2019年4月3日水曜日

【読書感想文】価値観を押しつけずに教育は成立するのか / 杉原 里美『掃除で心は磨けるのか』

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掃除で心は磨けるのか

いま、学校で起きている奇妙なこと

杉原 里美

内容(e-honより)
いま、学校現場では奇妙なことが起きている。体操服の下に肌着を着てはいけない、生まれつきの茶髪でも黒に染めろといった、不合理な校則の数々。客観性に疑問符がつく「道徳」教科の成績評価。偽史「江戸しぐさ」にならった「○○しぐさ」の流行。掃除やマナー、挨拶など「心を磨く」活動が重視され、教え方の「マニュアル化」が進む。こうした動きを、第一線の記者が各地へ足を運び、多角的に取材。いま、教育現場で起きている「奇妙なこと」の全体像を浮かび上がらせる。子どもの教育に関心を持つすべての人に向けた緊急レポート!

教育の現場で「価値観の押しつけが起こっているんじゃないか」という疑問をもとに、様々な教育方針について調査した本。

うーん……。正直、「どっちもどっち」だとおもえるな……。
日本会議とか親学推進協会に関してはぼくも「気持ち悪いな」とおもうし。「どんな思想を持つのも勝手だけどまともなデータもないのに教育に口出しすんなよ」と。

「弁当を作るようになると親子の会話が増える」なんてどこにそんなデータがあるの?
そういう傾向があったとしてもそれって疑似相関でしょ? 弁当をつくる時間的余裕があるんだからそりゃ会話も多いでしょ。
と。

でも、著者の意見も極端すぎるというか、過敏すぎるんじゃないかとおもってしまうんだよね。

教科書に、ひとつのモデルケースとして「学校を卒業して仕事をして結婚して子どもを生んで……」という例が載っていることについて
 文科省は、「生涯の生活設計のところに、『人の一生について、様々な生き方があることを理解する』という文言が含まれている」と説明する。
 だが、特定の生き方を推奨することになりはしないか、不安が残る。高校生が、必ず結婚しなければいけないと考えたり、故郷を出て就職することをためらったりすることはないのだろうか。子どもを持ち、「父母」として生きることを標準と思わせたり、若い時期での出産を推奨したりすることは、同性愛などの性的マイノリティーの子どもたちを排除することにつながりかねない。
これはちょっと言いがかりが過ぎるんじゃないかな。

「こういう人生が一般的ですよと伝えること」の先に「マイノリティーを排除」はあるのかもしれないけど、密接しているわけではないでしょう。それはそれ、これはこれじゃないか?
ぼくは大学卒業後に仕事を辞めて無職だったことはあるけど、だからって「大人は働くものと決めつけるのはよくない!」とはおもわない。

ひとつの指針を示すことは教育において必要不可欠なもんじゃないか?
「勉強するのはいいことですよ」
「先生の言うことは聞きましょう」
「周りの人と仲良くしましょう」
「家族とも仲良くね」
といった方針を共有せずに、学校教育を成立させることなんかできる?

どうしても適応できない子に強制させるのはよくないにしても、教育が価値観の押しつけになってしまうことはある程度避けられないとおもう。
「勉強したって幸福になれるとはかぎらない」
「教師の中には誤ったことをいう人もいる」
「どうしても仲良くなれない人もいる」
「距離をとったほうがいい親もいる」
ってのは正しいことではあるけど、それを子どもに公言してしまったら学校教育は崩壊するしかなくなるとぼくはおもう。

著者は新聞記者で教育現場の人ではないので、ちょっと理想論が過ぎるようにおもう。



しかし「昔はこうだった」という無根拠な(本人は根拠があるとおもっている)思いこみをもとに、教育現場に口出しをする素人って多いよね。

「今の学校は〇〇だ。昔はもっと□□だった。だから今の子どもは××なんだ」

みたいな言説。
こういうことを言ってる人間に、根拠となる数字を出している人を見たことがない。
みんな印象だけで語っている。
素人の酒場談義ならまだいいけど、政策を決める立場にある人間までが印象だけで語って方針を決める。

虐待も子売りも家庭内暴力も昔のほうがずっと多かったのに。
「今の子どもは××なんだ」と言いたくなったら、口を開く前にパオロ・マッツァリーノ氏の本を読みましょう。

しかも決まって教育なんだよね。
たとえば介護とか医療とかに関してはそんなに門外漢が口をはさまないじゃない。
「わたしも病院に何度か行ったことがありますけど、その立場から言わせてもらえば今の医療方針はまちがっている!」
とか言わないじゃない。
なのに教育に関しては「学校に通っていた、子どもを学校に通わせている」だけの人が、自分の観測範囲を根拠に一席ぶったりする。

ああいうのはまともにとりあっちゃいけない。
印象だけで語っているかぎりは、永遠に議論にならないのだから。

しかしこの本の著者も、「こういう傾向はこわい」とか「〇〇が教育現場に介入することに不安がぬぐえない」とか「こういうことをすると教師が委縮してしまうのでは」みたいなことを書いているだけで、何がどう問題なのかをまったく客観的に示せていない。

感情論に対して感情論で反対しているだけで、読んでいるこっちからすると「どっちもどっちだな」としかおもえないんだよなあ。



論理的な主張には欠ける本だけど、著者の「なんでも体験してみる」という姿勢には感心した。さすがは記者だねえ。

自分と相容れない思想を持つ団体の集会にも参加するし、「素手でトイレを磨く講習」にも参加する。
反対意見であろうと批判する前にまずやってみる、というのはなかなかできることじゃない。

特におもしろかったのが甲南大学の田野大輔教授がやっている「ファシズムの体験学習」に参加したときのレポート。

教授を偉大なる指導者としてあがめたてまつり、メンバーは同じ服を着て同じ挨拶をおこない、キャンパス内でいちゃついているカップルという「共通の敵」(仕込みだそうだが)に向かって「リア充爆発しろ!」という罵声を浴びせるという実験をするようだ。

参加した学生の感想も紹介されている。
  • グラウンドに出る前は、おもしろ半分な雰囲気だったけれど、教室に戻る際には「やってやった」感がどこかで出ていたように感じる。
  • 自分が従うモードに入ったときに、怠っている人がいたら、「真面目にやれよ」という気持ちになっていた。
  • 最初は乗り気ではなかったが、ひざ枕のカップルの前では最前列に自分がいた。教室内で行動するより、外に出て他人から見られるほうがやる気が出た。
  • 制服もシンボルも身につけていないくせに集団にまぎれこんでいる人を見ると、憎しみすら感じさせられた。規律や団結を乱す人を排斥したくなる気持ちを実感。
  • 実際に同じようなことが日本でもあり得ると思うと、すごくリアルで恐怖を感じた。
集団心理のおそろしさがよくわかる。
特にインターネットやSNSによって同じ思想の持ち主同士が連携しやすくなったことで、こうした傾向はどんどん強くなっているのかもしれない。

いわゆる「ネトウヨ」はこういう心理なんだろうし、逆にネトウヨを過剰攻撃している「パヨク」たちもまた同じ心理を共有しているんだろう。

ヘイトスピーチも反政権デモも、何かを変革しようとするというより自分たちが気持ちよくなるためにやっているようにしか見えない。
あの人たち、向かっている方向は真逆だけど、ぼくから見るとよく似ているんだよなあ。


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