ぼくはスパイをしている。
こないだ姪(九歳)から
「おっちゃんは何のお仕事してんの?」
と訊かれたので
「ここだけの話だけど……スパイやで」
と小声で答えたのだ。
「嘘やろ?」
「ほんまやで。でも誰にも言うたらあかんで」
「ぜったい嘘や」
「なんで嘘やとおもうん?」
「だってぜんぜんスパイっぽくないもん」
「それがいいねん。黒いスーツでサングラスかけてたりしたらすぐ怪しまれるやん。スパイは人に知られたらあかんから、目立ったらあかんねん」
「じゃあスパイでどんなことをしてんの?」
「それは家族にも言われへん。スパイの任務は極秘やから」
「誰に雇われてんの?」
「それも言われへん。依頼人の素性は口が裂けても明かすわけにはいかん。それがスパイの掟なんや」
「……もうええわ」
九歳児にあきれられてしまった。
だがそれでいい。
姪から「いいかげんなおじさん」と思われることこそが、ぼくのほんとの任務なのだから。
子どもの正常な発達において、「いいかげんなおじさん」の存在は欠かせない。
大人なら誰でも知っていることだが、世の中の大人の99%はいいかげんだ。
嘘をつくし、ものを知らないし、見栄を張るし、いばるし、やっかむし、すぐ怠ける。
もちろんぼくもそんな大人のひとりだ。
だが子どもはそんなことを知らない。
大人は絶対的に正しい存在だと勘違いしている。
なんでも知っているし、正しいおこないしかしないし、将来のために今を犠牲にできるし、感情をコントロールできるとおもっている。
だから、そうでない大人(つまり大半の大人)に接したときに怒りを感じる。
「おかあさんは私には厳しいのに妹には甘い!」
「〇〇ちゃんも悪いことをしてたのに先生は私だけ叱った!」
と。
大人からしたらあたりまえの話だ。
他人の行動をぜんぶチェックするなんて不可能だし、かわいい子はひいきしたくなるし、虫の居所が悪ければちょっとしたことで声を荒らげるし、めんどくさければ適当にお茶を濁す。
あたりまえだ。
あなたはまちがっていると子どもから指摘されたら、こう答えるしかない。
「そっすね。そのとおりっす。すんませーん(鼻ホジホジ)」
大人がいいかげんであることの是非を議論しても意味がない。
だって大人がいいかげんなのは厳然たる事実だし、どっちみちそれは変えられないし、憤りを感じている子どもだってそのうちいいかげんな大人になるんだし。
だから大人が子どもにしてあげられることは、
「大人はちゃんとしてないんだよ」
と教えてやることだ。
大人がいいかげんであることを教えるためには、いいかげんな大人と接するのがいちばんてっとりばやい。
けれど、その役目を実行するのは親や教師であってはいけない。
親や教師には、子どもを指導する、教育する、躾ける、といった役目がある。
指導する者がいいかげんな大人であってはならない。
もちろんじっさいには親も教師もいいかげんな大人なわけだが、子どもの前では隠さなくてはならない。
立派な大人のふりをしなくてはならない。
鼻をほじりながら「鼻をほじってはいけません!」と叱っても効果がないからだ。
だから親や教師には、「自分のことを棚に上げる」ことが求められる。
だめなところを見せるのは親や教師以外の大人の仕事なのだ。
だが現代社会において、子どもが親や教師以外の大人と接する機会はあまりに少ない。
そこで、おじさんの出番だ。
内田樹氏はレヴィ=ストロースの論を下敷きに、こう書いている。
だから、子どもたちは矛盾と謎と葛藤のうちで成長しなければならないのである。( 内田樹の研究室『親族の基本構造』 )
父と伯叔父は「私」に対してまったく違う態度で接し、まったく違う評価を与え、まったく違う生き方をリコメンドする。
おじ(レヴィ=ストロースに言わせれば母方の伯叔父)は、ちゃらんぽらんでなければならない。
ばかな大人、だめな大人、いいかげんな大人でなくてはならない。
ありがたいことにも、ぼくの伯父はそういう人だった。
ほらばかり吹いて、卑猥な言葉を口にし、役に立たないことばかり教えてくれる、立派な伯父さん。
おじさんじゃないもの
だからぼくは、姪の前ではちゃんと「ちゃらんぽらんなおじさん」をやるようにしている。
ほらを吹くし、いらぬ世話を焼くし、子どもをからかうし、子ども相手にむきになるし、ごはんをこぼすし、大きな音を立てておならをするし、やりかけたことはすぐに投げだすし、約束は破るし、昼間っからごろごろするようにしている。
それが叔父としての務めだからだ。
だからおじさんがスパイだというのもまったくの嘘ではない。
「子どもに正体を気づかれないように、ちゃらんぽらんなおじさんを演じる」という重大な任務を背負っているのだから。
まったく、おじさんも楽じゃないぜ。
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