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2019年10月10日木曜日

【読書感想文】記憶は記録ではない / 越智 啓太『つくられる偽りの記憶』

つくられる偽りの記憶

あなたの思い出は本物か?

越智 啓太

内容(e-honより)
自分がもっている思い出は間違いのないものと考えるのがふつうだが、近年の認知心理学の研究で、それほど確実なものではないということが明らかになってきている。事件の目撃者の記憶は、ちょっとしたきっかけで書き換えられる。さらに、前世の記憶、エイリアンに誘拐された記憶といった、実際には体験していない出来事を思い出すこともある。このような、にわかには信じられない現象が発生するのはなぜか。私たちの記憶をめぐる不思議を、最新の知見に基づきながら解き明かす。

自我が揺らぐぐらいおもしろい本だった。
この著者(本業は犯罪心理学者らしい)の『美人の正体』もおもしろかったが、こっちもいい本。
自分の専門分野ではないから、かえって素人にもわかりやすく説明できるんだろうね。

「虚偽記憶」という言葉を知っているだろうか。
その名の通り、嘘の記憶。実際に体験していないにもかかわらず実体験として記憶に残っていることがら。

かつてアメリカで、多くの人が次々に自分の親に対して「かつて性的虐待を受けた」として訴訟を起こしはじめた。
訴えられた親たちは戸惑った。なぜならまったく心当たりがなかったから。どうして成人した子どもたちが今になってそんなことを言いだすのか。
しかし多くの人々は自称被害者たちの言うことを信じた。なぜなら、わざわざ嘘をついて実の親を性犯罪の加害者にしようなんてふつうはおもわないから。嘘をつくメリットがない(というよりデメリットのほうが大きい)からほんとだろう、という理屈だ。

訴えた"自称"被害者たちは、ジュディス・ハーマンという精神科医の患者だった。ハーマンから「記憶回復療法」を受け、抑圧されていた記憶を取り戻したと主張していた。
その後、様々な検証がおこなわれた結果、今では彼らの「取り戻した記憶」はほとんど「記憶回復療法」によって植えつけられた偽りのものだったとされている……。

というなんとも後味の悪い話だ(想像だけど、ハーマン自身も悪意があってやっていたわけではなく誤った信念に基づいていただけで善意でやっていたんじゃないかなあ)。

そこまでいかなくても、嘘の記憶が発生することはある。
ぼくにも「今おもうとあれは虚偽記憶だったんだろうな」という記憶がいくつかある。

子どもの頃寝ていたら泥棒が寝室に入ってきてタンスをあさっていたこととか(家族は全員否定している)、

小学三年生ぐらいのときに断崖絶壁から落ちそうになったけど木にしがみついてなんとかよじのぼった記憶とか(たぶんこれは実際に起きたことが自分の中で誇張されてる。山の急坂からすべり落ちそうになったぐらいだとおもう)。

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第3章~第5章の『生まれた瞬間の記憶は本物か?』『前世の記憶は本物か?』『エイリアンに誘拐された記憶は本物か?』は、正直少し退屈だった。なぜならぼくが「どうせそんなものウソに決まってるだろ」とおもっているから。

しかし著者は、「エイリアンに誘拐されたなんて嘘に決まってるだろ」というスタンスはとらず、エイリアンに誘拐されたと証言する人の共通点や時代による変化など、「なぜエイリアンに誘拐されたと信じるにいたったのか」を丁寧に検証している。
また「彼らの証言は疑わしく見えるものの、エイリアンに誘拐された人などいないという証拠が挙げられない以上、否定することはできない」とあくまで科学的謙虚さをくずさない。
このスタンスが立派だ。なかなかできることではない。
「どうせそんなものウソに決まってるだろ」とハナから決めつけていた自分を反省した。


『ムー』的なものが好きでない人には第3章~第5章は退屈かもしれないが、その他の章はきっとおもしろいはず。
記憶に対する考え方が変わる。



SFだと記憶を植えつける装置なんてものが登場するが、じっさいにはそんなものを使わなくてももっとたやすく人の記憶は改竄できるそうだ。

こんな実験が紹介されている(ここに出てくロフタスという人は、ジュディス・ハーマンの虚偽記憶に対して反証した人だ)。
 たとえば、ロフタスは次のような実験を行っています。
 まず、目撃者役の実験参加者には、車が事故を起こす動画を見せます。その後、この事故について、目撃者からいろいろな情報を聞き取っていくわけですが、その中にその車のスピードを尋ねる質問があります。「その車がぶつかったときにどのくらいのスピードが出ていましたか?」という質問です。ただ、彼女はそのときの質問をいくつかのバリエーションで聞いることにしました。具体的には、「ぶつかった」の部分をニュアンスの異なったさまざまな語に変えて聞いてみたのです。
 興味深いことに、ここで使用される単語によって、実験参加者の回答は大きく変わってくることがわかったのです。たとえば、「その車が接触した(contacted)とき」と質問した場合には、実験参加者は自動車のスピードを時速三一・八マイル(時速五一・二キロメートル)と推定しましたが、「その車が激突した(smashed)とき」と質問すると、推定された測度は、時速四○・三マイル(時速六五・六キロメートル)になっていました。彼らが実際に見たのは同じ映像ですから、質問の仕方がその記憶の内容に影響してしまったのだということがわかります。
(中略)
 ロフタスは、この現象を示すために次のような実験を行いました。この実験で使われた動画では、じつは車が激突したとき、そのフロントガラスは割れていませんでした。ところが、スピードについて推定させたあとで、「車のフロントガラスは割れていましたか」と聞くと、「ぶつかった(hit)とき」と聞いた群の実験参加者は八六%が「割れていなかった」と正しく答えたのに対し(車のスピードについて質問しなかった群では、八八%)、「激突(smashed)」で質問した群の実験参加者は、「割れていなかった」と答えた人は、六八%に大きく減り、三二%が実際には割れていなかったフロントガラスを「割れた」と答えてしまったのです。

質問するときに使う単語のニュアンスだけで、同じ映像を見てもこれだけ記憶が変わるのだ。
まして、質問をする側に「事故加害者の罪を重くしてやろう」という意図があったりしたら、さらに記憶は大きくゆがめられることだろう。


じっさいには体験していない人に「子どもの頃に迷子になっておじいさんが助けてくれたことをおぼえていますか?」とくりかえし質問をするという実験の結果が紹介されている。
はじめは「おぼえていない」と語っていた被験者は(体験していないんだからおぼえていないのがあたりまえだ)、「たしかに経験しているはず」と何度も言われるうちにありもしない記憶を「おもいだした」そうだ。
 家族としばらく一緒にいたあとに、おもちゃ屋に行って迷子になったと思う。それであわててみんなを探し回ったんだけど、もう家族には会えないかもって思った。本当に困ったことになったなあと思ったんだ。とっても怖かった。そうしたら、おじいさんが近づいてきたんだ。青いフランネルのシャツを着ていたと思う。すごい年寄りというわけではないけど頭のてっぺんは少し禿げていて灰色の毛がまるくなっていて、めがねをかけていた。
また、ニーアンが、その記憶がどのくらいはっきり思い出せるかを一~一一までの段階で判断するようにクリスに求めたところ、「八」と答えました。
(中略)
いろいろな手がかりを頭の中で探すと、おそらく関連がありそうないろいろな記憶の断片が思い出されてきます。ユーアンの実験でいえば、ショッピングモールに行った記憶や、どこか(たぶんショッピングモール以外の場所)で迷子になった記憶、お母さんが見当たらなくて不安になった記憶や、見知らぬ男性と話した記憶などです。しかし、それらの記憶自体は、あくまで断片であり、いつどこでの体験なのかはあまりはっきりしないかもしれません。第1章でも述べたように、記憶の内容自体と、それがいつ、どこでの記憶(ソースメモリー)なのかを判断するのは、異なったメカニズムであるからです。
 しかし、本人はこのようにして想起された記憶の断片をそのとき」の記憶が蘇ってきたと考えてしまうのです(ソースモニタリングエラーです)。すると、ヒントとして呈示されたストーリーに従ってそれらの記憶がパッチワークのように貼り合わされていき、次第に現実感のある記憶が完成されていきます。さらに、頭の中でこれらのイメージを反芻するに従って、記憶はより鮮明で一貫した構造を獲得していきます。そして最終的には、リアルな偽の体験の記憶が形成されてしまうわけです。つまり、体験しなかった出来事でも一生懸命考えることによって、フォールスメモリーが完成してしまうのです。

会話をくりかえすだけであっさりと偽の記憶がつくられてしまうのだ。
しかも一度形成されてしまった偽の記憶は強固なものになり、「あれは実験のためにやったことでほんとはあなたはそんな体験していないんですよ」と説明しても「いやたしかに体験したことだ」と納得しなくなるそうだ。

ぞっとする話だ。

ぼくには六歳の娘がいるが、子ども同士の喧嘩を見ているとつい数分前の記憶があっさり書き換えられることがよくあることに気づく。

たとえばAちゃんがBちゃんを叩き、それをきっかけに喧嘩になる。
だがAちゃんは「Bちゃんが先に叩いてきた!」と主張する。涙ながらに一生懸命訴える。
「一部始終を見てたけど先に手を出したのはAちゃんだったよ」と伝えても、一歩も引かない。
このとき、たぶんAちゃんには嘘をついているという自覚はない。「Bちゃんが先に叩いてきた!」と言っているうちに、自分の中で偽の記憶が形成されてしまい、それを本気で信じているのだ。

よくある虚言癖の子どもというのも、たいていこういう経緯をたどって嘘をついているんんじゃないだろうか。
「嘘ばかりつく子」というより「想像や発言によって記憶がすぐに書き換えられてしまう子」なんだとおもう。


こうなると、私の記憶は本物か? という問いが当然生じる。
ぼくらはふつう、自分の記憶は正しいとおもっている。「私の記憶が真実であることは、少なくとも私自身は知っている」と思いこんでいる。起きたことを忘れることはあっても、起きていないことをおぼえていることはありえないとおもっている。
でもそれは誤りかもしれない。

って考えると自我が揺らいでくる。
自分の記憶がほんとかうそかわからないなら、何を信じて生きていけばいいんだろう……と。



しかし記憶が不確かであること、容易に改変されることは必ずしもマイナスであるとはいえないと著者は見解を述べている。
  これらの現象は病理的な現象のように思われますが、もっと広い観点から見てみると、このような記憶の改変は、じつは私たちの記憶システムがもっている正常なメカニズムのひとつではないかとも考えることができます。上記のような一見異常な記憶の想起でも、想起によって自らのアイデンティティを確認したり、自らの精神的な不調の原因を納得させようとする動機が含まれていましたし、いまの自分が昔の自分よりも優れていると思うために過去の自分の記憶を悪い方向に改変したり、また、高齢者になると自分の人生をよきものとして受け入れるために逆に過去の記憶を美化して書き換える傾向は、もっと頻繁に起こっていることがわかりました。記憶は過去の出来事をそのままの形で大切にとっておく貯蔵庫であるという考え方自体かそもそも間違っているかもしれないのです。
なるほどねー。

そういえば、地下鉄サリン事件で有名になった毒物のサリンには「記憶を強化する」という効果があると聞いたことがある。
記憶力が良くなるんならいいじゃないかとおもってしまうが、嫌な思い出(地下鉄でサリン事件に遭ったこととか)も薄れずに残ってしまうためPTSDなどに悩まされやすくなるのだとか。
すぐに忘れてしまうのも問題だが、忘れられないのもよくないのだ。

記憶があいまいなおかげで「自分は昔より成長している」とおもえたり、「私の人生は悪いものではなかった」とおもえるのなら、それはそれでいいことだ。

だから、重要なのは「記憶とは記録だ」という認識がまちがいだと気づくことだね。
記憶はすぐに改変される、だから自分の記憶も信用ならない、という認識を持っておくのが「記憶との正しい付き合い方」なのかもしれないね。


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2019年10月7日月曜日

【読書感想文】チンパンジーより賢くなる方法 / フィリップ・E・テトロック&ダン・ガードナー『超予測力』

超予測力

不確実な時代の先を読む10カ条

フィリップ・E・テトロック (著) ダン・ガードナー (著)
土方 奈美 (訳)

内容(e-honより)
「専門家の予測精度はチンパンジーのダーツ投げ並みのお粗末さ」という調査結果で注目を浴びた本書の著者テトロックは、一方で実際に卓越した成績をおさめる「超予測者」が存在することも知り、その力の源泉を探るプロジェクトを開始した。その結果見えてきた鉄壁の10カ条とは…政治からビジネスまであらゆる局面で鍵を握る予測スキルの実態と、高い未来予測力の秘密を、米国防総省の情報機関も注目するリサーチプログラムの主催者自らが、行動経済学などを援用して説く。“ウォール・ストリート・ジャーナル”“エコノミスト”“ハーバードビジネスレビュー”がこぞって絶賛し、「人間の意思決定に関する、『ファスト&スロー』以来最良の解説書」とも評される全米ベストセラー。

おもしろかった!
仕事、投資、政治、軍事、趣味その他いろんなことに使えそうな知見がぎっしり。

この本のテーマは「予測」だ。
著者は多くのボランティアを集め、大規模な予測実験をした。
「北朝鮮は三年以内に韓国に軍事攻撃をしかけるか?」といった近未来に関する問いをいくつも用意し、回答者たちは「その可能性は30%」などと予測する(途中で変更してもよい)。

「Yes/No」で答えられる質問ばかりなので、チンパンジーがやっても50%は正解する。
大半の予測者の成績はサルと大差なかった。
だが、その中に明らかに高い正解率を出した人たちがいた。研究機関の専門家よりも正解率が高かったのだ。
著者は彼らを「超予測者」と呼び、重ねて実験をした。すると超予測者の多くは続いてのテストでも高い成績を出した。

超予測者とはどういう人たちなのか?
彼らにはどんなやりかたで高いスコアをたたきだしているのだろうか?
そして我々が彼らのような高い予測力を身につけることは可能なのだろうか?

……という本。
わくわくする内容だった。



「超予測者」というと百発百中で未来の出来事を言い当てる超能力者みたいな人を予想するかもしれないが、もちろんそんなことはない。
彼らもまちがえる。ふつうの人が50%まちがえる問題を、彼らは30%とか40%とかまちがえる。

なーんだそんなもんかとおもうかもしれないが、このちがいが大きい。
ルーレットで赤と黒が出るかを60%の確率で的中させることができれば確実に大金持ちになる。

超予測者自身も、重要なのはわずかな違いであることをを知っている。
100%は不可能。50%を60%にする、60%を61%にする。そのために学び続けられる人が超予測者になる資格を持っている。

つまり、予測の精度を上げるためには「自分はまちがっているのでは?」という反省を常にしつづけることが重要だということだ。

「おれは正しい! まちがってるはずがない!」って人はまちがえる。「私は誤っているかもしれない」という人が正解に近づける。皮肉にも。
 ビル・フラックも予測を立てるとき、デビッド・ログと同じようにチームメートに自分の考えを説明し、批判してほしいと頼む。仲間に間違いを指摘してもらったり、自分たちの視点を提供してもらいたいからだが、同時に予測を文字にすることで少し心理的距離を置き、一歩引いた視点から見直せるからでもある。「自分自身によるフィードバックとでも言おうか。『自分はこれに賛成するのか』『論理に穴はないか』『別の追加情報を探すべきか』『これが他人の意見だったら説得されるか』といった具合に」
 これは非常に賢明なやり方だ。研究では、被験者に「最初の予測が誤っていたと思ってほしい、その理由を真剣に考えてほしい、それからもう一度予測を立ててほしい」と要求するだけで、一度めの予測を踏まえた二度めの予測は他の人の意見を参考にしたときと同じくらい改善することがわかっている。一度めの予測を立てたあと、数週間経ってからもう一度予測を立ててもらうだけでも同じ効果がある。この方法は「群衆の英知」を参考にしていることから「内なる英知」と呼ばれる。大富豪の投資家ジョージ・ソロスはまさにその実例だ。自分が成功した大きな理由は、自らの判断と距離を置いて再検討し、別の見方を考える習慣があるためだと語っている。

知的謙虚さのほかに、超予測力のためには思考の柔軟さも必要であるとしている。

 ではなぜ二つめのグループは一つめのグループより良い結果を出せたのか。博士号を持っていたとか、機密情報を利用できたといったことではない。「何を考えたか」、つまりリベラルか保守派か、楽観主義者か悲観主義者かといったことも関係ない。決定的な要因は彼らが「どう考えたか」だ。
 一つめのグループは自らの「思想信条」を中心にモノを考える傾向があった。ただ、どのような思想信条が正しいか、正しくないかについて、彼らのあいだに意見の一致はなかった。環境悲観論者(「ありとあらゆる資源が枯渇しつつある」)もいれば、資源はふんだんにあると主張する者(「ありとあらゆるものにはコストの低い代替品が見つかるはずだ」)もいた。社会主義者(国家による経済統制を支持する者)もいれば、自由市場原理主義者(規制は最小限にとどめるべきだと主張する者)もいた。思想的にはバラバラであったが、モノの考え方が思想本位であるという点において彼らは一致していた。
 複雑な問題をお気に入りの因果関係の雛型に押し込もうとし、それにそぐわないものは関係のない雑音として切り捨てた。煮え切らない回答を毛嫌いし、その分析結果は旗幟鮮明(すぎるほど)で、「そのうえ」「しかも」といった言葉を連発して、自らの主張が正しく他の主張が誤っている理由を並べ立てた。その結果、彼らは極端に自信にあふれ、さまざまな事象について「起こり得ない」「確実」などと言い切る傾向が高かった。自らの結論を固く信じ、予測が明らかに誤っていることがわかっても、なかなか考えを変えようとしなかった。「まあ、もう少し待てよ」というのがそんなときの決まり文句だった。

なんていうか、世間で大きな声で何かを叫んでいるのって柔軟とは真逆な人たちだよね。

政治家や評論家やアナリストとかが「これからこうなる!」って叫んでるけど、この人たちのありかたは「謙虚」「柔軟」とは正反対に見える。
自分の正しさを疑うことなく、思想信条に基づいて、新たな情報の価値を低く見る。

