2019年3月13日水曜日

【読書感想文】どうして絶滅させちゃいけないの / M・R・オコナー『絶滅できない動物たち』

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絶滅できない動物たち

自然と科学の間で繰り広げられる大いなるジレンマ

M・R・オコナー (著), 大下 英津子 (翻訳)

内容(e-honより)
厳重に「保護」された滅菌室にしか存在しないカエル、周囲を軍に囲まれて暮らすキタシロサイ、絶滅させられた張本人にDNAから「復元」されつつあるリョコウバト……。人が介入すればするほど、「自然」から遠ざかっていく、自然保護と種の再生テクノロジーの矛盾を、コロンビア大学が生んだ気鋭のジャーナリストが暴く。

動物が絶滅、と聞くと反射的に「良くない!」と思ってしまう。なんとか食いとめなければ、どんな手を使ってでも保護しなければ、と。
だがこの本の著者は問いかける。「それってほんとに必要なことなの?」

どうして動物を絶滅から守らなくちゃいけないんだろう……。



著者は「生物が絶滅してもいい」と主張しているわけではない。
ただ、絶滅しそうな動物を隔離して保護したり、DNAを保存したりして「絶滅を防ぐ」ことに疑問を呈している。
それって絶滅を防ぐことになるの? それで何かをやった気になるだけじゃないの? それよりもっとやるべきことがあるんじゃないの?

たとえば、動物を絶滅から防ぐために人間の飼育下におくことで、かえって環境に適応できなくなってしまうことを挙げている。
 「箱舟」もいつも効果を発揮するわけではない。遺伝的適応度(生殖可能年齢まで生きのびた個体が産んだ子の数によって測定)の損失の発生は、飼育下繁殖の個体群では早く、数世代で生じて子孫が途絶える確率が高い。飼育されている状態だと個体群内部で形質の選択が行われ、この環境下の生存率は上昇するが、野生の生存率は上がらない。とはいえ、そもそもこれらの生物が自然に戻されることがあれば、の話だが。
 大半の飼育下繁殖プログラムの目的は、動物を再導入することだが、飼育下繁殖の動物が、実際に自立した、つまり「野生に」戻ったケースは数えるほどしかない。アメリカシロヅルは、今でも人間のパイロットから移動のしかたを教わらなければならない。両生類になると再導入の成功率は格段に下がる。ある調査では、飼育下繁殖ののちに再導入された58種のうち無事に野生環境で成長したのは18種、そのうち自立できたのは13種だった。
 もっと言えば、飼育下繁殖プログラムで育てた110種のうち、52種はそもそも再導入の予定がなかった。これらの種が生息していた生態系がなくなってしまったのだ。動物を生まれ育った場所で保全する生息域内保全という方法の支持者は、再導入の予定なしに飼育下繁殖を行うことこそが飼育下繁殖において最も致命的だという。絶滅のリスクをできるだけ減らそうとするあまり、環境よりも動物を救うことが主眼になっている。
たとえばカイコガは、長い期間人間によって絹を生産するために飼われてきたため、今では自然界で生きていくことができない。
飼育という環境に適応した結果、自分で餌をとったり敵から逃げたりできなくなったためだ。
佐渡トキ保護センターのような保護施設をつくっても、もともと持っていた性質を失った動物を増やすだけだ。

保護センターの中でしか生きられないのであれば、はたして絶滅から救ったといえるのだろうか。



さらに最近では、動物そのものを保護するのではなく、絶滅しそうな動物のDNA情報だけを保存しておく方法もとられている。
だが、動物の行動はDNAだけで決まるのではない。
 一方、20年以上、飼育下繁殖しているアララが産んだ卵は、巣から取りだされて、確実にひなが孵るようにと保育器に移される。2013年までは、最初の雌は自分で卵を孵化させてひなを育てることが許されたが、現存しているアララについては、抱卵、孵化、飼育を人間が一手に担っている。その結果、アララの文化が一変したという証拠がある。かつては世代間で継承されてきたアララ特有の行動が消滅したのだ。発声のレパートリーは減った。1990年代に飼育下繁殖のアララを自然に還そうと試みたが、ハワイノスリの避けかたがわからなかったらしい。かつては仲間と結束して戦っていたというのに。また、すっかり人間に慣れてしまって自分で餌を探さなくなった。習性を失ってしまったために、野生で生きていくのは不利になるおそれがあった。

もしも地球が爆発して人間が絶滅することになったとする。
そこで、とんでもない技術を持った宇宙人が、人間すべてのDNAを保存する。さらに地球そっくりな環境の星をつくりなおし、保存したDNAをもとに人間を復活させたとする。

復活した人間たちは今と同じ生活を送れるか?
当然ながら答えはノーだ。
言語も文化も知識もすべて失われる。遺伝子には組み込まれていないから。
現代の生活はおろか、狩猟や採集すらできない。ほとんどの人間は生きていくことすらできないだろう。

動物だって同じだ。
DNAの冷凍保存では、非言語的コミュニケーションによって種の間に伝えられていることまで残せない。
そうやって復活させた動物は、復活前と同じものとはいえないだろう。



『絶滅できない動物たち』は話があっちこっちにいくので論旨は決して明快ではないのだが、著者の主張は
「絶滅を防ぐことに意味がないとはいわないが、生きていればいいというものではない、DNAを残せばいいというものではない」
ということだとぼくは受け取った。

絶滅寸前の動物の遺伝子を冷凍保存して未来に残すことは、それ自体が悪ではないけれど、そのせいで「今生きている動物の棲息環境を守る」ことがなおざりにされているのではないだろうか。

だが、棲息環境を守るのはDNAを保存することよりもずっとたいへんだ。なぜなら、われわれの暮らしが制限されるから。
ぼくらは「トキ保護センターをつくります」には同意できても、「トキが棲みやすくするため、あなたはこの土地から出ていってください」には同意できない。
「動物を絶滅から防ごう!」に共感できるのは、「自分に関係のないところでどっかの誰かがやるのはいいよ」と思っているからで、自分の暮らしを犠牲にしてまで守りたいとは思っていないのだ。

結局、「絶滅しそうだからなんとかしなきゃ」ってなった時点で、もうどうしようもないんだろうね。
環境は元に戻せないもの。


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