2019年5月8日水曜日

【読書感想文】原発の善悪を議論しても意味がない / 『原発 決めるのは誰か』

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原発 決めるのは誰か

吉岡 斉  寿楽 浩太  宮台 真司  杉田 敦

内容(e-honより)
「脱原発」を求める多数の声があるのに、政策の決定過程には反映されず、福島原発事故以前の原子力政策への回帰が進められている。政策を実際に決めているのは誰であり、本来は誰であるべきなのか。専門知識が求められる問題に、私たちはどう関わっていけるのか。科学技術政策を専門とする2氏の報告と、社会学者・政治学者を加えた4氏の討論を収載。

原発稼働に関する議論を見ていると、うんざりする。
稼働賛成派は「政府、電力会社が安全だと言っているから」「原発を止めて電気が止まっていいのか」と主張し、反対派は「リスクがあるから」「原発はとにかく危険」と主張する。

傍から見ていると「どっちも感情的になっているだけで永遠にわかりあえる日はこないだろうな」としかおもえない。

「健康・環境面からの意見」VS「(短期的)経済的な意見」というまったく異なる土俵で闘ってたって、そりゃあわかりあえないだろう。

原発という金のなる木を守ろうとする人の「大丈夫だ」も、リスクがどの程度なのかを調べようともしない人の「危険だ」も、どっちももう聞きたくない。

落ちついた、両論併記の議論をぼくは読みたいんだ!



ということで『原発 決めるのは誰か』を読む。

原発の構造とか安全性とか事故があったときの影響などにはほとんど触れられていない。
テーマは、タイトルの通り「決めるのは誰か」だ。

民衆による多数決で正しい判断が下せるのか、少数の専門家に任せていいのか、任せるとしたらその少数は誰がどうやって選ぶのか。
「決定」について多くのページが割かれている。

これはいいスタンス。
たしかに原発の善悪を議論しても意味がない。
原発利権を享受している人からしたら原発は「いいもの、正しいもの」だし、リスクのほうが大きい人からしたら「悪いもの、誤ったもの」だ。
そこを議論しても、立場がちがう以上いつまでも平行線だ。


まず前提として、原発は(少なくとも今日本にある原発は)時代遅れのものだ。
 まさに、「これでもか」というぐらいの過保護のなかで、日本の原発政策は進められてきたことがわかると思います。普通の経済感覚からすれば、原子力を進めるという道理はないのです。原子力というのは、言ってみれば極めて経営リスクの高い技術でして、国家の保護なしに競争市場に放り込むとすぐま敗北してしまうような技術なのです。
 全原発を即時廃止する道が最もわかりやすい選択肢ですが、原発を残す場合でも経済的にありうる道は、新増設はせず、既にある原発について投資を回収できるまで動かして、回収し終わったら止めていきゴールは完全な脱原発ということだろうと思います。もちろん安全面からはそれもどうかという話になるわけですが、この道以外には、原発を残していく経済的なメリットはまったくありません。ドイツが決めたのはまさにそういう路線です。今あるもののうち比較的新しいものは動かして使っていくが、なるべく早めに廃止し、新増設はせずに、二〇一二年には完全に脱原発を達成するというものです。日本もドイツと同じことをやるのが一番穏当だと、私は以前から言ってきました。「即ゼロがベターであるけれども、ドイツ方式でもいい」というのが現在の考えです。
原子力発電については、安全性を基準として追加しつつも、原子力発電は安定供給、コスト、環境保全の三つの面が優れているとしています。この三つの面は3E(Energysecurity,Economy,Environment)と呼ばれてきたものです。福島事故によって何年もほとんどの原発が長期停止していることを考えると、供給安定性が劣悪であることは明らかです。福島事故により何十兆円もの被害が出ることが確実であることを考えると、事故の後始末コストと損害賠償コストを加算すれば、原子力発電のコストは火力よりも大幅に高くなるはずです。さらに環境保全については、大量の放射能放出によって半永久的に居住不能な広大な地域を発生させてしまったことを、どう考えるのでしょう。福島事故は日本史上最大の公害事件であり、それでも環境保全性が優れているというのは道理に反します。
その証拠に、諸外国はどんどん原発を捨てている。
原発には先がない、というのが世界の共通認識なのだ。

それでも日本が原発に依存しようとしている理由は
「ここでやめたら今までやってきたことが無駄になる」
「過去の失敗を認めたら誰が責任をとるのか」
という二点のみ。

これは先の大戦で大敗につながったときとまったく同じ発想。
損切りができずにまごまごしているうちに撤退が遅れ、ますます損害が大きくなっているというのが今の状況だ。

もしも、もしもだよ。
シムシティみたいに国土を全部更地にできたとして。
「さあ、ゼロから国づくりをやりなおしましょう」
ということになったとき。
それでも原発建設を選ぶ人はひとりもいないだろう。

