2018年11月12日月曜日

【読書感想文】アヘンの甘美な誘惑 / 高野 秀行『アヘン王国潜入記』

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『アヘン王国潜入記』

高野 秀行

内容(e-honより)
ミャンマー北部、反政府ゲリラの支配区・ワ州。1995年、アヘンを持つ者が力を握る無法地帯ともいわれるその地に単身7カ月、播種から収穫までケシ栽培に従事した著者が見た麻薬生産。それは農業なのか犯罪なのか。小さな村の暖かい人間模様、経済、教育。実際のアヘン中毒とはどういうことか。「そこまでやるか」と常に読者を驚かせてきた著者の伝説のルポルタージュ、待望の文庫化。

稀代の冒険ルポライター高野秀行さんの出世作。

高野さんの本は何冊も読んでいるが、その上で『アヘン王国潜入記』を読むと、文章が若い。肩に力が入っているというか。
誰もやったことのないことをやったるでえ、という気負いのようなものが感じられる。
決死のルポルタージュって感じよね。個人的には近年の「肩ひじ張らずに誰もやったことのないことをやっちゃう」感じのほうが好き。



東南アジアに、ゴールデン・トライアングルという世界最大の麻薬密売地帯がある。
その中でも特にアヘンの栽培量の多いワ州に高野さんが潜入して、村人の生活を観察したルポルタージュ……というとずいぶんものものした感じだが、描かれているのはいたってのんびりした生活だ。

そもそもアヘンの栽培が現地では非合法ではないので、殺伐とした雰囲気はない。村人はアヘンの種をまき、間引きをし、草刈りをし、アヘンが実ってきたら収穫をする。ただの農業だ。
ワ州というところは、国家でいうと一応ビルマに属しているが、そこに住んでいるのはワ族という少数民族であり、言語もワ語という独特の言葉を使うので、ほとんど独立国家である。
村人は基本的にアヘンはやらない(一部やる人もいる)し、村人間で現金のやりとりをほとんどしないので、村の生活はいたってのどかなものだ。
(とはいえワ族は少し前まで首狩り族として付近一帯に知られていたらしい)



本の後半には、高野さんがアヘンを吸うシーンも出てくる。
そりゃあね。
「アヘン王国に行ってきました。アヘンを栽培してきました。でも吸ってません」ではルポにならないよね。
やっぱりいちばん知りたいのは「アヘンを吸うのってどんな気分?」ってとこだもんね。

たぶん高野さんがいちばん伝えたかったのはそこじゃないんだろうけど、読者が知りたいのはそこなんだよなあ(このギャップに対する歯がゆさがあとがきなどからびんびん感じられる)。
 私の番になった。ランプの灯にアヘンをあてながら、ゆっくりと長く吸い込む。私の吸気でゆらめく薄い炎、ジジジッというアヘンが身を焦がす音、たなびく天上の香り、そして肺ではなく腹の底に降りていくようなモワッと柔らかい煙。
 アイ・スンと交互に何回吸っただろう。時間にして一時間以上たっていた。アヘンはなくなり、アイ・スンは「そのまま静かに寝ていろ」と言って寝床を出た。言われるまでもなく、私はもう夢うつつであった。しかし、このアヘンの効き目のすごさといったら! 頭蓋骨痛も、胃の不快感も、下痢も、節々のだるさも瞬時に消えてなくなった。身体は毛細血管の隅々まで暖かい血流がめぐり、全身がふわふわと浮き上がるような感じだ。眠りに引き込まれるときのあの心地よい瞬間が持続しているのを想像してもらえば、いくらかわかるかもしれない。
まずい、これを読んでると吸いたくなる……。
めちゃくちゃ甘美な気分なんだろうなあ。だからこそ多くの人が中毒になるし、それがきっかけで戦争まで起こっちゃうんだろう。

アヘンは麻薬ヘロインにもなるが、医療用のモルヒネにもなる(ちなみにヘロインも元々は薬として売りだされたそうだ)。
壮絶なガンの痛みを抑えるのに使われるぐらいだから、ちょっとした疲れなんかはたちまちふっとんでしまうんだろう。

