こちらあみ子
今村 夏子
以前、『たべるのがおそい』という文芸誌で『あひる』という短篇小説を読んだのが、今村夏子さんの作品との出会いだった。
その奇妙な味わいがやけに心に残っていた。飼っているあひるをすりかえる、なんてどうやったら出てくる発想なんだ。
で、今村夏子という名前をぼんやりとおぼえてAmazonのウィッシュリストに入れたりしていたんだけど(買ってはいない)、芥川賞を受賞したというニュースを見て「しまった! 先を越された!」という気になった。
ぼくが先に目をつけてたんだからな! 芥川賞選考委員より先にな! という身勝手かつ勘違いもはなはだしい妄想にとりつかれて、「だったらもういい! 読まん!」という己でもわけのわからぬ意地を張ってウィッシュリストからも削除したのだが、その直後に古本屋でばったり今村夏子作品と出会って「わかったよ……負けたよ……」と、誰に何の勝負で負けたのかわからぬ呟きを残しながら買ったという始末。なんなんだこの話は。
そして『こちらあみ子』。
いやあ、すごい! 久々に「すごい小説を読んだ!」という気になった。
読みおわったあと、しばらく何も手につかなかった。
こんなにも感情を揺さぶられる小説を読んだのはいつ以来だろう。
お花を愛する女性と近所に住む子どものハートフルなふれあい……かとおもいきや、いきなり女性が「中学生のときに好きだった男の子から顔面を殴られたせいで今も歯がない」というショッキングな話を語りだす。
そして語られるのは、さらにショッキングなあれやこれや……。
読んでない人にはなんのこっちゃわからないシーンだろうが、ぼくはここを読みながら息ができなかった。通勤電車の中で読んでいたのだが、周囲から人がいなくなったような気がした。
日本文学界に残る屈指の名シーンだ。
あらすじでは「あみ子は、少し風変わりな女の子」とオブラートに包んだ表現をしているが、あみ子は世間一般に言う「知的障害児童」だ。「支援」が必要な子だ。
小学生のときにひとつ上の学年にいた知的障害の女の子(当時は大人も子どもも「知恵おくれ」と呼んでいた)のことをおもいだした。
周囲にあわせた行動ができず、気持ち悪いと言われ、同級生からも上級生からも下級生からも等しくばかにされる女の子。
ひとつ下の学年であったぼくらもやはりその子をばかにして、まるで汚い犬のように扱った。感情を持たない生き物のように。
当時はどんな扱いをしてもいい存在だったあの女の子のことを、子を持つ親になって思いだす。
自分がいかに差別感情を持って接していた(接している)かを。そして自分の子どももそうなるかもしれないことを。
そして気づく。
あたりまえだけどあの子にはあの子なりの感情や論理があって、あの子を大切におもう家族がいて、その家族にもいろんなおもいがあったのだ、と。
あたりまえすぎることなんだけど、でも小学生だったぼくらにはわからなかった。
『こちらあみ子』は、そのわからなかった「あの子」の人生を追体験させてくれる。
「あの子」は自分とはまったく異なる人間ではなかったのだ、自分も「あの子」のすぐ近くにいたのだと気づかされる。
少し前に、小学校時代の同級生と再会した。昔毎日のように遊んでいたやつだ。
彼は精神病をわずらい、今は少しずつ社会になれる暮らしをしているのだという。障害者手帳も持っているそうで、つまり精神障害者だった。
だがぼくには、思い出の中にいる彼と、精神障害者という言葉が結びつかなかった。そういうのって“トクベツ”なやつがなるもんだろ?
だがじっくり考えるうちに、精神病になるのはトクベツでもなんでもないのだと気が付いた。誰でも風邪をひくことがあるのといっしょ。風邪をひきやすい人とそうでない人のちがいはあるが、ぜったいに風邪をひかない人はいない。
精神病のあいつも、“知恵遅れ”のあの子も、トクベツではなかったのだ。
べつの短篇『ピクニック』もよかった。
ばればれの嘘をつく人と、嘘だと気づきながら信じてあげる人たちの優しい世界。
優しい、けれど見方を変えればものすごく残酷な世界。
こういう人、いたなあ。
大学生のとき、サークルにどう見てもモテないYという男がいて「おれには彼女がいる」と言っていた。
でもいつ誘っても顔を出すし、合コンにも積極的に行っているし、彼女の姿はおろか写真すら誰も見たことがなくて、ぼくは「ほんとに彼女がいるのかなあ」とおもっていた。もちろん口には出さなかったが。
でもあるとき口の悪い後輩が「Yさんに彼女がいるっていうの、あれ嘘でしょ。脳内彼女でしょ」と言いだした(さすがにY本人はいない場だった)。
するとなぜか無関係である周囲の人たちがあわてだして、「いやまあいいじゃないそれは……」「まあまあ。本人がいるって言ってるんだからさ……」「問いただして、ほんとだったとしても嘘だったとしても後味の悪さしか残らないからさ。だから本当ってことでいいじゃない……」と歯切れの悪いフォローをはじめた。
それを聞いて、ぼくは「ああ、嘘だとおもっていたのはぼくだけじゃなかったのか」と安心した。みんな、嘘に気づいていて、気づかぬふりをしていたのだ。
知らぬはY当人ばかり。周囲はYを気づかっているようで「彼女がいないのにいると主張している哀れなやつ」と見下していたのだ。
優しいようで、すごく残酷な話だなあ。
いや、Yにほんとに彼女がいたのかもしれないけど。
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