人間の解剖はサルの解剖のための鍵である
吉川 浩満
タイトルだけで「これはおもしろそう!」とおもって買ってしまったので解剖学の本だとおもっていたのだが、ぜんぜんちがった。
人工知能、倫理学、行動経済学といった今流行りのキーワードを軸に「人間とは何か」「今後人間はどうなっていくのか」「あるいは人間は万物の霊長ではなくなるのか」などについて書いている本だった。
後半にいたってはいろんな雑誌に書いた文章や本の解説などが並んでいて、「雑多なテーマの文章を寄せ集めてなんとか一冊な本にしました」という感じがすごい。
ファンなら楽しく読めるのかもしれないけど……。
この内容なら、こんなおもしろそうなタイトルをつけずに「吉川浩満エッセイ集」みたいなタイトルにしてほしかったな。だまされた気分。
「人間の解剖はサルの解剖のための鍵である」という言葉は著者がつくったものではなく、カール・マルクスの言葉から来ているそうだ。
なるほどね。われわれは動物の行動を見て「あれは求愛行動だ」とか「敵を威嚇している」とか理解することができるけど、それは人間の行動様式の中に求愛や威嚇があるからだ。
たとえばカマキリのメスは交尾の後にオスの頭を食べちゃうことがあるけど、人間はふつうそんなことしないので、カマキリの行動を観察して「ひょっとしたらこんな気持ちかも」と想像することはできても真に理解することはできない。
ぼくらは下等な生物を研究することで人間のような高等な生物を理解できるとおもっているけど、実は逆なのだ(そもそもその下等とか高等って考え自体が進化論的にまったく正しくないのだけれど)。
ポスト・ヒューマン、つまり我々の次に出現する知的生命体についてのくだりはおもしろかった。
もしも人間よりももっと高度な知性を持ったモノが生まれたら(モノと書いたのはそれが生物ではない可能性も十分高いからだ)。
著者は
「私たち旧世代の人間が結果として置いてけぼりを食らわされたり、場合によっては追い払われるようなことになったとしても、これまで人間がなしてきた悪行を思えば、それはもう、もって瞑すべしではないかと思います」
とクールに書いているけど、こうおもえる人は少数派だろうね。
多くの旧世代の人間(つまり我々)は、意地汚く万物の霊長の座にしがみつこうとするだろう。今も「AIに仕事をとってかわられる!」と見苦しくあがいているし。
こうした世代交代はずっとくりひろげられてきた。
古くはホモ・サピエンスが旧人類にとってかわった。
最近でいうと石炭エネルギーが石油に代わったり電卓がコンピュータにとってかわられたりして、そのたびに仕事を奪われる人がいた。権利を守るための反対運動もあったが、結局は無駄だった。
世代交代が終わってみれば「便利なもの、よりよいものに代わるのは避けられないのに、旧いものにしがみついてかわいそうな人」としかおもえないが、いざ自分が「とってかわられる側」になるとなかなか「じゃあ私は退場して新しい人にさっさと道を譲りますわ」とは言えないものだ。
ネタバレになるが、貴志祐介『新世界より』は現人類が滅びた後の世界を描いた小説だ。
その世界では旧人類(つまり今の我々)は新人類に虐げられながら、それでも虎視眈々と反撃のチャンスを窺っている。
じっさいの人間はこっちのほうが近いだろう、とおもう。
「これまで人間がなしてきた悪行を思えば、それはもう、もって瞑すべしではないか」なんて言えずに、「やだやだやだ! 人間が万物の霊長じゃない世界なんてぜったいやだ!!」とじたばたするんだろうな、と。
考えてみればどうせ自分はあと数十年以内に死ぬのだからその先の人類が虐げられようと滅びようと関係ないんだけど、でもやっぱり子孫繁栄してほしい、という心情は捨てられないんだよなあ。
しょせん人間なんて遺伝子の乗り物(by リチャード・ドーキンス)なんで。
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