2021年4月19日月曜日

【読書感想文】少年Hにならないために / 堤 未果 中島 岳志 大澤 真幸 高橋 源一郎『NHK100分de名著 メディアと私たち』

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NHK100分de名著
メディアと私たち

堤 未果  中島 岳志  大澤 真幸  高橋 源一郎

内容(e-honより)
現代社会に蔓延する「空気」の実相に迫る!
リップマン『世論』、サイード『イスラム報道』、山本七平『「空気」の研究』、オーウェル『一九八四年』の4作品をとりあげ、「偏見」や「思い込み」「ステレオタイプ」の存在に光を当てるとともに、いま私たちがとるべきメディアへの態度について考える。

「これは読まねば!」と即購入した執筆陣&テーマだった。

 堤未果氏と中島岳志氏についてはファンで、著作はかなりの部分に目を通している。大澤真幸氏はぼくの通ってた学部の先生だった(といっても彼の授業を受けたことは一度しかないが)。『「空気」の研究』『一九八四年』は心にもやもやを与えてくれるいい本だった。



 サイード『イスラム報道』については、読んだことはおろか存在すら知らなかったけど、中島岳志氏の紹介で興味を持った。

「アメリカ人はイスラムと自分たちの間に線引きをして、まったく別の人たちとみなしている」というのがサイード氏の指摘らしいが、これはアメリカだけの話ではない。日本人の多くも同じだ。かくいうぼくも無意識のうちにイスラム教徒を「理解不能なもの」とみなしている。

 理解できないことがあっても「なぜそのような行動に至ったのか」と考えることを放棄して「イスラムだからね」で片付けてしまう風潮がある。
 日本人が人を殺したら「いったい何が彼を追い詰めたのか」と考えるのに、イスラム過激派のテロ行為は「やっぱりイスラムは理解できない」で済ませてしまう。イスラム教徒の中でも思考は千差万別なのに、全部ひとまとめにして「イスラム」というシールをべたっと貼って遠くへ押しやってしまう。


 ぼくの高校時代の女ともだちがエジプト人と結婚した。彼女はイスラム教に改宗した。
 彼女が日本に帰ってきたときに会ったのだが、ヒジャーブ(イスラム教の女性が顔を隠すために巻くスカーフ)を巻いた彼女を前に、ぼくは妙に気をつかってしまった。
「豚肉とかだめなんだよな」
「こんな話題はやめたほうがいいかな」
とあれこれ気を回してしまった。

 よく考えたらべつにぼくが気にする必要はないのだ。NGなら本人がノーというだろうから。
 これが「キリスト教に改宗した」なら、ここまで意識しなかったとおもう。
 やはり「イスラム教徒だ」というだけで無意識に線引きをしてしまうのだ。 


 この本にははっきりとした言及はありませんが、サイードは「アメリカは敵を欲している」という印象を持っていたと、私は考えています。アメリカは長く、ソ連に対抗するために政治・軍事の体制を構築してきました。しかしベトナム戦争が終わり、七〇年代の後半になると、共産勢力は圧倒的に弱体化していきます。さらに、中国との国交が正常化し、「デタント」(緊張緩和)と呼ばれる時代が来た。ソ連や共産勢力という敵を失ったアメリカの情報機関は、存在意義が揺らぎかねない状況に追い込まれるわけです。そこでイラン革命が起きた。ソ連や東欧諸国に替わる「別の新しい敵」は、情報機関にとって、自分たちの地位を守るためにはうってつけの存在でした。

 これまたアメリカだけじゃないよね。
 日本もまた、常に敵を欲している。戦争中はアメリカ、終戦後はソ連をはじめとする東側国家、冷戦終結後は北朝鮮であり韓国であり中国。常に「仮想敵国」を持っている。たぶん日本だけじゃなくてどの国も。

 興味深いのは、〝仮想敵国〟は同時にたくさん持てないこと。
 ぼくの記憶では、北朝鮮の拉致問題が話題だったときや911テロの後は韓国や中国とは友好ムードだった。北朝鮮やイラクやアフガニスタンを敵視している間は、他の隣国をライバル視しなくなるんだよね。
 同時にあちこちを憎めるほど人間、器用じゃないんだね。