当然彼らの予測はあまり当たらない。チンパンジー並みの成績しか出せない(逆にいうとどんなバカの予想でもチンパンジー程度には当たってしまう)。
予測が外れてもろくに検証されずに「私は元々こうなるとおもっていた」という後出しじゃんけんの一言で済ませてしまう。
あるいは「こんな悪いことになったのは私の言うとおりにしなかったからだ!」「おもっていた以上に良い結果になったのは私ががんばったからだ!」と己の手柄に持っていくか。

これは、チンパンジー並みの正答率しか出せない政治家や評論家が悪いというよりも、そういう人の発言に耳を傾けてしまう我々が悪いよね。
だってみんなはっきりものをいう人が好きなんだもん。
「Aの可能性もあるしBが起こる可能性も捨てがたい。もちろんCが起こる可能性もゼロではないので備えを欠いてはいけない……」
という人より
「A! A! A! ぜったいA! それ以外はありえん!」
って人の発言のほうをおもしろがってしまう。

だけどおもしろいからってチンパンジー並みの政治家を持てはやしちゃだめだ。それだったらまだタコにワールドカップの勝敗予想をさせるほうがマシだ(古い話だな)。



予測精度を上げるためには、検証が欠かせない。
 コクランが例に挙げたのは、サッチャー政権が実施した若年犯罪者に対する「短期の激しいショック療法」、すなわち短期間、厳格なルールの支配するスパルタ的な刑務所に収容するという手法である。それは効果的だったのか。政府がこの政策を一気に司法制度全体に広げたため、この問いに答えるのは不可能になってしまった。この政策が実施されて犯罪率が下がったら、それは政策が有効だったためかもしれないが、他にも考えられる理由は何百通りもある。反対に犯罪率が上昇した場合、それは政策が無益あるいはむしろ有害だったためかもしれないし、逆にこの政策が実施されなければ犯罪率はさらに高くなっていたかもしれない。当然政治家はどちらの立場もとる。与党は政策は有効だったと言い、野党は失敗だったと言うだろう。だが本当のところは誰にもわからない。政治家も暗闇で虹の色を議論しているようなものだ。
「政府がこの政策について無作為化比較試験を実施していれば、今頃はその真価がわかり、われわれの理解も深まっていたはずだ」とコクランは指摘する。だが政府はそうしなかった。政策は期待どおりの成果を発揮すると思い込んでいたのだ。医学界の暗黒時代が何千年も続く原因となった無知と過信の弊害がここにも見られる。
これはイギリスの話だが、日本の政治もほとんどが検証されていないようにおもう。

本来なら、政策導入前に「これを実施することによって〇〇の効果が見込めます。□□年までに××、□□年までに××の効果が得られなければ効果はなかったものとして中止します」といった検証プロセスを設定するべきだ。
(ちなみにぼくはWebマーケティングの仕事をしているが、Webマーケティングの世界ではこれはやってあたりまえのことで、やっているからといって誇るようなことではない)

残念ながらぼくは寡聞にして、政治の世界においてこのようなプロセスが公表されているのを聞いたことがない(仮にやっていたとしても公表しなければ意味がない。なんとでもごまかせてしまうのだから)。

もちろん政治においては数値で検証不可能なことも多い。人々の幸福度を上げるのが目的であればどうやったって恣意的になるし、結果が出るまでに十年以上かかるような政策もざらだ。
でも、仮目標として指標を定めるなり、スモールゴールを設定するなり、やろうとおもえばできることはいくらでもある。
それをしないのは、「失敗を認めたくない人間」ばかりが政策立案をしているせいなのだろう。

さっきの例でいうと「A! A! A! ぜったいA! それ以外はありえん!」っていうタイプ。言い換えると、チンパンジータイプ。


これはもう根本的に制度が誤っているんだろうね。
まちがえた人間を失脚させて、まちがえなかった人間を引き上げる制度にしていると、まちがいが減るかというとそんなことはない。
「まちがいを認めない人間」「まちがいをごまかす人間」ばかりになってしまう。そして予測精度は0.1%も改善しない。

改めるには、「まちがいを発見した人間(己のまちがいも含む)」に褒章を与えるような制度にしないといけないんだけどなあ。



この他にも、かつてドイツ軍が強かったのは「予測がはずれる前提で作戦を立てていた」からだとか、おもしろいエピソードがたくさん。

重要な意思決定に携わる人間は全員読むべき本だね。チンパンジーのままでいいならべつだけど。


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2019年10月4日金曜日

【読書感想文】設定の奇抜さ重視なのかな / 田丸 雅智『ショートショート 千夜一夜』

ショートショート 千夜一夜

田丸 雅智

内容(e-honより)
多魔坂神社のお祭りの夜、集うのは妖しの屋台と奇妙な人々…。欲しいと念じたものが出てくるヒモくじ屋。現れたゴロツキどもが引いたヒモの先には(「ヒモくじ屋」)、夜店ですくった人魚がみるみるうちに成長して(「人魚すくい」)、モデルにスカウトされたエリカが突然行方不明に(「ラムネーゼ」)、降り注ぐ優しい雨を、自分のものにする方法(「雨ドーム」)他、珠玉のショートショート全20編。いちどページを開いたら止まらない!わずか5分間の物語が、あなたを魅惑と幻想の世界へと誘います。巻末には、しりあがり寿さん描き下ろし「あとがきの夜」も特別収録。

神社のお祭りの夜をテーマにしたショートショート集。
全篇が「多魔坂神社のお祭り」に関係するという設定はおもしろい。神社のお祭りってあちこちでふしぎなことが起こってそうな気がするもんなあ。

ショートショートというと、どうしても星新一と比べてしまう。
死後二十年たってるのにまだ星新一とか言ってるのかよとかおもうかもしれないけど、ぼくにとっては神様みたいな人で物語の楽しみを教えてくれた人だから、どうしたって「星新一と比べてどうか」という目で読んでしまう。

ショートショートとは何かという質問に対しては、ぼくは短さ以上に「切れ味の鋭いオチ」が重要だと答える。
以下に意外性を見せるか、読者をだますか、余韻を残すかがショートショートに欠かせないものだと。

その基準でいくと、この『ショートショート 千夜一夜』はものたりなかった。
奇抜な設定はおもしろくて、起承転結の起承までは申し分ないのに、最後の最後で期待を下まわってくる。ハードルを上げて上げて、最後にハードルの下をくぐってくるというか。えっ、なにそのおもってたよりしょぼいオチ。悪い意味でだまされた気分。

まあショートショートに求めるものがちがうんだろうね。
この作者は、たぶん設定の奇抜さを重視しているんだろう。
大喜利のお題にいかに切れ味よく回答するかより、いかに独創的ないいお題を出すかに力を入れているというか。


しかしそんな中で『ストライプ』は設定もオチも秀逸だった。
ストライプのシャツの中から男の声がする、まるでストライプ模様が檻のようになって出られないようだ……という導入から、丁寧な話運びに「シャツ」「檻」を活かした鮮やかなオチ。
そうそう、ぼくがショートショートに求めるのはこれなんだよね!


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2019年10月3日木曜日

【読書感想文】計画殺人に向かない都市は? / 上野 正彦『死体は知っている』

死体は知っている

上野 正彦

内容(e-honより)
ゲーテの臨終の言葉を法医学的に検証し、死因追究のためとはいえ葬式を途中で止め、乾いた田んぼでの溺死事件に頭を悩ませ、バラバラ殺人やめった刺し殺人の加害者心理に迫る…。監察医経験三十年、検死した変死体が二万という著者が、声なき死者の声を聞き取り、その人権を護り続けた貴重な記録。

元監察医によるエッセイ集。あと小説もちょっと(たぶん実話をそのまま書くのはプライバシー的にまずいので事実に若干手をくわえて小説にしたんだろう)。

監察医とは、変死があったときに解剖をして不審な点がないかを調べる医師のことだそうだ。
「変死」と聞くとついつい「奇妙な恰好をした死体が姿を現した」という横溝正史世界的な死に方を想像してしまうが、医師が病死であると明確に判断したもの以外の死は法律的にはすべて「変死」という扱いになるそうだ。
だから交通事故死も自殺も変死になるし、自宅で心臓発作を起こして死んだなんて場合も変死扱いになるそうだ。
日本で死ぬ人の10~20%ぐらいは「変死」だそうで、だからそんなにめずらしいものではない。

「朝起こしに行ったら死んでいた」とか「風呂場で心臓発作を起こしたらしく死んでいた」なんてのはよく聞く話だ。
もちろんその大多数は病死なんだけど、ごくまれに「家族が殺して病死に見せかけた」というケースもあるそうだ。

で、解剖をしてそれを暴くのが監察医の仕事。
検死のプロである監察医が「病死にしては不自然な点がある」と判断すれば、そこから警察が捜査を開始するわけだ。

そういやこの前、テレビで「死体農場」というものを見た。
アメリカにある実験施設で、死体を様々な環境に放置して、死後どんな変化が起こるのかを観察するための施設だそうだ。
温度や湿度などを変えて死体の腐敗進行度合いを見ることで、犯罪事件の捜査に役立てるのだという。


日本ではそこまでのことはできないだろうが、監察医は死体に関する知識を多く持っているから、殺人事件の捜査には大いに貢献してくれる。
 臨死体著者の話を聞いたことがあるが、その人の場合は、かなり以前に死んだおじいさんが現われて、遠くの方からこっちへ来いと手招いていたが、行かなかった。もしもその通りにしていたら、自分は死んでしまったのかもしれないといっていた。
 私には臨死体験はないが、そのような現象があるならば、死に近づいたために心不全や血圧の低下の状態が起き、脳の血液循環不全のために幻想が出現したのではないかなどと、私は考えてしまう。その意味では、ゲーテが死ぬ前に残した有名な言葉「もっと光を!」は納得のいく言葉だと思っている。
 いまわの際の一言が、こうして現代までいい伝えられているのは、ゲーテという偉大な詩人の言葉であったからであろうし、とらえる側も言葉の中にゲーテを意識し、すばらしくふくらんだイメージを抱いて味わっているためでもあろう。
 だが、解剖生理学的に考察してみると、死が近づくと少なからず心不全、呼吸不全、脳機能不全などが生じ、神経系統の反応は鈍くなり、思考力も視力も衰える。体温も低下し、筋肉の緊張もゆるんでくる。
 バレーボールのような球形をしている眼球も、神経が麻痺すると緊張がゆるみ、たとえばラグビーのボールのような形に歪みが生じてくるのではないだろうか。そうなると正常時の焦点はズレて正しい像を網膜に結ばなくなる。
 脳機能の低下と焦点のズレなどから、明るさを感ずる力も弱くなるため、死期が近づくと、目の前が暗くなり、ものが見えにくくなる。

ふつうの医師は生きている人たちの病気を診るのが仕事だけど、監察医は死体を調べるのが仕事。同じ医師の資格を持っていても、相手はまったくちがう。

犯罪を見逃さないためには欠かせないポジションだね。

……とおもったら、この監察医制度があるのは全国で五都市だけ(東京23区・大阪市・名古屋市・横浜市・神戸市)だそうだ。
じゃあその他の地域はどうしているのかというと、監察医ではなく、そのへんのお医者さんが呼ばれて調べるのだそうだ。近所の内科クリニックのお医者さんが検死をしたりするのだとか。

専門医が見れば「死後この時間でこうなっているのはおかしい」とか「自殺でこんな痕がつくはずがない」とか気づくようなことでも、一般の医師なら見逃してしまうこともよくあるだろう。

たぶん、「自殺や事故に見せかけた殺人」が見過ごされることもよくあるんだろうな。

ということで、もしも計画殺人をするなら監察医制度のある五都市以外でやるのがオススメだぜ!


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2019年9月30日月曜日

【読書感想文】我々は万物の霊長にしがみつく / 吉川 浩満『人間の解剖はサルの解剖のための鍵である』

人間の解剖はサルの解剖のための鍵である

吉川 浩満

内容(e-honより)
人工知能、ゲノム編集、ナッジ、認知バイアス、人新世、利己的遺伝子…従来の人間観がくつがえされるポストヒューマン状況の調査報告。

タイトルだけで「これはおもしろそう!」とおもって買ってしまったので解剖学の本だとおもっていたのだが、ぜんぜんちがった。
人工知能、倫理学、行動経済学といった今流行りのキーワードを軸に「人間とは何か」「今後人間はどうなっていくのか」「あるいは人間は万物の霊長ではなくなるのか」などについて書いている本だった。

後半にいたってはいろんな雑誌に書いた文章や本の解説などが並んでいて、「雑多なテーマの文章を寄せ集めてなんとか一冊な本にしました」という感じがすごい。
ファンなら楽しく読めるのかもしれないけど……。
この内容なら、こんなおもしろそうなタイトルをつけずに「吉川浩満エッセイ集」みたいなタイトルにしてほしかったな。だまされた気分。



「人間の解剖はサルの解剖のための鍵である」という言葉は著者がつくったものではなく、カール・マルクスの言葉から来ているそうだ。
「カール・マルクスが『資本論』の草稿に書きつけた言葉に、「人間の解剖は、猿の解剖のための一つの鍵である」というものがあります。これはちょっと逆説的に響きます。普通に考えたら人間のほうが「高級」なんだから、逆ならまだしも、なんでわざわざ低級なものを理解する必要があるのかと思うかもしれません。この言葉はマルクスの歴史観を見事に表していて、深い含番があります。たとえば、猿のグルーミング(毛づくろい)には、順位制の維持や紛争の調停といった社会的コミュニケーションの機能があるといわれています。それを私たちが理解できるのは、私たちがすでにコミュニケーションにかんする高度な理論と実践を身につけているからです。マルクスはこう続けます。「より低級な動物種類にあるより高級なものへの予兆は、このより高級なもの自体がすでに知られているばあいにだけ、理解することができる」と。それと同じで、二〇世紀後半以降の学問上の認知革命を経たいまだからこそ、私たちは七万年前に起きた歴史上の認知革命の重大性をよりよく理解できるようになった。
なるほどね。われわれは動物の行動を見て「あれは求愛行動だ」とか「敵を威嚇している」とか理解することができるけど、それは人間の行動様式の中に求愛や威嚇があるからだ。
たとえばカマキリのメスは交尾の後にオスの頭を食べちゃうことがあるけど、人間はふつうそんなことしないので、カマキリの行動を観察して「ひょっとしたらこんな気持ちかも」と想像することはできても真に理解することはできない。

ぼくらは下等な生物を研究することで人間のような高等な生物を理解できるとおもっているけど、実は逆なのだ(そもそもその下等とか高等って考え自体が進化論的にまったく正しくないのだけれど)。



ポスト・ヒューマン、つまり我々の次に出現する知的生命体についてのくだりはおもしろかった。
 では、私はなにを望みたいのか。夢のような話ではありますが、まずはわれわれサピエンス自身が他者や他種にたいして節度と寛容さをもって接することができる存在になれないものかと思います。本書でも再三注意がうながされているように、実際に食物連鎖の頂点に君臨しているのですから、ノブレス・オブリージュ的な責任と義務は避けられないのではないでしょうか。つまり、幸福になるだけでなく、幸福になるに値する存在になることをも追求する。少なくとも後者について生物種としてのサピエンスの成績はこれまでのところ不合格ですよね。あるいは、そうでなければいっそのこと人間のちっぽけなプライドや偏見とは隔絶した存在に登場してほしいですね。そういうプライドや偏見は人間がもつ面白味ではありますが、それを他種や新種にまで無理強いする必要はないでしょう。すでに存在する掃除機やドローンなども人間のプライドや偏見から自由な存在でしょうが、しかし彼らには汎用的な能力が決定的に足りません。もし、ニーチェの超人のように高貴で自律的で、あわよくばノブレス・オブリージュを期待できるような存在が出現するならば、私たち旧世代の人間が結果として置いてけぼりを食らわされたり、場合によっては追い払われるようなことになったとしても、これまで人間がなしてきた悪行を思えば、それはもう、もって瞑すべしではないかと思います。ただ、そうした存在がどのような望みをもつことになるのか、あるいはそもそもなにかを望むなんてことがあるのかどうか、そのとき欲望の問題はどうなるのか等々、新たな疑問もわいてくるのですが。

もしも人間よりももっと高度な知性を持ったモノが生まれたら(モノと書いたのはそれが生物ではない可能性も十分高いからだ)。

著者は
「私たち旧世代の人間が結果として置いてけぼりを食らわされたり、場合によっては追い払われるようなことになったとしても、これまで人間がなしてきた悪行を思えば、それはもう、もって瞑すべしではないかと思います」
とクールに書いているけど、こうおもえる人は少数派だろうね。

多くの旧世代の人間(つまり我々)は、意地汚く万物の霊長の座にしがみつこうとするだろう。今も「AIに仕事をとってかわられる!」と見苦しくあがいているし。

こうした世代交代はずっとくりひろげられてきた。
古くはホモ・サピエンスが旧人類にとってかわった。
最近でいうと石炭エネルギーが石油に代わったり電卓がコンピュータにとってかわられたりして、そのたびに仕事を奪われる人がいた。権利を守るための反対運動もあったが、結局は無駄だった。
世代交代が終わってみれば「便利なもの、よりよいものに代わるのは避けられないのに、旧いものにしがみついてかわいそうな人」としかおもえないが、いざ自分が「とってかわられる側」になるとなかなか「じゃあ私は退場して新しい人にさっさと道を譲りますわ」とは言えないものだ。

ネタバレになるが、貴志祐介『新世界より』は現人類が滅びた後の世界を描いた小説だ。
その世界では旧人類(つまり今の我々)は新人類に虐げられながら、それでも虎視眈々と反撃のチャンスを窺っている。

じっさいの人間はこっちのほうが近いだろう、とおもう。
「これまで人間がなしてきた悪行を思えば、それはもう、もって瞑すべしではないか」なんて言えずに、「やだやだやだ! 人間が万物の霊長じゃない世界なんてぜったいやだ!!」とじたばたするんだろうな、と。


考えてみればどうせ自分はあと数十年以内に死ぬのだからその先の人類が虐げられようと滅びようと関係ないんだけど、でもやっぱり子孫繁栄してほしい、という心情は捨てられないんだよなあ。
しょせん人間なんて遺伝子の乗り物(by リチャード・ドーキンス)なんで。

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2019年9月24日火曜日

【読書感想文】役に立たないからおもしろい / 郡司 芽久『キリン解剖記』

キリン解剖記

郡司 芽久

内容(ナツメ社ホームページより)
長い首を器用に操るキリンの不思議に、解剖学で迫る!「キリンの首の骨や筋肉ってどうなっているの?」「他の動物との違いや共通点は?」「そもそも、解剖ってどうやるの?」「何のために研究を続けるの?」etc. 10年で約30頭のキリンを解剖してきた研究者による、出会い、学び、発見の物語。

世界で一番多くキリンを解剖したんじゃないか、と自負する若きキリン研究者(1989年生まれだそうだ)が、「キリンの8番目の首の骨」を発見するまでの話。

 これまでの研究では、肋骨が接しておらず動きの自由度が高い頸椎だけが、首の運動に関係していると考えられてきた。しかしキリンでは、筋肉や骨格の構造が変化することで、本来ほとんど動かないはずの第一胸椎が高い可動性を獲得したのだ。
 キリンの第一胸椎は、決して頸椎ではない。肋骨があるので、定義上はあくまで胸椎だ。けれども高い可動性をもち、首の運動の支点として機能している。キリンの第一胸椎は、胸椎ではあるが、機能的には「8番目の“首の骨”」なのだ。

哺乳類の首の骨は基本的に7本だ。
キリンのように首の長い動物でもそれは例外でない。子どもの頃、本で「キリンもブタも骨の数は一緒」と読んで「へえ」とおもいつつも「ほんまかいな」とちょっと疑わしくおもったのをおぼえている。
だってあんなに首が長いのに7本で足りるの?

