2019年12月4日水曜日

【読書感想文】人間も捨てたもんじゃない / デーヴ=グロスマン『戦争における「人殺し」の心理学』

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戦争における「人殺し」の心理学

デーヴ=グロスマン (著)  安原 和見 (訳)

内容(e-honより)
本来、人間には、同類を殺すことには強烈な抵抗感がある。それを、兵士として、人間を殺す場としての戦場に送りだすとはどういうことなのか。どのように、殺人に慣れされていくことができるのか。そのためにはいかなる心身の訓練が必要になるのか。心理学者にして歴史学者、そして軍人でもあった著者が、戦場というリアルな現場の視線から人間の暗部をえぐり、兵士の立場から答える。米国ウエスト・ポイント陸軍士官学校や同空軍軍士官学校の教科書として使用されている戦慄の研究書。

戦争について考えるたびにおもう。
自分が戦争に行くことになったらどうしよう、と。
もちろん「殺される」恐怖もあるが、「殺す」恐怖もある。どちらかといったら「殺す」恐怖のほうが強いかもしれない。
ぼくが最後に人を殴ったのは中学一年生のとき。たあいのない喧嘩で。本気じゃない。怪我させるつもりすらなかった。それ以来、人を殴ったことはない。
そんな自分が戦場に出向いたとき、はたして見ず知らずの相手に向かって引き金を引けるのだろうか。

また、周囲の人間についても想像する。
自分の友人のアイツや同僚のアイツも、戦争に行ったら敵兵をばんばん撃ち殺すんだろうか。気のいいアイツらが戦場に行けば冷徹な殺人マシーンに変わるのだろうか。
ぼくのおじいちゃんも戦地に行ったそうだが、あの優しいおじいちゃんも敵兵を殺したんだろうか(ぼくがその疑問をぶつけることのないままおじいちゃんは亡くなってしまった)。

だとしたら、戦場のいったい何が人間をそこまで変えるのだろうか。



『戦争における「人殺し」の心理学』は、ぼくの長年の疑問に答えを示してくれた。

まずぼくが根本的に勘違いしていたことだが、戦場に行ったからといって人は殺人マシーンに変わらないということだ。
 第二次世界大戦中、米陸軍准将S・L・A・マーシャルは、いわゆる平均的な兵士たちに戦闘中の行動について質問した。その結果、まったく予想もしなかった意外な事実が判明した。敵との遭遇戦に際して、火線に並ぶ兵士一○○人のうち、平均してわずか一五人から二〇人しか「自分の武器を使っていなかった」のである。しかもその割合は、「戦闘が一日じゅう続こうが、二日三日と続こうが」つねに一定だった。
 マーシャルは第二次大戦中、太平洋戦域の米国陸軍所属の歴史学者であり、のちにはヨーロッパ作戦戦域でアメリカ政府所属の歴史学者として活動した人である。彼の下には歴史学者のチームがついていて、面接調査に基づいて研究を行っていた。ヨーロッパおよび太平洋地域で、ドイツまたは日本軍との接近戦に参加した四○○個以上の歩兵中隊を対象に、戦闘の直後に何千何万という兵士への個別および集団の面接調査が行われたのである。その結果はつねに同じだった。第二次大戦中の戦闘では、アメリカのライフル銃兵はわずか一五から二〇パーセントしか敵に向かって発砲していない。発砲しようとしない兵士たちは、逃げも隠れもしていない(多くの場合、戦友を救出する、武器弾薬を運ぶ、伝令を務めるといった、発砲するより危険の大きい仕事を進んで行っている)。ただ、敵に向かって発砲しようとしないだけなのだ。日本軍の捨て身の集団突撃にくりかえし直面したときでさえ、かれらはやはり発砲しなかった。
最前線に立って、敵兵を目の前にして、殺さなければ自分や仲間が殺されるかもしれない状況において、手元には弾の入った銃があって、それでも大多数の兵士は敵を撃たないのだという。
熾烈を極めた第二次世界大戦の戦闘ですら、発砲した兵士は銃を持っていた兵士の15~20%ぐらい。その中の大半は空に向かって撃つなどの威嚇射撃だったので、敵兵めがけて撃った兵士は全体の2~3%ぐらいだったというのが著者の見立てだ。