 山本七平『「空気」の研究』、原著を読んだときには理解できない部分も多かった。たとえに出てくる話が古いのもあって。

 しかし大澤真幸氏の解説、とりわけ山本七平氏が洗礼を受けたクリスチャンだという指摘を受けて読むと、わからなかったところがすっと理解できた。

 もう一つの事例は「ヨブ記」です。これは『旧約聖書』の中で最も重要なテキストだと思いますが、宗教的にはあまりありがたくない話なのです。これは、東西の智慧の精髄を集めた「箴言」に書かれた徳目をすべて守った「完全に正しい」裕福な人間が、次々にひどい目に遭うという話です。普通、信仰に篤く徳目を守れば、報われて幸せになれるのが当然だと考えるでしょう。しかし、この人は「財産を失い、家族を失い、癩病のような皮膚病にかかり、そのため町を追われ、ごみ捨て場に座って、陶片で体中のかさぶたを搔くような状態」になってしまうのです。
 山本さんの解釈では、これもある種の正義の絶対化に対する警告です。つまり、よいことをした人は必ず恵まれ、信仰を捨てれば必ず不幸になる、というようなことではない、と。「正義は必ず勝つ」と信じていて、またそれが当然よいことだと思っている日本人からするとびっくりするような内容ですが、考えてみると、山本さんの言っていることに説得力がある。よいことをする人が必ず恵まれるのならば、恵まれていない人はみんな悪い人なのか、となる。山本さんも、正義が必ず勝つのなら「敗れた者はみな不義なのか」と書いています。つまり、「ヨブ記」は地上における成功などというものはすぐに相対化できるものなのだ、ということを示すためにあえて聖書の中にあるというのです。

「あ、そういうことか!」
 これを読んで、遠藤周作『沈黙』をおもいだした。

 十数年前『沈黙』を読んだ。
『沈黙』のあらすじはこうだ。日本にやってきたポルトガル人の司祭がは苦境に立たされる。彼はとらえられ、踏み絵を迫られる。踏まなければ自分が拷問されるだけでなく、他の信者までが殺されることになる。司祭はずっと信じている、いつか神が奇跡を起こして救ってくれると。だがとうとう最後まで奇跡は起きず彼はキリスト像を踏んでしまう……。

 ぼくには理解できなかった。やはりクリスチャンだった遠藤周作が何を伝えたかったのか。ポルトガル人司祭は常に他人のため、神のために行動しているのにとことん救われない。ずっとずっと苦しんで、最後に救われるのかとおもいきやとうとう最後まで救われない。
 ぼくには、この物語から「奇跡など起きない」「信じても救われない」という結論しか引きだせなかったからだ。

 だけど、この解釈を読んでやっと理解できた。
「神を信じて正しい行動をすれば救われる」は、まだまだ人間の尺度でものを考えている証拠だ。「正しい行動」も「救われる」も相対的なものだ。人間には「これこそが正しい行いだ」という絶対的な尺度を持つことができない。
 そうか『沈黙』が伝えるのは、人間はどこまでいっても不完全であること、神は絶対的な存在なのだから人間の考える正しさなど超越しているということか……。

 十数年間ずっともやもやしていたものがやっと腑に落ちた。
 遠藤周作は「神を信じても無駄だ」と言いたかったわけではなく「神を信じていれば救われるという短絡的な考えは誤りだ」と言いたかったわけね。たぶん。




 少し前、武田総務相が国会答弁に立った総務省の鈴木信也氏に向かって「『記憶にない』と言え」と命じ、鈴木信也氏は「記憶にありません」と答弁した(おそろしいことにこの公然の不正行為に関して誰も何の処分も受けていない)。

 あの光景を見て、ぼくは「『一九八四年』の二重思考だ!」とおもった。
 二重思考(ダブルシンク)とは、「自分の記憶と党の主張に矛盾があった場合は、記憶を改変して党の主張を信じなくてはならない」という思考方法だ。ジョージ・オーウェル『一九八四年』の世界では、国民はこの考えを叩きこまれている。つまり「党がまちがえた」とおもってはいけないわけだ。党の過去の主張と今の主張が食い違うなら、修正すべきは党ではなく自分の記憶なのだ。
 鈴木信也氏は自民党の利益を優先するために、自分の記憶を消したのだ。すごい能力の持ち主だ。

