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2019年5月20日月曜日

【読書感想文】平均が良くなれば世の中は良くなるのか / 『FACTFULNESS』

FACTFULNESS (ファクトフルネス)

ハンス・ロスリング オーラ・ロスリング アンナ・ロスリング・ロンランド
上杉 周作(訳) 関 美和(訳)

内容(e-honより)
ここ数十年間、わたしは何千もの人々に、貧困、人口、教育、エネルギーなど世界にまつわる数多くの質問をしてきた医学生、大学教授、科学者、企業の役員、ジャーナリスト、政治家―ほとんどみんなが間違えた。みんなが同じ勘違いをしている。本書は、事実に基づく世界の見方を教え、とんでもない勘違いを観察し、学んだことをまとめた一冊だ。

貧困は解消されていない、あいかわらず世界中で多くの子どもたちが栄養失調で苦しみ、若くして命を落としている……。

そんなのはすべて間違いだ、世の中はまちがいなく良くなっているのだ、と多くの証拠を挙げて主張するのが『FACTFULNESS』だ。


話題になっているのは知っていた。
おもしろそうな本だとおもっていた。
でもぼくの「流行りものには手を出したくない」という悪い癖が顔を出し、「そのうち読もう」と放置していた。

ところが、訳者の一人である上杉周作氏が書いたnote( 『ファクトフルネス』批判と知的誠実さ: 7万字の脚注が、たくさん読まれることはないけれど )を読み、
「こんなに知的誠実さを持った人の訳した本がおもしろくないわけがない! すぐ買ってお金を落とさねば!」
という謎の使命感に駆られ、購入した。


やはり話題になっているだけあって、おもしろかった。
中盤以降は同じようなことのくりかえしでやや退屈だったが前半はめっぽうおもしろかった。

誤った"常識"を正してくれる良書であることはまちがいない。
翻訳もいいし、ぜひ多くの人に読んでもらいたい。



まずは、上記上杉氏が作成した チンパンジークイズ をやってみてほしい。

全部三択問題で十二問。すべて勘で答えても四問は正解する計算になる。
しかし、ほとんどの人の正答数は四問を下回る。誤った知識が邪魔をするのだ。生兵法は大怪我の基。

ぼくも大半まちがえた。
じっさいは、ぼくがおもっているよりずっと世界は良くなっているのだ。
 メディアや活動家は、あなたに気づいてもらうために、ドラマチックな話を伝えようとする。そして悪いニュースのほうが、良いニュースや普通のニュースよりもドラマチックになりがちだ。また、なんらかの数字が長期的には伸びていても、短期的に落ち込むことがあった場合、それを利用して「危機が迫っている」という筋書きを立てるのはたやすい。
 世界はオープンになり、人々はネットでつながり、報道の質も上がった。悪いニュースは、以前よりずっと広まりやすくなった。
 悲惨なニュースを見たときは、自分にこう尋ねてみよう。「このニュースと同じくらい強烈な『明るい』話があったとしたら、それはニュースになっていただろうか?さまざまな大きな進歩のニュースは、はたして自分の耳に入ってくるだろうか?溺れなかった子供がニュースになるだろうか?溺れる子供の数や、結核で亡くなる人の数が減っていることに、窓の外を見て気づけるだろうか?ニュースを読んだり、慈善団体のパンフレットを見たりして気づけるだろうか?」
 良い変化のほうが悪い変化より多かったとしても、良い変化はあなたの耳には入ってこない。あなたが探すしかない。統計を見れば、良い変化がそこらじゅうにあることに気づけるだろう。「悪いニュースのほうが広まりやすい」と心得ておけば、毎日ニュースを見るたびに絶望しないですむ。大人も子供も、ぜひこの考え方を身につけてほしい。
悪いことが起こったときはニュースになる。
人が殺された、新しい病気が流行っている、戦争がはじまった、痛ましい事故が起こった、天災が起こった。

けれどいいことはあまりニュースにならない。
赤ちゃんがたくさん産まれて健康に成長している、医療機関が多くの命を救った、戦争を未然に防いだ、事故数が昨年より減少した、今年は地震が起こらなかった。
そんなことはニュースにならない。
赤ちゃんが産まれてすくすく育っていることがニュースになるのはパンダだけだ

だから世の中はどんどん悪くなっていっているような気がする。
少年犯罪も高齢ドライバーによる交通事故も餓死も戦死も難民も減っている。

そこをついつい忘れて「昨今の日本は……」とか「最近の若いやつは……」と言いたくなってしまう。気を付けなければ。



今の日本には、「食っていけない」「病気になっても医者に診てもらえない」「我が子に教育を受けさせられない」というレベルの貧困にあえぐ人はほぼいない。

『FACTFULNESS』では経済状態に応じて、レベル1(最貧層)~レベル4に分けている。
日本人の大半は最も豊かな層であるレベル4に位置している。「金がない」「貧困世帯だ」とおもっている人たちも、世界水準で見ればほとんどはレベル4だ。
1日に32ドル以上の収入があり、家の蛇口をひねれば水道が出てきて、ガスで調理ができ、自動車で移動をする。
ぼくらはレベル4の生活をしているし、ぼくらの親世代もたぶんレベル4の暮らしを送っていた。
だからレベル1やレベル2の人々の暮らしをまるで理解していない。
 結論から言うと、レベル1や2にいる国では、「病院のベッドで、医者が子供の命を救う」ことは比較的少ない。たしかに、「ベッドの数」や「医者の数」といった指標はわかりやすいし、政治家はハコモノを建てるのが大好きだ。しかし、子供の生存率が伸びる理由の多くは、病院の外にある。地域の看護師や助産師、そして教育を受けた親たちが講じた、病気の予防策が効果を上げている。特に、母親の影響は大きい。世界中で、子供の生存率が伸びている原因を調べてみると、「母親が読み書きできる」という要因が、上昇率の約半分に貢献している。
 多くの子供が命を落とさなくなったのは、子供がそもそも重い病気にかからなくなったからだ。訓練を受けた助産師が、母親を妊娠中から出産時までサポートする。訓練を受けた看護師が、子供に予防接種を行う。親たちは子供を寒さから守り、清潔に保つ。子供が食べ物に困ることもない。周りにいる人もきちんと手を洗う。そして母親は、薬のビンに書かれている注意書きを読むことができる。
病気でなくなる子どもが多いと知ると、ぼくらは「病院を建てて医師や看護師の数を増やせばいい」とおもう。
でもそれはレベル3やレベル4の人の発想だ。ほんとに貧しい人たちはそもそも病院に行けないのだ。

この本の中では、子どもの死を減らすためには医療の充実より、たとえば交通を整備することのほうが重要だと書いている。
道路をきれいにして町へ向かうバスが走れるようにする、そうすれば病院に行けるようになる。

なるほど、たしかにこういう発想はなかったな。
想像力は大事だが、想像力には限界がある。自分から遠すぎる世界の暮らしは想像の範疇を超えている。



貧困は減っている、ということが『FACTFULNESS』にはくりかえし書かれている。

うん、たしかにそうなんだろう。事実なんだろう。

でも、なんかしっくりこない。
平均として世界が良くなっているといわれても、それがどうしたという気がする。

ぼくらが実感する不幸って相対的なもんなんだよね。
もちろん生きていけないほどの貧困は重要問題で、最優先で解決しなきゃいけないことなんだけど。
でもそれを解決したからいいってもんじゃないんだよね。

江戸時代の殿さまは今のぼくらよりまずいものを食べて汚い身なりをしてろくな医療を受けられなかった。冷暖房もなかったし娯楽も乏しかった。
今の基準でいえば貧困に相当するだろう。レベル1~レベル4で言えばレベル2ぐらいの暮らしだ。
でも殿さまが経済的に不幸だったかというと、まったくそんなことはない。

同じように、現代の裕福な生活だって百年後の人たちから見たら貧しい暮らしに見えるだろう。
自動移動装置もナノ医療も標準食品もオート秘書も安全住宅もなしに生活してたの、かわいそう、と言われるかもしれない。
百年後にも『FACTFULNESS』みたいな本が出版されて、世界は悪いことだらけのように見えるけど、でも2019年頃に比べると世の中にはこんなにも良くなっているんです! と書かれているかもしれない。
だからってぼくらが不幸だということにはならないし、2119年の人たちが幸福だということにもならない。

シリコンバレーのエンジニアの平均年収は、日本円にして1000万円を超えているという。
そこに暮らす年収800万円の人は、経済的な満足感は得にくいだろう。あなたは世界水準で見ればたいへんなお金持ちなんですよ、といわれても納得できないだろう。
ぼくらが感じる幸福や満足は「隣人と比べた」相対的なものだからだ。

その考えはぼくらの脳の仕組みに由来するものであって正確な考えではないのですよといわれたって、現に幸福につながらない以上なんの気休めにもならない。

『FACTFULNESS』には、「相対的な満足度」の話がほとんど出てこない。
著者が見落としていたわけではなく、本題がぶれるから意図的に書かなかったんだろうけど、ぼくはひっかかりを感じてしまう。

極端なことをいうと、「みんなが年収200万円の世界」と「9割が年収100万円で1割が年収1億円の世界」を比べたとき、後者のほうが平均収入が増えてるでしょ、だから後の世の中が良いんですよ、と言われているようなひっかかり。

そこまで極端なことを言わなくても、「みんなが年収200万円の世界」が「半分が年収250万円で半分が年収1000万円の世界」になったとしたらどうだろう。
みんな年収増えましたよ、以前に比べて不幸になった人はいませんよね、といえるだろうか。


「格差」という切り口があれば、より満足度の高い本になったかなあ。


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2019年5月10日金曜日

【読書感想文】主婦版サラリーマン小説 / 加納 朋子『七人の敵がいる』

七人の敵がいる

加納 朋子

内容(e-honより)
編集者としてバリバリ仕事をこなす山田陽子。一人息子の陽介が小学校に入学し、少しは手が離れて楽になるかと思ったら―とんでもない!PTA、学童保育所父母会、自治会役員…次々と降りかかる「お勤め」に振り回される毎日が始まった。小学生の親になるって、こんなに大変だったの!?笑って泣けて、元気が湧いてくる。ワーキングマザーの奮闘を描く、痛快子育てエンターテインメント。

PTA役員、学童保育の父母会役員、自治会役員……。
こういうの自分とは無縁とおもっていたけど、そうも言っていられなくなった。

一昨年、長女の保育園の役員をした。
去年と今年は住んでいるマンションの住民会の役員をしている。
来年、娘は小学生。学童保育にも入れるつもりなので、そこでも諸々の役員業務がついてまわるだろう(個人的にはPTAは入会拒否したいのだが妻は「子どもの立場があるから……」と及び腰だ)。次女も保育園に行くから、そこでも役員はまわってくる。
うちは共働きだが、保育園や学童保育に通わせている家庭なんてみんな共働きなのでそんなことは言い訳にならない。なにしろシングルマザーとか三つ子とかもっとたいへんな家庭も役員をやっているのだ。


しかしなあ。
役員会というのに出席したことあるけど、ほんとに効率悪いんだよなあ。
マニュアルがなくて口頭の伝達、前年の反省がまったく活かされない、役員自身が何をやるのかわかっていない……。
「波風を立てたくない」「なんとか今年さえ乗り切ればあとはどうでもいい」という事なかれ主義が蔓延していて、誰も改善とか効率化とかをしようとしない。そして令和時代になっても旧弊が代々受け継がれてゆく……。
まあぼくも旧弊を翌年にバトンタッチしている人間のひとりなのでえらそうなことは言えないけど……。

だって効率化したって自分には何の得もないもん。マニュアル作ったり改革を手がけたりしたって、翌年以降が楽になるかもしれないけど自分は苦労するだけだもん。

ねえ。ほんとなんとかならんのか。
お金で解決できるんじゃないの。
保育園の役員なんて、いっそ仕事にしたらいいのに。近所の年寄りにパートタイムで働いてもらって。
土曜日や平日の昼間をつぶされるぐらいだったらいくらか払うし。


ぼくは「そんなに親しくない人に嫌われてもかまわない」という人間なので、PTA脱退とか「役員やりたくありません」と断るとかもぜんぜん辞さない覚悟だけど、「そのせいで娘が居心地悪くなるかも……」とおもうとやっぱり気が引ける。
できるだけ穏便に、少々の面倒なら引き受けてでも波風を立てず……とおもってしまう。

『七人の敵がいる』には「子どもを人質にとられている」という表現が出てくるけど、これは言い得て妙。
子どもの立場を考えると言いたいことも言えず……って人が多いから悪習がいつまでも続いてしまうんだろうな。

(自分以外の誰かが)なんとかしてくれ、とおもっているだけじゃいつまでたっても変わらない。
自分の子が小学校に入ったときは(あまり敵をつくりすぎない範囲で)戦うぞ、とこの小説を読んで弱く決心した。



幼い子を持つぼくにとってこの題材はすごくおもしろかったけど、小説としてはちょっとものたりない。

勧善懲悪的なスカッとするストーリー、主人公を筆頭にわかりやすく直情的な登場人物、はじめは嫌なやつと思っていた人も腹を割って話してみればみんないい人……と朝ドラを観ているよう。
月曜日に問題が発生しても土曜日には解決してる、みたいな(朝ドラってそんなイメージ。あんまり観たことないけど)。
人物に深みがないし、そんなうまくいくかよと言いたくなることばかり。

これはあれだな。
主婦版のサラリーマン小説だな。『PTA役員・島耕作』だ。

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2019年5月8日水曜日

【読書感想文】原発の善悪を議論しても意味がない / 『原発 決めるのは誰か』

原発 決めるのは誰か

吉岡 斉  寿楽 浩太  宮台 真司  杉田 敦

内容(e-honより)
「脱原発」を求める多数の声があるのに、政策の決定過程には反映されず、福島原発事故以前の原子力政策への回帰が進められている。政策を実際に決めているのは誰であり、本来は誰であるべきなのか。専門知識が求められる問題に、私たちはどう関わっていけるのか。科学技術政策を専門とする2氏の報告と、社会学者・政治学者を加えた4氏の討論を収載。

原発稼働に関する議論を見ていると、うんざりする。
稼働賛成派は「政府、電力会社が安全だと言っているから」「原発を止めて電気が止まっていいのか」と主張し、反対派は「リスクがあるから」「原発はとにかく危険」と主張する。

傍から見ていると「どっちも感情的になっているだけで永遠にわかりあえる日はこないだろうな」としかおもえない。

「健康・環境面からの意見」VS「(短期的)経済的な意見」というまったく異なる土俵で闘ってたって、そりゃあわかりあえないだろう。

原発という金のなる木を守ろうとする人の「大丈夫だ」も、リスクがどの程度なのかを調べようともしない人の「危険だ」も、どっちももう聞きたくない。

落ちついた、両論併記の議論をぼくは読みたいんだ!