この本の著者である郡司芽久さんはキリンの解剖を重ねるうちに、胸骨のひとつが首の骨のはたらきをしていることに気づいたのだそうだ。
なので「首の骨は7本」というのは間違いではないのだけれど、首の骨じゃないところが首の骨の代わりをしているから「分類的には7本だけど機能的には8本」ということらしい。

しかしキリンの解剖をした人は古今東西たくさんいる。
どうして誰もそのことに気が付かなかったのか。
 第一胸椎が動くかを確認するには、実際に遺体の首を人力で動かして骨の動きを確認してみるのが一番だ。けれども、大人のキリンの首は強力な項靭帯で引っ張られているため、私1人の力で動かすのは不可能だ。おそらく2、3人がかりでも難しいだろう。とはいえ、筋肉や靭帯を全て取り外してしまったら、本来の可動性からはかけ離れてしまう。
 そこで目をつけたのが、キリンの赤ちゃんだ。赤ちゃんならば、項靱帯はあまり発達していないだろうし、私でも首を動かしてみることができるに違いない。
 しかも、キリンの赤ちゃんの遺体には当てがあった。

キリンは首が長いので、解剖室へ運ぶ前に身体をばらばらにする。
長すぎてトラックに積みこめないから。
で、ふつうは首と胴体をばらして運ぶ。だから「胸の骨が首を動かすはたらきをしている」ことに誰も気づかなかったのだ。

きっと、小型動物であればもっと早く誰かが気づいたのだろう。
身体を切り離さずに解剖できるし、生きたままレントゲンやCTスキャンを撮ることもできたかもしれない(よう知らんけど)。

でもキリンは首が長いからこそ、誰も気が付かなかった。
なるほどー。このへんの謎解きはミステリ小説を読んでいるようでおもしろかった。

郡司さんがそこに気づいて「次にキリンが死んだら首と胴体を切り離さずに運んできてください」と動物園にお願いしたり「キリンの赤ちゃんを解剖する」という発想にいたったのは、やっぱり誰よりも多くキリンを解剖してきたからなんだろうね。さすがだなー。


「で、それがわかったところで何の役に立つの?」と訊かれたら困ってしまうけど(たぶん何の役にも立たないんだろう)、でも何の役にも立たたないからこそのおもしろさ、ってのはあるんだよな。わかんない人には永遠にわかんないだろうけど。


ということで、読んだところでたぶん人生において役立つことはないであろう本だけど、内容はおもしろかった。
ただ、文章はちょっと遊びがないというか、無駄がない気がして、なんだか窮屈な感じがしたな。若いからこそなんだろう。
きっとこの人は歳を重ねてきたら、川上和人さんの『鳥類学者 無謀にも恐竜を語る』みたいに学術的にも文章的にもめっぽうおもしろいものを書く人になるような気がする。

そうなるよう、今後もキリンの本をたくさん書いてほしいな。


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2019年9月20日金曜日

【読書感想文】暦をつくる! / 冲方 丁『天地明察』

天地明察

冲方 丁

内容(e-honより)
徳川四代将軍家綱の治世、ある「プロジェクト」が立ちあがる。即ち、日本独自の暦を作り上げること。当時使われていた暦・宣明暦は正確さを失い、ずれが生じ始めていた。改暦の実行者として選ばれたのは渋川春海。碁打ちの名門に生まれた春海は己の境遇に飽き、算術に生き甲斐を見出していた。彼と「天」との壮絶な勝負が今、幕開く―。日本文化を変えた大計画をみずみずしくも重厚に描いた傑作時代小説。第7回本屋大賞受賞作。

いやあ、すごいなあ。
「算術」「天体観測」「改暦」といった、小説としては地味なテーマを描いているのに、こんなにおもしろくなるんだから。

冲方丁さんはSF作家で、時代小説はこれがはじめての作品だそうだ。
以前に「時代小説はファンタジーだ」という持論を書いたけど(【読書感想文】時代小説=ラノベ? / 山本 周五郎『あんちゃん』)、この主張を裏づけてくれるかのようなSF作家の時代小説。
「星はときに人を惑わせるものとされますが、それは、人が天の定石を誤って受け取るからです。正しく天の定石をつかめば、天理暦法いずれも誤謬無く人の手の内となり、ひいては、天地明察となりましょう」
 自然と、いつか聞いたその言葉が口をついて出た。あの北極出地の事業で、子供のように星空を見上げる建部と伊藤の背が思い出され、我知らず、目頭が熱くなった。
「天地明察か。良い言葉だ」
 正之が微笑んだ。先ほどの殺伐とした枯淡さはなく、穏やかで、ひどく嬉しげだった。そしてその微笑みのまま呟くように言った。
「人が正しき術理をもって、天を知り、天意を知り、もって天下の御政道となす……武家の手で、それが叶えられぬものか。そんなことを考えておってな」
 半ば盲いた正之の目が、そのとき真っ直ぐに春海を見据え、
「どうかな、算哲、そなた、その授時暦を作りし三人の才人に肩を並べ、この国に正しき天理をもたらしてはくれぬか」
 それが三度目の、そして正真正銘の落雷となって、春海の心身を痺れる思いで満たした。
「改暦の儀......でございますか」
 すなわち八百年にわたる伝統に、死罪を申し渡せということだった。

「新しい暦を作る」と言われても現代人にはぴんとこない。ぼくらは生まれたときからずっと同じ暦(グレゴリオ暦)を使いつづけているのだから。
「暦を変えたらカレンダー屋さんや手帳を作っている出版社はたいへんだろうな」とおもうぐらいだ。
しかしこれがとんでもないことなのだ。

当時の日本では八百年にもわたって宣明暦という暦が使われていた。
しかし当初の計算が正確ではなかったため、八百年も使いつづけているうちに実際の天体の動きとの間に二日間のずれが生じてしまったのだ(九世紀に作られた暦が八百年で二日しかずれなかったってのもすごいけど)。

そこで、主人公である渋川春海がより正確な暦をつくることを命じられ、数学や天文学などを駆使して新暦を作りつつも朝廷らとの政治争いにも巻き込まれ……。

と、ストーリーを説明してもこれがスリリングな展開になるということがなかなか伝わらないだろうなあ。
うーん、申し訳ないけど一度読んでみてというほかない。



しかし暦をつくるのってたいへんなんだなあ。
あたりまえのように使っている暦だけど、天体の動きを表したものであり、人々の生活の土台であり、統治者の威光を示すものであり、未来を予測するためのものなんだもんなあ。
 膨大な数の天測の数値を手に入れ、何百年という期間にわたる暦註を検証した結果、太陽と月の動きが判明したのである。
 太陽と惑星は互いに規則的に動き続けている。そのこと自体は天文家にとって自明の理である。
 だがその動き方が、実は一定ではないということを、春海は、おびただしい天測結果から導き出したのだった。
 太陽は、地球に最も近づくとき、最も速く動く。逆に最も遠ざかるときには、最も遅く動いているのである。これは、厳密に秋分から春分までを数えるとおよそ百七十九日弱なのに対し、春分から秋分までは、およそ百八十六日余であることから、明らかになっていた。
 後世、″ケプラーの法則″と呼ばれるものに近い認識である。このいわば近地点通過、遠地点通過の地点もまた、徐々に移動していく。となると、その運航はどんな形になるか。
 楕円である。
「……そんな馬鹿な」
 思わず呟きが零れた。だがそれが真実だった。今の世の誰もが、星々の運行を想像するとき、揃って円を思い描く。真円である。それが、神道、仏教、儒教を問わず、ありとあらゆる常識の基礎となっている。そのはずではなかったのか。星々の運行、日の巡り、月の満ち欠けにおいて、いったい誰が、こんな、奇妙にはみ出したような湾曲した軌道を想像するというのか。
今のように優れた観測器具やコンピュータもない江戸時代に、観察と計算だけでこんなことまで明らかにしていた人がいたなんて。
ただただ感心するばかり。


そういえば、地理人(今和泉隆行)さんという人のトークイベントを聴きにいったときのこと。
地理人さんは「存在しない街の地図を精密に描く」という趣味を持っているのだが、最近はよりリアルな街の地図を描くためにプレートテクトニクスを学んでいる、と語っていた。
なぜこんな街並みなのか。それはここに川があるから。
なぜここに川があるのか。それはあそこに山があるから。
なぜあそこに山があるのか。それはプレートとプレートがぶつかって……。
ということで、地図を知るためには地球そのものについて学ぶ必要があるのだ、と。

もちろんプレートテクトニクスだけではいけない。
街がその形になったのには、いろんな原因がある。それをつかむためには歴史、文化、経済、法律、軍事、宗教、さまざまなことを知らなくてはならない。
精密な地図を書こうとおもったら、森羅万象を知らなくてはならないのだそうだ。

暦も同じなのだろう。
あらゆる方面に深い造詣を持ちながらも謙虚さを崩さない渋川春海の姿に、同性ながら惚れ惚れする。

『天地明察』には主人公の渋川春海と並んで、和算を興した関孝和という天才も出てくる。
登場シーンは少ないのだが(話題にはよくのぼる)、この天才の姿もまたかっこいい。

いやあ、江戸時代にもとんでもない天才がいたんだねえ。
なめてたよ、江戸を。すんませんでした。


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2019年9月18日水曜日

【読書感想文】チョ・ナムジュ『82年生まれ、キム・ジヨン』

82年生まれ、キム・ジヨン

チョ・ナムジュ (著) 斎藤真理子 (訳)

内容(e-honより)
ある日突然、自分の母親や友人の人格が憑依したかのようなキム・ジヨン。誕生から学生時代、受験、就職、結婚、育児…彼女の人生を克明に振り返る中で、女性の人生に立ちはだかるものが浮かびあがる。女性が人生で出会う困難、差別を描き、絶大な共感から社会現象を巻き起こした話題作!韓国で100万部突破!異例の大ベストセラー小説、ついに邦訳刊行。

キム・ジヨンという人物の半生を通して女の生きづらさを描いた小説。

フェミニズム小説、というジャンルでくくられているらしいが、これは男こそ読むべき小説だね。
そうか、女であるというだけでこれほどまでに人生が変わってくるのか。

逆に女性にとっては「なにをいまさら」「女が生きづらいのなんてあたりまえじゃない」と感じるかもしれない。


この本で描かれるキム・ジヨン氏は、ごくごく平凡な人生を歩んでいる(ちなみにぼくは1983年生まれなのでほぼ同い年)。
ごくふつうの家庭に生まれ、ふつうの学校に行き、ふつうの会社に就職し、ふつうの男性と恋愛をして結婚して、ふつうの家庭を築く。
もちろんその間にはそれなりの苦難はあるのだが、クラスメイトから意地悪されるとか、教師から理不尽に怒られるとか、進路に迷うとか、就職先が決まらないとか、恋人とすれちがうとか、当事者にとっては深刻でも、言ってみればどうってことのない悩みだ。

ふつうの人がふつうの人生を送ってふつうの苦難をふつうに乗り越えるだけなので、とても小説の題材になるような話ではないのだが、このふつうさこそが「女の生きづらさ」を鮮やかに浮かびあがらせている。
「でも就職説明会のときに来てた先輩たち、見たでしょ。うちの学校からでも、いい会社にいっぱい行ってるよ」
「それ、みんな男じゃない。あんた、女の先輩を何人見た?」
 ハッとした。目がもう一つ、バッと開いたような気分だった。言われてみればほんとにそうだ。四年生になってから、それなりの就職説明会や先輩の話を聞く会などには欠かさず出席してきたが、少なくともキム・ジヨン氏が行った行事に女性の先輩はいなかった。キム・ジヨン氏が卒業した二〇〇五年、ある就職情報サイトで百あまりの企業を対象に調査をした結果、女性採用比率は二九.六パーセントだった。たったそれだけの数値で、女性が追い風だと報道していたのである。同じ年、大企業五十社の人事担当者に行ったアンケートでは、「同じ条件なら男性の志願者を選ぶ」と答えた人が四四パーセントであり、残り五六パーセントは「男女を問わない」と答えたが、「女性を選ぶ」と答えた人は一人もいなかった。
きっと、韓国だけじゃなく日本でも、そして他の多くの国でも、進路に悩む女性が味わっている気持ちだろう。

昔ほどあからさまな女性差別は少なくなった(東京医科大学のようにいまだに露骨な差別をしているところもあるけど)。
男女雇用機会均等法により、求人票に「男子のみ」なんて書いたらいけないことになった。
けれども見えづらくなっただけで、意識としてはそれほど大きく変わっていない。

若い女性に求められるのは、令和の時代になっても「職場の華」「かわいげ」だったりする。
能力のない女性は求められず、かといって能力の高すぎる女性も敬遠される。
おとなしくてかわいくて気が利いて、多少のセクハラは笑って受けながしてくれる女性(もちろん表立ってこんなことを口にする企業はないが、この条件に当てはまらない女性は就職に苦労する可能性が高いだろう)。
「会社の将来を背負って立つ人材」は、男に対しては求められても女はほとんど求められていない。

ぼくだって、いざ自分が採用する立場になったら「長く働いてくれる人をとるんだったら、能力が同じなら男を選ぶかな」とおもってしまう。
「だって現実問題として女のほうが結婚や出産で職場を離れる可能性が多いし……」と言い訳をして。「属性の可能性」で個人を判断することこそが差別なんだけどね。



 遅刻常習犯だった五人の反省文メンバーは、翌日からまっ先に登校するようになり、午前中はずっと机に突っ伏して寝ていた。何かたくらんでいるようだったが、大きな校則違反などをしたわけでもないので先生たちも何も言えない。そしてついに事件は起きた。ある朝早く、不良娘が路地で露出狂を取り押さえたのである。一本橋の上で仇に出くわしたようなものだ。彼女が露出狂とにらみ合うと、後ろに隠れていた四人がいっせいにとびかかり、準備しておいた物干しロープとベルトで露出狂を縛り上げて近所の派出所に引っぱっていった。その後派出所で何があったのか、露出狂がどうなったかを知る人はいない。ともあれその後露出狂が現れることはなかったが、五人は謹慎処分を受けた。一週間というもの授業を受けられず、教務室の隣の生徒指導室で反省文を書き、グラウンドとトイレの清掃をして帰ってきた彼女たちは、固く口をつぐんでいた。先生たちはときどき、その生徒たちとすれ違うと頭をトンと小突いたりした。
「女の子が恥ずかしげもなく。学校の恥だぞ、恥」
 不良娘は先生が通り過ぎたあと、低い声で「畜生」と言い、窓の外につばを吐いた。
露出狂を捕まえたのに謹慎処分を受ける女子中学生。
もし捕まえたのが男子学生だったらどうだろう。きっと「お手柄中学生!」という扱いだっただろう。

ひどい話だ、とおもう。
けれどもしも自分の娘が露出狂を捕まえたらどうおもうだろう。手放しで「よくやった!」とは言えない気がする。
「悪いやつを捕まえたのはえらいけど、でもあんまりあぶないことはしないほうがいいよ。どんなやつかわからないから」
と、苦言のひとつも呈してしまうだろう(息子でも言うだろうけど、娘に対するほどではないだろう)。

黙っていればセクハラをされ、性犯罪の被害者になればおまえにも落ち度があったと言われ、反撃すれば生意気だの恥ずかしいだのと言われる。どないしたらええねん。



たいていの男は、自分が下駄を履かされている(というか女が下駄を脱がされているのかも)ことに無自覚だ。ぼくも含めて。

「女はたいへん」と聞くと、おもわず「でも男には男の苦しさがあるんだよ」と言い返したくなる。

ぼくが「男の生きづらさ」をもっとも感じたのは、無職だったときと、フリーターをやっていたときだった。
いろんな人から「いい歳した男がいつまでふらふらしているんだ」「フリーターでは将来妻子を養っていかなくちゃいけないのに」と言われた。
もちろん女でも言われていたかもしれないけど、定職についていない人に対する風当たりは、男のほうが女よりずっときつい。たぶん。

ただしそれは「男のほうが正社員雇用されやすい」からこそ、と言えるかもしれない。正社員になりやすいからこそ、そうでない人の居場所がなくなるのだ。
「男なのにずっとパート/派遣ってわけにはいかんだろう」と言われることはあっても、「女なのに」と言われることはほとんどないだろうからね。