一生に一度ぐらいはやってみたいなあ、すごくしんどいときに使う分にはいいんじゃないかな、要は風邪薬で熱やだるさを抑えるのと同じだろう。
……なんて思いながら読んでいたんだけど、高野さんがだんだんはまっていく姿を読むにつれて「やっぱりアヘンこえぇ」とおそろしくなってきた。

べつの本で高野秀行さんが「ルポのためにもぐりこんだはずがアヘン中毒になりかけたことがある」と書いていたが、中毒になりかけたなんてもんじゃない、完全に中毒者だ。
なにしろ毎日のようにアヘンを吸って、吸引をやめたら動けなくなり、アヘンを育てている村人たちから「おまえもうアヘンはやめとけ」と止められるぐらいなのだ。
よく無事に帰ってこられたものだと思う。

アヘンダメ、ぜったい。
とはいうもののやっぱりちょっとは気になる。
末期ガンになったらモルヒネ打ってもらおうっと。



ワ人の男は、あまり死をおそれないそうだ。
 ワ人はふだんはけっして勇ましくもないし、気性も激しくない。どちらかといえば温和で、ひじょうに礼儀正しい。そして、何より従順だ。こういう人たちが戦争になると、死を恐れず敵に向かって突っ込んでいくのだ。
 しかし、この夜、「どうして怖くないの?」と重ねて聞いたときのアイ・スンの答には、ほんとうに驚いた。「おれが死んでもアイ・レー(長男)がいる。アイ・レーが死んでもニー・カー(次男)がいる。二ー・カーが死んでもサム・シャン(三男)がいる。サム・シャンが死んでもアイ・ルン(四男)がいる」
 こう平然と言ってのけたのだ。ふつうなら「おれが死んでも子どもたちがいる」くらいで止まるだろう。仮にも「長男が死んだら」などと口には出さないものだろう。それを息子三人までは死んでもかまわないと明言するのだ。ひどいことを言うものだと思った。末っ子のアイ・ルンは彼が毎朝あやしている赤ん坊でまだ生後三カ月である。それさえ生き残ればいいと言うのだ。

この死生観は、現代日本人からするとなかなか理解できない(戦時中の日本人には理解できるのかもしれない)。
いやいや自分が死んだらそれでおしまいじゃないか。いちばん大事なのは自分の命でしょ、と。
子どもを守るなら命を落としてもかまわない、であれば理解できる。ぼくも究極の選択をせまられたら命を捨ててでも子どもの命を守るほうを選ぶかもしれない。
でも「子どもを守るためなら死ねる」と「子どもがいるから戦争で死ぬのが怖くない」はぜんぜんちがう。なによりやっぱり死ぬのはこわい。


でも、もしかしたら生物としては「死ぬのがこわい」のほうが異常で、「自分が死んでも子どもがいる」のほうがずっと自然なことなのかもしれない。
ミツバチやアリはこういう行動をとる。同じ遺伝子を持ったきょうだいのためなら命を投げだすことをいとわない。
生物なんてしょせん遺伝子の乗り物。遺伝子的に見れば各個体の命なんてものはたいして価値がない。
ミツバチやアリにかぎらず、人類の歴史においても「子孫やきょうだいが生き残ればそれでいい」のほうがふつうだったのかも。そうじゃなきゃ戦争なんてできないし。
長いスパンで見れば、「死んだらすべておしまい」のほうが例外的な価値観なのかもしれない。

この本には、ワ州の村の風習である「その家の男が死んだら家をつぶしてしまう」という行動が描写されている。
「まだ女が住んでいるのにずいぶん乱暴な話だ」とびっくりした。

でも、これもよく考えたら自然なことかも。
女だけでは子孫を残すことができないのだからいつまでも古い家で思い出にひたっていてもしかたがない。
それなら家は壊して建材は他で使い、残された女はさっさと他の家に嫁いだほうが(遺伝子を残すという点では)いい。

原始的な生活を送っているワ州のほうが、文明国の人間よりも「遺伝子を次の世代に受けつぐ」という観点では合理的な行動をとっているのかもなあ。


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