 だが二重思考をするのは『一九八四年』のオセアニア国民や、鈴木信也氏だけではない。

 第二次世界大戦で、日本は負けて降伏しました。その後、教育の中身が変わったことがあります。それまで学校では、鬼畜米英とか天皇陛下万歳と教えていたのに、夏休みが終わって、新学期が始まったら、アメリカはいい国だ。日本は民主主義の国だ。そう、先生が言い始めた。(中略)「鬼畜米英」って言ってた先生が、まったく同じような調子で「民主主義が大事です」と言うようになった。いったい、先生の中ではどんなロジックがあって、そんなことができたのか。そうです。「二重思考」なんですね。誰が言い出したわけでも、命令されたわけでもなく、生き延びてゆくために、「二重思考」を採用するしかなかったんです。ずっと「鬼畜米英」とか「天皇陛下万歳」と言っていた。でも、それがダメだということなったので、自分が、そんなことを言っていたのは忘れて、まるで昔から「民主主義が大切です」と言っていたように思い込む。そんなことが可能なのか。可能なんですね。
 実は、昔から、心の中では、戦争に反対していた。戦争が嫌いだった。けれど、周りが賛成しているから、口に出せなかった。別に、いきなり、「民主主義がいい」と思ったわけではなく、「心の底」ではうすうすそう思っていた。誰だって、心の中では、さまざまな思いが交錯しています。もともと、自分は戦争に反対していた。なんとなくそんな気がしてくる。先生だけではなく、実に多くの日本人が、戦争が終わると、それまでの戦争協力の気持ちを失ってしまいました。終戦の日を境にして、日本人の中身がすっかり変わってしまったように見えるほどに、です。ずっと戦争に賛成していた人が戦争が終わった途端、俺は本当は、戦争に反対していたんだと言い出した。やっぱり戦争のない世の中がいいと、みんなが言い出した。そこには、「二重思考」と同じメカニズムが働いていると思います。ここに欠けているのは、苦悩です。変化しなければならないことへの苦しみなのです。恐ろしいことですが、わたしたちは、誰でも、そういうことができてしまうのですね。

 なるほど、言われてみれば〝二重思考〟はそこかしこで見られる。

 小泉改革はだめだとおもってた、民主党に政権なんか任せたらだめだってわかってたことなのに、おれは前から原発が危険だとおもってた、あの不祥事をやらかしたタレントは前々から嫌いだった。
 ぼくらはかんたんにこう口にするし、心の底からそう信じてしまう。前からあいつはダメだとおもってたよ、と。

 どの本に書いてあったか忘れたけど、「前の選挙で誰に投票しましたか?」と無記名のアンケートをとったところ「当選した人に投票した」と答えた人の割合は、当選した候補者の得票率よりもずっと多かったそうだ。つまり「自分の選択は多数派と同じだった」と記憶を改竄してしまうのだ。

 ぼくが中学生のとき、妹尾河童『少年H』という本がベストセラーになった。戦中の少年時代をふりかえる自伝的小説だ。ぼくも『少年H』を読んだ。そして気持ち悪さを感じた。『少年H』には、
「日本中みんな戦争賛美ムードだったけど、ぼくとぼくの家族だけは戦争に反対してた」
という言い訳(にしかおもえなかった)が延々と並んでいたからだ。

 いや、知らんよ。ほんとに妹尾河童一家だけは戦争反対だったのかもしれないよ。
 でも戦後になって「我々は反対してましたから! 他のみんなとはちがって!」というのはずるくない? とおもったわけ。
 内心どうだったかは誰にも(当人にも)わからないわけで、はっきりしているのは「声を上げて反対しなかった」という事実だけ。
「命を投げだしてでも反対の声を上げるべきだった!」という気はないよ。でも声を上げて反対しなかった人が後から「おれは最初から反対だったんだけどね」とぐじぐじ言うのはいちばん卑怯なおこないだとぼくはおもう。なぜなら反省がないから。
「おれは内心反対だった」といえば責任を感じなくて済むからね。そういうやつは何回でも同じ失敗をくりかえす。

〝二重思考〟は誰もがやってしまう。もちろんぼくも。それを自覚しなくちゃいかん。
「おれは前からうまくいかないとおもってたんだよ」と感じたときは、己の記憶を改竄している可能性をまず疑ったほうがいい。少年Hのような反省のない人間にならないために。


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