ということで『原発 決めるのは誰か』を読む。

原発の構造とか安全性とか事故があったときの影響などにはほとんど触れられていない。
テーマは、タイトルの通り「決めるのは誰か」だ。

民衆による多数決で正しい判断が下せるのか、少数の専門家に任せていいのか、任せるとしたらその少数は誰がどうやって選ぶのか。
「決定」について多くのページが割かれている。

これはいいスタンス。
たしかに原発の善悪を議論しても意味がない。
原発利権を享受している人からしたら原発は「いいもの、正しいもの」だし、リスクのほうが大きい人からしたら「悪いもの、誤ったもの」だ。
そこを議論しても、立場がちがう以上いつまでも平行線だ。


まず前提として、原発は(少なくとも今日本にある原発は)時代遅れのものだ。
 まさに、「これでもか」というぐらいの過保護のなかで、日本の原発政策は進められてきたことがわかると思います。普通の経済感覚からすれば、原子力を進めるという道理はないのです。原子力というのは、言ってみれば極めて経営リスクの高い技術でして、国家の保護なしに競争市場に放り込むとすぐま敗北してしまうような技術なのです。
 全原発を即時廃止する道が最もわかりやすい選択肢ですが、原発を残す場合でも経済的にありうる道は、新増設はせず、既にある原発について投資を回収できるまで動かして、回収し終わったら止めていきゴールは完全な脱原発ということだろうと思います。もちろん安全面からはそれもどうかという話になるわけですが、この道以外には、原発を残していく経済的なメリットはまったくありません。ドイツが決めたのはまさにそういう路線です。今あるもののうち比較的新しいものは動かして使っていくが、なるべく早めに廃止し、新増設はせずに、二〇一二年には完全に脱原発を達成するというものです。日本もドイツと同じことをやるのが一番穏当だと、私は以前から言ってきました。「即ゼロがベターであるけれども、ドイツ方式でもいい」というのが現在の考えです。
原子力発電については、安全性を基準として追加しつつも、原子力発電は安定供給、コスト、環境保全の三つの面が優れているとしています。この三つの面は3E(Energysecurity,Economy,Environment)と呼ばれてきたものです。福島事故によって何年もほとんどの原発が長期停止していることを考えると、供給安定性が劣悪であることは明らかです。福島事故により何十兆円もの被害が出ることが確実であることを考えると、事故の後始末コストと損害賠償コストを加算すれば、原子力発電のコストは火力よりも大幅に高くなるはずです。さらに環境保全については、大量の放射能放出によって半永久的に居住不能な広大な地域を発生させてしまったことを、どう考えるのでしょう。福島事故は日本史上最大の公害事件であり、それでも環境保全性が優れているというのは道理に反します。
その証拠に、諸外国はどんどん原発を捨てている。
原発には先がない、というのが世界の共通認識なのだ。

それでも日本が原発に依存しようとしている理由は
「ここでやめたら今までやってきたことが無駄になる」
「過去の失敗を認めたら誰が責任をとるのか」
という二点のみ。

これは先の大戦で大敗につながったときとまったく同じ発想。
損切りができずにまごまごしているうちに撤退が遅れ、ますます損害が大きくなっているというのが今の状況だ。

もしも、もしもだよ。
シムシティみたいに国土を全部更地にできたとして。
「さあ、ゼロから国づくりをやりなおしましょう」
ということになったとき。
それでも原発建設を選ぶ人はひとりもいないだろう。

結局、原発を動かすかどうかを決める上で考えなければならないのは
「原発はいい選択か」ではなく(それはもう答えが出ている)、
「そうはいっても日本にはたくさん原発がある。これをどうするのか」なのだ。

シムシティとちがって、現実はリセットすることはできないのだから。



とはいえ。
原発がいい選択ではないからといって、
「原発は悪だ! 原発をゼロに!」
と叫んでもどうにもならない。

ガソリン車もパチンコもタバコも良くないものかもしれないが、現にその恩恵を受けている人、それで飯を食ってる人がいる以上、すぱっとなくせるものではない。原発も同じ。

それに「今だけ」を考えるのであれば、原発は悪くない選択肢だ。
原油価格に左右されにくいし、発電コストも比較的やすい。地球温暖化対策にもなる。
なにより、日本にはすでに多くの原発がある。
既存のものを使えるというのは大きい。

だから「段階的に廃止」「原発利権を享受している人には別のメリットを」というのが現実的な選択肢になる。
 また、原子力専門家に退場してもらえば、それで問題が解決するわけではありません。原子力から撤退するにしても、廃炉や放射性廃棄物のことなどがありますから、彼らの専門知は必要なのです。安易に彼らを追い出してしまったとしたら、私たち自身が専門的な問題と向き合ったり、あるいは実際に放射性物質のようなリスクのあるものを、専門知識を欠いたまま扱ったりしなければならなくなりかねません。少なくとも現状では、そうした専門知の多くは「ムラ」の中にあるわけですから、それをどうやって私たちの側に取り戻すのかを考えねばなりません。その延長線上にコミュニケーションの話もあるのではないでしょうか。「ムラ」を解体することが必要だとしても、それは、現時点で「ムラ」に属していると思われる原子力専門家をパージすることではない。彼らを「ムラ」のメンバーから市民社会の一員へと取り戻すことが必要なのです。
(中略)
 しかし同時に、どうして欲しいのか、どういう基準で仕事をして欲しいのかということを、ポジティブな言い方、建設的な方向で伝えることももっとあってよいと思うのです。「これをするな」と同時に、「これをしてほしい」という言い方が必要です。例えば、福島原発事故の被害を受けられた皆さんから、被害を少しでも回復したり、未来を切り拓いたりするために、原子力の専門家に対して「こういう研究をしてほしい」とか、「こういう技術を考えてほしい」ということを伝えるチャンネルがあってもいいと思うのです。私たちが何を望み、何は望まないのか、そのことを伝えるのも、リスク・コミュニケーションの真髄のひとつだと思います。「これが一番いい政策なのだから、あなたたちは不要です。それを理解しなさい」というモードで接しては、彼らのコミュニケーションが一方的であるのと同じ意味でこちらも一方的な要求になってしまって、敢えて言えばイデオロギー対立、プロパガンダ合戦になってしまいます。それでは不毛な争いが続くばかりで、結局、一番困っている人たちは困ったまま、厄介な問題は手が付けられないままという結果を招きかねません。

「原発なんて害悪しかないよ」といわれたら、深く関わっている専門家ほど「いや必ずしもデメリットだけではない」と反発したくなるだろう。
それよりも「五十年後になくすために知恵を貸してほしい」「原発よりももっと安全でもっと低コストな発電方法を考えてほしい」という言い方をすれば、話は前向きに進みやすくなる。

同じく、「原子力ムラが不当な利益を享受している!」と糾弾しても反発を招くだけ。
維持・開発に使っているのと同じお金を減炉・廃炉のために落としてやるようにすれば、少なくとも「今ある利益を失う」という理由での反発はなくなる。

利権というと悪いもののように言われるけど、利権があるからこそ原発や基地のような「みんなイヤだけどどこかが引き受けなければならないもの」を設置できるわけなのだから、なくすことは不可能だ。ある程度は目をつぶるしかない。

こういう道筋をつくるのが政治なんだとおもうけどねえ。
宮台 野次や吊し上げが典型ですが、糾弾モードの振る舞いが、市民運動側に蔓延していないでしょうか。そうしたことをやはり問いたいのです。相手方との合意に至ろうとか、知らなかった何かに気づこうという構えが、ほとんど見られないのは問題ではないか、ということです。
僕が大事だと考えるのは価値専門家です。ドイツのメルケル首相が、東日本大震災が起きて二カ月も経たずに二〇二〇年代には原発をやめると決めました。きっかけは、メルケルが招集した宗教学者、倫理学者、社会学者などからなる、安全なエネルギー供給のための倫理委員会です。
 原子力問題を、価値の問題、倫理の問題として議論しているのです。低線量被曝などの未確定の長期リスクについて、誰も責任がとれないのなら引き受けるのは非倫理的ではないか、一○○○年に一回だから無視していいというのは、後は野となれ山となれ的な反倫理ではないのか、などなど。
この姿勢、大いに学ばなくてはならない。
日本の議論は「カネ(それも今のカネ)」の発言力が強すぎるんだよなあ。

原発にかぎらず。

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2019年5月2日木曜日

【読書感想文】三浦 綾子『氷点』

氷点

三浦 綾子

内容(e-honより)
辻口病院長夫人・夏枝が青年医師・村井と逢い引きしている間に、3歳の娘ルリ子は殺害された。「汝の敵を愛せよ」という聖書の教えと妻への復讐心から、辻口は極秘に犯人の娘・陽子を養子に迎える。何も知らない夏枝と長男・徹に愛され、すくすくと育つ陽子。やがて、辻口の行いに気づくことになった夏枝は、激しい憎しみと苦しさから、陽子の喉に手をかけた―。愛と罪と赦しをテーマにした著者の代表作であるロングセラー。

1965年刊行、何度も映像化されている古典的作品。

病院の院長である父親、美しく優しい母親、かわいい息子と娘。
絵に描いたような幸せな家庭の運命が、ある日娘が殺害されたことで大きく転換する。
父親は殺人犯ではなく男と逢引きをしていた妻を憎み、妻への復讐のために犯人の娘を養子として引き取る……。

「原罪」という重いテーマを扱った作品(著者の三浦綾子氏はクリスチャンだそうだ)。
家族それぞれが秘密を抱えて互いに欺きながら暮らしてゆくうちに、幸せいっぱいの家族が徐々に壊れてゆく描写はスリリングで読みごたえがあった。

日本での殺人事件の半数以上が家族間の殺人だそうだ。身近で関わりが深いからこそ、愛情が憎悪にかわったときの恨みも半端ではない。
幸いぼくは親や姉や妻や子に対して殺意を抱いたことはないけど、激しい憎しみを抱いたことはある。「あのときあんなことを言われた」と二十年たっても根に持っていることもある。逆に親や姉だってぼくに対してひとかたならぬ恨みを持っているかもしれない。

今は親族と良好な関係を築いているけれど、なにかのきっかけで相手の人生をぶっこわしてやりたいと望むほどの憎悪に変わらないともかぎらない。

……そんなことを『氷点』を読みながら考えて背筋が冷たくなった。
愛情と憎悪は紙一重なのだとつくづくおもう。


家族間の深い愛情と深い憎しみを描いた『氷点』、これがほぼデビュー作だというからすごい。

まあ文章はあまりうまくないんだけど……(というか同じ段落の中で視点がころころ変わるのって第三人称小説でぜったいにやってはいけないことだろ)。

でも、「船舶事故」「失踪した看護師」といった“特に回収されないエピソード” がちょこちょこあるのは好きだ。
こういう本筋に関係あるのかないのかわからないエピソードがあると、小説にぐっと深みが与えられるね。



しかしクリスマスにプレゼントをもらうということ以外ではキリスト教とは関わりのない人生を歩んできたぼくにとっては、「原罪」なるものはよくわからない。
人は生まれながらにして罪を負っているとか、親が殺人犯だったから子どもが罪を感じるとか、とうてい理解できないんだよなあ。

「人は罪を犯しうる存在である」と言われればそのとおりだとおもう。
ぼくだって環境によっては殺人犯になっていたかもしれない。逆に、ヒトラーやポル・ポトのような悪名高い人物だって、べつの時代や場所に生まれていたら平凡な人生を歩んでいたとおもう。

でも、だからこそ「罪を犯しうる存在であるにもかかわらず、大した悪事もはたらかずに生きている」ことを肯定的に評価すべきなんじゃないかとおもうんだけど。

生まれながらにして清いものではないからこそ、まあまあ清く生きているのってすばらしいことだといえるんじゃない?


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2019年4月30日火曜日

【読書感想文】爬虫類ハンターとぼくらの常識の差 / 加藤 英明『世界ぐるっと 爬虫類探しの旅』

世界ぐるっと 爬虫類探しの旅

~不思議なカメとトカゲに会いに行く~

加藤 英明

内容(Amazonより)
人をも飲み込むドラゴン、コモドオオトカゲ。体重250kgを超える巨大なリクガメ、ガラパゴスゾウガメ。大きく開いた口で相手を威嚇する奇妙なオオクチガマトカゲ。世界には不思議な爬虫類が数多く存在する。そんな変わった動物たちを探し求めて、一人の男が旅に出た。若き動物研究家が過酷なフィールド探索の先に見た生き物たちの世界とは! ? 爬虫類専門誌「季刊ビバリウムガイド」で好評連載中の現地レポートから、選りすぐりの9編を収録。雑誌未掲載カット、「海外フィールド旅行の極意」をまとめた書き下ろしのコラム集も同時収録。

テレビ番組『クレイジージャーニー』でおなじみ、爬虫類学者である加藤英明さんの著書。
あの番組での加藤さんの姿があまりにすごかったので、本を手に取ってみた。
(どうすごいのか言葉では伝えようがない。番組を観たことがない人は加藤さんの回だけでもぜひ観てほしい。最高だから)

加藤さんの本は何冊か出ているが、番組でブレイクした後に出されたものは加藤さんの写真が多すぎる。
売るためにはしかたないのだろうが、加藤さんも本意ではないだろう。あくまで主役は爬虫類だ。

そこで『世界ぐるっと 爬虫類探しの旅』を購入。番組放送前に刊行された本なので著者の写真はほぼなく、爬虫類の写真が充実している。いい。



加藤さんにはとうてい及ばないが、ぼくも爬虫類が好きだ。

子どもの頃は、近所でつかまえたカメとトカゲを飼っていた。ヤモリもよく捕まえた。
大人になってからも、娘を連れて爬虫類展に行ったりしていた(ただ爬虫類を売るためのイベントだったのであまりおもしろくなかった)。

子どもの頃はよくトカゲやカナヘビを捕まえたものだ。大人になってから捕まえようとすると、めちゃくちゃすばしっこくてとうてい捕まえられそうにない。
子どものときはどうしてあんなにトカゲを捕まえられたんだろう。
たぶん迷いがなかったからなんだろうな。「ケガをしないように身の安全を確保してから」とか「万一毒を持ってたらどうしよう」とか「強く握りしめて殺しちゃわないように」とか考えていなかったから。
「捕まえたい」という気持ちしかなかった。

そして、加藤英明さんはその気持ちを持ったまま大人になった人だ。
『クレイジージャーニー』では、爬虫類を捕まえるために茂みの中を猛ダッシュしたり滝つぼにダッシュしたり洞穴に躊躇なく腕をつっこんでいる加藤さんの姿を見ることができる。
あれはトカゲを追いかけていたときのぼくの姿だ。なつかしい。

 生き物探しは難しい。たとえ本に、“ウズベキスタンに生息している”と書かれていても、局所的に生息している生き物を見つけるのは至難の業。少し離れただけで、生き物の相が変わってしまう。村人から情報を得ても、すでに人が入りこんだ後の土地だけに、生き物が消えていることが多い。長い時間をかけ、荒地に順応してきた生き物たち。彼らは、環境の変化にすぐには適応できないのである。そんなわけで、何がどこにいるかを知るには、自分の足を使わなくてはならない。頼りになるのは、生き物の痕跡。砂漠の生き物の多くは、足跡を残してくれるのでありがたい。足跡だけならガマトカゲ。尾を引きずった跡があればエレミアス。1本の筋だけで足跡がなければ何かしらのヘビ。運良く足跡の先に生き物の姿が見える場合もあれば、巣穴にまで続いている場合もある。もちろん途中で途絶えることもある。風に吹き消されたり、鳥に襲われたり。生き物が残す痕跡からは、生き物の存在はもちろんのこと、種類や生態、近況まで様々な情報を得ることができる。たとえば、グラミカソウゲンカナヘビ(Eremias grammica)。他種のエレミアスより大きく体重があるので、足跡の幅は広くはっきりと砂上に残る。その痕跡が、巣穴から延々と続くので、後を追えば行動範囲がわかる。歩いたのか、それとも走ったのか、いつ頃どこに寄り道をしたのか...。砂漠に棲む生き物の生態は、ジャングルに生きるものよりも遥かに察しやすいのである。

砂漠に残ったわずかな足跡を頼りにこれだけの情報をつかむのだ。すごい。爬虫類採集界のシャーロック・ホームズだ。

こういう解析ができなければ爬虫類ハンターとしてはやっていけないのだろう。
剣の達人が「剣を抜く前に勝負は決まっている」なんてことを言うが、爬虫類ハントも「爬虫類を見つけたときには勝負は決まっている」んだろうな。

いやあ、自分とはまったく縁のない世界ではあるが、どの道でも熟練したプロの技術というのはすごい。



ヘビを捕獲したときの記述。
ヘビは警戒心が強く、一度隠れるとなかなか外に出てこない。待っていれば日が暮れるので、ヘビが潜り込んだと思われる穴を掘り起こす必要がある。どんな種類が出てくるかわからない楽しみはあるが、これでは時間がかかってなかなか先に進めない。それでも炎天下の中、巣穴を掘ること30分。ようやく1匹のヘビが姿を現した!
 住処を壊され引き出されたのは、カンムリヘビ(Spalerosophis diadema)。相当怒っている。体をアコーディオンのように畳むと、勢いよく飛びついてきた。これが本来の野生の姿。気が荒い。私は後ずさりしながらもカメラのシャッターを切るが、リーチが長く何度も牙がレンズにぶつかってしまう。毒がないので安心なのだが、咬まれるのはごめんだ。容赦なく何度も何度も飛びつき迫ってくるカンムリヘビ。まるで漫画で見る世界。敵に対する執着心はとても強い。しかし、さすがのカンムリヘビも、体力には限界がある。20回も飛びつけばあとはスルスルと逃げて行く。そんなヘビの尾をつかみ、捕獲成功。野生個体は筋肉の発達が著しく、体に張りがある。気の強さと強靱さを兼ね備えたカンムリヘビ。アフリカ北部からインドまで広く分布している理由がよくわかる。
「ヘビのように執念深い」なんて言いまわしがあるけど、加藤さんはヘビよりずっと執念深い。

ヘビがいるかどうかもわからないのに炎天下に30分穴を掘り、20回もとびかからせ、ヘビが疲れきって逃げようとしたところを捕獲。
ヘビは命が賭かっているから必死になるのは当然だけど、加藤さん側は「ヘビを捕まえてみたい」という好奇心だけでここまでやってしまうのだ。

加藤さんに目をつけられたヘビは災難だな。つくづく同情してしまう。



加藤さんの行動はめっぽうおもしろいんだけど、この本、あまり読みやすくない。

なぜなら、加藤さんの文章が「爬虫類にくわしい人」に向けて書かれているから。

加藤さんが「これぐらいは一般常識でしょ」という感じであっさり書いていることがよくわからない。
加藤さんの一般常識とぼくの一般常識に大きなずれがあるのだ。

「ぺリングウェイアダーはアフリカアダーの仲間」
とか。
いやおなじみみたいに書いてるけど、まずアフリカアダーを知らないから。

「不思議なのは、島民がカメに関心がないこと」
とか。
いやそれを不思議と思うのは加藤さんだけだから。
食用にもならないし特に害もない生き物に関心を持たないのはふつうだから。

「トカゲの気持ちになって考えてみればどこにいるかわかる」
とか。
他の人間の気持ちですらわからないのに爬虫類の気持ちなんてわからないから。


爬虫類ハンターとそうでない人の間の「常識」に乖離がありすぎて、なんだか読みづらいんだよね。
加藤さんが「ほらこれおもしろいでしょ!」って力説してるところが、こっちからすると「はあそうですか……」みたいになってしまう。


やっぱりあれだね。
爬虫類と加藤さんは本で読むより、じっさいに動いているところを見るほうがずっとおもしろいな。

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2019年4月17日水曜日

【読書感想文】ルール違反すれすれのトリック / 柳 広司『キング&クイーン』

キング&クイーン

柳 広司

内容(e-honより)
「巨大な敵に狙われている」。元警視庁SPの冬木安奈は、チェスの世界王者アンディ・ウォーカーの護衛依頼を受けた。謎めいた任務に就いた安奈を次々と奇妙な「事故」が襲う。アンディを狙うのは一体誰なのか。盤上さながらのスリリングな攻防戦―そして真の敵が姿を現した瞬間、見えていたはずのものが全て裏返る。

(少しネタバレ含みます)

警察を辞めた元SPが来日中のチェス世界王者アンディ・ウォーカーの警護を依頼される。
どうやらチェスの世界王者は本国アメリカ大統領府と日本のヤクザから、それぞれ別々に追われているらしい。いったい裏には誰のどんな思惑が……?