これを知ってぼくは安心した。
なんだ、人間もそこまで捨てたもんじゃないな。
ああよかった。人間は基本的に殺人が嫌いなのだ。

積極的に敵兵を殺す2~3%の人間にしても、イコール快楽殺人者というわけではないようだ。
 面接調査に応じたある復員軍人はこう語ってくれた。彼の考えでは、世界の大半は羊なのだ。優しくておとなしくて親切で、真の意味で攻撃的になることはできない。だがここに別の種類の人間がいて(彼自身はこちらに属する)、こちらは犬である。忠実でいつも油断がなく、環境が求めればじゅうぶんに攻撃的にもなれる。だがこのモデルにならって言えば、この広い世界には狼(社会病質者)や野犬の群(ギャングや攻撃的な軍隊)も存在するわけで、牧羊犬(兵士や警察)は環境的にも生物的にもこれらの野獣に立ち向かう傾向を与えられた者だ、ということになる。
彼らは攻撃的な資質は持っているが、あくまで「殺してもいい状況になれば殺せる」なので、兵士や警察官といった職業につけばむしろ英雄として社会から受け入れられやすい。
もちろん反社会的勢力に属した場合はたいへん危険な存在になるわけだが、それは彼ら自身の罪というより社会の責任の話だろう。


水木しげる氏の戦争体験談で、「ぼくは臆病だったので戦闘になってもすくみあがってしまって何もできなかった」というようなことを書いていたが、水木しげる氏だけが特に臆病だったわけではなく、あれこそが標準的な行動だったのだ。
「さあ戦闘だ。敵を撃つぞ!」と思えるのはごくごく少数の人間だけなのだ。

多くの兵士は戦争を通して精神病になる(戦いが長期化するとほぼ全員が精神に支障をきたす)が、空襲を受けて家や家族を失った人が精神病になる割合は平時と変わらなかったそうだ。
つまり、「自分が殺されそうな目に遭う」よりも「敵を殺す」ほうが精神的な負担は大きい。
多くの兵士は人間としての尊厳を守り、他人を殺すぐらいなら死を選ぶ。なんて美しいんだ!いいないいな人間っていいな!



……ところが、面と向かっている相手を殺しにくい」だけで、条件を超えると殺人の抵抗はぐっと下がる。
チームで戦っているとか、仲間が殺されるとか、強い上官から命令されるとか、既に一人以上殺しているとかの条件がそろうと、殺人の敷居は下がるのだそうだ。

特に重要なのは「相手の顔を見なくて済むこと」で、対象との距離が離れれば離れるほど殺人は容易になるそうだ。
 圧倒的な音響と圧倒的な威嚇力で、火薬は戦場を制覇した。純粋に殺傷力だけが問題だったのなら、ナポレオン戦争ではまだ長弓が使われていただろう。長弓の発射速度と命中率は、銃腔に旋条のないマスケット銃よりはるかに高かったからである。しかし、中脳で考えている怯えた人間の場合、弓矢で「ヒュン、ヒュン」やっていたのでは、同じように怯えていてもマスケット銃を「バン!バン!」鳴らしている敵にはとてもかなわない。
 言うまでもなく、マスケット銃やライフル銃を撃つという行為は、生物の本性に深く根ざした欲求、つまり敵を威嚇したいという欲求を満足させる。と言うよりむしろ、なるべく危害を与えたくないという欲求を満たすのである。このことは、敵の頭上に向けて発砲する例が歴史上一貫して見られること、そしてそのような発砲があきれるほど無益であることを考えればわかる。
なるほど。
日本でも織田信長が火縄銃を使って戦いのありかたを変えたと言われているけど、単純な強さでいえばそんなに強くなかったんじゃないかな。
当時の銃は準備にも時間がかかっただろうし、命中率も高くなかっただろう。暴発の危険性だってあっただろうしね。
だが「相手をびびらせる」「殺人への抵抗を小さくする」という点で、銃は他の武器に比べて圧倒的に優れていたからこそ火縄銃戦法は成功を収めたのだろう。


太平洋戦争のとき、米軍のパイロットは空襲で日本本土に焼夷弾を落としていった。結果、多くの民間人が命を落とした。
攻撃を加えた米軍のパイロットが特別に冷酷非情だったわけではない。彼らだって、ナイフを渡され「これで民間人を百人殺せ」と言われたら、そんなことはできないと尻ごみしていたことだろう。たとえ相手が無抵抗だったとしても(いや無抵抗だったらなおさら良心がとがめたかもしれない)。

だが飛行機から焼夷弾を落とすのはナイフで人間の腹を切り裂くよりもずっとかんたんだ。
飛行機からは姿の見えない敵、自分がやることは相手の肉を切り裂くことではなくボタンを押すだけ、そういう「抵抗の少なさ」が大量殺人を可能にしたのだ。


