ある奴隷少女に起こった出来事
ハリエット・アン ジェイコブズ(著) 堀越 ゆき(訳)
アメリカにあった奴隷制のことを、ぼくは知っていた。
奴隷貿易がおこなわれ、奴隷制の維持を訴える南部と奴隷解放の北部に分かれ、アメリカを二分する南北戦争がおこなわれ、リンカーンが奴隷解放宣言を出したと。
教科書に書いてあったし、リンカーンの伝記も読んだ。
しかし知識として知っていることと理解することはまったくの別物だと、『ある奴隷少女に起こった出来事』を読んでぼくは痛感した。
「黒人は奴隷として虐げられていた」
その一文がぼくの頭の中にあるだけで、その奥にどれだけ多くの人がどれだけ長い間苦しんでいたかということをまったく想像したことがなかった。
人間扱いされないどころか、家畜よりもひどい扱いが黒人奴隷に対しておこなわれていたのだ。
それも、たった百数十年前に。
今では自由の国と呼ばれているアメリカで。
この本の作者であるリンダ(作者の偽名)は、アメリカ南部の奴隷の子として生まれている。
幼少期はいいご主人に恵まれたこともあり(奴隷としては)幸福な生活を送っていたが、ご主人がなくなり、ドクター・フリントという医師の家に売られた(正確にはドクター・フリントの幼い娘の所有物となった)ことから運命が暗転する。
母親は死に、奴隷としてさまざまな侮蔑的な扱いを受ける。さらには十代半ばにして性的な関係を迫られ、苦悩する。
リンダはドクター・フリントの束縛から離れ、ある白人と関係を持ち、子を産む。ドクターを怒らせ、売らせようとしたのだ。
しかしドクターはリンダを決して手放そうとしなかったため、自分ばかりか子どもまで不幸になると考えたリンダは脱走を決意する。
結果的に脱走は成功するが、立ちあがることすらできない屋根裏部屋に七年も隠れなければならなかったり(食事やトイレの描写が一切ないのだがどうしていたのだろう?)、子どもとは離れ離れになったり、自由州であるはずの北部に逃げてからも追手におびえながら暮らしたり、その脱走劇も決してハッピーなものではない。
何の罪も犯していない人間が、自由を手に入れるため、子どもを守るために多くのものを犠牲にしなければならなかったのだ。
ことわっておくが、リンダは奴隷の中では比較的恵まれた境遇にあった人だ。
幼い頃は教育を受けさせてもらっているし(それが逃亡生活にも役立っている)、おかげで仕事も他の奴隷よりよくできたようで奴隷保有者からも一目置かれている。また黒人・白人問わず言い寄ってくる男もいることから、容姿も優れていたのだろう。多くの支援者にも恵まれている。
なにより、彼女は運が良かった。だからこそ脱走にも逃亡にも成功している。
極悪非道の「ご主人」として描かれているドクター・フリントにしても、当時の奴隷保有者としてはまだマシな部類だったんじゃないかと思う。頭の中には差別意識が詰まっているとはいえ、リンダに対して暴力や性的暴行をくわえたという描写はほとんどない(書かなかっただけかもしれないが)。医師という職業についていたわけだし、きっと理性的な人物だったのだろう。
そんな(比較的)恵まれた環境にあったリンダですら、今の日本人からすると直視できないほどのひどい目に遭わされているのだ。
いわんや他の黒人奴隷たちのおかれた境遇は、想像するに余りある。
『ある奴隷少女に起こった出来事』の原著が刊行されたのが1861年。『若草物語』の刊行されたのが1868年。どちらも自伝的作品なので、同じ時代の同じ国の少女の物語である。
しかし、かたやお父様の帰りを待ちながら仲良く助けあって暮らす姉妹であり、かたや逃げだせばねずみに食い殺されるまで折檻される環境で子孫の代まで永遠の奴隷として生きていかなければならない少女の物語。
北部と南部、白人と黒人というだけでこれほどのちがいがあると考えると、なおいっそう奴隷制の残酷さが浮き彫りになる。
特に印象に残ったのはこの文章。
この本を読了した後では、「奴隷制は、黒人だけではなく、白人にとっても災いなのだ」この言葉がなおいっそう重くのしかかる。
黒人奴隷たちを虐待する白人も、そのほとんどは奴隷制がなければ、穏やかで礼儀正しい人たちでいられたはずだ。
奴隷制があり、生まれたときからその制度にどっぷり浸かっていたからこそ、彼らは冷酷で無慈悲で不節操な生き方をすることになった。それは彼ら自身にとってもすごく不幸なことだ。
『ある奴隷少女に起こった出来事』の中で最大の悪役として描かれるドクター・フリントも、奴隷制度がなければむしろ人徳のある医師として生きていたんじゃないかと思う。
人を人として扱わないことは、虐げられる側だけでなく、虐げる側の心をも蝕んでいく。
この本、一度は自費出版で刊行されたものの大きな話題にはならず、人々からほぼ忘れられた。
しかし出版から126年後に歴史学者がこの本がノンフィクションであることを明らかにし、それをきっかけにアメリカでベストセラーになったそうだ。
そして、訳者はプロの翻訳者ではなく、翻訳とは無関係の会社員。たまたま原著に出会い、翻訳しようと思い立ったのだという。
たまたま無事に逃げることができた黒人女性が書いた本が、たまたま学者の目に留まって再販され、たまたま一人の日本人が出会ったことでこうして日本語で読むことがができる。
偶然のつなわたりのような経緯をたどってこの良書が文庫として読めることに心から感謝したい。
こういう世界を見せてくれるからこそ、本を読むのはやめられない。
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