2019年9月6日金曜日

【読書感想文】伝統には価値がない / パオロ・マッツァリーノ『歴史の「普通」ってなんですか?』

このエントリーをはてなブックマークに追加

歴史の「普通」ってなんですか?

パオロ・マッツァリーノ

内容(e-honより)
みそ汁の味付けが地域ごとにまちまちであるように、料理の伝統的な味付けには地域ごとの個性があります。伝統とは、ローカルで多様性のある文化なのです。つまり、国全体、国家で統一された伝統なるものは、歴史的には存在しないのです。日本人全員が共有する「日本の伝統」と称するものは地域ごとの多様性を無視してるわけで、その存在は歴史的にも文化的にも疑わしい。日本の伝統なるものは、だれかによって捏造されたフェイクな伝統ではないのか。権威主義にゴリ押しされて鵜呑みにすることなく、謙虚に再検討する作業が必要です。
日本通のイタリア人(自称)である著者が、豊富な資料をもとに日本の「伝統」の嘘くささを暴いた本。

昔の日本人は礼儀正しかった、昔は地域みんなで子育てをした、昔は女性は結婚したら専業主婦になるのがあたりまえだった……。

いずれも何度となく聞いたことのある話だ。

まあそのへんのおじいちゃんが勝手に過去を美化して「昔は良かった」とほざいてるぶんには「おじいちゃん、もうなにねぼけたこと言ってんのよ」で済むけど(済まないか)、政治家のおじいちゃんまでもがこの手の思い込みを信じて、それをもとに政策をつくったりするわけだからまったく始末に困る。
 それにしても、です。戦前戦後を通じ、なぜ日本ではこれほどまでに保育園と共働きが忌み嫌われてきたのでしょう。一般人も政治家も、寄ってたかって保育園と共働き夫婦を社会の敵として排斥しようとしていた様子は不気味ですらあります。
 その原因はひとつには、伝統の誤解にあります。専業主婦は、大正時代に誕生した高収入の中・上流サラリーマン家庭でのみ可能だった、女性の新しい生きかたです。それは男性にとっても、オレの稼ぎだけで家族を養ってやってるのだ、という自尊心を満足させるものでした。
 が、それはあくまで、あこがれでした。低賃金で働く下流サラリーマンや工場労働者の家庭では夫婦共働きが基本です。ついでにいえば、農家もむかしから共働きです。つまり専業主婦こそが新たな時代の豊かさと贅沢の象徴であり、ステータスだったのです。その図式は戦後になっても変わらなかったのに、どうしたわけか戦後の経済発展のなかで、カン違いした日本人が、専業主婦を日本の標準的・伝統的家族像へとまつりあげてしまいました。そして貧乏人にはあたりまえだった共働きが、伝統を破壊する欲望と贅沢の象徴とみなされる逆転現象が起きたのです。
 まあ政治家なんて大半がお金持ちの家の出だから彼らにとっては「おかあさんが外で仕事をしていないのがふつう」なんだろうけどさ。

けれどいつの時代も、両親ともに働いているほうがふつうだった(もっといえば子どもも働いているほうが「伝統的」な姿だ)。


そういえばぼくも結婚したとき、当時の会社の社長に「結婚しても共働きを続けます」と言ったら、団塊の世代である社長はこう言った。
「やっぱり男たるもの、嫁子どもを食わしてこそ一人前やで」
と。
「じゃあ食わせられるよう給料あげろよ」とはさすがに言わなかったが(言えばよかった)、あの世代だとこういう価値観はけっして珍しくない。

妻は仕事がしたいから働いているわけだし、共働きのほうが当然収入は増えるしリスクも小さくなるんだけど、こういうことをおじいちゃんに言ってもなかなか理解してもらえない。
己の中にある「ふつう」は頑強なので、なかなか壊せないのだ。


ちなみに、日本の税制は専業主婦世帯が共働き世帯に比べて圧倒的に有利になるように設計されている。
幻想である「ふつうの家庭」を基準に制度設計しているからこういうことになるのだ。