というハードボイルドな感じで話が進んでいき、同時にチェスの天才アンディの生い立ちも語られる。
そして明かされる意外な真相……。

まあ意外といえば意外なんだけど、「おもってたよりスケールのちっちゃな話だった」という点で意外だった。
大統領から追われているというからどんな壮大な裏があるのかとおもいきや。

叙述トリックもしかけてあって、これも軽め。
内容紹介文には「真の敵が姿を現した瞬間、見えていたはずのものが全て裏返る」とあるけど、ぜんぜんそんなことない。
「あーそうか」ぐらいのもの。

しかし「同名の別人」って、トリックとしてはルール違反すれすれじゃないか?
それで「やーい騙されてやんのー」っていわれてもねえ。
同じ名前が出てきたらそりゃあ読者は同一人物として読むでしょ。そこをいちいち疑ってたら小説が成立しない。
「あれ? 同じ人物のはずなのに前の記述と矛盾してない?」と思わせるような伏線をしっかり張ってくれていたらいいんだけど。



トリックや種明かしはともかく、ハードボイルド小説としてはおもしろかった。

舞台がめまぐるしく変わるのに今誰が何をやっているのかがすごくわかりやすい。
説明くさくない文章で、状況をさりげなく示してくれる。

すごくうまい小説だ。修辞的な文章が並んでいるわけではないが、読みやすい。こういう文章、好きだなあ。

文章がいいから、あっと驚くトリックや意外な真相がなくてもしっかりと楽しめた。
スリリングなチェスの対局を見ているような読書体験だった。チェスの対局見たことないけど。


あとこの小説を読むとチェスをしたくなるね。

小川洋子氏の『猫を抱いて象と泳ぐ』を読んだときもおもったけど。

でもチェスってやりたくなるけど、やってみると「将棋のほうがおもしろいな」っておもっちゃうんだよなあ。
将棋を先に知っちゃったからかなあ。


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2019年4月16日火曜日

【読書感想文】痛々しいユーモア/ ツチヤ タカユキ『オカンといっしょ』

オカンといっしょ

ツチヤ タカユキ

内容(Amazonより)
『笑いのカイブツ』で大ブレイクの“型破りな新人”最新作!!
「人間関係不得意」で、さみしさも、情熱も、性欲も、すべてを笑いにぶつけて生きてきた伝説のハガキ職人ツチヤタカユキ。
彼は父の顔を知らない。気がついたら、オカンとふたり。とんでもなく美人で、すぐ新しい男を連れてくる、オカン。「別に、二人のままで、ええやんけ!」切なさを振り切るように、子どもの頃からひたすら「笑い」を摂取し、ネタにして、投稿してきた半生。
本書は、いまなお抜けられない暗路を行くツチヤタカユキの赤裸々な記録であり、母と息子、不器用でイカれたふたりの泣き笑い、そのすべてが詰まった、世界一ぶかっこうな青春爆走ストーリーです。

『笑いのカイブツ』でほとばしる狂気を存分に見せてくれたツチヤタカユキ氏の私小説。

ほのぼのしたタイトルだが、中身は終始殺伐としている。

すぐに新しい男を連れてくる"オカン"と、人付き合いができない"僕"。
「最悪の組み合わせ」だというふたりの歩みを中心に、社会に溶けこめずにもがく"僕"の姿がひたすら描かれている。

読んでいると苦しくなってくる。
「生きづらさ」「社会と溶けこまないといけない苦しさ」は誰しも感じたことはあるだろう。
ぼくもある。特に十代から二十代前半までは。
その苦しさを百倍に濃縮したような気持ちを、ツチヤ氏は味わっていたのだろう。
 ここに飛び込んだら、向こう側に行く事ができる。向こう側の世界では空は白色で、雲は黒色をしている。
 つまりは、乳牛の体と同じ模様が空一面に浮かんでいる。向こう側の世界には太陽がふたつあって、一方は東から昇り、もう一方は西側から昇る。ちょうどふたつが真上に来ると衝突して、毎日、ビッグバンが起こる。
 そのビッグバンによって、世界中にあるすべての花火に一気に火がつき、爆発したみたいな空色になる。そのカラフルな色彩が爆発しまくっている空から、僕がさっき捨てたナイフが降ってくる。
 向こう側の世界では僕の両親は離婚していなくて、向こう側にいる僕の頭はエンターテイメントに冒されておかしくなんてなっていないし、血液が緑色になんかなるはずもなく、そんな、何もかも順調で完璧な世界にナイフが降ってくる。
 向こう側の世界の僕らは、それに見向きもせずに、通り過ぎて行く。

高校のとき、学年に一人か二人、誰ともしゃべらないやつがいた。
誰とも話そうとしない。話しかけてもうっとうしそうにする。そのうち誰も話しかけなくなる。
そういうやつだとおもって彼らのことを気にしたこともなかったが、そうか、こういうことを考えてたのか。つらかっただろうなあ。
だからといってどうすることもできなかったんだろうけど。

ぼくはそこそこ友だちもいて楽しい学生生活を送っていたので、ツチヤ氏からしたら「向こう側の世界」にいるように見えただろう。

でも、そんなにきっぱりと分けられるものでもないよ、とおもう。
「向こう側」にいるように見える人間だって、やっぱりそれぞれもがきくるしんでいるんだよ。



ツチヤタカユキ氏の文章には、痛々しいユーモアがあふれている。
 ガキの頃、父親の事を教えてくれとせがんでも教えてくれなかった理由は、その時に明らかになった。父の話は、子どもには聞かせられないような童話の数々だった。
「あの頃、駐車場借りるお金なかったから、アンタのお父さん、いつも路上に車停めててんやん? その定位置にの人が車を停めてるのを見るたびにキレて、車の後ろから突っ込んで、無理矢理押し出しとってん」
 R15指定の過激な童話は、歳を取るごとに話のレイティングが上がり、ついにはR18指定に。
「アンタのお父さん、ベランダでマリファナ栽培しとってんけど、隣の人が飼ってはる猫がこっちのベランダに侵入してきて、育てとったマリファナ、全部食べられてん」
 その腹いせに父は、火を点けた花火で隣人の家のインターホンをドロドロに溶かしたらしい。
 その家の猫はマリファナなんか食って、大丈夫やったんやろうか?
(中略)
 オカンは、ガンで入院している。もしいなくなったら、生活ができなくなる。
 いままでずっと、モグラのように地下にいた。その間に、地上では道路が出来ていき、地上に出ようとしてもコンクリートに頭がぶつかって、土の中から出てこられなくなった。
 いくら面接を受けても受からないバイトの線は完全に消した。ここから先は、お笑い一本で生きて行く。
 父がマリファナを栽培したように、僕はネタを設定案から栽培しまくった。その双方には、共通点がある。最後に引き起こす作用は、人の笑顔だ。

前作もそうだったけど、この本も読んでいて息苦しくなるしちっとも楽しくない。
だけど、なぜか気になってしかたがない。
自分の心の中にある嫌な部分を暴かれているような気になる。ずっと見ないようにふたをしていたのに。

ツチヤさんは今後どうなっていくんだろう。作家としてやっていくのかな。
個人的には、笑いの世界に戻ってくれたらいいなと勝手におもっている。

明るく楽しい人じゃなくても笑いはつくれるんだということを証明してほしい。

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2019年4月12日金曜日

【読書感想文】半分蛇足のサイコ小説 / 多島 斗志之『症例A』

症例A

多島 斗志之

内容(e-honより)
精神科医の榊は美貌の十七歳の少女・亜左美を患者として持つことになった。亜左美は敏感に周囲の人間関係を読み取り、治療スタッフの心理をズタズタに振りまわす。榊は「境界例」との疑いを強め、厳しい姿勢で対処しようと決めた。しかし、女性臨床心理士である広瀬は「解離性同一性障害(DID)」の可能性を指摘し、榊と対立する。一歩先も見えない暗闇の中、広瀬を通して衝撃の事実が知らされる…。正常と異常の境界とは、「治す」ということとはどういうことなのか?七年の歳月をかけて、かつてない繊細さで描き出す、魂たちのささやき。

「精神病院に勤務する精神科医」と「博物館の学芸員」の行動が交互に語られる。
そして別々の物語が最後にひとつに重なりあう……のかと思いきや、ちょっとしか交わらない。

えっ? なんじゃこりゃ?

別々の物語を交互に書いただけじゃねーか!

いやほんと、「博物館の謎」パートいらなかったな。ぜんぜんおもしろくなかったし。
ここ削って半分の分量にしてくれたらよかった。

「世間がひっくりかえるような秘密」とやらも蓋をあけてみれば誰もが予想する程度のものだったし、だいたいそれが世間がひっくりかえる秘密?
学芸員からしたら大問題だろうけど、ほとんどの人にとっては博物館の所蔵品なんかに興味はない。

なんでふたつの物語にしたんだろう。



ミステリとおもって読んでいたのだが(「このミステリーがすごい!」の2000年度9位作品なんだそうだ)、ミステリとしては楽しめなかった。

前半で「ある人物が墜落死した」と書かれている。その真相は終盤まで引っぱられるのだが、長々と引っぱったわりに「え? そんなしょぼい真相?」という種明かし。

「博物館の謎」もしょぼかったし、謎解きとしてはとことん期待外れだった。


結末もあっけなかった。
精神病なんてかんたんに治るようなものではないからすべてがきれいに解決するものではないのはわかるが、それにしたってこのラストはあまりに投げっぱなしじゃないか?
500ページ以上の分量を割いて、精神科医がやったことといえば「やっと診断を下した」だけ。

まあ精神科医の仕事ってじっさいはこれぐらい気の遠くなるような進捗しかないものなのかもしれないけどさ。でも小説として読んでいた側からすると「これだけ読んできてそれだけ?」って愚痴のひとつも言いたくなるぜ。



……とあれこれ書いてしまったが、この本はすごくおもしろかった。わくわくしながら読んだ。
精神病院パートはすばらしい出来だ。

あれ? これ書いてるの精神科医? と思って途中で作者の経歴を見てしまった。ってぐらい細部まで詳しく書きこまれてる。

ミステリじゃなくてサイコ小説としてなら、知的好奇心を十二分に満たしてくれるものだった。

しかも、珍しい症例をおもしろおかしくふくらませるような書き方ではなく、精神病に対する誤解を打ち消すようにひたすら慎重に慎重に書かれている。
この姿勢には好感がもてる。

話の主題になっているのは、解離性同一性障害(DID)。これはいわゆる「多重人格」で、フィクションの世界ではわりとよく扱われるテーマだ。
フィクションではたいてい猟奇的に描かれるんだけど、この本ではすごく慎重にとりあげている。
 人間の人格というのは、多面体をなしている、という言い方、よくするでしょう。優しい側面。怖い側面。清い側面。下劣な側面。……そういうものすべてをひっくるめて、ひとりの人間ができているんだ、と。そこまではいいんですが、それをさらに敷衍して、<だから人間はだれもがみな多重人格的な存在なんだ。わたし自身もそうだ>なんてことを言う者がいる。しかしね、そういうのは文学的な修辞としては許されるかもしれないが、医学的には、はなはだしい認識の錯誤ですよ。多重人格者の人格は多面体じゃなくて、優しい人格、怖い人格、清い人格、下劣な人格、その他いろんな人格が、それぞれ別個に、独立して存在しているわけです。そんな途方もない状態のことを、多重人格と呼ぶわけですからね。
 だからこそ、ひとりの人間の中での、人格どうしのコミュニケーションなどという奇妙なものが必要になってくる。
ぼくも「多重人格なんて多かれ少なかれ誰の心にもあるもんでしょ。ぼくだって家族と友人と職場の人の前では人格を使い分けてるし」とおもっていた。
「内弁慶の外地蔵」ぐらいのニュアンスで「二重人格」なんて言葉を使ったりもする。

だが本物の解離性同一性障害はそんなものではない。
ある人格が表に出ている間は他の人格の記憶がすっぽりと抜けたり、自己の内なる人格同士で対話をしたりもするとか。



ところでぼくは「多重人格」の人に会ったことがある。あくまで自称、だが。

十年ほど前。
ぼくが書店で働いていたとき、とある書店が新規オープンするというので一週間だけ手伝いに行った。

一週間働いて、最終日。
仕事を終えたぼくは、一緒に働いていた女性と話しながら駅まで向かった。
年上だったがかわいらしい女性だったので、あわよくば仲良くなりたいとおもい、お茶でもどうですかと喫茶店に誘った。
彼女は承諾してくれた。

喫茶店でたあいのない話をしているとき、ふいに彼女が言った。
「私、多重人格なんですよ」

「え?」
「私の中に何人かいて、ときどき出てくるんです。今の私でいることが多いんですけど、家にいるときはけっこう別の人格が出てきます。中には男性の人格もいます」

ぼくはどう返していいのかわからなくて、「へえ」とかつまらない相槌しか打てなかった。


そしてぼくらは喫茶店を出て別々の電車に乗った。その後は二度と会っていない。連絡先も知らない。

彼女の告白が真実だったのかどうか、わからない。
会って数日、しかももう二度と会わないぼくに向かってなぜそんなことを口にしたのかわからない。

そんな出来事があったのをずっと忘れていたのだが、『症例A』を読んで思いだした。

ひょっとすると、彼女のカミングアウトは本当だったのかもしれない。
もう二度と会わない相手だからこそ、打ち明けることができたのかもしれない。近しい人にはなかなかそんなこと言えないだろうから。


あのとき、「私、多重人格なんですよ」という彼女の言葉を聞いて、ぼくはとっさに「この人とかかわっちゃまずい」とおもってしまった。
そして「あわよくば仲良くなりたい」というぼくの気持ちは雲散霧消した。

案外、それが彼女の狙いだったりして。
「私、多重人格なんですよ」はしつこい男から逃げるための方便だったのかも。


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2019年4月3日水曜日

【読書感想文】価値観を押しつけずに教育は成立するのか / 杉原 里美『掃除で心は磨けるのか』

掃除で心は磨けるのか

いま、学校で起きている奇妙なこと

杉原 里美

内容(e-honより)
いま、学校現場では奇妙なことが起きている。体操服の下に肌着を着てはいけない、生まれつきの茶髪でも黒に染めろといった、不合理な校則の数々。客観性に疑問符がつく「道徳」教科の成績評価。偽史「江戸しぐさ」にならった「○○しぐさ」の流行。掃除やマナー、挨拶など「心を磨く」活動が重視され、教え方の「マニュアル化」が進む。こうした動きを、第一線の記者が各地へ足を運び、多角的に取材。いま、教育現場で起きている「奇妙なこと」の全体像を浮かび上がらせる。子どもの教育に関心を持つすべての人に向けた緊急レポート!

