『世界中が夕焼け』
穂村 弘 山田 航
短歌のことはよくわからない。
ぼくが読んだことのある歌集といえば、穂村弘さん以外には俵万智さんや笹公人さん、あとは伊勢物語を読んだぐらい……。って考えたらけっこう読んでるほうだな。現代人にしたら。
でもやっぱりよくわからない。
歌集を読んでも、三分の一ぐらいは「何が言いたいのだろう」と首をかしげる。
残りの三分の二だってはっきりわかるわけじゃなくて「たぶんこういうことを伝えたいんじゃないかなあ……」と思うぐらいだ。
みんなそういうものなんだろうか。
短歌って、わかる人にはちゃんと伝わるものなんだろうか。知識のある読み手が触れれば
「なるほど、こういう着想をこう膨らませて、さらにはこんな技巧を凝らして、××における苦悩と××を抱えながら生きる我々の××を××を通して××しているのだ!」
みたいにズバっと読みとけるものなんだろうか。
で、『世界中が夕焼け』である。
穂村弘氏が過去に発表した短歌(歌集はもちろん、歌集未収録の作品も)を、山田航氏が読みとき、それに対して穂村弘氏がまたコメントをつけるという形態の本だ。
元は山田航氏が自身のブログ(トナカイ語研究日誌)で「穂村弘百首鑑賞」と題してやっていた評論らしい。
この山田航さんという人は、歌人であり、さらには現代短歌評論賞を受賞しているぐらいの人なので、短歌の読み手としては一流といっていい。
そんな一流の読み手による解説なのだが、これを読んでぼくは安心した。
「なーんだ、やっぱり短歌ってよくわからないものなんだ」
山田航さんが「この歌にはこういう意図が込められているのだろう」と書いていて、それを受けて穂村弘さんが「そうじゃなくてこういう意図で詠んだ歌です」みたいなばっさり否定していることがよくある。
あーよかった。やっぱりわからないんだ。
現代短歌評論賞を受賞するような人ですら読みまちがえるんだ。
作者の意図なんて正しく伝わらないものなんだ。そりゃそうだよね、三十一文字で複雑な心情を表すんだもの、ディスコミュニケーションは当然起こる。
読み手によって受け取り方が変わる、だからこそ短歌はおもしろいんだろう。
って書いちゃうと山田航さんが読みまちがえてばっかりだと思われてしまうかもしれないけど、そんなことはないですよ。
当然ながら作者の言いたいことを見ごとに言い当てている指摘も多い。
言い当てているにせよ、まちがっているにせよ、この「他人が評論」→「それに対して作者が回答」という形式はすごくいい。
短歌の作者に「自分がつくった短歌について解説してください」と言っても、なかなかうまく説明できないだろう。照れくささもあるだろうし、野暮ったさもある。「この短歌はここが妙味なんですよ」なんて自己解説するなんてかっこ悪すぎる。
そもそも完全に説明できるなら短歌で表現する必要がない。短歌でしか表現できないから短歌を詠むのだから。
しかし他者の眼というフィルターをいったん通すことで、自然に解説に入れる。
「そうなんですよ。ただもっというと、こういうことも背景としてあるんです」
「いやそれはちがいますね。これが伝えたかったんです」
短歌評論にかぎらず、この形式はどんどんとりいれたらいい。
批評ってどうしても批評家のほうが強くなってしまう。批評家のほうがえらそうというか。
だから 作品 → 批評 → 批評に対する作者のコメント まであるとフェアでいいと思う。喧嘩になりそうだけどね。でもそれはそれで楽しい(傍で見ているほうとしては)。
批評ってどうしても批評家のほうが強くなってしまう。批評家のほうがえらそうというか。
だから 作品 → 批評 → 批評に対する作者のコメント まであるとフェアでいいと思う。喧嘩になりそうだけどね。でもそれはそれで楽しい(傍で見ているほうとしては)。
ゆめのなかの母は若くてわたくしは炬燵の中の火星探検
という歌に対する山田航さんの解釈に対する穂村弘さんの返答(ややこしいな)。
この感覚はよくわかる。自分が親になったことで特に。
母親は赦しの存在だ。
ぼくの妻も、娘に対して甘い。
ぼくなんかは娘が駄々をこねたときなんかは「置いていくよ!」と言って、ほんとに立ち去る(もちろん安全な場所だけでだが)。
だが妻は「置いていくよ」と言っても置いていかない。娘が「待って!」というときはぜったいに待つ。
結果、娘はぼくの言うことには比較的したがってくれるが、「おかあさんの『置いていくよ』は嘘だ」と気づいているので、言うことを聞かない。
こういうことについて、ぼくは妻に対して不満に思っていた。
「『置いていくよ』と言ってるのに待ってあげてたらなめられるじゃない」と。
しかし最近は、いやこれはこれでいいのかもしれないと思うようになった。
社会的規範を守らせようとする父親と、なにがあっても最後は味方になってくれる母親。両方の存在があることで、自己肯定感と社会意識の両方を持った人間に育つのかもしれない。
ぼくの父は、祖母が死んだとき大泣きしていた。祖父が死んだときは泣いていなかった。
父親の死がつらくなかったわけではないと思う。
やはりあれは「世界中を敵にまわしても少なくともひとりは自分のことを守ってくれる」という【壊れた蛇口】を失ったことによる涙なのだろう。
これからはほんとにひとりで生きていかなくちゃならないという感覚。泣くのも当然だと思う。
その他の読書感想文はこちら
母親は赦しの存在だ。
ぼくの妻も、娘に対して甘い。
ぼくなんかは娘が駄々をこねたときなんかは「置いていくよ!」と言って、ほんとに立ち去る(もちろん安全な場所だけでだが)。
だが妻は「置いていくよ」と言っても置いていかない。娘が「待って!」というときはぜったいに待つ。
結果、娘はぼくの言うことには比較的したがってくれるが、「おかあさんの『置いていくよ』は嘘だ」と気づいているので、言うことを聞かない。
こういうことについて、ぼくは妻に対して不満に思っていた。
「『置いていくよ』と言ってるのに待ってあげてたらなめられるじゃない」と。
しかし最近は、いやこれはこれでいいのかもしれないと思うようになった。
社会的規範を守らせようとする父親と、なにがあっても最後は味方になってくれる母親。両方の存在があることで、自己肯定感と社会意識の両方を持った人間に育つのかもしれない。
ぼくの父は、祖母が死んだとき大泣きしていた。祖父が死んだときは泣いていなかった。
父親の死がつらくなかったわけではないと思う。
やはりあれは「世界中を敵にまわしても少なくともひとりは自分のことを守ってくれる」という【壊れた蛇口】を失ったことによる涙なのだろう。
これからはほんとにひとりで生きていかなくちゃならないという感覚。泣くのも当然だと思う。
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