2018年10月10日水曜日

【読書感想文】ぼくらは連鎖不均衡 / リチャード・ドーキンス『盲目の時計職人 自然淘汰は偶然か?』

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『盲目の時計職人
自然淘汰は偶然か?』

リチャード・ドーキンス/著

内容(e-honより)
ベストセラー『利己的な遺伝子』で、生物学ばかりか世界の思想界を震撼させたリチャード・ドーキンス。その彼が、いまだに批判・攻撃を受けるダーウィン理論のいくつかの面をとりあげ、異論のひとつひとつを徹底的に論破していく。本書は鮮烈なまでに見事なダーウィン主義の本であり、自然淘汰による進化が、われわれにとって最大の謎に答えるに十分なほど強力な理論であることを明らかにするだろう。その謎とはこうである―「われわれ自身が存在しているのはなぜか?」。

二十歳ぐらいのときにドーキンス『利己的な遺伝子』を読んでひっくりかえるくらいの衝撃を受けた。
読む前と読んだ後では目に映る世界がちがって見えるぐらいに。
大げさでなく、ぼくの人生を変えてくれるような一冊だった。

『利己的な遺伝子』に大きな影響を受けたのはぼくだけではなかったらしい。刊行直後から、著者であるドーキンス氏のもとには多くの反響が寄せられた。好意的なものもあれば、批判的なものも。

この本は『利己的な遺伝子』に対する反論への反論、という形をとって書かれている。
というわけであまり目新しいことは書かれていない。『利己的な遺伝子』に書いていた進化論を、傍証を交えながらより丁寧に書いている。

今だったらインターネットなんかで意見をぶつけあうところなのかもしれないが、反論に反論するために本を出すなんて、ずいぶんのんびりした時代だったのだなあ。

この内容だったら、アンドリュー・パーカー 『眼の誕生』のほうがずっと充実しているので、そっちを読めば十分という気もする。



「生物が誕生して今のわれわれの姿のような形に進化するのはどれぐらいめずらしい確率か」ということから、「奇跡」の考え方についてこんなふうに書いている。
 われわれの脳は、眼が電磁波の波長を評価するように自然淘汰によってつくられてきたのとちょうど同じように、起こりそうな確率や危険率を評価するように自然淘汰によってつくられてきている。われわれは、人間生活にとって役に立つであろう可能性の範囲内で、危険率や見込みを頭の中で計算する力を身につけている。これは、たとえば、バッファローに矢を射かけたときに角で突き刺されるとか、雷雨を避けて孤立した樹木の下に逃げ込んだときに雷に打たれるとか、川を泳いで渡ろうとしたときに溺れてしまうといったレベルの危険率のことである。これらの容認できる危険というのは、数十年というわれわれの寿命に釣り合っている。もし、われわれが一〇〇万年も生きることが生物学的に可能であり、またそうしたいと望むなら、危険率をまったく別なふうに評価すべきである。たとえば、五〇万年間、毎日道路を横断していれば、そのうち車に轢かれるにきまっているだろうから、道路は横切らない習慣を身につけなくてはならない。
なるほど。
常々、昆虫がリスクの高い生き方をしているように見えることをふしぎに思っていた。
そんなとこ通ったら敵にすぐ見つかるやん、ということばかりするのだ、虫たちは。

しょせんは虫の浅はかさよと思っていたが、もしかすると彼らは我々とはまったくべつのリスク評価をしているのかもしれない。
人間の目から見ると「ずいぶんあぶねえことしてるな」と思うことでも、虫のような命の短い生き物にとっては「これで死ぬのは超運が悪いやつだけ」ってぐらいのことなのかもしれない。アリにとって道路を歩いていて人間に踏みつぶされるのは、無視できるぐらい低い確率の出来事なのだろう。

同じ人間でも、生きてきた人生の長さによって「奇跡」の度合いは変わってくるのだろう。

小学生のとき、自分が投げたボールとべつの人が投げたボールが空中でぶつかったら「すげー!」と言って大笑いした。
大人になった今、そんなことはひとつもおもしろくない。十分な回数の試行をしていればそりゃいつかは空中でぶつかるだろうさ、と思うだけだ。

