ずる
噓とごまかしの行動経済学
ダン・アリエリー(著) 櫻井祐子(訳)
世の中の人はみんなずるをする。ぼくもあなたも。
人間はずるをする生き物だ。そういうふうにできているのだからしかたがない。
「いついかなるときもずるをしてはいけません」と道理を説いても意味がない。それは「永遠に寝てはいけません」と同じで、どだい無理な話なのだから。
だったら、ずるを防ぐためには「人がどういうときにずるをしやすいのか」「逆にずるをしにくくなるのはどんなときか」を検証し、ずるをしたくなくなる仕組みをつくる必要がある。
たいていの人は、ずるを防ぐためには「罰を重くすればいい」と考える。
ずるによって得られる便益よりも、発覚する可能性、発覚したときの損失が大きくなればずるをしなくなるだろうと。
けれど話はそう単純ではない。
ぼくらは利害の大きさを計算した上でずるをしているわけではないのだ。
缶コーラと現金なら、現金のほうがいい(死にそうなぐらいのどが渇いている場合をのぞく)。
コーラは飲むしかできないが、現金ならなんにでも使える。コーラだって買える。
おまけにコーラを盗むほうが現金を盗むよりもばれやすい。コーラは現金とちがってポケットに隠せない。「たまたま同じメーカーのコーラを持っている確率」は「たまたま同じ造幣局でつくられた現金を持っている確率」よりも低いから、言い逃れもしにくい。
盗むことによって得られる利益、盗んだことがばれる確率、どちらをとっても現金を盗むほうがいい。
だけど現金よりもコーラを盗むほうが抵抗が小さい。
それは、我々がずるをするかどうかを損益ではなく「盗んでも自分の心が痛まないか」に従って決めているからだ。
上に引用した文の最初に出てくる「鉛筆のジョーク」というのは、
友だちの鉛筆を盗んだ息子に対して父親が「どうして他人の鉛筆を盗むんだ! 鉛筆がほしければお父さんに言えば、いくらでも会社から持ってきてあげるのに!」と叱る、
というものだ。
これはジョークだが、この父親の感覚はきわめて一般的なものだ。
多くの人は、友人が財布を置きっぱなしにしていたからといってそこから千円を抜きとったりはしないが、会社の経費申請を少しごまかして千円多く請求することにはあまり良心が痛まない。
それは、後者は「会社は儲かっているから」「サービス残業をしていることもあるからこれでチャラだ」「みんな多かれ少なかれやっていることだから」と言い訳がしやすいからだ。
ぼくらはずるをしたい。
だけど「自分は正しい人間だ」と思いたい。
この、本来なら決して両立するはずのない二つの願いを叶えるため、「ずるをしてもいい言い訳を用意する」わけだ。
だから、ずるを防ぐには言い訳をしづらい状況を作ってやればいい。
この本には、様々な検証実験によって得られた「ずるをしたくなる条件」が紹介されている。
様々な決断を強いられた後、欲求をはねつけた後など、疲れているときは不正に走りやすいとか。
他人の不正を目撃したときは自分も不正に走りやすいとか(特に同じコミュニティの人間の不正だと効果が大きい)。
小さな不正をした後は大きな不正をするのに抵抗を感じにくくなるとか。
政治家が不正をはたらいても「お金返すからいいでしょ」「かぎりなく黒に近いグレーだけど証拠がないからセーフでしょ」「はいはい、発言を撤回すればいいんでしょ」とやっているが、あれは知らず知らずのうちに国民に大きな影響を与えてるんじゃないかとぼくは心配している。
ああやって居直る政治家が増えるにともなって、一般市民の間にも不正が増えるんじゃないかなあ。
なかなか統計的に調べられないことだけど。
とりわけおもしろかったのは、
人は、自分が利益を得るときよりも他人が利益を得るときのほうが不正をしやすい
という実験結果だった。
私利私欲のために不正をはたらくのは良心のブレーキがかかりやすいが、「チームのため」「会社のため」「政党のため」とおもうと、言い訳がしやすくなる分不正に走りやすくなるのだそうだ。
これを知って、いろんなことが腑に落ちた。
以前、歩道橋の上で道いっぱいに広がって「盲導犬のために寄付をおねがいしまーす!」と呼びかけている人たちがいた。
すごく邪魔だったんだけど、本人たちは「私たちは今他人のためにいいことをしている!」という幸福感に酔っているから、ぜんぜん悪びれてないのね。
「地域のため、国のために自分がやらねば!」という崇高な理念がある(と本人はおもっている)から、騒音をまきちらして人に迷惑をかけても平気でいられるんだろう。
まともな感覚を持っている人だったら、あれだけ多数の人から「うるせえ消えろ」って思われたら死にたくなるもんね。
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