いいかげん夢から目を覚ましてほしい。もしくはさっさと現世から卒業してほしい(「死ね」の婉曲な言い方)。



「昔は良かった」の「昔」はたいてい美化された思い出なのだが、もっとひどい場合もある。
 そもそも時代小説が盛んに書かれるようになったのは大正時代のことでした。時代考証を無視した荒唐無稽な娯楽時代小説が受け入れられるようになったことが、ブームの一因です。
 大正時代ともなると、中高年層までが明治生まれ。作家も読者も大半は、本物の江戸時代を知らない世代になってました。なので作家が歴史的にはありえない話をおもしろおかしく書いたとしても、読者にもそれを批判できるだけの知識がありません。考証の縛りがなくなることで、時代小説のエンターテインメント性は高まりました。しかしそれは同時に、エセ江戸文化イメージを庶民に広めることにも一役買ってしまいました。
 その影響はいまだに尾を引いてます。二〇一六年の新聞投書にこんなのがありました。時代劇に登場する武士や町人の礼儀正しさや慎み深さを見ると、将来の日本は大丈夫かと危惧してしまう──。このかたは、時代劇をノンフィクションだとカン違いされてるようです。
 江戸時代の人がみんな礼儀正しかったなんてわけがないでしょ。無礼で非道で乱暴なヤツは普通にたくさんいました。火事とケンカは江戸の華、なんてのを聞いたことはないですか。放火や暴力沙汰が日常茶飯事だったんですよ。猛スピードで走る荷車がこどもをひき殺してそのままひき逃げするなんて事件がたびたび起きていて、幕府は交通安全を呼びかける御触書をしょっちゅう出してました。

以前、時代小説はラノベだと書いた。
都合のいいことや安っぽい願望でも、時代小説というベールに包めば一応それらしく見えるからだ、と。

【読書感想文】時代劇=ラノベ? / 山本 周五郎『あんちゃん』

だから時代小説ファンタジーとして楽しめばいいんだけど、困ったことに過去を舞台にしたフィクションをもとに「昔は良かった」と語ってしまう人がいるのだ。

『男はつらいよ』や『裸の大将』や『ALWAYS 三丁目の夕日』を引きあいに出して「昔の下町には人のぬくもりが……」みたいなことが語る人もいる。

そのうち
「『シン・ゴジラ』の頃の日本人は危機的状況にも力をあわせて立ち向かったのに今の日本人は根性がない……」
みたいなことを言いだす人も現れるかもしれない。



伝統は基本的に価値がない、役に立たない。
価値があれば、わざわざ「伝統」なんて冠をつけてありがたがる必要がない。そんなことしなくてもみんな使うから。

「学校教育には伝統がある」とか「伝統ある小説という娯楽」なんて誰も言わないでしょ。
なぜならそれはまだまだ現役だから。

着物や歌舞伎のように、価値が下がって見向きもされなくなりつつあるものだけが、廃れゆくものの最後の悪あがきで「伝統」を名乗るのだ。
だから伝統をありがたがる必要なんか少しもない。
 つまり、日本人が「伝統」を意識するようになってから、まだ一〇〇年ちょっとしか経ってません。
 それ以前、江戸時代の人たちが、伝統みたいなものを意識してたかどうかは疑間です。変化がゆるやかだった時代の人間にとって、伝統は特別なものでなく、日常の長く退屈な繰り返しの延長にすぎなかったのかもしれません。
 変化のなさゆえに、人々はむしろつねに新しい刺激に飢えていたようにも思えます。歌舞伎はいまではすっかり日本の伝統芸能としての地位を確立しましたが、もとはといえば、江戸時代の日本人が新しもの好きだったから、歌舞伎という新しい芸がもてはやされたのです。新しもの好きで飽きっぽい民衆の期待にこたえるべく、歌舞伎は新たな技法や仕掛けを次々と取り人れて独自の進化発展を遂げました。
 もしも江戸時代の人が伝統を重んじていたら、歌舞伎などという流行り物は支持されなかったかもしれません。もしそうだったら、歌舞伎から派生した長唄、小唄などさまざまな邦楽も、存在しなかったでしょう。

「伝統」を大切にしないことこそが伝統なのかもしれんね。

今度から「伝統の」という形容詞を見たら、「風前の灯火の」に置きかえることにしようっと。


【関連記事】

【読書感想文】 小林 直樹 『だから数字にダマされる』



 その他の読書感想文はこちら


このエントリーをはてなブックマークに追加

0 件のコメント:

コメントを投稿