお祭りってあちこちでふしぎなことが起こってそうな気がするもんなあ。

ショートショートというと、どうしても星新一と比べてしまう。
死後二十年たってるのにまだ星新一とか言ってるのかよとかおもうかもしれないけど、ぼくにとっては神様みたいな人で物語の楽しみを教えてくれた人だから、どうしたって「星新一と比べてどうか」という目で読んでしまう。

ショートショートとは何かという質問に対しては、ぼくは短さ以上に「切れ味の鋭いオチ」が重要だと答える。
以下に意外性を見せるか、読者をだますか、余韻を残すかがショートショートに欠かせないものだと。

その基準でいくと、この『ショートショート 千夜一夜』はものたりなかった。
奇抜な設定はおもしろくて、起承転結の起承までは申し分ないのに、最後の最後で期待を下まわってくる。ハードルを上げて上げて、最後にハードルの下をくぐってくるというか。えっ、なにそのおもってたよりしょぼいオチ。悪い意味でだまされた気分。

まあショートショートに求めるものがちがうんだろうね。
この作者は、たぶん設定の奇抜さを重視しているんだろう。
大喜利のお題にいかに切れ味よく回答するかより、いかに独創的ないいお題を出すかに力を入れているというか。


しかしそんな中で『ストライプ』は設定もオチも秀逸だった。
ストライプのシャツの中から男の声がする、まるでストライプ模様が檻のようになって出られないようだ……という導入から、丁寧な話運びに「シャツ」「檻」を活かした鮮やかなオチ。
そうそう、ぼくがショートショートに求めるのはこれなんだよね!


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2019年10月3日木曜日

【読書感想文】計画殺人に向かない都市は? / 上野 正彦『死体は知っている』

死体は知っている

上野 正彦

内容(e-honより)
ゲーテの臨終の言葉を法医学的に検証し、死因追究のためとはいえ葬式を途中で止め、乾いた田んぼでの溺死事件に頭を悩ませ、バラバラ殺人やめった刺し殺人の加害者心理に迫る…。監察医経験三十年、検死した変死体が二万という著者が、声なき死者の声を聞き取り、その人権を護り続けた貴重な記録。

元監察医によるエッセイ集。あと小説もちょっと(たぶん実話をそのまま書くのはプライバシー的にまずいので事実に若干手をくわえて小説にしたんだろう)。

監察医とは、変死があったときに解剖をして不審な点がないかを調べる医師のことだそうだ。
「変死」と聞くとついつい「奇妙な恰好をした死体が姿を現した」という横溝正史世界的な死に方を想像してしまうが、医師が病死であると明確に判断したもの以外の死は法律的にはすべて「変死」という扱いになるそうだ。
だから交通事故死も自殺も変死になるし、自宅で心臓発作を起こして死んだなんて場合も変死扱いになるそうだ。
日本で死ぬ人の10~20%ぐらいは「変死」だそうで、だからそんなにめずらしいものではない。

「朝起こしに行ったら死んでいた」とか「風呂場で心臓発作を起こしたらしく死んでいた」なんてのはよく聞く話だ。
もちろんその大多数は病死なんだけど、ごくまれに「家族が殺して病死に見せかけた」というケースもあるそうだ。

で、解剖をしてそれを暴くのが監察医の仕事。
検死のプロである監察医が「病死にしては不自然な点がある」と判断すれば、そこから警察が捜査を開始するわけだ。

そういやこの前、テレビで「死体農場」というものを見た。
アメリカにある実験施設で、死体を様々な環境に放置して、死後どんな変化が起こるのかを観察するための施設だそうだ。
温度や湿度などを変えて死体の腐敗進行度合いを見ることで、犯罪事件の捜査に役立てるのだという。


