高山 トモヒロ『ベイブルース 25歳と364日』
ときに「ベイブルース」という漫才コンビをご存じだろうか。
大阪で漫才の賞を総ナメにし、「ダウンタウン以来」とも言われるほどの快進撃を続けながら、人気絶頂の1994年にメンバーの河本栄得の急逝により活動休止したコンビ。
ぼくがお笑いにはまってテレビで漫才番組を欠かさずチェックするようになったのは1995年からなので、ベイブルースのことは「名前だけはちらっと聞いたことがある」という程度だった。
この本を読んで気になったので、YouTubeを検索して、ベイブルースの漫才映像を観てみた。
おもしろかった。20年以上たつのに、その発想は色あせていない(構成は「昔の漫才だなあ」と思うけど)。
そんなベイブルースの「残されたほう」である高山トモヒロの私小説。
なにが 恥ずかしいって、こういう「親しい人が死ぬとわかっている小説」で泣くことほど恥ずかしいことないよね。
なんかすっごくダサい感じがする。作者の狙い通りというか。
まあ、ぼくは泣いちゃったんですけど。しかも電車の中で。
ぜんぜんうまくないんだよ、小説として。へたくそといっていいぐらい。
文章も稚拙だし、芸人が書いてるのに笑えないし、思い出したままに書いているから時系列もめちゃくちゃだし、小学生の作文みたい。
だからこそ、相方が脳死宣告を受けるくだりなんか、ド直球で感情をぶつけられるように感じた。小説を読んでいるというより友人の語りを聞いているような気分。そりゃ泣くぜ。こんなので泣くかいと思ってたのに泣かされてしまった言い訳だけど。
でもこんなの小説として認めないからな!(涙ぐみながら)
ところで ベイブルースというコンビのバランスについて思ったこと。
河本は相方に対して、一字一句間違えず、間の取り方まで寸分の狂いもない「精密機械であること」を要求し、相方もまた「精密機械でいよう」とその期待に応えようとした。
すごい信頼関係だと思う。でも同時に、怖い、とも感じる。
相方が死んで思い出が美化されて書いているだけかもしれない。
でも元気に活動しているうちから「こいつは天才だから、その才能を輝かせるために俺は自分を殺してすべてを捧げよう」って姿勢でいたとしたら、怖い。
それってどういう気持ちなんだろう。
献身性って怖くない?
ぼくは、高校野球のマネージャーも怖いんだよね。何が楽しくて他人のためにあそこまでできるんだろうって思う(応援団とかチアリーダーは応援じゃなくて自己満足でやってるように見えるからべつに怖くない)。
いや、マネージャーも自己満足なんだと思う。「みんなのために尽くしてる一生懸命なアタシ」が好きなんだと思う。それはわかる。わかるんだけど、なぜその献身の対象が赤の他人なんだろう。
尽くす対象が「大好きな恋人」とか「愛する我が子」とか「おれのかっこいいバイク」とかなら理解できるんだけど。それは自分の所有物(と思っているもの)だから。
「がんばってる君が好き」よりも「南を甲子園に連れてって」のほうがまだ健全な気がする。
「がんばってる君が好き」という感情って、ほんのちょっと方向性がずれたら、攻撃性に変わっちゃいそう。「がんばってない君は存在しちゃいけない」と表裏一体というか。
この本を読んだ後は「もし河本が生きていたらどうなっていただろう?」と考えずにはいられない。
ベイブルースはどんなコンビになっていたのだろう?
「才能のあるこいつのために俺は精密機械になる」という強い意志は、いつか壁にぶつかって「こいつの才能は枯渇したのかもしれない」となったときに、同じような関係を続けることができたのだろうか?
コンビとしてはどうだっただろう。
ひょっとしたら今でも第一線を走っていたのかもしれないし、生きていたとしてももう活動していないかもしれない。早逝したから実際以上に評価されているだけで、凡百なコンビだったのかもしれない。
こうやってあれこれ想像してしまうのは、ベイブルースというコンビがそれだけ魅力的だったからなんだろうね。
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