2019年3月28日木曜日

【読書感想文】全音痴必読の名著 / 小畑 千尋『オンチは誰がつくるのか』

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オンチは誰がつくるのか

小畑 千尋

内容(e-honより)
「オンチはなおりますか?」実に多くの方が質問されます。オンチはなおすものではありません。克服するものです。オンチは病気ではなく、生まれながらの能力の欠如でもないからです。歌唱スキルは、適切なトレーニングを行えば、発達可能な能力であり、大人になってからでも十分に向上します。

ぼくは音痴だ。ものすごい音痴だ。
どのぐらい音痴かというと、2音を聴いて「どっちが高い?」と言われてもよくわからないときがある。それぐらい音痴だ。

中学生のときに友だちから「おまえ歌へただな」と言われ、そのときは「まさか」と思っていたのだが、合唱コンクールの練習時に教師から「まったくちがう」と言われて自分が音痴だと確信した。

それ以来、自分は音痴だという自覚を持って生きている。
中高生のときはすごく恥ずかしかった。音痴であることがコンプレックスだった。音楽の授業や合唱コンクールが苦痛だった。
人前では歌わない。カラオケにも行かない。どうしようもないときはしぶしぶ付きあうが、どれだけ勧められてもマイクは握らない。

もうこれは一生治らないものだからしょうがない、とおもって生きてきた。

おっさんになってからはカラオケに誘われることもなくなってきたので、特に不自由しなかった。ようやく音痴で苦しむことから解放されたとおもった。

だが娘が生まれてそうも言ってられなくなった。
子どもを寝かしつけるとき。
子どもから「いっしょに歌おう」と言われたとき。
歌ってあげたい。だが歌えない。ぼくのへたな歌を聞かせたら娘も音痴になってしまうかも。


……そんな心配もむなしく、娘は音痴になった。

娘の歌はへただ。
音痴のぼくが聞いてもめちゃくちゃだとおもうので、相当ひどいのだろう。
まあ子どもだからこんなもんかとおもっていたのだが、娘の友だちが歌っているのを聞いて驚いた。うまいのだ。
幼児でもうまく歌える子はいる。だとしたら娘は音痴なのだろう。

もうぼくが音痴なのはしょうがないが、娘にはこれから音楽の授業や合唱コンクールや友だちとのカラオケなどの試練が待ち受けている。
つらい思いをさせるのはかわいそうだ。

ということで、一縷の望みをかけてこの本を読んでみた。

いい本だった。すごく。

音痴になるメカニズムや克服トレーニング方法だけでなく、オンチの人の抱える精神面での悩み、それが生まれる社会的背景、トレーニングによって音痴を克服した人のエピソードなどじつに丁寧に説明されている。
非常に読みごたえがあった。



ぼくの妻は歌がうまい。
おまけに絶対音感もある。
ぼくがピアノで2つの鍵盤を同時に叩いてみせると、聴いただけで「ドとソのシャープ」なんて言いあてることができる。
一度聴いただけの曲でも、ピアノで演奏することができる。

特別なトレーニングをしたわけではないという。ピアノは習っていたが趣味程度。絶対音感は「自然に身についた」という。

ぼくからしたら驚異的だ。
体操選手の後方抱え込み2回宙返り3回ひねりを見ているような気持ちだ。とても同じ人間の所業とはおもえない。


歌のうまい人の例に漏れず、妻には歌のへたな人の感覚がわからない。
娘に歌を教えるときも
「よく聴いて。ほら、これと同じ高さで歌ってごらん」
なんて言う。

音痴代表として、ぼくはおもう。
ちがうんだって。
よく聴いてるんだよ。よく聴いてもどっちが高いかわからないんだよ。そもそも「音が高い」という感覚もよくわかってないんだよ。

音痴にとっての「よく聴いて。ほら、これと同じ高さで歌ってごらん」は、真っ暗な部屋で「ほらこれと同じ絵を描いてごらん。見たまんまに描けばいいから」と言われているようなものだ。
技巧がどうこう以前に、見えてないのに描けるわけがない。