やっぱりトータルで考えると、女のほうが生きづらいとおもう。
月経・出産という身体的な障壁もあるし(というかこれが「障壁」になっていることが本来おかしいんだよね。ほとんどの女性が体験することなのだから。せいぜい「近眼」ぐらいのハンデであるべきだよね)、たびたび性的な目を向けられるというのも大きなストレスだろうし。
美人すぎて苦労する、ってのは女ならではだろうね。男のイケメンはいいことしかないだろう(イケメンになったことないから想像だけど)。


ぼくは三十年以上「男」として生きてきたので、「女の苦しみ」を我がことのように感じることはなかった。
しかし娘を持つ身になって、その生きづらさを想像して気が滅入るようになった。
この人も将来、男から容姿をあけすけに審査されるのだろう、性的な目で見られるのだろう、気が弱ければ身勝手な男に屈服させられそうになるのだろう、気が強ければ女のくせに生意気だとおもわれるのだろう、就職で差別されるのだろう。
……と、娘がこれから味わう苦労を想像してため息をつく。

しかしその苦労を味わわせるのは、かつてのぼく(もしくはこれからのぼくかも)なのだ。
我ながら、ずいぶん身勝手な話ですわ。

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2019年9月17日火曜日

【読書感想文】構想が大きすぎてはみ出ている / 藤子・F・不二雄『のび太の海底鬼岩城』

のび太の海底鬼岩城

藤子・F・不二雄

内容(e-honより)
今回の舞台は海底。海底へ遊びにきたドラえもんたち仲よし五人組は、チョモランマと富士山を足した長さの海溝を下ったり、口の悪い水中バギーに乗って、海底ドライブを楽しんだりと、大満足のキャンプになるはずだったのに、とつぜん、現れた海底人によって、ドラえもんたちは一瞬にして囚われの身に!!なんと海底には高い文明を持つ海底人の国、ムー連邦があったのだ!海底人のやさしい少年、エルからくわしい話を聞いたドラえもんたちは、ただただ驚くばかり。ムー連邦の首相は、この国の存在を陸上人からかくそうと、ドラえもんたちを一生国内に閉じこめようと考える。そして、国境を無断で越えれば死刑になると知りながらも、脱出を試みるドラえもんたち。はたして、無事国境を越え、再び陸上にもどることができるのか!?海底人の追っ手が猛スピードでやってくる!!にげきれるのか、ドラえもん!?大長編ドラえもん激動の第4作!!
六歳の娘が「『ドラえもん』の長い話が読みたい」というので書店に連れていき、大長編ドラえもんの棚の前で「どれにする?」と訊いて、娘が選んだのがこれ。

正直、なぜこれを選んだのかわからない。
ほとんど漢字を知らない娘にはまずタイトルが読めないだろうし、表紙は不気味。もっと子どもウケしそうな作品もあるのになぜ『海底鬼岩城』なんだろう……とおもいつつも購入。

で、読んでみておもった。
大正解だ。
すごいぞ娘。
傑作じゃないか。

『のび太の海底鬼岩城』は大長編ドラえもんの四作目。
子どもの頃、一作目『恐竜』、二作目『宇宙開拓史』、三作目『大魔境』、五作目『魔界大冒険』、六作目『宇宙大戦争』は持っていてボロボロになるまで読んだのに、なぜか『海底鬼岩城』だけはすっぽり抜けていた。
やはり子ども心に表紙が怖かったからだろうか。
友人の家で読んだことはあったので「バギーちゃんが最後に活躍するやつだよね」ぐらいの記憶はあったのだが、大人になって読んでみて、その構想の大きさに度肝を抜かれた。



『のび太の海底鬼岩城』の舞台は海底。
夏休みに山に行くか海に行くかでもめたのび太・しずか・ジャイアン・スネ夫とドラえもんは、「だったら山も海も両方楽しめるところに行こう」というドラえもんの提案で海底山脈に行くことに。
海底でも生活できるようになる[テキオー灯]や海中で走れる[水中バギー]などの道具を使い、海中キャンプを楽しむ五人。
ところがジャイアンとスネ夫が、行方不明になった沈没船を探すために勝手に探検に出たために生命の危機に陥る。
海底人によってジャイアンとスネ夫の命は助けられたものの、囚われの身に。死刑を宣告された五人だったが、地球滅亡の危機が迫ったことで地底人たちと手を組んでポセイドンと戦うことを決意する……。

というストーリー。


前半はやたらとのんびり進む。まだ冒険が始まらないのかとやや退屈だが、大人になってみるとこれはこれでノスタルジーを掻きたてられていい。特にのび太がめずらしくドラえもんの力を借りずに宿題をやりとげるところは、前半のヤマ場といってもいい。

中盤ではたっぷり時間をかけて深海の様子が描かれる。
深海の生態系や、日本海溝、マリアナ海溝、バミューダトライアングルなどの解説など蘊蓄が語られる。
正直、子どもにとってこのへんはつまらないだろう。しかし大きくなって地理の授業で習ったときに「あっこれ『海底鬼岩城』で読んだやつだ!」となって理解を助けてくれるはず。こういう啓蒙は時間差で効いてくるんだよねえ。

もちろん蘊蓄だけではなく、キャンプの描写もいい。楽しそうだ。
海中でトイレをどうするのか、プランクトンを使った料理など細部までこだわった海底キャンプ生活は、読んでいてわくわくする。
こういう「本筋には関係ない細かい設定」が藤子プロ制作になってからは失われてしまったようにおもう。

さらに序盤から[消えた沈没船]の謎がくりかえし語られることで、楽しいキャンプにミステリアスな雰囲気が漂う。
中盤最大のヤマ場が「ジャイアンとスネ夫が死に瀕する」シーン。ここは何度読んでもスリリング。バギーの無慈悲な台詞もあいまってめちゃくちゃ恐ろしい。
徐々に[テキオー灯]の効き目が切れてくるあたりは読み手まで息苦しさを感じるほどだ(呼吸に関してはテキオー灯の効き目が切れたからといって即死することはないだろうが、水圧には一瞬でも耐えられないだろうからあれでジャイアンたちが死なないのはちょっと無理があるけどね)。

このくだりは、死の恐怖を感じるジャイアンとスネ夫だけではなく、残されたドラえもんたちの心中表現も見事だ。
「間に合わないことは承知で追いかける」「手遅れになってからいい方法を思いつく」といった行動のおかげでドラえもんたちの味わったパニック感が強調されている。

圧巻は後半で明らかになる設定。
かつて海底にはムー、アトランティスという二つの大国が存在していたが、アトランティスは軍事事件の失敗により滅んでしまう。しかしアトランティスの設置した自動迎撃システムだけは今も生き残っており、近づくものを自動で攻撃する(バミューダトライアングルで船や飛行機が消息を絶つのはこのため)。
そして海底火山の噴火を敵からの攻撃だと認識してしまったアトランティスが自動迎撃ミサイルを発射することにより世界が滅亡の危機を迎える……。

いやあすごい。正確な科学知識と大胆なほらの融合。SFはこうでなくっちゃ。
ムー大陸、アトランティス大陸、バミューダトライアングルに東西冷戦やキューバ危機の要素をからませたストーリー。こんな壮大なストーリーをまさかドラえもんでやっていたなんて……。

『のび太の海底鬼岩城』の映画公開は1983年(ちなみにぼくが生まれた年)。
まだまだ米ソ冷戦まっただなかだったので、今よりずっとリアリティのある舞台設定だったはずだ。

すごいよね。
ただ、残念ながら子どもたちにはちっとも伝わらなかっただろうなあ……。
もちろんぼくも子どもの頃に読んでいたけど、このへんの設定はまったくおぼえていない。



壮大な構想にはただただ感心させられるが、お話としてみると窮屈な感じは否めない。
後半にあわただしく「ムーとアトランティスの歴史」や「アトランティスの自動迎撃システム」の説明がなされるため、読んでいるほうとしては展開についていけず、ラスボスであるポセイドンは突然現れたような印象を受ける。

また、アクションシーンも消化不良で爽快感がない。なにしろドラえもん以下全員やられてしまうのだから。
「カメレオン帽子を使ってバリアーを突破する」のくだりも、コマ数が割かれているわりに絵的に地味すぎてどうも緊迫感に欠ける。命を賭けた決死の行進なんだけど、絵で見るとただ歩いてるだけだからね。

最後の「バギーちゃん!」の活躍も、今読むとずいぶん淡泊だなあ、もっとコマ数を割いてもいいのにとおもう。でもあまりくどくどしくないのもかえって読者に想像させる余地を与えてくれていいのかも。
これが『ONE PIECE』だったら涙涙のさよならバギーちゃんで二十ページは使っただろうね。

細かい点を言いだせばきりがないが、藤子・F・不二雄先生の壮大すぎる構想が、子ども向け映画の枠に収まりきらずにはみだしてしまったからなんだろうなあ、という印象。
大人としてはものたりないところもあるけど、でも『ドラえもん』は子どものためのものなのだからこれはこれでいい。
なにしろ、『海底鬼岩城』を読んだ娘が「おもしろかったー!」と言っていたのだから。

三十数年後の子どもも、そして大人も同じように楽しめるなんて、すごい作品ですよ。改めて。

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2019年9月12日木曜日

【読書感想文】力こそが正義なのかよ / 福島 香織『ウイグル人に何が起きているのか』

ウイグル人に何が起きているのか

民族迫害の起源と現在

福島 香織

内容(e-honより)
中国共産党に忠実で、清く正しい人々。ゴミ一つ落ちておらず、スリもいない完璧な町。だが、この地のウイグル人たちをよく観察してみると、何かがおかしい。若い男性は相対的に少なく、老人たちに笑顔が見られない。観光客に接する女性たちの表情は妙に硬い。いまSF小説の世界にも似た暗黒社会が、日本と海を隔てた隣国の果てにあることを誰が想像しただろうか。さらに共産党による弾圧の魔手は、いまや在日ウイグル人にまで及んでいるという。現地ルポとウイグル人へのインタビューから浮かび上がる「21世紀最悪の監獄社会」の異様な全貌。

まずはウイグルについて。
ウイグル族は、中央アジア(今のカザフスタン・ウズベキスタン・キルギス)などに住む民族。中国西部にも多く住んでおり、主に新疆ウイグル自治区という場所に住んでいる。

で、この本の「ウイグル」は新疆ウイグル自治区のことを指す。
一応国際的には中国の一部ではあるが、中国の多数派である漢民族とは人種も言葉も宗教も違うわけで、実質は半独立国家としてやってきた。
ところが、2014年のウルムチ駅爆発事件(習近平国家主席の暗殺未遂事件。犯人の中にウイグル人がいたとされる)をきっかけに、ウイグル自治区への締め付けが強化。
ウイグル人である、イスラム教徒であるというだけの理由で中国共産党から様々な迫害を受けるようになった……というのをまず前提として知っておいてもらいたい。

中国の自治区といえば、ちょうど北京オリンピックのタイミングでチベット自治区への弾圧がわりと話題になった。今はすっかりニュースにならなくなったが、新奇性がなくなったから報道されなくなっただけで今も弾圧は続いているのだろう。

今は香港のデモがニュースになっているが、こちらもそのうち世界の関心が失われていくだろう。中国はそれを待っているのかもしれない。



ウイグル人が弾圧されていることはちらっと聞いていたが、詳しいことはまるで知らなった。
『ウイグル人に何が起きているのか』に書かれていることはぼくの想像よりもずっとひどい現実だった。
 尋問のあとは、洗脳だった。いわゆる「再教育施設」に収容され、獣のように鎖でつながれた状態で3カ月を過ごした。小さな採光窓があるだけの12㎡ほどの狭い部屋に、約50人が詰め込まれた。弁護士、教師といった知識人もいれば、15歳の少年も80歳の老人もいた。カザフ人やウズベク人、キルギス人もいたが、ほとんどがウイグル人。食事もトイレも就寝も“再教育”も、その狭く不衛生な部屋で行われた。午前3時半に叩き起こされ、深夜零時過ぎまで、再教育という名の洗脳が行われる。早朝から1時間半にわたって革命歌を歌わされ、食事前には「党に感謝、国家に感謝、習近平主席に感謝」と大声でいわされた。
 さらに、被収容者同士の批判や自己批判を強要される批判大会。「ウイグル人に生まれてすみません。ムスリムで不幸です」と反省させられ、「私の人生があるのは党のおかげ」「何から何まで党に与えられました」と繰り返す。
「『私はカザフ人でもウイグル人でもありません、党の下僕です』。そう何度も唱えさせられるのです。声が小さかったり、決められたスローガンを暗唱できなかったり、革命歌を間違えると真っ暗な独房に24時間入れられたり、鉄の拷問椅子に24時間鎖でつながれるなどの罰を受けました」と当時の恐怖を訴える。
 さらに、得体の知れない薬物を飲むように強要された。オムルは実験薬だと思い、飲むふりだけをして捨てた。飲んだ者は、ひどい下痢をしたり昏倒したりした。食事に豚肉を混ぜられることもあった。食べないと拷問を受けた。そうした生活が8カ月続いた。115kgあったオムルの体重は60kgにまで減っていた。
「同じ部屋に収容されていた人のなかから毎週5、6人が呼び出されて、二度と戻ってきませんでした。代わりに新しい人たちが入ってきます。出て行った人たちはどうなったのか」
仮に囚人や捕虜に対する扱いだったとしても、非人道的と言われるレベルだ。

ましてや、罪のない人に対する「再教育」なのだから、到底許されるような話ではない。
(「115kgあったオムルの体重は60kgにまで減っていた」だけは、数字だけ見ると健康的でいいじゃないかとおもってしまった。すまぬ)

欧米のジャーナリストらもこういう現実を指摘しているが、中国国内ではなかなか信じてもらえないらしい。
信じたくない気持ちもわかる。いくらなんでも自分の国はここまでひどいことはしないだろう、と思いたくなる気持ちは。

ぼくもショックだった。
これが北朝鮮の話だとかアフリカの独裁軍事国家とかの話であれば、「まあ世界にはそんなひどい国もあるだろう」とすんなり受け入れていたとおもう。

しかし、中国のような大国が、もうすぐ世界一の経済大国になろうかという国が、国連の常任理事国が、まさかこんなひどいことをするなんて。


大躍進政策の惨状だとか文化大革命だとか天安門事件での非道なおこないは知っていたが、ぼくにとっては歴史上の出来事だった。
ドイツのナチスやカンボジアのポル・ポトと同じような「過ぎ去った時代の話」だった。

しかしよく考えたら、ナチス政権やポル・ポト政権と中国共産党には大きな違いがある。
ナチスやポル・ポトは政権崩壊したのに対して、中国共産党は今もずっと政権を握ったままだということだ。根っこのところはそんなに変わっていないのかもしれない。



 中国当局がテロに関与している要注意国家としてリストアップしている26カ国、エジプトやサウジアラビア、ケニアなど中東、アフリカのイスラム圏に留学している学生が、まず呼び戻された。中国当局は、海外でウイグル人たちがより深いイスラム教に染まることを警戒したのだという。帰国した学生たちは身柄を拘束され、再教育施設に放り込まれ、なかには逮捕され、犯罪者として投獄された者もいた。
 危険を察知して帰国しなかった学生に対しては、たとえばエジプトでは、中国当局の要請を受けて当局が留学生たちを拘束した。エジプト当局は2017年7月の段階で、少なくとも200人のウイグル人留学生の身柄を拘束し、中国に強制送還した。留学生たちに対する身柄拘束の理由は告げられなかったという。
 一部のイスラム国家政府は中国経済に依存しており、中国当局の強い要請に逆らえない事情があった。こうして2018年までにエジプトだけでも3000人、全世界でおよそ8000人のウイグル人留学生が帰国させられた。帰国後の消息はほとんど不明という。再教育施設か刑務所に入っているか、あるいは死亡させられているか。日本にいるウイグル人留学生の状況については後述するが、少なくとも10人が学業半ばで帰国させられている。
国内にいる少数民族を弾圧するだけではなく(それもひどいが)、国外にいる人まで半ば強制的に呼び戻して身柄を拘束するというのだからおそろしい。

いい仕事があるとだましたり、戻らないと家族がどうなってもしらないぞと脅したり、その国に対して経済的な圧力をかけたりして、あの手この手で連れ戻そうとする。
なにもそこまでしなくてもとおもうが、内情が外国に知れ渡ることを恐れているのだろう。

「再教育施設」に入れられたウイグル人は、人体実験をさせられたり、強制的に臓器を摘出されているのではないかと言われているそうだ(はっきりした証拠こそないものの、異常に高い臓器移植件数などを見るかぎりはそうとしかおもえない)。
ひええ。ヤクザじゃん。いやいまどきヤクザでもここまでしないだろう。


さっきも書いたが、なによりおそろしいのはこれをやっている中国が世界ナンバーワンの経済大国になろうとしていることだ。
やっていることは東アジアのならず者国家とされている北朝鮮よりひどいじゃないのか、とおもえる。
けれどそれが(表面上は)大きな問題にならないのは、北朝鮮より軍事力があって経済的影響力も大きいからだ。
中国から経済援助を受けている国は中国共産党に逆らえない。日本外務省も、ウイグル問題については見て見ぬふりを決めこんでいる。
アメリカは批判しているが、それも人道的に許せないからというよりは、米中関係が冷えこんでいるから中国の力をそぐための「カード」として使っている面が大きそうだ。
今後の米中関係の変化によっては、あっさり無視されることになるかもしれない。
(日本の拉致被害者問題が政治的なカードとして使われているだけだから、日朝や米朝の関係によってすぐに引っこめられるのと同じように)

結局力があるからやりたい放題できる、力のない国は何も言えない、という現実をウイグル問題ははっきり映しだしている。
国際社会も結局は力の強いものが勝つのかよ、力こそが正義なのかよ、と悲しくなる。