教育の現場で「価値観の押しつけが起こっているんじゃないか」という疑問をもとに、様々な教育方針について調査した本。

うーん……。正直、「どっちもどっち」だとおもえるな……。
日本会議とか親学推進協会に関してはぼくも「気持ち悪いな」とおもうし。「どんな思想を持つのも勝手だけどまともなデータもないのに教育に口出しすんなよ」と。

「弁当を作るようになると親子の会話が増える」なんてどこにそんなデータがあるの?
そういう傾向があったとしてもそれって疑似相関でしょ? 弁当をつくる時間的余裕があるんだからそりゃ会話も多いでしょ。
と。

でも、著者の意見も極端すぎるというか、過敏すぎるんじゃないかとおもってしまうんだよね。

教科書に、ひとつのモデルケースとして「学校を卒業して仕事をして結婚して子どもを生んで……」という例が載っていることについて
 文科省は、「生涯の生活設計のところに、『人の一生について、様々な生き方があることを理解する』という文言が含まれている」と説明する。
 だが、特定の生き方を推奨することになりはしないか、不安が残る。高校生が、必ず結婚しなければいけないと考えたり、故郷を出て就職することをためらったりすることはないのだろうか。子どもを持ち、「父母」として生きることを標準と思わせたり、若い時期での出産を推奨したりすることは、同性愛などの性的マイノリティーの子どもたちを排除することにつながりかねない。
これはちょっと言いがかりが過ぎるんじゃないかな。

「こういう人生が一般的ですよと伝えること」の先に「マイノリティーを排除」はあるのかもしれないけど、密接しているわけではないでしょう。それはそれ、これはこれじゃないか?
ぼくは大学卒業後に仕事を辞めて無職だったことはあるけど、だからって「大人は働くものと決めつけるのはよくない!」とはおもわない。

ひとつの指針を示すことは教育において必要不可欠なもんじゃないか?
「勉強するのはいいことですよ」
「先生の言うことは聞きましょう」
「周りの人と仲良くしましょう」
「家族とも仲良くね」
といった方針を共有せずに、学校教育を成立させることなんかできる?

どうしても適応できない子に強制させるのはよくないにしても、教育が価値観の押しつけになってしまうことはある程度避けられないとおもう。
「勉強したって幸福になれるとはかぎらない」
「教師の中には誤ったことをいう人もいる」
「どうしても仲良くなれない人もいる」
「距離をとったほうがいい親もいる」
ってのは正しいことではあるけど、それを子どもに公言してしまったら学校教育は崩壊するしかなくなるとぼくはおもう。

著者は新聞記者で教育現場の人ではないので、ちょっと理想論が過ぎるようにおもう。



しかし「昔はこうだった」という無根拠な(本人は根拠があるとおもっている)思いこみをもとに、教育現場に口出しをする素人って多いよね。

「今の学校は〇〇だ。昔はもっと□□だった。だから今の子どもは××なんだ」

みたいな言説。
こういうことを言ってる人間に、根拠となる数字を出している人を見たことがない。
みんな印象だけで語っている。
素人の酒場談義ならまだいいけど、政策を決める立場にある人間までが印象だけで語って方針を決める。

虐待も子売りも家庭内暴力も昔のほうがずっと多かったのに。
「今の子どもは××なんだ」と言いたくなったら、口を開く前にパオロ・マッツァリーノ氏の本を読みましょう。

しかも決まって教育なんだよね。
たとえば介護とか医療とかに関してはそんなに門外漢が口をはさまないじゃない。
「わたしも病院に何度か行ったことがありますけど、その立場から言わせてもらえば今の医療方針はまちがっている!」
とか言わないじゃない。
なのに教育に関しては「学校に通っていた、子どもを学校に通わせている」だけの人が、自分の観測範囲を根拠に一席ぶったりする。

ああいうのはまともにとりあっちゃいけない。
印象だけで語っているかぎりは、永遠に議論にならないのだから。

しかしこの本の著者も、「こういう傾向はこわい」とか「〇〇が教育現場に介入することに不安がぬぐえない」とか「こういうことをすると教師が委縮してしまうのでは」みたいなことを書いているだけで、何がどう問題なのかをまったく客観的に示せていない。

感情論に対して感情論で反対しているだけで、読んでいるこっちからすると「どっちもどっちだな」としかおもえないんだよなあ。



論理的な主張には欠ける本だけど、著者の「なんでも体験してみる」という姿勢には感心した。さすがは記者だねえ。

自分と相容れない思想を持つ団体の集会にも参加するし、「素手でトイレを磨く講習」にも参加する。
反対意見であろうと批判する前にまずやってみる、というのはなかなかできることじゃない。

特におもしろかったのが甲南大学の田野大輔教授がやっている「ファシズムの体験学習」に参加したときのレポート。

教授を偉大なる指導者としてあがめたてまつり、メンバーは同じ服を着て同じ挨拶をおこない、キャンパス内でいちゃついているカップルという「共通の敵」(仕込みだそうだが)に向かって「リア充爆発しろ!」という罵声を浴びせるという実験をするようだ。

参加した学生の感想も紹介されている。
  • グラウンドに出る前は、おもしろ半分な雰囲気だったけれど、教室に戻る際には「やってやった」感がどこかで出ていたように感じる。
  • 自分が従うモードに入ったときに、怠っている人がいたら、「真面目にやれよ」という気持ちになっていた。
  • 最初は乗り気ではなかったが、ひざ枕のカップルの前では最前列に自分がいた。教室内で行動するより、外に出て他人から見られるほうがやる気が出た。
  • 制服もシンボルも身につけていないくせに集団にまぎれこんでいる人を見ると、憎しみすら感じさせられた。規律や団結を乱す人を排斥したくなる気持ちを実感。
  • 実際に同じようなことが日本でもあり得ると思うと、すごくリアルで恐怖を感じた。
集団心理のおそろしさがよくわかる。
特にインターネットやSNSによって同じ思想の持ち主同士が連携しやすくなったことで、こうした傾向はどんどん強くなっているのかもしれない。

いわゆる「ネトウヨ」はこういう心理なんだろうし、逆にネトウヨを過剰攻撃している「パヨク」たちもまた同じ心理を共有しているんだろう。

ヘイトスピーチも反政権デモも、何かを変革しようとするというより自分たちが気持ちよくなるためにやっているようにしか見えない。
あの人たち、向かっている方向は真逆だけど、ぼくから見るとよく似ているんだよなあ。


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2019年3月28日木曜日

【読書感想文】全音痴必読の名著 / 小畑 千尋『オンチは誰がつくるのか』

オンチは誰がつくるのか

小畑 千尋

内容(e-honより)
「オンチはなおりますか?」実に多くの方が質問されます。オンチはなおすものではありません。克服するものです。オンチは病気ではなく、生まれながらの能力の欠如でもないからです。歌唱スキルは、適切なトレーニングを行えば、発達可能な能力であり、大人になってからでも十分に向上します。

ぼくは音痴だ。ものすごい音痴だ。
どのぐらい音痴かというと、2音を聴いて「どっちが高い?」と言われてもよくわからないときがある。それぐらい音痴だ。

中学生のときに友だちから「おまえ歌へただな」と言われ、そのときは「まさか」と思っていたのだが、合唱コンクールの練習時に教師から「まったくちがう」と言われて自分が音痴だと確信した。

それ以来、自分は音痴だという自覚を持って生きている。
中高生のときはすごく恥ずかしかった。音痴であることがコンプレックスだった。音楽の授業や合唱コンクールが苦痛だった。
人前では歌わない。カラオケにも行かない。どうしようもないときはしぶしぶ付きあうが、どれだけ勧められてもマイクは握らない。

もうこれは一生治らないものだからしょうがない、とおもって生きてきた。

おっさんになってからはカラオケに誘われることもなくなってきたので、特に不自由しなかった。ようやく音痴で苦しむことから解放されたとおもった。

だが娘が生まれてそうも言ってられなくなった。
子どもを寝かしつけるとき。
子どもから「いっしょに歌おう」と言われたとき。
歌ってあげたい。だが歌えない。ぼくのへたな歌を聞かせたら娘も音痴になってしまうかも。


……そんな心配もむなしく、娘は音痴になった。

娘の歌はへただ。
音痴のぼくが聞いてもめちゃくちゃだとおもうので、相当ひどいのだろう。
まあ子どもだからこんなもんかとおもっていたのだが、娘の友だちが歌っているのを聞いて驚いた。うまいのだ。
幼児でもうまく歌える子はいる。だとしたら娘は音痴なのだろう。

もうぼくが音痴なのはしょうがないが、娘にはこれから音楽の授業や合唱コンクールや友だちとのカラオケなどの試練が待ち受けている。
つらい思いをさせるのはかわいそうだ。

ということで、一縷の望みをかけてこの本を読んでみた。

いい本だった。すごく。

音痴になるメカニズムや克服トレーニング方法だけでなく、オンチの人の抱える精神面での悩み、それが生まれる社会的背景、トレーニングによって音痴を克服した人のエピソードなどじつに丁寧に説明されている。
非常に読みごたえがあった。



ぼくの妻は歌がうまい。
おまけに絶対音感もある。
ぼくがピアノで2つの鍵盤を同時に叩いてみせると、聴いただけで「ドとソのシャープ」なんて言いあてることができる。
一度聴いただけの曲でも、ピアノで演奏することができる。

特別なトレーニングをしたわけではないという。ピアノは習っていたが趣味程度。絶対音感は「自然に身についた」という。

ぼくからしたら驚異的だ。
体操選手の後方抱え込み2回宙返り3回ひねりを見ているような気持ちだ。とても同じ人間の所業とはおもえない。


歌のうまい人の例に漏れず、妻には歌のへたな人の感覚がわからない。
娘に歌を教えるときも
「よく聴いて。ほら、これと同じ高さで歌ってごらん」
なんて言う。

音痴代表として、ぼくはおもう。
ちがうんだって。
よく聴いてるんだよ。よく聴いてもどっちが高いかわからないんだよ。そもそも「音が高い」という感覚もよくわかってないんだよ。

音痴にとっての「よく聴いて。ほら、これと同じ高さで歌ってごらん」は、真っ暗な部屋で「ほらこれと同じ絵を描いてごらん。見たまんまに描けばいいから」と言われているようなものだ。
技巧がどうこう以前に、見えてないのに描けるわけがない。

でも歌がうまい人には、音痴の人が「見えていない」ことがわからないらしい。
 オンチだと言われてきた方は、「なんで音が外れるんだ」「なんでみんなは合わせられるのに、自分は合わせられないんだ」と思い続けてきたかもしれません。でも私がレッスンを通して強く感じるのは、彼(彼女)らは同一の音高で合わせる感覚を単に知らなかっただけだということです。
 歌唱指導で、内的フィードバックができない人に対して、いくら「この音に合わせて」「よく聴いて」なんて指示を出しても効果はありません。一体「何をよく聴いたらいいのか」がわからないからです。音楽の指導者のほとんどは、そのことが想像できていないのではないでしょうか。

学校の音楽の先生はほとんどが子どもの頃から歌が得意だった人だろう。音程を理解するのに苦労した、なんてことはまず経験していないはず。

だから「音の高低がわからない」という感覚がわからない。
平気で「よく聴いて、同じ音で歌って」なんて口にする。

英語のネイティブスピーカーが[a]を使うべきか[the]を使うべきかなんて考えなくてもわかるように、音楽の先生にとっては「ドよりレが高い」なんてのは自明のことなので考えて理解するようなことじゃないのだろう。
 私は、音程が著しく外れる歌を聴くと、どのように音程が外れているのか、本人がそのことを認知できているのかを分析しています。それは、「教育者が使う言葉として『オンチ』はふさわしくないから、使わないようにしよう」という発想からではありません。
 音程が外れた歌唱を聴いた時、「オンチ」というレッテルしか貼れない音楽の指導者だったら、(ちょっときつい言い方になってしまうかもしれませんが)それは専門性に欠けると思うのです。もし歌唱を指導する立場の人だったら、著しく音程が外れた歌を聴いた時、その人がどうして音程を正しく合わせることができないのか、その原因を探り、指導をすべきではないでしょうか。
 これも、体育に置き換えて考えてみると、わかりやすいと思います。たとえば、水泳で息継ぎができない子どもに対して、「どうして息継ぎができないのか」「どうやったらその子どもが息継ぎをできるようになるのか」を考え、その子どもにとって 必要な指導をするのが体育の先生の仕事です。それを、体育の先生が「この児童は、運動オンチだなぁ」と思って、息継ぎの方法を教えないのはかなり妙な話ですよね。音楽の先生が「オンチだ」と思って具体的な指導をしないのは、これと同じことだと私は感じています。

そうそう、指摘だけされて指導してもらえないってのが、音痴にとっていちばんつらいとこなんだよね。

ぼくも音楽の先生から「音がずれてるね」と言われたことがある。
でもそれだけ。
修正するための指導を受けたことはない。
どうやったらずれずに歌えるのか、そもそもずれてるとはどういうことなのか、ずれてないのがどういう状態なのか、音痴のぼくが理解できるような説明を誰もしてくれなかった。
通知表には10段階評価で3か4がつけられて、それで終わり。改善のしようがない。



今でこそ「ぼく音痴なんですよー」と堂々と言えるようになったが、思春期の頃はそれすら言えないぐらい恥ずかしいことだった。

カラオケに誘われたときも「音痴だからやめとくわ」とは言えずに、「あの狭い空間が苦手なんだよね。息苦しくって」なんて妙な嘘をついて逃げていた。

そこまでコンプレックスにおもっていた理由も、この本を読んで腑に落ちた。
 そもそも、「歌う」ことは楽器の演奏とは異なった感覚があります。弦楽器であれ、管楽器であれ、打楽器であれ、楽器は演奏する本人と、演奏する楽器が基本的に別物です。
 たとえば、ピアノは指が鍵盤に接触しています。でも、音を発する楽器本体は人間ではなく、ピアノです。弦楽器や管楽器も体が接触し、振動させる、息を吹き込むなどしても、やはり音を発するのは楽器本体です。熟練者になると、楽器がまるで自分の体の一部のように演奏する感覚もあるでしょう。でも歌は、体そのものが楽器なのです。話す時の声が体から発せられるのと同じように、歌声も演奏者自身の体から発せられます。
 ですから、たとえば学校の音楽の授業で、鍵盤ハーモニカを弾いている時に、「違う音を弾いてるよ」と指摘されたり、リコーダーを吹いて「押さえる指が間違っている」と指摘されたりするのと、歌って「音程が違う」と言われるのとでは、全く重みが違うのです。楽器だとワンクッションあるけれど、歌はダイレクトに感じられてしまうのです。
 こんなふうに考えてみると、歌に対する指摘を受けたとしても、その指摘が直接自分自身に向けられたように感じてしまっても不思議ではありません。「歌声」イコール「私自身」という感覚です。

そっか!
「歌声」イコール「私自身」だから恥ずかしいのか!