でも歌がうまい人には、音痴の人が「見えていない」ことがわからないらしい。
 オンチだと言われてきた方は、「なんで音が外れるんだ」「なんでみんなは合わせられるのに、自分は合わせられないんだ」と思い続けてきたかもしれません。でも私がレッスンを通して強く感じるのは、彼(彼女)らは同一の音高で合わせる感覚を単に知らなかっただけだということです。
 歌唱指導で、内的フィードバックができない人に対して、いくら「この音に合わせて」「よく聴いて」なんて指示を出しても効果はありません。一体「何をよく聴いたらいいのか」がわからないからです。音楽の指導者のほとんどは、そのことが想像できていないのではないでしょうか。

学校の音楽の先生はほとんどが子どもの頃から歌が得意だった人だろう。音程を理解するのに苦労した、なんてことはまず経験していないはず。

だから「音の高低がわからない」という感覚がわからない。
平気で「よく聴いて、同じ音で歌って」なんて口にする。

英語のネイティブスピーカーが[a]を使うべきか[the]を使うべきかなんて考えなくてもわかるように、音楽の先生にとっては「ドよりレが高い」なんてのは自明のことなので考えて理解するようなことじゃないのだろう。
 私は、音程が著しく外れる歌を聴くと、どのように音程が外れているのか、本人がそのことを認知できているのかを分析しています。それは、「教育者が使う言葉として『オンチ』はふさわしくないから、使わないようにしよう」という発想からではありません。
 音程が外れた歌唱を聴いた時、「オンチ」というレッテルしか貼れない音楽の指導者だったら、(ちょっときつい言い方になってしまうかもしれませんが)それは専門性に欠けると思うのです。もし歌唱を指導する立場の人だったら、著しく音程が外れた歌を聴いた時、その人がどうして音程を正しく合わせることができないのか、その原因を探り、指導をすべきではないでしょうか。
 これも、体育に置き換えて考えてみると、わかりやすいと思います。たとえば、水泳で息継ぎができない子どもに対して、「どうして息継ぎができないのか」「どうやったらその子どもが息継ぎをできるようになるのか」を考え、その子どもにとって 必要な指導をするのが体育の先生の仕事です。それを、体育の先生が「この児童は、運動オンチだなぁ」と思って、息継ぎの方法を教えないのはかなり妙な話ですよね。音楽の先生が「オンチだ」と思って具体的な指導をしないのは、これと同じことだと私は感じています。

そうそう、指摘だけされて指導してもらえないってのが、音痴にとっていちばんつらいとこなんだよね。

ぼくも音楽の先生から「音がずれてるね」と言われたことがある。
でもそれだけ。
修正するための指導を受けたことはない。
どうやったらずれずに歌えるのか、そもそもずれてるとはどういうことなのか、ずれてないのがどういう状態なのか、音痴のぼくが理解できるような説明を誰もしてくれなかった。
通知表には10段階評価で3か4がつけられて、それで終わり。改善のしようがない。



今でこそ「ぼく音痴なんですよー」と堂々と言えるようになったが、思春期の頃はそれすら言えないぐらい恥ずかしいことだった。

カラオケに誘われたときも「音痴だからやめとくわ」とは言えずに、「あの狭い空間が苦手なんだよね。息苦しくって」なんて妙な嘘をついて逃げていた。

そこまでコンプレックスにおもっていた理由も、この本を読んで腑に落ちた。
 そもそも、「歌う」ことは楽器の演奏とは異なった感覚があります。弦楽器であれ、管楽器であれ、打楽器であれ、楽器は演奏する本人と、演奏する楽器が基本的に別物です。
 たとえば、ピアノは指が鍵盤に接触しています。でも、音を発する楽器本体は人間ではなく、ピアノです。弦楽器や管楽器も体が接触し、振動させる、息を吹き込むなどしても、やはり音を発するのは楽器本体です。熟練者になると、楽器がまるで自分の体の一部のように演奏する感覚もあるでしょう。でも歌は、体そのものが楽器なのです。話す時の声が体から発せられるのと同じように、歌声も演奏者自身の体から発せられます。
 ですから、たとえば学校の音楽の授業で、鍵盤ハーモニカを弾いている時に、「違う音を弾いてるよ」と指摘されたり、リコーダーを吹いて「押さえる指が間違っている」と指摘されたりするのと、歌って「音程が違う」と言われるのとでは、全く重みが違うのです。楽器だとワンクッションあるけれど、歌はダイレクトに感じられてしまうのです。
 こんなふうに考えてみると、歌に対する指摘を受けたとしても、その指摘が直接自分自身に向けられたように感じてしまっても不思議ではありません。「歌声」イコール「私自身」という感覚です。