結局、原発を動かすかどうかを決める上で考えなければならないのは
「原発はいい選択か」ではなく(それはもう答えが出ている)、
「そうはいっても日本にはたくさん原発がある。これをどうするのか」なのだ。

シムシティとちがって、現実はリセットすることはできないのだから。



とはいえ。
原発がいい選択ではないからといって、
「原発は悪だ! 原発をゼロに!」
と叫んでもどうにもならない。

ガソリン車もパチンコもタバコも良くないものかもしれないが、現にその恩恵を受けている人、それで飯を食ってる人がいる以上、すぱっとなくせるものではない。原発も同じ。

それに「今だけ」を考えるのであれば、原発は悪くない選択肢だ。
原油価格に左右されにくいし、発電コストも比較的やすい。地球温暖化対策にもなる。
なにより、日本にはすでに多くの原発がある。
既存のものを使えるというのは大きい。

だから「段階的に廃止」「原発利権を享受している人には別のメリットを」というのが現実的な選択肢になる。
 また、原子力専門家に退場してもらえば、それで問題が解決するわけではありません。原子力から撤退するにしても、廃炉や放射性廃棄物のことなどがありますから、彼らの専門知は必要なのです。安易に彼らを追い出してしまったとしたら、私たち自身が専門的な問題と向き合ったり、あるいは実際に放射性物質のようなリスクのあるものを、専門知識を欠いたまま扱ったりしなければならなくなりかねません。少なくとも現状では、そうした専門知の多くは「ムラ」の中にあるわけですから、それをどうやって私たちの側に取り戻すのかを考えねばなりません。その延長線上にコミュニケーションの話もあるのではないでしょうか。「ムラ」を解体することが必要だとしても、それは、現時点で「ムラ」に属していると思われる原子力専門家をパージすることではない。彼らを「ムラ」のメンバーから市民社会の一員へと取り戻すことが必要なのです。
(中略)
 しかし同時に、どうして欲しいのか、どういう基準で仕事をして欲しいのかということを、ポジティブな言い方、建設的な方向で伝えることももっとあってよいと思うのです。「これをするな」と同時に、「これをしてほしい」という言い方が必要です。例えば、福島原発事故の被害を受けられた皆さんから、被害を少しでも回復したり、未来を切り拓いたりするために、原子力の専門家に対して「こういう研究をしてほしい」とか、「こういう技術を考えてほしい」ということを伝えるチャンネルがあってもいいと思うのです。私たちが何を望み、何は望まないのか、そのことを伝えるのも、リスク・コミュニケーションの真髄のひとつだと思います。「これが一番いい政策なのだから、あなたたちは不要です。それを理解しなさい」というモードで接しては、彼らのコミュニケーションが一方的であるのと同じ意味でこちらも一方的な要求になってしまって、敢えて言えばイデオロギー対立、プロパガンダ合戦になってしまいます。それでは不毛な争いが続くばかりで、結局、一番困っている人たちは困ったまま、厄介な問題は手が付けられないままという結果を招きかねません。

「原発なんて害悪しかないよ」といわれたら、深く関わっている専門家ほど「いや必ずしもデメリットだけではない」と反発したくなるだろう。
それよりも「五十年後になくすために知恵を貸してほしい」「原発よりももっと安全でもっと低コストな発電方法を考えてほしい」という言い方をすれば、話は前向きに進みやすくなる。

同じく、「原子力ムラが不当な利益を享受している!」と糾弾しても反発を招くだけ。
維持・開発に使っているのと同じお金を減炉・廃炉のために落としてやるようにすれば、少なくとも「今ある利益を失う」という理由での反発はなくなる。

利権というと悪いもののように言われるけど、利権があるからこそ原発や基地のような「みんなイヤだけどどこかが引き受けなければならないもの」を設置できるわけなのだから、なくすことは不可能だ。ある程度は目をつぶるしかない。

こういう道筋をつくるのが政治なんだとおもうけどねえ。
宮台 野次や吊し上げが典型ですが、糾弾モードの振る舞いが、市民運動側に蔓延していないでしょうか。そうしたことをやはり問いたいのです。相手方との合意に至ろうとか、知らなかった何かに気づこうという構えが、ほとんど見られないのは問題ではないか、ということです。
僕が大事だと考えるのは価値専門家です。ドイツのメルケル首相が、東日本大震災が起きて二カ月も経たずに二〇二〇年代には原発をやめると決めました。きっかけは、メルケルが招集した宗教学者、倫理学者、社会学者などからなる、安全なエネルギー供給のための倫理委員会です。
 原子力問題を、価値の問題、倫理の問題として議論しているのです。低線量被曝などの未確定の長期リスクについて、誰も責任がとれないのなら引き受けるのは非倫理的ではないか、一○○○年に一回だから無視していいというのは、後は野となれ山となれ的な反倫理ではないのか、などなど。
この姿勢、大いに学ばなくてはならない。
日本の議論は「カネ(それも今のカネ)」の発言力が強すぎるんだよなあ。

原発にかぎらず。

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