ライマン・フランク・ボーム (著),毛利孝夫 (翻訳)『オズの魔法使い』
みんな大まかには知りながら、じつはよく知らない物語。それがオズの魔法使い。
かくいうぼくもよく知りませんでした。
「ええっと……。竜巻でぶっ飛ばされたオズ? が、かかしとかライオンたちと旅をして、次々に襲いかかってくる敵を知恵と勇気と魔法でやっつけて、最終的にまた竜巻に飛ばされておうちに帰ってくる話、かな……?」
ぐらいの認識でした。
いまさら児童文学を読むのもなあということで一生『オズの魔法使い』をうろ覚えのまま生きていくつもりだったんですが、もう版権が切れているのでKindleで安く買えるというので、読んでみました。
(電子書籍の最大の魅力はこういうところですね。著作権なんてのは作者が死ぬと同時に切れてしまえばいいのに。大半の創作者にとっては、子孫に小金が入るよりも自分の死後も作品が読まれつづけることのほうが大事でしょう)
そんなわけで、30歳を過ぎてはじめてまともに読んだ『オズの魔法使い』。
感想はというと、
「少年時代に読んでおけばよかった!」
奇想天外なキャラクター、荒唐無稽なようでじつはしっかりと組み立てられたプロット、次々に試練が襲いかかるスリリングな展開。
児童文学としては最高傑作といってもいいほどの出来映え。
なによりすばらしいのは、説教くささをまったく感じさせないところ。
人々を困らせていた東の魔女と西の魔女をドロシーがやっつけるわけですが、その決め手となるのは力でも策略でも勇気でも友情でもありません。
“まったくの偶然”によってドロシーは魔女を打ちたおすのです。
オズの正体を暴くのも偶然。さまざまな困難を切り抜けるのもほぼ偶然。
「家に帰る」という最大の目的だって、最後にはあっけないほどかんたんに達成されてしまいます。
(なにしろ「もしその力を知っていたなら、この国に来たその日に、あなたはエムおばさんのところに帰れたのですよ」と言われてしまうぐらい)
“努力と根性で道を切り開く主人公”に食傷している身からすると、運命に身を任せて「このままじゃおうちに帰れないわ」と困っているだけのドロシーの存在はかえって痛快でさえあります。
さらに、もうひとつの目的である「知恵の足りないかかし」「ハートを持たないブリキの木こり」「勇気のないライオン」が、それぞれ自分に欠けているものを手に入れるまでのいきさつについても、まったく教訓的ではありません。
彼らは、旅をすることで知恵と優しさと勇気を手に入れるわけではありません。また、はじめからそれらを持っていたことに気づくわけでもありません。
「だまされて、知恵と優しさと勇気を与えられたと思いこまされる」ことによって、彼らは心の底から満足するのです。
知恵も優しさも勇気も、そして幸せも、手に入れるものではないのです。
持っていることに気づくものでもない。
そんなものは、あるといえばあるし、ないといえばない。
それらを持っている人と持っていない人の違いは、「持っていると思いこんでいる」かどうかだけ。
そこに努力は要らないのです。
……とまあ、教訓的でないお話から教訓を導きだしてしまうのは野暮というもの。
そのへんのくだらない意味など忘れて、100パーセント純粋なエンタテイメントとして楽しめる『オズの魔法使い』。
とりあえず我が子には必ず読ませようと思います。
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