そっか!
「歌声」イコール「私自身」だから恥ずかしいのか!

たしかにそうだよね。
ぼくは楽器全般ができないけど、それはべつに恥ずかしいとおもったことがない。
もし友人の前でリコーダーを吹くような状況になっても(どんな状況だ)、堂々とへたくそな演奏をやってやれる。
それで「おまえリコーダーへただなー」と笑われてもぜんぜん平気だ。「そやねん。へたやねん」と言える。

でも、友人の前でへたな歌を歌いたくない。「おまえ歌へただなー」と言われたら赤面してしまう。


歌のうまい人には理解できないかもしれないけど、「歌がへた」ってほんとに重いことなんだよね。
「リコーダーがへた」とか「バスケットボールがへた」とはぜんぜんちがう。
それらは「練習が足りないから」ですませられるけど、歌がへたなのは人間として欠陥があるような気さえする。


これは個人的な憶測だけど、音痴が恥ずかしいのってジャイアンのせいなんじゃないかとおもう。
『ドラえもん』の中で、ジャイアンの音痴ってめちゃくちゃひどい描かれ方してるじゃない。ジャイアンの歌声を聞いた子どもが気を失うとか、猫が木から落ちてくるとか、窓が割れるとか。
あれってべつに音痴なんじゃなくてただうるさいだけなんじゃないかとおもうんだけど、漫画の中では「歌がへたなせい」ということになっている(窓が割れるぐらいのボリュームだったらたとえうまい歌でも具合悪くなるとおもうんだけど)。

のび太が勉強できないこととかスポーツが苦手なこととかは同情的に描かれているのに、ジャイアンの音痴に対してはそういう視点は一切なく、とことん笑いものにされている。
リサイタル参加を強制する点についてはジャイアンが悪いが、音痴なのはしかたのないことなのに。

あれは「音痴は人前で歌うな」というメッセージになってしまってるんだよね。
ひどいや藤子・F・不二雄先生……。



くりかえしになるが、本当にいい本だった。

著者は東京音大を出てピアノの指導者をしている人なので、音痴で苦労した経験など一度もないにちがいない。
だけど音痴の人に寄りそう姿勢を持っている。
ちゃんと原因を分析して、音痴であることによってどんな精神的な苦痛を抱えているかをさぐって、歌が嫌いにならないようにすごく配慮しながら指導をしている。

もう、歌の先生というよりセラピストのようだ。

ぼくもこの著者みたいな先生に指導してもらいたかった……。
(学校のカリキュラムではそこまでの時間も割けないんだろうけど)

この本には、音痴のメカニズムや、修正するための方法、そしてじっさいに克服した人の事例が紹介されている。

自分はもう一生音痴として生きていくしかないとおもっていたが、この本を読んで「ぼくの音痴も克服できるかもしれない」とおもえるようになった。
もうそれだけで気持ちが楽になった。

ぼくの音痴はまったく治っていないが、しかし気持ちはまったくちがう。
「一生歩けません」と「リハビリをしないと歩けるようになりません」ぐらいちがう。

娘も、音楽の道に進むことは無理でも、友だちと行ったカラオケで恥をかかなくて済むぐらいにはなるかもしれない。
さっそくこの本に載っているトレーニングをやってもらおう(サポートするのは音程がとれる人じゃないといけないので妻にやってもらうのだが)。

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