まあ中国だけじゃないよね。
アメリカ軍によるアブグレイブ刑務所での捕虜虐待だって、あれをやってたのが小国だったならまちがいなく政権がふっとんでるはず。でもアメリカだからなあなあで許されたわけで。
現実って悲しいなあ。



そういえば、少し前に「もしも日本が島国でなかったらどうなってただろう」とブログに書いている人がいた。

もしも日本が島国じゃなかったら、もしも中国と地続きだったなら、今の日本は独立国家ではなく「中華人民共和国の日本自治区」だったかもしれない(邪馬台国はそれに近い扱いだったわけだし)。
そう考えるとウイグル問題はぜんぜん他人事じゃないよ。
いや海があるからって安心できない。「日本自治区」になって迫害される日が来ないともかぎらないよ、ほんとに。


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2019年9月11日水曜日

【読書感想文】コンビ作家の破局 / 井上 夢人『おかしな二人 ~岡嶋二人盛衰記~』

おかしな二人 ~岡嶋二人盛衰記~

井上 夢人

内容(e-honより)
二人が出会って多くの傑作ミステリーが生まれた。そして十八年後、二人は別れた―。大人気作家・岡嶋二人がどのようにして誕生し、二十八冊の本を世に出していったのか。エピソードもふんだんに盛り込んで、徳さんと著者の喜びから苦悩までを丹念に描いた、渾身の自伝的エッセイ。

井上夢人という名前よりも「岡嶋二人の片割れ」といったほうが通りが良いかもしれない。
コンビ解散から二十年たった今でも。

岡嶋二人は、井上夢人(当時の名は井上泉)と徳山諄一によるコンビ作家のペンネーム。1982年にミステリ小説の権威である江戸川乱歩賞を受賞してデビュー、二十作以上のミステリ小説を世に送りだし、1989年にコンビ解散。

コンビ作家というと海外だとエラリー・クイーンが有名だが、日本の小説界ではめずらしい。
ぼくは岡嶋二人の他に知らない。逆に栗本薫/中島梓のような一人二役の作家はけっこういるけどね。

漫画や絵本だとストーリー担当・作画担当のように役割分担をしやすいのでさほどめずらしくないが、小説だとそこまではっきりと役割がわかれないからね。
岡嶋二人の場合は「アイデアと執筆担当(井上)」と「アイデア担当(徳山)」と、はじめから偏ったバランスのコンビだったので、いずれ破綻をきたすことは必然だったのかもしれない。
けれど、それにしては長くもったほうなんじゃないだろうか(乱歩賞初挑戦から解散までで考えると十二年)。
「徳さん、面白くないよ、これ」
 ちゃんとした原稿ではなかったにもかかわらず、一度書いてしまうと、僕はもうこの作品にあきてしまったのだ。
 驚異的だったのは、この時の徳山の対応だった。「セシア誘拐事件」にうんざりしてしまったと僕が言うと、彼はしばらくの沈黙の後、こう言ったのだ。
「じゃあ、何かほかのヤツを考えよう」
 そして実際、徳山は数日後に新しいアイデアを持ち出してきた──。その時点では僕も気づいていなかったが、この徳山の対応こそ、岡嶋二人を成立させた最も重要な要因だったのである。
 仕事を進めるとき、徳山は常に選択権を僕に預けた。作品が面白いか否か、俎上に載せられたアイデアを使うか否か、話し合ってきたものを原稿に落とすか否か──そういった最終的な判断は、すべて僕が下すという雰囲気が出来上がっていた。後になって、何度か彼は口に出して言ったこともある。
「いや、そういうのはイズミに任せたほうがいいんだ。そのほうが正解だと思うよ」

(中略)

 前の言葉に続けて、徳山はこう言った。
「どっちでもいい、ってのが正直なところなんだよ。このアイデアでもいいし、別のヤツでもいい。とにかく、面白い話が作れればそれでいいんだ。イズミがつまらないと言ってるのに、それを無理に進めようとは思わない。それよりも、別のものを探してくるほうがいい。(中略)どうしてもこれじゃなきゃ、ってのは、僕にはないんだ」
 この徳山の姿勢は、最後まで変わらなかった。これが岡嶋二人を成り立たせていたのだと、僕は思う。
これを読むと、徳山諄一という人物はずいぶん大物だとおもう。
二人して一生懸命築きあげてきたものを、片方が飽きてしまったからといって壊そうとする。
そこですぐに「じゃあ、何かほかのヤツを考えよう」と言えるだろうか。ぼくなら言えない。「ふざけるなよ!」と喧嘩になるとおもう。

けれど徳山氏はあっさり折れる。自分の意見を表には出さずに。
しかも徳山氏は井上氏より七歳年上なのだ。
よほどの大人物なのか、それともこだわりがないだけなのか。

この姿勢こそが、岡嶋二人がうまくいった秘訣であり、同時に解散の原因でもあったと井上氏は書いている。


このくだりを読んで、ユウキロック『芸人迷子』という本を思いだした。
人気漫才コンビ・ハリガネロックの結成から解散までをつづった自伝小説だ。
この本の中で、ユウキロックさんは「相方である大上が自分から動いてくれることをずっと期待していた」とくりかえし書いている。
ネタを考えるのも自分、演出も自分、コンビとして次に何をするかを決めるのも自分。何を言っても相方は逆らわない。黙って自分についてきてくれる。
だがユウキロックさんにとってはそれが不満だった。ときには意見がぶつかりながらも切磋琢磨しあう関係でいたい。
結局、大上さんは「相方に従う」という姿勢を変えることはなく、ハリガネロックは解散した……。


岡嶋二人というコンビも、ハリガネロックに似た関係だったのだろう。
一方がイニシアティブをとってもう一方がついてきてくれるからこそうまくいき、そういう関係だったからこそ一方の不満が高まれば溝は深まっていくばかり。

井上さんも「徳さんはぼくの意見に反論してこない」ことを再三不満点としてあげている。
ずいぶん勝手な話だ。でも、その気持ちもわかる。
こっちは「意見をぶつけあいたい。ときには衝突してもいいから」とおもい、でも相手は「喧嘩になるのはイヤだから折れる」。
どちらの気持ちもよくわかる。

よく漫才師は夫婦に例えられるけど、コンビ作家も夫婦みたいなものなのだろう。
特に、江戸川乱歩賞受賞~コンビ解散を描いた『衰の部』を読むと、離婚してゆく夫婦の顛末を読んでいるような気になる。

お互いに意見をぶつけあうことで喧嘩しながらもやっていく夫婦もあれば、喧嘩がこじれて別れてしまう夫婦もある。
一方が相手に従うことで波風を立てずにやっていける夫婦もあれば、一方が我慢しすぎたせいで耐えられなくなって離婚してしまう夫婦もいる。

どちらが正解ということもない。
けれど別れてしまう。一度はうまくいった二人なのに。
悲しい。
失恋の経緯を読んでいるような気分になった。



ぼくは中高生のとき、岡嶋二人の本を読んだ。十冊は読んだとおもう。
ぜんぶ古本屋で買ったものだけど(なにしろぼくが岡嶋二人を知ったときには解散してから何年も経っていたのだから)。

正直、岡嶋二人作品のことはなにひとつおぼえていない。
競馬を題材にしたものがあったな、とか、孤島での誘拐だか殺人だかの話があったような、とかその程度。
でも何作も読んでいるわけだから、おもしろくなかったわけではないはずだ。
ミステリ小説なんてそれでいい。そのときおもしろければいいのだ。

岡嶋二人作品は安定して高い水準にあった。二人で話しあって作られたのだから、一人で作るものよりも精緻なものになっただろう。
ただし、後々まで記憶に残るような派手さや粗っぽさはなかった。それもまた共作の過程で削りとられてしまったのかもしれない。
岡嶋二人作品はディズニー作品に似ている。あっと驚く意外性はないが、はずれもない。何を読むか迷ったときにとりあえず手に取っておいてまちがいはない。

その「平均点以上の佳作」を生みだし続けるためにどれほどの苦労があったのか。
この本を読むまでは、まったく想像しなかった。

『くたばれ巨象』を第二十三回江戸川乱歩賞に投じた後、第二十五回、第二十七回、第二十八回と応募を繰り返したが、作品を重ねるに従って、僕たちの技術は確実に向上した。応募した作品を読み返してみると、それがよくわかる。
 さらに、それらの作品をひねくり回している間に副産物として生まれたアイデアは、未使用のまま僕たちのメモや頭の中にストックされていった。そのストックは、プロとしてデビューした後に僕たちが書いた小説の基本的なアイデアとして、かなりの量を賄ってくれたのである。
 だから、この年から乱歩賞を受賞する一九八二年までの五年間で、僕たちは岡嶋二人のほとんどすべてを作り上げてしまったと言っていい。岡嶋二人の黄金期は、この五年間だったのだ。そして実質上、乱歩賞を受賞すると同時に、その黄金期は終わった。
 お読みいただいているものの副題に、僕は『岡嶋二人盛衰記』と付した。そこには、そういった意味を含めている。盛衰記の「盛」は乱歩賞受賞までであり、「衰」はデビュー以降のことである。岡嶋二人という作家は、デビューと同時に、そのクライマックスを終えたのだ。
はじめにこのくだりを読んだとき、「何をおおげさな」とおもった。
いくらなんでも、二十作以上の作品を世に出した人気ミステリ作家が(しかもそのうち何作かは権威ある賞も受賞している)、「デビューと同時に、そのクライマックスを終えたのだ」だなんてまさか。

けれど、最後まで読んだ今ならわかる。
この言葉は、少なくとも井上夢人氏にとっては本心なのだと。

乱歩賞を受賞するためにコンビを結成し、小説を書いたことすらない状態から試行錯誤をくりかえして乱歩賞を受賞、そしてデビュー後は時間的制約のせいで思うような形での共作ができなくなった岡嶋二人にとっては、まさに受賞した瞬間がピークだったのだろう。

『おかしな二人』には井上氏側の言い分しか書かれていないが、部外者として読んでいると「まあ解散にいたったのはどっちにも問題があったからなんだろうな」とおもう。

けれど、最大の原因は締め切りに追われていたことなんじゃないだろうか。
時間がなかったから、デビュー前のようにお互いが納得のいくまで話しあうという作り方ができなくなった。
もしも「年に一作だけ小説を発表していればいい」という状況だったなら、岡嶋二人は今でもコンスタントにレベルの高いミステリ小説を発表しているコンビ作家だったんじゃないかとおもう。

そうおもうと、二人の破局に至る経緯がますますもって悲しく感じる。
もしも岡嶋二人が今でも活動していたなら、今頃コンビ作家はもっと増えていたかもしれないなあ。


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2019年9月6日金曜日

【読書感想文】伝統には価値がない / パオロ・マッツァリーノ『歴史の「普通」ってなんですか?』

歴史の「普通」ってなんですか?

パオロ・マッツァリーノ

内容(e-honより)
みそ汁の味付けが地域ごとにまちまちであるように、料理の伝統的な味付けには地域ごとの個性があります。伝統とは、ローカルで多様性のある文化なのです。つまり、国全体、国家で統一された伝統なるものは、歴史的には存在しないのです。日本人全員が共有する「日本の伝統」と称するものは地域ごとの多様性を無視してるわけで、その存在は歴史的にも文化的にも疑わしい。日本の伝統なるものは、だれかによって捏造されたフェイクな伝統ではないのか。権威主義にゴリ押しされて鵜呑みにすることなく、謙虚に再検討する作業が必要です。
日本通のイタリア人(自称)である著者が、豊富な資料をもとに日本の「伝統」の嘘くささを暴いた本。

昔の日本人は礼儀正しかった、昔は地域みんなで子育てをした、昔は女性は結婚したら専業主婦になるのがあたりまえだった……。

いずれも何度となく聞いたことのある話だ。

まあそのへんのおじいちゃんが勝手に過去を美化して「昔は良かった」とほざいてるぶんには「おじいちゃん、もうなにねぼけたこと言ってんのよ」で済むけど(済まないか)、政治家のおじいちゃんまでもがこの手の思い込みを信じて、それをもとに政策をつくったりするわけだからまったく始末に困る。
 それにしても、です。戦前戦後を通じ、なぜ日本ではこれほどまでに保育園と共働きが忌み嫌われてきたのでしょう。一般人も政治家も、寄ってたかって保育園と共働き夫婦を社会の敵として排斥しようとしていた様子は不気味ですらあります。
 その原因はひとつには、伝統の誤解にあります。専業主婦は、大正時代に誕生した高収入の中・上流サラリーマン家庭でのみ可能だった、女性の新しい生きかたです。それは男性にとっても、オレの稼ぎだけで家族を養ってやってるのだ、という自尊心を満足させるものでした。
 が、それはあくまで、あこがれでした。低賃金で働く下流サラリーマンや工場労働者の家庭では夫婦共働きが基本です。ついでにいえば、農家もむかしから共働きです。つまり専業主婦こそが新たな時代の豊かさと贅沢の象徴であり、ステータスだったのです。その図式は戦後になっても変わらなかったのに、どうしたわけか戦後の経済発展のなかで、カン違いした日本人が、専業主婦を日本の標準的・伝統的家族像へとまつりあげてしまいました。そして貧乏人にはあたりまえだった共働きが、伝統を破壊する欲望と贅沢の象徴とみなされる逆転現象が起きたのです。
 まあ政治家なんて大半がお金持ちの家の出だから彼らにとっては「おかあさんが外で仕事をしていないのがふつう」なんだろうけどさ。

けれどいつの時代も、両親ともに働いているほうがふつうだった(もっといえば子どもも働いているほうが「伝統的」な姿だ)。


そういえばぼくも結婚したとき、当時の会社の社長に「結婚しても共働きを続けます」と言ったら、団塊の世代である社長はこう言った。
「やっぱり男たるもの、嫁子どもを食わしてこそ一人前やで」
と。
「じゃあ食わせられるよう給料あげろよ」とはさすがに言わなかったが(言えばよかった)、あの世代だとこういう価値観はけっして珍しくない。

妻は仕事がしたいから働いているわけだし、共働きのほうが当然収入は増えるしリスクも小さくなるんだけど、こういうことをおじいちゃんに言ってもなかなか理解してもらえない。
己の中にある「ふつう」は頑強なので、なかなか壊せないのだ。


ちなみに、日本の税制は専業主婦世帯が共働き世帯に比べて圧倒的に有利になるように設計されている。
幻想である「ふつうの家庭」を基準に制度設計しているからこういうことになるのだ。

いいかげん夢から目を覚ましてほしい。もしくはさっさと現世から卒業してほしい(「死ね」の婉曲な言い方)。



「昔は良かった」の「昔」はたいてい美化された思い出なのだが、もっとひどい場合もある。
 そもそも時代小説が盛んに書かれるようになったのは大正時代のことでした。時代考証を無視した荒唐無稽な娯楽時代小説が受け入れられるようになったことが、ブームの一因です。
 大正時代ともなると、中高年層までが明治生まれ。作家も読者も大半は、本物の江戸時代を知らない世代になってました。なので作家が歴史的にはありえない話をおもしろおかしく書いたとしても、読者にもそれを批判できるだけの知識がありません。考証の縛りがなくなることで、時代小説のエンターテインメント性は高まりました。しかしそれは同時に、エセ江戸文化イメージを庶民に広めることにも一役買ってしまいました。
 その影響はいまだに尾を引いてます。二〇一六年の新聞投書にこんなのがありました。時代劇に登場する武士や町人の礼儀正しさや慎み深さを見ると、将来の日本は大丈夫かと危惧してしまう──。このかたは、時代劇をノンフィクションだとカン違いされてるようです。
 江戸時代の人がみんな礼儀正しかったなんてわけがないでしょ。無礼で非道で乱暴なヤツは普通にたくさんいました。火事とケンカは江戸の華、なんてのを聞いたことはないですか。放火や暴力沙汰が日常茶飯事だったんですよ。猛スピードで走る荷車がこどもをひき殺してそのままひき逃げするなんて事件がたびたび起きていて、幕府は交通安全を呼びかける御触書をしょっちゅう出してました。

以前、時代小説はラノベだと書いた。
都合のいいことや安っぽい願望でも、時代小説というベールに包めば一応それらしく見えるからだ、と。

【読書感想文】時代劇=ラノベ? / 山本 周五郎『あんちゃん』

だから時代小説ファンタジーとして楽しめばいいんだけど、困ったことに過去を舞台にしたフィクションをもとに「昔は良かった」と語ってしまう人がいるのだ。

『男はつらいよ』や『裸の大将』や『ALWAYS 三丁目の夕日』を引きあいに出して「昔の下町には人のぬくもりが……」みたいなことが語る人もいる。

そのうち
「『シン・ゴジラ』の頃の日本人は危機的状況にも力をあわせて立ち向かったのに今の日本人は根性がない……」
みたいなことを言いだす人も現れるかもしれない。



伝統は基本的に価値がない、役に立たない。
価値があれば、わざわざ「伝統」なんて冠をつけてありがたがる必要がない。そんなことしなくてもみんな使うから。

「学校教育には伝統がある」とか「伝統ある小説という娯楽」なんて誰も言わないでしょ。
なぜならそれはまだまだ現役だから。

着物や歌舞伎のように、価値が下がって見向きもされなくなりつつあるものだけが、廃れゆくものの最後の悪あがきで「伝統」を名乗るのだ。
だから伝統をありがたがる必要なんか少しもない。
 つまり、日本人が「伝統」を意識するようになってから、まだ一〇〇年ちょっとしか経ってません。
 それ以前、江戸時代の人たちが、伝統みたいなものを意識してたかどうかは疑間です。変化がゆるやかだった時代の人間にとって、伝統は特別なものでなく、日常の長く退屈な繰り返しの延長にすぎなかったのかもしれません。
 変化のなさゆえに、人々はむしろつねに新しい刺激に飢えていたようにも思えます。歌舞伎はいまではすっかり日本の伝統芸能としての地位を確立しましたが、もとはといえば、江戸時代の日本人が新しもの好きだったから、歌舞伎という新しい芸がもてはやされたのです。新しもの好きで飽きっぽい民衆の期待にこたえるべく、歌舞伎は新たな技法や仕掛けを次々と取り人れて独自の進化発展を遂げました。
 もしも江戸時代の人が伝統を重んじていたら、歌舞伎などという流行り物は支持されなかったかもしれません。もしそうだったら、歌舞伎から派生した長唄、小唄などさまざまな邦楽も、存在しなかったでしょう。

