月並みな話だけど、自分が親になって「親孝行しなきゃな」とおもうようになった。
今できるいちばんの親孝行は孫の顔を見せること。
なるべく、娘たちを連れて実家に帰ったりジジババと孫の食事会を開いたりしている(コロナでやりづらくなったけど)。
ところで、「親孝行をしなきゃ」という心理はなぜ生じるのだろう。
ぼくらが生きる目的は遺伝子を残すことだが、遺伝子を残すためであれば親に親切にしてもあまり意味がない。
そのリソースを子育てに向けたほうがいい。自分の子や甥姪を大事にした方がいい(実兄・実姉の子の遺伝子は1/4が自分と同じだ)。
しかし歳をとると親孝行をしたくなる。
この心理はなんなんだろ。
もちろん「親になってわかる、親の苦労」というのはある。
でも、わかったところでもうどうしようもない。今さらぼくが孝行息子になったところで、さんざん苦労をかけた事実は変えられない。
もっと早くに夜泣きをやめて、食べ物をわざとこぼすのをやめて、電車で大きな声で叫ぶのをやめて、家を出る前にどの服もいやだと言って泣きわめくのをやめて、自分の散らかした分だけでも自分で片付けて、学校に親が呼び出されるようなことをやめればよかったんだろうけど、もう遅い。全部やっちゃった。
三十代のぼくはもう夜泣きをしないし、電車で大声で叫ばないし、食べ物はときどきこぼすけど自分で拾うし、部屋は汚いけどその汚さを甘受しているから親に掃除してもらうことはないし、職場で同僚とつかみあいの喧嘩をして親が呼び出されたことも今のところはない。
だけどこれは親孝行じゃない。あたりまえのことだ。
親の苦労を理解したところで、母の日や父の日に贈り物をしたところで、親の苦労はなかったことにならない。
「親孝行をしなきゃな」の背景にあるのは、罪悪感なのだろうか。
さんざん迷惑をかけたうしろめたさがあるから、罪滅ぼしのために親孝行をしたくなるのだろうか。
ちょっとは当たってるかもしれないけど、ちがう気もする。だったらもっと早く親孝行したくなりそうなものだ。子どもが生まれたこととは関係なく。
うーん。
子どもが生まれてから特に親孝行の意識が芽生えたということは、これは
「自分が将来親孝行されたいから、親孝行する」
じゃないだろうか。
将来、子どもに見捨てられたくない。
金銭的支援をしてほしいとか介護してほしいとまではおもわないけど、子や孫と良好な関係を築いていたい。何かあったときは助けあえる関係でいたい。死ぬときはできたら看取ってもらいたい。死んだ後もときどき思い出してもらいたい。
だから、ぼくが親孝行をするのは、子どもに対して「親孝行のお手本」を見せているからだとおもう。
我が子が将来親になったとき、おじいちゃん(つまりぼく)にはこう接するんだよ、という規範を示すために今、親孝行をしているのだ。
そう、今ぼくは三十年後に〝親孝行〟を受け取るために、こつこつと〝親孝行貯金〟の積み立てをしているのだ。
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