日本ではそこまでのことはできないだろうが、監察医は死体に関する知識を多く持っているから、殺人事件の捜査には大いに貢献してくれる。
 臨死体著者の話を聞いたことがあるが、その人の場合は、かなり以前に死んだおじいさんが現われて、遠くの方からこっちへ来いと手招いていたが、行かなかった。もしもその通りにしていたら、自分は死んでしまったのかもしれないといっていた。
 私には臨死体験はないが、そのような現象があるならば、死に近づいたために心不全や血圧の低下の状態が起き、脳の血液循環不全のために幻想が出現したのではないかなどと、私は考えてしまう。その意味では、ゲーテが死ぬ前に残した有名な言葉「もっと光を!」は納得のいく言葉だと思っている。
 いまわの際の一言が、こうして現代までいい伝えられているのは、ゲーテという偉大な詩人の言葉であったからであろうし、とらえる側も言葉の中にゲーテを意識し、すばらしくふくらんだイメージを抱いて味わっているためでもあろう。
 だが、解剖生理学的に考察してみると、死が近づくと少なからず心不全、呼吸不全、脳機能不全などが生じ、神経系統の反応は鈍くなり、思考力も視力も衰える。体温も低下し、筋肉の緊張もゆるんでくる。
 バレーボールのような球形をしている眼球も、神経が麻痺すると緊張がゆるみ、たとえばラグビーのボールのような形に歪みが生じてくるのではないだろうか。そうなると正常時の焦点はズレて正しい像を網膜に結ばなくなる。
 脳機能の低下と焦点のズレなどから、明るさを感ずる力も弱くなるため、死期が近づくと、目の前が暗くなり、ものが見えにくくなる。

ふつうの医師は生きている人たちの病気を診るのが仕事だけど、監察医は死体を調べるのが仕事。同じ医師の資格を持っていても、相手はまったくちがう。

犯罪を見逃さないためには欠かせないポジションだね。

……とおもったら、この監察医制度があるのは全国で五都市だけ(東京23区・大阪市・名古屋市・横浜市・神戸市)だそうだ。
じゃあその他の地域はどうしているのかというと、監察医ではなく、そのへんのお医者さんが呼ばれて調べるのだそうだ。近所の内科クリニックのお医者さんが検死をしたりするのだとか。

専門医が見れば「死後この時間でこうなっているのはおかしい」とか「自殺でこんな痕がつくはずがない」とか気づくようなことでも、一般の医師なら見逃してしまうこともよくあるだろう。

たぶん、「自殺や事故に見せかけた殺人」が見過ごされることもよくあるんだろうな。

ということで、もしも計画殺人をするなら監察医制度のある五都市以外でやるのがオススメだぜ!


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2019年9月30日月曜日

【読書感想文】我々は万物の霊長にしがみつく / 吉川 浩満『人間の解剖はサルの解剖のための鍵である』

人間の解剖はサルの解剖のための鍵である

吉川 浩満

内容(e-honより)
人工知能、ゲノム編集、ナッジ、認知バイアス、人新世、利己的遺伝子…従来の人間観がくつがえされるポストヒューマン状況の調査報告。

タイトルだけで「これはおもしろそう!」とおもって買ってしまったので解剖学の本だとおもっていたのだが、ぜんぜんちがった。
人工知能、倫理学、行動経済学といった今流行りのキーワードを軸に「人間とは何か」「今後人間はどうなっていくのか」「あるいは人間は万物の霊長ではなくなるのか」などについて書いている本だった。

後半にいたってはいろんな雑誌に書いた文章や本の解説などが並んでいて、「雑多なテーマの文章を寄せ集めてなんとか一冊な本にしました」という感じがすごい。
ファンなら楽しく読めるのかもしれないけど……。
この内容なら、こんなおもしろそうなタイトルをつけずに「吉川浩満エッセイ集」みたいなタイトルにしてほしかったな。だまされた気分。



「人間の解剖はサルの解剖のための鍵である」という言葉は著者がつくったものではなく、カール・マルクスの言葉から来ているそうだ。
「カール・マルクスが『資本論』の草稿に書きつけた言葉に、「人間の解剖は、猿の解剖のための一つの鍵である」というものがあります。これはちょっと逆説的に響きます。普通に考えたら人間のほうが「高級」なんだから、逆ならまだしも、なんでわざわざ低級なものを理解する必要があるのかと思うかもしれません。この言葉はマルクスの歴史観を見事に表していて、深い含番があります。たとえば、猿のグルーミング(毛づくろい)には、順位制の維持や紛争の調停といった社会的コミュニケーションの機能があるといわれています。それを私たちが理解できるのは、私たちがすでにコミュニケーションにかんする高度な理論と実践を身につけているからです。マルクスはこう続けます。「より低級な動物種類にあるより高級なものへの予兆は、このより高級なもの自体がすでに知られているばあいにだけ、理解することができる」と。それと同じで、二〇世紀後半以降の学問上の認知革命を経たいまだからこそ、私たちは七万年前に起きた歴史上の認知革命の重大性をよりよく理解できるようになった。
なるほどね。われわれは動物の行動を見て「あれは求愛行動だ」とか「敵を威嚇している」とか理解することができるけど、それは人間の行動様式の中に求愛や威嚇があるからだ。
たとえばカマキリのメスは交尾の後にオスの頭を食べちゃうことがあるけど、人間はふつうそんなことしないので、カマキリの行動を観察して「ひょっとしたらこんな気持ちかも」と想像することはできても真に理解することはできない。