「伝統」を大切にしないことこそが伝統なのかもしれんね。

今度から「伝統の」という形容詞を見たら、「風前の灯火の」に置きかえることにしようっと。


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2019年9月5日木曜日

【読書感想文】お金がないのは原因じゃない / 久田 恵『ニッポン貧困最前線 ~ケースワーカーと呼ばれる人々~』

ニッポン貧困最前線

ケースワーカーと呼ばれる人々

久田 恵

内容(e-honより)
政府の締めつけとマスコミによる福祉たたきの狭間で、貧困層と直接向き合ってきたケースワーカーたち。福祉事務所で働く彼らの悩み、怒り、喜びを通して、過剰な期待と誤解を受けてきた生活保護制度の実情を明らかにする。未曾有の発展をとげた戦後日本の「見えない貧困」を描き出した衝撃のルポルタージュ。

ケースワーカーとは、自治体で生活保護に関わる業務をおこなう人たち(それ以外の業務もあるらしいが)。
ケースワーカーの仕事内容、抱える問題、とりまく環境などについてまとめたルポルタージュ。

この本で紹介されている時代、場所、ケースなどはさまざま。
 ワーカーには立入り調査票が発行されているが、本人の留守中に勝手に部屋に入っていいわけではない。その日、沢井は新人ワーカーを一人連れて、吉沢のアパートに行き、管理人に言って鍵を開けてもらおうとしたが、合鍵などないと言われた。
 困り果てていると、ドアのガラスの割れているところに広告の紙が貼ってあるのを見つけた。破って覗くとすごいスルメの臭いがして、蠅がぶんぶん飛んでいた。やつめ、また飲んでスルメを出しっ放しにして逃げたな、そう思って腕を差し込んでみるとうまい具合に鍵が開いた。中に入り、なんだこりゃ、と言いながらすさまじい臭いの中で、酒瓶の転がった台所を点検していると、連れて行ったもう一人の新人ワーカーが、隣の部屋を覗いて妙に冷静な声で言った。
「あのう、この方ですか?」
 見るとそこに、すでに腐敗し、真っ黒になって転がって死んでいる吉沢がいた。
 その時、さすがの沢井も、もう駄目だ、と思った。ワーカーを辞めたいと思った。
読んでいておもうのは、つくづくたいへんな仕事だということ。
戦後に生活保護制度ができてから今まで、そしてこれからも、ケースワーカーの仕事がたいへんじゃなかった時代などないんだろう。
ぼくだったら「見るとそこに、すでに腐敗し、真っ黒になって転がって死んでいる吉沢がいた」なんて状況に遭遇したら、もう続けられないとおもう(たぶんそれよりもっと前に辞めてる)。

精神的にハード、業務量も多い、感謝されることはほとんどなくて恨まれたり非難されることのほうがずっと多い、身の危険もある、だからといって給料がいいわけではない。

ケースワーカーをやっている人たちにはただただ頭が下がる。



この本を読むまで、生活保護受給者の問題は「お金がない」ことだとおもっていた。
もちろんお金がないから生活保護を受けるわけだが、問題の根っこはそこではない。

今の日本で「食っていくだけのお金がない」という人には、それなりの原因がある。
病気やケガ、老い、障害、失業のようなわかりやすい原因もある。たいていの人が想像するのはこっち。

でもそれだけじゃない。
「人付き合いができない」「決まった手続きに従って作業をすることができない」「持ってるお金より多くを使わないようにすることができない」「ストレスの原因になる家族がいる」といった、病気未満、障害未満の問題を抱えている人がいる。
それも少なくない数。
たぶん小学校の一クラスに三十人いれば、そのうち何人かは該当するぐらいの。
 ワーカーになって川口がしみじみと実感したのは、この社会には周りと折り合いをつけて上手に生きていくことが、どうしてもできない人たちがいるということだった。
 そういう人にとってこの社会は恐怖と不安に満ちている。一人暮らしのアパートを訪ねてくる新聞の勧誘員や、「世界が滅びる」などと言ってくる宗教の勧誘者に、過剰に反応して恐がったりもする。
 働くどころか、一人で生きていく、それだけで大変なのである。
 また、不運がいくつもいくつも積み重なってついに立ち上がれなくなった人や、本人のあまりに弱い資質のせいで、まっとうに生活できなかったりと、原因はいろいろあるが、ギリギリのところで生きている人は、担当のワーカーに過剰な期待をもっている。
 それが思うようにいかないと、延々とウラミの感情を溜めこむようなところに陥ってしまう。そこにいってしまったらもう説得も納得も不可能になる。ワーカーとの関係も悪くなる。

仕事はふつうにできるけれど、金銭感覚だけが著しく欠如している人がいる。あればあっただけ、あるいはある以上に遣ってしまう。
知能に問題はないのに他人と話をする能力だけが欠如している人がいる。
話しているとふつうなのに書類の記入だけができない人がいる。

「訊かれたことに答える」「お手本通りに書類に記入する」「支出が収入を上回りそうなら倹約する」というのは、ほとんどの人にとっては難なくできることだ。努力でもなんでもない。
だから“ふつうの人”からしたら
「こんなかんたんなこと、どうしてやらないの?」
と言いたくなる。
まさかできないのだとはおもわない。
怠慢、無計画、身勝手といった烙印を押してしまう。

生活保護を受けている多くの人にとって、お金がないことは「結果」であって「原因」ではない。
現代日本では“あたりまえ”とされていることをできないことが原因だ。

だからお金を支給するだけでは解決にならない。

羽が折れたせいでエサがとれない鳥に対して、エサを与えて「次からは自分でエサをとれよ」と言っても何も解決しないのと同じように。

この先、“あたりまえのことができない人”は増えていく一方だとぼくはおもう。
社会が複雑化するにつれて“あたりまえ”のハードルがどんどん上がっていくからだ。



第四部『ケースワークという希望に向けて』では、生活保護制度が時代によってどう変わってきたのかが紹介されている。
どうやってできたのか、世間の反応はどう変わったのか、そしてこの先どうなるのか。

戦後の日本中が貧しかった時代にGHQの指示でつくられた生活保護制度。
当初はほんとに「税金で保護しないと餓死する」レベルの人を対象に、ぎりぎり食つなぐだけの給付をする制度だった。
しかし人々の生活が豊かになるにつれて、生活保護の趣旨も「健康で文化的な最低限度の生活」を守るための制度へと変わってゆく。
同時に性善説を前提にした制度だったために不正受給の温床にもなり、厳しい目も向けられるようになった。

生活保護の不正受給が明らかになればケースワーカーが非難され、生活保護を受けられずに亡くなる人がいればケースワーカーが非難される。
かといってすべての申請に対して厳しくチェックするだけの時間も予算もない。

生活保護という制度は長年使っているうちにずいぶん綻びが出てきたようにおもう。

たとえばこんなケースが紹介されている。
 母親は五十代で、慢性的な病気を抱えていた。以前は多少なりとも働いていたが、今は仕事ができず、現在、低賃金のお風呂のない老朽化した民間アパートで、公立高校に通う娘と二人で保護を受けて暮らしている。
 苦労して育ててきた長男は、無事高校を卒業して就職している。彼もやっぱりワーカーの配慮で自立して、寮生活をしていたが、勤めて二年が経った。申し込めば、家族と一緒に社宅に入居できることになったのである。
「おかあさん、部屋も広くてさ。風呂もあるよ。みんなで一緒に暮らそう」
 彼から勢い込んで言ってきたのである。
 ところが、同居して家族がひとつになれば、彼の給料が世帯の収入として計算されてしまう。山本が、三人世帯として保護の要否判定をすると、彼の収入が保護費を若干上回り、母親と妹の保護が廃止になってしまうという結果が出た。
 そうなれば、十九歳の息子が一家の柱になって自分の給料だけで家族を扶養し、母親と妹を食べさせていくことになるのだ。

泣く泣く、長男は家族との同居をあきらめたそうだ。
おかしな話だ。
同居しようがしまいがこの一家の給与収入は変わらない。だったらいっしょに住んだほうがいい。生活費も抑えられるし、お互いに安心感もあるだろう。
なのに同居すると生活保護が受けられなくなるから、不便な道を選ばざるを得ない。

息子の収入が十分に多いのならわかるが、高卒で二年働いたぐらいであれば給料はしれているだろう。病気の母親と高校生の妹を養うことが困難なのは誰だってわかることだ。
けれど今の制度では同居はできない。

生活が苦しいから保護する、ではなく、保護されるために苦しい生活を送る、になってしまっているのだ。制度の欠陥だろう。


こういう例をいくつも読んでいると、生活保護制度ってもうかなりボロボロなんだなとおもう。そろそろ大きな改革をする時期に近づいてるのかもしれない。


この本にも再三「人々の生活が苦しくなると生活保護に向けられる厳しくなる」と書かれている。
「おれはこんなに苦しいおもいをしながら働いているのに、生活保護を受けているやつらは税金で楽しやがって」という憎悪を抱くのは、年収1000万円の人ではなく年収100万円の人のほうだろう(税金を多く払っているのは前者のほうなんだけどね)。

きっと日本人はこれからどんどん貧しくなるから、生活保護受給者やケースワーカーに対する風当たりはさらに強くなる。

個人的には、もらうことに後ろめたさを感じずにすむ制度がいいとおもう。
たとえばベーシックインカムのような、全員が同額をもらえる制度とか。それだったらもらったお金を娯楽に使おうがパチンコに使おうが「ずるい」とケチをつける人は減るだろう。
人頭税の逆ですべての国民が年齢や能力に関係なくもらえるようになれば、子どもを産む動機にもなるし。
都市から地方への移住も進みそうだし(もらえる額が同じなら物価の安い地方に住むほうが得だから)。

問題は財源だけ。たったそれだけ……。


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2019年9月4日水曜日

【読書感想文】最高! / トーマス・トウェイツ『ゼロからトースターを作ってみた結果』

ゼロからトースターを作ってみた結果

トーマス・トウェイツ(著) 村井 理子(訳)

内容(e-honより)
トースターをまったくのゼロから、つまり原材料から作ることは可能なのか?ふと思い立った著者が鉱山で手に入れた鉄鉱石と銅から鉄と銅線を作り、じゃがいものでんぷんからプラスチックを作るべく七転八倒。集めた部品を組み立ててみて初めて実感できたこととは。われわれを取り巻く消費社会をユルく考察した抱腹絶倒のドキュメンタリー!
いやあ、おもしろい!
今年読んだ中でナンバーワンのおもしろさだった。

内容は、タイトルがすべて表している。
トースターをゼロから作る。一からではない。ゼロから。
だから鉱山に行って鉄鉱石を拾い、じゃがいものでんぷんからプラスチックを作ろうとし(これは失敗したけど)、銅の含有量の多い水を電気分解して銅をとりだし、辺境の山でマイカ(雲母)を採取する。

この世紀のプロジェクトに挑むのはイギリスに住むただの大学生。
無謀すぎる。
じっさい、かなり失敗している。ずるもしている(ニッケルはかなりずるい)。
それでも著者は、あの手この手を使いながらトースター(らしきもの)をゼロから作ってしまうのだ。



本を読んでいてこんなにわくわくしたのはひさしぶりだ。
子どものときに『ロビンソン・クルーソー』や『あやうしズッコケ探検隊』を読んだと同じぐらいの興奮を味わった。

たとえば、これは家庭用電子レンジで鉄鉱石から鉄を精製しているところ。


ははははは。どこが「なんかよさげ?」なんだ。
SHARP製電子レンジの断末魔の絶叫が聞こえてくるようだ。

しかしこれで鉄が取りだせたというのだから驚きだ。SHARPの技術者もびっくりだろう。

ちなみに「電子レンジを使うなんてずるいじゃないか!」とおもうかもしれないが、著者ははじめはちゃんと溶鉱炉を作ってるからね。それで失敗してるからね。



こんな調子で次々にトースターのパーツをつくっていく。

工夫と妥協を重ね、ときにはカナダの法律も犯しながら、ついにはトースター(らしきもの)を完成させる(そのトースターでパンが焼けたかどうかは本を読んでたしかめてね)。

この本の表紙に載っている、黄色い汚らしいかたまり。それが手作りトースターだ。
これを作るのになんと15万円かかったそうだ。

こんな代物(といったら失礼だけど)でも作るのに15万円かかるわけで、もしも店で売っているのと同じ性能・デザインのトースターをゼロから作ろうとおもったら100万円じゃきかないだろう。
それが店に行けば1000円もしないぐらいの価格で買える(しかもその中には製造元や販売店の利益も入っている)わけで、なんともふしぎな感覚になる。

我々の生活が、どれだけ多くの科学技術に支えられているか、そしてその恩恵を我々がどれだけ安価で享受しているかを気づかされる。

 ということで僕は、インペリアル・カレッジを飛び出し、さらなるリサーチを行った。そしてついに、科学博物館の科学史図書館で『デ・レ・メタリカ』を探しあてた。
 それはゲオルク・アグリコラによって、16世紀にラテン語で記されたものであり、英語版は、第31代アメリカ合衆国大統領に選出される前のハーバート・クラーク・フーバーと、彼の妻、ルーによって翻訳されている。
 ヨーロッパ史上初の冶金学専門書である『デ・レ・メタリカ』には、その当時知られていた、世界各地の採鉱、および金属の製錬について、年代順に記されていた。この本は、ほぼ500年前に書かれたものにもかかわらず、僕にとっては、現代の教科書よりもずっと役に立った。そのことは、少なからずショッキングなことでもあった。
 というのもそれは、16世紀以降に発展してきたさまざまなメソッドは、僕一人ではまったく使いこなすことができないものであることを意味するからだ。

産業革命以後の技術というのは、ほとんどが大資本や工作機械や電気エネルギーがあることを前提にしたもので、個人が利用するにはまるで役に立たないものなのだ。

もしも地球からあらゆる機械が消えてしまったとすると、我々の暮らしはあっという間に16世紀頃の生活に戻ってしまうのだろう。 いくら21世紀の知識があったとしても、機械を持たない我々にはそれを使いこなすことができないのだから。

科学技術に支えられた暮らしについての認識を改めて考えなおすきっかけになる……とかむずかしいことは考えなくていいから、とにかく読んでみてほしい! ただ単純におもしろいから!

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2019年9月3日火曜日

【読書感想文】直球ファンタジー / 三浦 しをん『白いへび眠る島』

白いへび眠る島

三浦 しをん

内容(e-honより)
高校最後の夏、悟史が久しぶりに帰省したのは、今も因習が残る拝島だった。十三年ぶりの大祭をひかえ高揚する空気の中、悟史は大人たちの噂を耳にする。言うのもはばかられる怪物『あれ』が出た、と。不思議な胸のざわめきを覚えながら、悟史は「持念兄弟」とよばれる幼なじみの光市とともに『あれ』の正体を探り始めるが―。十八の夏休み、少年が知るのは本当の自由の意味か―。文庫用書き下ろし掌篇、掲載。

ファンタジーというかホラーというか。青春小説でもある。

生まれ故郷の小島に帰省した高校生の主人公。怪物が出る、といううわさを耳にして不吉な予感をおぼえる……。
という導入。島に伝わる伝説になぞらえた殺人事件でも起こるのかな、とおもいながら読んでいたら、ほんとに怪物が出る。
あっ、そういう話ね。

持念兄弟、神としてまつられる白蛇、うろこを持つ一族、ふしぎなものが見える少年、とけれん味の強い設定がたっぷり。
設定が語られ、徐々に不吉な予感が高まり、怪異現象が島を襲い、主人公が友情に支えられながら島を救う……というストーリー。

なんというか、順当すぎて拍子抜けしてしまった。
いや、悪いわけではなかったんだけど、定番のストーリーを素直に楽しむにはぼくがすれすぎてしまったというか……。
中学生ぐらいで読んでいたらまた楽しめたんだろうけど。

ストーリーにそんなにひねりがないところも含めて、民話っぽい雰囲気はよく出ている。
神話とか民間伝承ってそんなに意外性のあるストーリー展開じゃないもんね。
意外な正体もどんでん返しもない。正義が負けることもないし悪は封じこめられる(滅びるわけではない)。
だからこれはこれでいいのかもしれない。


ところで、離島に起る怪異現象、ということで堀尾省太 『ゴールデンゴールド』という漫画を思いだした。
 『ゴールデンゴールド』も神様の出現により島中がじんわりと破滅に向かっていく話ではあるんだけど、 『ゴールデンゴールド』は神様が直接手を下さずに人間の欲を利用していさかいを起こさせる。
狭い島の住人たちの様々な思惑が衝突しながらじわじわと人間関係が壊されていく。

ぼくにとってはこっちのほうがずっと怖い。


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2019年8月26日月曜日

【読書感想文】ふつうの人間の持つこわさ / 宮部 みゆき『小暮写眞館』

小暮写眞館

宮部 みゆき

内容(e-honより)
家族とともに古い写眞館付き住居に引っ越ししてきた高校生の花菱英一。変わった新居に戸惑う彼に、一枚の写真が持ち込まれる。それはあり得ない場所に女性の顔が浮かぶ心霊写真だった。不動産屋の事務員、垣本順子に見せると「幽霊」は泣いていると言う。謎を解くことになった英一は。待望の現代ミステリー。

写真屋だった建物に引っ越してきた高校生の主人公が、様々な心霊写真の謎解きを依頼され……というお話。
派手な犯罪や凶悪な登場人物などは描かれず、日常の謎系のミステリ。『ステップファザー・ステップ』みたいな味わい。

しかし、この謎解きはいただけない。オカルト頼り。
「幽霊の 正体見たり 枯れ尾花」って川柳があるけど、それならおもしろいんだよね。謎解きの妙があるから。
でも『小暮写眞館』は「幽霊の 正体見たり 幽霊だ」だからなあ。心霊写真が撮れたので調べてみたら正体は霊でした……ひねりがなさすぎる