たしかにそうだよね。
ぼくは楽器全般ができないけど、それはべつに恥ずかしいとおもったことがない。
もし友人の前でリコーダーを吹くような状況になっても(どんな状況だ)、堂々とへたくそな演奏をやってやれる。
それで「おまえリコーダーへただなー」と笑われてもぜんぜん平気だ。「そやねん。へたやねん」と言える。

でも、友人の前でへたな歌を歌いたくない。「おまえ歌へただなー」と言われたら赤面してしまう。


歌のうまい人には理解できないかもしれないけど、「歌がへた」ってほんとに重いことなんだよね。
「リコーダーがへた」とか「バスケットボールがへた」とはぜんぜんちがう。
それらは「練習が足りないから」ですませられるけど、歌がへたなのは人間として欠陥があるような気さえする。


これは個人的な憶測だけど、音痴が恥ずかしいのってジャイアンのせいなんじゃないかとおもう。
『ドラえもん』の中で、ジャイアンの音痴ってめちゃくちゃひどい描かれ方してるじゃない。ジャイアンの歌声を聞いた子どもが気を失うとか、猫が木から落ちてくるとか、窓が割れるとか。
あれってべつに音痴なんじゃなくてただうるさいだけなんじゃないかとおもうんだけど、漫画の中では「歌がへたなせい」ということになっている(窓が割れるぐらいのボリュームだったらたとえうまい歌でも具合悪くなるとおもうんだけど)。

のび太が勉強できないこととかスポーツが苦手なこととかは同情的に描かれているのに、ジャイアンの音痴に対してはそういう視点は一切なく、とことん笑いものにされている。
リサイタル参加を強制する点についてはジャイアンが悪いが、音痴なのはしかたのないことなのに。

あれは「音痴は人前で歌うな」というメッセージになってしまってるんだよね。
ひどいや藤子・F・不二雄先生……。



くりかえしになるが、本当にいい本だった。

著者は東京音大を出てピアノの指導者をしている人なので、音痴で苦労した経験など一度もないにちがいない。
だけど音痴の人に寄りそう姿勢を持っている。
ちゃんと原因を分析して、音痴であることによってどんな精神的な苦痛を抱えているかをさぐって、歌が嫌いにならないようにすごく配慮しながら指導をしている。

もう、歌の先生というよりセラピストのようだ。

ぼくもこの著者みたいな先生に指導してもらいたかった……。
(学校のカリキュラムではそこまでの時間も割けないんだろうけど)

この本には、音痴のメカニズムや、修正するための方法、そしてじっさいに克服した人の事例が紹介されている。

自分はもう一生音痴として生きていくしかないとおもっていたが、この本を読んで「ぼくの音痴も克服できるかもしれない」とおもえるようになった。
もうそれだけで気持ちが楽になった。

ぼくの音痴はまったく治っていないが、しかし気持ちはまったくちがう。
「一生歩けません」と「リハビリをしないと歩けるようになりません」ぐらいちがう。

娘も、音楽の道に進むことは無理でも、友だちと行ったカラオケで恥をかかなくて済むぐらいにはなるかもしれない。
さっそくこの本に載っているトレーニングをやってもらおう(サポートするのは音程がとれる人じゃないといけないので妻にやってもらうのだが)。

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嫌いな歌がなくなった世界



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2019年3月27日水曜日

【読書感想文】晴れやかな心中 / 永井 龍男『青梅雨』

青梅雨

永井 龍男

内容(Amazonより)
一家心中を決意した家族の間に通い合うやさしさを描いた表題作など、人生の断面を彫琢を極めた文章で鮮やかに捉えた珠玉の13編。

日常のスケッチのような短篇集。
いわゆる名文なんだろうけど、個人的にはこういう「何も起こらない小説」は楽しめないんだよなあ。志賀直哉なんかもそうだったけど。

ただ、葬儀にまぎれこんだ狂人(自分ではまともで「他の人」が狂っているとおもっている)の心境をスケッチした『私の眼』、
そして同じ場面を「他の人」の視点で描いた『快晴』はぞくぞくしておもしろかった。
この男、見ず知らずの人の葬式に参列して、香典袋に靴べらを入れて渡す。あからさまな「おかしい」ではなく、当人にとってはまっとうな理由がありそうな狂気なのがいい。
読んでいて、狂気と正常のボーダーラインがゆらいでくる。


一家心中当夜の家族の落ち着いたたたずまいを描いた 『青梅雨』もよかった。
心中を前にしている家族の立ち居振る舞いは、むしろ晴れやかで楽しそうですらある。

心中って経験したことないけど(たいていの人はないだろう)、案外こんなもんかもしれないなあ。
ひとりで自殺するよりも、気楽で悲愴感はないのかもしれない。
先生に怒られてひとりだけ教室に居残りさせられるのはつらいけど、ふたりで居残りさせられるときはちょっと楽しいもんね。妙な親近感がわいて。そんな感じなんじゃないかな。

末井昭という人が「おかあさんがダイナマイト心中した」ことを書いてるけど、申し訳ないけど、もう笑っちゃうもんね。ダイナマイト心中ってちょっと楽しそうな感じするもん。

太宰治なんかあれもう心中をどっか楽しんでるようなとこあるしね。
過激派が自爆テロなんてのも、あれはやっぱり誰かと一緒に死ぬからこそできるんだろうね。
みんな心の奥底に「ひとりで死にたくない」って思いがあって、それが心中や自爆テロがなくならない理由なのかもしれない。


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【読書感想文】おかあさんは爆発だ / 末井 昭『素敵なダイナマイトスキャンダル』



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2019年3月25日月曜日

【読書感想文】イケメンがいちばんいい / 越智 啓太『美人の正体』

美人の正体

外見的魅力をめぐる心理学

越智 啓太

内容(e-honより)
なぜ美人は一人勝ちといわれるのか?納得の定説から予想を超える新事実まで、最新の研究成果に基づいたネタ満載。美人が大好きな人、美しくなりたい人の知的好奇心を鮮やかに刺激する!

人はどれぐらい美人/イケメンを好きなのか。
そもそも美人/イケメンとはどういう顔なのか。
なぜ美人/イケメンが好かれるのか。
美人/イケメンはどれぐらい得をするのか。
逆に美人/イケメンが損をすることはあるのか。

……などなど、とにかく顔の良し悪しに関する研究ばかりを集めて紹介している本。

とにかくいろんな研究のいいとこどり、悪くいえば寄せ集めという感じで、著者の主張はほとんどない。
が、個人的にはこのほうが信頼がおけて好きだ。べつに著者の個人的主張はなくてもいい。

橘玲『言ってはいけない』もいろんな研究を紹介する本だけど、あれはちょっと著者のつけたし(という名の暴走)が過ぎるからなあ。



見た目のいい人のほうがモテるのはもちろんだが、学問の面においても高い知能を持っていると期待されるそうだ。

そういや前の職場に清楚な感じのすごい美人がいて、しゃべってみたらぜんぜん物事を知らないし計算もできないしだらしないので驚いたことがある。
あれは、ぼくが勝手に「この人は顔が整っているから頭も良くて性格もきっちりしているにちがいない」と思いこんでいたせいなんだろうな。

そんなふうに勝手に期待されて失望されることもあるが、期待されることはプラスにはたらくことが多いようだ。
 ローゼンソールらはある小学校で、知能検査を行いました。そして、担当の先生に「この知能検査は、今後その子どもがどのくらい伸びるかをテストするものなのです」と信じさせて、今後伸びる可能性のある子どもとして何人かの子どもの名前を示しました。その8か月後にもう一度知能検査を行ったところ、実際にそれらの子どもたちの知能が伸びていることがわかったのです。この実験の面白いところは、じつは先生に示された「伸びる子ども」のリストは単に、ランダムに選ばれた生徒にすぎなかったことです。つまり、「この子どもは伸びる」と先生が信じたことにより、実際にそれらの子どもたちの知能が伸びてしまったのです。
 このように、先生の期待が現実化してしまう効果が存在すると仮定すると、美人だったりハンサムだったりする子どもは先生から期待され、実際に成績が良くなってしまう可能性があります。また、このような効果が自己拡大していく可能性について言及している研究者も少なくありません。つまり、魅力的 → 先生から期待される → 勉強を頑張る → 実際に成績が良くなる → さらに先生から期待される → さらに頑張るという良い方向のスパイラルが形成されるというわけです。これは逆の場合、恐ろしいスパイラルとなります。つまり、魅力的でない → 先生から期待されない → 勉強を頑張らない → 成績が低下する → さらに期待は低くなる → さらに成績が低下するという流れです。

期待されることで、それに応えようとしてじっさいに成績が良くなる。
つまり見た目のいい子はそうでない子よりも勉強もスポーツもできるようになる(傾向がある)わけで、見た目の悪い子にとってはなんとも救いようのない話だ。

「美人は性格が悪い」という通説もあるが、現実には美人は(特に異性からは)性格も良いとおもわれるらしい。

また、自信がつくことで明るく社交的になりやすいわけで、生まれついて魅力的な人はどんどん魅力的になり、そうでない人はどんどん卑屈になってしまう。

いい顔に生まれるかどうかで、恋愛以外の面でもまったく異なる人生を歩むことになるのだ。

改めておもうけど、ぼくもイケメンに生まれたかったぜ。



ただし、男の場合は「見た目がいい」が必ずしもモテるにはつながるわけではないという。
 じつはこのような「男らしい男」を選択する場合にはいくつかのリスクもあるのです。一つは、このような男性は生殖力が強いため、自分の遺伝子を最大限残すために、一人の女性との間で家庭を作って、そこで少数の子どもを作り育てるというよりは、多くの女性と短期的な関係を築くという方略のほうが有利になる可能性があります。つまり、「やりにげ」方略、子どもの養育には投資を行わないという方略をとりやすくなるのです。女性から見るとつまり「男らしい男」は、生殖力があるが「やりにげ」される可能性があるちょっと危険な存在ということになります。
 このような危険な存在をあえて選択するということも可能ですが、危険を避けて長期的な関係を築くためには、「女性らしさを持っている男性」を選ぶのもいい選択かもしれません。この場合、それほど「モテる」要素を持っているわけではないし、女性的な特性を持っている可能性があるので、「やりにげ」されずに、じっくりと自分の子どもの養育に投資を行ってくれるかもしれません。

マッチョな男、かっこいい男は一夜限りのアバンチュールの対象としてはモテるが、長期的な恋愛・結婚の対象としては必ずしもそうとはかぎらないようだ。

女性の場合、「やりにげ」されることのコストが大きいため(妊娠・出産したらひとりで子育てをしなくてはならない)、好みが多様化する傾向にあるようだ。
相手を選ぶうえで「浮気をしなさそう」ということも重要なファクターとなるため、「浮気をしなさそう」≒「モテなさそう」な男が選ばれることもめずらしくない。

たしかに「美女と野獣」の組み合わせはときどき見るが、その逆は少ない。

これはわれわれかっこよくない男性には朗報だ。



顔の好みの話。
この図を見てみると、同性の人物の場合には、自分に類似した顔が選ばれやすかったのに、異性の場合にはそのような傾向はあまり見られないということがわかります。これが、おそらく我々に備わった近親交配回避のためのメカニズムだと思われます。
 同性の場合には2人の間に子どもを作ることはなく、好意を持つということは、相手を援助することなどと関連するので、単純に血縁関係が大きい相手を選好するほうが、結果的に自分の遺伝子を多く後世に残すことができます。相手の遺伝子と自分の遺伝子に共通するものが多いほど、相手を助けてその生殖を支援することが結果的に自分と同じ遺伝子をより多く後世に残すことにつながるからです。そのために似ている個体であればあるほど好感を持ったほうが、より適応的だと考えられます。
同性であれば自分と似た顔に好感を持つ、異性に関してはそのような傾向はあまり見られない。
遺伝子を残すためには親戚は助けあったほうがいいけど、親戚には恋愛感情を抱かないほうがいいから。
なるほどね、よくできている。

そういや特に女の人にいえることだけど、似た感じの人でつるんでいる印象がある。
同じぐらいのかわいさ、同じようなメイクの人が友だちになっている。美人とブスの友情はめずらしい。
あれはこういう理由もあるのかもしれないね。



当然ながら見た目がいい人のほうが得をすることが多いんだけど、この本の最後には「美人ならではの苦労」も書かれている。

遊び目的の男に声をかけられる、不当に高い期待をされる、同性から妬まれる、など。

娘が生まれたとき、ぼくは「あまり美人すぎないほうがいいな」と願った。
美人は美人で苦労するだろうし、悪い男に目をつけられて道を踏みはずしやすそうだし、親としては心配が多そうだから。
幸か不幸か、ぼくに似て、今のところは美人ではなさそうだ(もちろん親としてはかわいいけど)。

幼なじみの美人だった子を見ても、あんまり幸福そうには見えないんだよなあ(やけに独身率が高いし)。
美人もあんまりいいことないのかもしれない。ブスよりはマシだろうけど。

「見た目がいい男」がいちばん得かもしれないな。
モテるし、優秀そうに見られるし、あまり妬まれないし(男もイケメンが好きだ)。

「美人ならではの苦労」は聞くけど、「イケメンならではの苦労」なんてぜんぜん聞かないもんなあ。

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値打ちこく

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2019年3月20日水曜日

【読書感想文】「人とはちがう特別な私」のための小説 / 村田 沙耶香『コンビニ人間』

コンビニ人間

村田 沙耶香

内容(e-honより)
「いらっしゃいませー!」お客様がたてる音に負けじと、私は叫ぶ。古倉恵子、コンビニバイト歴18年。彼氏なしの36歳。日々コンビニ食を食べ、夢の中でもレジを打ち、「店員」でいるときのみ世界の歯車になれる。ある日婚活目的の新入り男性・白羽がやってきて…。現代の実存を軽やかに問う第155回芥川賞受賞作。

聞くところによると、太宰治を好きな人は「太宰のこの気持ちを理解できるのは自分だけだろう」とおもうものらしい(ぼくはまったく感じなかったけど)。

「生きづらさ」を抱えている人の気持ちを的確に表現したのが太宰の魅力で、けれどそれは「自分では特別なものだとおもっているけれどわりと普遍的なもの」であって、だからこそ太宰は今も一定数の支持を集めている。

穂村弘氏のエッセイにも同じものを感じる。
そして、この『コンビニ人間』も同じ系統の小説だ。

多くの人が「自分だけが特別に苦しんでいる」とおもっていること(つまりほんとは特別でもなんでもない)を『コンビニ人間』は見事に作品化している。
「小鳥さんはね、お墓をつくって埋めてあげよう。ほら、皆も泣いてるよ。お友達が死んじゃって寂しいね。ね、かわいそうでしょう?」
「なんで? せっかく死んでるのに」
 私の疑問に、母は絶句した。
 私は、父と母とまだ小さい妹が、喜んで小鳥を食べているところしか想像できなかった。父は焼き鳥が好きだし、私と妹は唐揚げが大好きだ。公園にはいっぱいいるからたくさんとってかえればいいのに、何で食べないで埋めてしまうのか、私にはわからなかった。
 母は懸命に、「いい、小鳥さんは小さくて、かわいいでしょう? あっちでお墓を作って、皆でお花をお供えしてあげようね」と言い、結局その通りになったが、私には理解できなかった。皆口をそろえて小鳥がかわいそうだと言いながら、泣きじゃくってその辺の花の茎を引きちぎって殺している。「綺麗なお花。きっと小鳥さんも喜ぶよ」などと言っている光景が頭がおかしいように見えた。
ここまで人の気持ちがわからない人はめずらしいにしても、「人が悲しんでいるところで悲しめない」とか「自分にとってはあたりまえの疑問を口にしただけなのに非常識だと言われる」なんて経験は、多かれ少なかれ誰しも持っているだろう。

ぼくはおじいちゃんやおばあちゃんが死んだとき、ちっとも悲しくなかった。「そうか、もう会えないのか」とおもいつつも「まあ順番的には当然そうなるよね」というぐらい。
自分が中学二年生のときに三年生が卒業してもちっとも悲しくないのと同じだった。

ぼくの母は、花を飾ったり植えたりする人の気持ちがまったく理解できないといっていた。
でも植物を育てることは好きでサツマイモとかゴーヤとかの食べられる植物は育てている。
花を美しいと感じない、ただそれだけ。

そんなふうに、みんな「あたりまえの常識」とはちょっとずつちがう価値観を持っていきている。
その「ちょっとちがう部分」を『コンビニ人間』は巧みにくすぐってくれる。



 いつまでも就職をしないで、執拗といっていいほど同じ店でアルバイトをし続ける私に、家族はだんだんと不安になったようだが、そのころにはもう手遅れになっていた。
 なぜコンビニエンスストアでないといけないのか、普通の就職先ではだめなのか、私にもわからなかった。ただ、完璧なマニュアルがあって、「店員」になることはできても、マニュアルの外ではどうすれば普通の人間になれるのか、やはりさっぱりわからないままなのだった。
マニュアルに従うことの心地よさ、というのは少しわかる。

学生時代、家族経営のお好み焼き屋でアルバイトをした。ずっとなじむことができず、三ヶ月でやめてしまった。
「自分で考えて動け」と言われ、自分がこうだとおもう行動をとると「勝手なことをするな」と言われた。店の人は勤務中は厳しいのに、仕事が終わると妙になれなれしく「お父さんはどんな人なの」「慣れない一人暮らしで困ってることない?」と話しかけてきた。たぶんアルバイトのことも「家族同然」におもいたかったのだろう。ぼくにはそれが耐えられないぐらい居心地が悪かった。

その後でアルバイトをしたレンタルビデオ屋は、行動がすべてマニュアルで決まっていた。
返却作業、レジ、清掃、入荷や返品の処理。ひとつひとつにルールがあり、水曜日の20時になったらこれをする、と決まっていた。
マニュアルをおぼえるのはたいへんだったが、おぼえてしまうとすごくやりやすかった。
そして新たな発見があった。マニュアルに従ってやると、ふだんならできないこともできてしまうということだ。