ぼくらは下等な生物を研究することで人間のような高等な生物を理解できるとおもっているけど、実は逆なのだ(そもそもその下等とか高等って考え自体が進化論的にまったく正しくないのだけれど)。



ポスト・ヒューマン、つまり我々の次に出現する知的生命体についてのくだりはおもしろかった。
 では、私はなにを望みたいのか。夢のような話ではありますが、まずはわれわれサピエンス自身が他者や他種にたいして節度と寛容さをもって接することができる存在になれないものかと思います。本書でも再三注意がうながされているように、実際に食物連鎖の頂点に君臨しているのですから、ノブレス・オブリージュ的な責任と義務は避けられないのではないでしょうか。つまり、幸福になるだけでなく、幸福になるに値する存在になることをも追求する。少なくとも後者について生物種としてのサピエンスの成績はこれまでのところ不合格ですよね。あるいは、そうでなければいっそのこと人間のちっぽけなプライドや偏見とは隔絶した存在に登場してほしいですね。そういうプライドや偏見は人間がもつ面白味ではありますが、それを他種や新種にまで無理強いする必要はないでしょう。すでに存在する掃除機やドローンなども人間のプライドや偏見から自由な存在でしょうが、しかし彼らには汎用的な能力が決定的に足りません。もし、ニーチェの超人のように高貴で自律的で、あわよくばノブレス・オブリージュを期待できるような存在が出現するならば、私たち旧世代の人間が結果として置いてけぼりを食らわされたり、場合によっては追い払われるようなことになったとしても、これまで人間がなしてきた悪行を思えば、それはもう、もって瞑すべしではないかと思います。ただ、そうした存在がどのような望みをもつことになるのか、あるいはそもそもなにかを望むなんてことがあるのかどうか、そのとき欲望の問題はどうなるのか等々、新たな疑問もわいてくるのですが。

もしも人間よりももっと高度な知性を持ったモノが生まれたら(モノと書いたのはそれが生物ではない可能性も十分高いからだ)。

著者は
「私たち旧世代の人間が結果として置いてけぼりを食らわされたり、場合によっては追い払われるようなことになったとしても、これまで人間がなしてきた悪行を思えば、それはもう、もって瞑すべしではないかと思います」
とクールに書いているけど、こうおもえる人は少数派だろうね。

多くの旧世代の人間(つまり我々)は、意地汚く万物の霊長の座にしがみつこうとするだろう。今も「AIに仕事をとってかわられる!」と見苦しくあがいているし。

こうした世代交代はずっとくりひろげられてきた。
古くはホモ・サピエンスが旧人類にとってかわった。
最近でいうと石炭エネルギーが石油に代わったり電卓がコンピュータにとってかわられたりして、そのたびに仕事を奪われる人がいた。権利を守るための反対運動もあったが、結局は無駄だった。
世代交代が終わってみれば「便利なもの、よりよいものに代わるのは避けられないのに、旧いものにしがみついてかわいそうな人」としかおもえないが、いざ自分が「とってかわられる側」になるとなかなか「じゃあ私は退場して新しい人にさっさと道を譲りますわ」とは言えないものだ。

ネタバレになるが、貴志祐介『新世界より』は現人類が滅びた後の世界を描いた小説だ。
その世界では旧人類(つまり今の我々)は新人類に虐げられながら、それでも虎視眈々と反撃のチャンスを窺っている。

じっさいの人間はこっちのほうが近いだろう、とおもう。
「これまで人間がなしてきた悪行を思えば、それはもう、もって瞑すべしではないか」なんて言えずに、「やだやだやだ! 人間が万物の霊長じゃない世界なんてぜったいやだ!!」とじたばたするんだろうな、と。


考えてみればどうせ自分はあと数十年以内に死ぬのだからその先の人類が虐げられようと滅びようと関係ないんだけど、でもやっぱり子孫繁栄してほしい、という心情は捨てられないんだよなあ。
しょせん人間なんて遺伝子の乗り物(by リチャード・ドーキンス)なんで。

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貴志 祐介 『新世界より』



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