 オカルトが好きじゃないんだよね、個人的に。 スパイス的に使うのならともかく、メインに据えられるとげんなりする。

怖いとかじゃなくて霊に興味がない。霊感があるだのどこそこのトンネルが出るだのこの部屋は前の住人が自殺して……だの言われても「あ、そ」としかおもえない。
見える人には見えるのかもね、自分には関係ないけど。
「南米の熱帯雨林に棲むイチゴヤドクガエルは強力な毒を持っているんだって。怖いよね」と言われても「ふーん。まあ自分には関係ないからどうでもいいけど」としかおもわないのと同じだ。

あと霊を感動させるための道具として使うことも気に食わない。なんかずるい。霊を出したらなんでもありになっちゃうじゃん。
宮部みゆき作品でいうと『魔術はささやく』もダメだったなあ。催眠術使うのはずるいでしょ。これも同じ感覚。





……ってな感じで上巻でずいぶんげんなりしながら読んだんだけどね。
でも下巻はおもしろかった。下巻はほとんど霊が関係なかったからね。わるいね、霊が嫌いなんだ。

上巻の伏線が下巻では生きて、幸せいっぱいそうに見える家族の病理も浮かびあがってくる。
下巻だけとってみれば、よくできた小説だ。


下巻には、我が子を亡くした母親が葬儀の場で親戚一同から追い詰められる様子が書かれている。
「どうして子どもを死なせたんだ」「なぜもっと早く気づいてやれなかったんだ」と。

追い詰めている人たちを駆り立てるのは悪意ではない。善意だったり、保身だったり、やりきれなさだったり、つまりはぼくらがみんな持っているものだ。
そういうあたりまえのものが、誰かを死の淵まで追い詰めてしまうことがある。

インターネットの炎上を見ていると、だいたいがそんなもんだ。
炎上する人も、させる人も、ほとんど悪意は持っていないように見える。正義感や見栄や義侠心や怯えが、炎上への引き金をひいてしまう。

『小暮写眞館』の読後感を一言でいうなら、よくある感想だけど「霊よりも生きた人間のほうがこわい」。
ふつうの人間のこわさがにじみ出た小説だとおもう。
くどいけど、霊が出てこなければもっとよかったんだけどなあ。


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2019年8月23日金曜日

【読書感想文】秘境の日常 / 高野 秀行『恋するソマリア』

恋するソマリア

高野 秀行

内容(e-honより)
内戦が続き無政府状態のソマリア。だがそこには、現代のテクノロジーと伝統的な氏族社会が融合した摩訶不思議な世界が広がっていた。ベテランジャーナリスト・ワイヤッブや22歳にして南部ソマリアの首都で支局長を務める剛腕美女ハムディらに導かれて、著者はソマリ世界に深く足を踏み入れていく―。世界で最も危険なエリアの真実見たり!“片想い”炸裂の過激ノンフィクション。

高野秀行さんの『謎の独立国家ソマリランド』は、とんでもなくおもしろい本だった。
紛争地帯でありながら氏族制度によって絶妙なバランスを保ち、海賊で国家の生計を立て、イスラム文化でありながらカート(覚醒剤みたいなもん)が蔓延している国ソマリランド(国際的には国家として認められていないけど)。

世界の秘境をあちこちまわった高野秀行さんがおもしろい国(国じゃないけど)というだけあって、なにもかもが異色。
西洋文明はもちろん、アラブやアフリカとも一線を画したユニークな国の姿を知ることができた。まだまだ地球には秘境があるのだ。そこに住んでる人もいるのに秘境というのは失礼かもしれないが、しかし想像の埒外にある文化なのでやっぱり秘境なのだ。
『謎の独立国家ソマリランド』多くの人に読んでほしい本だ。


で、その続編ともいえるのがこの『恋するソマリア』。
『謎の独立国家ソマリランド』を読んだ人には前作ほどの衝撃をないが、それでもソマリ人文化のユニークさはびしびしと伝わってくる。
 とはいうものの、客観的に見ても氏族の話はひじょうに面白い部分がある。特に私の興味を巻いていたのは氏族同士がいかにして争いを終わらせるかだ。一般には人が殺された場合、男ならラクダ百頭分、女ならラクダ五十頭分を「ディヤ(賠償金)」として支払うことで解決される。加害者ではなくその人が所属する氏族全員が分担して支払う(町では現金、田舎では本当にラクダで支払いが行われる)。交渉も氏族の長老が行う。事実上、これは国の法律にもなっている。
 これだけでも「現代にそんなことをやっている国があるのか?」と驚いてしまうが、もっと凄い解決方法が存在する。あまりに争いや憎しみが激しくなり、ディヤでは解決ができない場合、加害者の娘と被害者の遺族の男子を結婚させるという方法だ。一九九三年、内戦がいちばん激しかったときも、このウルトラCで解決を図ったと言われ、また今現在でもときおり行われていると聞いていた。氏族依存症患者としてはなんとか、その具体事例を一つくらい知りたいと思った。
なんちゅうか、一見乱暴な制度だ。
人が殺されたらラクダ百頭分を支払わなきゃいけないってことは、裏を返せばラクダ百頭分を支払えば殺してもよいということになりそうだ(じっさいはどうかわからないが)。

「加害者の娘と被害者の遺族の男子を結婚させる」はもっとひどい。
たとえば自分の親が殺されたら殺人犯の娘と結婚させられる、つまり殺人犯が義父になる(この本にはじっさいそうなった男性が登場する)。
それって賠償になるのか? 全員イヤな思いするだけなんじゃないの? という気もする。
まあ誰もトクしないからこそ痛み分けってことになるのかもしれないけど……。

しかし、現実にこのやりかたが今でも生き残っているということは、それなりに合理的な制度ではあるのだろう。

今の日本みたいに平和な国に暮らしていると、殺人事件が起こったら「どうやって加害者を罰するか」を考える。
でもソマリアのようにずっと戦いに明け暮れていた国だと、加害者の処罰よりも「どうやって報復の連鎖を防ぐか」のほうがずっと重要なのだろう。ひとつの殺人事件をきっかけに部族同士の抗争に発展して何十人もの死者を出すことになった、みたいな事例がきっといくつもあったのだろう。
「加害者の娘と被害者の遺児を結婚させる」というのは報復の連鎖を防ぐための方法なのだろうね。
当事者たちにはやりきれない思いも残るだろうけど「村同士の抗争を防ぐためだ。泣いてくれ」ってのは、それはそれで有用な知恵だとおもう。当事者の人権を無視した和解方法だけど、人権よりもまずは命のほうが大事だもんんね。



ソマリアで主婦たちに料理を教えてもらうことになった著者。
このへんのくだりはすごく新鮮だった。
 母語のことを訊かれて気分を悪くする人は世界のどこにもいない。イフティンもすっかり喜び、「こっちに来て」とか「これ、捨てて」などと教える。私がそれを覚えて、二人でやりとりすると、イフティンは得意満面、いっぽう、意味がわからないニムオは「感じわるい!」とむくれる。
 そこで今度はニムオに日本語で「元気ですか?」「ええ、元気です」と教えて、会話してみると、今度はイフティンが「タカノ、あなた、悪い人!どうしてあたしに教えてくれないの?」と怒る、というか怒るふりをする。そうして、三人でふざけているうちに、肉と野菜が煮えていくのである。
 いやあ、ソマリ語を習っていてよかった!! と珍しく思った。いつも「俺は何のために苦労してこんな難しい言葉を習ってるんだろう」と嘆いていたのだ。取材するだけなら英語で十分だからだ。でも、女子と通訳抜きで直接話したければ、ソマリ語を知らないといけない。英語を話す男子は掃いて捨てるほどいるが、女子ではめったにいない。そして通訳がいたら女子は距離をとってしまい素顔を見せてくれない。
 今さらながらに思う。ソマリの政治、歴史、氏族の伝統をいくら紐解いても、それは大半が「男の話」でしかない。月の裏側のように女性の姿はいつも見えない。いわば、未知の半分に初めて足を踏み入れた喜びを感じた。

日本だと「田舎に行ってその家に伝わる料理をおばちゃんから教えてもらう」みたいなテレビ番組がよくある。どうってことのない話だ。
これがイスラム世界だととんでもないことになる。
宗派にもよるが、イスラム教徒の女性は家族以外の男と話すことを禁じられていることが多い。まして夫のいない間に外国人を家に上げるなんて、宗派によっては殺されてもおかしくないような行為だ。

そんなわけで、外国人にはイスラム圏の女性の生活はほとんどわからない。
当然ながらどの国も人口の半分は女性だ。ソマリアに関しては多くの男が戦死しているので女性のほうがずっと多い。女性に触れないということはその国の文化の半分もわからないということだ。政治や経済のことは男性に聞けばわかるが、料理を筆頭とする家事や育児のことはヒジャーブ(イスラムの女性が顔を覆う布)に包まれたままだ。
そのガードを突破したのだから、うれしくないはずがない。

そういえばぼくが中国に留学していたとき、近くの商店街の二十歳ぐらいの女性と仲良くなり、「日本語を教えてくれ」と頼まれた。
今おもうと本気で日本語を学びたかったというより外国人がものめずらしいから話すきっかけをつくりたかったのだろうとおもうが、ぼくもうれしくなって商店街に通っては日本語を教えていた。きっと鼻の下は伸びきっていたはず。
母語を教えるのって楽しいよね。苦労もなく習得した言語なのに、特別な技能であるかのように教えられるもんね。女性相手ならなおのこと。



ソマリアは危険地帯のはずなのだが、読んでいるとずっと平和な旅が続く。紛争地帯っていったってこんなもんだよなあ、とおもっていたら急転直下、高野さんの乗っていた装甲車が武装勢力から銃撃される。
「逃げろ、逃げろ!」と知事が運転席に向かってわめく。だが、逃げられないのか、逃げてはいけないという規定があるのか、アミソムの運転手はその場で車を動かし続ける。やがて、ガクッと車は止まった。死のような沈黙と、巨大な鉄の棺桶を釘で打ち付けるような砲弾、銃弾の音。
「俺はこのまま死んでしまうのか......」と思った。こんな最期があるのか。ソマリアの状況を考えれば、何の不思議もない。今までが幸運だったとさえ言える。来るべき日が来たのかもしれない。待ち伏せは仕掛ける方が圧倒的に有利なのだ。後悔の念はなかったが、唯一ソマリランドの本を出版する前に死ぬのは悔しいと思った。
 正直言って、恐怖感はそれほどひどくなかった。あまりにも現実離れしていたからだ。ベトナム戦争の映画を音響設備のよい映画館で観ているような臨場感だった。
 戦場の死とは、こうして実感を伴わないまますっと訪れるのかもしれない。

開高健の『ベトナム戦記』をおもいだした。
ベトナム戦争に従軍した著者のルポルタージュだが、圧巻は後半の森の中で一斉に銃撃を受けるシーン。二百人いた部隊があっという間に数十名になってしまう様子が克明に描写されている。読んでいるだけで息が止まりそうな恐怖を味わった。

それまではどちらかというと物見遊山という筆致で、戦争なんていってもそこには人間の生活があって兵士たちも案外ユーモアを持って過ごしているんだねえ、なんて調子だったのに一寸先は闇、あっというまに死の淵へと引きずりこまれてしまう。


人が死ぬときってきっとこんな感じなんだろうな。
予兆とかなんにもなくて、少々あぶなくても自分だけは大丈夫とおもって、「あっやばいかも」とおもったときには手遅れで、きっと死をどこか他人事のように感じたまま死んでいくんだろう。
戦死した兵士も大部分はそんな感じだったんじゃないだろうか。


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2019年8月16日金曜日

【読書感想文】ブスでなければアンじゃない / L.M. モンゴメリ『赤毛のアン』

赤毛のアン

L.M. モンゴメリ (著)
村岡 花子 (訳)

内容(e-honより)
りんごの白い花が満開の美しいプリンスエドワード島にやってきた、赤毛の孤児の女の子。夢見がちで、おしゃべり、愛情たっぷりのアンが、大まじめで巻きおこすおかしな騒動でだれもが幸せに―。アン生誕100周年をむかえ、おばあちゃんも、お母さんも読んだ、村岡花子の名訳がよみがえりました。世界一愛された女の子、アンとあなたも「腹心の友」になって!

ご存じ、赤毛のアン。子どもの頃に読んだはずだけど「赤毛を黒く染めようとして髪が緑になった」というエピソードしか記憶にない。子ども心に「変な染料を使っても緑にはならんやろ」とおもったのをおぼえている。
で、三十代のおっさんになってから再読。
例の「赤毛が緑に」はかなりどうでもいいエピソードだった。



アンがいちご水とまちがえてぶどう酒をダイアナに飲ませてしまう、というエピソードがある。
これを読んでおもいだした。

まったく同じことをぼくもやった!

小学生のとき。
母が青梅に氷砂糖を入れ、そこに水を入れて「梅ジュースやで」とぼくに飲ませてくれた。おいしかった。

翌日、友人のKくんが遊びにきた。
台所に行ったぼくは、昨日の「梅ジュース」が瓶に入って置いてあることに気づいた。
ぼくは「梅ジュース」をKくんにふるまった。あの後母がホワイトリカーを注いで梅酒にしていたとも知らずに

Kくんは一気に飲み、顔をしかめた。「なんか変な味がする」
「え? そんなことないやろ」ぼくも少しだけ口をつけた。昨日とちがう味がする。おいしくなくなってる。
「あれ。なんでやろ。昨日はおいしかってんけどなあ」

しばらくして、Kくんは気分が悪いといって家に帰った。
後からKくんのおかあさんに聞いた話だが、Kくんは自宅に帰ったあとに大声でなにかをわめきちらし、まだ夕方だというのにグーグー寝てしまったそうだ(Kくん自身も記憶がなかったそうだ)。
赤毛のアンのエピソードそのままである。
おもわぬところで昔の記憶がよみがえった。まさかぼくと赤毛のアンにこんな共通点があったなんて。


ちなみに、『赤毛のアン』を翻訳した村岡花子の生涯を描いた朝の連続テレビ小説『花子とアン』にも友人にお酒を飲まされて酔っぱらうエピソードが描かれていたそうだ。



ところで、最近の『赤毛のアン』について言いたいことがある。
『赤毛のアン』は今でも人気コンテンツらしく、各出版社からいろんな版が出ている。
中にはイラストを現代風にしたものも。

講談社青い鳥文庫(新装版)
集英社みらい文庫(新訳)
学研プラス 10歳までに読みたい世界名作

まったくわかってない。
アンをかわいく描いちゃだめでしょ

現代的なイラストをつけることに文句はない。古くさい絵だとそれだけで子どもが手に取ってくれなくなるからね。
だから、こんなふうに『オズのまほうつかい』のドロシーを現代的なかわいい女の子に描くことは大賛成だ。


でもアンはだめだ。

「やせっぽちで赤毛でそばかすだらけの見た目のよくない少女が、持ち前の明るさと豊かな想像力で周囲の人間を惹きつける」
これがアンの魅力だ。

アンを美少女に描いてしまったら設定そのものが崩れてしまう。
「アンは生まれついての美少女だったのでみんなに愛されました」だったなら、ここまで世界中の子どもたちから愛されなかったにちがいない。
 まもなくアンが、うれしそうにかけこんできましたが、思いがけず、見知らない人がいましたので、はずかしそうにへやの入り口のところに立ちどまりました。
 そのすがたは、とてもきみょうに見えました。
 孤児院から着てきた、つんつるてんのまぜ織りの服の下から、細い足がにょきっと長くでていますし、そばかすはいつもより、いっそうめだっていました。
 かみは風にふきみだされて、赤いこと、赤いこと、このときはど赤く見えたことはありませんでした。
「なるほど、きりょうでひろわれたんでないことはたしかだね。」
と、レイチェル夫人は力をこめていいました。
 夫人はいつでも、思ったことをえんりょえしゃくもなしに、ずけずけいうのをじまんにしている、愛すべき、しょうじき者の一人だったのです。
「この子はおそろしくやせっぽちで、きりょうが悪いね。さあ、ここにきて、わたしによく顔を見せておくれ。まあまあ、こんなそばかすって、あるだろうか。おまけにかみの赤いこと、まるでにんじんだ。さあさあ、ここへくるんですよ。」
 すると、アンは一とびに、レイチェル夫人のまえにとんでいって、顔をいかりでまっかにもやし、くちびるをふるわせて、細いからだを頭からつまさきまでふるわせながら、つっ立ちました。そして、ゆかをふみならして、
「あんたなんか大ききらい──大きらい──大きらいよ。」
と、声をつまらせてさけび、ますますはげしくゆかをふみならしました。

この描写からもわかるように、アンは初対面のおばさん(しかも“しょうじき者”)から「きりょうが悪い」と言われるぐらいのブスで、そのことを自覚してコンプレックスに感じている少女だ。
だからアンの挿絵は美少女であってはいけない。『美女と野獣』の野獣がグロテスクなビジュアルでなければ話が成立しないように。

赤毛のアンの魅力をきちんと理解している本もある。

ブティック社 よい子とママのアニメ絵本

徳間アニメ絵本

ここに描かれているアンは、美少女キャラのダイアナにくらべて明らかに見劣りしている。アンを、がんばってブスに描いている

身も蓋もない言い方をすれば、赤毛のアンは「ブスが美人より輝く物語」だ。

『白雪姫』や『シンデレラ』のような生まれながらの美女がいい目を見る物語が素直に受け入れられるのはせいぜい幼児まで。成長するにつれ、自分が「お妃さまに嫉妬されるようなこの世でいちばん美しい存在」でないことがわかってくる。
だからこそ、自分の見た目に悩みを抱える十一歳のアンの物語が世界中で読まれてきたのだ。

他の作品はどうでもいいけど『赤毛のアン』だけはちゃんとブスっ子にしてくれよな!