お好み焼き屋でバイトをしていたときは「いらっしゃいませー!」と大きな声を出すのが恥ずかしかった。それはぼくがぼくだったから。
でもレンタルビデオ屋でマニュアルに沿って動いているときは「いらっしゃいませー!」がスムーズに言えた。気に入らない客にも笑顔で「ありがとうございました!」と頭を下げることもできた。自分ではない、"店員"という役になりきっていたからだろう。

ふだんは引っ込み思案な北島マヤがガラスの仮面をかぶることでどんな人物にもなれるように、マニュアルにしたがって行動することで店員らしいふるまいが自然とできるようになるのだ。
衣装を着てメイクをしたほうが役に入りやすいように、マニュアルがあったほうが店員になりやすい。
マニュアル通りの接客は人間の心が感じられないなどというが、むしろ心(みんなと同じ心)を持たない人に心を持たせてくれる装置がマニュアルなんじゃないだろうか。

社会の歯車になんかなりたくねえよ、という人もいるが、社会という機構のパーツとなることがむしろ心地いいひともいるのだ。
むしろそっちのほうが多数派なのかもしれない。



へそまがりなので話題になった本はあまり読まないのだけれど、『コンビニ人間』はすごく評判がよかったので読んでみた。


うん、おもしろい。
自分とはぜんぜんちがう人間なのに、ふしぎと共感できる。

「人とちがう特別な私」のための居場所をつくってくれるような小説だ。
この小説が芥川賞を受賞して売れている、ということこそが「人とちがう特別な私」は特別でもなんでもない、という証左なんだけどね。

「人とはちがう特別な私」であるぼくも、やっぱり共感した。
自分を特別扱いしたままで居場所を提供してもらえるんだから、こんな気持ちのいいことはない。


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2019年3月19日火曜日

【読書感想文】盗人にも三分の理 / 斉藤 章佳『万引き依存症』

万引き依存症

斉藤 章佳

内容(e-honより)
被害総額1日約13億円!なぜ繰り返す?どうすれば止められる?自分や家族が、いつかなるかもしれない。依存症の専門家が解き明かす、万引き依存の実態。

万引き依存症クリニックのスタッフとして依存症治療プログラムに携わっている著者による、万引き依存症の解説。

万引き依存症は病気なので刑罰より治療が必要だ、どんな人が万引き依存症になりやすいか、万引き依存症になるには家庭に問題があることが多いのでそっちを解決しないといけない……など。
 面白いことに、彼らが言うことはだいたい似通っています。一定のパターンがあるのです。次に挙げるのはクリニックに通院する人たちから聞いた認知の歪みのうち、何人もに共通するものをまとめたリストです。
  • どうせ買うつもりだったんだから、盗ってもいい・たくさん買っているんだから、ちょっとぐらいは盗っていいだろう
  • 私が万引きをするのは、ギャンブルをする夫のせいだ
  • レジが混んでいるから、お金を払わずに店を出よう
  • このお店は死角が多いレイアウトだから、盗ってしまう
  • お店の棚が、盗ってくださいと言わんばかりの配列だから万引きした
  • このお店は儲かっているのだから、少しぐらい盗っても許される
  • 今週は仕事でイヤなことがあったけどがんばったから、万引きしよう
  • 新商品や限定商品は買って使う前に試しておきたいから盗ってもいい
  • 今までたくさん買い物をしてお金を落としてきたから、今日ぐらいは盗んでもいい
  • もっとひどい万引きをやっている人もいるし、私が盗むぐらいはたいしたことない
  • 今月は出費が多かったから、盗むことで収支のバランスがとれるからいいだろう
  • ここのオーナーは、きっと私に万引きしてもらいたいに違いない
  • ここのGメンはぜんぜん見ていないから、少しぐらい盗んでもバレない
  • 私の人生、損ばかりだから盗っていい
  • バレたら、買い取ればいい
どれも被害店舗が聞けば卒倒しそうなほど、勝手な言い分ばかりです。彼らは心からそう思っているので、お店のバックヤードに連れていかれたとき、従業員を前にして大真面目に右のようなことを訴えます。
こんなことを主張する人間は、どう考えたってまともとはおもえない。たしかに治療が必要だとおもう。


ぼく自身は身近に万引き依存症の人がいないこともあって(知らないだけかもしれないが)「万引きをするやつなんてクズ」としかおもっていなかったが、この本を読んで万引き依存症への理解が深まった。

なるほどねえ、病気だから自分の意志だけじゃあどうにもならんもんなんだねえ……。

とおもいつつも、ぼくは言いたい。
「ふざけんな」

この本を読んだ後でも、「万引きをするやつなんてクズ」という気持ちに変わりはない。



この本には、万引き依存症はアルコール依存症やギャンブル依存症と同じ治療が必要な病気だと書かれている。

だがそこを一緒にしていいのか?
アルコールや公営ギャンブルはそれ自体が違法ではないので、ほどほどの距離をとってつきあう分には何の問題もない。
けれど万引きは規模の大小にかかわらず犯罪だ。しかも直接の被害者がいる。

アルコール依存症やギャンブル依存症の人には同情できる面もあるが、万引き依存症や痴漢依存症の人にはまったく同情できない(ちなみにこの著者は『男が痴漢になる理由』という本も書いている。未読)。

著者は万引き依存症の人に同情的だ。
支援プログラムをする立場からしたら当然かもしれない。
が、そのスタンスにどうも納得がいかない。

著者にも「たかが万引き」という意識があるんじゃないのか?

世の中にはストレスが溜まると通り魔をする人間がいる。見ず知らずの人をナイフで刺し、ときには命を奪う。
レイプ依存症としか言いようのない人間もいる。

そういう人間にも「通り魔依存症は病気なので刑罰より治療が必要だ」「レイプ依存症になるには家庭に問題があることが多いのでまずそっちを解決しないといけない」と言えるか?
通り魔に家族を殺された人がそんなたわごとを聞いたら、ふざけんなと激怒するだろう。

万引き依存症も同じだ。
著者の主張を聞いていると、まるで「彼らもある意味被害者なのです」と擁護しているようにおもえてしまう(そうは書いてないけどね。でもそう言われているようにおもえる)。
万引き依存症の人間は100%加害者だ。もう一度いう、100%加害者だ。

万引き依存症になる背景には、たしかに家族トラブルやストレスなどの他の原因があるのかもしれない。
だからといって罪が軽減されるわけではない。「手厚いサポート」をするとしてもそれはちゃんと刑を受けて罪を償った後の話だ。
「夫が横暴なので夫を刺してしまいました」ならまだ情状酌量の余地もあるかもしれないが「夫が横暴なので近所のスーパーで万引きしました」は、まともに取り合う理屈ではない(たとえ本人が本気でそう思いこんでいたとしても)。

「万引き依存症を放っておくと社会的コストが増すので治療させましょう」という主張には大いに納得できるけど、
「万引き依存症の人たちもまたさまざまな事情で苦しんでいるんです」には「知らんがな」としかおもわない。

被害店舗のことを考えたら「家庭に事情があるから」なんて弁護はとても口に出せないだろうに。



結局、万引きをくりかえす人間も、その治療をサポートする人にも「たかが万引きぐらい」という意識があるのだろう。

だから万引きは病気だから止められないと言いつつ、警察署に強盗に入ったりはしない。
ちゃんと「ここならバレない」「たかが万引き」「もし捕まっても万引きだったら刑罰も軽い」という計算がはたらいているのだ。

極端な話だけど、「万引き依存症だからどんなにやめようとおもっててもやっちゃうんです」と言っている人だって「盗みをはたらいたものは問答無用で腕を切り落とす刑に処す」だったらやらないとおもうんだよね。

刑罰が軽ければ病気だからやめられない、でも刑罰が重ければやらない。ずいぶん都合のよい病気でございますねえ、と嫌味のひとつも言いたくなる。



万引き依存症を止めるには、罪の厳罰化、万引きの通報コストを減らすことなどがいちばんだとおもう。

この本の巻末には、著者と万引きGメンの伊東ゆう氏との対談が掲載されている。正直いって、本文よりもこの対談のほうがよほど納得できた。
伊東ゆう氏は、万引きは加害側と被害側のバランスのとれていない犯罪だと語っている。

よほどの常習でないかぎりは起訴されない、精神病や認知症など他の症状があるとなおさら、起訴されても微罪、万引きを発見して捕まえるにもコストがかかる、捕まえて警察に通報すると現場検証などに数時間とられる。

これでは、数百円ぐらいのものを万引きされたぐらいだと「捕まえるより盗まれるほうがマシ」ということになってしまう。
しかし一件あたりの被害額は大きくなくても、積み重なれば大きな額になる。万引きが原因で倒産する店舗もある。万引き対策に費やすコストもばかにならない。

ぼくは書店で働いていたので、万引き対策のむずかしさはよく知っている。
毎日のように盗まれる。防ごうとおもえば人を増やすしかないが、そうすると人件費のほうが高くつく。

店側の負担をゼロに近づけた上で万引き犯をしょっぴけるようになるといいとつくづくおもう。
万引き依存症の人の気持ちに寄りそうサポートよりも「万引きが見つかったら盗んだものに関わらず50万円を店舗に払わせる法律」のほうが、万引きを減らすにはずっと有効だろう。

まあ万引きが減っても、万引きをくりかえしていたやつらは他の犯罪に向かうだけなんだろうけど。



ぼくがここに書いたようなことは、専門家である著者は当然わかっていることだろう。

万引き犯は身勝手な犯罪者で、万引きされた人のほうが百倍気の毒
そんなことは百も承知だろう。
自明なことだからわざわざ書かなかったのかもしれないけど、被害店舗の視点がほとんどないことにはやっぱり疑問を感じる。

加害者側の立場に立つことも必要だ、と主張しすぎているがために「めちゃくちゃ加害者寄りの本だな」とおもえてしまう。

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2019年3月18日月曜日

【読書感想文】アメリカ大統領も総理大臣も怒っている / 鷲田 清一・内田 樹『大人のいない国』

大人のいない国

鷲田 清一  内田 樹

内容(e-honより)
「こんな日本に誰がした」犯人捜しの語法でばかり社会を論じる人々、あらゆるものを費用対効果で考える消費者マインド、クレーマー体質…日本が幼児化を始めたターニング・ポイントはどこにあったのだろうか。知の巨人ふたりが、大人が消えつつある日本のいまを多層的に分析し、成熟への道しるべを示した瞠目の一冊。

哲学者で大阪大学の総長でもあった鷲田清一氏と、フランス文学者(というか思想家というか文筆家というか武道家というか)の内田樹氏の対談+二人がいろんなところに書いた文章の寄せ集め。
一応テーマは「大人のいない国」なのだが、あまりまとまりはない。ほとんど関係のない話も多い。

全体を貫く明確なテーマみたいなものはないんだけれど、まあそれでもいいじゃないか、という気もする。どんなことでも白か黒かではっきりさせようというのは"大人"の態度じゃない。

内田  相互依存ということをネガティヴな意味でとらえてますね。このあいだ、若い人に「折り合いをつけることの大切さ」を説いていたら、「それは妥協ということでしょう」と言われた。妥協したくないんだそうです。「妥協」と「和解」は違うよと言ったんですけれど、意味がわからないらしい。「交渉する」ということがいけないことだと思っている人がたくさんいますね。ストックフレーズ化した「正論」をべらべらしゃべることの達者な若者に、「ちょっとネゴしようよ」と言うと、「大人は汚い」とはねつけられる。自分たちだってもういい大人なのにね。彼らにしてみたら、自分は「正しい意見」を言っているのに、何が悲しくて「正しくない意見」と折り合わなきゃならないんだ、ということでしょうね。その理屈がわからない。「あなたがあなたの意見に固執している限り、あなたの意見はこの場では絶対に実現しないけれど、両方が折れたら、あなたの意見の四割くらいは実現するよ」と説明してみるんですけれど、どうもそれではいやらしい。自分の考えが部分的にでも実現することより、正論を言い続けて、話し合いが決裂することのほうがよいと思っている。
鷲田  何を恐れているんでしょうねえ。
内田  和解することと屈服することは違うのに。世の中には「操作する人間」と「される人間」の二種類しかいないと思っている。
鷲田さんと内田さんは「最近の日本には成熟した大人がいない」と嘆く。
こういう語り口は好きじゃない。「最近の日本は……」というだけで聞く気がなくなる。だったら成熟した市民がたくさんいた時代っていつのどこなんだ、何をもってそう断定できるんだ、と訊きたくなる(これはこの本の中で「日本人が劣化した」と主張する人に内田氏がぶつけるのとまったく同じ論理だ)。

まあそれはそれとして、白黒つけたい人が多いなあということはぼくも同感だ。
そんなに何もかもはっきりさせなくてもいいじゃないか、もっとあいまいでいいじゃないか、と。

政治を見ていてもそうだ。
まるで賛成か反対のどちらかしかないような言説が多い。
賛成だ、反対だ、だったら採決で決めよう。

政治ってそういうものじゃないでしょ。
多数決で決めるなら政治家いらない。今はインターネットでかんたんに投票できるんだから全部の法案を国民投票で決めればいい。

折り合わない意見をすりあわせてほどほどのところで調整をつけるのが政治だ。お互い納得いかないでしょうがこのへんで手を打ちましょう、と。


「水面下の交渉」が悪いものであるかのように言われるが、それもちがうとおもう。
水面下の交渉が良くないとされるのは報道機関の都合だ。自分たちの知らないところで物事が決まったら報道機関は商売あがったりだから非難するけど、それはきわめて健全なことだ。
ぼくらが家庭やサークルや仕事でルールを決めるときは投票なんかしない。話し合いや阿吽の呼吸で決める。家庭内で投票をしなきゃいけないとしたら、その時点でもうだいぶこじれてると考えていい。

国会で議題に上がる頃にはすでに事前の根回しによって大勢が決している、というのが本当の政治だとぼくはおもう。
国会で丁々発止の論戦、なんてのはパフォーマンスにすぎない。

社内の会議で「まだ何も決まっていません。さあ今からみんなで話し合って決めていきましょう!」と提案するのは、仕事ができないやつだ。
優秀な人間は会議がはじまる前に各方面にキーマンに話をつけて、大まかな道すじを作っておく。会議では最終的な確認と微調整だけ、ということが多い。これこそが政治だ。

「水面下での交渉」や「ほどほどのところでの調整」に長けた人を選ぶのが間接民主制における選挙だ
選挙は正しい人」を選ぶものではない。


本来、採決で決めるのは最終手段のはずなのに(そうじゃなかったら議会の意味がない)、どうもそれが唯一絶対の方法になっている気がしてならない。
「決をとるという行為は、一見個人の意思を尊重しているように思える。
 しかし!! 実は少数派の意志を抹殺する制度に他ならない!!」
ってトンパも言ってたじゃない(『HUNTER×HUNTER』より)。



この本の中では、「白黒はっきりつけないこと」「首尾一貫していないこと」「正解を決めないこと」の重要性がくりかえし語られている。
 今、結婚に際して多くの若者たちは「価値観が同一であること」を条件に揚げる。二人で愉快に遊び暮らすためにはそれでいいだろう。だが、それは親族の再生産にとっては無用の、ほとんど有害な条件であるということは言っておかなければならない。というのは、両親が同一の価値観、同一の規範意識を持っている完全に思想統制された家庭で育てられた子どもは、長じても教えられた価値観に整合する事象以外のすべてを「存在するはずのないもの」あるいは「存在してはならないもの」として意識から排除するようになるからである。
 スターリンや金正日の統治が非人間的であるのは彼らが「間違った社会理論」に基づいて社会を構築したからではない。「正しい唯一の社会理論」に基づいて社会を構築したからである。そこでは、公式の価値観に整合しないもの(例えば支配者に対する異議申し立て)は「存在しないもの」として無視されるか、「存在してはならないもの」として排除される。
上に引用した文章は内田さんのものだが、鷲田さんも「対立の外に身を置く」ことの重要性を説いている。


うちの娘(五歳)と話していると、物事をすごくシンプルに理解したいんだなあと感じる。
「絵本に出てくるこの人はいい人?」「あれは悪いことだよね」「この前は〇〇だと言ってたじゃない」と。

でも、フィクションの中ならともかく、現実はたいていそうシンプルではない。
いい人が悪いことをすることもあるし、その逆もある。良かれとおもってやったことが悪い結果を招くこともある。時と場合によって同じ人がまったく正反対のことを言うときもある。

五歳には「清濁併せ呑む」なんて芸当がないから、物事をなんとかシンプルに切り分けて理解しようとしているんだろう。

なんでも単純化してしまうのは五歳だけじゃない。大人にも多い。
議論になるような出来事は、清濁併せもっている。戦争も原発も自衛隊も死刑も増税も医療も介護も、みんなメリットデメリットがある。