J-POPの歌詞が「ふたり出逢えた奇跡」であふれているのも、出会ってきた人の少なさによるものなのだろう。
十分長い時間を生きて十分多い人と出会ってきたなら、フィーリングの合う人との出会いも奇跡ではなく必然になってしまうから。



「連鎖不均衡」についての話。
 もし私が長い尾をもった雄なら、私の父も長い尾をもっているばあいの方がそうでないばあいよりも多そうである。これは通常の遺伝にすぎない。しかしまた、私の母は私の父を配偶者として選んだのだから、彼女は長い尾をもった雄を好むばあいの方がそうでないばあいよりも多そうである。したがって、もし私が父方から長い尾のための遺伝子を受け継いでいるなら、母方から長い尾を好む遺伝子も受け継いでいそうである。同じ理由から、短い尾のための遺伝子を受け継いでいれば、おそらく雌に短い尾を好ませる遺伝子をも受け継いでいるのだろう。
 雌にも同様の論法を用いることができる。私が尾の長い雄を好む雌なら、おそらく私の母も尾の長い雄を好んでいただろう。したがって、私の父は母によって選ばれた以上、おそらく長い尾をもっていただろう。したがって、私が長い尾を好む遺伝子を受け継いでいれば、おそらく長い尾をもつための遺伝子も、それらの遺伝子が雌である私の体に発現しようがしまいが、受け継いでいるだろう。そして私が短い尾を好む遺伝子を受け継いでいれば、おそらく短い尾をもつための遺伝子も受け継いでいるだろう。一般的な結論はこうだ。雄にせよ雌にせよある個体は、それがどのような性質であっても雄にある性質をもたせる遺伝子と雌にそれとまったく同じ性質を好ませる遺伝子の両方をもつ可能性が高い。
長い尾を持つ個体は、長い尾を好む性質も持っている可能性が高い。これを連鎖不均衡というそうだ。

これを知って、いろんなことが腑に落ちた。

ぼくのいとこ(女)は、女性にはめずらしく身長が180センチを超えている。彼女は自分よりもっと背が高い男性と結婚した。
背が高い女性がもっと長身の男性を選んだり、背の低い男性がもっと背の低い女性を好きになったりすることがよくある。
あれは「コンプレックスを隠すため」かと思っていたのだが、もっと根本的なところ、遺伝子で決まっているのかもしれない。
長身の人は長身の人を好きになりやすい。なぜなら自分の親も長身のパートナーを見つけた(可能性が高い)から。「長身になる」遺伝子と「長身の異性を好む」遺伝子の両方を受け継いでいる(可能性が高い)から。

「高学歴な女性は自分以上のステータスの男性を選ぶ」という話を聞いたことがあるが、これも自分の親が持っていた「知能の高い異性を好きになる」という性質を受け継いだからかもしれない。

つまり子どもは親と似た好みを持つ(傾向が強い)。
ということは、娘であれば自分の父親に似た人、息子であれば母親に似た人を好きになることになる。
「身近にいた数少ない異性のひとりだったから」という後天的理由もあるだろうが、遺伝子レベルでも決まっているのだ。たとえば幼いころに両親と引き離された子でも、知らず知らずのうちに親に似た性質の異性を好きになるのかもしれない。

「自分のおかあさんみたいな女性が好き」というとマザコン扱いされてしまうけど、連鎖不均衡が生じる以上、ごくごく自然なことなのかもね。


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2 件のコメント:

  1. 「盲目の時計職人」を完全論破している本がありますよ!

    「生命の謎 『盲目の時計職人』への反論」です。

    もし犬さんが議論に自信があれば反論してみてください。

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    返信
    1. 情報ありがとうございます。
      反論できるほどの自信はないですが気になるので読んでみるかもしれません。ウィッシュリストに入れました。

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