父親に対して、あのとき言わなくてよかった言葉がある。
大学を卒業して、親の反対を押し切って小さい会社に就職し、しかしとんでもなくブラックな会社だったために(日をまたぐ残業があたりまえ、給与も求人票の内容とまったく違う)一ヶ月で辞めた。
事前の相談もなく「もう辞めたから」と告げると温厚な父親もさすがに怒り、電話で「何考えてるんだ!」と怒鳴られた。
怒られることは想定していたものの「今からでも頭を下げて元の会社に戻れないか」なんてことを言ってくるものだからこちらも「おまえに何がわかるんだ」と頭にきて口論になり、
「会社に長く勤めることに価値があるとおもってんのか? もうそんな時代じゃないんだよ。自分だって長年勤めてきた会社から捨てられて子会社に出向になったくせに!」
という言葉が口をついて出そうになった。が、すんでのところで思いとどまった。
父は会社大好き人間だった。朝早くに起きて仕事に向かい、夜遅くに帰ってくる。ぼくが子どもの頃は、平日に父と顔をあわせるのは朝だけだった。土日も接待ゴルフに出かけることが多かった。
家は自社の製品であふれ、阪神大震災があったときは対応業務で何週間も家に帰ってこない日が続いた。
会社に命じられるまま関西から転勤もした。エジプト、東京、横浜。すべて単身赴任だった。
父はそこそこの役職を得ていたようだが、五十歳を過ぎて、子会社へ出向することになった。ぼくは大会社に勤めたことがないが「五十歳を過ぎて子会社へ出向」が栄転でないことはわかる。
当時大学生だったぼくは「あんなに仕事に人生を捧げてたくせに、子会社に飛ばされてやんの」とうっすら小ばかにしていた。親の金で大学に通っておきながら。なんて生意気なガキだ。
あれから十数年。
ぼくもそれなりに働いて給料を稼いでいる。何度か転職をしたが、今の業種で十年以上やっているし、結婚して子どもも生まれて、一応父親を安心させることができたとおもう。
仕事を続けるたいへんさもわかった。
そしてつくづくおもう。
あのとき「自分だって長年勤めてきた会社から捨てられて子会社に出向になったくせに!」と言わなくてよかった、と。
ぎりぎりのところで胸にしまっておいてよかった、と。
あの言葉を口にしていたら、父子の間に一生消えないヒビができていただろう。
父が家族との時間も削って仕事に打ちこんでいた理由のひとつは、月並みな言い方になるが「家族のため」だろう。妻子の生活を守るため懸命に働いたし、転勤を命じられたときは子どもたちに負担をかけぬよう単身赴任を選んだのだろう。
ぼくは「父は仕事大好き人間だ」とおもっていたけれど、仕事を辞めたくなる日もあったはずだ。
それでも辞めなかった理由のひとつは、子どもがいたからだろう。
仕事に打ちこむことで家庭を守ろうとした人が、その家族から「会社から捨てられたくせに」なんて言われたらどうなっていただろう。
あやうくぼくは、彼のぜったいに傷つけてはいけない場所を傷つけてしまうところだった。つくづく、言わなくてよかった。
ただ、あのときぼくが口にしかけた「会社に長く勤めることに価値がある時代じゃない」については、今でも正しかったとおもう。
でも、やっぱり言わなくてよかった。正しかったからこそ、余計に。
失礼します。最初の会社は希望した業界だったのでしょうか?
返信削除第三希望ぐらいの業界でした。
削除その業界が良かったというより、そこの社長に惹かれたという感じでした。もっとも入社してみたら面接で言われたことは嘘ばっかりだったことが判明しましたが。