自宅の前に原発つくるって話なら原発稼働に反対するし、毎日停電が起きますよって言われたら原発稼働停止はちょっと待ってよっておもう。
それで「さあ原発稼働に賛成ですか、反対ですか、どっちか一方に決めてください」といわれても困ってしまう。
明確に割り切れるものならそもそも議論にならない。「タバコのポイ捨て、あなたは賛成ですか? 反対ですか?」と訊かないでしょ。

ゼロか百かしかないのはきわめて幼稚で、大人のふるまいじゃない。
だから新聞社やテレビ局はまず「現政権を支持しますか? その理由を次の中から選んでください」っていう単純な世論調査をやめたらいいとおもう。
あれで明らかになるのは子どもの意見だけだから。



子どもと大人のいちばんの違いは、自分の感情をいかにコントロールできるかという点だとぼくはおもう。

以下、内田さんの文章。
 だけど、ものすごく怒っている人がいると、その人にはきっと怒るだけの確かな根拠があるんだろうと思ってしまう。だから、とりあえず自分は黙っても、その人の言い分を聞こうということになる。
 なぜ怒っている人間の言うことをとりあえず聞くかというと、怒っている人間というのは集団にとってのリスク・ファクターだからです。
 怒り狂って我を忘れている人間というのは、とんでもない行動をする恐れがある。公共の福利を損なうような行為を怒りにまかせてしてしまう可能性がある。だから、ものすごく怒っている人間がいた場合は、とりあえずその人の怒りを鎮めるということが集団での最優先課題になる。誰かが怒り出したら、とりあえずほかの仕事はストップして、その人の怒りを鎮めることに優先的に資源を分配しようということになる。考えてみれば当然なんです。でも、みんなそれに味をしめてしまった。とにかくはげしく怒ってみせれば、みんなが自分を気づかってくれる。そういうふうにみんなが思い出した。だから、「誰がいちばん怒っているか」競争になってしまった。政治家だけじゃないです、テレビのコメンテーターとか、新聞の論説委員でも、「切れた」人の発言がとりあえず傾聴される。みんな怒りを政治的に利用しようとしているから怒りの連鎖が止らない。
これねえ。なんとかならんもんか。
怒りをあらわにするって、いちばん子どもっぽいふるまいじゃないですか。

うちの幼児なんか、毎日めちゃくちゃ怒ってますよ。

風呂に入れと言われたら「今入ろうとしてたのに!」と怒り、脱いだ服を洗濯カゴまで持って行けと言われたら「わかってる!」と怒り、そろそろ帰ろうと言われたら「いやだ!」と怒り、腹が減っては怒り、眠くなっては怒り、「眠いんだから早く寝ようね」と言われては「眠くない!」と怒っている。

ふつうの口調で言えばいいのに、全部怒る。怒ることで話を聞いてもらおうとする。
だからぼくも妻も、娘が怒っているときは放置する。無視して他の話をする。
「怒ることで他人をコントロール」しようとしても無駄だと教えるために。他人に要求を伝えたいのなら、むしろ落ち着いた語り口を採用しなければならない。

なのに、政治家や記者など「立派な立場」とされるポジションにある人が子どものように怒っている。
それも「私を侮辱するのか!」とかしょうもない理由で。それって幼児の「わかってるのに言わんといて!」と同じレベルだよ。
失礼な態度をとられたら、より慇懃に接するのが大人のふるまいだろうに。

ぼくが前いた会社の社長もこういう人だった。
どうでもいいことでスイッチが入っていきなりキレる人。
そうすると周囲の人は「あの人はやっかいものだから慎重に扱おう」と接する。それを本人は「大事に扱われている」と勘違いしちゃうんだろうなあ。爆弾を慎重に扱うのは爆弾に敬意を持っているからじゃないのに。


ぼくは、すぐ怒る人のことをばかだとおもっている。知性的な人間はそうそう怒らない。ほんとうに怒っているときこそそれを表に出さない。

成熟した大人の数は昔も今も少なかったんだろうけど、昔はまだ「怒りをあらわにするやつはばかだ」という認識が知識層の間にはあったんじゃないかな。
だからこそ「バカヤロー解散」なんてのが名前として残っているんだろう。総理大臣なのに感情的になったぜ、あいつばかだぜ、ってことでああいう名前をつけたんじゃないのか。

だけど今はえらい人がすぐ怒る。
アメリカ大統領も総理大臣も怒っている。「戦略的に怒ったふりをしてみせる」とかじゃなく、ただ怒りをあらわにしている。

こういう非知性的なふるまいが許容されているのはよくない。
ばかなことをしている人は、ちゃんとばかにしなければいけない。

感情のおもむくままに怒っている人はスーパーの床にころがって駄々をこねている幼児といっしょなのだから、ちゃんと言ってあげないといけない。
「そんなこという子はうちの子じゃありません!」

2019年3月15日金曜日

【読書感想文】おもしろすぎるので警戒が必要な本 / 橘 玲『もっと言ってはいけない』

もっと言ってはいけない

橘 玲

内容(e-honより)
この社会は残酷で不愉快な真実に満ちている。「日本人の3人に1人は日本語が読めない」「日本人は世界一“自己家畜化”された民族」「学力、年収、老後の生活まで遺伝が影響する」「男は極端、女は平均を好む」「言語が乏しいと保守化する」「日本が華僑に侵されない真相」「東アジアにうつ病が多い理由」「現代で幸福を感じにくい訳」…人気作家がタブーを明かしたベストセラー『言ってはいけない』がパワーアップして帰還!
博識の人のとりとめのないおしゃべりを聞いているという感じ。
話のひとつひとつはすごくおもしろい。
でも全体として見ると少し散漫。
「いろんな本のおもしろいところを紹介するブックガイド」として読んだらすごくいい本だとおもう。


「知能は遺伝子によってある程度決まる。人種によって知能は(平均で見ると)違う」
というのが全体を通しての主張なのだが、そのあたりのことは前作『言ってはいけない』にも十分書いてあったので、『言ってはいけない』を読んだ人にとってはさして驚きはない。
まあそりゃ人種によってばらつきはあるだろうね。肌の色だって身長だってちがうんだから、知能だけが同じなはずがない。

ただ「日本人(を含む東アジア人)は知能が高い傾向にある」ってのは事実でも、「日本人はみんな優秀」は事実ではない
でも、そこをごっちゃにしてしまう人は決して少なくない(これこそが日本人みんなが知能が高いわけではないことの証左だ)。

だから、橘さんの言っていることは間違いではないんだけど「すごく誤解を招きやすいこと」を言っている。
橘さん自身は自分の発言が誤解を招くこともわかってて言ってるんだろうけど、あえて誤解の招きやすいことを言う手法にはちょっと疑問も感じてしまう。

読解力がなくて誤解したほうが悪いんだけど、「読解力の低い人が誤解するであろうこと」を強い口調で語るのもどうなんだろう。
ガソリンを撒いておいて「悪いのは火をつけたやつでしょ。火をつけるやつがいなければ火事にはなりませんよ」と言うようなもので。

まあこの人の場合はずっとそういう露悪的な立ち位置で商売しているわけだし、それがおもしろいんだけどさ。



『言ってはいけない』でも述べたが、行動遺伝学が発見した「不都合な真実」とは、知能や性格、精神疾患などの遺伝率が一般に思われているよりもずっと高いことではなく(これは多くのひとが気づいていた)、ほとんどの領域で共有環境(子育て)の影響が計測できないほど小さいことだ。――音楽や数学、スポーツなどの「才能」だけでなく、外交性、協調性などの性格でも共有環境の寄与度はゼロで、子どもが親に似ているのは同じ遺伝子を受け継いでいるからだ。
 ところが子育ての大切さを説くひとたちは、親の努力によって子どもの運命が決まるかのような主張をする。これがほんとうだとすれば、子育てに成功した親は気分がいいだろうが、「失敗」した親は罰せられることになる。
 どんな子どもも親が「正しい教育」をすれば輝けるなら、子どもが輝けないのは親の責任だ。「犯罪が遺伝する」ことがあり得ないなら、子どもが犯罪者になるのは子育てが悪いからだ――という理屈もいまでは「言ってはいけない」ことになったので、「社会が悪い」となった。「人権」を振りかざす〝自称〟リベラルが目指すのは、「努力が報われる」遺伝率ゼロの世界なのだ。
このへんの話はすごくおもしろかった。

ふうむ。
「人間はみんな生まれたときは同じ能力を持っている」という主張は一見平等なように見えるけど、「あなたが成功しなかったのはあなたやあなたの親に責任がある」という"完全自己責任論"にもつながりやすい。

「どんな親から生まれたかによってあなたが成功するかどうかはある程度決まっている」というのは残酷なようで、「だったら成功する確率が低い人には手厚いサポートを」という議論につながる。
身体の弱い人に対するサポートがあるように、生まれつき知能の低い人もサポートするわけだ。

「誰でもやればできるさ」は、誰にでもチャンスを認めているようで、じつはかなり残酷な主張だ。それって「できないのはやらなかったから」の裏返しなのだから。

仮にぼくが小さいときから血の出るような努力をしてきたとしても、100メートル9秒台で走れなかっただろう。
それを桐生祥秀選手に「おれは努力したおかげで9.98秒で走れた。おまえが走れなかったのは努力が足りなかったからだ」と言われたらたまったものではない。

しかし教育の場ではわりと日常的にこういう論旨がまかりとおっている。
才能の無い分野で努力するよりは、早めに見切りをつけて自分にあった道を探したほうがいい。
そして残酷なようだけど「どんな分野にも才能のない人」が存在することは認めなければならない。
「人間誰しもどこかしら優れたところはあるんだ」というきれいごとは耳あたりがいいけれど、それこそが人を苦しめる。



本筋とはあんまり関係がないけれど、「人類水生生活説」はなるほどとおもった。
 海洋生物学者のハーディーは、「陸生の大型哺乳類のなかで、皮膚の下に脂肪を蓄えているのは人類だけだ」との記述を読んで、アシカやクジラ、カバなど水生哺乳類はみな皮下脂肪をもっていることに気づいた。だとしたら人類も、過去に水生生活をしていたのではないか。
 このアイデア(コロンブスの卵)を知ったモーガンは、アクア説ならさまざまな謎が一気に解けることに驚いた。
 人類が二足歩行に移行したのは、四つ足で水のなかに入っていくよりも、直立したほうが水深の深いところで息ができるからだ(それに、水の浮力が上半身を支えてくれるから倒れない)。鼻が高く、鼻の穴が下向きなのも、水にもぐるときに都合がいいからだ。体毛がないのはそのほうが水中で動きやすいからで、皮下脂肪を蓄えれば冷たい水のなかでも生活できるし、水に浮きやすくなって動きもスムーズになる。
そういや手塚治虫のなんかの漫画でも似たようなことが描いてあったなあ。
人間は身体的に弱いから、水辺に棲んで敵が来たときは水中に逃げるしかなかった。水中では二足歩行のほうが暮らしやすい。浮力があるし、顔を水上に出さなくてはいけない。赤ちゃんがおぼれないようにするためには手でだっこしなくてはならない。こうして手が発達して、道具を生みだせるようになり……。

これはあくまでひとつの説なので正しいかどうかはわからないけど、納得のいく説ではある。
風呂に入ると気持ちいいのも、水のなかで暮らしていたときの記憶があるからかも……。



人類が(他の哺乳類よりも)攻撃的でない理由、の仮説。
 なぜ人類は、身体的な強さが権力と直結しないように進化したのだろうか。
 ボームの慧眼は、石槍は獲物を倒したり外敵と戦うときのためだけに役立つのではないと気づいたことだ。いまならオモチャにしか思えないかもしれないが、打製石器は人類の歴史では大量破壊兵器に匹敵するイノベーションだった。ひとたびそれを手にすれば、ひ弱な人間も集団でマンモスをしとめることができる。だとすれば、共同体のなかのひ弱なメンバーが身体の大きなボスを殺すのはもっとかんたんだったはずだ。
 こうして旧石器時代の人類は、共同体の全員が大量破壊兵器(打製石器)を保有し、「いつでも好きな時に気に入らない相手を殺すことができる」社会で生き延びなければならなくなった。
だから人類は平等な社会を築くようになったし、徒党を組むために言語や高い知能が必要になった……と続く。
自己中心的な人間や暴力的な人間は殺されたり、排斥されたりして、そうした遺伝子は淘汰された、という考え方だ。

核抑止論とか、アメリカ人が好きな「銃があるからこそ平和が保たれる」みたいな話だね。
逆説的だけど、強力な武器があるからこそ平和的にふるまわなくてはならない。

しかしこれが正しいとしても、平和的な社会というのは裏返せば暴力的な人が得をする社会だ。
周囲がみんな争いを好まず、自分だけが戦闘的であれば、反撃に遭うことなく他人の資源を奪うことができるわけだから。詐欺師にとって「みんながお人好しの世の中」が暮らしやすい世の中であるように。
だから、平和的な社会になったとしても攻撃的な人は一定数存在する。

ということで「平均的に見ると平和と平等を愛する人類」なのかもしれないけど、それは「人類はみんな平和と平等を愛する」とイコールではないんだよねえ。



さまざまな言説をものすごいスピードでどんどん紹介してくのは、刺激的でおもしろい。圧倒的な読書量、そしてわかりやすくかみくだいて説明する力。これだけのことができる人はそう多くない。
全盛期の立花隆氏のようだ。

ただ、橘さんが自分の見解や仮説を述べるあたりは、ちょっと暴走しすぎかなあと眉に唾をつけたくなることが多い。話としてはおもしろいんだけど、話半分に聞いておかないと。
おもしろすぎるので警戒が必要な本、だよなあ。

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2019年3月13日水曜日

【読書感想文】どうして絶滅させちゃいけないの / M・R・オコナー『絶滅できない動物たち』

絶滅できない動物たち

自然と科学の間で繰り広げられる大いなるジレンマ

M・R・オコナー (著), 大下 英津子 (翻訳)

内容(e-honより)
厳重に「保護」された滅菌室にしか存在しないカエル、周囲を軍に囲まれて暮らすキタシロサイ、絶滅させられた張本人にDNAから「復元」されつつあるリョコウバト……。人が介入すればするほど、「自然」から遠ざかっていく、自然保護と種の再生テクノロジーの矛盾を、コロンビア大学が生んだ気鋭のジャーナリストが暴く。

動物が絶滅、と聞くと反射的に「良くない!」と思ってしまう。なんとか食いとめなければ、どんな手を使ってでも保護しなければ、と。
だがこの本の著者は問いかける。「それってほんとに必要なことなの?」

どうして動物を絶滅から守らなくちゃいけないんだろう……。



著者は「生物が絶滅してもいい」と主張しているわけではない。
ただ、絶滅しそうな動物を隔離して保護したり、DNAを保存したりして「絶滅を防ぐ」ことに疑問を呈している。
それって絶滅を防ぐことになるの? それで何かをやった気になるだけじゃないの? それよりもっとやるべきことがあるんじゃないの?

