ことばと思考
今井 むつみ
言語学の世界には、ウォーフ仮説というものがある。言語的相対論ともいうそうだ。
かんたんにいうと「人間の思考は言語によって決定される。言語から離れた思考は不可能だ」という考えらしい。
思考にとって言語が重要なことは間違いない。「民主主義とは人民が主権を持ち人民が政治を行う考えである」みたいな抽象的な概念を言語なしに考察することは不可能だろう。
ただ、「言語から離れた思考は不可能だ」とまでいうのは難しい。民主主義について考えることはできなくても、「はらへったからあそこにあるあれをくおう」ぐらいのことなら言語とは無関係に考えられるはずだ。なぜなら言語をもたない動物も、人間の赤ちゃんも、考えているのだから。
ということで、どこまでが「言語によって決定されていること」なのかを探るのが本書だ。
ついつい「日本語の〇〇って英語でなんていうんだろう」と考えてしまう。まるで日本語のある単語と英語のある単語が一対一で対応しているかのように。
たしかにそういう言語もある。日本語の「いぬ」と英語の「dog」は同じものを差すだろう。だが日本語の「歩く」と英語の「walk」は同じ意味ではない。英語ではゆっくり歩くことは「stroll」で、ぶらぶら歩くことは「amble」で、目的なくゆっくり歩くのは「saunter」、とぼとぼ歩くのは「traipse」、重たい足どりで歩くのは「trudge」、千鳥足で歩くのは「totter」、よちよち歩きは「waddle」……など、歩くだけでも20種類以上の動詞がある。日本語では副詞や擬態語を使って表現するが、動詞は「歩く」1種類だ。つまり日本語の「歩く」と英語の「walk」はぜんぜんちがう意味の動詞なのだ。「歩く」のほうがずっと広い。
以前、『翻訳できない世界のことば』という本を読んだ。「肌についた、締めつけるもののあと」「夫が妻に許しを請うために贈るプレゼント」といった、日本語では一語で訳せない単語を集めた本だ。
だが、ほとんどの外国語が「翻訳できないことば」なのだ。「walk」といった中一英語ですら翻訳できないのだから。
色を表す言葉もそうだ。青はブルーだと小学生でも知っているが「青」と「blue」は完全に同じ範囲を指す言葉ではない。
そもそも、色を指す言葉の数自体が言語によって大きく違う。色の名前で「赤」や「青」のようにそれ以上分けられないものを〝基礎名〟と呼ぶ。「黄緑」のように基礎名を組み合わせたものや「栗色」「きつね色」のように物質の名前を使ったものは基礎名でない(オレンジ(橙)色はオレンジ(橙)由来だが色の名前として使うことのほうが多いこともあって基礎名とみなすらしい)。灰色や桃色も同様だ。
日本語や英語に色を指す基礎名は11ある。白、黒、赤、黄、緑、青、紫、灰、茶、オレンジ、ピンク(厳密には日本語と英語ではそれぞれの差す範囲は微妙に異なるのだが)。
だがこれは多いほうで、ほとんどの言語はもっと少ないらしい。
こう書くと、「日本語は色の基礎名が11もあってすごい!」と身びいきしてしまいそうになるが、必ずしもそうとは言い切れないのがおもしろいことだ。
意外なことに、色が少ない言語のほうが正確に色を認識できることもあるようだ。「青と緑の中間だけど少し青っぽい色」を見せられると、日本語話者は「青」と認識してしまう。だが、青と緑の区別のない言語の話者は、その色を(典型的な)青とは違う色と認識できる。なまじっか「それらしい色を指す言葉」を知っているせいで、認識がその言葉に引きずられてしまうのだ。
色だけでなく、たとえば〇が棒でつながったイラストを見せられ、時間を置いた後にそれと同じ絵を描いてくれと言われる。そのとき、「メガネ」という文字といっしょにイラストを見せられた人はよりメガネっぽい絵を描き、「ダンベル」という文字を見せられた人はよりダンベルっぽい絵を描く。「見た絵をそのまま描く」という課題に挑戦するときに、言葉の情報がじゃまをするのだ。
「色を指す言葉が少ない」ぐらいは想像できるけど、驚くことに世の中には「前」「後」「左」「右」といった言葉を持たない言語もあるそうだ。
東西南北を使って絶対的な位置関係で指し示すそうだ。これは幼児にはむずかしそうだけど、慣れるとこっちのほうが便利かもしれない(前後左右を指す言葉もあったほうがいいけど)。
じっさい、この言語の話者は遠くに連れていかれてもまっすぐ戻ってこられるそうだ。常に東西南北を意識しているから迷うことが少ないのだろう。
だが「左右反転した図形は同じものと見なしてしまう」という弱点もあるらしい。それぞれ一長一短あるようだ。
副詞や擬態語が脳に与える影響について。
擬態語といっしょに見たときのほうが、より見た対象に共感できると。
ふうむ。
日本語はオノマトペ(擬音語・擬態語)が他の言語に比べて豊富だという。そして日本人は、良くも悪くも他人の顔色をうかがうことに長けているともいう。
もしかすると、オノマトペがいわゆる〝日本人気質〟を築く一端になっているのかもしれない。なんの根拠もない、ぼくの勝手な憶測だけど。
思考のうちどこまでが「言語によって決定されていること」なのか? という冒頭の話に戻る。
ここまで紹介された例を見れば、かなりの思考が言語によって左右されていることがわかる。が、本書では「言語によらない思考」も紹介されている。言葉を扱うようになる前の乳児を対象にした実験により、言語とは関係のない思考パターンがあることもわかっている。
ということで「思考の多くは言語によって左右されるが、全部が全部そうというわけではない」ということらしい。真実はいつだって平凡なものだ。
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