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2019年8月9日金曜日

【読書感想文】偉大なるバカに感謝 / トレヴァー・ノートン『世にも奇妙な人体実験の歴史』

世にも奇妙な人体実験の歴史 

トレヴァー・ノートン (著)  赤根洋子 (訳)

内容(e-honより)
性病、毒ガス、寄生虫。麻酔薬、ペスト、放射線…。人類への脅威を解明するため、偉大な科学者たちは己の肉体を犠牲に果敢すぎる人体実験に挑んでいた!梅毒患者の膿を「自分」に塗布、コレラ菌入りの水を飲み干す、カテーテルを自らの心臓に通す―。マッド・サイエンティストの奇想天外、抱腹絶倒の物語。

いやあ、おもしろかった。これは名著。
科学読み物が好きな人には全力でおすすめしたい。

世の中にはおかしな人がずいぶんいるものだ。

ぼくにとっていちばん大事なものは「自分の命」だ。あたりまえだよね……とおもっていた。

でも子どもが生まれたことでちょっと揺らいできた。
自分の命を投げ出さなければ我が子の生命が危ないという状況に陥ったら……。
ううむ、どうするだろう。
そのときになってみないとわからないけど、身を投げだせるかもしれない。少なくとも「そりゃとうぜんかわいいのは我が身でしょ!」とスタコラサッサと逃げだすことはない……と信じたい。

そんな心境の変化を経験したおかげで、大切なものランキング一位がで「自分の命」じゃない人はけっこういるんじゃないかと最近おもうようになった。
「子どもの命」や「他者」や「信仰」や「誇り」を自分の命よりも上位に置いている人は意外とめずらしくないのかも。




『世にも奇妙な人体実験の歴史』は、そんな人たちの逸話を集めた本だ。

この本に出てくる人たちにとって、大事なのは「真実の解明」だ。
彼らは真実を明らかにするために自らの健康や、ときには命をも賭ける。

毒物を口にしたり、病原菌を体内に入れたり、爆破実験に参加したり、食べ物を持たずに漂流したり、安全性がまったく保障されないまま深海に潜ったり気球で空を飛んだり……。
クレイジーの一言に尽きる。
 この問題に決着をつけるためには実験が必要だった。ハンターのアイディアは、誰かを淋病に感染させ、その人に梅毒の兆候が現れるかどうかを待つ、というものだった。兆候が現れれば仮説が正しかったことになるし、現れなければ仮説が間違っていたことが明らかになる。淋病にも梅毒にも感染していないことが確実に分かっていて、しかも性器を気軽に毎日診察できる実験台と言えば、間違いなくハンター自身しかいなかった。
 ハンターは自分のペニスに傷をつけ、ボズウェルが「忌まわしきもの」と呼んだ淋病患者の膿をそこに注意深く塗りつけた。数週間後、彼のペニスには硬性下疳と呼ばれる梅毒特有のしこり(これはのちに、「ハンターの下疳」と呼ばれるようになった)が現れた。そのとき彼が覚えた満足感を想像してみてほしい。
 ハンターが考慮に入れていなかったことが一つあった。それは、膿を提供した患者が「淋病と梅毒の両方」に罹患しているかもしれないということだった。彼はうかつにも、自らの手で自分を梅毒に感染させてしまったのである。早期に進行を食い止めなければやがて鼻の脱落、失明、麻痺、狂気、そして死へと至る恐ろしい病、梅毒に。理性的な人間もときにはまったく道理に合わないことをするものである。
こんなエピソードのオンパレード。

世の中にはイカれた科学者がたくさんいるんだなあ。

それでもこの本に載っているのは「クレイジーな人体実験をしてなんらかの成果を上げた科学者たち」だけなので、「危険な実験をして成果を上げる前に死んでしまった科学者たち」はこの何十倍もいたんだろうな。

 彼の最初の成功は、アヘンの有効成分を発見し、これを(ギリシャ神話の眠りと夢の神モルフェウスに因んで)モルヒネと名づけたことだった。彼はまず、純粋なモルヒネを餌に混ぜてハツカネズミと野犬に食べさせ、その効果をテストした。彼らは永遠の眠りについた。これに怯むことなく、彼は仲間とともにモルヒネを服用し、その安全量を見極めようとした。彼らはまず、安全だと現在考えられている量の十倍から服用実験を開始した。すぐに全員が熱っぽくなり、吐き気を催し、激しい胃けいれんを起こした。中毒を起こしたことは明らかだった。ことによると、命に関わるかもしれない。嘔吐を促すために酢を生で飲んだあと、彼らは意識を失って倒れた。酢を飲んだおかげで死は免れたが、苦痛は数日間続いた。
 ゼルトゥルナーはモルヒネの実験を続け、アヘンで和らげられないほどの歯痛にもモルヒネなら少量で効くことを発見した。彼は、「アヘンは最も有効な薬の一つだ。だから、医師たちはすぐにこのモルヒネに関心を持つようになるだろう」と期待を抱いた。
「彼らはまず、安全だと現在考えられている量の十倍から服用実験を開始した」って……。
いやいや。
ふつうならまずネズミと犬が死んだところでやめる。犬が死んだのを見た後に、自分で飲んでみようとおもわない。
仮に飲むとしても、「安全だと現在考えられている量」から服用する(それでもこわいけど)。なんでいきなり十倍なんだよ。ばかなの?

しかしこの無謀すぎる実験のおかげで適量のモルヒネが苦痛を和らげることが明らかになり、モルヒネは今でも医療用麻薬として使われている。

こういうクレイジーな人たちがいたからこそ科学は進歩したのだ。偉大なるバカに感謝しなければならない。




今、うちには生後九か月の赤ちゃんがいる。
こいつはなんでも触る。なんでもなめる。口に入る大きさならなんでも口に入れようとする(止めるけど)。
「触ったら熱いかも」「なめたら身体に悪いかも」「ビー玉飲んだらのどに詰まって死ぬかも」とか一切考えていない。当然だ、赤ちゃんなのだから。

それで痛い目に遭いながら赤ちゃんは成長する(もしくはケガをしたり死んだりする)のだけど、この本に出てくる科学者たちは赤ちゃんといっしょだ。わからないから触ってみる、なめてみる、やってみる。
もちろん「死ぬかも」という可能性はちらっとよぎっているんだろうけど「でもまあたぶん大丈夫だろう」と考えてしまうぐらいに好奇心が強いんだろうね。賢い赤ちゃんだ。

 フィールドが死ぬほどの目にあったにもかかわらず、その後ウィリアム・マレルという若い医師がフィールドと同じ実験を試みた。マレルの実験方法は驚くほどカジュアルだった。彼はニトログリセリンで湿したコルクを舐め、それからいつもの診察を始めた。しかし、すぐに頭がズキズキし、心臓がバクバクし始めた。
「鼓動のその激しさといったら、心臓が一つ打つ度に体全体が揺れるのではと思われるくらいだった……心臓が鼓動する度、手に持ったペンがガクンと動いた」。にもかかわらず、彼はニトログリセリンの自己投与を続け、その実験はおそらく四十回以上に及んだ。彼は、ニトログリセリンの効果のいくつかが当時血管拡張剤として使用されていた薬のそれに似ていることに目ざとく気づき、自分の患者にニトログリセリンを試してみた。現在、ニトログリセリンは狭心症の痛みを緩和するための標準的な治療薬になっている。

この本に出てくる人たちのやっている実験は痛々しかったりおぞましかったり息苦しくなったりするのだが、そのわりに読んでいて陰惨な感じはしない。というか笑ってしまうぐらいである。
著者(+訳者)のブラックユーモアがちょうどいい緩衝材になっているのだ。
「実験失敗 → 死亡」なんてとても不幸な出来事のはずなのに、ドライな語り口のせいでぜんぜん痛ましい気持ちにならない。

人の死を軽く受け止めるのもどうかとおもうが、いちいち深刻に悼んでいたらとてもこの手の本を読んでいられないので、これはこれでいいんだろう。

読んでいるだけでどんどん病気や怪我や死に対する恐怖心が麻痺していく気がする。
この心理の先にあるのが……我が身を賭して人体実験をする科学者たちの心境なんだろうな、きっと。


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ぼくのほうがエセ科学



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2019年8月7日水曜日

【読書感想文】失敗は見て見ぬふりの日本人 / 半藤 一利・池上 彰『令和を生きる』

令和を生きる

平成の失敗を越えて

半藤 一利  池上 彰

内容(e-honより)
政治の劣化、経済大国からの転落、溢れかえるヘイトとデマ。この過ちを繰り返してはならない。平成の失敗を徹底検証する白熱対談!

世界情勢、政治、天皇、災害、原発、インターネットといったテーマを切り口に「歴史やニュースをわかりやすく伝えるプロ」のふたりが平成という時代をふりかえった対談。

たくさんのテーマを扱っているので、ひとつひとつの話はちょっと浅くて物足りない。たとえば「平成の政治史」だけで一冊ぐらいの分量だったらもっとおもしろかったとおもう。
でもまあ、これ以上深い話はこの人たちの仕事じゃないか。入口まで連れていくのが半藤さんと池上さんの仕事だもんな。




「平成の失敗を越えて」とサブタイトルがついているように、話の八割ぐらいは「平成の三十年で悪くなったこと」についてだ。
年寄りのぼやきっぽさもあるが、こと日本の経済と政治に関してはまちがいなく劣化しているとぼくもおもう。
平成の三十年で、日本は数えきれないほどの失敗してきた。そしてそのほとんどはきちんと総括できておらず、いまだ手つかずの問題も多い。

政治の不調の原因は、特定の個人や団体にあるのではないとぼくはおもう。
「小選挙区制」というシステムの問題だ。
小選挙区比例代表並立制を生んだのは、1994年に成立した政治改革四法である。
池上 あのとき、「政治改革」が正義でそれに反対するのは「守旧派」あるいは「抵抗勢力」とレッテルを貼られた。「改革に反対する者たち」と括られて。
半藤 わたくしもそう言われました(笑)。二党政治というのは日本人に向かないと、かねてわたくしは思っていました。戦前の日本は民政党と政友会の二党政治でした。野党になったほうは、ときの政権をひっくり返そうと思ってしばしばおかしな勢力と結びついた。昭和初期に政友会と結びついたのが軍部と右翼でした。そしてやがて、軍部は政友会を利用しつつ好き勝手をはじめてこの国を戦争へと向かわせることになるんです。と、いうような歴史があるのだから日本の二党政治は怖いよ、と言っても、おっしゃるように「守旧派」呼ばわりされてしまう始末でね。
池上 イギリスやアメリカのように対立する二党による政権交代があったほうがいい、という論調がたしかにメディアでも強かった。日本は中選挙区制だからずっと政権交代が起きないのだと。小選挙区制にすれば大量の死に票を出すことにはなるけれど、そのことよりも、どちらかが勝つという仕組みのほうがいい。そう言って制度を変えるわけですよね。
 じつはその頃イギリスでは、保守党と労働党だけではなく、第三の勢力として自由民主党が出てきていました。二党ではかならずしもうまくいかないということが明白になっていたからです。にもかかわらず日本では政権交代可能な二党が、競い合うような制度がいいと信じられていた。アメリカだってそうじゃないか、共和党と民主党で代わる代わる政権を担当しているよと。なんとなくこう、海外はこうなっているから日本もそうすべきだ、というような発想や主張は根強くありますね。「世界に遅れるな」とばかりに。
小選挙区制のダメなところは今までにもさんざん書いているのでここではくりかえさないけどさ。

小選挙区制がダメな99の理由(99もない)/【読書感想エッセイ】バク チョルヒー 『代議士のつくられ方 小選挙区の選挙戦略』

選挙制度とメルカトル図法/読売新聞 政治部 『基礎からわかる選挙制度改革』【読書感想】

民主主義を破壊しかねない小選挙区制だけど、導入されたときは
「民主主義をぶっこわすために小選挙区制にしよう!」
とおもっていた人はほとんどいないんだろう。当時の人たちは「小選挙区制こそすばらしい制度」と信じていたんだなあ。

民主主義をぶっこわしたのは当時の日本人みんなだったのだ。
半藤 こうして認めてみると、やっぱり小選挙比例代表並立制の導入は、日本の岐路でしたねえ。政治家がすっかり政党のロボットになっちゃった。死に票が山ほど出て選挙が民意を伝えるものではなくなってしまった。よく主権、主権といいますがね、主権には二種類ある。国内的な政治主権と、外政的な政治主権です。北方領土変換交渉のさなか、ブーチンが安倍総理にこう言いました。「そこにアメリカの基地など決してつくらせないと言うけれど、沖縄で新基地建設業反対があれだけ叫ばれているというのに、政府与党はそれを無視しているじゃないか」と。つまり日本はアメリカの要求に逆らえない国なのだから、なんでもイエスなんだから、北方領土でもまたおなじことになるという疑念を示した。それが意味するのは、安倍首相の国内的政治主権というものは、ぜんぜん国民に説得力がないということなんです。
 プーチンが指摘したように、日本の政府与党は、選挙で勝ったら好きなようにやっていいのだとばかりに世論なんか無視している。わたくしに言わせりゃ、もとはと言えば小選挙区比例代表並立制のせいなんです。

まあ失敗したこと自体はいいわけだよ。
現状を予想できた人は当時ほとんどいなかったんだろうし。
ダメなのは失敗を改める制度がないことなんだよね。

今の国会議員の多くは小選挙区制のおかげで当選できた人たちなので、それを変えようとしない。
政治制度なんて完璧になるはずないんだから、フィードバックが働かない制度をつくっちゃだめだよ。

現行の小選挙区制は裁判所もずっと違憲状態だっていってるのにいっこうに直らないんだから。
民意がそのまま反映されたら困る人がいるんだろうなあ。

選挙制度は利害関係者である政治家に決めさせちゃだめだよね。裁判所とかの独立した機関にやらせなきゃ。

特に最近は、情報の地域差はすごく少なくなったし、その一方で都市と地方の人口差は開くばかり。地域ごとに選挙区を分ける理由がどんどん薄くなっていっている。
個人的には、大選挙区制にしてしまってもいいんじゃないかとおもう。




原発について。
半藤 日本では送電網をもっている旧電力会社のカがあまりに強いので、地域に合った発電・供給を実現する新しいとりくみがうまくいかないようですね。いつもギクシャクしている。いまだに原子力発電にしがみついている。
池上 ドイツは、メルケル首相が福島第一原発の大事故を見てエネルギー政策をすぐさま転換しました。前の年にメルケルさんは従来の脱原発政策を緩和させて、運転延長の方針を打ち出したばかりだったんです。しかしあの事故を契機に原発廃止に明確に舵を切った。「あの日本ですらコントロールできないものは止めるべきだ」と言ったんです。
 イタリアでも、二〇一一年のフクイチの事故後の六月、原子力発電の再開の是非を問う国民投票があって、政府の再開計画が否決されているんです。街頭インタビューで反対票を投じたご婦人が、「原発は日本人ですらコントロールできない。街のごみ収集もちゃんとできないイタリア人が、管理できるわけないわよッ」と答えていました(笑)。
半藤 他山の石としたドイツもイタリアも、えらいもんです。ところが当事国である日本の政治家どもは福島の大災害からまったく学んでいない。で、原発輸出に熱心になっている。原発問題は、平成が残した大課題だと思いますねえ。

日本の原発の失敗を見てドイツやイタリアは原発廃止に舵を切ったのに、当事国である日本だけがいまだに原発にしがみついている。
失敗であることに気づきながら責任をとりたくないばかりに失敗から目を背け、取り返しのつかない事態へ突き進んでしまう。すごく日本らしい光景だ。

「日本軍が負けるわけがない」
「地価が下がるわけがない」
「原発が制御不能になることはない」
昭和も平成も、失敗に対する日本の体質は少しも変わっていないなあ。




ぼくはまだ三十数年しか生きていないけど、ここ数年で国内の空気はどんどん息苦しくなっているように感じる。

この本の中で池上さんと半藤さんが「我々もネットでは反日と呼ばれている」とボヤいている。
彼らは日本もアメリカも中国も北朝鮮も等しく「いいとこもあるし悪いとこもあるよね。悪いところはちゃんと批判しなければ」という立場をとっているとおもうんだけど、それでも「反日」になってしまうのだ。
日本政府礼賛でなければ「反日」、という風が吹いているように感じる。

もちろんそういう人がごく一部であることはわかってるんだけど、声が大きい(あるいは複数アカウントを使うなどして数を多く見せている)から多数派であるように感じてしまう。ああ、息が詰まるぜ。


この閉塞感は、経済と無関係ではないだろう。
残念ながら日本の経済力は(少なくとも相対的には)どんどん落ちていっている。日本は先進国ではなく衰退途上国だ、と誰かが言っていた。多くの日本人の実感に近いとおもう。

景気のいいときには「このままじゃ日本はだめだ。立ち止まって反省しよう」みたいな言説が主流だったのに、経済が成長しなくて閉塞感が高まるとかえって「威勢のいい話以外は認めないぜ!」という雰囲気になってしまう。
現実から目を背けたくなるのだ。

つぶれる会社ってこんな空気なんだろうなあ。
そういやぼくは以前書店にいたけど、出版業界ってもう衰退していくことが誰の目にも明らかだから、業界の集まりなんかでも逆に景気のいい話しか出てこないんだよね。
「こんな仕掛けをした本が売れました!」とか「〇〇出版社が業績アップ!」みたいな。

たぶん大戦に突入したときも同じような空気だったんだろうね。





以前、『失敗の本質~日本軍の組織論的研究~』という本の感想としてこんなことを書いた。

日本が惨敗した原因はいろいろあるが、あえてひとつ挙げるなら「負けから何も学ばなかった」ことに尽きる。

この体質は今もって変わっていない。

だからこそこうして半藤・池上両氏は「平成の失敗を振り返ろう」と警鐘を鳴らしているわけだが、そういう人は少数派で、多数派からは「せっかくの前向きな空気に水を差すなよ」と疎まれてしまう。

はたして令和時代は失敗を総括して軌道修正のできる時代になるんだろうか。
それとも、過去と同じように取り返しの失敗に突き進んでいく時代になるのだろうか。
ぼくの予想は、残念ながら……はぁ……。


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