だから近代の軍隊がおこなう訓練は、銃の命中率を高めるとかのテクニック的訓練よりもむしろ「人を殺したくない気持ちを抑えこむ訓練」に力を注いでいる。
 こうして第二次大戦以後、現代戦に新たな時代が静かに幕を開けた。心理戦の時代──敵ではなく、自国の軍隊に対する心理戦である。プロパガンダを初めとして、いささか原始的な心理操作の道具は昔から戦争にはつきものだった。しかし、今世紀後半の心理学は、科学技術の進歩に劣らぬ絶大な影響を戦場にもたらした。
 SL・A・マーシャルは朝鮮戦争にも派遣され、第二次大戦のときと同種の調査を行った。その結果、(先の調査結果をふまえて導入された、新しい訓練法のおかげで)歩兵の五五パーセントが発砲していたことがわかった。しかも、周辺部防衛の危機に際してはほぼ全員が発砲していたのである。訓練技術はその後さらに磨きをかけられ、ベトナム戦争での発砲率は九〇から九五パーセントにも昇ったと言われている。この驚くべき殺傷率の上昇をもたらしたのは、脱感作、条件づけ、否認防衛機制の三方法の組み合わせだった。
人間としてごくあたりまえに持っている「人を殺したくない」という気持ちを抑えるために、ほとんど考えずに引き金を引ける訓練を近代軍はおこなってきた。いや訓練というより洗脳といったほうがいいかもしれない。

結果、第二次世界大戦 → 朝鮮戦争 → ベトナム戦争 と、回を重ねるごとにアメリカ軍の発砲率は飛躍的に向上した。

……ところが。
訓練によって発砲するまでの抵抗感は減らすことができたが、発砲した後、人を殺した後の嫌悪感までは減らすことができなかった。
かくして、ベトナム戦争に従軍した兵士たちは(アメリカ国内の反戦ムードもあいまって)帰国後に罪の意識に押しつぶされ、多くの兵士がPTSDなどの精神的不調に陥った。


なんちゅうか、軍隊ってそういうものなんだといわれればそれまでなんだけど、つくづく狂ってるなあ。
人間性を壊す訓練を施すわけだもんな。
そして戦いが終わったら「さあ前と同じように生活せえよ」と言われるわけで、殺されるも地獄、殺すも地獄、いやほんと戦争なんて行くもんじゃないよ。あたりまえだけどさ。



この本を読みながらおもったんだけど、自衛隊はいざ殺し合いとなったらめちゃくちゃ弱いだろうね。
だっておそらく自衛隊員たちは「殺すための訓練」を受けていないだろうから。それどころか「殺さないための訓練」しか受けていないだろう。

どれだけ装備や技術が優れていても、隊員たちが敵を撃たないんじゃ戦いに勝てるわけがない。
敵を殺せない自衛隊と「殺すための訓練」を受けてきた軍隊が向きあったら、もう1対100ぐらいの負け方をするはず(『戦争における「人殺し」の心理学』ではそういう例が紹介されている)。

だからいくら軍事費を上げたって、自衛隊は戦闘集団としてはまるで役に立たない。
その解決策としては
・だから自衛隊は軍であることを捨てよう
・だから自衛隊を正式な軍にして敵を殺す訓練をしよう
のふたつがある。
ぼくの意見はもちろん前者だけど……。後者を唱える人が増えているようにおもうなあ。戦争を知らないからなんだろうなあ……。
そういう人にはぜひ『戦争における「人殺し」の心理学』を読んで自分が帰還兵になった気持ちを想像してほしい。



この本にはあまり書かれていないけれど、人を殺すための条件として「年齢」はかなり重要だとおもう。

ぼくも小中学生のときは「あいつ殺したい」とか「死ねばいいのに」とかよくおもっていた。
もしも当時のぼくがデスノートみたいな「こちらの身は安全で絶対にバレない殺害方法」を持っていたら、ばんばん教師や級友を殺していたとおもう。

でも今はそこまでおもわない。殺したいほど憎んでいる人はいないし「死ね」と呪うこともない。
せいぜい「あいつ会社クビになればいいのに」「あいつ逮捕されねえかなあ」「たちの悪い病気になればいいのに」ぐらいで、子どものときに比べればずっと穏健な思想になった(卑屈ではあるが)。
嫌いなやつに対しても「まああんなやつでも死ねば悲しむ人もいるだろうから死ぬことはあるまい」ぐらいの優しさは抱けるようになったのだ。

たぶんぼくだけでなく、子どもはそういう生き物なんだとおもう。ブレーキのかけどころを知らない。だから子どもに銃を持たせたらカッとなっただけですぐにぶっ放しちゃうとおもう。

ゲリラやテロ集団が少年兵を育成するのも、少年のほうが「人を殺したくない」という気持ちが弱いからなんだろう。

未来の戦争は「子どもがゲームをする感覚で敵を殺せる兵器」が活躍するんだろうなあ。いや、もうあるのかも……。



この本、中盤まではおもしろかったんだけど(ちょっと冗長ではあるが)、最終章はいらなかった。
「アメリカ国内には暴力的なゲームや映画が増えている。そのせいで暴力行為への抵抗感がどんどん下がっている!」
みたいな話が延々と。
いや「もしかしたらそうなんじゃないかとわたしは危惧している」ぐらいだったらいいんだけどね。たしかなデータもなしに断言されても。

最終章は完全に蛇足。
これで評価を落としたなあ。

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