たとえば、動物を絶滅から防ぐために人間の飼育下におくことで、かえって環境に適応できなくなってしまうことを挙げている。
 「箱舟」もいつも効果を発揮するわけではない。遺伝的適応度(生殖可能年齢まで生きのびた個体が産んだ子の数によって測定)の損失の発生は、飼育下繁殖の個体群では早く、数世代で生じて子孫が途絶える確率が高い。飼育されている状態だと個体群内部で形質の選択が行われ、この環境下の生存率は上昇するが、野生の生存率は上がらない。とはいえ、そもそもこれらの生物が自然に戻されることがあれば、の話だが。
 大半の飼育下繁殖プログラムの目的は、動物を再導入することだが、飼育下繁殖の動物が、実際に自立した、つまり「野生に」戻ったケースは数えるほどしかない。アメリカシロヅルは、今でも人間のパイロットから移動のしかたを教わらなければならない。両生類になると再導入の成功率は格段に下がる。ある調査では、飼育下繁殖ののちに再導入された58種のうち無事に野生環境で成長したのは18種、そのうち自立できたのは13種だった。
 もっと言えば、飼育下繁殖プログラムで育てた110種のうち、52種はそもそも再導入の予定がなかった。これらの種が生息していた生態系がなくなってしまったのだ。動物を生まれ育った場所で保全する生息域内保全という方法の支持者は、再導入の予定なしに飼育下繁殖を行うことこそが飼育下繁殖において最も致命的だという。絶滅のリスクをできるだけ減らそうとするあまり、環境よりも動物を救うことが主眼になっている。
たとえばカイコガは、長い期間人間によって絹を生産するために飼われてきたため、今では自然界で生きていくことができない。
飼育という環境に適応した結果、自分で餌をとったり敵から逃げたりできなくなったためだ。
佐渡トキ保護センターのような保護施設をつくっても、もともと持っていた性質を失った動物を増やすだけだ。

保護センターの中でしか生きられないのであれば、はたして絶滅から救ったといえるのだろうか。



さらに最近では、動物そのものを保護するのではなく、絶滅しそうな動物のDNA情報だけを保存しておく方法もとられている。
だが、動物の行動はDNAだけで決まるのではない。
 一方、20年以上、飼育下繁殖しているアララが産んだ卵は、巣から取りだされて、確実にひなが孵るようにと保育器に移される。2013年までは、最初の雌は自分で卵を孵化させてひなを育てることが許されたが、現存しているアララについては、抱卵、孵化、飼育を人間が一手に担っている。その結果、アララの文化が一変したという証拠がある。かつては世代間で継承されてきたアララ特有の行動が消滅したのだ。発声のレパートリーは減った。1990年代に飼育下繁殖のアララを自然に還そうと試みたが、ハワイノスリの避けかたがわからなかったらしい。かつては仲間と結束して戦っていたというのに。また、すっかり人間に慣れてしまって自分で餌を探さなくなった。習性を失ってしまったために、野生で生きていくのは不利になるおそれがあった。

もしも地球が爆発して人間が絶滅することになったとする。
そこで、とんでもない技術を持った宇宙人が、人間すべてのDNAを保存する。さらに地球そっくりな環境の星をつくりなおし、保存したDNAをもとに人間を復活させたとする。

復活した人間たちは今と同じ生活を送れるか?
当然ながら答えはノーだ。
言語も文化も知識もすべて失われる。遺伝子には組み込まれていないから。
現代の生活はおろか、狩猟や採集すらできない。ほとんどの人間は生きていくことすらできないだろう。

動物だって同じだ。
DNAの冷凍保存では、非言語的コミュニケーションによって種の間に伝えられていることまで残せない。
そうやって復活させた動物は、復活前と同じものとはいえないだろう。



『絶滅できない動物たち』は話があっちこっちにいくので論旨は決して明快ではないのだが、著者の主張は
「絶滅を防ぐことに意味がないとはいわないが、生きていればいいというものではない、DNAを残せばいいというものではない」
ということだとぼくは受け取った。

絶滅寸前の動物の遺伝子を冷凍保存して未来に残すことは、それ自体が悪ではないけれど、そのせいで「今生きている動物の棲息環境を守る」ことがなおざりにされているのではないだろうか。

だが、棲息環境を守るのはDNAを保存することよりもずっとたいへんだ。なぜなら、われわれの暮らしが制限されるから。
ぼくらは「トキ保護センターをつくります」には同意できても、「トキが棲みやすくするため、あなたはこの土地から出ていってください」には同意できない。
「動物を絶滅から防ごう!」に共感できるのは、「自分に関係のないところでどっかの誰かがやるのはいいよ」と思っているからで、自分の暮らしを犠牲にしてまで守りたいとは思っていないのだ。

結局、「絶滅しそうだからなんとかしなきゃ」ってなった時点で、もうどうしようもないんだろうね。
環境は元に戻せないもの。


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2019年3月12日火曜日

【読書感想文】スリルを楽しめる人 / 内田 幹樹『機長からアナウンス』

機長からアナウンス

内田 幹樹

内容(e-honより)
旅客機機長と言えば、誰もが憧れる職業だが、華やかなスチュワーデスとは違い、彼らの素顔はほとんど明かされない。ならばと元機長の作家が、とっておきの話を披露してくれました。スチュワーデスとの気になる関係、離着陸が難しい空港、UFOに遭遇した体験、ジェットコースターに乗っても全く怖くないこと、さらに健康診断や給料の話まで―本音で語った、楽しいエピソード集。
元・全日空のパイロットによるエッセイ集。
(一応この本の中では「A社」と伏せられているけど、「A社とJALの違いは……」とか書かれていて伏せている意味がまったくない)。

内容紹介文には「旅客機機長と言えば、誰もが憧れる職業」とあるが、少なくともぼくはぜったいにやりたくない職業だ(できないだろうが)。
高いところは嫌いだし、速い乗り物は嫌いだし、車の運転も嫌いだし、睡眠時間はたっぷりほしいし、決断力はないし、責任感もないしで、なにひとつパイロットに向いている要素がないからだ。

だからこそ、こういう本を読むと自分とはまったくちがう人の考え方にふれられるわけで、おもしろい。
 着陸は離陸に比べておもしろい。
 天気の良いときも悪いときもそれなりにおもしろいのだ。たとえば風の強い日、春一番なんて最悪だ。スピード計の針は暴れ回るし、降下率も一定になりきらない。機の姿勢はあおられて定まらず、コースからはすぐに外れる。こんなときは暴れ馬に乗っている気分になる。
 ある程度暴れさせておいて、ズレそうになったら、そっち側を手綱の代わりに舵で押さえる。躊躇するような気配があったら、すかさず拍車の代わりにパワーを当てる。これが上手くいくとたまらなくおもしろい。雨や雪、霧などもそうだ。計器のほんの少しの動きも見逃さず、張り付いたように指示を追いかける。パワーもスピードも機の姿勢にも、一瞬たりとも隙を与えない。目と耳と手と尻とに全神経を集中させる。
スリルを楽しめる人がパイロットに向いてるんだろうな。ぼくなんか臆病だから「今日天気悪いんで出航やめにしませんか」とか言っちゃいそうだもん。

この本の中には「パイロットにはバイクを趣味にしている人が多い」と書いているが、そうだろうなあ。バイク乗りもこういうスリルを楽しめる人だろう。
安全第一主義のぼくにはまったく理解できない。すごいなあとただただ感心するばかり。



V1速度について。
V1速度というのは離陸時の臨界速度のことで、「これより前ならば離陸は中止できるが、これを超えると飛び上がるしかないという、いわゆる離陸直前の決心をしなければならない速度」のことらしい。
 V1速度は天気が悪いときとか、風向きが悪いとか、雪で滑走路が滑りやすいとか、そうした悪条件の場合には路面の摩擦係数を測定し、それに基づいて計算されている。実際のケースで、ほんとうにブレーキの摩擦計算が理論通りになるかというと、これが一○○パーセントとは誰にも言えない。そこは経験を積むことによって、さまざまなケースを頭に入れて操縦する。
 臨界速度直前でトラブルが発生した場合、そのあたりの判断がいちばん難しい。エンジン関係のトラブルなら離陸を中止するが、ブレーキ関係のトラブルなら離陸を続行するという具合だ。なにしろ時速二五〇から二六○キロ前後の速度で前を見ながら計器を見て、一秒の何分の一かで認して、判断して操作するのだから。パイロットは離陸滑走中、スロットル(出力レバー)に手を添えている。これはパワーを出すためではなく、不具合が発生した場合にいつでもパワーを絞ることができるようにするためなのだ。V1を超えて、はじめて絞る必要のなくなったレバーから手を離すことができる。
ひゃあ。
こんなの、ぼくにはぜったいむりだ。
車を運転していても「えっ、今のところ右折だったのか、えっ、まずい、どうしよう、まだいけるか、もうむりか、あっ、あっ」みたいな感じで不本意な直進をしてしまうのに。

しかしブレーキにトラブルが起こっていても離陸しちゃうのかあ。おっそろしいなあ。一度スピードに乗ってしまったらもう飛び立つしかないんだもんなあ。
「エンジンが一発壊れたぐらいでは、離陸してしまったほうが問題がない」とも書いていて、理屈としてはそうなのかもしれないけど、こういうのを読むとますます飛行機に乗りたくなくなる。
今度飛行機に乗るときは「この飛行機、もしかしたらブレーキやエンジンが壊れてるのかかもしれないんだよなあ」と考えてしまいそうだ……。
知らなきゃよかった。



コーパイ(=コーパイロット。副操縦士)の運転の話。
 当然のことだが最終的な決断と権限はつねに機長が持っている。
 実際の飛ばし方自体は、ちゃんと訓練をしているわけだから、コーパイが飛ばしてもキャプテンが飛ばしても、それほどの差にはならない。むしろ、若くてやる気じゅうぶんのコーパイのほうが、キャブテンより部分的にはうまいなどということもある。
 ただ、これはあくまでも技量だけの問題であって、総合的な判断能力のことではない。その意味でいうと、考え方によっては天気が悪い日はコーパイにやらせたほうが安全だということがある。
 というのは、キャプテンは自分が操縦していると、操縦自体に神経を集中させてしまうから、逆に、それ以外の状況の見定めが甘くなる可能性があるからだ。たとえばある種の自信から「俺はまだ大丈夫、まだ大丈夫」と、逆にどんどん気持ちが入っていく。管制からの情報と自分がイメージする情報が違っていても、「もう少し先に行けば元に戻るだろう」「自分ならばできるだろう」という意識が出る。実際、その読みが当たることは多いが、そうならなかった場合は危険に近づくことになりかねない。
 コーパイが操縦していた場合、キャプテンとしてはその操縦を見ていればいいわけで、他のことに気を配る余裕が出てくる。しかも危ないと思ったらすぐにやり直しを要求できるし、コーパイは機長のオーダーに間髪を入れず従ってくれる。

もちろん飛行機の運転のことはよくわからないけど、「コーパイにやらせたほうが安全」というのはよくわかる。

ぼくは、仕事をする上で「これは誰かに任せるより自分でやったほうが早いわ」と考えて、自分でやってしまうことが多かった。
でも最近では、積極的に若い人に仕事を振っている。
そして気づいたのは、自分でやらないほうが格段に視野が広がるということ。

自分でやったことだと「せっかくここまでやったのだから」とか「成果が悪くなってきたけどなんとか持ちなおしてくれるはず!」とか、判断に"もったいない"や"願望"といった感情が入ってしまう。時間をかけてやったことほど特に。
どうでもいいことなら、そういう"お気持ち"も大事にしないといけないんだけど、成果がシビアに数字で見える仕事であれば早めに冷静な判断を下さなければならない。

だから「実行する人」と「チェックする人」はべつにしておいたほうがいい。
経験の浅い人に仕事をやらせるってのは、経験を積ませるだけじゃなく、冷静な判断をするためにも重要だね。



こういう「ちょっとめずらしい職業についている人が語る」業界ものエッセイって、たいてい下世話な暴露話が多いんだけど、『機長からアナウンス』は終始落ちついた語り口で、品がある。

ほんとに機長のアナウンス、という感じでその上品さがかえって新鮮だった。

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2019年3月8日金曜日

【読書感想文】まるで判例を読んでいるよう / 薬丸 岳『Aではない君と』

Aではない君と

薬丸 岳

内容(e-honより)
あの晩、あの電話に出ていたら。同級生の殺人容疑で十四歳の息子・翼が逮捕された。親や弁護士の問いに口を閉ざす翼は事件の直前、父親に電話をかけていた。真相は語られないまま、親子は少年審判の日を迎えるが。少年犯罪に向き合ってきた著者の一つの到達点にして真摯な眼差しが胸を打つ吉川文学新人賞受賞作。

乱歩賞作家の作品なので、ずっとミステリかと思って読んでいた。
あれ、ぜんぜん意外性のない結末だな、とおもったらどこにもミステリとは書いてなかった。ぼくが勝手に勘違いしていただけだった。
「乱歩賞作家の書いたものだからミステリだ」と無条件に信じてしまう、思いこみとはおそろしい。

思いこみといえば、少年犯罪といえば「手の付けられない不良少年」か「快楽殺人者的な精神のねじまがった少年」がやるもの、という思いこみがある。
たぶんぼくだけではないだろう。「少年院に行っていた」と聞くと、ほとんどの人は相手と距離をおくと思う。

『Aではない君と』では、主人公である会社員男性の息子が殺人犯として逮捕される。
デビュー作『天使のナイフ』では被害者の遺族の苦悩を描いていた薬丸岳氏だが、本書は加害者の家族がストーリーの中心。
ある日殺人犯の家族になったら……。

ぼくも人の親として、考えずにはいられない。自分の子が誰かを殺してしまったら。殺されてしまったら。
あれこれ考えたけど、答えは……わからん!

そんなものなってみないとわからんと言うしかない。たぶん「そんなこと考えたくない」という気持ちが強すぎて、想像力がうまくはたらかないのだろう。
殺人なんて遠い世界の出来事と思っていないと、とても子育てなんてできやしない。「ひょっとしたらうちの子が人殺しになるかも」なんて考えてたら、誰も子ども生まないよ。

『Aではない君と』は綿密な取材に基いて丁寧に書かれた小説だけど、どれだけ現実に即した描写があっても別世界のファンタジーとしか思えない。題材が重たすぎて。子どもがいるからこそ、余計に。



『Aではない君と』に現実感がないのは、登場人物がまっすぐすぎるからでもある。
同級生を殺した中学生の翼には反抗期のかけらも見られないし(人は殺すけど親の前ではすごくいい子)、主人公(父親)はとにかく責任感が強くて、真摯に自分のかつての行動を反省している。
人間、そんなにまっすぐに自分の過去を反省できるもんかね?
他人のせいにしたり、世の中のせいにしたり、運が悪かっただけだと嘆いたり、おかれた状況から逃げたしたいと思ったりするもんじゃないだろうか?
この主人公にはぜんぜんそういう思考が見られない。ただひたすらに「自分がもっと息子と向き合えばよかった」と反省している。

人間ってもっと身勝手なもんだと思うよ。そうじゃなかったら、「息子が人を殺した」という現実の前では心がつぶれてしまうんじゃないかな。
そりゃあ自制心が強くて他人のせいにせず頑強なメンタルの持ち主だってどこかにはいるかもしれんが、そんな人が離婚して子どもを捨てるかね?

少年犯罪の司法制度のことなんかは事細かに描写しているのに、人物描写が単調なせいで小説としてはずいぶん平板な印象。
まるで判例を読んでいるようで、重厚なテーマの割には感情を揺さぶってくれる小説ではなかったな。

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2019年3月7日木曜日

【読書感想文】まったくもつれない展開 / 井上 夢人『もつれっぱなし』

もつれっぱなし

井上 夢人

内容(e-honより)
「…あたしね」「うん」「宇宙人みつけたの」「…」。男女の会話だけで構成される6篇の連作編篇集。宇宙人、四十四年後、呪い、狼男、幽霊、嘘。厄介な話を証明しようとするものの、ことごとく男女の会話はもつれにもつれ―。エンタテインメントの新境地を拓きつづけた著者の、圧倒的小説世界の到達点。

そういや井上夢人氏の小説を読むのはこれがはじめて。でも学生時代、岡嶋二人(井上夢人が組んでいたコンビ)のミステリはよく読んでいた。
岡嶋二人作品って常に一定の水準を保っているんだけど、すごく印象に残る作品もないんだよなあ。常に七十五点ぐらいのミステリだったなあ。個人的には。

で、『もつれっぱなし』なんだけど、やはり印象に残らない作品集だった。
六篇とも男女の会話だけで構成され、いわゆる地の分は一切ない。会話だけなのでさくさく読める。「説明くさいセリフ」のような不自然さはなく、じつにうまい。
ほんとうはすごくむずかいしことをやっているのに、苦労の跡も見せずにさらりと男女の関係性や状況を説明してみせている。

ただ、ストーリー展開がすごく単調だった。
『もつれっぱなし』というタイトルだから、どんな意外な展開になるのかと思いきや、「こうなるのかな」と予想したとおりに話は進んでいく。
本筋と関係のない会話がときおり差しこまれるから「これがなにかの伏線なのかな?」と思いながら最後まで読むが、何の伏線でもない。

んー……。これ、なにが『もつれっぱなし』なんだろう?
「二人の主張がはじめはかみあわないが、だんだん理解してもらえるようになる」という話ばかりで、ちっとももつれてない。


ラーメンズに『不透明な会話』というコントがある。
コントではあるが動きはほとんどなく、ほぼ会話のみで成り立っている。
うまくいいくるめて間違ったことを相手に納得させたり、へりくつを並べたり、意図がまったく伝わらなかったり、いつのまにか立場が入れ替わっていたり、これぞ「もつれっぱなし」という感じがする。
(ぜひ一度観ていただいたい)


それに比べると井上夢人『もつれっぱなし』は、ずいぶん単調な話だった。タイトルのせいでこちらが過剰に期待してしまったのかもしれないけど。

とはいえ、最後の『嘘の証明』は終盤で意外な事実が明らかになる構成で、ぼくはまんまと騙された。
会話のみで描写がないからこそ成立するトリックだしね。
これだけは満足できるクオリティだった。

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